■日記、あるいは雑記■


過去
【1999年】
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【2000年】 1月2月/3月/4月/5月/6月

文責 しのぶdie_zauberflote@lycos.ne.jp


2000/3/26 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#26

■Lien〜おわらないきみのうた〜

 2周目その4。柚シナリオ。良いといえば良い話なんだけど、なにかインパクトに欠けるというか…。忌憚なく言えば、他の三人のシナリオと比べると「おまけシナリオ」みたいに見えてしまう。

 おまけと言えば、今日やっとおまけのボーカルCDを開封。OP&EDを初めてちゃんと聴いた。良い歌だ。それと共に、副題の解釈についても、EDの歌詞を聴いて確信が持てた。というか、この歌詞の中で、副題の意味は誤解の起こり得ない明瞭さで語られているではないか。

 全キャラ2回ずつプレイして、晶と柚のCG各1枚、その他2枚が空白。もう1周ぐらいしないとダメかなー。ただ、晶のお風呂CGとかみたく意外なルートで見つかるものもあるので、探すのは難儀しそうな予感。

■怒首領蜂

 ふと、近所のゲーセンを覗いてみたら怒蜂が置いてあるのを発見。久しぶりにプレイ。

 1回目、C-Sで2-2エンド、1.18億。
 2回目、B-Lで2-5エンド、1.19億。
 3回目、C-Sで2-5エンド、1.90億。(1-6ボスまでノーミスノーボム、1周1.3億)

 1周目は気合でなんとかなるのだが、2周目になると繋ぎパターンはおろか避けパターンまで忘れていて、ボム連打状態。敵弾が速く感じる辺りもブランクの無情さを物語っている。(泣)
 本気でリハビリするとしたら一ヶ月ぐらいはやり込まないとダメだろうけど、その熱意があるかどうかは甚だ疑問。元々、怒蜂をやめたのもワンミスの重みに耐えきれなかったからだし。


2000/3/25 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#25

■RW

 会社で休み時間にお喋りをしていたら、CD-RWの「RW」を「read_write」だと思っている人がいた。気持ちはすごくよく判るんだけど…。(苦笑)ちなみに、ツッコミは入れなかった。(ォ

■Campus(DC版)

 Campusがコンシューマー移植されるとなると、18禁表現がすべてカットされるのはまず確実だろうが、えっち三昧だった舞子シナリオは果してどうなるんだろうとかいうことが気になったりする。舞子シナリオは他のシナリオと比べるとそれほど高くは評価されていないように見受けられるが、可愛い絵柄と濃ゆいテキストとのギャップが私は結構好きだったので、その意味ではえっちシーンが無くなってしまうのは惜しいなーと思う。
 まぁDC_Campusに関してはそれ以前の問題として、彩女さんがスポーツバッグを持って家に来てくれないという時点で買う気90%ダウンなのだけど。(爆)

■Lien〜おわらないきみのうた〜《ネタバレ注意 》

 Lienをやるのは月曜日から5日振り。今週はなぜか仕事疲れが酷くて毎日8〜10時間ぐらい寝ていたため、ゲームが全然できなかった。まぁ適度に間を空けるのも良いかもしれないが。

 2周目その3。若葉シナリオ。なぜか、自分でもよく判らない理由で、私は若葉シナリオを完全に受け入れられない。ストレートに言えば、エピローグで再会が語られるのが気に入らないのである。晶シナリオやみなもシナリオと比べた時、この再会が、私にはなにか「染み」のようなものに思えてしまう。なぜ、よりにもよってヒロインの成長ドラマが核になっている若葉シナリオで再会が語られるのだろうか? その必然性は…?
 また、別れがやけに感傷的なのも引っ掛かる。本来なら、若葉こそ(晶やみなも以上に)志郎を笑顔で見送るべきではなかったろうか。もしそうなったら、若葉シナリオの別れこそ最も悲しくまた最も美しい別れになりえたはずだ。若葉シナリオはとてつもない名作になり得たはずなのに、詰めの甘さゆえにその機会を失ってしまった。
 悔しい、と言いたいほど、惜しいシナリオだった。


2000/3/24 (金)
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■思いついたこと(備忘録)

 少なくともそれなりの体裁を持った音楽批評は、ある一曲を何百回も聴いて、徹底的に楽譜と照らし合わせ、更に関連文献を十分に調べた上で書かれる。
 それに比べると、(私のものも含めて)ネット上に数あるゲームレビュー、批評、考察、研究の中でそのような苦労を払って書かれたものがあるだろうか。ロマン・ロランがベートーヴェンとその音楽についてしたように(※)、徹底的に調べぬいた上で書くという姿勢を誰が持っているだろう。ゲーム批評とその他の分野とでは、書くことの意識においてすでに全然ちがう、という気がする。もちろん、そうするには前提として、対象が全力を傾けるに値する(信じるに値する)ものである必要もあるのだろうけど。
 私たちのやっていることは、結局どこまで行っても素人の戯れなのだろうな。


ロランは作家だが、長大かつ優れたベートーヴェン研究論文を書いている。
全集を参照のこと。


2000/3/23 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#23

 なんとなく、マジカルエミの最終回3部作が見たいのだが、どっかにビデオあったろうか。
 一応、実家に行けば、魔法少女シリーズ5作(モモ、マミ、ペルシャ、エミ、ユーミ)は全話録画したのがあるんだけど、ただ10年以上前のやつだから映るかどうか不安だし、それ以前に母に捨てられてしまった可能性大。

■おおはじ

 なんかBBSでリアンについてのツッコミが。
 念のため(信用してないとかって訳じゃないのよ〜)、本屋に行って仏和辞典を当ってみる。

  lien−絆
  rien−何もない


 …どうやら間違って記憶していたものらしい。(滝汗)
 まぁなんにせよ『絆』なら判りやすいタイトルだと言えるだろう。

■究極の選択

 面白いので紹介。これを深刻だと思える人は同志。(笑)


2000/3/22 (水)
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■40,000HIT

 達成。いつも来てくれる人に心からの感謝を。

■Lien〜おわらないきみのうた〜

 「おわらないきみのうた」という副題が意味するところは、もしかしたら「いまでもライムの声を聴く」(by阿梨さん)と同じような意味合いだろうか。


2000/3/21 (火)
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 突然、お寿司が食べたくなったので、近所のお寿司屋さん(注、ただの回転寿司です)に行く。

■Ribbon2

 以前から気になっていた、オープニングの謎を試してみる。

・【校門前沖田→教室いいんちょ→屋上いいんちょ→校門前×7】で遥&友達CG。
・【音楽室安奈→廊下沙雪→廊下×5】で果林出現。

 果林はちょっと得した気分。(笑)うーん、Ribbon2再プレイしたいなー。

■同人CGとか

・『1/4の破片(かけら)』[A Piece of Quarter]雨音颯

とらのあなで見つけた時、どっかで見たような絵だなーと思ってたのだが、よく見たらSilberMoon/RainyBlueの原画家さんだった。
内容は真琴CG尽くしで私的にかなりメロメロ。(古語)
SilberMoonももう1回やってみたい気がする。ただし、あのヘボなMIDIによる「G線上のアリア」を、ネット上で拾ったもっと良いやつに置き換えて。(爆)

■Lien〜おわらないきみのうた〜

 CDの中におまけとかって入ってないんだろうかと思って探してみると、インストールディスクの方に「おまけ」なるフォルダを発見。htmlファイルを開いて、冒頭の挨拶?でいきなり爆笑。もっともこのネタをパッと見て笑えるなんて言うと年齢がバレるだろうか?(苦笑)

 んで、ついでにLienの原画家さんであるところのやまいもとろとろ氏のサイトを覗いてみる。
 …Lienの読みは、「リアン」であることが判明。ちと驚き。
 何ヶ月か前、雑誌でこのタイトルを初めて見た時、もしかしてフランス語か?と思いつつも、考えすぎだろうとひとり納得していたのだが、もしかして私の直感は当っていたのだろうか。もっとも私はこの言葉を、単にルイ16世のエピソード(※)の中に出てくる言葉として知っているに過ぎないので、正確な意味とかは判らないのだけど。

 ま、差し当たりはIME辞書の登録を変更するのが急務。

(※)
ルイ16世は、バスチーユ監獄が陥落した日の日記に「何事もなし」という意味で一言「lien」とだけ書いたらしい。
ひとまねこざるだった高校生時代には、私も自分の日記に、ちょっと気取って「lien」なんて書いたりした。

 それにしても、副題である「おわらないきみのうた」からして意味がよく判らないというのに、この上「何事もなし」では正直手に負えない気がする。


2000/3/20 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#20

 昨日の深夜、夜食の調達のために外に出たら、あまりに風が気持ち良くて、無性に嬉しくなってしまった。1年のうちで、3月にしか吹かない風というものがある。昨日の風はそんな風だった。
 3月の風を受けると、私はいつも、18歳の頃、実家を出て初めて独り暮しを始めた頃のことを思い出す。○年前、未知の世界への、あふれんばかりの好奇心と不安を抱えて、3月の風に吹かれていたことを思い出す。あの時の風、あの時の星空、ひんやりした気持ち良い空気を、私は一生忘れることはないだろうと思う。

■Lien〜おわらないきみのうた〜

 2周目その2、晶シナリオ。
 やっぱり誰がなんと言おうとも、晶シナリオはずば抜けて美しい。それと共に、初プレイが晶シナリオで、本当に良かったとも思う。好きな人が傍にいるから、日常は美しい。別れは必ず来るけれども、それだからこそ、好きな人と一緒にいる時間はいつでもかけがえのないもの。Lienのテーマっていうのはおそらくこの辺りなんだろうな。

 ところで。
 私は去年書いたONE感想の中で、『浩平が帰ってこないハッピーエンド』の可能性を指摘したのだけど、Lienってちょうどそんな感じなんじゃないかな、と思う。まぁ、ONEは必ずしも恋愛が主要素ではなかった訳だが。
 もし、私が想像していたような形で、『浩平が帰ってこないハッピーエンド』があったとしたら、ONEのエンディングはLienのそれに似たものになったはずだ。極めて個人的な問題だが、そういう点でもLienは私にとって非常に興味深い作品だった。

 余談になるかもしれないが、恋愛が主要素でなく、何かを抱えているヒロインたちに手を差し伸べるという図式に縛られているという点において、ONEは東鳩の後継者だと見ることもできる。「浩之はヒロインたちの保護者だ」という意見をネット上で見た時、「東鳩は女の子が幸せになる話」という意見を同人誌で読んだ時、私は妙に納得してしまった。暴論であることを承知の上でいえば、東鳩における恋愛は、ヒロインたちが抱えている問題を解決した浩之への報酬であるにすぎない。東鳩もONEもKanonも、好きな相手のために自分はなにができるか?という利他的な悩みは、主人公にもヒロインたちにもあまり強くは感じられない。この点において、Lienにおける恋愛表現は、東鳩やONE、Kanonよりももう一段階高いレベルにある、と私はどうしても言いたくなってしまう。


2000/3/19 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#19

 市立図書館へ行く。今の街に引っ越してからもう3年ぐらい経つのに行くのは今回が初めてという辺り、我ながら本離れが進んでるな、と思う。借りたのはヘッセの書簡集2冊とシューベルトの書簡集1冊。ヘッセの書簡等は極力買うようにしてきたつもりなのだが、ここ2年ぐらいゲームやらインターネットやらにかまけているうちに、おざなりになってしまったらしく、知らないものが何冊かあった。ちとショック。

 日中は寮内全域停電だったので、帰ってから部屋の大掃除を決行。約3時間ぐらい掛けて、ほこりの除去、不要物の処分等をこなす。途中、棚の中で発見したパピポのバックナンバー(96〜97年)を読みふけったりしなければもっと早く終わったのだろうが、まぁ掃除にこの手の罠は付き物なので(笑)仕方がないといえばないかもしれない。

■恋愛に関する独り言

 「恋」と「愛」を同じ意味だと思っている日本人はいない(はず)。ところが、外国語では「love」(英)「liebe」(独)「amor」(伊)等々、こういう感情?を表わす単語はひとつしかない。例えばドイツ歌曲のCDの歌詞カードを色々と読んでみると、「liebe」というひとつの単語が、その時々で「恋」や「愛」と日本語訳されているのに気づく。
 ここには日本人と外国人との「愛」についての認識の違いが現れているようにも思えるのだが、どうなのだろう。ついでに言えば、外国の詩の中には恋(あるいは愛)を甘美なものとして表現しているものが少なからずあるが、日本の古今集の恋歌などはむしろ、恋の切なさ苦しさを表現しているものが圧倒的に多いように見受けられるのも興味深いことだと思う。

■Lien〜おわらないきみのうた〜《ネタバレ注意 》

 6thプレイ、柚シナリオ読了。(プレイしたのは本当は昨日なんだけど)
 なんか、いまいちピンと来なかった。淡々と進んで淡々と終わってしまった感じ。再プレイに期待。

 2周目その1、みなもシナリオ。(こっちは今日)
 …ううっ、みなも可愛すぎ。(涙)

 『私のために先輩がいたんじゃなくて、先輩のために私がいたんだって思えるように〜』

 こんな台詞が完全に真実でありえるようなキャラが、他のどのゲームに出てくるだろう。


2000/3/18 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#18

■Lien〜おわらないきみのうた〜ネタバレ注意 》

 5thプレイ、若葉シナリオ・エピローグ付き。
 最初に晶シナリオをやった時、晶の台詞から、主人公の事故で助かった人というのは多分若葉のことなんだろうと思っていて、それにしては前回若葉シナリオをやった時にはその話が出てこなかったので「?」だったのだけど、今回トゥルーエンド(多分)を見て、疑問が氷解。別れの場面は、ノーマルエンドと比べて随分と感傷的(私は“度の過ぎた感傷”は嫌いなのだ)で、CGもいまいちな気がしたが、エピローグで脳みそ崩壊。割とパターンなのだけど、個人的にこの手のシチュエーションにはガード不能なのである。(^^ゞ

 ただし忌憚なく言えば、私はこのエピローグに、かすかにだが割りきれないものをも感じる。つまり、「再開させる必要があったのかどうか…?」ということだ。

 Lienの物語は、晶なりみなもなりの人生のヒトコマを切り取った作品という気がする。人生という道のりを歩いていく中での様々な人との出逢いと別れ。それを書き出したものがLienだと、私は見る。この作品をプレイした後に感じる寂寥感は、自分の人生をじっくり振り返ってみた時の感覚にすごく近い。
 小学生の頃、真っ暗になるまで友達とサッカーをした思い出。中学生の頃、部活動の帰りに皆で駄菓子屋に寄った思い出。高校生の頃、文化祭の準備のために真っ暗になるまで学校に残って仕事をした思い出。そして、学校毎にメンバーの顔は変わっても、いつも変わらない家族の顔。私たちの「今」は、こういう数え切れないほどの思い出の積み重ねの上にある。
 Lienのエピローグがあんなにも美しいのは、彼女たちの中に「思い出」を感じさすからだ。彼女たちの胸の中では、志郎と過ごしたあの一ヶ月の思い出がきらきらと輝いている。思い出の積み重ねの上に、彼女たちの「今」がある。Lienのエピローグはそういう想像に、私を導く。

 あるいは、私は気にしすぎなのかもしれない。しかし、晶やみなもが、志郎との思い出を大切に抱えて自分の人生を生きているのと比べると、若葉だけが、志郎との思い出を昇華させられずにいる(それは取りも直さず志郎に頼らなければならないことを意味している)という印象を受けるのはどういう訳だろう。
 私はどうも、ノーマルエンドをより高く評価したいという方向に、気持ちが傾く。

 おまけ。未見CGはあと1枚。

■ムービー

 乃怒亞女氏の最新作、「13+EDeN」を観る。
 そういえば今の時期は、「めびうすONE」から大体1年ぐらいだろうか。めびONE発表当時、これ以上のムービーはあり得ないと誰もが思ったに違いない。しかし、love&liveという更に美しい作品が現れ、更にanotherVer.において、表現は最高に達したかと思われた。これ以上に美しいムービーが存在しうることを、誰が予想できたろう。
 今、すべてを越えたものがここにある。

■怒首領蜂(SS版/サターンモード/GPS2.0秒/veryeasy)

 1年以上プレイし続けて、パターンを練りに練って、A-Lでようやく1周2億を達成。(200,167,350pts)
 点効率は以下の通り。(数字は「およそ」)

1−0 67HIT、50HIT、ボス500HIT、クリア時 2,500,000pts
1−1 193HIT、61HIT、ボス190HIT、クリア時 6,700,000pts
1−2 499HIT、ボス160HIT、クリア時 21,500,000pts
1−3 121HIT、55HIT、60HIT、ボス299HIT、クリア時 37,000,000pts
1−4 748HIT、ボス160HIT、クリア時 75,000,000pts
1−5 853HIT、ボス135HIT、クリア時 131,000,000pts
1−6 766HIT、ボス320HIT、クリア時 200,167,350pts

0面ボスで約50万落ち、2面ボスで約16万落ち、3面繋がなかったので250万以上の落ち、
4面理論値に対して約50万落ち、5面理論値に対して約100万落ち、蜂1個落ちで60万+70万落ち。
すべて統合すると、2.05億が理論上の限界か。

それと一応。
私がveryeasy設定でやっているのは、家庭用テレビのサイズの関係で微妙な弾避けが難しいので、それならいっそ弾避け抜きにして、コンボ稼ぎに専念した方が楽しいと考えているからである。


2000/3/17 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#17

■Lien〜おわらないきみのうた〜

 3ndプレイ。若葉シナリオ。バッドエンド?
 4thプレイ。若葉シナリオ読了。
 エピローグが無かったのが気になるが、しかしあのあとにエピローグが「ありうる」かどうか…?
 未見CGはあと5枚。おそらく青葉シナリオが独立して存在するのではないかと予想しているがどうだろう。明日以降の楽しみ。
 それにつけても。
 So What?の「別れ」が美しいのは、別れが悲劇として描かれていないこと、つまりなにかどうにもならない理由によって別れさせられるのではなくて、あくまで「それぞれのあるべき場所へ帰っていく」という描かれ方をしている点にある訳だが、まさにこの点で、LienはSo What?に似ている。
 別れは悲しいが、この悲しみは喪失のそれとは違う。ちょうどモーツァルトの緩徐楽章(※)がそうであるように、悔やんだり嘆いたりとはまったく違う、なにが悲しいのかもよく判らないが泣かずにはいられないような、透明な悲しみ。
 あるいは、卒業式のあと春の風に吹かれて物悲しくなる感じ、と言ったら、なにかのイメージを伝えられるだろうか。


例として、モーツァルトのクラリネット協奏曲(K.622)、ピアノ協奏曲27番(K.595)のそれぞれ第2楽章を挙げておく。


2000/3/16 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#16

■妹とか娘とか

 「夢オチ」は現代の漫画界では、プロアマ問わずタブーに近くなっているような観があるが、夢オチと同じくらい性質が悪いものとして、「撮影終了」(便宜上の呼び方)というのもある。私が記憶しているもので言えば、大昔WJで連載してた「はるかかなた」とか、OVAの「レイナ剣狼伝説」だとかがそうだ。
 これはラスト数ページで突然、今までの物語が実は撮影でキャラクター達は俳優だったことが判明するというトンデモない描き方なのだが、これってエロゲに応用は利かないだろうか。
 つまり、ソフ倫では3親等以内の恋愛描写を禁じているが、物語の終わり近くになって禁断の台詞「はい、カーット!」「おつかれさま〜」を入れて、今までの話はすべてビデオ撮影&演技だった、ということにしてしまうのだ。姑息といえば姑息な方法だが、彼らには血縁関係はありません、と明示するひとつの手段ではあるような気がする。(笑)

■「Dreams」(W/M)

 久里の4打席目とかも気になる(敬遠の可能性)のだが、それよりなにより、最後の方で外野のブロック?に顔を突っ込んだ常陽の3番は再起不能だろうか?とかいうことの方が実は気になったりする。まさか聖闘士某ではあるまいし、顔からブロックに突っ込んでも立ちあがる、なんてことはないと思うのだが。


2000/3/15 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#15

■AIR

 keyの新作に関して、ひとつとっても重要なことを書き忘れてた。それは、今回は制服のスカートが長い、ということ。ロングスカートを愛する者としては嬉しい限り、なのである。(ォィ
 ミニスカートが嫌いという訳ではないのだが、やはり色気の真髄というものは普段は隠れていてほのかに見え隠れする、というところにあるのであって、更に言えば「俺だけが知っている」的なのが浪漫なんで(以下戯言が続くため削除)。


2000/3/14 (火)
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■会社

 たまたまミーティングルームに置いてあった分譲住宅の広告を見ていて、この間取りだと、ここが俺の部屋で、ここがメイドさんその1の部屋で、ここがメイドさんその2で、あ、1階にも1部屋あるからもうひとり…でもひとりだけ1階じゃ可哀想だから、やっぱりこの間取りだと自分プラスメイドさんふたりかーなどとダメ人間200%な想像をしていてるうちに就業時間終了。(もちろんやることはちゃんとやってるけど)

 にしても、実際にメイドさんを囲っていちゃいちゃ生活(←この時点ですでに認識の間違い)をしたとしたら、絶対、「女」同士の確執とか生れると思うのだが、その辺りは考えないことにするのがお約束なのだろうか?

■スカウター(誤)

 うちのアクセスカウンターって、多い時と少ない時で1日100HITの差(150〜250)があるのだけど、なんか不思議。余所でもそんなものなのだろうか。少なくとも面白みの欠片もない私の日記などを楽しみにしてる人がそれほどいるとも思えないし。

 まぁ一応書いておけば、私は、自分が面白い文章を書く能力をまったく持ち合わせていない、ということは認識しているけれども、自分の文章を卑下するつもりは全然ない。ただ、面白く書けなくても、自分がその時々で考えていることをありのままに書けば、なにかを伝えられることもあるかもしれない、と思うから書きつづけることができるのである。喋ったことがすべて相手に伝わる必要はない。せいぜい10のうちひとつでも誰かに伝われば、それで私にとっては十分なのだ。


2000/3/13 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#13

■Lien〜おわらないきみのうた

 セカンドプレイ。みなもシナリオ読了。
 …こういう場合、やっぱり叫ぶのがもっとも正しい対処だろうか?
 …まぁ止めておきましょう。(苦笑)

 もし、この手のゲームの存在の第一義が、恋愛の擬似体験だとするなら、Lienは本当に理想のゲームだよなあ、なんてことを思う。こういうと意外に思われるかもしれないが、このジャンルのゲームでは世間で名作として名が通っているものであっても、実のところ、主人公を通じて、プレイヤーが「ああ、自分は愛されてるんだ」と錯覚できるものは少ない。恋愛を語ったゲームであっても、その多くは主人公からヒロインへの働き掛けが核になっていることがほとんどで、この手のゲームのヒロインというのは基本的には受動的に「愛される存在」であるにすぎないのである。
 しかしごく稀に、女性をより意志的に、より能動的に描写するようなゲームというのもある。例えば、デアボリカのレティシアがそうであり、闘神都市2の葉月がそうであり、ONEの長森瑞佳がそうだ。こういうゲームでは、ヒロインたちは愛されるだけのお人形ではなくて、自ら、能動的に愛する女性として描写される。これはご都合主義だろうか? 否、違うと思う。恋愛というのは(言うまでもなく)一方通行のものではないからだ。愛し愛されるのが恋愛でなかったら、恋愛とはなんだろう。好きな人と一緒にいたい、好きな人になにかしてあげたいと思うのは男女共通のものであることは言うまでもないことだが、実際には、いわゆる恋愛を題材にしたゲームであっても、男性と女性とでは描写のウェイトにかなりの差があることが圧倒的に多い。なんとなく、愛されるより愛することの方が大切だとする風潮が、現代にはあるような気がする。私はそれを間違いだと言うつもりは毛頭ないが、ただ、恋愛の幸せというものはどうしても愛されることを抜きにしては考えられないのもまた絶対に確実ではないかしら。愛されているという実感は人を強くし、相手をより一層愛そうという意志を持たせる。繰り返すが、恋愛というのは相互的なものだ。しかし実際には、その系統のゲームであっても、その辺りをしっかりと書いているものははっきり言って皆無に等しい。
 なんか恥ずかしげもなく恋愛論を語っているような気がするが(滝汗)、要は、Lienは数少ない例外に属するゲームだということを言いたかったのである。

 一応。いくら女性キャラが魅力的だからといって、主人公がそれに釣り合っていないゲームは私的にはダメダメ、ということも書き添えておく。


2000/3/12 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#12

■妄想

 プロメテウスが、天から人間界へ“火”を持ち込み、それによってゼウス?に罰せられたことはおそらくみんな知っている話だし、プロメテウスが「忍耐」や「鉄の精神力」の象徴として語られるのも有名な話だろうと思う。
 ところで音楽の世界では、ベートーヴェンが、しばしばプロメテウスに喩えられるようである。これはベートーヴェンの音楽に精通していなくとも、彼の伝記や書簡を読んだことのある人ならば概ね頷ける話ではないだろうか。

 しかし私は、実はモーツァルトの音楽を聴いている時にも、プロメテウスを思い浮かべることがある。といっても、私は別にモーツァルト音楽の中にベートーヴェン的なものを聴くというのではない。第一、モーツァルトは、ベートーヴェンのように一曲を仕上げるのに尋常ならざる忍耐と集中力を持って作曲を行った人ではないし、運命との格闘を演じるようなタイプでもなかった。(モーツァルトが作曲や人生にまったく苦労しなかったと言っている訳ではない、念のため)私がプロメテウスを連想するのは、それとは全然別の問題である。

 モーツァルトの音楽を聴いていると、時々、このような美しい音楽がこの世に存在しても良いものだろうか? という疑問が湧いてくることがある。それは晩年の名作群〜例えば、魔笛であるとか、ニ短調レクイエムであるとか、あの変ロ長調のピアノ協奏曲であるとか〜を聴いている時に特に強く感じるが、そういった畢生の名曲でなくとも、例えば比較的若い頃に書かれたと思われるフルート四重奏曲であるとか、変ホ長調のピアノソナタ(K.282)などを聴いてみても、同様の感想を持つことはある。
 更に言えば、モーツァルトの音楽が好きな人なら、彼の音楽は例え長調を基調に書かれている場合でも、旋律や和音の中に、必ずと言って良いほど悲哀の影が潜んでいるのを知っているはずである。
 こういう音楽を聴いている最中に、私はふと、モーツァルトが生前どんなに生活に苦労していたかを思い出す。例えばモーツァルトの晩年の手紙の中には、知人(ミヒャエル・プフベルク宛て)に金の無心を願うものが少なからずあるし、妻であるコンスタンツェ(彼女は病気がちで、しばしば温泉に療養に行っていた)に宛てた手紙の中では、孤独の中で?虚無感や憂鬱に囚われていることを告白もしている。モーツァルトの生活の困窮と音楽の美しさのギャップは今までにも色々な人が指摘してきたことだろうが、こういうことを考えるにつけ、私は、「モーツァルトはデーモンによって、片足ずつ引きずられるようにして破滅したのだ」というゲーテの言葉(※)をどうしても思い出さない訳にはいかなくなる。

 モーツァルトは天上の神々にのみ聴くことを許された音楽を人間界に持ち込んだ。神々はそれをよしとせず、モーツァルトを罰し、天界から追放した。追放されたモーツァルトは、それでも作曲を止めることはなく天上の歌を歌い続けたが、その歌には決して戻れない故郷(天界)を懐かしむかのような響きが、否応なく付加されることになった。

 私は、現時点でモーツァルトと彼の音楽とをこういう風に見ている。


『ゲーテとの対話』(エッカーマン/岩波文庫)より。
映画『アマデウス』のテーマである、「天才と凡人」という発想?はおそらくこの本の中のゲーテの発言に由来すると思われる。


2000/3/11 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#11

■My dear...

 『あんたが私のこと忘れたりしないことぐらいわかってるわよ』
 『でもそれとは関係なくて、私が忘れたくないから、あんたのこと忘れないのよ』


 個人的には、So What?という作品は、漫画の歴史の中で、たった一度だけ実現した奇跡だと思っている。そのくらいの表現を使わなければ、この作品の美しさを、私は説明することができない。いや、本当は美しいかどうかなんてどうでも良くて、重要なのは、ただ「私はこの物語が好きで、かけがえのないものだと信じている」という一点だけなのだけど。

 かなり勝手な理屈かもしれないが、私は「美しい」より「好き」という言葉の方をはるかに尊重している。というのは、「好き」というのは極めて個人的なレベルの告白だからだ。別に対象が好きでなくたって、「美しい」という言葉が出てくることはある(※)。ぶっちゃけて言えば、「○○が好き」と言う人との方が、私は安心して話せるのである。

※美しいものが常に心に優しいかといえばそんなことはないのであって、例えば、ベートーヴェンのアパッショナータソナタ、三島由紀夫の憂国、などは、美しいと思うけれども好きだとは到底言えない。

 …戯言を色々書いてるけど、ここからが本題。

■Lien 〜おわらないきみのうた

 ファーストプレイ、晶シナリオ終了。
 泣けるゲームというのはいっぱいあるが、その中で「涙を流す」というレベルを超えて、「声を出しそうになる」ぐらいの作品というと、どのくらいあるだろう。私自身の約2年のエロゲ経験から言えば、そこまでのゲームは確かONEとデアボリカのふたつだけだったはずだが、今回プレイしたLienは、久しぶりの、そういうゲームだった。

 私は、作家というのは、面白い物語を語る人ではなくて、物語を面白く語れる人のことだと思っている。極論してしまえばテーマやストーリーなどはあまり重要ではなくて、要は時を忘れるほどの充実を読者に与えられるかどうか、なのである。

 その点、Lienのシナリオを書いた人は文句なく合格(なんて言葉を使うのはおこがましいかもしれないが)。というか、これほどのライターが存在していたということに、私はもう驚くほかない。全編通じて、ギャグとシリアスのテンポを維持し続けるだけでも大変な力量だと思うが、それにも増してラスト数日の描写が絶品である。優しさと信頼が根底に流れているけれども感傷的ではなく、決して甘すぎたりベトついたりはしない。この感じは、So What?ラスト二話のあの独特の空気をすら思わせる。こういうゲームに出逢えたことを奇跡と呼ばないでなんと言ったら良いのだろう。なんにしても、ONE、デアボリカに続いて心の殿堂入りする可能性大、である。

 補足。
 いくつかあるシナリオのひとつだけしかやってない状態でこの評価は性急だろうか? 過去の共有がない(※)ほかのヒロインたちのストーリーで、これと同じ位のクオリティーを生み出せるのかどうか、は正直言って不安でもある。杞憂に終わって欲しいものだが…さてどうなるだろう。

※晶は主人公の幼なじみ


2000/3/10 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-03.htm#10

■ひとりツッコミ

 前回の日記で「ニ短調は悲劇の調性」とか書いたけど、どっちかっていうと悲劇の調性として通りが良いのはハ短調だろうか? なんてことを考える。ではニ短調は? ということでニ短調の名曲を思い浮かべて見る。
 ピアノ協奏曲20番(K.466)、ドン・ジョバンニ(K.537)、レクイエム(K.626) etc...
 これだけで判断するのもアレだが、この3曲に共通する性格というと「死のイメージ」だろうか。

■Mozart

 モーツァルトの交響曲38番ニ長調(通称“プラハ”)の第1楽章と魔笛の序曲とはある部分の“ふし”がそっくりだということを発見。これは偶然なのだろうか?
(似ている〜というか同じ〜部分というのは、魔笛序曲の16小節目からのallegroの最初の2小節)

■自戒

  『書物を買い求めるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買い求めることができればである。しかし多くの場合、我々は書物の購入と、その内容の獲得とを混同している』(読書について/ショーペンハウアー/岩波文庫)

 …なんとなく、「書物」を「エロゲ」に置き換えてみてもそのまま意味が通じるんじゃないかしらん、とか。(爆)

■ラーメン

 たまたま立ち寄ったローソンに『坦々みそ』(←商品名/カップラーメン)が売っていたので、置いてあったやつを全部買い占める。といっても、たった5つだけど。知らない(不幸な)人のために説明すると、私はこれこそがカップメン中のカップメン、いわばking of Kings(爆)だと思っている。これを1回食べてしまったら、他のカップラーメンは〜『ラ王』ですら例外ではなく〜すべて似非であると言っても過言ではない。(過言だってば)


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