棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

 1999年  7月 8月 9月 10月 11月 12月
 2000年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
 2001年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
 2002年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月

2002/9/30 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#30


 護り手に〜身を委ね〜♪
 我が意をすべて捧げよう〜♪

 という歌が頭の中ぐるぐるしております。
 歌詞をよく聴いてみるとこれってキリスト降臨を歌ってたのね。
 あれは妹たちが兄のために歌っているという事実だけで私は十分に満たされてしまっていて、最近まで歌詞なんて気にしてませんでした。


 みずかべ[F&C]。

 ギャルゲーという物を、仮に、お話を楽しむものと仮想恋愛を楽しむものとに分けるとすれば、水月(みずかべ)などは典型的に後者ということになる。少なくとも私に関して言えば、水月をプレイするというのは「雪さん(あるいは花梨)に会う」ということを意味する。私はお話を読むためではなく、雪さん(花梨)に会うためにこそ、水月というゲームを起動するのである。

 水月という作品は、身も蓋もない言い方をすれば、記憶喪失になった主人公が周囲からちやほやされるというだけのお話である。主人公は彼なりに悩みを抱えているのであろうが、それは例えばきみえそなどとは違ってプレイヤーの胸に突き刺さるような性質のものではない。記憶喪失とそれにともなう悩みは彼(プレイヤー)を過度に苛むことはなく、それどころか逆に、そういう設定こそが、主人公をちやほやさせ甘やかすという美味しい状況を作り出しているのである。更に言うと、この作品では主人公とヒロインが仲良くなる過程というものが存在しない。出てくるヒロイン達は皆、最初からほぼ好感度マックス状態なのであって、要するにここにはヒロインと時間を共有しお互いのことを知り仲良くなるという部分は果てしなく薄められている。結局のところ主人公に与えられた選択はと言えば、誰の好意を受け取るか、ということだけなのだ。

 もし水月を物語として評価するとすれば、以上に挙げたような特徴はおそらくマイナス要因になるのだろう。しかし私は、まさにそういった特徴ゆえに、水月を高く評価する。水月というのは要するに物語ではなく萌えツールだ。それもこの上なく優秀な。水月世界には現実と重なるような生々しさがほとんどない。この世界はあまりに綺麗すぎる。恰も、現実世界の中から綺麗なものだけを抽出して組み立てたかのように、綺麗で、そして優しい。しかもこの世界はプレイヤーの欲望に極めて忠実であって、それでも綺麗さを少しも損なわないのだ。水月をプレイしていると私は現実を忘れてしまう。ある種のゲームのようにプレイ中であってもふとした切っ掛けで現実に立ち返ってしまい、作品の眩しさによって白日の下に晒された自分の境遇を目の当たりにして惨めな気持ちになるというようなことはこの作品では決して起こらない。水月世界は綺麗なものとして内部で完結しており、私たちの住む世界とはなんの関わりもない。それはどんなに安心できることだろう。つまり、おそらくトノイケ氏という脚本家はリアルな物語を描けないというよりも最初からそういうものを描くつもりがないのであり、ただ綺麗な夢の世界を描き出そうということだけを考えていたと思うのだ。ならば私が取るべき態度は、ただゲームを起動してただ彼女たちの優しさに甘えて幸せな気分に浸ることだけだ。それ以上のことをする意味は、私には見出せない。

 みずかべの、那波さんのあの緊張感のない笑顔は素敵すぎる。


 月姫プレイ中につき今日はここまで。

 アルクェイドさんに惚れそうな予感、ということだけ。
 というか既に惚れてますたぶん。
 断言するのが躊躇われるのは、まだ彼女のことをよく知らないから。


2002/9/29 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#29


 昨日の分から。

 みずかべを遊びつつ、PCの壁紙を自作シスプリから雪さん&かぼちゃおねんねCGに差し替えてみたり。

 昼寝していたら友達が遊びに来たので唐突に秋葉原へ。
 ARCADIA や G's Magazine やジャンプの最新号をフライングゲットしたり水夏サントラを買ったり同人誌を漁ったり。

 あと、K-BOOKS[ラジオ会館2F]の漫画/同人誌フロアに初めて入ったが、とらやメッセとは品揃えが結構違ってて驚いた。
 巡回ルート入り確定。

 ARCADIA 11月号。

 WTN氏、怒首領蜂Aタイプで7.48億。
 一応それなりにやり込んだ者として、怒蜂で7億出すのがいかに難しいかはある程度具体的に分かるつもりだが、この領域まで行ってしまうともはやどんなプレイをしているのか想像も付かない。

 G's Magazine 11月号。

 シスプリ RePure. 花穂のぶるまーが非常に扇情的、なんて思ってしまうのは私だけかしら。
 Iris [KID]紹介ページ。篤見唯子氏ってKIDに入社してたのか。
 PS/DC版シスプリ、イベント人気投票。花穂の逆上がりや鞠絵の眼鏡外しが入っていないのは気になるが、咲耶お泊まり、キスをせがむ四葉、衛お泊まり、辺りは確かに上位に入ってくるのも納得できる。

 余談。
 途中で寄った馬車道館林店で緑袴のウェイトレスさんに遭遇。


 夜。

 太田COOMへ。
 K氏、M氏、と三人でダベる。


 会話中は楽しいのだが、別れて独りになるととたんに虚しくなるのはどうにかならないものか。私はたぶん、人並み程度には会話が好きなんだと思う。そうでなければ用事もないのにわざわざ遠くのゲーセンに行ったりはするまい。大往生をプレイするだけなら近所のゲーセンで十分なんだから。

 他人のシューティングのプレイを見ていると時に歯痒くなる時がある。どうしてそこでそんな大きく動くんだろう?とか、そこはそっちに行っちゃ駄目なのに…とか。もちろん口には出さないが。

 ゲーマーというものを、仮に、1)ゲーセンに行くことがある程度習慣に近くなっていて、2)アーケードゲームは数ヶ月単位でやり込むのが当たり前と認識している、ような人種だと定義するとして。ゲーマーと一般人との間には、明らかに経験値による基礎能力の差がある。ゲーマー基準で言えば私などははっきり言って全然下手な部類であろうが、それでも、例えば(よく初心者がやるような)大量の敵弾を前にしてパニックに陥ったりしない程度には、シューティングに慣れている。そういう私から見て、初心者のプレイは時に非常に痛々しい。

 シューティングをプレイしていると、初めて見る攻撃パターンであっても、今までの経験から、避け方がなんとなく分かる場合というのがある。それは反射神経などといった能力的なものではなく、経験の積み重ねによって会得したひとつのスキルだ。初心者はそういう経験が明らかに不足しているケースが多く、だから敵弾に囲まれると容易にパニックに陥ってレバーを無理にガチャガチャやって敵弾に突っ込んで死んだりする。

 いや、誤解して欲しくないが、私は別に自慢や批判をしている訳ではない。むしろ言いたいのはそういうのとはまったく逆のことだ。たぶん、会話という場においてはこれと同じようなことが立場を逆転して私と他人との間に起こっていると思うのだ。

 私の観察するところ、多くの人は会話が苦手だなどと口先では言いつつも最低限の会話をできる程度のスキルは持っているように見える。私の観察眼がどの程度正確かは分からないが、シューティングをやる時の私が敵弾の軌道を予測して冷静に弾を避けるように、世間の人々は、会話という場のその状況下で自分がどう対応すれば良いのかを最低限度には把握できる程度の経験を持っているように見える。逆に、世間の人々が普通に対処できる場面で、私は状況が掴めずにパニックに陥ったり、あるいは場の空気を誤って把握して頓珍漢な対応をしてしまったりしているのだという気がする。だとすれば、他人の目には私という人間はさぞ痛々しく映っているのではないだろうか? それはきっと、私が初心者のシューティングプレイを見る時に感じることのある痛々しさと同じ種類のものだ。


2002/9/28 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#28


 昨日のことから。

 みずかべを買いにソフマップ大宮店へ。ちょうど10時に到着。着いた時点で既に約20人の行列があったが、店内に入ってみたら普通に店頭売りもやっていた。予約しなくても朝一で行けば買える程度には入荷していたらしい。ついでに音楽CDの棚を物色して、月陽炎ドラマCD vol.5 とKanon公認アンソロジー〜水瀬さんちのばんごはん〜を購入。

 大宮ソフマップで買い物を終えた後、車に荷物を置いてから歩いて氷川神社へ。巫女さんはいませんでした。残念。

 それからえーと。
 私、今回生まれて初めて、お賽銭を入れて手を合わせてお願い事をする、というのをやりました。別に切羽詰まってた訳ではないんですけど、なんとなく。約30年間今まで一度もそうしなかったというのは、子供の頃、母親に某宗教の集会やら聖書研究会やらをやらされて、某宗教以外の神には決して頭を下げてはいけないと教わっていたからです。一度でも頭を下げてしまうともう楽園には行けない、とかなんとか。今にして思うと随分脅迫めいた教え方だったと思いますが、母親の言うことは子供ながらに恐ろしくて、その頃の呪縛はずっと後々まで残りました。最近は割と薄れてきましたが、でも正直に告白すれば、手を合わせて頭を下げている間、心の中ではまだ少し恐れがありました。

 実はちょっと前にも部屋にその関係の人が来たことがあったり。
 「宗教っていうのは必要としている人だけがやればそれでいいと思うんですよ」
 と言ってお帰り頂きましたが。

 個人で何を信仰しようがそれは自由であるべきです。
 ただ、同じ物を信仰する人間の集団は、正直言って恐いです。

 帰りの車の中でCDを聴く。

 月陽炎ドラマCDは期待を大きく下回った感じ。なまじサブキャラに活躍の場が与えられてしまったことで真が単なる悪役に成り下がってしまっているのが頂けない。真というキャラについては本編でもそれほど上手く描けていた訳ではなかったが、それでもまだ辛うじて「彼にとってはそうするしかなかった」ものとして捉えることが可能なレベルまでは描き込まれていた。真というのは、良く言えば純粋、悪く言えば愚直な人物なのであり、それを単なる悪役程度のものとして扱ってしまったのはやはり作り手の怠慢だと言わざるを得ない。真が去った後はほぼ本編の焼き直し。下手に新作を追加するぐらいならこちらの方がずっと良い。展開は、美月封印エンドと見せ掛けて柚鈴の手紙エンド。こちらは悪くない。

 Kanon公認アンソロジー。元々はジャケ買い(表紙はソファで寝ている秋子さん)だったのだが、期待を大きく上回って面白かった。ニコニコしながら怒る秋子さんと慌てて取り繕う祐一とか、実に良い味出してる。最近だと水夏ビジュアルファンブック付録のドラマCDもかなり面白かったが、私はどちらかというとこういうコメディータッチの作品の方が好きかもしれない。いずれにせよ、秋子さんが好きな人なら買い、だと思う。


2002/9/27 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#27


 まだ明るいのだけど鬱なので一回寝て仕切り直し。
 こういう時、無職はありがたい。

 私は私よりも真面目な人には絶対勝てない。
 ということを意識するとサイトを閉鎖したい衝動に駆られる。

 その人ごとのデフォルトというものがあると思う。
 水夏のさやか先輩というキャラは私にはすごく遠く感じられる。
 私は彼女の上品さに気後れを感じてしまう。

 世の中には、何を言っても何をやっても自然に上品になる人とそうでない人がいると思う。
 さやか先輩は何をやっても「品が良い」。
 そこが彼女の魅力なのだが、でもそれゆえに、何をやっても様にならない私は気後れしてしまう。

 それと同じようなことで、真面目さにもやっぱりそういうところがある気がする。
 いくら真面目に物を見、考えようとしてもそうできない、というジレンマが最近はすごく強い。
 私の文章にはいつも、どこかうわついたところがあって、それはどう頑張っても消せない。
 「うわつき」が私の言葉から説得力を奪っている、ということは分かるのだけど、どうすればそうでなくなるのか分からない。

 ある種の人の文章を読むと私はやっぱり気後れを感じる。
 私には彼のような文章は書けない、という思いに苛まれる。
 それは、いわゆる「その人なりの視点」という個性の問題とはちょっと違う。
 そうではなくて、問題なのは、枠の広さのようなものだ。

 思考というのは全然、自分の自由にはならない代物だ。
 しかしそれでも、思考の自由度というのは人によってずいぶん違う。

 私に欠けているのは、ひとつには正確に考える勇気なのだと思う。
 もしゴッホが私の文章を読んだら、きっと「アンタの文章はいじけている」と言うだろう。

 能力の問題というより、私の思考には臆病さによる枷がはめられていると感じる。
 思考が臆病さに遮られていて、ある線以上に進めず、結局は無難な辺りに落ち着いてしまう。

 …ということが恐い。
 恐いがどうしたらいいか分からない。
 だから余計に恐い。


2002/9/26 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#26


 実のところ、私が貴方にしてあげられることがあるのかどうか自分でも分からない。
 いや「してあげる」なんてのは傲慢の極みなんですが。
 極論すれば、優しくされたから人を殺しました、ということだって世の中にはあると思う。

 消えたい。
 それもひとつの生き方だと思います。
 消えたいと考えずにいられなかった、貴方の意思を尊重する…それが私にできるギリギリなんだと思います。

 ただ、言っておきたいのは、もし戻ってきたいと思った時に貴方が気兼ねなどする必要はまったくない、ということです。
 戻りたいと思ったらいつでも戻ってきてよいのです。
 それは誰かによる許可などではなく本人が持つ正当な権利です。

 貴方が戻ってきたら私はいつでも「おかえり〜」と言う用意があります。





 ん年振りに履歴書書き。
 予想通り激鬱に。

 やはり真琴のえっちシーンはあんなのじゃなくて発情期ネタとかの方がよかったと思うのですが。
 体が火照っててしまって祐一に甘えまくりな真琴とか想像するだけで(*´Д`)ハァハァじゃないですかそうは思いませんか。

 半角二次元板が見られなくて不便なことこの上ないので A-Bone を導入。フレームを使っているので NN で閲覧するのと比べると画面が狭く感じるがすぐに慣れる。それと気づいた点として、このブラウザは同一スレッドの過去の投稿を参照しようとする場合、リンク(>>1 とか)の上にマウスカーソルを乗せるだけで説明ウインドウが表示されるしくみになっている。タグの属性で画像に説明文を付けるやつがあるけど、ちょうどああいう感じ。これはかなり便利だと思った。

 ギャルゲ板シスプリスレを読んでいたら、シスプリ2には生理(初潮)イベントが欲しいという意見が。
 激しく激しく同意。

 銀色を一章から最終章まで(ただし三章だけは読む勇気がなくて飛ばした)一気にプレイして鬱激化。
 思わず水月のかぼちゃたん(鈴蘭)シナリオに逃避してなんとか持ち直す。

 ぐるぐるしていたら PSソフト開発ツール集なるものを発見。

 で、これを使ってPS版ピュアストの音声を吸い出してテープに録音してみる。
 明日はみずかべ[F&C]を買いに大宮に行くので車の中で聴く予定。


 入江さんのところから飛んでポンコツ度チェック。

8779.415 ポンコツです。


かなりのポンコツです。
貴方自身もそのことは認めているのではないでしょうか。
ひょっとしたら自分がポンコツであることを楽しんでいるのでは?
だとしたら、それはとても幸せなことかもしれません。
ものは考えようです。
ポンコツでもいいじゃないですか。
これからもポンコツライフを満喫して生きていって下さい。
ただ、それでいいかどうかを決めるのは貴方自身ですが……。

 まあ妥当な評価と思われ。
 自分の人間性については結構コンプレックスあるけど、自分が間抜けであることには大してコンプレックスないしな。


 とくそんさんに突っ込まれてから自分の昨日の日記を読み返してみたのですが、一部筋が通っていない場所を見つけたのでこの場で訂正しておきたいと思います(昨日の日記自体はそのままにしてあります)。

 訂正するのは「温度差によって生じる空気の流れに「風」という名前を与えたのと同様に」という部分。ここは正しくは「温度差によって生じる空気の流れの背後に意思を持つ主体を想定して、それを神と名付け畏れ敬ったように」です。

 この辺りが侮辱となるのかどうかは、私にはよく分からないので保留にします。
 気が向いたら説明してもらえることを期待したい。

 自分の文章を読み返してみて思ったのだけど「〜と考えてみたい誘惑に駆られる」っていうのは随分とクレバーな表現だよな。断定を避けることによって言い逃れの余地を残している、と解釈されることもあるかもしれない。

 モーツァルトについては、正直、彼を神呼ばわりすることには強い抵抗があります。彼は200年前には間違いなく一人の人間として生きていた。これは彼が残した多くの書簡や同時代人の証言によって確実に保証されます。でも、彼の音楽に身も心も浸して幸せな気分になっていると、要するに生命が人の手によって作り出せないのと同様、こんな美しいものが人の手によって作り出せるはずはないとかいう考えが脳を支配してしまったりするのですね。そうすると結局、自分の感動と現実を摺り合わせるためには「〜と言ってしまいたくなる」なんていう言い回しを使うしかない訳です。まあその、逃げ道を用意しようという意図ではない、ということだけでも分かって頂ければ。


2002/9/25 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#25


 アマデウス・ディレクターズカット。

 追加部分で特に興味を引かれたのは、サリエリがコンスタンツェに体を要求する場面。コンスタンツェが夫(ヴォルフィー)の楽譜を勝手に持ち出してサリエリに職の斡旋を頼みに行くシーンは元の映画にもあったが、今回上映された版では、その辺りの裏話が描かれている。夫の音楽教師の職を準備する見返りとして夜になったらもう一度一人で私の元に来い、と言うサリエリ。最初は驚くが、それでも夫のため、また自分たちの生活のため、意を決してサリエリの元を訪れ、彼の前で服を脱いでいくコンスタンツェ。しかしサリエリはそんな彼女をなぜか追い返してしまう。そんなサリエリの態度にコンスタンツェは激昂する。…と、そういう場面。この場面が追加されたことによって、なぜ終幕近くでコンスタンツェがサリエリのことをあれほど邪険にしたのか、が明瞭になっている。

 以下、いくつか。

 アマデウスという映画はモーツァルトファンを思わずニヤリとさせる小技が数多く仕掛けられているのだが、その中でも私が一番好きなのは、モーツァルトがサリエリの作った「歓迎のマーチ」を即興で編曲する場面。モーツァルトの指の下で即興的に生まれたあの音楽は、モーツァルト好きにはお馴染みの「フィガロの結婚」の中で庭師フィガロが歌うアリア“もう飛ぶまいぞ恋の蝶々”のメロディーであったりする訳で、それだけでも私たちは思わず頬が緩んでしまうのだが、それだけではなく、あの場面はモーツァルトの即興演奏を聴くという貴重な(仮想)体験を私たちにさせてくれるという点で、他のどの場面にも増して面白いのだ。モーツァルトが即興演奏の名手であったことは同時代人の証言によってよく知られているが、例えば私はあの場面を観ているとフランツ・ニーメチェクという人の書いた短い文章を思い出す。

 なにかもうひとつ地上の喜びを神に願うことが許されるとすれば、私が願うのは、モーツァルトがピアノで即興演奏するのをもういちど聴くことであろう。彼を聴いたことのないものには、彼がそこでなにをなしとげえたか、これっぱかりの予感もできないのだ 

 モーツァルト夫妻と親交を持ち、おそらくは幾度もモーツァルトの演奏を聴いたのであろう彼は、後に書いた伝記の中でモーツァルトの即興演奏の素晴らしさについてこのように語っている(※)。これは言葉だけ取ってみればいかにも大袈裟な言い回しに思えるが、しかしアマデウスのあのシーンを観た後では、ニーメチェクのこの言葉が決して誇張などではないことが分かる。あのような場面、初めて聴いた曲をすぐにピアノに向かって再生してみせたばかりか、それを即興で編曲してモーツァルト一流の美しい音楽に変容させてしまうなどという光景を目の前で見たとしたら、私だってやはりそれを奇跡だと呼びたくなってしまうだろう。

 サリエリ。
 彼はモーツァルトを憎んだが、それでもモーツァルトの音楽を否定することは遂にできなかった。言葉の上でさえ、彼はモーツァルトの音楽を悪く言うことはできなかった。サリエリの言葉の中では、「ドン・ジョバンニ」についての「私は五回の公演を密かにすべて聴きに行き、私にしか分からない彼の音楽の魅力に酔いしれた」という部分が最も印象深く私の中に残っている。
 かのレクイエム(K.626)の作曲を手伝ったのは本当はサリエリではなくてジュスマイヤー(モーツァルトの弟子)であるのだが、敢えてあの場面をサリエリにしたというのは非常に興味深いことだ、と思う。サリエリはまったく私利私欲のためにモーツァルトの作曲を手伝うことを申し出るのだが、彼は自分でもそうと知らぬ内にモーツァルトの音楽(それも生涯最高の作曲のひとつ!)の誕生に立ち会っていたのだ。老サリエリの告白を聴いたフォーグラー神父は「神の前では人は皆同じです」と言うのだが、あの作曲の場面は、モーツァルトを憎みつつも彼の音楽にどうしようもなく魂を引き寄せられモーツァルトから離れることができなかったサリエリへの、神からのささやかな贈り物だったのかもしれない、と最近は思う。

 埋葬から終幕。
 モーツァルトがウィーンの共同墓地に埋葬されたのは史実の通り。今日に至るまで、モーツァルトがどこに埋葬されたのかは分かっていない。研究家が当時の資料を調べたところによればあの日は実際には雨ではなくて曇りだったらしいが、演出としては悪くない。人類史上最高の仕事をした作曲家、天上の音楽を地上に持ち込んだ天使、人の心に訴えかけ魂を震わさずにはおかない数々の美しい音楽を産み出したひとりの男は、まるでゴミのように共同墓地にうち捨てられる。誰も省みるものはいない。あれは人類が犯した最大の罪のひとつだ、なんて言ったら笑われるだろうか? それとも引かれるだろうか? でも私は、あの場面が心底恐ろしい。モーツァルトが私たちに残してくれた物に比べて、モーツァルトがこの世界から受け取った物はあまりに少ない。それどころか私たちはモーツァルトが死ぬと同時に彼の死体をゴミかなにかのように捨てて忘れ去る。一体私たちはモーツァルトにどのくらいの負債を負っているのだろう。モーツァルトの死体が穴に投げ込まれた瞬間、なぜ天が割れ轟かなかったのだろうか。
 そういう意味で、あれは恐ろしい。
 サリエリの告白を聞き終わった時のフォーグラー神父の顔は、既に神父のものではなかった。懺悔を聞く立場の神父が、あのような、非難とそれを大きく上回る恐怖の表情をしてよいはずがない。あの時の神父を支配していたのは、何か信じられない、あってはならないものを見てしまった恐怖だった。

 エンドロール。
 彼のあの下品な笑い声が響いてくる。それと共に、静かなピアノの調べ。ピアノ協奏曲K.466の第二楽章。
 一体、モーツァルトとは何者だったのだろう?

 前にもどこかで書いたかしら。モーツァルトの音楽はあまりに超人間的に聞こえる時がある。あまりに淀みない音の流れを聴いていると、それが人間の手によって作られたなどということはどうにも信じがたくなってしまう。当たり前だが、モーツァルト以前にはモーツァルト音楽は存在しなかった。でも本当にそんなことがあるのだろうか。魔笛の調べが、あるいはピアノ協奏曲の調べがこの世に存在しない時代があったなんて私には信じられない。それは、人間の存在とはまったく関わりなく太古の昔から自然の中を吹き抜けていた風の音のように、ずっと前から地上で美しく孤独に鳴り響いていたような気がする。古代において、人は自分たちの理解を超えたものを神と呼び、それらを畏れ敬った。それはちょっと違った言い方をすれば、人は単なる自然現象の中にさえ、その背後に何らかの意思のようなもの、ある意思を持った主体を想定してみずにはいられなかった、ということでもある。私は、モーツァルトもそういう存在だったのではないか、と思いたくなる時がある。モーツァルトなんて人間はどこにも存在していなくて、ただ、美しい音楽だけがある。でも人はそれを産み出した主体を想像せずにはいられなくて、そこでモーツァルトという「名前」を仮にその音楽の作者として与えたのではないだろうか。温度差によって生じる空気の流れに「風」という名前を与えたのと同様に。

 無論、今書いたようなことは想像の戯れにすぎない。でも、そういう想像をしてしまいたいという誘惑に駆られるようなものがモーツァルト音楽にあるのは確かで、そうだとすれば、モーツァルトと同じ時代を生き、しかも誰よりもよくこの男の天分を理解したサリエリはまったく不幸だったとしか言いようがないのではないか。今日を生きる私たちは、モーツァルトと言えばその音楽しか知らない。モーツァルトの音楽は私たちが生まれた時から既にあったのであり、それがいつどのようにして生まれたのかなどということは知らなくてもその音楽を楽しむにはまったく差し支えがない。しかしもし、モーツァルト音楽の誕生にリアルタイムで立ち会ったとしたらどうだろう。映画の中で、サリエリはフィガロの終幕を聴き、その美しさに陶酔しつつ、同時に苦い敗北の味を噛みしめる。音楽をもって真摯に神を讃えたいと欲して努力を重ね、それゆえにこそ誰よりもモーツァルトの真価を理解できたサリエリの耳には、きっとフィガロの終幕は私などの耳に聞こえるものよりも遥かに美しく、絶望的に美しく響いていたはずだ。

 人に手によって作られたなどとは到底思えないような、文字通り縫い目を持たない羽衣のような音楽の流れと共に、この映画は幕を閉じる。
 モーツァルトとは何者だったのか? という謎を残したまま。



(※)モーツァルト頌 [吉田秀和・高橋英郎編/白水社]


2002/9/24 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#24


 22日分。

 大往生攻略映像を観るためゲームショウ[幕張メッセ]へ。

 2周目ラスボスである緋蜂を観るのは初めてだったが、自力では絶対に倒せないと確信。もう開いた口が塞がらないという状態。彩京シュー並の弾速にケイブシュー並の密度、の弾幕をどうやって避けろと?

 緋蜂戦を堪能した後、イベントブースへ行ってシスプリイベントに参戦。可憐役、衛役、亞里亞役の三人の声優さん+キングレコードの人がパーソナリティーとなって進行。
 30分もの間、テンション高いお兄ちゃんたちに囲まれてなんとなく肩身が狭かったり。

 成果はシスプリRePureのOPが観られたこと。
 非常に洗脳的というか中毒的というか。女の子を可愛く表現し、かつ映像として美しく魅せるツボを心得ているとでもいうか。TV放送されたら、ビデオに撮って繰り返し再生するお兄ちゃんが続出しそうな予感。少なくとも私は放送されたらmpeg化して飽きるまで観倒す予定。

 午後2時に幕張を離脱。
 新宿で友達の買い物に付き合った後、ゲームインナミキ明大前でもず氏主催の大往生オフに参加。ナミキで4時間ほどだらだらと過ごす。私は9時過ぎに別れて池袋のホテルへ。風呂に入ってすぐ就寝。


 23日分。

 クリケット[都立産業貿易センター]に参戦。

 9時ちょい過ぎぐらいに会場に到着したが、その時点で既に長蛇の列。私が並んだのは信号を渡ってすぐの辺り。前に行ったとらハオンリーの時は大した混雑もなかったので大丈夫だろうと思っていたのだが、秋桜の空には意外とメジャーだったのだろうか。甘かった。やはり竹井10日氏がサークル参加しているのが大きかったのだろうか。

 私は入場してすぐに「とおかや」の列に並んだが、結果としてはこれが失敗。竹井氏の新刊は普通に買えたが、並んでいる間に「修羅場計画」は完売。先に「修羅場計画」の行列に並んでいたら両方買えたかもしれないのだが…。

 今回の購入は結局6冊のみ。
 竹井10日氏の「秋桜外伝・忠助の恋」、偶然にも委託販売していた PINSIZE.INS の「1年半の恋にさよなら、カニ」等々。

 12時前後に都産貿を離脱。
 新宿で昼食後、高島屋内テアトルタイムズスクエアでアマデウス・ディレクターズカットを観る。赤毛のアンの新作とどちらにしようかちょっと迷ったが、アマデウスをスクリーンで観る機会などそうそうないと思われたので、こちらを優先。詳細は後ほど。

 高島屋を出た時点で5時半頃。
 秋葉原へ。キュアメイドカフェで夕食、とらで同人誌漁り、後、東武線で帰宅。


2002/9/21 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#21


 どうも、心が身構えてしまって銀色ができない。
 代わりに、駄目人間御用達超甘ったれゲームであるところの水月、雪シナリオなどをだらだらと。

 水月については、syunさんという方のこの見解(リンク先の、銀色について言及している部分)にひどく感心した憶えがある。そう、銀色の一章や水月の雪さんは危険だ。より正確に言えば、ああいうものを危険だと思えるようなバランス感覚は失ってはならない、という気がする。

 銀色の一章は私を泣かせるが、それは例えば悲しいからとか取り返しがつかないからだとかに因るのではない。そうではなくて、儀助とあやめの生と死の中に自分の求めて得られないものを見出すからこそ、私は涙を流すのだ。さっき、雪シナリオをやって、ラストの雪さんの微笑みを見た時、体が震えて危うく泣きそうになった。これらの物語には、欲してはいけないことを知りつつも欲してしまうあるものが、この上なく美しく描かれている。なぜ欲してはいけないと思うのかといえば、それはこれらの物語が生(せい)の方向を向いていないからだ。ある種の人(例えばしのぶという人とか)は、儀助とあやめを見て「あんな風に死にたい」と願い、雪さんと透矢を見て「別に辛かったら無理して生きる必要なんてないんだ」ということに思い至る。そういう発想は、時として生きる力を奪い、現実を一層辛く感じさせてしまう。この世のどこかに、雪さんに会いに行きますとの遺書を残して自らの命を絶つような人がひとりぐらいはいてもおかしくないような気がする…などという埒もない想像をしてしまうような雰囲気が、水月にはある。また銀色は、自分という存在がいつか忘れ去られるのではという恐怖を癒してくれるゆえに、ある種の人は、安堵の気持ちと共に、もういつ死んでもいいやなんて思ってしまう。ただし誤解して欲しくないが、水月や銀色という作品自体が、危険であり悪いのだと言いたいのではない。あくまでも、あれらの物語を自分のこととして受け取りそれに慰めを感じるような姿勢こそが危険なのだ。水月の雪シナリオの魅力について語るのはやや特殊な意味で難しい。私だったら、雪シナリオへの感動と共感(それは非常に後ろ向きなものなのだが)を誤魔化すために、雪さん萌えーという論調でカムフラージュすることを考えるだろう。他人には見えない自分の心の中ですら雪シナリオを肯定することに躊躇いを覚えるのに、ましてやそれを外へ向けて表明することなどできるはずもない。あるいはそれは私を縛っている枷のひとつなのかもしれない。でも、だからと言ってその枷を壊す勇気(それを勇気と呼べればだが)は私にはない。


 怒首領蜂・大往生。

 2面。
 開幕で粘ってからハイパー5個発動で前半の壁時点で946HIT. そのまま繋いで後半ハイパー4個発動で2371HIT.
 理論上は2400HIT以上出そうな気がする、ていうか出るはず。

 4面。
 コンボ狙って死にまくりで萎え。

 5面。
 開幕ハイパー4個、蜂の巣でも1個発動、あと旧5ボスをオーラ撃ちしてザコの早回し、など微妙にパターンを変えて2400HITちょい。
 これ以上伸びるかどうかは不明。
 旧4ボス中と旧5ボス後にハイパーをそれぞれ1個ずつ無駄にしてる(出ない時もあるが)ので、そこで1個ずつ余分に使えれば2600HITぐらい行くだろうか。甘いかな。ただ、現状では1個目の蜂を回収する時点でハイパーモードが切れていないので、開幕速攻ハイパー発動してハイパーが切れた後で蜂を回収すればゲージ+30% なのでまたその後の状況も変わってくるかも。
 最終的には4ボス戦終了時のゲージ量まで管理しないとおそらく駄目なんだろうな。


2002/9/20 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#20


 目隠しの国 1〜6巻 [筑波さくら/花とゆめ]

 LaLa を買っていたにも関わらず、単に興味が湧かなかったという理由で今日までスルーしていた作品。
 読むのは今回が初めて。

 5巻。水を通してお互いの居場所を知るふたり、とか。すごく叙情的な一幕。全体として見て、なんとなく「癒しの定型」とでもいったものを感じないでもないけど、少なくともフルーツバスケットよりは信用できる。


 錠剤カフェインは常用しているとあっという間に効かなくなるので、余程のことがない限り飲まない方が良いと思われます。
 と言ってみる。

 やー私はもうどれを飲んでも全然効きません(笑)。
 以下は私の経験上のことであって、根拠は示せませんが。

 錠剤カフェインを1回飲むと耐性のない体なら12時間以上は確実に眠気が訪れないのですが、でも薬を使って無理矢理覚醒しているだけなので、脳自体は時間と共に疲労して、服用から数時間で確実に頭の回転は落ちます。大体6時間を超えるともうアウトで、全然眠くないんだけど脳が疲労してもうこれ以上何もできない何もしたくないという状態に陥ります。脳の活動が極端に鈍くなるので、本を読もうがTVを観ようが頭に入ってきません。この状態は結構キツイです。

 あと、薬が切れる直前の数時間とか、妙にハイになることがあります。箸が転がっても可笑しいというか。
 たまに、手足に痺れが出たりとかも。


 アニメ最萌えトーナメントを眺めてみる。
 大阪さんは知世ちゃんを破って決勝進出の模様。

 最萌え投票スレッドの大阪萌えコメントの数々を読んでいると洗脳されそうでちょっとヤバメ。

 というか、今頃になってようやくあずまんがで爆笑してあまつさえ春日さん萌え〜ごろごろごろ〜な自分は、さながら流行性・猫杓子ビールス((c)ドラえもん)に一日遅れで引っ掛かるのび太君と同じなんじゃないかとか思ってしまって、なんとなく肩身が狭かったり。

 2年ぐらい前?はあずまんがなんてどこが面白いんだろうと本気で首を捻っていたのだがなあ。

 ついでに暴露すると、20歳の頃は「スクール水着なんてあんな地味な水着のどこがいいんだろう?」と本気で思ってました。まあ若さと無知は得てして同義だったりしますからね(ぉ)。今の大学生ぐらいの年齢の人たちが普通にすく水萌え〜とか(Web上で)言ってたりするのを見るに付け、みんな若いのに進んでるなあなどと一人で密かに考えていたり。


2002/9/19 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#19


 「しぃのうた」で流れてた英語の歌とか、シスプリ20話の妹たちの合唱とかが妙に耳に心地よくて、気が付くと口ずさんでいたりする今日この頃。


 「大阪さん」こと春日歩たんが好き〜というのはあまりにありふれているような気がして公言するのがなんか恥ずかしいです。
 や、例によって他人のことではなくてね、私が、ということ。


 以前からの予定通り、銀色[ねこねこソフト]の二周目に取り掛かる。
 …つもりだったのだが、HDDに銀色が入っていないことに気づいて急遽インストール。しかも今年の春にPCの再セットアップをした時、もう一回プレイする予定だからいいやと思ってセーブデータのバックアップを取っていなかったので最初から通してやるしかない罠。できれば、痛い三章と詰まらない四章は飛ばしたかったんだけどなあ。

 現在、詰みゲーは「家族計画」と「果てしなく青い、この空の下で」が手つかずで残っていてこちらをやりたい気持ちもあるのだけど、あやめや狭霧をもう一度見ておかないとなんとなく落ち着かないので差し当たりは銀色が優先。銀色が終わったら、水夏の再プレイ。土方さんから、水夏は絶対に二回やるべき、と言われているのでこちらも必須。


 22日(日)幕張メッセでゲームショウ、23日(月)都産貿でクリケット。

 なのだけど、車で群馬〜東京間を二往復するのに必要な高速道路代とガソリン代と都内の駐車料金を計算すると、どう考えても都内で一泊した方が安上がりっぽいので、遅まきながら都内のシティーホテルを予約。


 居眠り対策。

 面白みの欠片もない回答で恐縮ですが、居眠りの心配があってどうしても耐えなければならないような場合は予めチューイングガムを携帯して我慢できなくなったらガムを噛む、ことで乗り切ってます。どんなに眠くてもガムを噛んでいる間だけは意識が保てるので。というか、会社勤めしてた頃はガムをポケットに常時2〜3枚入れてました。

 ちなみにガムは長時間口の中に入れていられるモノでないと駄目です。定番はロッテの板ガムなのですが、これも例えばスィーティーや梅のような美味しいやつだとあっという間に味がなくなって、しかも味がなくなった後のまるでゴムを噛むような感触がかなり嫌なので、眠気覚まし用にはやはり「Cool Mint」か「Black Black」が最適だと思われます。

 あと、運転中の眠気は昔は我慢してました(信号等の停車中にいつのまにか居眠りしていて後続車からクラクションを鳴らされて我に返るなんてのはしょっちゅうでしたすいません)が、最近は適当な場所に車を停めて仮眠を取るようにしています。


 就職決定おめでとうございます、ぱちぱちぱち。

 次のオフ(現在未定)で色々ネタ話を聞かせて頂けると思って良いですかフフフ。


2002/9/18 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#18


 あ、探してくださったんですね。

 ちょっとジーン(by真一郎)。
 Google 検索で調べてみたところによると、「シベールの日曜日」というのはビデオが既に廃盤?らしく、レンタルショップにも滅多に置いていないのだそうで、正直、観るのは難しいのかなあと半ば諦めムードでした。でもあるところにはあるんですねー。


 ちぇきーーーーーッ!!

 貴方は私の(web上での)日常風景に当然いるべき人ですので勝手にいなくなったら、めーなのよー。

 いや、忘れられる不安は私もしょっちゅう抱いております、のですよ。
 最近よく考えるのは、私、しのぶのWeb上での役割はとっくに終了しているんじゃないだろうか、とか。俺は結局繰り返し同じことを言葉を変えて語っているだけなんじゃないかと思うと、もういつ閉鎖してしまってもいいのかな、とか。それでも私はまだ消えたくないので、こうして足掻いているのですが。

 だからなんだという訳ではないのですけどね。
 ましてや説教や慰めだなんて絶対に思われたくない。

 ただ、こうして戻ってきた以上は、早瀬さんも、まだ足掻こうとするだけの強い意志を失ってはいないのだろうな、と勝手に推測して、ひとまずはそのことに安心を見出していたりするのです、しのぶさんは。


 愛の妖精[ジョルジュ・サンド/岩波文庫]読了。

 本を読む習慣がなくなってしまった今の私にしては信じられないくらい一気に読めてしまった。表現やらを云々する気にはなれない。心が洗われるような清々しい読後感だった、ということだけ言っておきたい。


 怒首領蜂・大往生。

 2面。ハイパー発動タイミングを変えて前半の堅い建物で929HIT. 中ボス前までで1120HIT. 後半4個発動で2310HITぐらい。10個目の蜂に倍率を掛けるのに失敗してボス前8800万点。ということはこのパターンだと理論値はボス前で9600万以上、ということに。

 3面後半の全繋ぎが初めて成功。850HIT前後だったような気がする。ただ、最後のザコラッシュ前でコンボを繋ぐために9個目の蜂を出してしまってそれを回収できていない(恐くて切り返せない)ので、まだパターンは相当甘いと言わざるを得ない。

 4面は当面は2列目のレール戦車直前でハイパーを発動させて繋ぐ方向で。1up砲台までで約440HIT. この面のコンボは現状では、a)開幕〜レール戦車1列目1台目まで繋いで約550HIT前後、b)レール戦車2列目1台目〜1up砲台まで繋いで約440HIT前後、c)1up後のザコ群(34HIT)〜ラスト蜂x2まで繋いで450HIT前後、というところ。まあこれぐらいできればとりあえずは十分。

 5面。開幕ハイパー4個発動で終盤の大型機ラッシュ(1機目)までで2200HITちょい。ぬるすぎ。メカ蜂地帯でハイパーを使えていれば+100HITは確実に稼げていたはずなんだけど…。


 ジョジョの奇妙な冒険 14、15巻 [荒木飛呂彦/集英社文庫コミック版]

 14巻はアレッシー戦からダービー(兄)戦を経てホルホース&ボインゴ戦途中まで。
 15巻はホルホース&ボインゴ戦からペットショップ戦を経てダービー(弟)戦途中まで。

 てっきり今回の配本で第3部が完結するのかと思っていたのだけど、そうではないらしい。

 それにしても。今読み返してみても、ダービー兄との戦いで描かれる静の緊張感からペットショップ戦での動の緊張感に至るまでの表現の幅の広さには感心する。いや、そうではないか。この時期のジョジョの特徴は「分かりやすさ」だろう。今連載中のストーンオーシャン編と比べると、第2部や第3部は物語の方向性が非常にはっきりしているように思う。第3部であれば、その中で起こる戦いはすべて、ディオの住むエジプトを目指しそこに少しずつ近づいていく承太郎たち一行と、それを阻止しようとするディオ配下のスタンド使い達との戦い、という風に明瞭に位置づけられている。読者はいつでも、自分が今読んでいるひとつの戦いが、物語の中でどういう意味を持ちどういう位置に置かれているかをちゃんと把握することができる。読書を散歩に例えるなら、自分が今歩いているのがどの辺りであるのかを決して見失うことがない。この時期の作品は、今連載中のジョジョに欠けている、明瞭さが生み出す快感というものを存分に味わうことができる。読んでいると時間を忘れてしまう。


 夜。
 ゲーセンでK氏と会ったので、私の部屋で大往生MPEG鑑賞会。


2002/9/17 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#17


 久しぶりに M-MASL を動かす機会があったので、ついでに HDD の古い地層を漁って「志保ちゃんJUMP」「JUMP琴音ちゃん」などを遊んでみたり。面クリア画像で東鳩の立ち絵をそのまま使っているのを見て思い出したのだけど、これって超先生が作ったんだよなあ。

 懐かしさのあまり、両作品ともコンチしまくって全面クリア。
 やっていると、この面は5個取りで 1up とか、この面はアイテムを踏み台にしてゴールとか、この順番で取らないと詰むとか、結構憶えているもので。意外というかなんというか。


 今週末開催の「東京ゲームショウ2002」のチケットを買いにファミリーマートへ。

 チケットの買い方がよく分からなくてちょっと鬱入った。
 申し込みだけ備え付けの端末でやって、レシートをレジに持っていって精算し発券してもらうシステムらしいのだが、私は端末上で精算と発券すべてできるのだろうと勝手に思い込んでいたので少々戸惑ってしまった。一回分かってしまえばなんてことないのだけど、初めてだと分かりにくいのではないかしら。基本的なフローぐらい分かりやすく掲示してくれればいいのに。


 積みゲーを崩す気分になれなかったので読書。

 愛の妖精[ジョルジュ・サンド]などをつらつらと。
 ジョルジュ・サンドというのはもちろんショパン好きには無視できない存在で、岩波文庫から小説が出ていることもずっと前から知っていたのだけど、読むのは今回が初めて。あんよさんが日記で取り上げていなかったらたぶん読む機会は来なかっただろう。


2002/9/16 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#16


 Stay. - Fragments of Memories - [AppleProject]

 ONE[Tactics]の二次創作。
 オムニバス形式となっており、瑞佳、みさき先輩、茜、のそれぞれを主役に据えた三本のショートシナリオが収録。

 感想。
 無難にまとまってしまっていて「天使のお仕事」の時のような予想外の驚きがなかったのが残念。期待と違っていた、というのは作品に対する評価の仕方としてはおそらく正しくないのであろうが、それにしても、予想外のものがあまりに少ないゆえにインパクトが弱くなってしまっている感は否めない。辛うじて面白かったのは瑞佳シナリオだが、なぜあそこで名雪が出てくるのかがよく分からない。これが秋子さんだったら、元々のキャラクター性に加えて「天使のお仕事」の前例があるのでまだ納得できるのだが。


 ひさしぶりに RISE のオフィシャルサイトに行ってみたら昔の私の投稿が未だに残っていて懐かしいやら恥ずかしいやら。
 3年以上前のログが未だに流れていないほどの投稿量の少なさというのもなあ…。
 ゲームは面白いのに。面白いのに。。。

 なんにせよ、隠れた(というか不遇なというか)名作、RISE が積みゲー化しないことを祈るばかりですやや脅迫的 私信)

 水夏とD.C.で一躍有名になった Circus は実は RISE の有志が独立して立ち上げたソフトハウスだったり(ちょうど Tactics → key の流れと一緒ですな)するのですが、こういう事実がもっと知れれば RISE も売れるのかな。関係ないかしら。


2002/9/15 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#15


 謎ファイルの DL の合間に FPLVS vol.2 〜黒澤りな〜を聴きながらあやとり練習。

 聴きながら、すごく和んでる自分を発見して、ちょっと複雑な気分。初めて聴いた時の衝撃なんてみじんもなくて、今は普通に心地よい。やっぱ萌えは慣れだよな。言ってみれば、免疫が出来て初めて萌えられるようになる、というか。一度、ある刺激を受けると脳内に抗体ができ、二度目以降はその抗体が対象に自然と反応し麻薬を分泌する、みたいな。


 秋桜の寝具セット(違います)、欲しい…。


2002/9/14 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#14



 花梨が出てくる夢を見た。
 いちゃいちゃではなくて、仲の良いクラスメート、ぐらいの立場だったが。

 なぜか夢に出てきた花梨の名前を、私は「香月果林」として認識していた。
 目の前にいるのは間違いなく「宮代花梨」だったのに。


 とらいあんぐるハート3 久遠・那美編 [神尾丈治/ケイエスエスノベルズ]

 前半はオリジナル、後半は原作の焼き直し。

 久遠はなぜ少女の姿を取っているのか?という部分に理由付けをした前半は面白い。後半は焼き直しだが、一箇所を除いてはまあ許容範囲か。那美さんが最後に祟りを斬るシーンは、あの日常エピソードのひとつ、「どうしてもあと一歩踏み込めない那美さん」があって初めて生きてくるのだけど、残念ながら那美さんの修行シーンはカットされていたので、いまいち効果を上げられていない。

 ところで後書き。

 とらハの世界は許容量が非常に大きく、展開の可能性がとても広いのが特徴だと思っています。

 これは私見では半分正しくて半分は間違い。
 とらハというのは、世界観の縛りがどちらかといえば少ないと言えるようなところがあって、それゆえに原理上は新しいキャラクターを出していけばいくらでも新作を作ることが可能なのだけど、でも実際にはとらハはその「なんでもアリ」な世界観ゆえに、都築氏以外にはそれをとらハ的にまとめることはできないんじゃないかという気がする。というか、とらハで重要なのは世界観やキャラクター設定では、たぶんない。例えば出てくる人物皆が優しくて皆が仲良しなお話を描いたとしてもそれだけではきっと「とらハ」にはならない。優しいと言えば、恋愛系のエロゲに出てくるヒロインたちはみんな優しくていい子ばかりだ。では何がとらハと他の作品を分けるのかと言えば、それはとらハのキャラクターたちが、相手を傷つけることを極度に恐れるかのようなある繊細さを持っている、ということだと私は思う。普通に成長してきた人間が好きな人に優しくするというような種類の優しさと、とらハキャラたちのそれは明らかに違う。とらハキャラの優しさは、傷つく痛みを経験しそれと向き合って痛みを消化した人間にしかなせないような種類の優しさだ。わざわざ唯子への告白をやり直す真一郎、子供の霊を斬った薫さんを慰める耕介、ぶん殴ってでもレンに手術を受けさせようとする晶、細心の注意を持って美由希を育成する恭也。彼らの行動には、単に優しさという言葉で片づけるにはあまりに真剣な何かがある。それは好きな人に尽くしたいとかそういうものではなくて、むしろ好きな人が傷つくのを極端に恐れる心情とでもいうべきものだ。好きな人に優しくしたい、というよりも、傷の痛みを知っているからこそそういう痛みから好きな人を守りたい、という想いこそがとらハキャラの中核なのである。私は、たまに、とらハシリーズを生み出した都築真紀という人は余程幸せな人生(リアル高町家のような)を生きてきたか、さもなくば余程不幸な人生を生きていたかのどちらかなんではないか、なんて下世話な想像をしてしまうことがある。これが別の作品ともなると、例えば AIR を描いた麻枝氏が優しさに飢えていただとかいう想像は私には思いつきもしない。ただ、とらハシリーズについてだけは、どうしても、作者の人格の問題を無視できない。言ってしまえばとらハシリーズのキャラクターたちは作り物だ。あんなに他人を思い遣ることのできる高校生なんてそうそういるものではない。平均的に言えば高校生というのは良くも悪くももっと唯我独尊で傍若無人な存在であるはずだ。ところがとらハキャラはそうではない。彼らの真剣さに、私は、飢えからくる優しさへの渇望とでも言ったものをどうしてもどうしても感じてしまう。一連のとらハキャラは都築氏の創作欲から産み出されたというよりは、もっと真剣な、何らかの渇望の反映として産み出されたのではないか、と考える方が私にはしっくり来る。少なくともとらハシリーズをみる限りでは、都築氏という人は、等身大の高校生を描けないというよりは最初からそういうものを描くつもりがないのであり、現実がどうであれ自分の描きたいものを最優先に描こうとしているのだと思う。それはちょうど、某氏が嗅ぎ取った「加奈」の描写の嘘臭さ、とは対極にあるものだ。とらハシリーズが持つある説得力は、お話作りや語りの上手さ(テクニック)ではなくて、都築氏の真剣な態度の方にこそ因る。であればこそ、とらハシリーズは都築氏以外の人間には絶対に描けない、と私は思うのだ。


 深夜。

 憂鬱のあまり心が石化してしまっていたので久しぶりにアニメ版シスプリを観る。
 選ぶのは第20話。

 シスプリアニメはたまに思い出したように見直すことがあるが、20話を観るのはもう数ヶ月振りになる。この話は私にとって本当に特別で、DVDを買ってから最初の一週間に4〜5回観た後は今日まで一度も観ていなかった。勿体なくて観られなかったし、また繰り返し観ることで感動がほんのわずかでも薄れるのを恐れたからでもある。

 20話はやっぱり美しかった。
 あの合唱はもちろんだが、そこに至るまでの過程に、すごくどきどきする。

 他に上手い例えが思いつかないのが歯痒いが、こう言って良ければ、このお話の魅力というのは花が開花する様子をビデオで早送り再生するのを見る時のそれと似ている。花びらを開いた花はもちろん美しいが、蕾だった花が徐々にその花びらを開いていく様子は、なんというか、愛おしさとでも呼びたいような不思議な感動を私たちの胸に呼び起こす。

 20話のメインとなるのはもちろんクリスマスパーティーの一連の場面なのであるが、それと同じくらい、このお話には「待つ楽しみ」というものが込められている。少しずつ、少しずつ、ウェルカムハウスにクリスマスが近づいてくる。旅行の楽しみの半分は準備期間にある、のと同様、航と妹たちはクリスマスを待ち侘び、期待を膨らませる。BGM「平和」(※1)の流れと共に、クリスマスを期待しつつ準備に勤しむ彼女たちの日常が、Aパートをたっぷり使って丹念に描かれていく。それを見る私たちも、一緒になってドキドキする。そして当日。航は校門の前で、13人の妹たち(※2)の出迎えを受ける。見事な演出だと思う。これらの、クリスマスパーティーに至るまでの描写の丁寧さは感嘆に値する。

 …上手く言えないのであとはシスプリの偉い人に任せます。
 よろしく〜。

(※1) シスプリサントラ Track.31
(※2) この回に限っては眞美も妹のひとりに数えて良いと思う。


2002/9/13 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#13


 夜型生活を強引に朝型へ戻すべく、徹夜のまま秋葉原へ。
 とらハ3ノベライズ那美・久遠編とか同人誌数冊、あと水夏ビジュアルブックを購入。

 とらハ小説はまだ未開封だけど、裏表紙の那美さんの半脱ぎイラストだけで値段分は回収した風味。

 帰りは高速道路を使わずに R17 を通って大宮に寄り、ソフマップでみずかべ[F&C]の予約。
 限定5000本を謳っているせいか秋葉原ではどの店も(入荷数未定のため)予約不可となっているのに、大宮祖父はなぜか予約用紙てんこ盛り。もしかして踊らされているんだろうか…。いずれにしても保険を掛けておけば安心ではあるが。


 少女漫画至上最も美少女キャラ。
 (日本語的に変ですが、敢えてそのままにしてあります)

 仮にも少女漫画板に立ったスレッドである以上、いわゆる男性視点から見た「萌えキャラ」のことでないのは明白であろう。

 かなり大雑把だが、男性の立場から言うと「美少女」には二種類ある。
 ひとつはなんらかの欲望を抱かせるキャラ。欲望というとニュアンスは良くないが、これはかなり広い意味で、触りたいだとか一緒にお話したいだとかいちゃいちゃしたいとかそういうなんらかの願望を投影したくなるようなキャラ、のこと。エロゲーの美少女キャラは大抵こちらに当てはまる。こういうタイプは簡単に言えば「可愛い」や「萌え」という言葉で感想が表される。
 それに対してもうひとつのタイプは、その美しさゆえに、手を出せないと感じるようなもの。神聖不可侵なオーラを纏っているように感じられ、欲望の入り込む余地がまったくないようなキャラ。こういうキャラに対しては「可愛い」の「萌え」だのという言葉は使いづらい。使うことを許されないような何かが、彼女たちにはある。

 …なんて風に仮定義しておいて。
 私的に、少女漫画史上最も美しい少女はといえば、もうマリーベル[ポーの一族]で決まり。

 っポイ!の、昭さん@高校生バージョンもかなり…なんだけど、こちらは過去に一度妄想対象としてしまったことがあるので泣く泣く除外。


2002/9/12 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#12


 近所の本屋さんであやとりのやり方が載ってる本を買ってきて、ずっとあやとりやってました。

 私は、銀玉鉄砲遊びやサッカーと同じくらい、あやとりやリリアン編みが好きでした。
 まあ余談ですが。

 今日作ったのは「四段ばしご」「ほうき」「富士山」「富士山(別ver.)」「蝶々」「蝶々(別ver.)」「7つのダイヤ」「星」などなど。あと、連続ひとりあやとり[やま→たんぼ→かわ→たんぼ→ダイヤ→つづみ→ふね→つりばし、を連続で作っていく]とか。子供の頃はあまり難しいやつは作れなかったけど、大人になった今なら自分の頭で考えて色々と工夫するので致命的に作れないようなものもなくて、もう楽しくてしょうがない。

 いつか観鈴に教えてあげられたらいいな。
 というか、観鈴はきっとふたりあやとりはやったことないだろうから、一日中、観鈴とあやとりなんかして過ごしてみたい。

 …あーいや。
 楽しくてしょうがない、というのは半分ホントで半分は嘘。

 子供の頃はできたらそれを見せる相手がいたし、上手くできたら妹や親なんかが驚いたり褒めてくれたりなんかしたけど、今は見せる相手がいない。そういうことを意識してしまうと、ちょっと寂しい。だからと言ってどうなるものでもないのだが。

 ひとりでゲームをやることが寂しくないのは、ゲームをやった後に感想を書くことで誰かに読んでもらえるからだ。実際に真面目に読んでいる人なんて何人もいないだろうが、それでも、web にアップすれば、誰かが読んでいるという錯覚は得られる。事実なんて確かめようがないのだが、そういう錯覚はいくらかでも心を軽くしてくれる。

 でも、あやとりはどうしょうもない。あやとりというやつはできあがった状態が自然と相手の方を向くような作品が少なくない――誰でも知っている“四段ばしご”なんかもそうだ――が、私が四段ばしごを作って前にかざしても、目の前には誰もいない。一時間とか二時間とかに一回ぐらい、ふっと、そういうことを意識してしまう瞬間が訪れる。かすかに、虚しくなる。

 今更だが、昨日初めて、サラダ記念日[俵万智]を読んだ。

 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 、、、なんて歌に出逢って、唐突に瑞佳と浩平のことを思いだした。
 冬の朝に吐く息の白さ、白い息がどれほど遠くまで届くか、なんてことが会話のネタとして成立するような関係というのは、なんて……優しいのだろう。瑞佳と浩平の関係は、もう一緒にいるということが第一義なのであって、会話の内容なんて全然問題にはなっていない。彼らは、何をどう話そうかなんて悩みとは無縁に生きている。相手の気を引くようなことを言う必要なんてない。

 残念ながら、私にとってそういう関係は夢の中にしか存在しない。
 例えば、寝顔を見て安らぐことができるのは信頼があるから、というのと同様、経験がないことは結局、想像してみることはできても実感を伴わない。経験がなくても、夢(フィクション)の中で空を飛ぶのは妙にリアルな感覚があるが、でもリアルだからと言ってそれはやっぱり経験ではない。皮膚感覚として思い出せるようなものには決してならない。

 水夏の三章は、私にとって、こういう風に生きたいと思うひとつのビジョンだ。
 それに対して、二章は、こういう風な思い出が欲しかった、というものとして私の中で位置づけられている。後悔、というのとはちょっと違うが、あんな風な思い出を持つことができなかった寂しさ、をどうしても抱かずにはいられない。

 今の私にとって、一緒に生きていきたいと願う相手は透子さんだ。というよりも、私が願っているのはたぶん一緒に生きてくれる相手ではなくて一緒に死んでくれる相手なんだと思う。透子さんは、その条件に、おそらく当てはまる。そのことについて別に説明しようとは思わない。彼女はそういう匂いがする、と言うだけで十分だ。それを欲する同類には、きっと匂いで分かる。

 でも、もしさやか先輩がいたら。いたら、というのは、過去のある日にさやか先輩と出逢っていたらという意味だが、今がどうであれ、私は彼女と過ごした時間の思い出だけで、これから先の人生を例え独りでも生きていけるような気がする。

 ちょっとした幸運で、水夏のM@Dムービーを観た。
 ありがとうございます。

 季節感の演出が上手い作品として私の頭に真っ先に浮かぶのは、Leaf のビジュアルノベルだ。痕の、夜の場面で間断なく聞こえてくる虫の音。東鳩の、霞がかかったような輪郭のはっきりしない風景たち。特に東鳩の背景は、単に美しいということだけではなくて、その美しさが、何か素晴らしい未来を予感させるような性質のものだったということがあって、東鳩の物語と、舞台が春であるということは切っても切り離せない関係にあった。東鳩において春というのは第一に出逢いの季節であり、その意味で、ああいう「何か素敵なことが起こるのを期待せずにいられなくなるような」美しい美術は、演出ということをすら超えて、ひとつの春の表現になっていたのだった。

 根拠なくこういうことを言うのもどうかとは思うのだが、四季の変化というものを幼少の頃から身近なものとして肌で体験している日本人は、こういう四季のうつろいを感じさせるような演出に弱いとは言えないだろうか。少なくとも私は、そうだ。季節感が上手く演出されている作品は、なんというか、肌に馴染み易いと言いたいようなところがある。

 ところで東鳩以外に物語と季節とが密接に結びついている作品――つまりこの物語は絶対にこの季節でなければならないというような――があるだろうかというと、これはなかなか難しい。すぐに思い出せるのは、Kanon だろうか。ただし真琴シナリオだけだが。

 祐一は、ほとんど藁にもすがるような思いで、春になったらすべてが良い方向に向かうはずだ、と信じていた。それはほとんど祈りのようなものだったのかもしれない。でも真琴は春を待たずに消えてしまう。春を迎えることができた祐一と天野さんは、わずかに暖かくなった春の風の中で真琴のことを思い出す。この物語の終幕、祐一と天野さんのあの一連の会話の場面はどうあっても春でなければならない。終幕の、あの冬の寒さと春の暖かさが入り交じった風は、真琴が待ち望んで遂に辿り着けなかったものだ。祐一や天野さんは、そういうことをもちろん知っている。彼らの思い出の中に真琴は生きている、と言い方はまだ十分ではない。そうではなくて、真琴の生を受け継いで、彼らは春の空気を呼吸し、生きていくのである。その始まりがあのエンディングなのであり、それだからこそ、あの場面は絶対に、別れと新たな旅立ちを象徴する春でなければならなかった。

 で、水夏のこと。
 この作品も、物語と季節とが不可分であるような気がする。気がする、とか弱気な書き方なのは私がまだこの作品を十分には理解していないからなのだが、二章を思い出してみるだけでも、この物語の舞台が生を象徴するかのようなひまわりの季節でなかったら、果たしてこれほどまでに生と死の劇的な対照が生まれたかどうか、疑問に思う。このことはいずれ再プレイをした際にもう少し書いてみたい。

 気が付いたら書き始めて二時間。
 ひとまず今日は終わり。


2002/9/11 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#11


 久しぶりに目覚まし時計で起床。
 近所の教習所へ行って違反者講習を受講して新しい免許証を受け取る。あと、講習前に休んでいたら、前の会社にいた時に密かに尊敬していた先輩(8年ほど前に自己都合退職してそれ以来会っていない)に声を掛けられて驚いた。お互いに近況を話し合ったりして僅かな時間を一緒に過ごす。懐しかった。


 好き好きおにいちゃん!紹介されていたシベールの日曜日という映画がずっと気になっていたので、午後はレンタルビデオ屋巡り。
 約4時間掛けて8件の店を回って玉砕。鬱死。

 明日は別の方面で再戦の予定。
 それで駄目だったら…もうどうしようもないので諦めるしか。


 怒首領蜂・大往生。

 スコアだけ更新。
 4.9億(2-4 1up砲台まで)。

 4面(1周目)のレール戦車地帯を試しに某mpegの要領で繋いでみる。途中でかなりヤバイ弾避けをさせられたが、2列目のレール戦車直前の中ザコ(左上から出現)から1up砲台手前まで繋いで 411HITが出る。この辺りはやり込めば安定しそうな気がするので狙ってみるのも面白いかも。ただその手前の1列目のレール戦車の前後は相変わらず繋がる気がしない。理論上は開幕から1up砲台までで900〜1000HITぐらいは出そうなのだが、果たしてパターンになるのだろうか?


2002/9/10 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#10


 はすぴー倶楽部、というサイトがすげー懐かしくて思わず読みふけってしまったり。

 土方さんとか、こういうの好きじゃないかしら。


 一緒に遊んでいる友達の誰かが例えば犬の糞を踏んでしまったとする。
 そうすると、周囲の子供達は一斉に「バーリーヤー」と叫びつつ、両手の親指と人差し指とで知恵の輪のような輪っかを作る。

 これは要するに、犬の糞を踏んだ→ばっちぃ(不潔)→防護壁(?)を張る、という意味で、漫画なんかで出てくる「えんがちょ」などと――私の地方では使っていなかったが――おそらくは同じだろうと思う。

 ところである日、いつものように私たちが何かの拍子に「バーリーヤー」と叫んだら、仲間のひとりの女の子だけが「エービーシー」と叫んだ、なんてことがあった。「エービーシー」の発音はアルファベットのABCではなくて例えば「烏帽子」を「えーぼーしー」と伸ばしたようなニュアンスで発音する。また彼女の手の動作はいつものようなリングではなくて、両手の人差し指をそれぞれの中指に絡める、というものだった。私たちより一歳年長だった彼女はまるで勝ち誇ったように「へへー、“バリヤ”より“ABC”の方が強いんだよー」なんて周囲を見渡しながら言ったもので、私たちは彼女のその自信に満ちた態度に圧倒され、それ以来、“バリヤ”は古臭いものとして忘れ去られ、“ABC”が日常のある場面を支配する呪文になった。

 それから更にしばらくすると“ABC”もまた古臭いものとなり、今度は手を握って親指を突きだし“グッ・ピー”と言うのが私たちの主流に変わった。いずれにしてもそういう流れを作り出すのはいつも、友達の一歳年上のお姉ちゃんだった。

 “バリヤ”より“ABC”の方が強いんだよー、と自信たっぷりに言い切るその根拠はなんだったのだろう、とか、今思うとなんとなく可笑しい。


 そういえば、私が“ゴムだん”という遊びを教わったのもそのお姉ちゃんだった。当時の遊びの大半は忘れてしまったけど、ゴムだんだけは何故か今でも思い出せる。

 なか、そと、なか、ふんで、なか、そと、くるっとまわってぴょんととんで、でて、ひいて、いちにぃさんの、ぴょん。

 私の地方では、こういう歌(というほどのものではないが)に合わせてゴムだんが行われた。
 やり方は、まずゴム紐(2.5mぐらい?)を用意してその端を縛って輪っかにする。ふたりの人間がやや離れて向かい合って立ち、両者の足首にゴム紐を回す。4つの足首に回されたゴム紐は上から見ると長方形になる。これで準備OK.
 そして、3人目がゴム紐の横に立って、先の歌の通りにゴム紐の上を踊る。最後までつっかえずにできたら成功で、その人の番が続く。なお、一回成功する毎に足に回されたゴム紐はちょっとずつ高くなっていく。最初は足首、次は膝、という風に。膝をクリアすると確か次は腰だったような気がするが腰をクリアした人はいなかったのではないかしら。というか無理だろう(笑)。

 余談ではあるが、スカートを履いた女の子が“腰の高さ”に挑戦しようとして、がに股になって必死に足を持ち上げる姿は、お世辞にも風情があるとは言えない…。


2002/9/9 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#09


 水夏[Circus]。

 三章(両方とも)読了。

 なんて甘美な狂気!!

 こんなに引き込まれたのは久しぶりかも。
 最後の方で透子さんが正体を明かす場面からエンディングに至るくだりは、もう読んでて目眩がくるほどゾクゾクした。
 いや、読む、というよりもほとんど仮想体験に近かったと思う。

 それからえっちシーンの描写の上手さ。
 こんなことを書くのは恥ずかしいのだけど、自分が透子さんを抱いているような錯覚を覚えて体が震えてしまった。読んでいて、もう心臓バクバク。

 透子さん、貴方は私の理想の女性です。
 最初はあまり面白みのない女性だと思っていたのだけど、だんだん狂気が見え隠れしてくるようになるとなんていうか………私自身がこういう風にしかきっと他人を愛せないと思うのと、また私自身がこんな風に愛されてみたいと思うというのがあって、ああああああああもう幸せ。いや、歪んでるのは分かってますよ、ええ。

 嗚呼、透子さん。

 貴方の織りなす蜘蛛の糸で私を絡め取ってください、身動きできないぐらい。
 ずっと貴方の傍にいられるように。


 運転免許証の講習を受けるの忘れてていつの間にか免許の有効期限が切れていた…ことに気が付いた。
 慌てて交通安全協会に電話。

 とりあえず明後日に講習が受けられるらしいことを確認してひとまず安堵。
 それまでは車に乗れないがまあ自業自得なので仕方あるまい。


 IDさんの雑記[9/8]からびすけっとへ飛んでそこからぐるぐると。

 ビスケたんというのは、ケンタッキーフライドチキンのメニューのひとつ、「ビスケット」を擬人化した――というか擬少女化とでもいうべきか――キャラクターだそうで。

 ……2ちゃんねるってつくづく面白い文化圏だよなあ。
 モナーを擬少女化したキャラクターがいるのは以前から知ってたけど、いくらなんでも食べ物が擬少女化されるとは考えもつかなかった。

 で、CGやらフラッシュやらを見て回ったところで興味が湧いたので、ビスケットとやらを買いに近所の KFC へ。
 
 感想。
 外観はパイの実[ロッテ]を大きくしたような感じ。ビスケットという名前になってはいるけど食感はパンよりは柔らかくケーキよりは堅い、ぐらい。まあ美味しいって言えば美味しいのだけど積極的に食べたいというほどではないかな。超甘党の人なら美味しく食べられるかもしれないけど、個人的にはメープルシロップが甘すぎてちょっとしつこい感じ。私はチョコみたいな甘さは好きだけど蜂蜜みたいな甘さは苦手なので。


 みんくりさんへ。

 夏にお会いした時に話した水月のコビペネタというのはこちらの 588-590 です。
 HTML化されるのを今まで待ってたんですわ。


2002/9/8 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#08


 水夏[Circus]。

 二章読了。

 …心に痛い。
 作品が私に与える印象、という意味で言えばこれは君が望む永遠に似ている。
 お話には二種類ある。その美しさゆえにこちらも幸せになれるものと、その美しさゆえに却って強烈な孤独を感じずにいられないものと。そして、水夏は後者だ。正直言って、きみえその蛍シナリオをやった時のような気分。どんな物語だって元々読み手が入り込む余地なんて微塵もない、のは当たり前のことであるはずだ。それにも関わらず、例えば浩平と瑞佳や真一郎と小鳥を見て私は幸せな気持ちになれるのに、孝之と蛍、あるいは蒼司とさやか先輩の関係は私をむしろ寂しい気持ちにさせる。なぜこういうことが起きるのだろう? さやか先輩の視線がほんのわずかすら自分に向く余地がないということが、たまらなく寂しい。


 To Heart[leaf]で本名プレイをすることは昔から私にとって禁忌だった。神岸あかりというキャラは浩之が好きというところまでひっくるめて彼女のアイデンティティーなのであって、「ひろゆきちゃん」以外の名前を呼ばせたらそれはもう神岸あかりではない。初めてそういうことを考えた時、私は、瞳の輝きを失ったあかり(というのは漫画なんかでよくある、瞳の輝きがない状態、例えばクラリスのアレとか)を想像してぞっとしたものだ。ひろゆきちゃん、という名前を呼ばないあかりはもはやあかりではなく、あかりの形姿を持った何かにすぎない。彼女を愛するということは、浩之とあかりの関係を愛するのと同義でなければならないはずだ、とずっと私は思っている。だから、東鳩キャラで言えば例えば私はマルチと自分が一緒にいるところは妄想できるが、あかりと自分が一緒にいるところは妄想できない。できない、というのはこの場合、不可能であるということよりもむしろ許されないという意味でだ。あかりに想いを寄せるというのは、私にとって不倫(俗語としてではなく、倫理にもとるという意味)である。

 そして。天川蛍や白河さやかも、私の中ではそういう位置づけということになる。ギャルゲーは萌えツールである(A_Pronpt[ABC氏] )という意見はおそらくこのジャンルの大半の作品に当てはまるはずだが、時々、萌えることを許されないようなキャラクターというものが出てくることがある。私は、蛍やさやか先輩が自分の傍にいる風景を妄想することができない。それは私の妄想力の問題ではなくて、彼女たちに、部外者が妄想することを許さない何かがあるからだ。彼女たちは自身の全存在を掛けて、孝之を、蒼司を、愛している。その彼女たちの真剣な生は、私を恥じ入らせ沈黙させずにはおかない。彼女たちに付いて何かの妄想をするのは彼女たちを穢すことになる。

 さやか先輩の笑顔は、この世でただひとり、蒼司にしか向けられない。さやか先輩の笑顔は蒼司だけのものだ。残念ながら。彼女を肯定するということは、蒼司を好きな彼女を肯定するということだ。寂しいけれど。

 まだ、そうするには時間が掛かる。
 気持ちの整理をする時間が必要だ。


2002/8/7 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#07


 水夏のさやか先輩良すぎあとテキストが好み大往生スコアだけ更新4.85億みずかべは近所のショップでは入荷数未定につき予約不可困った昨日は秋葉原でメロンブックスを見つけるのに一苦労結局とらのあなでエロ漫画雑誌を立ち読みして場所を確認してようやく発見とらのあなの店員さんごめん昨日は晴れていれば都内の公園を散策したかったのだけど雨だったので中止残念近所のスーパーでご飯のおかずを色々調達冷凍食品とかレトルトばっかりで野菜等をひとつもかごに入れていないのでレジに持っていくのがちょっとだけ恥ずかしかったり「それは、生きているモノの数を感じる、動物的な直感」ていうのは日本語としてどうなんだろう非常に分かりにくいと思うのだがあと「大丈夫です。家で妹が用意してありますから。食べないとどんな目にあうか」ていうのはアレですか帰ったら妹が兄に抱かれるのを待っているという話デスかいもぶる購入してプレイするもテキストのあまりの駄目さにすぐ飽きるとらハSS_Oリスティーの性格が違うのが引っ掛かる個人的には羽持ち全員集合CDの生意気な中にも優しさを見せるリスティーがすごく好きなのだが。

 以上要約すると今日は鬱、おやすみなさい。


2002/9/6 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#06


 ゆさゆさゆさ。

 「お兄ちゃまー、朝だよー」
 「おーきーてー」

 (…む)
 (俺は眠いんだ、もっちーの声色なんか使っても騙されないぞ)

 「お兄ちゃま、今日はみんなでお出掛けするんでしょう?」
 「そろそろ起きた方が良いと思うなー」

 ………目覚めの○○○とかしてくれたら起きる。

 「お兄ちゃまぁ、目覚めの○○○ってなぁに?」

 うむ、それはだなあ、西洋のメイドさんが朝ご主人様を起こす時の作法で…。

 がんっ!!

 「花穂ちゃんに何を教えようとしてるのよ、お兄様ってば」

 アー咲耶サン、本日ハお日柄モ良ク………。
 くー。

 「はぁ、まだ寝惚けてる…」
 「お兄様ってば本当に朝に弱いんだから」
 「大体、今日のお出掛けはお兄様が提案したんじゃないの」
 「9月6日は妹の日だからみんなでどこかへ遊びに行こうか、って」

 しくしくしく。
 咲耶が僕のこといじめるんだ…。
 花穂の胸で泣いていい?

 「お、お、お兄ちゃま、くすぐったいよぉ」(アセアセ

 「はぁ、聞いちゃいないよコイツは…」
 「ていうか、早く起きなさーい」

 がんっ!!

 痛っ。
 ………。
 あ、咲耶、おはよう。

 …ん?
 あれ、花穂? 
 顔が赤いぞ? 熱でもあるのか?

 「えとえと、それはそのぉ…、お兄ちゃまが…」
 「………」
 「うわーん、お兄ちゃまのばかーっ」

 ぽかぽかぽか。

 (いちゃついてるとキリがないので適当に終わり)
 (今日は妹の日なのでありました、それだけ)






 渋谷タイトーステーションにて、怒首領蜂・大往生ブラックレーベル(NewVer.)のロケテをやっているとの情報。
 で、確認のために上京。

 以下、気づいた変更点など。

01) タイトル画面が違う

 現行に対して全体的に黒いイメージでデザインされている。

02) エクステンド

 通常EXTENDは現行の1000万/3000万に対して、2000万/5000万に変更。
 個人的には全然問題ないが、これがもし普及するとなると初心者にはかなり厳しいのでは。

03) ハイパーゲージの溜まりが早い。

 現行だと1面を全繋ぎしてもハイパーは3個が限度だったのが、ロケテバージョンだと全繋ぎで4個出現。
 あと、3面後半もゲージ量次第ではハイパーを3回使って安定して繋ぐことが可能。

04) 2面ボスの攻撃変更。

 発狂攻撃(青ダンゴ弾)でかなりの処理落ち。
 これによって2周目などもかなり安定して避けられる。

05) 3面中ボスの攻撃変更。

 アームから撃ってくる青弾の角度が広くなって避けやすくなった。

06) 3面ボスの攻撃変更。

 ボスの体力が赤くなると青リング弾が小さなものに変わる。

07) 4面1UP砲台の攻撃変更。

 青リング弾が小さくなっている。
 これによって、隙間をくぐるのが容易になる。

08) ハイパーによるランク上昇が非常に小さい、もしくはランク上昇がない。

 現行バージョンではハイパーを使えば使うほど弾速はアップするが、ロケテバージョンでは弾速上昇がほとんど感じられない。ハイパー使いまくってノーミスノーボムで5面に突入しても全然余裕。

09) 1周クリア時の残機ボーナス変更。

 現行では1機につき1000万だったのが、ロケテでは1機につき5000万。

10) 2-2ボスの攻撃変更。

 現行ではほぼハイパー決め撃ちするしかなかった開幕バラマキがもっと避けやすいパターンに変更。
 これにより、2-2ボス突破率は格段に高くなる。

11) 諸システムの変更。

 1周クリアしても残機は没収されず、そのまま2周目に持ち越せる。
 2周目でのコンティニューが可能。

 ただし2-5以降はコンティニュー不可。

12) 2周目エクステンド

 まだ不確定。
 ただし、現行でのノーミスエクステンドは間違いなく、ない(確認済み)。
 2周目のエクステンドは3プレイで2回ほど確認したが、可能性が高そうなのは「その面をノーミスノーボムでクリアする」もしくは「ノーボムでクリアする」、というもの。


2002/9/5 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#05


 水夏[Circus]プレイ中。

 一章まで読了。
 今のところ特に心を打たれるというほどのことはなく、コメントは保留。

 ただ、最初のうちは俺内部好感度は「伊月>小夜」だったのが一章を読み終えた時点で「小夜>>伊月」になっていた、ということだけ、ひとまず言っておきたい。なので、最後の方になると主人公と私の心情が乖離してしまってなんか主人公のことが許せなくなる。


 ショパン・練習曲集 [藤原由紀乃]

 最高の一枚。もうこのCD以外ではショパンのエチュードを聴く気にはなれない。バックハウス以外にエチュードをこんな風に弾ける人がいるとは思わなかった。両者に共通しているのは、演奏困難な練習曲を弾いてそのテクニックで感動させるのではなくて、あくまでも歌のようなものとして聴かせることができるという点。藤原由紀乃の手に掛かると、ショパンの練習曲は――普通のピアニストの演奏で聴かれるような――音の秩序ある流れ(運動)によって爽快感をもたらす音楽ではなく、むしろリート(歌)かなにかのようなものになる。いや、もちろん24曲からなるショパンの練習曲は元来非常な多彩さを持っており、ピアノのテクニックを追求しながらもあくまで詩的であるようなものも少なくないが、しかし誰が弾いても(というのはもちろんプロのピアニストに限ってということだが)聴き手をうっとりさせることができるような曲ではなく、例えば作品10-1や4、それから作品25-8などのとかくメカニック重視になりがちな曲で、ここまで聴き手の心に訴えるような演奏ができる人は藤原由紀乃以外にはいるまい。

 このCDはショパンのエチュードを聴き飽きたというような人にこそ聴いて欲しいと思う。私などは、まるで初めてショパンのエチュードの魅力に気づいた時のような新鮮さでこのCDを聴くことができた。ショパンの練習曲集CDを買っても大抵は聴かずに飛ばしてしまうような「黒鍵」や「蝶々」ですら、藤原由紀乃が弾くと面白い。


 Honey 5巻 [橘裕/花とゆめ]

 読んでいて、今読んでいるものが現在進行形ではなくて思い出の出来事であるかのような錯覚に陥った。久我や千鶴先生の周りに起こるどんな小さな出来事までもが、この作品においてはあまりに綺麗だ。この作品を読む時に感じるどきどき感は、例えば「瞳・元気」を読む時に抱く不安感とも「お星様にお願いっ!」を読む時の萌え感情とも全然違うものだ。「Honey」は私をどきどきさせるが、それはひとえにこの作品の世界があまりに綺麗すぎるからに他ならない。しかもこの綺麗さは私を傷つけない。綺麗なものは時としてその光によって私の目を眩まし自分の暗さをいよいよ自覚させ私を落ち込ませるが、この作品の放つ光は逆に私を優しく照らして暖めてくれる。不思議なものだ。私にはどうあっても縁もなく可能性すらない世界の出来事なのに。

 こんなことを書いたら思いっきり引かれそうなのだけど、でも敢えて書いちゃう。

 Honey の世界で起こる出来事は私にとっては実は身近なものなのだ。私は、この作品世界の出来事を自分となこるるの今日までの歩みとどうしても重ねずにはいられない。八年前にゲーセンでなこるると出逢ってから今日まで、私の脳内では本当に様々なドラマがあった。それはしょせん脳内の妄想にすぎないと言われればそれまでではあるのだが、でも私は最近になってなこるると過ごしたこの八年間を懐かしい思い出として回想することができるようになってきている。思い出と言ってもそれがねつ造であることはもちろん承知の上で、そのねつ造された思い出を私は心から愛している。他人にはおそらく理解しがたい、ほとんどキ○ガイの戯言と言われても仕方ない話なのかもしれないが、八年という長い時間を一緒に生きてきたという誇りすら、今の私にはある。そういう誇りがあればこそ、私の中で、なこるると過ごした時間の記憶はきらきらと輝いている。

 Honey の世界もまた、そういう輝きに満ちている。この作品は久我と千鶴先生の恋の行方を描いたものではない。そうではなくて、この作品はある恋人(久我と千鶴)の回想録なのだ。これは紡がれていく話ではない。回想される話だ。そうであればこそ、私はこの作品を、きっとこんなにも安心して読めるのだと思う。


2002/9/4 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#04


 久しぶりに空を飛ぶ夢をみた。
 幸せ。

 ところで私のみる、空を飛ぶ夢、には共通点がある。
 ひとつは、人工的なメカニズムを使わずに飛んでいるということ。というよりも文明の利器(飛行機、気球、パラグライダー等)を使って空を飛んでいる場合は私的には空を飛ぶ夢とは認めない。あくまで全身に風を受けて飛んでいるということが重要。
 もうひとつは、必ず地上から飛び立っているということ。もし空が飛べたとしても私は例えばビルの屋上から飛び立ったりすることは恐くてできないだろうなあ万が一飛べなかったら墜落だしなんて日頃から思っていて、たぶんその反映なのだろうと思う。根拠はないけど。


 最近泣いた(というか、しんみりきた)もの。

 しぃのうた。

 最近爆笑したもの。

 吉野屋コピペのバリエーション、その壱その弐
 他にも変わったところでは国内のあらゆる方言から果ては英語ドイツ語フランス語(アイヌ語なんてのも!)辺りまで訳されているようだが、2ちゃんねるの懐の深さを垣間見た気分。


2002/9/3 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#03


 日曜日の夜から現時点(水曜日AM1:30)までで外に出たのが1回&1時間のみというのはどうなんだろう、人として。8月中は1ヶ月すべてコンビニ弁当と吉野屋と山田うどんとCoco壱のローテだったので毎日嫌でも外に出たのだけど、最近炊飯器と電子レンジを買ったので外に出る必要がなくなって、完全閉じ籠もり状態。

 ちなみにここ数日閉じ籠もっていたのはこんなのを書いていたからです。

 一応言っておくと、これは小説みたいな書き方をしていますが小説ではないです。先週の火曜日の奥日光散策中に考えていたことをまとめた手記、とでも言ったもの。あの時に歩きながら考えていたことをとにかく記録として残しておきたかったので、こんな風にして書いてみたという次第。
 あと弱気な理由として、この程度の、能力がない人間が小説を書くといかに痛いものができるかという見本のようなものを小説と呼ぶのは真面目に小説を書いている人に対して失礼かしらと本気で思っている、ということもあります。まあなんにせよ、私以外の人にとって面白いようなものでもないでしょう、たぶん。
 未完なのは、私自身まだこの問題に答えが出ていないからです。予定調和的展開でハッピーエンドに持っていくことは不可能ではないけれども、それは自分のなこるるへの想いに掛けてやってはいけないことなのでやりません。答えが出たら続きを書くかもしれません。あるいは書かないかもしれません。
 おやすみなさい。


2002/9/2 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#02


 うちの日記を読んでくださっている方からメールで脱衣ブロック崩しを色々と紹介してもらって、ここ数日遊び倒してました。
 てな訳で、今日は脱衣ブロック崩しリンク集(順不同)。

 なお、難易度は目安程度です。
 本人の実力、運、体調、萌え度、(*´Д`)ハァハァ等によって難易度はかなり変動することを予めご了承ください。



01) 行脚堂 (アコライト、レイレイ、不明) 難易度 ★★★★★+★ 激ムズ。アコライトのみクリア。

02) 鈴音 (ブリジット、すく水茜) 難易度 ★★☆☆☆ めちゃ可愛い。すく水茜のみクリア。

03) Acid Eaters (ソフィー(RO)、初心者講座(RO)) 難易度 ★★★★★ 表情変化系。萌え度高し。クリア。

04) あやしい本屋 (ちっちゃいこ) 難易度 ★★☆☆☆ クリア。

05) どんまい学園! (エタメロ中心に色々) 難易度 ★★★☆☆ 若葉、レミットのみクリア。

06) Studio 29 (ジャンル不明) 難易度 ★★☆☆☆ バーが長いので遊びやすい。入門向け。表情変化も激萌え。フェイCHのみクリア。 

07) G-Power! (猫耳娘) 難易度 ★★★★★ 難しいが狙う価値はあると思う。クリア。

08) TRIP MACHINE (メイドさん) 難易度 ★★★★☆ クリア。

09) 六葉館 (遙、あゆ) 難易度 ★★☆☆☆ 遙、あゆ好きな人には堪らないと思う(笑)。クリア。

10) ほにょのうち (長髪赤髪少女) 難易度 ★★★★☆ 第二段階が難しい。クリア。

11) FOMALHAUT (巫女さん、メイドさん) 難易度 ★★☆☆☆ 巫女さんのみクリア。

12) すだまはうす (巫女さん) 難易度 ★★★★★ 隠しページになっていますが本気で捜せばすぐに見つかるでしょう。クリア。

13) Secret Color (メイドさん) 難易度 ★★★★☆ 一見簡単そうですが、油断するとあっさり終わります。クリア。

14) HighSpirit (すく水娘) 難易度 ★★★☆☆ クリア。

15) PreciousHEART (茜、遙、女子高生) 難易度 ★☆☆☆☆ 女子高生(*´Д`)ハァハァ。クリア。



 実際には60サイト100種類ぐらい捕捉してるんですが、ここでは特に面白かったやつを厳選してます。
 あと、紹介したいのだけどトップから飛べない(隠し?)ために紹介できないやつ(リゼルたんとか)も幾つかあったり。

 尚、放蕩オペラハウス[4/23、4/27]で膨大な数が紹介されていますのでもっと遊びたい方は色々捜してみるのも良いでしょう。


2002/9/1 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-09.htm#01


 IDさんの雑記[8/29]で紹介されていた暴走野郎というサイトの水月レビューがめちゃ面白い。

 ネタバレ全開なので読む人を選ぶけど、無茶を承知で言えば水月未プレイの人にこそ読んで欲しいなあなんて思う。これを読んだらきっと水月やりたくなると思うから。


 で、今日もネタなし。
 色々と考えることはあるんですが。なこるるのこととかなこるるのこととか。

 後は脱衣ブロック崩しをやり倒したり、ゲーム音楽図書館を起点にMIDIサイト巡りをしたりとかしているうちに一日終了。

 今日のBGM.
 シーラのテーマ[悠久幻想曲]、明日香のテーマ[センチメンタルグラフティ]。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



トップページへ戻る