日記、あるいは雑記

過去ログ 7月8月9月


1999/10/13(水)

 「WhiteAlbum」理奈シナリオ、クリア。昨日は1月の喫茶店イベントまで行っていながらバッドエンドになってしまって、「再封印」などという言葉が頭に浮かぶが、なんとか持ちなおす。最後の方の展開はそれなりに面白かったけれども「心に届く」までには至らなかった、というのが正直なところ。なにより、冬弥と理奈のふたりが、互いに惹かれあっていく部分の描写〜「why?」〜が弱い、というか、かなり後々まで語られなかったのはマイナス点。ラスト付近の「理奈の付き人」イベントで初めて、ふたりが、実は似たような痛みを感じていたということが明らかになり(正確に言えば、ふたりがそれを自覚する)、ふたりは、慰め合うように体を重ねていく訳だが、説得力を感じない訳ではないとしても、なにかしら唐突な印象が残るのは否めない。
 唐突といえば、WAでは(といっても私がクリアした美咲&理奈シナリオでは、という意味だが)キスシーンの取り扱いにも不自然さを感じる。いずれのシーンでも「なぜここで?」という印象が、どうしてもつきまとうのだ。これが果たして、作品の質によるものなのか、私の読解力によるものなのかはなんとも言えないのだが。
 エンディング。これは予想外だった。もっと平凡な恋人同士の1枚絵で終わるのかと思いきや…である。緒方理奈はアイドルでなくても緒方理奈なのだと主張するかのような1枚絵、だった。良し悪しについては語るまい。

 それにしても、どんなゲームをやっていても、結局はONEの文章の美しさを懐かしんでしまうのは悪影響というものなのだろうか?(苦笑)今回も、そうで、「ONEのライターなら、もっと上手に「間」を取るだろうな」と思った。ONEの文章、ことに「間」の取り方の至妙な美しさといって私がいつも思い出すのは、茜シナリオ終盤のあの空き地のワンシーンの「だから、あなたのこと忘れます」から「さようなら、本当に好きだった人」の部分。あそこの、ゲームのための文章として最適化された〜というのはつまり、マウスクリックを必要とすることを逆手に取って、それをも表現手段に組み込んでしまう〜書かれ方、あの「間」の取り方から生まれてくる「読む愉悦」は他のどんなゲームでも味わえないものだった。同じ愉悦を味わおうと思ったら、それこそ、一流ピアニストの演奏によるモーツァルトでも聴く他ない。こういうことを言うのは良くないとは判っているつもりなのだが、それでも私はまだまだONEからは離れられそうにない。


1999/10/11(月)

倫理規定に関して。

 なんとなく個人的に気になるのは、具体的禁止事項のなかにあった、、、
 「・登場人物の悪意を感じさせる行動や発言を賛美、容認するもの。」
という一文。
 例えば「雫」の月島先輩みたいなのはダメなんでしょうか?
 「雫」が面白いのは、月島さんが狂気に走った理由が、プレイヤーにも納得いくようにしっかりと書かれていたからだと思うのですけど〜だから瑠璃子さんの「赦し」も不自然ではないし、トゥルーエンドが美しくなりえたのでしょうし〜、ただ、作者(高橋氏?)があれで表現したかったものが月島さんの狂気の肯定かといえば、それは違うんじゃないかと思う。
 例えそう見える人がいるとしても。作家の仕事というのは世界を描写することであって、判断することではないと思う。一見狂気に見えるような行動でも、本人にとってはそうでなければならない必然があって、それを描写するのが作家の仕事(のひとつ)だと言い換えても良いでしょう。悪意とかであっても、悪意を持つにはそれ相応の理由があるのだし、そこを描写するのは立派な文学です。困るのは、そういう描写を読んだ人が、そこに作者の肯定や否定の意志を読み取ってしまうこと。「Kanon」の時にも現実逃避やら現実受容やらということが議論されていたようですが、雪駄氏が仰っているように、本当は「どっちも積極的に正しいとも間違ってるとも書かれていない」というのが正解だと私も思います。肯定や否定やらを受け手が感じ取るのは自由ですが、それが「=作者のメッセージ」とは限らないはずなんですけどね。「世界にはその人ごとの真実があって」(byエヴァ)悪人には悪人の、真実がある。そして、他人がみだりにそれの善悪を判断することは本来許されない。要は、それだけのことなんではないかな、と思います。その程度のこともわからずに、現実逃避だの肯定だの否定だのという言葉を使うのは(というか、使うとしたら)どう考えても認識が甘いとしか思えない、です。


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