日記、あるいは雑記



過去【1999年】 7月8月9月10月11月12月


2000/1/16 (日)

 「ジェロニモとタッグを組んだテリーマンの失望」を味わったことのある人はどのくらいいるだろうか。いや、程度の差はあっても皆似たような体験はしているのかもしれないが、私が一時期、水瀬家BBSで「依存性の強い人は嫌い」と五月蝿く言っていたのは、そういう体験に由来します。誰に聞かれた訳でもないのにこんなことを書くのは自意識過剰というものかもしれないけれども。(苦笑)

話は変わって。

■プラハ国立歌劇場・日本公演『魔笛』(1/9東京文化会館)

 今まで聴いたクラシック音楽の中で一番好きな曲はなんですか?と仮に誰かに問われたとすれば、私はまず、モーツァルトの魔笛とベートーヴェンのピアノソナタ作品110の2曲を挙げるだろうと思う。この2曲は、私にとって美しいとかなんとかいう次元はとっくに超えてしまっていて、自分の人生にとって無くてはならないものだと感じる。これらの曲が聴けないような人生など、想像するのも恐ろしいし、この2曲に出逢えただけだって、私は自分の人生を肯定しても良いような気がする。

 とは言え、魔笛を実演で聴く(観る、というべきだろうか?)のは今回が初めてだった。どうだったか? 一言で言えば、美しかった。CDで何百回も聴いて、話の筋だけでなく主だったアリアまでほとんど暗記してしまっている状況であっても、魔笛はその新鮮さを失っていないどころか、今まで聴いたものの中でも最高の演奏だった。CDを何百回も聴くのも良いが、いずれにしても実演に勝るものはない、としみじみ思った。

 演奏は、序曲の冒頭の変ホ長調の和音からして興味深いものだった。ここは楽譜によればフォルテシモで奏される部分であって、事実、CDで聴く時は大音量で鳴らされるのが普通だが、このオーケストラの演奏では驚くほど小さい。それもそのはずで、リハルド・ハインという指揮者は、この曲を演奏するのに当たって、奏者の人数を最小限にまで切り詰めているのである。もっと早く気がつくべきだったのだろうが、このオーケストラにはいわゆる大管弦楽群がない。その結果、音楽はフルオーケストラの時のような聴衆を圧倒する迫力がなくなり、代わりに、より室内楽に近く、内省的になるというか、本当に心に染み入るような種類のものになる。もちろん、大管弦楽を使った演奏が心に届かないなんてことはない。ただ、私たちはどちらかというと優しいものに対して無防備になりやすく、その結果、こういう小人数編成のオーケストラで控えめな音楽が奏される方が、より直接的に心に届きやすいのではないかとも思う。もちろん、これが私の好みに基づいた考えであることも否定しないけれども。

 あと、フィナーレでのパミーナの歌(spiel du die zauberflote an 〜)や、パパゲーノとパパゲーナの2重奏(pa pa pa 〜)に心を奪われ、特に後者ではボロボロ泣いたということもあったりするが、それは今は置いておくとして、本当の意味での終曲、ザラストロの独唱(Die Strahlen der Sonne 〜)から始まる場面について、どうしても書いておかなくてはならないことがある。ここでは、遂に夜の女王の姦計を退けたザラストロの勝利が歌われるが、それは同時に、試練の末に聖なる神殿の住人となることを許されたタミーノとパミーナを祝福する歌でもあった。少なくとも、私が今までLDで2種類の演出を見た限りでは、この神聖な場面にパパゲーノとパパゲーナは登場しなかった。パパゲーノは試練に耐えられなかったし、聖なる殿堂の住人になることも許されなかったから、この場面に登場するべきではない、とおそらくかつての演出家は考えたに違いないし、私も特にその意見に異論がある訳ではない。いや、なかった、と言うべきだろうか。そう、この公演の終幕では、パパゲーノとパパゲーナが登場するのである。これは私には意外でもあり、新鮮でもあると同時に、観ていて楽しかった。ザラストロと神殿の住人たちによって神への感謝と勝利と祝福の歌が歌われる中、タミーノとパミーナ、パパゲーノとパパゲーナという2組の恋人たちは、4人が4人とも旧知の友であったかのように、お互いに抱擁し合い、共に喜び祝福しあう。演出家はこの場面で、タミーノだけではなく、パパゲーノをも祝福する。高尚であれ、野卑であれ、すべて人は神の子であり、その祝福を受ける資格があるのだ、とでも言わんとするかのように。しかし、モーツァルトが書いた音楽はいつもそんな風ではなかったろうか? モーツァルトが映画「アマデウス」で語られているような野卑な人物であったことは彼の残した書簡を読めばよく判るのだが、それと同時にモーツァルトは別の書簡の中では、神への厚い信仰をしばしば告白している。(例えば母が死んだ後、父に宛てて書かれた、あの悲しくも美しい手紙)。モーツァルトの中では野卑と神聖なものが同居していた、いや、そのふたつはおそらく彼の内ではひとつのものだったのではないかと思う。もとよりこの特殊な人格にあっては、それらを区別する必要などなかったように〜彼の音楽を聴いていると〜思われてくる。死ぬ間際の手紙で「人生は美しかった」と告白しているモーツァルトは、神を信じ人間の善なるものを信じていた。だからこそ、そのような人間が書くところ、どんな音楽も美しく響くようになる。モーツァルトは魔笛の終曲を作曲する時、どんな場面を想像していたのか? それは勿論私たちに判るはずもないが、しかしモーツァルトなら、タミーノだけでなく、パパゲーノをも祝福しようと〜ごく自然に〜考えるのではないだろうか。
 魔笛は元々美しいオペラだが、それがこのような形で演奏演出される場に居合わせたというのは、幸せであり、また幸運なことだったと心から思う。


2000/1/5 (水)

 詩人の書いたことを読者に理解させるのは詩人の責任でしょうか?
 それとも理解するのは読者の責任なのでしょうか?


 これはもう10年ぐらい前だったか、「ユリイカ〜特集ミヒャエル・エンデ」の中に載っていた、エンデ自身による“親愛なる読者への30の質問”の中の一項である。この“30の質問”はどれも、質問というよりはエンデの思想を示すものとして大変に興味深いものなのだが、差し当たり今はエンデの思想は置いておいて、私がこの質問を読んでどう考えたかを主に受け手の側について、書いてみたい。

 まず、結論から言えば、この問いに対する私の答えとしては「双方に責任がある」ということになる。いや、もっと厳密に言えば「詩人は、書かれたものを理解しようとする真摯さを持つ読者には最低限理解させる責任があるし、逆に読者は、そうして真摯な姿勢で書かれたものを理解するよう努めるべきである」ということである。つまり、創作物の理解とは相互の信頼によって成り立つものであり、それは言い換えれば創作物を媒介とした一種のコミュニケーションだと私は考える。自惚れかもしれないが、おそらくエンデも似たようなことを念頭に置きながら、この質問を書いたはずだ。

 この“質問”を初めて読んだのは確かまだ10代の頃ではなかったかと記憶しているが、私はしかし最初からそういうことを考えていた訳ではない。この問題について色々と考えてみるようになったのは、19歳の頃だったかに書いた短編小説を、まわりの人に読んでもらった時からだった。
 小説の内容については本筋から外れるので今は言わないが、問題は、その時、3通りの反応があったことだった。ひとつはほとんど無反応。別のケースでは構文上の添削(苦笑)、また別のケースでは感情的な反応〜当時「読んで、恐かった」と言われた記憶がある〜だった。このうち一番嬉しかった反応はどれか? これを読む貴方にはお判りだろうか。
 答えは3つ目の反応である。それは私がそうであって欲しいと願う通りに読者が「恐い」と言ってくれたからであるが、それよりも重要なのは、そういう感情的な感想が出てくる背景には、自分の書いたものを相手が信頼して読んでくれたということがある。そうでなかったら、そういう感想は出てこないからだ。
 また、当時は若かったので(汗)、無反応な人にも結構しつこく「どこが良かった悪かった」というのを聞いたりもした。勿論というか、それは失敗に終わった。結局判ったのは、その人が冷淡な姿勢で流し読みをしたらしいということだけだった。その後、ピアノを弾いている時にも、その人には、やる気を減衰させるようなことを度々言われたりしたのだが、それらは苦い経験となって私のうちに残ると共に、ある経験則をも与えることになった。小説であれ、音楽であれ、また単なる雑談であれ、少なくとも真面目に受け取る姿勢のない人にはなにも伝わらない〜伝えるのは不可能だ〜、ということを、である。コミュニケーションにあっては信頼は大前提でなければならない。

 更に別の例。ある日の朝方、私は眠い頭のまま、ひとりでショパンの第3スケルツォを聴いていた。聴いているうちに、私はとても苛々してきた。冒頭の不安定な4連符とそれに続く“ff”の和音からして神経に障ったし、なにより提示部第2主題の分散和音が、なにか自己憐憫でさめざめと泣いているみたいに思われて、やりきれなかった。この時は途中でCDを止めてしまった。
 それからしばらく経ったある日、もっと頭がはっきりしている時、私は第1スケルツォを聴くためにCDを掛けたのだが、なんとなく聴いているうちにいつのまにか考え事をしてしまい、気がついたら曲は第3番になっていた。ところが、同じ曲なのに、今度は印象がまるで違っていた。以前聴いたのと同じ変ニ長調の分散和音は、繊細で、ひたすら優しく甘く、美しかった。
 こんな経験があってから、私は“受け取ること”に別の疑問を抱くようになる。スケルツォの例では、分散和音の美しさに聴き惚れながら「俺は今までなにを聴いていたんだろう?」と思った。たった眠いかどうか程度の違いでさえ、曲の印象はがらっと変わってしまうことがあり得る。自分の評価というのはなんと頼りないのだろうと思った。もし頭のすっきりした時にこの曲を聴かなかったら、この曲の美しさに気がつかずにいたかもしれないのだ。
 寝ぼけた頭で聴いていた以前の私は、ショパンに対して誠実だったと言えるだろうか? 否である。誠実な受け手だったら、相手の言うことを“聞く”のではなくて“注意深く耳を傾ける”ものではないだろうか。勿論、こういう姿勢はショパンを信頼していなくてはできないのだが、それと同時に信頼がなかったらショパンがこの曲で表現したかったものに気がつかないことにもなる。この差は決して小さなものではない。

 受け手、というのは実のところ傍で考えるほど呑気なものではない。「受け取り方は人それぞれであり自由である」というのは「他人に要求してはならない」という限りにおいて真実だが、しかし例えばある彫刻を正面からしか見ない人がいたとしたらその人は誠実な鑑賞者であるかどうか。その人が「どんな見方をしようと自分の勝手」と主張するのはその人の権利であり、それを止めさせる権利は他人にはないが、しかし私だったら、その人が目の前の彫刻についてなにか言ったとしても、彼の言葉を信用することは到底できない。

 作品を味わうというのは難しい。「感性で受け取ること」も確かに大切だが、だからといって読解力や審美眼が不要かといえばそんなことはないのであって、一般に“感性”と呼ばれているものですら訓練によって鋭くすることはできる。というより、感性だけが鋭くて読解力がない人なんているのかどうか。少なくとも読解力のある人は、そうでない人に比べて、作品に隠された“美しいもの”をより多く発見できるはずだし、それはとりもなおさず、その作品からより多くの感銘を味わえることを意味する。
 ただしもちろん、ここでも「信頼」は大前提である。信頼がなくてはそもそも美しいものを発見することなど出来ない。「俺は基本的になんでも疑ってかかる」と自慢げに言う人を私は見たことがあるが(プライベートでの経験なので、これを読んだ貴方がギクッとしてもそれは気のせいです)、それは哲学者や研究家の姿勢としては正しいものであっても、芸術鑑賞の分野においては必ずしも正しいとは言えないのではないだろうか。

 最後に。理想としては、誰でも一度は、ものを作って発表する、という経験を持った方が良いと私は考えています。それによって作り手が、自分の作品をどんな風に受けとって欲しいか、どんな感想を貰うと嬉しいか、逆にどんな受け手が嫌か、等々が明確に見えてきますから。
 ただし、作る際には手抜きは厳禁ですし、作った後で「手を抜いちゃいましたかっこわらい」などと言って逃げ道を作るのも駄目です。
 更に。今日の日記は「欠点を指摘するのがいけない」とかいう趣旨ではまったくありません。端から批判的な姿勢でものを見ている人は論外としても、大抵の場合、欠点を指摘されることは作り手にとって有益であり、感謝するべきことです。

(参考文献)
・文章読本/谷崎潤一郎

(もっとももう何年も前に読んだのでこの本であってるかどうかは不明)
(そうでなくても読んでみる価値のある本ではありますが)


2000/1/4 (火)

■D〜その景色の向こう側〜(非ネタバレ)

 夜の9時頃から始めて、そのままノンストップで翌朝6時頃までかけてクリア。飽きっぽい私にしては奇跡である。(笑)
 そのくらい面白かった。ただし、面白いといってもこれは絵や文章に酔ったりするゲームとは少し違うかもしれない。文章が私好みだったことは確かにあるが、それよりもこのゲームはプレイヤーに恐ろしい緊張を強いるため、そのために途中で止めることが難しいのである。疾走する夜行列車という閉鎖された空間の中で、主人公は謎の事件に巻き込まれ、彼は列車内を歩き回って事件の解決を目指す。言葉にしてしまえばそれだけなのだが、実際にゲームをやってみると、一言で言って「恐い」。それは3Dダンジョン系のRPGをやる時の臨場感、先になにがあるか分からない恐怖に一番近いものがあるだろう。あるいはいっそ、バイオハザードを初めてプレイした時のあの恐怖を思い出してもらっても良い。ひとりで見知らぬ館を歩く恐さ、見たことのないドアをはじめて開ける時の恐さ。それに加えて、このゲーム世界では時間の歪みという概念まであって、自分の立っている場所はいよいよ不確かなものにされ、プレイヤーは迷宮の奥に迷い込んだような錯覚を覚える。そして、プレイヤーは先に進まずにはいられなくなる。この辺りの演出は非常に巧い。
 文章。これは人によって好みが分かれるかもしれない。癖がある、というのではないが、理屈っぽいというか専門用語ともうんちくとも取れるようなテキストがしばしば出てくるので、合わない人は合わないだろう。これは例えば村上春樹の小説の一部、漫画でなら川原泉、ゲームなら剣乃作品などを思い浮かべて貰えば、あるイメージを与えられるかもしれない。まぁ、ある種の知的な遊びとでも言うべきもので、こういうのに心地よさを感じる人なら読んでいてストレスは感じないだろうと思う。私自身は、このゲームのテキストにはある種の上品さを感じて、それがとても心地よいと感じた。
 音楽も、ゲームの雰囲気を盛り上げるために非常に良い仕事をしているし、絵の美しさも申し分無し。今にして思えば、中古で買ったのはメーカーに失礼だったかもしれない。
 最後に、このゲームは“謎”だらけですし、謎がすべて合理的に解決(説明)される訳ではありません。ゲーム開始当初は目的すら不明なまま進行します。よって、謎それ自体を愛することの出来る人、謎の持つあの奇妙な雰囲気自体が好きな人、でなければお薦めはできません。
 最後に忘れてはならないことがひとつ。シャルロット萌え。以上。(爆)


2000/1/1 (土)

■デアボリカ(ネタバレ注意!未プレイの人は絶対に読まないように!)>特にDMH17氏

 ONEにするかKanonにするか色々迷った挙句、今年最初にプレイするゲームはこれは決定。途中、風呂に入るために中断した以外はノンストップで最後まで行ってしまった。6時間ぐらい掛かったが、不思議と疲れはない。これだけの長時間モニターの前に座っていること自体、私には奇跡のようなものなのだが、しかしデアボリカをプレイして退屈だと感じたことは今までに一度もない。このゲームには、他のどんな作品にも増して、密度の濃さがある。表現の美しさということであれば、他にもONEやKanonや終末の過ごし方なんかももちろん名作と呼ぶに相応しいゲームだろうが、デアボリカでは、美しいということに加えてその内容の密度の高さに、私は驚かされ、強く惹きつけられる。
 それにしても毎回思うことだが、このゲームをプレイする時ほど、先の展開が判ってしまうことを残念に感じることはない。こうして書いている今でも、私は一昨年の初夏だかにこのゲームを初めてプレイした時の衝撃を懐かしく思い出す。

 例えば1話。アズライトが町長のところへ行かなければならないという時、私はレティシアを独りで(ホントはじいさんがいるが)あの家に置いていくのが不安で不安でしょうがなくて、クリックするのが恐かった。毎日、部屋に帰ってきてレティシアの顔を見ると、本当にホッとしたものだ。また、後半のあの展開。永井豪のデビルマンを思い出して心が凍る思いをしたのは、おそらく私だけではあるまい。そして、やっと逢えたと思った瞬間…。言葉通り、プレイヤーはアズライトと同じく天国から地獄へ落とされる。あの時、私は泣くことすらすでにできなかった。ただ、街の人を皆殺しにするアズライトをみながら、虚ろな気分で「当然、こいつらは皆殺しにされるだけのことをしたのだ…」とぼんやり考えていた。

 例えば2話。ジゼルとの出逢い。ジゼルがレティシアだと判った時のアズライトの驚きは、まさに私の驚きでもあった。錯覚だと言われようと、私は恐ろしいほどアズライトにシンクロしていたように思う。更に、終盤。メリーゴーランドのふたりのCGの美しさ。それは涙が出るほど美しくて、それゆえいつ壊れるのではないかとハラハラせずにはいられなかった。

 例えば3話。菫青とデューンの正体が判った時の衝撃。ここに来てレティシアは、アズライトに守られるだけの受動的な存在であることをやめる。この回はアズライトもレティシアも終盤まで出てこないという異色の話なのだが、前編通じて考察してみると、非常に興味深いことが語られているように思う。

 例えば4話。アリアの犠牲。ことにラストの一枚絵、菜の花畑に独り佇む凶アリア。驚きではもちろんないが、寂寥感とも違う。アリアの孤独が伝わってくるような…と言ったら言い過ぎだろうか、悲しい絵。

 例えば5話。BGM“懐かしい街”を背景に語られる、完璧に幸せな世界。しかしここでも、あまりに完璧に美しいゆえ、プレイヤーは却ってそれが失われる時のことを恐れずにいられない。そしてそれが現実になる時、プレイヤーは再会の喜び以上に喪失感を味わうことになる。残された親たちは一体どうするのだろう? 偽装された死体を発見した時の光景は想像を絶する。以前が幸せであればあるほど、それが壊れた時のショックは大きい。冷静に見られれば「対照の妙」とも言えるが、そんな呑気なことを言う余裕は私にはない。
 また、結婚式のシーンの美しさ。つい「永遠の恋人たち」なんてフレーズが口から出掛かってしまう。(いや、実際そうなのだけど)
 その後、アリアとレティシアの出逢い。「言葉にならない」なんてことを書くのは文章書きとしては責任放棄だという気がするが、しかし「ぼろぼろ泣きました」とでも言う以外に、私はこの場面についてなんと言って良いか判らない。しかしそれでも書くとすれば、多分、本来的には愛にエゴイズムは付き物だが、アリアとレティシアにはそれがないのだ。彼女たちは、ひとりの男性を愛しぬいてその愛を昇華させてしまった同士ゆえに、お互いに分かり合うことができた、と言ってはいけないだろうか。それだからこそ、アリアのずっと閉じ込めていた“心”を再び蘇らせ得たのではないだろうか。

 なんとなくつらつらと衝撃を受けた場面を書き出してみたが、これらは皆、初回プレイでの印象である。どうして先の展開が判ってしまうと残念なのか? これはつまり「身構えてしまうから」というのが答えになる。もちろん、身構えていたってこれほどの名作となると感動せずに通りすぎるなんてことはあり得ないのだが、それにしても2回目以降のプレイでは、例えば4話のラストでアズライトがピンチの時、アリアが身を呈して助けてくれることを私たちは既に知っている。これはないものねだりというものなのかもしれない。しかし、あの、初プレイ時の、ありうべからざる光景を眼前に突きつけられる慄き、を再び味わうことができないことを、私はどうしても残念に感じてしまうのである。


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