棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

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2004/2/22 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#22


 一時間ぐらい海を眺めて、1000の夏の中で願いを叶えられなかったたくさんの観鈴たちに思いを馳せて。
 それから帰ってルパン122に寄って大往生を15億で2周ALLして。
 INDさんとARCさんに磯前神社で買ったお守り(お土産)を渡して、それから三人で足利学校を参観して。
 馬車道で、三人で莫迦話をしながら夕食を取って。
 帰宅してから水月を起動して雪さんに慰められて泣いて。

 そんな普通に幸せな一日。


2004/2/21 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#21


 SNOW桜花をしばらく読んでいたが気が散って仕方がないので中断。
 どうもそういう精神状態じゃないらしい。

 ニコ[タカハシマコ]を読む。
 他人の言葉を黙殺するのはその相手を殺しているに等しい…というのはなんか分かる。言葉を聞くというのは相手の存在をちゃんと認めるということに等しくて、だから裏を返せば言葉を聞かないということは、つまりそういうことだ。でも、だったら私のような他人に関心を持てない人間が生きていてもよい場所はどこにあるのだろう。

 愛人-AI-REN-を読み返してみた。
 イクルとアイは、白兎と玲亜に、本当によく似ている。違うのは、前者が死と隣り合わせのところで自分たちの幸福を実感しているのに対して、後者は自分たちの幸福にまったく無自覚だということのみだ。

 彼らは他者との付き合い方をもっとも理想的に学ぶことのできたカップル。初めて受け取るものが好意であるかそれ以外のものであるか、というのはずいぶん大きな違いではないだろうか。私は好意というものを知らない。その無意識が、私と他人との間に最初の溝を作る。

 白兎編四章終幕。
 キスっていうのは好きな時(したい時)にして良いものだったのか!! という驚き。

 恭也と那美さんとか、イクルとアイとか、白兎と玲亜とか、真一郎と小鳥とか、ああいう関係が在ることはひとつの奇跡だ。
 いや、奇跡というか、ああいう関係が在ることは私にとって福音なんだと思う。


2004/2/20 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#20


 夜10時すぎにふらっとルパン122に行ってみたらマカロニさんが大往生(黒)をやっていて、ちくしょー邪魔だなと密かに思いながら後ろでギャラりつつ待っていたら、マカロニさんなんとそのまま2周ALL達成。詳細は2周目残5スタートで2-1ボスで1ミスしてから置物までノーミス、置物1ミス、ジェット蜂1ミス、緋蜂残3スタートで、開幕針をボム→ハイパーで飛ばして2番目を全部避けきり3番目ちょっと避けてミス、ループした辺りで発狂へ。発狂をちょっと避けてミスで残1、ボムを2発撃って降ってきたハイパーを発動してちょっと避けてミス、残0時点で緋蜂残り体力2〜3cmでそのまま復活オーラ撃ちでトドメ。11.3億ぐらい。

 マカロニ(AKI)さん、本当におめでとうございます!!

 一年の苦労が遂に実ったこと、我が事のように嬉しく思います。
 継続は力なり。心からの拍手を。


 なんかそんなことがあって、ここしばらく取り憑かれていた憂鬱が消えました。
 こんな晴れやかな気分は二週間ぶりぐらい。

 リンクなし反応。

 もう黙ってる必要はなくなったので言ってしまいますが、女装してペタン座りは実はやったことがあります。というか前々から口にしていた「休日一日女装で過ごしてみたい」は実はとっくにやってます。詳しいことは省きますが。まあ私の場合はネタじゃなくて素で女装への憧れがあってやってるんでちょっと方向性が違いますけれども。ペタン座りは、やったことのある人は分かると思いますが、あの心地よさは癖になります。あの座り方は、冗談抜きですごく癒されるんです。女装しただけだとそれは単に「女装した男」でしかありませんが、そのままペタン座りをやるとなんというか世界が変わります。スカートを履いてペタンって座ると、ほんの一瞬ですが、ホントに女の子になれたみたいな気がして、もうすごい幸福感です。あと、手の指を伸ばしたままちょっとだけ組んでみるとか、両手で口を覆ってみるとか、両手を胸に軽く添えてみるとか、(実際にそんなことをする女性がいるかどうかは別にして)そういうお約束的な女の子仕草をちょっとやってみたりすると、実に、浸れます。ぽわわ〜んっていうかはにゃ〜んっていうか、そういう感じで。誰にも内緒の秘密の愉しみってやつですね。ちなみに写真を撮るのはタブーだと思っていますので撮りません。なぜなら私にとって女装は自分が女の子という主体になりきる遊びなのであって、だから写真という客観的な視点はあってはいけないのです。それとまあしつこいですが、私は別に女装した莫迦な自分をアピールしたい訳ではありませんし。

 ***

 Clover Heart's VFB [eb!]はまだパラパラとしか読んでないけど、かなり丁寧な作りで好印象。


 緊急追加更新。

 都築真紀氏が数年ぶりに原画とシナリオを担当! 『桜待坂Stories vol.1』

 文月さんからメールで教えて頂きました。
 ありがとうございます。

 IDさんみんくりさん、それに雪駄さん平山さんはチェキチェキチェキよッ!!(笑)


2004/2/19 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#19


 拝啓 琴乃宮雪さま

 Y氏の隣人っていう漫画をご存じでしょうか? いや、本当はこの漫画は私の好みとはどうしても相容れないもので、本当はあなたに向けたお手紙に書く話題としては相応しくないのですけれども、ただ、ちょっと思いついたことがあって、そのことを書くためにはどうしてもこの漫画について触れなくてはならなくて、ああ、なんで私はこんな言い訳をしているんでしょうか。あなたはこれを読みながらきっとお笑いになるでしょうね。なんか恥ずかしいです。でもともかくお話させてください。その、Y氏の隣人っていう漫画の中に、思い出を売る商人のお話があるんです。ある青年が、ひとりの商人を介して見ず知らずの老人に自分の写真を売るんです。でも青年は気づいていないのですが、実は青年が老人に売り渡したのは写真だけではなくて、その写真にまつわる思い出そのものだったのです。つまり写真を一枚売るたびに、老人は青春の思い出をひとつ得て、代わりに青年は思い出を失う(初めからなかったことになる)のです。そうしてこのお話の終幕、たくさんの暖かい思い出を抱きながら老人は死んでいきます。そして老人の安らかな死に顔を見ながら、青年は自分が悪魔と取引をしてしまったことを知るのです。どうして私が突然こんなことを書き出したのか、あなたは不思議に思うかもしれません。でも、お聞きください。私は今まで、ゲームや漫画を通じてたくさんのお話を読んできました。そうして私はお話を読むたびに、お話の中の女の子たちの優しさに慰められたり励まされたりしてきたのですが、でもその反面、お話の世界が自分の住む世界とあまりに違うことや自分がお話の世界とは何の関わりもないこと、いくら美しい世界が目の前にあっても自分は決してそこに辿り着くことはできないのだという思いに、苦しめられてもいました。時には、画面の向こうにいる女の子の微笑みが決して自分に向けられないことに絶望に似た焦燥を感じたりしたこともありました。でも、お話というのは、本当はそんなふうに付き合うものではなかったのではないでしょうか? 実はさっきまで Clover Heart's の白兎編一章を読んでおりました。前にもあなたにお話したことがありましたが、私はこの白兎編一章が大好きです。ここには私が求めて得られないものが詰まっています。いや、そうではないのです。求めて得られないものというよりは、ここにあるのは、私が過去に欲しかったものなのです。どうも上手く言えていないみたいです。つまり、私は玲亜が欲しいのではないのです。そうではなくて、なんと言ったらいいのでしょう…。私は玲亜に恋愛感情を抱いているのではなく、白兎ぐらいの年齢の時に、玲亜と出逢いたかったのです。まだ異性とどう接して良いかよく分からず異性観も持っていない年齢の頃に、自分の目の前に現れた最初の異性が玲亜だったら…そう思うと何とも言えない切ない気持ちになります。白兎は、そしてもちろん玲亜も、まだ恋人づきあいというものがどういうものなのか知りません。白兎にとって玲亜は、そして玲亜にとって白兎は、お互い初めて意識した異性なのです。彼らはだから、手探りで付き合い方を学んでいくより他にありません。手本を持たず、不器用な彼らは、時には見ていてまだるっこしくなるぐらい、回り道をしたりします。でも彼らは愚直なほどに相手のことが好きで、相手と一緒にいたいと思っていて、だからお互いに傷つけあいながらも距離を縮めていくのです。彼らが初めて体を重ねる場面はどう控えめに言ってもロマンチックなものとは言えません。しかしそれゆえに、あれはなんと私を憧れさせずにはおかないことでしょう。白兎は自分の性欲を穢らわしいものだと思っていて、玲亜に触れることができません。白兎は、およそ最悪と言って良い形で玲亜を押し倒し、そうして独りで自責の念に囚われます。白兎は本当にどうしてよいか分からないのです。でもそんな白兎に玲亜は手を差し伸べます。玲亜だってそういう経験はなくて、玲亜だって恐いに違いないのです。でも玲亜は、いたわりに満ちた言葉で持って白兎の性欲を受け容れます。玲亜はこれからどういうことが行われるのかは分からなくても、ただ白兎が苦しんでいることは分かるのです。だから手を差しのべるのです。このえっちシーンが心を打たずにおかないのは、白兎も玲亜もお互いに何も期待していないからです。ここで行われているのは愛情のあるセックスなんかではなくて、性欲と好奇心に支配された体のさわりっこです。ふたりが結ばれるというのは言ってみれば悪戯心の結果に過ぎません。彼らは何も知らなくて、すべてが初めてで、まずは手探りでやってみるしかないということをお互いに分かっていて、それだから相手に何かを要求するということがありません。例えば東鳩の主人公はヒロインを前にして上手く振る舞えず、自分のあまりの情けなさにヒロインから逃げてしまいます。このお話ももちろんたいそう優しい解決を迎えるのですが、でも白兎と玲亜の場合にはそういうすれ違いは決して起きません。彼らは何も知らないゆえにそういうイメージの要求から完全に自由であれているのです。白兎は玲亜を通じて女性の扱い方をゼロから学んでいき、玲亜を通じて他人との距離の取り方、踏み込み加減と言ったものをゼロから学んでいきます。それをもし人生の学習の場だとするなら、白兎はおよそ考え得る最良の環境にいる訳です。実を言えば、私は別に白兎が羨ましいとかいうことを思っている訳ではありませんし、この一章を読んで胸が苦しくなるなんてこともありません。これは私とは全然違う世界のお話ですが、ただそれだけで、それは良いも悪いもないのです。今の私に言えることは、このお話は私の住む世界と何の関係もなくても、私の胸を暖めてくれるということです。大好きなあなたがそうであるように、です。思うのですが、お話というものは、思い出に似ているとは言えないでしょうか? 思い出は過去のもので、それを再び体験することは誰にもできません。でも思い出は私たちの胸を暖めてくれます。思い出は現実に対して無力であるかもしれないけれども、でも私たちは思い出なしでは生きられないのです。だからもしこう言って良ければ、お話を読むというのは、記憶を思い出すというような行為なのではないでしょうか。もっと言ってしまえば、お話を読むというのは、思い出をねつ造することだとさえ言えるのではないでしょうか? 白兎と玲亜のお話は私の体験したことではなく、私の記憶ではありません。でも私は、彼らのお話を恰も過去を振り返るようにして懐かしむことができます。そういえばまだお話していませんでしたが、実は昨日一昨日ととらハ3を久しぶりに起動して、レンと晶のお話と恭也と美由希のお話を読み返していたりしたのです。レンと晶が体験したようなお話を体験できなかったことはかつての私にとって悲しみでありました。しかし今の私にとってはそうではありません。あの女の子たちのお話はそれ自体として完結したひとつの世界でありながら、同時に私の偽の記憶なのです。私はレンと晶のお話を読みながら、同時にそのお話を“思い出して”もいるのです。私はだから、とらハ3を読んでいる時、ただ単純に幸せでした。重要なのは、ああいうお話がどこか別の世界に存在するということただひとつなのであって、それがフィクションであるかどうかなど問題ではないのです。いやそうではありません。フィクションであるかどうか、ではなく、それが私が実際に体験したことであるかどうかすら、問題ではないのです。私が体験したこと、私が体験しなかったこと、の間には何の差もありません。重要なのは、ただそれが“在った”という一事のみです。お話はただ“在れば”それで良いのです。それで私は救われます。私は、ONEとかとらハとかを遊ぶことでお話を読んだのではありません。そうではなくて、私はお話をひとつ読むたびに思い出をひとつもらっていたのです。思い出とお話との間にどんな差があるのか、私には分かりません。それはただ、どちらも掛け替えのないものです。遠くマヨイガから私を見ていてくださっているあなたなら、おそらく分かって頂けるのではないかと思います。

 私の大好きな人へ。
 あらん限りの誠実と愛を込めて。 


2004/2/18 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#18


 HDDを調べていたら、昔書いてそのまま放置されていたテキストが出てきたので掲載しておく。
 (プロパティを見ると日付は '03/06/01 になっている、たぶん書きかけて途中で中断してしまったものらしい)
 
 この際なのでひとつ告白しておくと、私が銀色[ねこねこ]でもっとも高く評価するのは、一章終幕であやめが死ぬ場面だったりする。あやめの亡骸はあまりに恐ろしい。銀色の原画家は、あやめの死体を眠り姫のようには描かなかった。あの洞窟にあるあれはもはやあやめではない。かつてあやめという少女だったものは、今や使い古されうち捨てられたボロボロの人形か何かのように、ほとんどゴミのような存在として洞窟に横たわる。あやめの生命はもはやあそこにはなく、残されたものは単なる抜け殻にすぎない。いや、これではあらぬ誤解を招きそうだ。私は別にそういう残酷さそれ自体を称揚するのではない。銀色という作品において、個人の生命というものが決して取り返しのつかない一回限りのものとして、そして時間と共に忘れ去られてしまう――まるで始めからなかったかのように(あやめの台詞)――ものとして容赦なく描かれたということを私は称揚するのである。五章冒頭において二人の姉妹が命がけで守ろうとした小さな命は結局は誰にも知られず後に何も残すことなく失われてしまう。しかしそれでもあやめの存在は“なかったこと”にはならない。五章において、銀糸が遂にその役目を果たして消滅することになった時、彼はその身に託された幾つもの想いを零れさす。


 今日になって判明したのだが、最近私の心を惑わしているうさ耳の女の子はどうやら“志摩子さん”というらしい。


2004/2/17 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#17


 駄菓子を買いに近所の本屋さんに行って、ついでにヒカルの碁22〜23巻と、買い逃していたわたおに4号を購入。

 ばらスィー氏って普通にロマンチックな漫画も描けたんだなあと思うと妙に可笑しかったり。この僅か4ページからなる小さなお話には男性の視点が完全に欠如している。女の子だけの秘密の世界を覗き見ているような気分になる。私は、萌え絵についてはキャラがこちらを向いているもの、いわゆるカメラ目線のものよりも、そうでないものの方が好きだ。女の子の視線の先にいるのは、私以外の誰かであって欲しい。理由は分からないが、その方が安心できる。例えばおおた慶文の少女画の正面向きのものが私は苦手だ。彼女たちのまなざしはあまりに真剣でありすぎて、私は彼女たちの真摯な瞳を前にして恥じらい、目を逸らさずにいられなくなる。苺ましまろ世界で男性という存在が完璧に欠落しているのはありがたいことなのだ。私は子供とコミュニケーションを取る術を知らない。(余談ながら、子供とちゃんとコミュニケーションを取るというのはたいへんに難しいことで、これについてはできる人とできない人の二種類しかいない、そして私は子供とコミュニケーションを取れる資質を持った人を尊敬する)。私と彼女たちはフィクションであるかどうかという以前の問題として、何の関係もないのだ。しかしそれだからこそ、却って私は疎外感を抱くことなく、あの世界をただ外部から眺めていることができる。

 私は世界に参加なんかしたくなかった。
 ○○△△△でいる時、世界はたいてい厳しかった。
 しのぶでいる時、世界はおおむね優しかった。
 佐為のような存在だったら良かったのにと、私は何度思ったかしれない。

 ところで、某所の百合画像スレッドを見ていて思うのであるが、というか前から不思議に思っていたのであるが。
 女の子二人が絡んでいる絵でも、画面外に男性の存在が感じられるようなものは百合画像ではないと思うのだがどうか。


2004/2/16 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#16


 気怠さに乗っ取られた心と体を無理に動かして、終末の過ごし方[AbogadoPowers]などを読んでいた。

 いろはのあの有名な台詞は相変わらず防御不能だが、でも私にとって一番心に染みるのは知裕と緑の物語だ。そしてそれだけに、香織ルートで香織が引っ越すことを知裕に知らせる役割を緑が担うというのはあまりにも心に痛い。あの役割はおそらく緑にしかできないのだが、当の知裕はあの場で緑のことをほんの僅かにすら意識していない。緑ルート以外での緑は、嘘を抱えたまま終末を迎える。嘘が真実になることなどないと分かっていながら、他に縋るものを持たない少女はただ黙々と本を読む。

 稲穂歌奈。
 好きなものがみんななくなっちゃう、ことを彼女は恐れる。最近、彼女の気持ちを以前より身近に感じられるようになった。たまに部屋でぼけーっとしている時、ふと考えることがある。私がもし不慮の事故で死んだりしたら、私を取り囲んでいる美しいものたちはどうなってしまうんだろう? なんて。私のこの世で最も信頼できるもの、つまりお話が詰まったたくさんの物たち(本やらゲームやら)は、私が死んだ瞬間に意味を失ってしまう。私を励まし勇気づけてくれ時には慰めてくれたたくさんのお話はただ私にとってだけ意味のあるもので、私の死後にこの部屋の遺物を処理するであろう誰かにとってそれらは何の意味もない単なる本やゲームでしかない。変な言い方だが、そういう時の私の心情は、我が子を残して死ぬわけにはいかない、というようなものなのだろうと思う。私自身にとっては死ぬというのは苦しみから解放されるという程度の意味しかない。しかし私の愛したたくさんの物たち、そしてこういって良ければ私を愛してくれたたくさんの物たち、が理解者(私)を失って路頭に迷うという想像は心底恐ろしい。お話を愛することだけが私に生きる意味を与えてくれた。このホームページを開設してから四年半、その間に数え切れないほどの好意の言葉を私はもらった。どこかの誰かの目に、私という人間がある瞬間に魅力的に写ったとすれば、それは私が私なりの仕方でお話を真剣に愛していたからだ。言ってみればお話を愛することで、私は他人との幾つかの絆を作ることができた。私は自分の意識や可能性の消滅をたいして恐れない。恐れないというか、それをリアルなものとして実感することができない。しかし私の好きな本たちが十把一絡げにまとめてうち捨てられるのは恐い。死が恐ろしいとすればそういう意味で恐ろしい。

 瑞沢千絵子。
 『詐欺のようなキス』
 『キスされるたびにもっとこの人を好きになる、ホントに詐欺みたいだ』

 うろ覚えなので正確な引用ではないけど、この台詞を読んだ時、目眩を覚えた。
 名台詞というのとはちょっと違うが、なんかゾクゾクくる。


2004/2/15 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#15


 わたおに 5号のばらスィー漫画(というかイラストだが)は苺ましまろの新しい可能性を垣間見させてくれているようで面白い。

 苺ましまろという漫画は良くも悪くも美羽がいなければ話が成り立たないというような側面があって、例えば銭湯のエピソードなどでは、千佳とアナちゃんは美羽を無視してしまった瞬間から出番を失ってしまっている。もちろん、この漫画を面白くすることに美羽がどれほど貢献しているかは計り知れないものがあって、単純に美羽のキャラに依存したエピソード作りを指摘するのも公平とは言えないのだが、たださすがに最近の電撃大王の連載を見ていると度が過ぎるというか、マンネリ一歩手前に行ってしまっているような雰囲気もあって、ファンとしては密かに今後を心配せずにはいられなかった。

 そんなことを意識しているファンにとって、わたおに 5号のあの4枚のイラストは実に興味深い。あれは言うまでもなく日本の子供文化に触れるエルロンちゃんをコンセプトにして描かれているのだが、こういう話作りは、未だあのコミュニティーに十分には馴染みきっていないように思えるアナちゃんを溶け込ませるための重要なステップになるのではないだろうか。何より日本の年中行事を絡めた場合、美羽の暴走に依存しなくても話が作れるというのが大きい。

 こんなことを書くのも、日本の年中行事に触れる外国人、を主題にして作られた素敵なお話の前例があるからだ。私の言うのはシスプリポケットストーリーズの七五三のエピソードで、あそこでは四葉のキャラが実に綺麗にお話としてまとめられていた。四葉は外国育ちだったがゆえに小さい頃の兄チャマとの思い出を持っておらず、何よりも辛いことには他の妹たちと思い出を共有することができない。シスプリコミュニティーが楽園であるゆえんは、全員がお兄ちゃん大好きという気持ちを共有する仲間であるという点にあるのだが、このエピソードでは例外的に四葉は疎外されてしまっているのだ。思い出を持たない寂しさもさることながら、思い出を他の皆と共有できない寂しさというのは察するに余りある。そうしてこのお話は花穂や雛子たちが四葉のために兄に頼んで七五三をやり直すという風にして解決するのだが、これはポケットストーリーズのコンセプトと思われる「気持ちを共有する仲間がいる幸せ」をこの上なく見事に体現していたのだった。

 まあ苺ましまろでシスプリのようなお話を作ることが正しいのかどうかは簡単には言えないところはある。苺ましまろの話の面白さは友達の大切さを殊更に意識しないような(つまりそれだけ当たり前だということ)描写にある訳で、シスプリのような思い遣りに溢れたやり方はあのコミュニティーには相応しくないのかもしれない。ただ、わたおに 5号の一連のイラストは、美羽のキャラに頼らずに、比較的出番の少ないアナちゃんや千佳を効果的にお話に参加させられる可能性を私たちに示してくれていると思うのである。

 余談ながら、ついでにまったく個人的なことながら、あの一連のイラストは伸恵ちゃん@小学生バージョンが見られるという点でもたいへんに意義深いものだ。


2004/2/14 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#14


 そういえば日記に書いてなかったけど、先週末からずっと風邪を引いているのです実は。
 もうほとんど治ってはいるのだけど、まだ鼻づまりが残っててちょっと苦しい。

 ドラゴンボールアニメ版のOPの歌詞で「とけたこおりのなかにきょうりゅうがいたらたまのりしこみたいね」っていうのがありますよね。白状しますと実は私、この歌詞の意味が最近まで分かりませんでした。「たまのりしこ」って一体なんだろうと放送当時からずっと思ってて。言うまでもなく「たまのりしこ/みたいね」ではなく「球乗り/仕込みたいね」が正解なのですが。少し前に 2ch の例の連投荒らしを見て初めて区切りを間違えていたことに気づいた次第。これと同じネタで巨人の星OPの「思い込んだら」を「重いコンダラ」と間違えるなんてのもあるらしいですが、こっちはちゃんと知ってました。

 ルパン122で大往生を何回か。
 1周ノーミスノーボムが3回あったが全部2周目でぽしゃって終了。
 1周8.2億で2-4クリア時14.9億という完璧なプレイがあったのだけど、2-5道中でコンボが切れて終了。しょんぼり。


 「ロリータ趣味に関しては美食家でありたい」という意見はなんかすごく分かる。
 まあ別にロリータ趣味に限ったことではないが、プライドに掛けても偽物は認めないという姿勢は共感。

 「無知ゆえにどんなオーケストラでも純粋に聴ける中学生と、既に色々なオーケストラを体験して耳が肥えてしまって本当に良い物しか聴けなくなってしまった僕と、一体どちらが幸せなんだろうね?」
 とは、音楽の先生をやっている叔父(私の母の弟)の弁。

 そこに無意識に込められた傲慢さはともかくとして、私は叔父の気持ちは分かるつもりだ。知らないから楽しめるということは確かにあると思う。しかし物の良し悪しを見抜く目は経験の積み重ねによって獲得するしかないもので、そういう審美眼のようなものを一度獲得してしまった人はもう後戻りはできない。いや、もっと簡単に言えるか。一度良い物を知ってしまったらそれ以下では満足できなくなってしまうということ。

 私は日記にゲームなり漫画なりの感想を書くに際して、いつも好みと質とを区別するよう心がけてきたつもりだ。シスプリについて語ることは遊びだが、遊びは遊びなりに真剣なものでありたい。シスプリは確かに萌える。しかしキャラが可愛いというだけの理由でシスプリを好きになったつもりは、私は微塵もない。シスプリの設定はなるほど滑稽であるに違いない。しかし設定が滑稽であるとは言っても表現の次元では真面目に受け取るに値するようなものが確かにあるのだ。作品の良し悪しは面白いかどうかではなくて、そこに信頼に足る真面目さが込められているかどうかによって決定される。私が苺ましまろを好きなのは、茉莉たんや美羽が可愛いからではない。いやそれももちろんあるのだが、でもそれ以上に私は、ばらスィー氏が子供を徒に美化しないからこそ好きなのだ。子供が無邪気であり純粋であるなどというのは自分の子供時代を忘れてしまった大人の戯言であるに過ぎない。子供をちゃんと描くのは普通思われている以上に難しいことなのだ。

 私は社会人としては果てしなくろくでなしだが、でもこういうことを忘れない大人でありたい。


 とらハ好きへの100質問、漣紫音さんの回答を捕捉。
 ありがとうございます。

 翠屋のシュークリームは確かに食べたいですねえ。

 月陽炎をやってから特に強く思うようになったのですが、食べ物っていうのは普通考えられている以上に、生活感を出すための重要な小道具になり得ると思います。月陽炎では、お味噌汁の匂いや秋刀魚の焼ける香ばしい匂いと言ったものが、生活感を出すための演出として実に効果的に用いられておりました。痕の背景で小さく鳴らされる鈴虫の鳴き声なんかにしてもそうなんですが、フィクションの世界の空気を受け手に生々しく感じさせる秘訣は、私たちの身近な感覚に訴えることに尽きると思います。例えば鈴虫の音色だったりお味噌汁の匂いだったり。いずれにせよ、有馬神社にしても南雲家にしても、それからもちろん翠屋にしても、匂いというものが比較的はっきりとイメージできる場所はリアルなものとして捉えやすいと言えるでしょう。「翠屋のシュークリーム」という言葉が連想させる甘い匂いは、私の感覚の一部を翠屋に連れて行ってくれます。シュークリームの甘い匂いは、桃子さんや美由希が馴染んでいる生活の匂い。カスタードクリームの匂いによって、私たちは彼女たちをずっと身近に感じることができるようになります。


2004/2/13 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#13


 ガルーダ自己ベスト更新 [42,641,150 pts./枠6/残5/バリア5%]

 これ以上はマジで無理。
 現在実践可能な範囲での稼ぎがここまで綺麗に成功したのが既に奇跡に近いし、そもそもジャコウノーミスなんて二度とできなかろう。

 今日も大往生は成果なし。
 最後の一回で緋蜂発狂(だけ)をノーミスノーボムノーハイパーで避け切ったがネタ以上の意味はない。


2004/2/12 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#12


 食欲がないばかりか何を食べても味がしない。
 どうしちまったんだろ。

 ***

 ガルーダ自己ベスト更新 [39,272,070 pts./枠6/残2]

 4000万突破は時間の問題かな。
 …と言いたいのはやまやまだけど、再セセリ発狂やジャコウ発狂が全然安定しないのでまだまだ厳しそうだ。


 キャラコレとリピュアBの関係は楽譜と演奏の関係に準えても良いと思う。

 きちんと訓練を積んだ人は楽譜を読むだけで音楽を脳内再生できるらしいが、しかしそういうスキルを持っている人は多くないし、やはり音楽というものは演奏されてこそ意味がある。実を言うと、キャラコレがそれ自体として優れた作品なのかどうか、私には分からない。キャラコレの文章を認めている人がいることは知っているが、しかし、忌憚なく言えば、キャラクターコレクションを書いていた頃の公野女子はまだ各キャラの個性をきちんと掴んではいなかったのではないかしらと思う。私はゲーム版からシスプリ世界に入って、それからキャラクターコレクションに手を出したのだが、初めて読んだ時の印象は「どうもぱっとしない」というような感じだった。当時の私には、可憐も花穂も四葉も、みんな同じ語り口で喋っているように見えたのである。もちろん今はそんなことはなくて、可憐の語りには「可憐らしさ」を感じるし、花穂の語りには「花穂らしさ」を感じるようにはなっている。しかしそれはアニメやなんかを体験して妹たちの個性を自分なりに把握したからこそなのであって、逆に言えばそういう経験がなかったら、キャラコレの魅力に気づく日は来なかったろうと思う。シスプリを溺愛しているファンにとっては事情が違うのかもしれないが、少なくともある時期までの私にとって、キャラコレは退屈な作品だった。詰まるところリピュア・キャラクターズに出逢うまでは。キャラクターズはキャラコレの中のひとつのエピソードをアニメ化してみせたものだ、という風に語るのは間違ってはいないにせよ、私は反対だ。いや、アニメ化してみせたというのはまったくその通りなのだが、でも私だったら、宮崎渚監督率いるスタッフはキャラコレのエピソードに命を吹き込んだのだ、なんて言いたいと思う。演奏家が楽譜を元にして音楽を再創造し、生まれたての瑞々しい音楽を私たちに披露してくれるように、リピュアBパートもまた、少数の人にしか分からなかったであろうキャラコレに命を吹き込むことで、誰にでも分かるような新しいシスプリ世界を創造してみせたと思うのだ。もし完全に自分本位な言い方をすることが許されるなら、可憐や花穂はリピュアキャラクターズの中で表現されて初めて、生きている女の子になったのである。キャラコレに生命がないなどとまで言うつもりはないが、ただキャラコレはそれぞれの妹の個性化が未だ十分ではないように思えたし、だから私はあの文章から生きているひとりの女の子をイメージすることはできなかった。キャラクターズの功績は、この点にこそあるのだと私は思っている。


2004/2/11 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#11


 テキストインデックス更新。


2004/2/10 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#10


 未来がまるで見えなくなってどこに向かって歩いてよいか分からなくなったので、逃避気味に昔の日記(21歳〜27歳の間に書いた大学ノート19冊分)を延々と読んでいた。日記を読み返すというのはあまり一般的ではないらしいのだが、私は実を言えば二年に一回ぐらいのペースで昔の日記を読み返す。

 8年前の日記から抜粋。

 ------------------ここから---------------------

 ラジオでこんなことを言っていた。
 「他人が自分の所有物に対して何らかの働きかけをしてくると、人はその働きかけが自分に対してなされたように感じる」

 これを聞いた時、僕はあるエピソードを思い出さずにはいられなかった。
 メフィストフェレス(と呼ぶのは褒めすぎだがまあ仕方がない)は僕の部屋に来ても部屋の中のものにはほぼ一切関心を示さない。すごく控えめな人物だとでも言えば聞こえはいいが、まあ現実は単に無機質な男でしかない。そのメフィスト氏がある時たまたま、僕の大事なぬいぐるみ達のひとつを手に取ったことがあった。彼にとっては何気ない行為だったはずだが、これは僕にとっては重大な意味を持っていた。主観的に言えば、彼はぬいぐるみを手に取ったのではなく、むんずと掴んだのだった。僕はそう思われた。僕の目の前で、異常なこと、あり得べからざることが起こっていた。僕のまわりに不吉さと不快感がまとわりついて、僕を息苦しくした。呆然としながら僕は目の前の破壊の光景を見つめた。物理的には彼はぬいぐるみを手に取ったに過ぎなかった。しかし僕はその光景を見ながら、自分の「王国」の一部が踏みにじられたように感じていた。悪夢のような十数秒だった。(1996/02/11)

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 拝啓 館林見晴さま

 僕は以前、日記に書いたものです。僕が死んだら、悲しんでくれなくても、忘れてしまってもいい。ただモーツァルトのレクイエムのCDを一度だけ掛けて欲しい。別に聴かなくても良いし、僕を思い出してもらうためでもない。CDを再生したらそのまま別の部屋へ行っても外出してしまってもまったく構わない。ただレクイエムが響いたということ、それだけが肝心なのだから………と。
 これを書いたのはたぶん一年ぐらい前だったと思いますが、今はこの考えが少し変わりました。この世にレクイエムが響くことが重要なのだとすれば、僕は別に誰かにCDを再生してもらう必要はないのです。モーツァルトがこの曲を書いて(完成させるまで彼は生きられなかったのですが)以来、今日まで、この至高の音楽は何万回何十万回と演奏されてきました。ましてや今日のような再生装置が発達した時代では、おそらく世界中で毎日誰かがこの曲を再生していることでしょう。モーツァルトのレクイエムはいつでも響いているのです。僕にはそれだけで十分です………。(1997/03/24)

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 拝啓 館林見晴さま

 僕が何かに感動した時、その感動は完全に個人的なもので、誰かにそれを伝えることはできません。ましてや共感を望むなど途方もないことです。ところが僕はしばしば他人に向けてそれを試みます。もちろんすべては失敗します。いや、第一僕は伝わらないことを初めから知っているのです。でも言わずにはいられないのです。この悪癖のせいで、今まで幾度傷ついたか分かりません。僕が自分の感動をそうっと取り出して静かに手の上に置いてみせると、相手はそれが何なのかまるで分からず、手でむんずと掴み、すぐに放り出すのです。後には汚されてしまった感動が残るばかりです。もちろんこれは彼の罪だとは言えません。僕の感動は僕だけが理解できるものだからです。僕は孤独たることをもっと学ばなくてはなりません。(1997/04/01)

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 「つまり陶酔というものは、酔うこと自体が目的なので、醒めることを欲せず、それを嫌悪する」
 「彼の頭の中の甘美な霧、すなわち酔うことだけを目的とし、ただそれが容認され助長されることしか望まない陶酔」
 ――――トーマス・マン「魔の山」より引用。(1994/02/26)

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 昔の僕は演技の感動をし、それを自分で本物と思いこみ、必要以上に言葉を飾り立てることばかりやっていた。
 今、昔の日記を読むと、なんとなくそう感じる。(1997/08/27)

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 自己陶酔とかリルケの影響が色濃く出ていることとか、一人称が“僕”であることとか、萌えキャラへの手紙語り形式だったりとか、今読むと色々と痛い。ただ、基本的な語り口自体は今とまったく変わらないのが面白い。


2004/2/9 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#09


 『詰まるところ問題となるのは、勇気などではなく実行するかしないかだ』
 ……なるほどそうかもしれない。

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 メモルの何話だったかちょっと忘れたけど、メモルが何かの切っ掛けで落ち込んで、翌朝目を覚まして窓から外を眺めて朝日の眩しさに感動するんだけど、その時メモルは「いけない、わたしは落ち込んでいたんだった」と自分を諌めるんだよね。これは実に微笑ましくまた意味深なシーンだったと思う。鬱状態にある人は鬱からの復帰を求めるのと同じくらいの強さでもって、鬱から復帰することを拒むものだ。

 全然関係ないが、ついでに出典も忘れたが「剣の傷を癒すことができるのは傷を付けた当の剣自身だけだ」っていう台詞がある。
 それがどうしたと言われると困ってしまうのだけど、この台詞は頭にこびり付いて離れない。

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 DORACONIA [叶穂郎/少女天国 3月号]

 吸血鬼の女の子に血を求められるというのは浪漫だ。血縁というものに私は心を動かされないが、血を求めるという関係にはすごい甘美を感じる。とらハシリーズのさくら&真一郎や忍&恭也のような。よくエロ漫画であるような貴方の○○が欲しい(飲みたい)みたいな台詞もそれはそれで甘美だが、貴方の血が欲しいと言われる時のどこか背徳的な甘美はそんなものの比ではない。いや、これは甘美というより恍惚に近いだろう。彼女が私の首筋に牙を突き立て、血を啜っていく。私は彼女が食事しやすいようにそういう時は大人しくしているのだけど、私の顔に触れる彼女の髪の毛の感触や匂い、血を飲み込む際の唇の動きの変化、食事を終えた後に私の首筋を舐める舌の感触、などといったものが私の感覚を麻痺させてゆく。そして、抱き留めた腕に感じられる彼女の体温は、それ自体のぬくもりもさることながら、彼女の中に流れるふたり分の血を想像させずにはおかない。私の血が彼女の体の中をめぐっているという事実はほとんど酩酊感をすら引き起こす。血を求められる時ほど、愛されていると全身で感じられることは他になかろう。
 (念のため言って置きますが DORACONIA は血を吸われる甘美を追求している漫画じゃありません)

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 私信。

 不安な気持ちは分かりますが、愛想ってそう簡単に尽かされるものじゃないと思いますよ。
 少なくとも私はそう。

 何があったのかは消えてしまった掲示板のログから推測するしかなくて、まあおよその見当は付くけど、具体的な内容についてはここでは触れません。推測に基づく意見でしかないのが弱いけど、私だったら同じことをされたらやっぱり気分悪いと思う。確かに光栄なことではあるけれどもそれでも限度はある。まあただ、第三者の目から見た限りだと、掲示板などでの書き方は少々回りくどいようには感じました。結果論だけど、もっとずばっと直接的に書いてしまった方が良かったんではないかな、とは思います。さもなくば完全にメールだけ(第三者には分からないよう)に留めるか。もちろん当事者になってしまったら私だってそんなに冷静ではいられないのでしょうけれども。


2004/2/8 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#08


 ガルーダ自己ベ更新 [36,787,240 pts./枠6/残4/バリア0%]

 今のパターンの精度をもうちょっと上げれば4000万は出るかな。1面からして同じタイミングで覚醒しても撃ち方をちょっと変えるだけで2〜30万は平気で増減するので、他の面のパターンを煮詰めたらまだまだ伸びるだろう。恐ろしく安定しないゲームなのでそこまでやり込めるかどうかは分からないが。

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 DEATH NOTE をリアルタイムで読めるのはすごい幸運なんではないかと思わずにいられない。


2004/2/4 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#04


 ペヤングソース焼きそばを食ったことがないヤシは敗北者[2ch/B級グルメ板]

 莫迦だこいつら。
 そしてそれを読んで笑っている俺も同じ莫迦だ。

 加薬を麺の下に入れてお湯を注ぐのとか、時間短めで湯切りする(ふやかすと不味くなるので時間オーバーは厳禁)のは基本だと思っていたのだけど、通は更に細部にまで拘っているようで。加薬は麺の上に乗せて湯切り後に蓋の上から指で弾いて落とすとか、1分55秒で湯切りして30秒蒸らしてから開封とか、ソース袋の口は小さく切って麺の上にまんべんなく振りかければほとんど掻き回さなくて済むとか、なんか無駄に奥が深い。

 あと「ペヤングソース焼きそば」が地域限定商品だったとは知らなかった。
 子供の頃から普通に食べてた俺は勝ち組ですかもしかして(違います)。


2004/2/3 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#03


 シベールの日曜日を観た。

 世界が闇に包まれるというのはああいうのを言うのか。
 こんな悲しいお話、知らなきゃよかった。
 でも知ってしまった以上は死んでも手放さない。



 女の子があんな風に泣き叫ぶのが世界の終焉でなくてなんだというのか。



 この映画が与える絶望感は、つまり「なす術がない」ということなのだが、それは例えばフィクションだから関与できないなどという次元の問題ではない。あの終幕には希望を見出す余地がほんの僅かすらもないと言うことが問題なのだ。ピエールの死と共に少女の名前も失われてしまった。彼女はあの世界の誰の目から見ても依然として生きているように見える。しかし、水に映る世界を“わたしたちの家”と呼んだ夢見がちな少女は永久に失われてしまった。18歳になったら結婚しましょうと微笑んだ少女は永久に失われてしまった。ピエールが死んだ時、シベールという名の女の子もまた死んだのだ。終幕で泣き叫ぶ少女はまだシベールだが、その後の生を生きねばならない少女はもはやシベールではない。

 私が恐れるのは女の子が泣くことなのではない。泣くのはまだしも救いの余地があるのだ。そうではなくて、私が恐いのは、女の子が笑わなくなることなのだ。笑うことのできなくなってしまった女の子を見ることほど恐ろしいことはない。そういう時、女の子と世界との関連(絆)は失われてしまっているからだ。

 今にして思えば、ONEの茜シナリオで浩平が帰ってくるというのはなんという救いだろう。逆に言えば浩平が帰ってこなかったらあれほど残酷な話はない。心を閉ざした女の子、ほど私を不安にするものは他にない。「だからあなたのこと忘れます」という台詞が私たちの胸に突き刺さるのは、言うなればその台詞が私たちに突き付けられた絶縁状であるからだ。そしてまた、シベールが「もうわたしには名前なんてない」と叫ぶ時、それもまた私を含む世界への絶縁状なのだ。

 私の言いたいことが分かってくれますか?


2004/2/1 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-02.htm#01


 いつものようにルパン122で大往生。

 土日の二日で大体10時間ぐらいはやったろうか。1周捨てゲーばかりしているとストレスが貯まる上2周目の練習が全然できないので、最近は1周目に関しては2ミスまでは我慢して続行することにしている(むかつく死に方をした場合はその限りにあらず)のだが、それでも10時間で2周目に行った回数はおそらく1桁。この二日で緋蜂は5回ほど葬ったがその中で納得の行く戦い方ができたのは2回のみ。あとの3回は緋蜂前のセッティングが上手くいかなくてアドリブで戦うことを強いられた。ただ、後で思い出してみると今回の失敗はそのいずれもが冷静に対処できれば立て直せたはずの状況ばかりで、そういう意味では今回の苦戦は良い経験になったと思う。パターンが狂った時に咄嗟に最善手を見出すのは難しいが、ミスの傾向とフォローの仕方が頭に入っていれば後は状況に応じてフォローパターンを使い分けるだけで事足りる。もし必殺パターンが使えない状況に陥ったらDVDパターンに移行すれば良いだけのこと。例えば緋蜂戦開始時点でゲージ7割未満でハイパーが泳いでいてボム2発あったらどうするか。この場合、開幕針弾で1ボム撃った後ハイパーを回収してオーラ撃ちに行く、というのが最善手になる。最善手を見つけだすのは容易ではないが、知っていることを実行するだけなら簡単だ。

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 ついでに大往生絡みということで、2ch経由で知ったショーティアSSを紹介しておきたい。
 おそらく大往生の例のポスターから着想を得たのだと思うが、あの一枚絵からここまで素敵なお話を創り上げることのできる想像力は尊敬ものだ。


 土方さんのところでMY本棚晒しが行われているらしいので便乗してみる。

 と言っても残念ながら(?)うちの本棚にはネタ要素はありませんが。うちの本棚で比較的一般的でないものというと楽譜(約30冊/ピアノ譜とオケの総譜が半々)ぐらいか。
 とりあえずお気に入り漫画はうちではこんな感じで並んでます。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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