日記、あるいは雑記

『過去ログ』  7月


99/8/29(日)

 某マッドムービーDL中に読書。吉田秀和氏のエッセイを読む。私がこの人を誰よりも尊敬するのは、この人の音楽評論を読むと、中で語られている音楽を無性に聴きたくなるから。この人は音楽を誰よりも愛していて、愛する音楽について語らずにはいられない。自分の内部で、語る必然性が明確になっている。多分、それだからこそ、彼の文章は美しい。

 先日新宿書店(神保町)に行った時、壁にゲームノベルの新刊案内が貼ってあるのを見たのだが、どうやら今度「Kanon」の小説が出るらしい。1キャラ1冊、今年中に、予定では3冊。
 …思うのだが、ONEやKanonのような、文章を読むことそれ自体が快感になるような、つまりそれだけの独自性を持った脚本家が書いた物語を、他の作家が書くことにどのような意味があるのだろう。どう考えてもここには商業主義しかないように思う。どのみち私はONEで懲りてるのでもう買わないだろうが。

1500HIT 葉月さん。いつも書き込みありがとうございます。


99/8/19(木)

 某Kanon考察とその周りの文章を読んでいたら気が滅入った。
 あれらは内容の質の高さは無条件で認めるが、読者を幸せにはしない、という点で私の目指す文章とは方向性が全然違うと言わざるを得ない。私にとってのゲームへのアプローチは「好きな人のことをもっと知りたい」という気持ちと同義であって、文章とはそれを現した結果であると同時により深く考えるための手段でもある。私が文章を書くことで目指しているものはプレイヤーの感動を代弁することであり、また、読むことでゲームへの理解が深まり、そのゲームを一層愛せるようになることである。まだ拙い文章力かもしれないけど、この方針だけは絶対譲れない。
 「あれを読んだ人はKanonをより一層愛せるようになるだろうか?」
 文章として優れているかどうか以前の問題として、私にとってはこのことが一番重要なのだが。
 芸術作品に対する愛の無い批評は解剖みたいなものだと思う。解剖したところで対象の美しさに近づくことなんてできないのに、それどころか体をメスで切り刻まれた無残な躯(むくろ)ができるだけなのに、ある種の人たちは解剖することだけがその作品に近づく道だと思っている…。本当に大事なのは、その人の体の構造ではなくて、その人の笑顔ではないのだろうか? 解剖にしか興味を示せないのだとしたら…いや、そこまで言ってはいけないか。


99/8/18(水)

 12連休も今日で終わり。ムービー製作やらゲームやらと充実した休みだった。

 今のプロバイダは無料ディスクスペースが3Mしかないので、もうひとつ、別のプロバイダと契約する。今度は少なくとも20M(当然無料)はキープできるので、とりあえずムービーのアップロードの方はなんとかなりそう。早ければ来週末ぐらいにはDLできるだろう。自己満足なんて言葉、心底信じてるわけではないし、やっぱり他人に見てもらわなきゃ張り合いがないというもの。

 ショパンのピアノ協奏曲1番。もう今まで何回聴いたかわからないが、この曲が19歳だかの少年の手で生み出されたことに、私はいつも驚かされる。作曲技法の問題ではない。ショパンを好きな人ならみんな知っている通り、これはショパンがポーランドを離れる際の「告別演奏会」で演奏された曲である。その後ショパンはついに死ぬまで故郷に戻らなかった(戻れなかった?)わけだが、果たしてこの曲を当時演奏していたショパン少年は、あるいは聴衆はそのことを知っていたのかどうか。もちろん、誰にとってもそんな将来のことが解るはずはない。しかし、それにしてもこの協奏曲は、まるで「告別の歌」だとでもいうかのように響く。いや、更に言えば主題が再現されて以降の物悲しい旋律は、まるでショパンが異国で寂しく死んでいくことをさえ予見しているかのようである。当時のショパンは19歳という年齢に相応しい野心だって持っていただろうに、実際に聴こえてくる響きは、将来の自分に対する鎮魂歌のようだ。こういう考えは運命論的なのかもしれない。しかしこの曲は、いみじくもショパンというひとりの作曲家〜終生故郷への憧れをピアノで歌い続けた〜の生涯を象徴的に顕わしているように思える。

 趣味「インターネット」などという表現を見ることがあるが、これはおかしいと思う。ネットは目的ではなくて手段なのだから。大前提としてなにか趣味があって、それを発表したり、あるいは意見交換をする場所としてインターネットという手段が用いられるのであって、基本的にはインターネットというのは通信手段に過ぎない。要は、趣味「電話」という表現がないのと同じことである。これは特に初心者が忘れ勝ちなことだが、重要なことだ。ネットを目的と混同すると色々厄介な問題が起こってくる。例えば、掲示板。ネット上には様々な種類の掲示板があって、探せば誰でも、居心地の良い掲示板というのは必ず見つかる。大抵、居心地の良い掲示板を見つけた人はそこに頻繁に書きこむようになり、知り合いも出来てくる。知り合いが出来れば掲示板はいよいよ楽しい。しかし、その掲示板を自分の居場所だと思い込んでしまうと、話は厄介になってくる。腰を落ち着けてしまうと、人間は保守的にならざるを得ないものだ。その結果、自分の意にそぐわない人間がいた場合、自分の居場所が荒らされたと感じ、妙に神経過敏になって、相手の投稿に対して過剰反応(時には攻撃)したりする場合が出てくる。しかも困ったことに、ネット環境では相手の顔が見えないので攻撃も容易である。さる心理学の実験でも、人間は相手の顔が見えない時の方が大胆になることは証明されている。ネット上で攻撃的な台詞を吐く類の人間に「あなたは相手の顔を見ながら同じことが言えますか?」と私は聞いて見たいものである。ネットというのはあくまでコミュニケーションのために用意された「仮の場」に過ぎない。それをまず知って、自分の「居場所」という言葉が幻想であることを認識する。それだけで、ネットにおけるある種の息苦しさはずいぶん緩和されるはずだ、と思う。現実であれネットであれ(個人的にはネットだって現実の一部だと考えているが)自分の居場所がなくなるかもしれないと考えることは、例外無く、誰にとっても恐ろしいことだ。しかし、少なくともネットにおいては自分の「居場所」なんてものは始めから無いのである。ということはしかし、逆に言えば誰にとっても居場所になり得るという意味でもある。それこそ、広大なネットワールドのどこでも。ひとつの場所に拘ることは、ネット社会で自ら世界を狭くしているに等しい。それはあまり賢いこととは言えない気がする。第一、それでは勿体無いのではないか。趣味が「インターネット」であってはならない、と思う。「インターネット」は利用するためにあるのだから。


99/8/14(土)

 知人に紹介された「ジザーハンズ」という映画を見た。美しい映画だった。「これは私のために作られた映画だ」と言いたい気がするが、そんなこと思ってる人は世界中にいっぱいいるだろうから、言わない。それにしても、かつてニーチェを愛読していた頃もそうだったが、こういう作品を見るとどうも心を見透かされてるような気がして、微妙な居心地の悪さを感じてしまう。感動云々とは別の問題で。ともあれ、この映画を教えてくれたH氏に感謝したい。

 ムービーがもうすぐ完成するのはいいが、アップロードしようにも個人のサーバー容量が3Mしかないのでどうにもならない。元々文章を置くページとして作ったので特に容量は必要無かったのだが、いやはや何があるかわからないものだ。早いうちに増やすか別のプロバイダと契約するかしないと。それにしてもたった1分15秒のムービーなのに、aviファイル化して22M、更にmpeg1圧縮を掛けても約10M。単純計算だと3分45秒で30Mってことになるのだろうか?(苦笑)

 フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの第5シンフォニーを聴いた。まさか第5で泣くとは思わなかった。この曲は第一楽章ばっかり有名だが、本当は第2楽章や第4楽章の方が素晴らしいと思うのだが…。中学生の時、音楽の授業でこの曲を聴かされたことがあるが、その時もやっぱり第1楽章だった。第1楽章の、単一の主題を次々に発展させる手法は確かに面白いが中学生程度にそんなこと分かるはずがないのだし、どうせなら第4楽章の方を聴かせればいいのに、と思う。「運命」という名前、またはあの重苦しい主題は誰でも知っているが、この曲の終楽章が輝かしい勝利の歌になっていることを、一体どのくらいの人が知っているだろう。


 今までうっかり忘れ…ゲホゲホゲホ(汗、というわけでメモリアルヒットな人たち。申告ありがとうございます。うちの書き込み/HIT数の割合が高いのは皆様のおかげです。

666HIT Striderさん
800HIT ぺっしさん
888HIT よしりんさん
999HIT よしりんさん
1000HIT keyさん


99/8/10 (火)

 日中ずっと停電。PCはおろか、クーラーすら使えない。こういう環境に置かれてみると、PCが自分の生活の中でどのくらいのウェイトを占めていたか凄く良くわかる。ダベってても仕方ないので、買ったままになってた「So What?」(文庫版)を読む。通読したのは今回で5回目ぐらいか。1巻あたりはまだ作者の中で世界観が完成されていない印象を受けるが、中盤以降は本当に素晴らしい。私がこの作品で最も高く評価したいのは、いわゆる凡百の作品に見られるような「主人公とその他」という構図がないことである。この漫画では、すべての登場人物にしっかりとした人格が与えられていて、彼らの物語が平行して進行していくように見える。それはまるで、複数の旋律が対等の役割を与えられているバッハのフーガのようである。ここには主旋律と伴奏という関係は成り立たない。すべてが主旋律なのであって、主役と脇役は常に入れ替わり、旋律同士が互いに自発的に協力しあい、絡み合うなかで色々な響きが生まれて、それがひとつの音楽になっている。更にいえば、「So What?」は完結性の高さという点でも素晴らしい。秋津島教授を中心に集まった登場人物たちは、物語が進むにつれて、それぞれが自分の居るべき場所を見出して、阿梨さんの所から離れていく。まるでひとつの祭りが終わって自分の家に帰っていくかのように。にも関わらず、この作品を読んだ後に残るのは、寂寥感である以上に解放感である。登場人物たちが抱えていた問題が、わかつきめぐみさんの手によってきれいに解決されていたからだ。すべてが収まるべき所に収まっている。だから、こんなにも美しいのだろう。


99/8/9 (月)

 友人と「東武ワールドスクウェア」に行く。面白いといえば面白いのだが、あまり印象には残らなかったような…。ヨーロッパの巨大な建造物も良いが、やっぱり私は桂離宮の美しさに一番惹かれた。例によって帰りの食事は馬車道。今までは、ファミレスでは、ドリンクバーが充実(ハーブティーが沢山ある)したガストがお気に入りだったのだが、最近はそれより袴を優先させるようになってしまった。(爆)

 今のところKanon関係で食べたのは、バニラアイス、納豆巻き、牛丼の3つのみ。鯛焼きと肉まんはなんとかなるとしても、イチゴサンデーなんてどこに行けば食べられるのか。


99/8/8 (日)

 3〜4年前の日記より抜粋。聖書、あの有名なゴルゴダの丘でのエピソードについて。

 あの時、キリストと共に処刑されたふたりの罪人のうちひとりは、死ぬ間際、キリストに向かって悔い改めの告白をして、聖書の言う「楽園」を約束された。しかし私はこの話になんとなく納得できないものを感じる。なぜなら、信仰を持とうと決心することは簡単だが、それを生涯に渡って維持し続けることは難しいからだ。ましてや人間というものは、何かをすることが不可能な状況にいるほど一層、自分が何でもできるように錯覚するものではないだろうか。「もしもう一度学生に戻れるなら、一生懸命勉強するのに…」こんなナンセンスな台詞はない。勉強したければ今から始めればいいのである。学問をするのに早いも遅いもない。時間を遡ることができないと知っているからこそこんな台詞が言えるのだと思う。ましてや死を目前にしている人にとって世界は可能性に満ちている。人間にとって問題なのは実行することだけだ。決心することはそれ自体には意味なんてない。あの「レ・ミゼラブル」が感動的なのは、ジャン=バルジャンは自分の罪を償うために、自分のことを省みず残りの生涯をコゼットへの献身に尽くしたからである。それなのにどうして聖書に出てくる罪人は悔い改める決心をしただけで許されてしまうのだろう。それとも私の考えがひねくれているのだろうか。(苦笑)


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