日記、あるいは雑記


過去ログ 7月8月9月10月


1999/11/28 (日)

 ネット上ではあまり聞かないけど、女の子のうろたえる姿〜有名な例で言えばWAの由綺とか、ONEの瑞佳とかKanonのあゆあゆなゆなゆ(笑)とか〜って可愛いと思う。ていうか、私的に、寝顔と並んでガード不能。ちなみに寝顔の魅力は高校生の頃から知っていたりするからかれこれ10年以上ものキャリア(謎)があるのだが、ま、それはともかく…。

 『ぽわぽわでいず』(秋澤和彦/ビブロス)
 新宿書店の新刊コーナーで平積みになっているこの本を見つけて、即購入決定したが、予想通り大当たりだった。よってお薦め本ということで紹介。質の高い18禁漫画というだけなら他にも優れたものは色々とあるが、(漢の浪漫的な意味で)女の子の可愛らしさを追求したものとしては、まず最強の部類に属する名作だと言って良い。作品のノリ的には、例えば「とらハ」の小鳥シナリオにおける「しんくんが暖めてくれるんでしょ?」(爆)とか「…だってしんくんのだもん、もったいないよ」(超絶核爆)みたいな感じ。とりあえずうちの常連様方は、読めばハマルことを120%保証します。(笑)

 あまり関係ないけど、どっかで見た絵柄だなーと思ったら、私、この人の描いた乃絵美本を持ってました。(ォ


1999/11/27 (土)

 さる年輩の方にPCのレクチャーを頼まれたので、昨日は、会社が終わった後、その人の自宅へ。…まずPCを一目見て驚いた。PC-9821、mmxPentium200、RAM32M、VRAM4M、HDD4G、CD-RとSCSIボードと外部スピーカーが標準装備。2〜3年前に買ったそうだが、基本スペックとしては相当のモノ。それにしても、こういうPCが全然使われずにほこりを被っているという事実はなにか釈然としない。一体、全国ではほこりを被っているハイスペックマシンがどれだけあるのだろうか、とか考えるとなんか嫌。
 ともかく、その後約4時間に渡って色々とレクチャー。相手は初心者なので、専門用語は当然一切使わない。PCに関して霧の中にいるも同然の初心者に向かって専門用語を使っても混乱させるだけなのは自明であるし、そんなのは思いやりのある行為とは到底呼べないから。私たちは人体のメカニズムを知らなくても自分の体を意のままに動かせる。要は基本の使い方を直覚的に憶えれば、とりあえずはいいのである。それによってPCに対する一種のコンプレックスのようなものが薄らげば、あとは本人の努力次第ということになる。第1段階で一番大事なのは、慣れさせることであり、PCについて「知る」のは難しくとも、「使う」のはそれほど難しくないことを理解してもらうこと、だと思う。
 …さすがに、Windows起動中に電源をOFFにしようとしたのには驚いたが。(笑)


1999/11/24 (水)

 眠い…のでとりあえず簡単に。

 乃絵美病(謎)が再発して、突発的に「toybox」内のCGをプリントアウト。キーボードの脇にとりあえず置いてあるが、いくら眺めていても飽きない。こんなメイドさん(違)欲しいです。マジで。ちなみに、どの絵柄かなんて死んでも言えません。(爆死)

 セブンイレブンに行ったら「まんがライフ」(月間)を見つける。ももせたまみさんがいないようなので買うかどうか迷ったが、後藤羽矢子さんの名前があったので購入。18禁漫画家とはいえ、この人は割とほのぼの系えっちを描く人だったので、一般誌でも結構いけるだろうな、と思いつつ帰宅。んで、内容。…らぶらぶな姉と弟のお話。(笑)…なんか納得。でもゲストらしい。残念。

 ふらっと本屋に入って、「お星様にお願いっ!」(藤崎真緒/花とゆめ)1巻、購入。この人は仮にも少女漫画家でありながら、毎回、一部の男性読者(笑)の萌えツボ突きまくりな漫画を描くのだが、今回も予想に違わず、実に楽しい。「瞳・元気」では、男性恐怖症(彼氏除く)、「プライベート・ドラゴン」では、巫女さん&幼児体型&ファザコン、だったが、今回はお子様から恋する少女への移ろい、というところだろうか。性格的には、「Kanon」あゆみたいな、子犬チック&いじめ甲斐のあるタイプと言えるか。それにしても、こういう「過渡期」のヒロインを描くのは、少女漫画〜特にリボン系とか〜では別段珍しいことでもないはずなのだが、この作者の手に掛かると、似たような題材であっても、なんか作品全体から良い意味での「色気」を感じる。そして、私はまさにその点に魅かれているのだし、この漫画家の武器もその辺りにあるのだろうと思っているのだが、しかし本来の対象読者である十代の女性にとってこういう漫画は面白いのだろうか?という疑問も実はないでもない。はてさて、今回は何巻ぐらいまでいくのだろうか、ぜひ長続きして欲しいものであるが。


1999/11/7 (日)

 実のあることをなにもしない1日、っていうのはなかなかキツイものがあると思う。とは言っても、もちろん自業自得な訳だが。

 今日も『ニュートロン』をプレイ。設定を「4Mhz」→「2Mhz」に変えて、やっと10面到達。このゲームはコンティニューがないので、先の面を見るにはとにかくクリアするしかない。でもそれだけに、一面でも先に進めた時の嬉しさは他のゲームでは味わえないものがあると思う。このことは、ゲーメスト誌上のコラムで石井ぜんじ氏も指摘しておられたが、昔のゲームの良いところだった、と確かに言えるかもしれない。
 それにしても、このゲームの敵の攻撃パターンの多彩さ(その独創性)には驚かされる。さすがは中村光一氏、というべきだろうか。…10面(蝉)はキツすぎるが。(汗)


1999/11/6 (土)

 OVA『アスラ斬魔伝』2巻を観る。リムルルが反則的に可愛い〜そりゃあもう、ごろごろごろ〜っと床を転げまわりたくなるくらい〜という1点を除いては特に面白いという訳でもない。悪い意味で、無難にまとまっているな、と思う。

 乃怒亞女さんの新作ムービー『love&live another』を観る。「奇跡」とでも言う以外に言葉がない。なんかこの人だけ誰も手の届かないところにいるという感じ。観終わった後、しばらく硬直すると共に、空いた口が塞がらなかった。この人の作品はこれで4作目になる訳だが、なんといっても驚くべきは、その進歩の速さである。普通の人なら、一歩々々上達していくところを、この人だけは、まるで羽でも生えているかのように、一作ごとに飛躍的な進歩を遂げている。もちろん、本人にとってみれば、製作は傍から見えるほど呑気なものではなかったろうが、それにしても、このような作品が私たちの目の前に現れたことは驚異としか言いようがない。



1999/11/5 (金)

 なんとなく、車を40分ほど走らせてゲーセンへ行く。なぜ40分かと言えば「怒蜂」ができるゲーセンで一番近いのがそこだから。
 とりあえずC-Sでプレイ。3ボスでタコ死にしたにも関わらず、4面の全繋ぎが決まる。(690HIT)が、その後ボロボロ。パターンを忘れていて、1−5の弾幕が怖い。その後、遊びでA-Lを使ってみる。いきなり、2面で蜂パーフェクト&全繋ぎが決まる。更に、5面でも中盤の繋ぎの難所がきっちり決まって、終盤タコるまで、約720HIT。調子が良いのか悪いのかよく判らない。(笑)
 ちなみに、ストライカーズ1999は、ボム連打しつつようやく5ボス到達。ダメダメ。テクニカルボーナスとやらの取り方が全然判らない辺りからして既にお話にならないのではという気がする。


1999/11/4 (木)

『この地球は先祖から受け継いだのではなく、未来の子供たちから借りているのだ』

 ネイティブアメリカンの言葉として、遊佐未森さんが引用していたもの。
(“weeklyぴあ”より)
 こういう考え方はすごく好きなので、引用しておく。
 そういえば昔、「ママは小学4年生」で『みらいちゃんのために、この美しい地球を守りたい』というようなフレーズがあったが、あの時もひどく感動したものだった。いわゆるエコロジー問題について「なんのために?」という問いに対する、この上ない説得力を持つ言葉だったから。私は人がなにかをする動機として、道徳や正義感や義務感やらといったものを簡単には信じない。それはしばしば独善を生むからだ。私にとって人の行動の動機として説得力があるのは個人レベルの問題に限られる。「愛」でも「憎しみ」でもそれはあまり問題ではない。発言の内容云々より、その人の意思(考えていること)が明瞭に見えるかどうかが問題なのだ。


1999/11/3 (水)

 ニュースというものに関して。
 私は二十歳の頃から今にいたるまで、ほとんどニュースを見ていない。一時期は新聞を取っていたが、最近はもう新聞さえ読まない。今では世間の情報は、週に一度ぐらい、インターネットニュース(Yahoo!やAsahi等)をまとめ読みする程度である。
 いまだにずっと疑問なのだが、ニュースをみる必要とはなんだろう?
 社会人になってからこっち、「ニュースを見ろ」「ニュースは見たほうが良い」という発言は何回となく色々な人に聞かされてきたが、その理由について説得力を持って答えられる人は誰もいなかった。唯一心に届いたのは「ニュースを見ていないと談笑についていけないかもしれないから」という意見だったが、それは私を心配してくれての発言であることが判ったからであって、内容としてはそれが十分な理由になるとは到底思えない。
 逆になぜニュースを見ないかと仮に問われれば、私はこう答える。
 「腹が立つか、失望するから」
 ニュースで扱っているもの、というより世間で必要とされているらしい情報というのは、つまるところ犯罪の情報である。私はこの年になっても、犯罪のニュースを見ると、その理不尽さ不誠実さにどうしようもなく腹が立つ。腹を立てるなというのは無理である。しかし、腹を立てあるいは失望したからといって、それが私にとってなんらかの益になるという訳ではない。情報に詳しいのは悪いことではないが、情報はただ持っているだけでは意味がない。少なくとも、10代の頃にショーペンハウエルの「読書論」を読んで以来、知識のコレクターには決してなるまいと思ってきた私にとっては、情報はその時々で「必要なだけ」あれば良いのであって、別に知識を蓄えたいとは思わない。ましてや今日のような情報の氾濫している時代では尚更である。情報の隠蔽は決して行われてはならない、そんなことは当たり前である。しかし情報の隠蔽が行われない世界では、受け手は自分の必要に応じて情報の取捨選択を行うべきではないのだろうか。少なくとも私は情報を大量に抱え込んで馬鹿になるのは嫌です。


1999/11/2 (火)

『好きなもの』というのはたくさんあるが、もし二度と帰ってこられない旅などというものがあって、その際に必ず持っていかなくてはならないほど大切なもの、といえるレベルまで絞るとしたら、なにが残るだろう。

モーツァルトの『魔笛』、ベートーヴェンの『ソナタ作品110』、サンテグジュペリの『星の王子さま』、リルケの『若き詩人への手紙』、わかつきめぐみの『So What?』、ヘッセの『荒野のおおかみ』、あとは『ONE〜輝く季節へ〜』。

…こんなところだろうか。
レ・ミゼラブル全巻やら赤毛のアン全巻やらヘッセの著作すべてとか立原えりかの著作すべてとか金子みすず詩集やらがないのは惜しい気もするが…。
もっとも旅に出るのにCDやらゲームをというのも可笑しな話ではある。
ま、恒例の読者無視日記ってことで。(ぉ


1999/11/1(月)

 昨日は、ONEのピアノサントラを買いに秋葉原へ行く。2件目で発見。早速、車の中で聴くが、なにか違う。あまり専門的なことは言えないが、なんというか、原曲をそのままピアノで再現しているというだけで、ピアノの語法に書き換えたアレンジがなされていない、という印象。簡単にいえば、ピアノという楽器はその性質上、他の管弦楽器と違って、ひとつの音を長く保持していることができないという弱みがある。従って、アレンジする場合は当然、その弱みをカバーする、というより弱みを逆に強みに変えるような演出が求められる。ピアノにしか出来ない表現(=ピアノ独自の語り口)を用いて演出するのでなければ、それは単に管弦楽の稚拙な模倣でしかない。結局、「なんのためにピアノで演奏するのか?」という疑問を、どうしても抱かざるを得ないのだ。今回のサントラは、そういう意味で、稚拙なアレンジの見本だったように思う。元々が名曲であるだけに、アレンジするのも難しくはあるのだろうが…。(実を言えば私はKanonのサントラに関しても、原曲をケバケバしくしただけという感想を持っている)元々完成された美しさを持っている曲をわざわざアレンジすることの意味、については色々と考えてみるべき問題があるのではないだろうか。

 モーツァルトのピアノソナタK.545(通称“15番”)のCDは、現在入手できるものだけでどのくらいあるだろうか。多分、何十種類かはあるだろう。私が聴いたのはせいぜい10種類程度だろうが、その中に2枚ほど、風変わりなCDがある。ひとつはグルダの弾いたもので、もうひとつは、リヒテル&レオンスカヤが弾いている、グリーグによって2台ピアノ用に編曲されたものである。
 このふたつのCDに収録されている演奏は、普段、この曲を聴き慣れている者にとってはどちらも非常に斬新な演奏で、耳を傾けずにはいられないものになっている。グルダの、装飾音を大胆に付加した演奏(第二楽章は、かのグリーグでさえここまで大胆には変えなかった)も、グリーグの、原曲に第三の旋律を付加したアレンジも、どちらも惚れ惚れする美しさがある。これを初めて聴いたときに驚いて、繰り返し聴いてしまったのは私だけではおそらくあるまいと思う。
 ところがというか、今はこの2枚のCDを聴くことは滅多になくなってしまった。あんなに美しく演奏(もしくはアレンジ)されていても、なにか物足りないのである。いや、物足りないというのは違うのか。この2枚の演奏を聴いていると、ある時ふっと、モーツァルトの楽譜に忠実な、一切アレンジが加えられていない演奏が懐かしく思えてくる。そうなると、もはやアレンジver.が、なにかゴタゴタした演奏に思えてきてしまう。
 そうして改めて、私は、自分のお気に入りの、リヒテルのソロによる演奏を聴いてみる。楽譜に書かれてあること以外は、なにもやっていない演奏。しかし、ソナチネアルバムにも収録されているような単純なこの曲が、改めて聴いてみると、実は本当に必要な数だけの音符で構成されていて、ここには付け加えるべきものも削る必要があるものもないのだと思われてくるのである。詩人のヴァレリーによれば、芸術の完成とは「完全を目指すことを放棄したものに過ぎない」(=芸術には完成というものはない)ということになるらしいが、それにしても、モーツァルトの書いた音楽は、もうこれ以上の完成はありえないという錯覚を、聴衆に与えるものだった…。


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