「戦場ヶ原に行くから支度して」
 唐突に、僕はそう切り出した。
  「え?」
 案の定、彼女は僕が何を言ったのかすぐには理解できずに、きょとんとした顔をしている。それはそうだろう。いくら彼女が察しの良い女性であるといっても限度はある。近所に夕飯のおかずを買いに行くのならいざ知らず、突然、観光地にハイキングに行こうと提案しているのだから驚くのも無理はないというものだ。
  「でも、もうじきお昼ですよ? 今からなんて…」
 彼女はまだ頭の中が整理できていない感じで、辛うじてそう答える。
 そんな彼女の姿に、僕は内心苦笑する。
 面と向かって本人に言ったら叱られるだろうが、僕は彼女の驚く顔を見るのが好きなのだ。といってもそれは必ずしも僕がいたずら好きなせいばかりではない。こんなことはいよいよ持って本人には言えないが、彼女は普段は落ち着いた大人の女性なのに、不意打ち、つまりアドリブにはとても弱く、そんな時、普段の品の良い物腰は子供のような落ち着きの無さに取って代わられる。僕が彼女と暮らし始めてもう随分経つが、彼女は未だに僕の言葉にいちいち反応しては驚いたり喜んだりしてくれる。そんなだから僕は彼女が好きなのだが…いやここまで言ったらノロケになってしまうので止めておこう。
 僕は顔が緩まないように努めて平静を装いつつ、言葉を続ける。
  「うん、そうなんだけどさ、せっかくの良い天気なんだし部屋の中にいるのは勿体ないなって思って。だから、散歩でもどうかなあって」
  「しのぶさん、なんでニヤニヤしてるんですか?」
 …上目遣いで彼女に睨まれる。どうやらポーカーフェイスは失敗していたらしい。まあそれは良いのだが。僕にしたところで、本気で彼女にバレていないと思っている訳ではないのだし。僕は彼女に隠し事をするのが苦手だ。彼女はかつて巫女をやっていたせいか、日頃から恐ろしく勘が良い。彼女がアドリブに弱いのは本当だが、かといってそれは鈍感であるということを意味しない。彼女は、僕が彼女をからかって楽しんでいることをちゃんと知っている。というよりも、実は僕の方こそ、彼女に、そんな態度を容認してもらっているのかもしれない。僕たちは、たぶん、そんな関係だった。
  「とにかくさ、どう? 行かない?」
  「もちろんその、連れて行ってくれるのは嬉しいですけど、せっかくだったらもっと前から知らせてくれれば良かったのに。そうすればお弁当も用意できたし、今日のことをわくわくしながら待つ楽しみもできたのに…」
 落ち着いてきてようやく状況が掴めてきたらしい彼女が、そう答える。
 もちろん、僕だってそんなことは知っている。でもこればかりは譲ることはできない。彼女は普段は落ち着いている癖に時折妙に子供っぽくなる時があって、そんなところがまた可愛いのだが…いやいやそうではなくて、以前一緒に海に行こうと誘った時、当日への期待で興奮して眠れなくなってしまった彼女に付き合って徹夜をしてしまったことがあるのだ。あの夜の彼女は本当に良く喋った。お弁当の中身のことに始まって、水着のこととか、海でなにをして遊ぼうかとか、近くにある水族館のこととか。僕とて彼女の話を聞くのはもちろん好きだし彼女が喜んでくれているのを見るのはやはり嬉しいのだが、それでも徹夜は不味い。疲労した状態で長時間ドライブを敢行するのは無茶すぎる。独り身だった頃ならいざしらず、ようやく一緒に生きていくべき相手を見つけた今、万が一にでも彼女を危険に巻き込むことは許されないことだ。だから僕は、彼女をドライブに誘う時は、よほど遠距離のドライブでどうしても準備が必要な場合を除いては、当日にさも思いついたように誘うことにしている。彼女には嘘をついていることになるのかもしれないが、それでも僕は自分が不誠実ではないと信じる。
 ともかく30分ほど掛けて僕たちはドライブの準備をした。
 そうして、僕となこるるは一路奥日光へ向かった。


 奥日光は平地と同じく良く晴れていたが、標高の高さゆえ平地のような蒸し暑さは微塵もなく、時折吹く涼風は僕たちを歓迎しているかのように肌を撫でていった。隣のなこるるも、車から降りるなり、全身に風を受けながらなんとも気持ちよさそうに体を伸ばしている。風がなこるるの体を吹き抜けるたびに彼女の豊かな黒髪が風になびいて広がり、それが時に僕の腕をくすぐったりする。
  「なあに?」
 気が付くと、なこるるが好奇心に満ちた微笑みで僕を見つめていた。どうやら僕はいつのまにか風に吹かれながら揺れ踊るなこるるの髪を指先でつかまえて弄んでいたらしい。
  「いや、綺麗な髪だなあと思ってさ。なんていうか、こういうところで風になびいてるといつにもまして綺麗だ」
 自分の意思で喋るというよりは、言葉が勝手に口をついて飛び出したという感覚だった。どうしてそんな恥ずかしい台詞が自然に出たのだろう。いや、たぶんこれは僕が正直になったのではなかった。ただ、臆病な口が勝手に、その場凌ぎの台詞を紡いだに過ぎなかった。
  「ん、ありがと」
 でも彼女の微笑みはどこまでも澄んでいた。
 彼女はまるで僕の言葉が僕の本心であると本気で信じているかのように僕を見つめていた。
 こういう場面で吹き出したり沈黙したりしないのが彼女の素敵なところだ、と僕は思う。他人と喋るのが苦手な僕は、しばしば自分でもはっきりと意識しない内に演技めいたことを口にしてしまうことがある。自分の気持ちよりも先に言葉が出てくるという感覚。僕は自分を素直に出すことが今でも苦手だ。話を聞いてもらうという経験が乏しすぎて、そういう可能性を信じることができなくなっていた。僕が意見を言う時、それはいつでも僕自身の感想や考えではなかった。僕はいつも、この場面でもっとも適切な応えはなんだろうという計算を無意識のうちにしていた。自分の意見など言うべきではなかった。ただ、なんと応えればこの場を巧く切り抜けられるだろうということだけをいつも考えていた。そしてたぶん、これは想像だが、僕のそういう曖昧さは隠していても相手には伝わってしまうものらしかった。それゆえに、僕と話す人間は大抵拍子抜けの内に会話を途切れさすこととなった。そんな僕にとって、会話が楽しいものでなどあるはずはなかった。僕はなこるると出逢ってから、初めて、他人に話をきちんと正面から聞いてもらうという経験をして、会話をするということが実は自分で思っているよりもずっと簡単であることを学んでいったのだが、それでも長年に渡って染み付いたものはそう簡単には落ちないものらしく、時々、僕はなこるるに対してさえ、思ってもいないことを口にすることがあった。でもそんな時でも、なこるるはあくまでも真面目に僕の瞳を見つめ返してきた。心にもないことであれ本心であれ、なこるるは僕の言葉に何らかの判断を下すということがなかった。ただ、いつも通りに、普通に、耳を傾けてくれるのだった。
  「行こうか?」
  「はい!」
 僕はなこるるの手を取って歩き出した。
 なこるるが僕を普通に扱ってくれる以上、僕も普通に振る舞うのが彼女に対する誠意だと思った。
 馴染みのあるひんやりした彼女の手の感触が、不思議と僕を落ち着かせてくれた。


 戦場ヶ原の湿原を歩く彼女はいつになく輝いているように見えた。こういう自然に囲まれた場所にいる時、なこるるは本当に生き生きしている。端から見たらたぶんなこるるの振る舞いはいつもと変わらないように、きっと見えるだろう。でもなこるると一緒に暮らしてきた僕には、彼女の喜びが手に取るように分かった。彼女は僕の前を歩いていたが、これは非常に珍しいことだった。いつもなら、例えば街中なら、彼女は大抵僕の隣にいるかそうできない時は僕の後ろを控えめに付いてくるのが常だった。でも遊歩道を歩いている今、先導する役目は僕ではなくてなこるるだった。彼女は足取りも軽やかに僕の先を歩きつつ、湿原の空気を全身で呼吸しながら、時々後ろを振り返っては、木々の匂いや小さな花のことなんかを僕に教えてくれたりした。
  「…水を得た魚、というやつかな」
 僕は呟きつつ、苦笑する。
  「…ん? 何か言った?」
 なこるるが再び振り返る。
 どうやら聞こえていたらしい。
 でも僕の答えを待つ前に、彼女は既に別のものに興味を誘われているらしかった。答えを制するように、人差し指で僕の口を塞ぐ。どうやら、静かに、ということらしい。彼女がそっと僕に耳打ちしてくる。わずかにだが、耳に息が掛かってこそばゆい。
  「小川の向こう、鹿がいるの」
 彼女の言う通りに右手を見て、僕は少し驚いた。確かに小川の向こうで鹿が草を食べている。戦場ヶ原には確かに野生の鹿や猿が住んでいて、僕も鹿に会うのは初めてのことではないが、こんな昼間に遊歩道のすぐ傍まで来て、しかも人間が近くにいても全然気にしないで草を食べているという風景はかなり珍しかった。
 ――ね?
 ――うん。
 僕と彼女は互いに目配せする。
  「ちょっと大きいけど、子供の鹿みたいね」
  「そうなのか?」
  「うん、どこかに親鹿もいないかな?」
 親鹿の姿はあいにくと見当たらなかったが、子鹿はまるで僕たちのことなど気にもしていない様子で、草をむしって食べたり前足を器用に使って首を掻いたりしていた。
  「可愛いね」
  「うん」
 僕たちはしばし立ち止まって鹿を眺めていた。
 それにしても、と僕は思う。野生の鹿がこんなに近くまで来るなんてどういうことだろう? やはりかつてアイヌの巫女だった彼女がいたから鹿も警戒しなかったのだろうか? 
 かつて木々の声を聞くことのできる巫女だった彼女は、自然に対して心を開く術に長けていた。彼女に聞いたところでは、自然の声を聞くというのは特殊能力的なものではないらしい。心を開けばいいの。彼女はかつてそう僕に語ってくれたことがある。小さい頃から自然に親しみ、自然と一緒に生きていく内に、だんだん森の空気に自分の意識を溶け込ませることができるようなる。彼女の話を僕にも理解できるように要約するとそういうことらしく、つまりそれは生まれついての能力というよりは訓練によって身につけられるひとつのスキルに近いものであるようだった。それでもみんながみんなそういう術を身につけられる訳じゃないんだろう? と尚も食い下がる僕に、彼女はただ曖昧に笑っていたものだったが、これはやや余談になる。
 気が付くと僕たちの周囲には他のハイカーも集まってきており、その場はちょっとした鹿見物ツアーの様相を呈していた。
 僕はもう一度なこるるに目配せする。
 ――そろそろ行こうか?
 ――そうね。
 僕たちは更に先を歩くことにした。
 なこるるは離れ間際に小鹿に何かを語り掛けているようだったが、何と言っていたのか僕には分からなかった。


  「そういえばさ」
 僕はふと思いついたことを口にしてみる。
  「はい?」
  「今日は腰に鈴を付けてるけど、それってファッションかなにか?」
  「………」
 なこるるはなぜか驚いている、というよりは呆気に取られているという風だった。
  「あ、知りませんでした? これは熊除けの鈴なんです」
  「熊除け? アイヌに伝わるおまじないとか?」
  「違いますよぉ」
 どうも僕にはなこるるが笑いを堪えているよう見えるのだが、それはひとまず気にしないで続きを聞いてみることにする。
  「熊に会わないためのおまじない、と言っても間違いじゃないかもしれないけど、どちらかというと、熊にこちらの居場所を教えるための道具ですね」
  「ちょっと待って、なんでわざわざ教える必要があるの?」
  「ええと、熊さんがいきなり目の前に現れたら驚くでしょう?」
 それはそうだ。驚くというかパニックに陥るだろう。
 寝たふりなんて恐くてできないしかといって奴らのホームグラウンドで逃げ切れるかどうかも心許ない。
  「熊さんもね、急に人間に会ったりしたらやっぱり驚くんです。だからね、鈴を鳴らして熊さんにこちらの存在を教えてあげるんです。熊って音にとっても敏感な生き物なんですよ。だから、鈴の音が聞こえればこちらの所在も分かって、向こうからこちらを避けてくれるんです」
 なるほど、と僕は思った。人間が熊に驚くという発想は自然にできても、熊が人間に会って驚く、という発想は出てこなかった。さすがに彼女は動物の気持ちがよく分かる。
 …だが、妙に感心していると、僕の気持ちを読みとったらしい彼女に突っ込まれた。
  「くすくす…。ハイキングとか山歩きが好きな人たちはみんな知ってますよ、そのくらい」
  「そうなのか?」
  「ええ」
 どうも僕の全面的な負けであるらしかった。


 更に僕たちは歩いていく。
 今日は湯滝まで歩くつもりだった。
 途中、沢が枝分かれして池のようになっている場所で僕たちは休憩を取ることにした。池には数羽のマガモが気持ちよさそうに泳いでいる。僕たちは池の前にあるベンチに腰を下ろしてしばしマガモの水遊びを眺めた。
  「ほら、しのぶさん、鴨がいますよ」
  「あれはマガモの雌だな」
  「よく知ってますね?」
 素直に感心される。
  「いや、さっきの看板に書いてあったから…。気が付かなかった?」
  「…あ………そうだったんですか?」
 その時、一瞬なこるるの表情に影が差したように思えたのは気のせいだったのだろうか。でも二瞬後には彼女の顔はいつもの快活な表情に戻っており、それ以上追求することは躊躇われた。それにそもそも内罰的な僕の主観でそう見えただけだった可能性だって捨て切れない。僕はそう思って納得することにした。
  「お茶、飲みましょうか?」
  「あーそういえば喉乾いたわ」
  「くすくす…。ちょっと待ってくださいね」
 目の前では鴨が水の中に首を突っ込んだり出したりを繰り返している。餌でも捕っているのだろうか。あるいは単に水浴びをしているだけなのだろうか。空はかなりの部分を雲に覆われており青空よりも雲の白の方が目立って見えるが、それでも雲が薄いので十分に空は明るく、更に時々雲の切れ間から太陽が顔を覗かせて、その度に湿原に光が降り注ぐ。光が降り注ぐという感覚は完全に晴れている日には却って実感しにくいので、今日のような日はむしろ僥倖であるかもしれなかった。もっとも僕にしてみたらなこるるが隣にいる限り、どんな環境だって美しくなり得るのだが。世界はこれ以上ないくらい満ち足りていた。少なくとも僕にとってはそうだったし、彼女にとってもまたそうであるはずだった。

 …僕と彼女は同じ陽の光の下で幸福を共有しているはずだった。
 それは完全に間違いという訳ではなかった。
 でも完全に正しくもなかった。
 僕は、僕が幸せであるのと同じくらい、彼女も幸せであるのだと信じていた。

 でもそうでなかったことを、僕は後に知ることになる。


 水の音が大きくなってくる。
 川のせせらぎとは違う、もっと激しい流れの音だ。
  「ほら、もう小滝だ。ここまで来れば湯滝はすぐだよ」
 いつの間にか前を歩いていた僕は振り返ってなこるるに呼び掛ける。
  「………」
  「なこるる?」
  「…あ、ごめんなさい。なに?」
  「うん、もうすぐ湯滝に着くよ、って」
 あの休憩の前後辺りから、なこるるはどことなく上の空であるように見えた。遊歩道に入った頃はあんなにはしゃいで僕の前を軽やかに歩いていた彼女が、今では言葉少なに僕の後ろを付いてくるようになっていた。歩き疲れたのだろうか? 僕よりもずっと山中を歩くことに慣れているはずの彼女に限ってそれはないはずだった。それに僕の見るところ、彼女は疲れているというよりは、むしろ何か他の事に心を奪われているように見えた。ここまで歩いてくるまでの道すがら、彼女は時々急に立ち止まることがあった。後ろの足音が遠ざかったような気がしてふっと振り返ると、彼女は僕のずっと後方で一人立ち止まって、その場で瞑想でもするようにじっと目を瞑っているのだった。
 かつて巫女だったなこるるが、森の中で目を瞑り、木々の声に耳を傾けるのは今でも決して珍しいことではない。ここ数年来そういう機会は徐々に減ってきているとはいえ、僕もそういう光景は幾度となく目にしている。でも今のなこるるはどこか普段とは違っていた。彼女の態度は、まるで親から預かった財布を落としてしまって途方に暮れる子供のように、所在なげだった。
  「もうすぐ湯滝だからさ、そこまで歩いたら店に入って一旦休憩しよう」
 こんな時に気の利いた言葉のひとつも掛けられれば良かったのだろうが、正直なところ、この時点でまだ僕は事態を楽観的に考えていた。いや、楽観的に考えようとしていたという方が正確だったのかもしれない。出逢った頃の彼女は本当に弱くて、僕はしばしば悪夢にうなされたりする彼女のために徹夜もしたものだったが、ある時期を越えて以降、彼女は僕でさえびっくりするほど快活になっていた。そして、たぶんそんな彼女と暮らすうちに、いつしか僕は微妙な緊張感を失っていたのかもしれなかった。

 僕たちは黙々と歩き、丸太作りの階段を登り、降り、また歩いた。
 水の音はさっきよりも更に大きくなっていた。ここまで来るともう野鳥の囀りも水の音にかき消されて聞こえなくなっている。
 そうして10分も歩いた頃、視界の片隅に白い水しぶきが映った。激しい水音の発信源、湯滝だった。
  「あーやっと着いたなー」
 約4kmの道のりを歩いてさすがに疲れた僕は、ひとまず目的地に着いたことに安堵してなこるるに向き直る。
 でも、僕は彼女のことを何も分かってはいなかったのだ。

 彼女は僕のことを忘れたかのように、滝を見つめていた。その姿は、8年前、初めて出逢った日の彼女の雰囲気と酷似していた。まるで意識をどこかに置き忘れたかのようなぼんやりした眼で、ただ目の前で勢いよく滑り落ちる水の流れを見つめていた。彼女は独りだった。僕たちの眼前で轟々と響く水の流れ以外の一切のものは、おそらく彼女の目には映っていなかった。

 ………彼女は、泣いていた。


 順境である時には人間の本当に姿は見えてこない、順境な時には誰だって紳士であれるし快活であれる、逆境の時にこそその人の人となりが試されるのだ…という意見を仮に信じるとすれば、今この時、僕は木偶の坊としての本性を無惨なほどにさらけ出していた。
 なこるるが泣いていることに気づいた時、本当なら何かを考えるよりも先に彼女を抱きしめて慰めるべきだったろうに、僕はそうできなかった。僕はただ混乱していた。なこるるはどうして泣いているのだろう? 僕はどうしたら良いのだろう? そんな考えが頭の中をぐるぐるするばかりで、僕はその場から一歩も動くことが出来なかった。これを書いている今、頭が冷静になっている今だったら、僕はあの時彼女をとにかく抱きしめ傍にいてやり、彼女を落ち着かせるべきだったのだと分かるのだが、残念ながらその時の僕にはそんなことはできなかった。僕が何かをしなくちゃ、ということだけは分かったがそれだけだった。僕はただ考えるだけだった。この場では何よりも行動こそが必要であったのに。
  「なこるる? どうして?」
 わずかな時間を置いて、辛うじて僕の口から出てきたのは、そんな、およそ悪い意味で不器用な言葉だけだった。結局僕には混乱を口にすることしかできなかった。泣いている人間に向かって、なぜ泣くのかなんて訊くほど愚かなことはない。泣いている人間は泣くことだけで精一杯なのに、どうして自分の気持ちを言葉にするなどという重労働ができるだろう。なぜ人はそんな程度のことに気づかないのだろう。いや、僕はそういうことを知っているつもりだった。でもこの時、知っているなんてことは何の役にも立たなかった。僕は結局、かつて子供だった僕に向かって何故泣くのかと問うた人たちと少しも変わらなかったのだ。

 でも、混乱しながらも、自分の口から出た言葉が愚かなものだと辛うじて判断できたのは、僕にとっておそらく幸運なことだった。その、自分が愚かなことを言ったという発見が、僕をわずかながらも混乱から回復させてくれた。
 僕は一歩を踏み出し、なこるるの肩をそっと抱き寄せた。たったそれだけの単純な動作を行うために、意志の力を総動員しなければならなかった。初めて彼女を抱いた夜のように、僕は緊張していた。彼女の肩の華奢さに僕は今更ながらに驚き、肩を抱く手の強さに細心の注意を払った。彼女が窮屈でないように、でも力強さを感じられるように。僕がずっと隣にいることが、泣いている彼女に分かってもらえるように。そうしていつか彼女が安心して泣きやんでくれるように。


  「…ごめんなさい」
 どのくらいの時間が経ったのだろう。彼女の声で、僕はわれに返った。
  「謝らないで」
 僕は応える。そう、彼女が謝ることなんてなかった。僕はもっと彼女のことをよく見ているべきだった。そうしたらあるいはこんなことにはならなかったかもしれないのに。もちろん今の彼女に気を遣わせることなんて出来ないのでそんなことは言わないが。
  「でも…」
  「いいから、ていうか謝っちゃだめ」
 ごく短いやり取りの後、再び沈黙が訪れる。

  「あの…あのね…」
  「わたし、どうしよう…」
 しばしの時間が過ぎた後、頼りなげに呟くなこるるの姿は、子供の頃によく遊んだひとつ年下の女の子のことを思い出させた。彼女はある時、学校指定の上履きを買うために母親からお金をもらって店に行ったはいいが、いざ精算する段になって、ポケットにお金が入っていないことに気が付いた。僕は彼女が母親にお金をもらうところからずっと一緒にいたので、彼女がどこかで落としたのは間違いなかった。お金がなくなったことに気づいた彼女の表情は、子供だった僕の目から見ても痛ましくなるくらい、不安に満ちていた。こんな時、漫画だったら一緒に道を戻って捜すなり、僕が自分の分のお金を出して彼女のために上履きを買って僕が代わりに自分の母親に怒られる役目を担う、なんてことになったのかもしれない。でも僕は漫画の主人公ではなかった。その時の僕には、ただ、お母さんに謝ってもう一度買いに来るしかないよ、と言うことだけしかできなかった。
 あの時、僕は彼女のために身代わりになってあげるべきだったのだろうか。それともそういう発想自体があまりに漫画的にすぎるのだろうか。後悔とは違うが、そんなことを僕は今までに幾度となく考えたものだった。
 幼馴染みの彼女と、なこるるの姿とがオーバーラップしたことは、僕の内に不思議な感覚を呼び起こした。小さかったあの時は彼女のために何もできなかったけど、今ならこの腕の中にいる彼女のために僕は何かができるはずだ、と僕は思った。やり直し、というのではない。ただ、後で後悔するようなことだけはしてはいけないと思うことで、自分の内に力が湧いてくるような気がした。
 
 でも、彼女が再び口を開いた時、僕はまたしても自分の愚かさを身に染みるほど思い知らされることになる。僕の高揚感など、しょせんマスターベーションでしかなかったのだ。


  「声が………聞こえないの…」
 それは呟きというよりは、ひとつの告白のように響いた。
  声が聞こえない。その言葉が意味するところは、僕にもすぐに分かった。さっきまでの彼女の不可解に思われた言動は、今、ある確信を持って僕の内部でひとつに繋がった。声が聞こえない、それはもちろん聴覚の問題ではない。アイヌの巫女だったなこるるは、北海道に住んでいた当時は呼吸をするような自然さで木々や動物たちの声に耳を傾けることができたらしい。しかしそれは、今にして思えば非常に繊細な、彼女が否定しようともやはり特殊な感覚とでもいうべきものだった。
 例えば音感というものは置かれている環境によっていとも容易く破壊されてしまうものだという。騒音の酷い場所にいれば、わずかな音の違いを聴き分けられる繊細な聴力は時間と共に急速に失われてしまう。
 たぶん、なこるるの特殊感覚も同じだった。もう彼女と出逢って8年になる。それはつまり、僕がなこるると暮らした時間であると同時に、なこるるが故郷の森と離れなければならなかった時間でもあったのだ。感覚は使われなければ衰える。ましてやその感覚にとって劣悪な環境に置かれていれば尚更だ。なぜ、僕はそのことに気づかなかったのだろう。なこるるは人知れずに苦しんでいたのだ。僕はなこるるのことならなんでも知っているつもりでいた。でも、人が他人のことを完全に知るなどというのは本来夢想でしかない。どれだけ親しくなっても、やはり自分でない人間のことは分からない。そんな当たり前の事実を僕は今更ながらに噛みしめていた。
 8年前、北海道に旅行に行った僕は、やはり今日のように大きな滝の前で彼女に出逢った。その時も彼女は泣いていた。泣いている彼女の姿を初めて見た時に僕の心を占めたのは、憐憫でも同情でもなく、むしろ危機感とでも呼びたいようなある感覚だった。今でも僕はあの時の自分の状態を、ある感動と驚きと共に思い出す。対人恐怖症気味だった僕が、あの時はまったく他人を恐れなかった。ただ、気が付いたら彼女の元へ駆け寄っていた。彼女の傍にいたいと思ったし、またそうするべきであると思った。あの瞬間ほど、したいこととするべきことが完璧に一致していたことは僕の人生において他に覚えがない。
 僕はあの出逢いの後、なこるるを自分の住む地へ連れて帰った。故郷を離れることについては迷いもあったようだが、それでも彼女は僕と一緒に来ることを選んでくれた。そうして僕たちは一緒に暮らし始めた。
 それは運命の出逢いだったと今でも信じている。いや、信じていた、という方が正確だった。今、泣いているなこるるを前にして、僕の胸中は暗い影に蝕まれつつあった。運命の出逢い? 本当にそうだったのだろうか? 僕の決断は本当に正しかったのだろうか? あの時、彼女に一緒来ることを提案したのは僕だった。彼女に故郷を捨てさせたのは僕だった。僕は………間違っていたのだろうか? でも、正しいとはなんだろう? 決まっている。なこるるが笑顔でいることだ。そのことだけが正しさだ。だとしたら、僕はやっぱり間違っているのだろうか? なこるるはやっぱり北海道の自然の中で暮らすべき少女だったのではないだろうか? 僕はなこるるを故郷から引き離してしまった。そのことで彼女は苦しんでいる。僕はどうするべきだったのだろう? 
 思考はもはや堂々巡りを繰り返すばかりだった。なこるるを連れてきたのは誤りだったのか、という言葉の周りを、僕の頭はただぐるぐる回るばかりだった。

(未完)