日記、あるいは雑記

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1999/12/31 (金)

 今年一番大きな出来事、といえばやっぱりホームページ開設したことだろう。この程度のサイトでも、自分で運営するとなると想像以上に大変なのだが、なんとか半年間走ってこられた。忙しくて忙しくて、時には人に愚痴ったりもしたけど、こんなに充実した1年はなかったように思う。うちのサイトに来てくださった皆様、特にBBSに書きこんでくださった皆様、本当にありがとうございます。私がなんとか頑張れたのは皆様のお陰です。いや、マジで。

 来年もどうぞよろしく。


1999/12/29 (水)

 久しぶり〜10ヶ月振りぐらいだったか〜に実家に帰ってみたら、妹(19歳)がなんか綺麗になっていてちょっとびっくり。高校生の頃はそれほどとも思わなかったのだが…。(苦笑)
 そのことはともかく。実家で発掘して持ちかえったもの一覧。

・LD本体
・「とんがり帽子のメモル」LDBOX1〜3巻
・「ッポイ!」1〜12巻
・「幽白」16、18巻
・「レベルE」1〜3巻

 ただでさえ狭い部屋にこれ以上モノを増やすのもどうかと思うが、ま、気持ち的に、良いものはやっぱり手許に置いておきたい。

 さてさて、今日で3日目。

 今年出逢ったゲームたち(後編)

■終末の過ごし方
■Kanon

 2種類のオーケストラがある。ひとつは、第1ヴァイオリンやフルーティストやその他色々のパートに強烈な個性を持った逸材を得ており、演奏会において、聴衆はある場所では第1ヴァイオリンの素晴らしいテクニックに酔いしれ、別の場所ではフルートの甘美な調べに心をとろけさせるようなもの。もうひとつは、個々の楽員たちはみな豊かな音楽性と技術を持っているが、それらは指揮者の完璧な制御下に置かれていて、演奏会においては個々の楽器が個性を主張するというより、すべての楽器が溶け合ってひとつの巨大な“音楽”を形成するタイプ。こういう演奏では、同じ旋律でも聴衆はヴァイオリンの音色に酔うのではなく、音楽それ自体に酔う。聴衆は、自分が今聴いているのがヴァイオリンの音色であることを忘れてしまったりもする。これは、J-POPSであってもおそらく同じ事で、例えばある曲を聴いて、「良いボーカルだ」と感じるか、「良い歌だ」と感じるかの違いだと言っても良い。ただし、私はここで、どちらかの演奏がより優れているということを言いたいのではない。どちらも素晴らしい感銘を与えることができる演奏に違いないのだから。
 さて、前置きが少し長くなったが、私見では、『Kanon』は前者であり、『終末〜』は後者のタイプに属する。『Kanon』では、音楽、テキスト、CGすべてにおいて卓越した才能の持ち主たちが集まってひとつの物語を作っているが、そのなかでも個々のパートはその個性を強烈に主張することをやめない。私たちは『Kanon』をプレイする時、ある場所では素晴らしい音楽に酔い、ある場所ではテキストの妙味を愉しみ、別の場所では絵の構図の絶妙さに感嘆する。そして、各シナリオのエピローグではそのすべてがある。
 対して『終末〜』は、個々のパートにおいて人材を得ている点に関しては同じだが、それぞれのパートは個性を主張するというよりひとつの物語を作ることに自分を捧げているという観がある。個性は綺麗に溶け合って、あとにはひとつの物語だけが残る。本当に綺麗な和音とは、調和が完璧でそれが和音であること(複数の音で出来ていることを)を忘れさせるものなのである。『終末〜』という作品は、この点において他のどのゲームにも真似することのできない境地に達していた。

 あと、個々の内容に関しては後日書く予定の感想にて…。


1999/12/28 (火)

 今年出逢ったゲームたち(中編)

 …まだ『Kanon』『終末〜』『RISE』『加奈』『とらは2』『SilberMoon』という名作傑作群が手付かずで残っているのかと思うとぞっとするけど、ま、しょせん日記と称した備忘録。適当にいきます。(爆)

■SilberMoon

 どこかのBBSで「(ONE+痕+MOON)÷3」みたいな紹介をされていて、興味が出たため購入。実際にプレイしてみると、確かに上記の名作ゲームの設定を足して3で割ったような印象のゲームで、なんというか、足して割った結果、薄味になってしまったかなという気もしないではないのだけど、部分的には色々と秀逸なテキストがあったりしてまず佳作以上のつくりではある。ことに、真琴シナリオにおけるヒロインが、主人公との出逢いを通じて内気な少女からひとりの女性に変わって行く様は美しさすらある。詳しくは「感想」参照のこと。

■RISE

 今年最大の、隠れた名作。知名度の低さは、とらは、銀月を遥かに凌ぐ。(ォ
オフィシャルサイト以外でこのゲームの話をすることは不可能に近いだろう。(激爆)私の知る限り、話題が少しでも出ていたのは麻枝准氏の個人BBSだけだった。これほどのゲームがまともに世に出ずに埋もれているというのは一体どうした訳だろうと常々思うのだが…やはり〜当初の私のように〜あのロリチックな絵柄で皆引いてしまっているのだろうか? いずれにしても勿体無いと思うのだが。
 このRISEというゲーム、設定はロボット育成というだけで、特に目新しさがある訳ではないのだが、その外観からは信じられないほど、ゲーム中では真面目なことが語られる。『人間生活の中におけるロボットの存在意義』をこのライターはかなり真剣に考えているようだ。ここには東鳩のように「ロボットだって心は必要」と語る楽観主義はない。むしろ逆に、RISEではロボットの存在意義について、常に疑問符が提示されている。そして、その疑問符はななこにまともにぶつかってくる。ななこは人間に近い精巧なロボットゆえに、却って自分がロボットであって人間では絶対にないという事実を突きつけられることになるのである。
 しかしこのゲームは別に悲観主義に彩られたゲームという訳ではない。このゲームが素晴らしいのは、問題を提示するだけに留まらずにロボットが人間社会で生きる可能性すらをも提示している点にある。ななこは、自分が人間では絶対にないという事実に悲観したりはしない。むしろ、ななこは自分がロボットであるという事実を認めた上で、自分にできること、自分にしかできないことはなんだろう? と考えるのである。
 ななこはマルチのように特定の目的を持って作られたロボットではなかったゆえに、自分の存在意義について悩むことになるのだが、私はそこにより真実な“人間”を見る。人間とはマルチのように美しい存在ではないのだ。しかしそれゆえに一層、誠実であろうとする時、努力する時、人は美しい。
(私は別に「性悪説」支持者じゃありません)

■ぷろすちゅーでんとGood

 『阿寒湖まりも』がすべて。いや、そうではなくて…。(汗)
 こういうゲームはアリスでなければ作れないだろうな、と思わせる、アリス節全開の莫迦ゲーだが、後半になってテンションが低くなってくるのが残念。ただ、前半の面白さはそれを補って余りある。マニアックなテキスト、マニアックな音楽等々に快感を憶える俺は社会復帰は無理だろうか?(爆死)

■加奈

 『痛いゲーム』ということでは間違い無く今年一位だろう。私の周りの人たちも軒並み壊れていたようである。こんな書き方から始めなくてはならないのは心苦しいのだが、しかし私は最後まで感情移入しきれなかった。『泣きゲー』であるという先入観が抜けなかったせいで、泣かされることに対する警戒が生れてしまっていたようだ。
 終盤の展開は反則的に泣ける〜人が死ぬ場面に“感動的”なんて言葉を使ってはなるまい〜し、私も実際泣いた。しかしそこに「ここで泣かないのはおかしいから…」という演技の要素が自分のうちにあったかもしれないという疑惑を、どうしても拭えないのだ。
 ただ、「加奈はどういうゲームか?」と仮に問われたとすれば、私は「良いゲームだ」と即答するだろうと思う。こんなことを言ったら怒られそうだが、実はこのゲームに本当に引き込まれたのは加奈が死んで以降の展開だった。例えば、加奈のあの悲痛な臨終の後、感傷に浸る暇も与えずに「臓器移植」の提案がされる。恐ろしく残酷なシーン。先に「感情移入できなかった」とか書いておいてなんだが、この場面だけは、私は主人公に完全に感情移入していた。加奈の体にメスが入れられる場面を想像した時の戦慄は、これからもずっと忘れられないだろうと思う。これを書いている今でさえ、思い出すと泣きそうになる。
 もうひとつ。こちらは感情移入とはまったく別の問題だが、加奈をやって良かったと本当に思ったのが「エンディング3〜夕美エンド・迷路から〜」を見た時だった。加奈を失って自分の殻に閉じこもってしまう主人公の描写のリアルさと、夕美の献身。すでに手垢のついてしまった言葉かもしれないが「無償の愛」がここにはある。私はED6よりもこちらの方がずっと好きだ。ED3の彼女は言葉通り美しい。

■姉妹いじり

 えっちシーン目当てに買ったゲームそのに。その意味でいえばこれも当たりゲーだった。なんといっても、最初のうちはあからさまに主人公を敵視していたり怯えていたりするヒロインたちが、だんだん快楽に溺れていき、従順になるという展開がすごく良い。特に後半になると、調教というより「らぶらぶいちゃいちゃ」なノリに変わるのは非常に俺好み。(莫迦120%)
 あと、上記とは関連はないが、このゲーム、「女体盛りED」というのがある。これが抱腹絶倒の面白さ。このエンディングを見るためだけに買っても損はないでしょう。(→○○氏&○○○○○○○氏(笑

■Promise

 えっちシーン目当てで買ったゲームそのさん。同じく当たり。「愛のある主従関係」(←あのカップルを恋人関係と呼ぶのはむしろ欺瞞というものでしょう)に浪漫を感じる俺の好みにジャストフィット、だった。(駄目人間200%)

■とらいあんぐるハート2

 タイトルは別に「2」である必要はなかったのでは…とも思うが、都築節=とらいあんぐるハートという公式(謎)に当てはめれば別に問題はないのだろうか。
 ともかく、究極萌えゲーの続編である。このゲームにおいてしばしば指摘される弱点のひとつに、プレイ時間が長すぎて中だるみしてしまうというのがあるのだが、私もそう思う。前作と比べるとゲーム期間も約1年とぐっと伸びたが、その分前半半年ぐらいは変わり映えしない日常を過ごさなくてはならない。これは、せっかちなプレイヤーにはかなりキツイものがあるだろう。私などはこのシステムゆえ未だに4人しかクリアしてない。
 でも、と最近思うのだが、とらはシリーズのテーマのひとつは「汝の日常を愛せよ」(by「ここはグリーンウッドOVA」)なのであるから、あのシステムを受け入れることと都築作品を受け入れることとは同じなのかもしれない。
 シナリオ。これは相変わらず文句無し。都築氏のキャラクターに相応しく、みんな優しい。男がひとりだけとかいう低俗な意味ではなくて、あの女子寮にはなにか理想の生活空間がある。あれだけ個性的なメンバーでありながら、お互いの間には家族のような信頼がある。とらはシリーズだとか〜最近では『フォークソング』とかもそうだが〜をプレイしていると、私はきっとこういうゲームに逢いたくてゲーム遍歴をしているのだな、なんて思う。

Alle menschen werden Bruder,
Wo dein sanfter Flugel Weilt.

〜その優しい翼の元で、すべての人は兄弟になる
(ベートーヴェン「第9」より)

…疲れたので後編に続く。


1999/12/27 (月)

 今年出逢ったゲームたち(前編)

■ウィザードリィーリルガミンサーガ

 今年最初(1月1日)に買ったゲーム。システム的には、フルマウスオペレーティングになって、98版に比べて面白さが削がれてしまった観がある。例えば、呪文やトラップをキーボードから直接入力できないこともそのひとつ。このシステムがどんなにプレイヤーの感情移入を助けていたか、と考えるのは、98版を体験している私の感傷だけではないと思う。
 もっともウィザードリィー本来の魅力は失われている訳ではないので、楽しめるということでは買って損のないゲームには違いない。
 個人的には98版でついに入手できなかった「Ring of healing」と「Priests Ring」を拝むことができたので、まずは良し。ちなみに「2」は、2階の謎で詰まった後、攻略本を読んで最短ルートを通ったら30分と掛からずに終わってしまい、唖然としたのも思い出。(笑)

■ときめきCheckin

 えっちシーン目当てに買ったゲームそのいち。しかしえっちシーン以外もそこそこ楽しめたので、まぁ佳作程度とは呼べるだろうと思う。主人公と賄いさんとの掛け合い漫才はかなり笑える。笑いがあって、えっちもそこそこ濃い(特に女子大生コンビが○)ので、値段分は回収できた。別にどうでも良いのですが、このゲーム、攻略本を見ながらメッセージスキップして進めると5分でエンディングにたどり着きます。(笑)

■久遠の絆

 今年の当たりゲーのひとつだが、買った当初は実はなんの期待もしていなかった。元々買った動機はリーフのオフィシャルBBSで話題になっていたからだったのだが、私としてはコンシューマーという時点でPC18禁のような“深み”は望めないだろうと考えていたからだ。
 ところが。プレイしてみると、自分の考えが偏見だったことが嫌というほど判って来る。特に、運命とでも呼んでしまいたいような何かに翻弄される人間たちの弱さ〜それゆえに生れてくる醜さ〜を、描くことをも敢えて辞さなかった脚本家の姿勢は大変素晴らしい。真実は仮借ない表現の中から生れてくるものなのだから。
 作中では、やはりというか、平安編が一番面白いと思う。というより、他の時代は印象が薄い。なぜ何回も転生するのか?という部分が、同じ系統のデアボリカと比べると説得力が弱い気がするのだ。とはいえ、同じ人間であっても生まれ育った環境によって敵になったり味方になったりする、という辺りの描き方は面白いといえば面白いのだが。
 最後に、キャラ萌え的には断然、桐子&栞。(*^-^*

■Campus〜桜の舞う中で

 実は、このゲームについてはあまり語りたくない。嫌なことを〜というのは自分の短気さを呪うという意味において〜思い出してしまうから。
 ともかく、Campusといえば彩女シナリオと麻由美&智里シナリオであろう。このふたつは、単に面白いというだけではなくて、熱い議論の対象になったという点でも非常に興味深い。特に麻由美&智里シナリオに関しては、エーテルのオフィシャルBBSでかなり多彩な議論が展開されていたりもした。私としてはそれに付け加えるべきことはなにもないので、今回は彩女シナリオに関して少々。
 なぜ、彩女シナリオは一回バッドを通らないとハッピーエンドにならないのか?
 ここには、実は計算された意図がある。つまり、彩女の運命をプレイヤーに知らせるためだ。バッドエンドにおいて、彩女は自殺する。短刀で自らの胸を突くということ以前に、解呪を決意したということがすでに自殺である。なぜか?はゲーム中で語られていることだからここでは繰り返さない。むしろここで問題なのは、彩女が隆景に出逢い、ふたりが結ばれた時、彩女の運命は決してしまった〜死ぬ以外に選択肢がなくなってしまった〜という事実である。ハッピーエンドでは、そこに隆景の助力が加わって彩女は助かるのだが、もし最初から容易にハッピーエンドに行くことが可能だった場合、彩女が死ぬしかなかったという事実をプレイヤーに十分に納得させることができたかどうか。演出上はバッドとハッピーの対比と見ても良いが、それよりも彩女の悲痛な運命を十分に引き立たせるためには、どうしてもプレイヤーにバッドエンドを見せておく必要があったのではないかと思うのだ。彩女ハッピーというのは実に危うい可能性の上に成り立っているということを、どうしても、作者は描きたかったに違いない。

■とらいあんぐるハート

 知る人ぞ知る最強の萌えゲーである。(笑)このゲームも、久遠の絆と同じく、リーフBBSで話題になっていなければ買わなかっただろう。当初は小鳥が好きだったが、最近はさくらも良いなぁなどと思う。少なくとも萌え〜というか漢の浪漫というか〜の方向を一番追求しているのは間違いなくさくらシナリオだろう。「私が“先輩”って呼ぶのは相川先輩だけだから…」に始まって、ワインの口移し等など、とにかくプレイヤーのツボをつく描写はピカいち。ここにはある種のくすぐったい快感すらある。
 あと、このゲームは選択肢がシビアでないのも非常に面白いと思う。例えばさくらがワインを口に含んだ時に「笑わせる」なんていうのもアリだし、瞳先輩の選択で「果たし状ですか?」を選んでも「今日は違うみたい…」とあっさり返されてしまう。(笑)普通のゲームのヒロインなら怒るかもしれない場面なのに。
 またその一方で、さくらシナリオのエンディングやいづみシナリオの中盤などはかなり真面目なことが語られていたりするのだが、いずれにしても都築氏という人は真面目な人であり、人間性を信じている人のようで、いつも、解決は非常に優しい。実のところ、私にとっては「萌え」云々よりもこのことこそ都築作品の魅力であり、非常に重要な特徴だと思う。都築作品には基本的に人間同士の衝突が少ない。すべてのキャラクターは、いつも、相手に対する気遣い、思いやりにあふれているからで、すれ違いが起こることがあってもそれはキャラクターたちが優しすぎるからであり、そしていつも、都築氏はそういうキャラクターたちに、この上ない幸せな解決を用意する。
 そういう意味では、これは密かに「癒し系」のゲームなのかもしれない。

■東鳩(PS版)

 ぢつは未だにマルチ、葵、しかクリアしてなかったりする。というか、あかりの攻略に失敗した時点でやる気大幅にダウン。正直言って、このゲームに対してはどう言って良いかよく判らない。マルチが、葵ちゃんが喋っているという事実にとにかく感動してしまって、それだけですべておっけーだったから。(笑)
 せっかくなのでついでに、PC版マルチシナリオに関して少々。マルチシナリオにおいて、マルチが主人公に惚れるのは判る気がするのだが、逆に主人公はマルチに本当に惚れていたのかどうか? これは、どこかのBBSで出ていた話題だったのだが、私も同感である。マルチを抱いた時点で主人公はマルチに恋していたのかどうか? 私見ではこれは「NO」である。主人公がなぜマルチを好きになったのか?ゲーム中で語られていることだけでは説得力に欠ける気がする。ではマルチシナリオとはなんなのか? こういう解釈はどうだろう。主人公はマルチを抱いた時点で、マルチに恋しているのではなかった。正確に言えば、主人公が抱いていた感情はマルチへの“同情”であり、彼はそれを“恋”と勘違いしていたのではないか。といっても勘違いして欲しくないのだが、私はマルチシナリオを恋愛モノでないと言っているのではない。マルチシナリオは依然として恋愛を描いたシナリオであり、その描写は非常に独特の面白さすらある。さて、主人公がマルチのことを本当に好きになったのはいつだったのか。その切っ掛けはおそらく、マルチと別れた朝ではなかったろうか。別れの朝のマルチの笑顔は、主人公には忘れられないものだった。そうしてマルチのいない日々を過ごす中で、主人公の胸のうちでマルチの存在はどんどん大きくなっていく。その過程で、主人公は、自分がいつのまにかマルチを好きになっていることに気づく。別れから始まる恋愛、というのが、実はマルチシナリオではなかったのか?などと、最近私は考えるようになってきている。

今日はここまで。以下中編に続く。


1999/12/19 (日)

 車のオイル交換の待ち時間に、リルケの書簡(久しぶり)を読む。友人からは、オイル交換ぐらい自分でやれと言われるのだけど、私は30分あったら本を読む方が良いと考えてしまう人なので、いつも他人任せ。
 リルケは相変わらず良かった。言葉通り、心が洗われる心地がする。こういう時は、世界が妙に美しく見えたりするものだ。宮崎アニメを観終わった後の空気の心地よさ、とでも言えば、少しは伝わるだろうか? 
 …まぁ、伝わらなくたって誰が困る訳でもないのだが。(苦笑)

 性癖の暴露ということについて。
 以前、BBSで、自分の好きなもの嫌いなものについて語ることは自分自身について語っているに等しい、ということを書いたのだが、どうも私の意図が伝わっているのかどうか心許ないので、改めて書くことにする。
 まず、好きなものについて語るといっても、「○○萌え〜」とか莫迦なことを言う程度は別に問題ないし、私はこの本が好きでこの音楽が好きで、という程度も、実は全然性癖を暴露することにはならない。それは単に自分の趣味について語っているに過ぎない。では、性癖を暴露することはどういうことか? 
 ひとつには、「好き」が超個人的であり、本当に切実である場合だ。超個人的であるというのは、ある音楽なりを味わう際に、そこから得られる充実(感動)を他の誰かと共有する必要を全然感じないような孤独な充実のことであり、切実であるというのは(意味的にはダブるが)それが単に好きというだけでなくて、自分の人生にとってなくてはならないもののように感じ、まるでその音楽なり物語なりが、自分独りのために書かれたかのように錯覚するということである。
 少なくとも、私は、あらめる創作物を、自分の内部(人生)との関わり合いの中でしか理解できないし、またそれ以外のアプローチを望まない。私は「好き」という言葉をそういう意味で使う。

 ホームページを立ち上げた当初、うちには自己紹介のページがあったのだが、その中の好き嫌いの中に書かれていたことは、実はかなり切実だった。つまり、私が「So What?」を好きだと告白する背景には「誤解が優しく解決される」ということに対する憧れがある訳で、それはつまり、過去にそういう類の嫌なことがあったということに他ならない。
 また、嫌いなもの「失礼な行為」と書く時、その背景には必ず失礼な輩に悩まされた経験があるのだろういうことは誰でも想像がつくのではないだろうか。そうでなければ嫌いなもの=礼儀知らず、という発想はそもそも出てくるはずがないのだ。「MAC使いには真のアンチゲイツはいない、なぜなら彼らはWindowsを使ったことがないからだ」という言葉は実に真実の一面をついている。(笑)

 あえて残酷な言い方をすれば、好き嫌いというのはつまりトラウマ(心の傷)の裏返しに過ぎないとも言える。それを知っているからこそ、現在のインテリタイプの人達〜と一口に括るのも乱暴すぎるが〜は、嗜好について語るのを避ける傾向があるのだろう。

 『ONE〜輝く季節へ〜』というゲームがなぜあれだけ受けたのか?これには様々な説明をつけることが可能だろうが、文章のリズムの快感や絵の構図のセンス、それに音楽の美しさ等々を幾ら言葉を尽くして説明してみたところで、結局のところそれはONEの本質を言い当てたことにはならない。ONEはなぜあれだけ熱狂的に受け入れられたか。それは美しいからではない。ONEの中に、プレイヤーが切実に必要としていたものがあったからである。
 浩平は、あれだけ不利な状況にありながらも、ヒロインとの絆によって、えいえんの世界からの帰還を果たす。少なくとも別れの際に再開が辛うじてでも暗示されているのは澪シナリオだけで、他のシナリオ、特にみさき先輩シナリオにあっては、ヒロインにとってほとんど理不尽とも言えるよう形で彼は消えてしまう。しかし、ヒロイン達は浩平のことを忘れない。自分だけが浩平の帰る場所であることを理解していて、彼を待ちつづける。絆を作るというのは、言いかえれば自分の居場所を作るということになる訳だが、これは、友達や恋人がいてさえ時には耐えがたい孤独を感じることがある私たちにとって、切実な問題のひとつではないだろうか。ONEがなぜこれだけ支持されているかといえば、ONEという作品内で提示され解決されているものが、私たちの内面の要求にフィットしていたからに他ならない。

 つまり、「好き」だと告白することは自分の求めているものの告白であり、更に言えばそれは非所有の告白でさえある。好きなものについて語るのは、だから覚悟のいることである。特にインターネットのような、不特定多数の人が見ることができるような場所でそれをやるのは、もしかしたら一種の露出狂的行為かもしれないのだ。
 怖い、とはそういうことなのです。



 『賢い振りをするより、そうでない振りをする方が難しい』
 
 さるサイトの日記ページの中で見つけた言葉だが、私の記憶違いでなければ、これはラ・ロシュフコーの箴言集の中のひとつではなかったろうか?
 それはともかく。

 『世の中には2種類の莫迦がいる。有益な莫迦と有害な莫迦である』

 これは、小学生の頃だったかそれとも中学生時代だったか、国語の教科書のなかに書いてあっていまだに記憶している一節である。最近、この言葉の真実味をしみじみと感じる。
 ネット上で色々なBBSやら日記やらを読んでいると、時々、道化の役割を自ら演じているような人の文章にぶつかることがあるのだが、私はこういう道化を心から尊敬する。別に皮肉を言っている訳ではない。実際、私は自分がそういう役割をやる資質がないことを幾分残念に感じ、彼らを羨ましくさえ思うことさえある。
 道化という言葉はあまり良い響きではないが、その言葉のイメージとは裏腹に、道化を演じるというのは難しいことだ。道化に相当する英語は「fool」であり、更に日本語に直せば「莫迦」ということになるのだろうが、とんでもない。少なくとも有益な道化(fool)は、賢い人間でなければできるものではない。
 例えば、私の大好きな戯曲の一節。

オリヴィア 阿呆をあっちへつれておゆき。
道化 聞こえないのか、皆の衆? お姫様をあっちへつれておゆき。
オリヴィア あたしはおまえを連れて行け、と言ったのよ。 
道化 お姫様、失礼ですが、あなた様がいかに阿呆(fool)でいらっしゃるかを証明させて頂きましょうか?
オリヴィア できるかしらね?
道化 みごとやってお目にかけましょう。
オリヴィア じゃ、やってごらん。
道化 ではひとつ、教義問答をやらしていただきますかね。淑徳の誉れ高きわが娘よ、お答え召され。
オリヴィア そうね、うさばらしにちょうどいいから、おまえの証明を聞いてあげましょう。
道化 姫よ、なぜお嘆きじゃな?
オリヴィア 阿呆様、お兄様がお亡くなり遊ばしたからでございますわ。
道化 兄上の魂は地獄においでのようじゃな、姫よ。
オリヴィア お兄様の魂は間違いなく天国においでだわ、阿呆。
道化 とてつもない阿呆でいらっしゃいますぞ。お兄様の魂は天国にいらっしゃるというのなら、何でそうお嘆きになります。この阿呆を連れて行け。

『十二夜』(シェイクスピア作/小津次郎訳/岩波文庫)より抜粋。

 シェイクスピア作品に登場する“道化”というのは、王族に対しても対等の口を利く事を許されていた存在らしいが(なんのために?はひとまず略)、言葉通りの“fool”では到底勤まらないであろうことは、他の戯曲を見ても判る。
 道化というのは、少なくとも私にとっては、機知に優れた人のことであって、尊敬の対象でこそあれ、狂言回しのことではない。実のところ、世の中に潤いがあるのはこういう人たちのお陰であるとさえ言っても良いかもしれない。道化であることは、もっと誇らしいことであっても良いはずなのではないだろうか、というのが、私の言いたいことであるが…実のところ道化が誇りを持ったらそれはすでに道化ではないのではないかという問題も避けられないのが厄介といえば厄介かもしれない。ただ、道化に対する尊敬と感謝は、いつも持っていたいものだ、と思う。


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