鬱と電波と萌えな日記



はじめに.

 書いてる人(しのぶ)は基本的に情緒不安定な人ですので、日によって鬱な内容だったり毒電波が混入してたり下品な文章になったりすることがあります。合わないと感じましたら、読むのをお止めになることをお薦めします。

 日記内では、ゲームや漫画等のネタバレがしばしば含まれています。ネタバレ時は赤字にてその都度注意書きを加えますが、忘れることもあります。その旨予めご了承ください。


過去ログ
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2000/11/30 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#30


 昨日、美凪シナリオをやろうとしたら美凪ルートに入れなくて、仕方なく攻略サイトでチャートを拾ってきたのだが、チャートを読んでたら無性に腹が立ってきて、結局そのまま中断してしまった。
 今日、なんで腹が立つんだろうと仕事の合間に考えていた。そして。他人のAIR評価をある程度読んでいる私は、AIRの美しさを『発見』するためにプレイしているのではなくて、AIRの美しさを『確認』するためにプレイしているのだ、ということに気が付いた。それに気が付いた時、発狂しそうになった。多分、私がAIRを前にして身構えていたのは、他人の意見に流されてたまるかと思っていたからなのだ。

 AIRの美しさを発見するのは俺だ。そうでなかったらAIRをやる意味なんかない。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。他人は他人、俺は俺。

 さて、AIRやるか。


 AIR (key) −ネタバレ−

 美凪シナリオ読了。
 私は無口タイプのキャラタクーは苦手なのでそれほど期待してた訳ではなかったのだけど、どうして、意表を突いてくれる。いい娘だ。萌えなどは論外。可愛いというのとも違う。ただ、『こいつ、いい奴だ』と思う。心から。この娘と親友になれたらどんなに素晴らしいだろうと思う。私にとって美凪はそういうキャラクタ。
 シナリオ。世の中には、どんな言葉すら無意味だと思わせるほど美しいものがある。一生のうちで、言葉を失う、という体験を何回できるだろう、なんてことを私はたまに考える。一生のうちで、どれだけ美しいものに出逢えるか。20歳の頃から、これが私の人生のテーマだった。言葉を失うような体験をした時こそ、人生はやっぱり生きるに値するものだと信じられた。美凪シナリオは美しかった。いや、美しいかどうかじゃない。このシナリオを体験している時、私は幸せだった。現時点で他に何か言うべき言葉があるとは私には思えない。

 我に帰って2点だけ。
 まず1点。ラスト付近の金網のシーンの場面転換は反則すぎます。
 次に2点目。麻枝さんって、よっぽど佐祐理さんが気に入ってたんだろうなぁ。AIRの美凪シナリオ、私には佐祐理さん補完シナリオにしか見えません。美凪シナリオが単体で美しいのはもちろんなんだけど、Kanonの中でおまけ的に扱われていた佐祐理さんのシナリオが、もし独立した6個目のシナリオとして描かれていたら、そしてそれが完璧に顕現したとしたらこんな風になったのではないかと想像したくなります。
 多分、こういう風に言うことは許されるんじゃないかと思うのですが。すなわち、麻枝さんは美凪シナリオを描くことで佐祐理さんをも同時に救ったのだ、と。


2000/11/29 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#29


 AIR (key) −ネタバレ−

 7月23日。『よーいどん』エンド。
 泣きたいのに涙が出てこない。観鈴には特に好印象はないはずなのに無性に寂しい。観鈴と他人になってしまった感覚といったら良いのだろうか。いや、元々他人なのだろうけど、なにか違う。他人だと言えない。言ってはいけないと感じる。ひとつの可能性の、おそらくは消滅。『よーいどん』の時点から、おそらく観鈴と主人公の人生は再び交わることはないと予感させられる。別々の道を歩いていくしかなくなったのだ、と思わされる。主人公の意識と私の意識が一致しているかどうか分からないが、大切な物を失った感覚が、私にはある。なにか取り返しのつかないことをしてしまった感覚。どうして観鈴のことがこんなにも気になるんだろう。現時点ではただの頭の悪いガキなのに。別れ話以降の観鈴を見ていると、彼女から離れちゃいけないという気持ちにさせられる。主人公…いや、俺がいなくても観鈴はちゃんとやっていけるんだろうかと心配になる。
 あのな、俺は馬鹿なガキは嫌いなんだよ。俺の中に居座らないでくれ。あーもうなんでこんなに気になるかな。観鈴が手の届くところにいないと心配でしようがない。俺がしっかり手を掴んでいないと、消えてしまうんじゃないかという気にさせられる。ええい、そんな目で俺を見るんじゃない。俺はどこにもいかないよ。お前は馬鹿で放っておけないからな。


 日付がデタラメを極めてますが、1プレイ1日で書きたいんですよ。んで、過去方向に日付をずらす訳にもいかないからこういう記述をしてる訳なんですが。多めに見て頂けるとありがたいです。


 本当の11/29追記。
 月曜日の日記に書いた、作為がイヤラシイというのは、要するに喋り方でキャラクターの個性を出そうとして空回りしてる感じがしたのと、その個性化というのがあからさまにプレイヤーを萌えさせようという意図に基づいていると思えてそれが鼻についたってことなんだけど、3日目にして早くも慣れてしまった。今は観鈴も美凪もごく普通に受け入れられる。


2000/11/28 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#28


 AIR (key) −ネタバレ−

 佳乃シナリオ読了。
 完全に理解できた訳ではないけど、佳乃が無事だったのならそれで良い。他に何も要らない。ただ佳乃が隣で笑っていれば良い。何も起こらないくて良い。むしろ起こるな。俺は佳乃さえいれば良いんだ。

 エンディングは本当に綺麗だった。小道具のああいう使い方って私は好き。やまさん[PrivateGarden]は、以前お書きになったKanon名雪シナリオ考察の中で『家族からの巣立ち』ということを語っていたけれども、今回のAIR佳乃シナリオはちょうどそれをより意識的に明瞭に描いたという感じ。しかもそれが単にヒロインのみならず、主人公にとってもそうであるというところが面白い。佳乃は、自分を守ってくれていた家族の象徴である風船とバンダナを自ら解き放つ。主人公は、佳乃に出逢ったことで自分の力の意味を知り…あ違う、自分の力に自ら意味を与える。それまで、主人公の力に意味を与えていたのは母だった。主人公はしかし、母の言葉を捨てて、自分の力の意味を自ら獲得する。佳乃が風船を飛ばす時、それは佳乃にとって家族からの解放を意味するのだが、それは同時に主人公にとっても家族からの解放だった。ひとつのアイテムに、というか、風船が空に舞い上がって行くというイメージが、ふたり分の想いを象徴しているところが、すごく良い。

 いちお断っておくと、しのぶは佳乃萌えじゃないです。ただ佳乃に傍にいて欲しいと切実に願っているだけです。


2000/11/27 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#27


 AIR (key

 何気に始めてみた。ゲーム内時間で8月2日までプレイ。佳乃シナリオの途中。(DREAM編?)
 他人に気を遣って喋るのヤなんではっきり言っちゃうけど、なんか、キャラクターに実在感がない。ディスプレイの向こうに別の世界があってそこに人間がいる、っていう感覚が得られない。特に、観鈴と美凪がひどい。肉体性が感じられないというか、人形が作者の手で喋らされてるという感じ。萌えるとかそういうのとは別の次元の問題として、このふたりのキャラクターには魅力を感じられない。私の感覚としては、むしろ晴子さんやみちる等のサブキャラクターの方がリアルに思えて、萌え云々ではなく、魅力的に映った。正直に言っちゃいましょう。この程度かkey!! 確かにこのゲームの世界の雰囲気は優しくて、また美しくもある。けど、なんていうか心に届かない。あの世界に安住したいという気にさせてくれない。彼女たちを見ていると、なにか不安を掻き立てられる。なんで彼女たちに“悲しみみたいな何か”を背負わせるんだろう。そのあまりにミエミエな作為は、私を警戒さす。プレイヤーを泣かせたいのか!?とか思ってしまう。現時点での感想は、美しいけどただそれだけ、としか言いようがない。

 いや実のところ今本当に言いたいのは、佳乃に甘えられてーってことだけなんですけども。佳乃のためだったら何でもできそうな気がするよ俺。ホントに。佳乃みたいな娘、どっかにいないかなぁ。うーマジで佳乃欲しい。


 先日パソコンを買った同僚の自宅へ出向いて、インターネット設定とプリンタの接続(&ドライバのインストール)をやる。今のパソコンのマニュアルはクソ丁寧に書いてあるんだからそのくらい自分でやれよとか思わないでもないのだが、『教えてくれ』とかいう抽象的すぎて意味不明、早い話が迷惑な申し出では今回はなかったので、やってあげることに。

 ところでいざその人に家に行ってみたら、新品のパソコンは富士通のノート型でマウスが要らないタイプ(指でパネルをなぞるやつ)だったのだが、これがまた使いづらいことこの上なかった。いや、念のため書いておけば、それは製品が悪いということではなくて単に私がそういうタイプのやつに慣れていないだけなのかもしれないが、いずれにしても普通のマウスを使っている私から見ると、特に、ボタンを押したままの操作(D&D/範囲選択/スクロールバーの移動/etc...)が非常にやりづらい。あと、クリックボタン?が凶悪で、オートリピートが働いているのか?、ファイルの上にカーソルを持っていくだけで勝手にファイルが開かれてしまうということがしばしばあった。

 あと、プリンタのセットアップと試し印刷。うちのやつと違ってあまりに音が静かなのでびっくり。思わず新しいプリンターが欲しくなってしまった。


2000/11/26 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#26


 web日記とかぐるぐるしてて、なんとなく。
 (何も考えてません、その場の思いつきで書いてます、いわゆる自動書記)

 ある人の文章はその健康さが魅力。ある人の文章は不健康さが魅力。ある人の文章は真面目さが魅力。ある人の文章は不真面目さが魅力。ある人の文章は優しさが魅力。ある人の文章は毒が魅力。
 もちろん、文章の特徴とかっていうのは私が勝手にそういうイメージで見ているにすぎないのだけど、それにしても、たまにその人本来の(と私が思っている)イメージとはまったく違ったスタイルの文章を読んだりすると、私はなんだかギクッとしてしまう。伝わらないかもしれないけど、この表現でいいと思う。なんでギクッとするのかといえば、多分、そういう時、普段と違うスタイルの文章が出てきた時にこそ、最も強く、その文章の背後に『人間』を感じるからなんだと思う。
 普段は真面目な内容の日記を書く人がたまたま壊れ系の文章を書いた時、あるいは、普段壊れ系日記を書く人がたまたま真面目な文章を書いた時、そういうのを読んだ時、私は(妙な言い方に聞こえるかもしれないが)『ああ、この人も私と同じ人間なのだ』としみじみと思う。
 正直なところ、普段の私は文章の背後に人間を感じるということはあまりない。別に文章の内容がどうこうではなく、それとは違った意味で、ただ文章だけがそこにあって、書き手がいることを想像できないというか、まぁそんな感覚。
 けど、実際にはすべての文章は間違いなく人間の手によって書かれたものだ。土方さんにしろ雪駄さんにしろMK2さんにしろ(勝手に引き合いに出してすみません、しのぶはこの御三方のファンなので真っ先に思いついたというそれだけなんです〜)、みんな実在の人間なのであり、みんなそれぞれの生活があって、それぞれの人生の積み重ねがあって、それぞれの憧れがあってそれぞれの悩みがあり、私と同じようにお腹が空けばご飯を食べるし、夜眠くなれば寝る。
 当たり前と言えば当たり前過ぎることなのだけど、私は(あるいは、私たち?)どうもそういうことを忘れがちだと思う。webワールドという空間は『人間』が見えないからこそ気楽だと言える面があるのだし、その意味ではこういう傾向になるのは当然の成り行きなのかもしれないが、いずれにしても釈然としないものは残る。
 少なくとも理想としては、どんな文章にしろ必ず書いた人間がいる、という単純な事実を忘れてはいけない、と思う。例え真面目な文章を書く人であっても、その人の人格が真面目さという単一要素で構成されているなどとは間違っても想像してはならない。人間は、どんな人間であってもすべて、私と同じように、真面目と不真面目が、高貴と下品が、優しさと意地悪が、同居しているのだ。あの人は私とは違う、などと考えて勝手に壁を作ってはいけない。違うというのは、一人ひとりが違う人生を生きている以上当然のことだ。しかし違いはあっても皆同じ人間だ。誰でも優しくされれば嬉しいし、不誠実な言動には腹を立てることもある。私は人間としてははっきり言って馬鹿(not莫迦)なので、たまにはこんなことも確認しておかなくてはならないらしい。


 ウィトゲンシュタイン (藤本隆志/講談社学術文庫)

 ちまちまと読み進めてたのだが、ようやく読了。二章から三章前半の辺りが難しすぎて眠くて仕方がなかった(毎回、2.3ページ読むと必ず眠くなる)のだが、三章後半、特に『III-5青色本』と『III-6哲学探求』辺りは哲学の基礎とかがなくてもそれなりに読めて結構面白かった。言葉そのものには定義など存在しない、なんてすっぱり言い切っちゃうところなんか、読んでてニヤリ。あと、『言語ゲーム』という発想。読みながら、面白いことを考える人がいるものだなーなんて思って同じくニヤニヤしてしまった。意味ではなく使い方を学ぶ、という発想、言葉を学ぶとは結局ゲームのルールを学ぶのと同じなのだとする発想は本当になるほどという感じ。


2000/11/25 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#25


 怒首領蜂

 もしかして昨日クリアしそこねたことで波を逃がしたか…?
 ゲーセンで粘ること5時間半(途中の休憩除く)、その間使った50円玉の数は実に40枚以上。そのほとんどが1周捨てゲー。成果といえば、1-2で初の500HITが出たことぐらい。あとは4.3億が1回。ちょっと鬱。
 
 うーむ、明日そこそこのプレイが出なかったら少し冷却期間を置いてみるかな。

 怒首領蜂で弾避けが一番楽しいと感じるのはどこか? という質問が仮にあったとすれば、私だったら『なんと言っても火蜂戦(が一番楽しい)』と答えると思う。ただしそれはあくまでも“ある程度避けられたら”という条件付き。集中力が落ちてる時の火蜂戦はむっちゃストレスが溜まる。今日とか。

 多分今更誰の役にも立たないと思われるおまけ。
 現在私がやっている、対2-3ボス・ローリスクパターン。

1) メストビデオと同じく、開幕と同時にオーラ撃ちして角砲台×2を左→右の順に破壊
2) 右を破壊したら弱点に重なるが、この時、開閉砲台(上)はオーラ撃ちしないようにする
3) そのまま弱点に重なっていると開閉砲台(下)が開くが、これもオーラ撃ちしない
4) オーラ撃ちせずに2回目のレーザーを避けたら、左のカバーをある程度オーラ撃ちして中央へ戻る
5) レーザー3回目を避けつつ、開閉砲台(上)にオーラ撃ち
6) レーザー4回目を避けつつ、開閉砲台(下)にオーラ撃ち
7) 青弾攻撃開始に備えて下に下がる。以下、青弾パターンに応じて3通りに分岐

[1セット目が単発弾連射だった場合]

 ・中央でちょっとだけ粘ってから右のカバーを破壊して蜂回収、右の回転砲台を破壊
 ・中央へ撃ち込み開閉砲台を2つとも破壊
 ・左へ移動してカバーを破壊して蜂を出し回収。そのまま左の砲台を破壊

[1セット目が4WAY(?)バラマキだった場合]

 ・中央で開閉砲台1個破壊まで粘った後、右のカバーを破壊して蜂回収、右の回転砲台を破壊
 ・中央へ撃ち込み、残りの開閉砲台を破壊
 ・左へ移動してカバーを破壊して蜂を出し回収。そのまま左の砲台を破壊

[1セット目が扇状弾だった場合]

 ・左右のカバーにダメージを与えないように注意しながら、中央付近で弾避けに専念
 ・開閉砲台オーラ撃ち時にダメージ調整をしてあるので、扇状弾3回目の途中でカバーが2つとも外れる
 ・ほぼ、扇状弾を避け切ると同時に回転砲台の弾が飛んでくる
 ・右の回転砲台を破壊。次いで左へ(このパターンが来たら蜂は回収できない)

8) 弱点後ろの小型砲台×4を残したままで弱点へひたすら撃ち込み


注記。

 左の回転砲台破壊時は2セット目の青弾がどうしても絡んでしまう。もし青弾2セット目が扇状弾だったら己の不運を呪いつつ気合避け(爆)。てか、今日の何回目のプレーだったかで、扇状弾が開幕から3セット連続で来たんですが。殺る気満々てな感じ。勘弁してください。いやホント。


2000/11/24 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#24


 怒首領蜂

 561,820,340pts.(2-7) maxhit_834

 スコアだけ更新。クリアできませんでちた(涙)。
 以下、内容。

 1周目、4面前半33HIT落とすも他は全部繋がる。クリア時、18900万。

 2周目、2-4ボスまでノーミスノーボム。ただし2-4は大型戦車1台目でなぜかぷっつりと切れる。2-4ボスハメ失敗。1ボムで葬り、その後2-5で11倍復活。そのまま2-6ボス手前の大型戦車×2までノーミスノーボム。しかしながら実際には2-6道中で嘘避けを決めてたり(2-6の3中ボス×2地帯で奥の3中ボスの破壊が遅れて2セット目の炸裂弾を撃たれるが、画面左下隅で固まってたら弾が勝手にすり抜けて行ったとか(笑))するので、今回は実力で突破したとは言えない。

 2周目7面、鬼畜蜂戦開始時、残5ボム2。火蜂戦開始時、残4ボム4。2ループ目4番目の攻撃途中で発狂へ。発狂突入時、残2ボム6。直後にボム6発抱えたまま死亡(号泣)。火蜂体力残り5mmぐらいで全滅。桜吹雪が全然避けられねぇ。ていうか、緊張で手が震えてる時点でアウトだったかも。

 でもまぁ、2-6ボス到達時残6ボム3っていうのは初めてだし、成果としては悪くない。
 どうせ繋がるのは時間の問題だろうし。





 『起きないから奇跡って言うんですよ』

 くそー。なんて嫌な言葉だ。


2000/11/23 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#23


 怒首領蜂

 勢い、とどまるところを知らず!! またもや自己ベ更新。初の5億オーバー!!

 509,211,100pts. maxhit_829

 1周目、4面クリア時7400万。5面序盤約90HIT目で切れ、中間地点で切れ。6面は前半54HITは繋がってたにも関わらず、右のミサイル戦車に変な風に弾を撃たれて左のミサイル戦車が吐く弾をメインショットで撃ってしまう。ICに繋がらず(涙)。蜂パーフェクト6回。6面終了時15500万。

 2周目、4面終了時35600万、5面ボスまでノーミスノーボム。5ボスにオーラ撃ちしてる最中になぜかナパーム(だと思う)にぶち当たる。6面はいつも通り700HIT弱。6ボス到達時残5ボム4。6ボス青弾3WAY(この攻撃嫌いにゅ〜)5回目でいきなり死亡。6面終了時残4ボム0。2周目の蜂パーフェクトは4回(1面/3面/4面/5面)。

 鬼畜蜂戦、残4ボム0状態でひたすら蜂中央の弱点に撃ち込み続ける。赤ダンゴ弾3回目で死亡。その後ボム2発で鬼畜蜂爆発。火蜂戦開始時・残3ボム4。発狂突入時・残1ボム2。火蜂体力残り3cm以上ある状態で残機ボム共に尽きるが気合で避け切る。クリア時・残0ボム0。


2000/11/22 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#22


 怒首領蜂

 またもや自己ベ更新。461,412,540pts. maxhit_855

点効率一覧。☆マークは蜂パーフェクトを示す

1-1 191・61☆
1-2 493☆
1-3 110・54・62☆
1-4 690☆
1-5 855☆
1-6 630ぐらい?☆

2-1 191・61☆
2-2 490
2-3 108・68・74☆
2-4 682
2-5 816☆
2-6 680ぐらい☆

2-7 スタート時・残5ボム0、火蜂戦スタート時・残4ボム2、発狂突入時・残3ボム1、クリア時・残1ボム2

 自己ベを更新した上、初の残機残しクリアとか、快挙だと言いたいところなんだけど、

 1-6ボスで死亡後、2-6ボスまでノーミスノーボムってなんやそれ!?
 てゆーか、ちゃんと繋がってたら6億いってたんじゃないか!?


 私は笑えば良いのでしょうか? 泣けば良いのでしょうか?


2000/11/21 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#21


 怒首領蜂

 1周目捨てゲー20回以上。成果なし。
 あ、1個だけあった。1面クリア時 3,858,390pts.


 11/17分訂正。

【誤】 花のワルツ
【正】 花の歌

 花のワルツはチャイコフスキーでしたね。


2000/11/20 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#20


 怒首領蜂

 1-3・ワープザコの弾に当たって死亡後、2-5・3個目の要塞までノーミスノーボム。4.18億。何も言うまい。もはや5億オーバーを叩き出すのは時間の問題と確信。

 その他、最近の主な成果と課題。

1-3 前半110HIT. 
1-4 698HIT. 今のパターンではここいら辺が限界っぽい。
1-5 前半の動きをちょこっと変えて、中間地点で422HIT、大型機×6までで862HIT.
1-6 前半54HITを繋ぐコツ、とにかく回転砲台→ザコヘリ→丸戦車1台目で粘れるだけ粘ること。ここだけ気をつければ安定。


2000/11/19 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#19


 怒首領蜂

 とりあえず今日はリハビリ…のはずが、何気に自己ベスト更新。…たった200万だけど。

 454,253,530pts. maxhit_827

 が、納得いかねぇ。
 1周目、4・5・6面でコンボが切れまくって6面終了時15400万。この時点で理論値に対して3600万以上の落ち。その後、2-4の600HIT目でコンボ切れ、2-4ボスハメに失敗してマキシマム×12が消滅、あ…書いてて泣きたくなってきた。その後、2-7突入時残5ボム0、火蜂戦開始時残4ボム2(2-7まで5機持っていったのは初めて)、…にも関わらずクリア時残0ボム2。残1ぐらいはできると思ったんだけどなぁ。
 2-4ボスハメ失敗はまぁ我慢するとしても、コンボミス分がなければ、5億超えてたはずなんだが。悔しい。


 レンタルビデオ屋に行って、Campus(OVA)を調達。

 ビデオ開始5分を待たずしていきなりえっちシーン突入。その後も全編えっちシーン三昧。下手すると通常シーンよりえっちシーンの方が時間が長いんじゃないかと思うような充実っぷり。短い時間で全てのキャラを登場させて無理やり出番を作ろうとしている関係上、とにかく全キャラやりまくり状態。まぁ原作のことは忘れて同人誌チックなOVAと割り切れば楽しめるんじゃないかと。作画もきみづか葵氏の絵柄が割と保たれていて、最近のエロOVAの中ではかなり上質な部類に入る綺麗さだし、十分に見る価値アリでしょう。


2000/11/18 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#18


 鼻や喉になにか引っ掛かるものがあって、風邪ひいたかなーと思ってヒヤヒヤしてたのだけど、ユンケル飲んだり柿やリンゴを食べたり卵食べたり10時間ぐらい寝たりしたらなんとか回復した。私は実はここ三年、風邪をまったくひいていない。なんで三年って判るかっていうと、ちょうど三年前の今頃、ゲーセンでゴホゴホやりながら怒首領蜂をやっていた記憶があるからで…いやそんなことはどうでも良い。ともかく風邪の兆候がちょっとでも見えたらユンケルを飲んだり栄養のあるものを食べたり睡眠時間を増やしたり厚着したりしてその都度乗り切ってきた。風邪をひいたからって別に秋子さん(佐祐理さんでも可)が御粥を作って食べさせてくれる訳でもないし、あゆに看病されたりして、

あゆ  『しのぶくん、して欲しいことあったらすぐ言ってね』
しのぶ 『俺は大丈夫だけど、それより傍にしたら風邪が移っちゃうだろ』
あゆ  『うん、でもやっぱり、しのぶくんが苦しそうにしてるの放っておけないから…』
しのぶ 『だからってな、あゆが風邪ひいたら今度は俺が看病しなくちゃならないだろうが』
あゆ  『え、ボクが風邪ひいたらしのぶくんが看病してくれるの?』
しのぶ 『あたりまえだろ』
あゆ  『…だったらボクも風邪ひこうかな』
しのぶ 『頼むからやめてくれ』
あゆ  『うぐぅ、だってボクが風邪ひいたらしのぶくんが御粥とか食べさせてくれるんでしょ?』
しのぶ 『そりゃまぁそのくらいはな』
あゆ  『だったら風邪ひいてみるのも悪くないかな、って』
しのぶ 『莫迦言ってんなよ。それよりホントに風邪が移ったりしたら大変だから早く部屋から出てってくれ』
あゆ  『うぐぅ、でもしのぶくん、苦しそうだし。それに、それにね、しのぶくんの風邪だったら移されてもいいよ、ボク…』
しのぶ 『………(赤面)』
あゆ  『………(赤面)』


 …などという甘美な展開が起こり得るはずもなく、従って風邪をひくなど時間の無駄以外のなにものでもないのですよ。あ、でもどっちかっていうと私は看病されるよりする方が萌えるんですけど。あゆにベポラップを塗りつつそのまま欲情しちゃって(←人として最低)ついついキスしちゃって、そのまま(略)。んで、うろたえるあゆに向かって優しく微笑みつつ『いいよ、あゆのだったら移されても…。俺に移して早く直しちゃいな』とかゆーの。

 ああそういえばこの手の、通称“妄想カキコ”って久しぶりだなぁ。


2000/11/17 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#17


 たまにはシンプルなピアノピースなど聴いてみたり。
 メヌエット・ト長調(バッハ)、ラ・カンパネラ(リスト)、舞踏への招待(ウェーバー)、花のワルツ(ランゲ)、etc...

 こういうショーピース的音楽は−ピアノ音楽の語法に慣れているかどうかでも違ってくるのだろうけど−どれも構造が単純なので、特に集中しなくてもその時々の響きに身を浸しているだけで幸せな気持ちになれるのが良い。これがベートーヴェンだったりすると、聴き所を逃す訳にはいかないと身構えてしまって、とてもじゃないけどこうはいかない。
 漫画なんかでも、あまりに素晴らしい作品は気軽に読めないとかってあると思うのだけど、それと同じですね。

 にしても、花のワルツの中間部は美しすぎる。


 日常に関して。(by C.Fさん)

 多分、人は日常を意識していない時こそ本当に幸せだと言えるのでしょうね。ONEでいえば、莫迦をやっている前半の日常こそが幸せな日常で。あの木洩れ日の下の瑞佳と浩平は、意識して日常を演出しているに過ぎない。もちろん、そこに優劣等の順位をつける必要などはないのですけれども、ただあのラストシーンは、美しさの中に悲哀の影が混じっている。あの時の彼らにとって、日常は過ぎ去ってしまったものだから。彼らはただそれを繋ぎとめているに過ぎない。あのシーンが美しく見えるとすれば、それは彼らがかつての日常を繋ぎとめようと懸命であるからでしょうね。あるいは、彼らの、日常を大切だと思う気持ちが痛いほど私たちに伝わってくるから、というか。

 あと、『過ぎ去っていった日常という永遠』というのは、一般的に『思い出』と呼ばれているものですよね。ONEのエピローグで語られているのが思い出の否定なのか思い出と『今』との宥和なのかは興味深い問題だと思います。私は言われるまで気がつかなかったのですけども、考えてみたい誘惑を感じる話題です。


 顔のない月・体験版(コンブティーク12月号付録)

 なんか動作が重い。うちのPC(CPU:P2-233/VRAM:2M)のスペックがついて来れないのかしらん。マウスクリックのレスポンスとかも悪くてちょっとイライラ。製品版はどの道買うと思うけど、CG吸い出して終わりにするかも。ところで、ヒロインよりメガネのメイドさんの方が可愛い気がするのは、いわゆるお約束というやつですか?


2000/11/16 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#16

 例によってファイルが50KBを越えたので分割。


 継母調教(大熊猫) −ネタバレ−

 ファーストプレイ終了。萌えエロゲとしては合格、シナリオ的には不合格、というのが正直な感想。このゲームはもう、キャラクターにどれだけ萌えたかがそのままゲームの評価に直結してしまう典型だと思う。しのぶ的には萌えゲーの名作と断言。景子さん可愛いすぎるし。景子さんという女性は、主人公と男女関係を持ってしまったことに良心の呵責と羞恥を感じながらも、主人公に汚されながらも、やっぱり無条件に子供を愛する母親であり続ける。しかも景子さんのキャラが元々気弱な苛められっこ体質なだけに、母親として振舞う景子さんの健気さはいよいよ強調されている。このゲームはタイトルで“調教”と銘打っているが、実際には調教ゲームとは微妙に違う。普通の調教ゲームと違って、景子さんは最後まで肉欲に支配されない(ように見える)。後半以降、景子さんは半ば自主的に主人公に抱かれるのだが、それは肉欲に支配されているからではなくて、そうすることが主人公のためだと信じているからだ。母親として、子供が苦しんでいるのを放っておけないからだ。あーなんか自分で書いててちょっと嫌だ。欺瞞の塊くさい。けど、このゲームの肝は間違いなくそこにある。体を重ねていても、彼らの関係はずっと親子であり続ける。主人と奴隷になったりはしない。どれだけ体を重ねても、景子さんは甘えさせてくれる母親であり続ける。そこが良い。まぁ忌憚なく言えば、甘ったれの極みみたいなゲーム、自分を省みずひたすらゴロゴロ甘えたいダメ人間のためのゲームなんだけど、その方向での表現は非常に秀逸なので、それだけでもギャルゲーとして十分に説得力を持つ作品になっていると言えるだろうと思う。とにもかくにも、景子さんが可愛い。可愛い過ぎる。

 追記。
 今にして思えば中盤のシリアスな展開は景子さんの健気さを引き立てるための伏線だったんだな。あと、ベータ版と称した完成版を一部レビューサイトに配ったらしいことも今となってはどうでも良い。無料で貰ってたらベタ誉めできないしね。


2000/11/15 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#15


 コンビニでPapa told me(YoungYou 12月号)を立ち読み。
 今更だけど、やっぱりこの漫画の作者は変わったな、と思わざるを得ない。悪い方に…と言って悪ければ、私には受け入れられなくなりつつあるとでも言ったら良いか。私が好きだった頃のPapa told meは、お父さんと知世が、世間のジョーシキから自分たちのささやかな日常を守る漫画だった。ただ、(良い意味で)ふたりの愛の巣に閉じこもって、幸せなわたしたちの邪魔をしないで、と言っているだけの漫画だった。だから美しかった。少なくとも私にとっては、そこにこそPapa told meの魅力があった。
 今は、そうではない。今の知世とお父さんは、世間のジョーシキと戦っているのは変わりないとしても、その姿勢は以前と違って攻撃的だ。敢えて辛辣な言い方をすれば、榛野なな恵さんは自身の世間に対する不満をこの漫画を通して表現している(愚痴っている)だけのように思えてしまう。


 継母調教(大熊猫) −ネタバレ注意、かなり危険−

 真偽善悪美醜をひとまず脇に退けておいて、自分の欲望に極力忠実に言うなら、キャラ萌え要素の究極は、汚して良いのは俺様だけ(相手同意済み)&汚してもなお純白であり続ける、の二点に集約されると思う。早い話が継母調教の景子さん。
 …と思っていたんだけど、このゲーム、そんなに甘くはなかった。まさか、あの萌えエロゲ表現として極めて秀逸な、甘美な調教の日々が目的だけではなく手段としての意味合いも持っていて、後半のシリアスな展開を際立たせるために周到に計算されていたものだったとは。愛欲の日々が甘ければ甘いほど、その後に訪れる現実は主人公と景子さんに重く圧し掛かる。景子さんは表面的には主人公を受け入れていても、愛欲生活の中でやっぱり傷ついていた。愛欲生活に甘えていた主人公はツケを払う。それまでの展開が甘美であるほど、主人公の苦悩(ということにしておいてください)はいよいよリアリティーを持ってプレイヤーの胸に届く。袋小路に追い込まれた主人公の思考の堂々巡りは、実に切実に響いてくる。
 …と思っていたんだけど、更にゲームを進めていくとなぜか元の鞘。僕はやっぱりこうするしかないんだ、と景子さんに甘え景子さんを抱く主人公。ちょっと待てやゴルァ。

 ますます、今後の展開が楽しみになりました。


2000/11/14 (火)
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 コンプティーク12月号購入。
 …AIRの致命的ネタバレを踏んだ。…気がする。鬱だ。佳乃って手首切っちまうのか…。
 佳乃ぉぉぉぉぉっ!!(血涙)

 ちくしょう、AIRやりたくなってきちまった。


 巡回ルート(ネスケのスタートページ)を更新。日記系サイトを2箇所減らして10箇所増やす。現在32サイト。まぁ毎日全部見る訳ではないのですが。毎日欠かさず巡回してかつ巡回しないとなんとなく落ちつかないようなのはせいぜい5〜6箇所でしょうか。巡回ルートを公開していらっしゃる方もいるようですが、私はできません。だって、時々入れ替えやってるから。


 日曜日のこと(IN秋葉原)補足。

 先日、づしの森のBBSでお薦めされた『ドネルカバブサンド』というのを食べてみた。確か、トルコ料理だったかな。ご存知ない方のために簡単に説明すると、肉や野菜をたっぷり挟んだサンドイッチといったイメージです。私が食べたのはスタンダードな400円のやつだったのですが、見た目以上にボリュームがあるので、これだけでもかなり食べ応えがあります。私はこれ一個でお腹一杯になりました。安くてお腹一杯になって味もそこそこという辺りは結構お薦めかも。秋葉原の飲食店は外れ引くと痛い目にあうし。ちなみに、中央通りの万世橋の交差点を昭和通り方向に向かうと、途中の路上で売ってます。もっと判りやすく言えば、JR秋葉原駅電気街口を出たら書泉ブックタワーの方に向かう。

 メッセサンオーで継母調教を買ったら5200円だった。その後KanonCDを買うためにソフマップに行ったら同じ物が4800円で売られていた。なんか悔しい。2ch情報だと、いたじゃんは5000円割ってる店もあるそうで。地元で6500円で買った俺は一体このやるせなさをどこにぶつけたら良いんダ。


 継母調教(大熊猫

 ファーストインプレッション。
 景子さん、いじめてちゃん振りも含めてむっちゃかぁいい。これだけですべておっけー。ダメ人間とか言われてる主人公だけど、私は景子さんに萌えてしまってるので、主人公の気持ちはむしろ判ってしまう。親父が景子さんを抱いていると考えるだけで気が狂いそうになったりとか、あと景子さんを誰にも渡したくないっていう独占欲とか、これって私がアトラク=ナクアをやった時の感情そのままなんだよもん。
 前にも書いたけど、燐せんぱいが銀に犯されるシーン、しのぶはあの場面を見た時、歯軋りしたくなるぐらい悔しくて、もう心の中ドロドロだった。なんで燐せんぱいを抱くのが俺じゃないんだ!?とまで思って、燐せんぱいを汚すなチクショーとか思って、銀を殺してぇと思った。だからなんか主人公の気持ちがすげーよく判る。だってよー景子さん可愛すぎる。あれじゃ主人公苦悩?する訳だよ。あれでは一線を超えてしまうのもむしろ不可抗力だと言いたくなってしまう。『おまえがかわいいのが悪いんだ』(by MK2さん)って感覚。
 えっちシーンのテキストとか読んでると、憧れの景子さんの肌を見るドキドキとか、憧れの景子さんに手で(略)時のドキドキ感とか、すげーリアルに伝わってくる。主人公の、汚したい、という感覚まで共感できてしまう。ああ今、主人公、本当に気持ち良さそうだなーとか思ってしまって、こっちまでくすぐったくなる。単に肉体的な快楽だけでなく、精神的な充実感(俺の憧れの女性がこんなことを〜って感覚)まで表現されているのがすごい。萌えとエロの見事な調和(こう書くと莫迦っぽいよな…なんか)。肉欲込みで愛してる、っていうのがこんなにリアルに感じられるゲームは他にちょっと思いつけない。『愛しているから汚したい』っていうキャッチフレーズが、このゲームに関しては真実に思えてしまう。
 当分、楽しく遊べそうです。


2000/11/13 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#13


 なんとなく思ったんですけど、かえるにょ・ぱにょ〜んのアリサのあの縞々ストッキングはもしかして、敵の目を欺き敵に間合いを取らせないための忍び装束(fromるろ剣)ですか?


 『で、これで何を見るんでしょう』って…うわぁ
 事実は小説より奇なり、ですかね。そんなこと言われた日にゃ私だったら魂抜けちゃうかもしれませぬ。で、そのとっても勘違い素敵な質問にはなんて答えたんですか?(わくわく)
 ああところで、あの愚痴に書かなかったことなんですけど、私に向かって『パソコン教えてくれ』って言う人達ってみんなすごく期待に満ちた目(&口調)で私のことを見るんですよ。私にパソコンを教えてもらったら、めくるめく官能の世界(言い過ぎ)が待っているとでも思っているんじゃないかと邪推してしまうぐらい。もちろん、私の頭の中は、ひー勘弁してクレー状態なんですけど。

 あと、入荷した新作っていうのがとぉーーっても気になるんですけど、もうアップの御予定はないのでしょうか(笑)。


 昨日の秋葉原戦線での成果。

1)継母調教(大熊猫)
2)なゆなゆパニック(同人ソフト/CHINCHILA SOFT HOUSE)
3)POWDER SNOW(同人誌/秋澤和彦)
4)…嫌いじゃない(同人ソフト/サークル ホワイトセイル)
5)天使のお仕事(同人ソフト/APPLE Project)
6)ベートーヴェン・ピアノソナタ作品109/110/111(園田高弘)
7)ベートーヴェン・ピアノソナタ作品78/106(グレン・グールド)
8)ショパン・スケルツォ4曲/ソナタ作品58(仲道郁代)
9)KanonドラマCD vol.2 〜川澄舞〜


 KanonドラマCD vol.2 〜川澄舞〜

 前の真琴の時もそうだったんだけど、ドラマCDで聞くとストーリーのイメージがすごく掴みやすい気がする。で、このCDを聴いて思ったこと。なんていうか、麻枝キャラって莫迦だよね。時に救いようがないぐらい。不器用で、自分がそうであると信じている方向に進もうとすると、どんどん悪いほうに行っちゃう。けど、彼ら、彼女らにとってそれは本当に切実で、絶対に譲れないもの。それが痛いほど私たちの方に伝わってくる。だから放っておけない。
 ただ温もりをもう一度と願った真琴の莫迦さを誰が責められる? 手遅れになるまで真琴に想いに気づけなかった祐一の莫迦さを誰が責められる? 自分の力を否定することしかできず独りで魔物と戦った舞の莫迦さ、佐祐理さんが傷つくのを見て我を忘れた舞の莫迦さを誰が責められる? 舞を復学させるために自ら犠牲になって生徒会に戻った佐祐理さんの莫迦さを誰が責められる?
 麻枝シナリオというのは、ただ愚かな子供達がいるだけだ。けど、愚かだろうがなんだろうが、彼らはやっぱり、みんな一生懸命に生きているのだ。


2000/11/12 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#12


 『人はね、人間はね、自分を見るのが不愉快なのよ。でも…
 …って、プル(ZZガンダム)の台詞だっけ?(←独り言)
 プル萌え〜。でも本命はリィナ♪ 20話辺りだったかのパンチラシーンがもう…って変態か俺は。


 下の日記(11/10)は金曜日に書き上げたものの発表したものかどうか迷っていた文章なんですが、既に雪駄さんが、『それぞれ別種の手段ではあるけれど、等価である』とお書きになっている以上、本来私が今更発表する意義はほとんど失われているのですけれども、ただ、ネットに繋いでいるSTGゲーマーはあまりこういうことを語らないというのがある(STG関係のBBSを色々回ってみると、BBS上での話題の大半は技術的な問題についての意見交換になっていることに気づくと思うのですが、それは、STGはまずアルゴリズムのゲームである、というのがシューターにとってデフォルトの認識だからです)ので、シューターの立場として私が語ってみるのも、拙いなりに意味があるのではないだろうかと思うので敢えて掲載しちゃいました。敢えて違う立場から語ってみるとかについては、土方さんが以前に書いた『ゲームレビューのヒミツII』なんかが興味深い問題を提起してくれていると思います。『レビューを書くタイプと書かないタイプがいる』っていう考え方は私には目から鱗でした。

 あと、『違い』というのはあくまで、そういうのもあればこういうのもある、というただそれだけなので、もちろん否定駆逐する理由にはならないですよね。しのぶは、立場が違ってもそこに悪意がない限りは分かり合えるはずだとか割と甘っちょろいことを本気で考えている人間でして、それゆえに議論にはあまり価値を見出さないタイプです。web上で自然発生的に起こる議論っていうのは、今まで見てきた限り、また自分で体験した限り、ひたすら自分の意見を押し通し相手の意見を駆逐するっていうパターンになることが多かったように思います。私は、それは不毛だと思う。しのぶとしては、諦念ではなく相手を尊重するという意味において、そういう意見もあればこういう意見もある、っていうシンプルな考えでのほほんと行きたいなぁとか思っております。


2000/11/10 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#10


 ボーナスが入ったらスキャナー買おうかなーと思って、さて買ったら何に使おうかとあれこれ考えていたのだが、10分程して自分の思考が著しく本末転倒していることに気づく。


 STG擁護な話、他。参照元はこちらこちら

 お忙しい(ような気がする)のにわざわざ反応してくださって、痛み入ります。…が、もうちょっとだけ語らせてください。一応手抜きはしていないつもりですが、ざっと読み流して忘れてくださっても全然構いません。

 えと、とりあえず私としてはシューティングゲーマーは彼らなりに楽しんでいるんだっていうことだけ判ってもらえればそれだけで良いのです。あの時点ではですが。元々11/6の日記を書いた動機は『巧くなるより楽しみたい』っていう一文が気持ち的に引っ掛かったからでしたので。あと、以前自分家の掲示板で『今のSTGは苦行を強いる』みたいなことをさる人に言われたのが悲しかったとかも密かにあったりしますが…。

 ゲームには色々な形式がある、ということは多分私などより雪駄さんの方が100倍よく考えていらっしゃると思うのですが、できたら、STGとそれ以外の広い意味でのノベルゲームとの違いみたいなものも考えに入れて頂けるとありがたいなーなどと不遜なことを考えていたりするんです、実は。

 私見では、STGを含めたアクションゲームとノベルゲームの違いっていうのは、物語をリアルタイムで体験できるかどうかの違いで、つまり後者は、ゲームをプレイしながら同時に物語を楽しむことができるのですが、前者ではゲームをプレイしている最中には『ゲームをする』以上のことはほとんど或いはまったくできないんですよね。ぶっちゃけて言えば、STGプレイ中、弾避けの最中に他のことを考えていたら間違いなく死にますから(笑)。意図的に考えなくても物語の雰囲気は感じられると仰る向きもありましょうが、実際問題としては今のアーケードシューティングでは少なくとも2周目以降はひたすらに集中力の勝負になっていて。例えば怒首領蜂プレイ中、私の耳にはBGMが全然聴こえません。少なくとも記憶に残っている限り、画面は思い出すことができてもBGMは全然思い出せないんです。これは多分、他のシューターも似たり寄ったりだと思います。私もSTGをやっていて物語を感じられる時というのは実はあるので、STGに物語が要らないとは思わない(11/6と矛盾しますが)んですが、ただ、物語を感じたり想像したりという作業は、基本的には筐体から離れている時かさもなくばプレイの合間のデモ画面中とかでないとできないんですよね。プレイ中は否応なく集中せざるを得ない訳ですから。そうすると、果して筐体から離れている状態、筐体に触っていない状態というのは、STGをプレイしていると言えるのだろうかという問題がどうしても発生せざるを得ないのです。もちろん、物語を想像するとか巧いブレイヤーのビデオを見るとかの楽しみ方だってSTGの楽しみ方のひとつの可能性だとは思いますが、ただいずれにしてもそれはSTGをプレイすることとは別の営みなのではないだろうかとどうしても思ってしまうのです。STGを遊ぶというのは、まず第一に筐体に座って自分の手でレバーを操作するという作業が大前提ではないのだろうか、というのが私の基本です。

 あのそれで、私が言いたいことというのはつまり、ゲームには色々なスタイルのものがあるのであってその中には必ずしも物語性を必要としないゲームというのも存在するのではないだろうか、ということなんです。例えば極端な例を挙げればテトリスなんかはそういうタイプのゲームで。あれはもう単純に、プレイ中はブロックをどう積むかを頭の中で全力で計算しなければならず、とてもじゃないけど想像力が入り込む余地はないと思うのですが、でもやっぱりあれはあれで楽しいですよね。ともかく、テトリスとか他のパズルゲーム(個人的には、STGはリアルタイムパズルゲームのカテゴリーに入れたいのですが…STGは普通思われているような反射神経のゲームではないので)とか、想像力が働きにくいゲームというのはやっぱり存在すると思うのですが、はてそういうゲームにおいて想像力が働かないことは短所なのだろうかということは考えてみる必要があります。これは逆の立場からの問いを発してみることでひとつのヒントを提出することができるでしょう。すなわち、『ノベルゲームにはスキル上達の要素がない、あれはそういうゲームとして割り切ってプレイするしかない』という発言は妥当かどうか、です。私は、この発言は不自然だと考えます。ノベルゲームにそんなものを求める時点で、既にノベルゲームに対して不当です。ましてや、『割り切る』は『妥協』にかなり近い意味合いを持つのですから尚更です。不躾に過ぎる表現をしてしまったことをお許し頂けるとありがたいのですが、要するに私としては、ゲームと一口に言ってもその中には本当に色々な種類のものがあるのであって、物語表現ですら、ゲームの可能性の中の一部にすぎないのではないだろうか、と言いたいのです。もちろん、どのような表現にウェイトを置くかはその人毎の好みとか価値観とかによって様々でしょうけど、ただ、あるゲームにおいて正しいものが他のゲームにおいても正しいという訳ではないということは、留意しておいた方が良いような気がします。というか、この辺りのことはGameDeepの例の論文?に詳しいので今更私などが言うことでもないとは思うのですけれども。最後に繰り返しておきたいのですが、STGを遊ぶというのはまず筐体に座って自分でプレイする、というのがなければ変なんです。ちょっと乱暴に言えば、『STGについて語るならまずは筐体に座れ』ということです。

 で、ここまでのことを言った上で、

 シナリオを存在させないことが=物語性、或いはごっこ遊びの放棄とは必ずしもならないのではないでしょうか。
 シナリオを用意されていないゲームという楽しい作業の中から勝手に物語を読み取る、創造するという別の楽しみはあっていいと思いますし、それは作業を楽しむ事と矛盾せず、一粒で二度美味しい、ゲームの「贅沢な楽しみ方」だと思うのです。


 に、心から賛成します。シナリオはなくても物語をプレイヤーが作るもしくは感じることは十分に可能だと私も思います。もちろんすべてのゲームにそれが適用される訳ではありませんけれども。例えばウィザードリィは、シナリオなんておまけ程度にあるようなものですが、それにも関わらずプレイヤーは、地下迷宮を探索するという過程において、ゲームとしての作業を行いながら同時にキャラクターたちの恐怖とか好奇心とかいったものを追体験することができます。またONEは、世界は様々な可能性に満ちているということをゲームならではの手法で描いて(私としては特に繭シナリオの対比の妙を挙げたいのですが)いますし、YU-NOは、ゲームの繰り返しプレイ要素をシナリオ的に必然とすることに成功しています。どれも、ゲーム表現でなければ成し得ない素晴らしい作品たちです。私ももちろん、これらのゲームが大好きです。しかし同時に、私は物語を要さないゲームも好きです。例えばSTGであるとか、麻雀であるとか。この、ゲームというメディアの幅の広さを、私は好ましく思います。


2000/11/9 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#9


 自分家の掲示板に投稿された継母調教レビュー(葉月さんのやつ)を読んでからというもの、ゲームをやりたくてしようがないのだが、近所のショップには売ってないのが現状。一応、少しだけ(20km程度)遠出すればあと2件ほどショップはあるのだが、車で40分の道程を走った挙句品切れだったらと思うと平日は出かける気になれない。とらいあんぐるハートを買った時はあらかじめ電話で在庫の確認をしてから買いに行ったのだが、さすがに『継母調教まだありますか?』とは聞けないしねぇ。土曜日の仕事後に遠征して売ってなかったら秋葉原に行くしかないか。べ、別に、行く口実ができたなんてこれっぽっちも思ってませんよ、ええ。
 あー継母調教マジやりてぇ。親父に内緒でっGoGo!!ってところがめちゃ燃えるじゃないですか。ねぇ?


 流行り(と言っては失礼だけど)の日常の話について少し。日常とか幸せとかについて、自分の言葉で語ってみたいという誘惑を感じたので。

 日常それ自体はただ存在するというだけで価値もなにもない、というのは判る。大切なのは日常を愛するその気持ちだ、というのも判る。判るんだけど、なんとなくピンと来ない。日常という単語が、私にはなんか不明瞭に感じられる。日常って知覚されるものなんだろうか。
 『日常の大切さに気づく時、人はすでに永遠に片足を突っ込んでいる 』っていう今木さんの言葉はすごく正しい、いや、しのぶ的にすごくしっくり来るんだけど、逆に言うと日常っていうのはそういうやり方でしか、というか、ある状況に置かれない限り通常は知覚できないものなんじゃないだろうか、と思ったのです。例えばギャルゲーにおける“美しい日常”と呼ばれるものは、クレープの奪い合いであったりあるいは好きな人の膝の上で眠ることであったりする訳ですが、そういう状況っていうのは、本人達にとってみれば、好きな人が傍にいるっていうただそけだけで、本人達はそれの状況を、日常であれなんであれ何がしかの名前をつけて呼ぶ必要は全然感じていないような気がします。
 あと、以前から考えていたことなんですが、日常の美しさっていうのは、それを発見できる人にとってだけ美しいっていうか、日常からなにか美しいものを感じ取ったり、日常をそのまま受け入れてその状況で楽しいことを見つけ出せるっていうのは、ひとつの才能−こう言って良ければ、幸せになる才能−じゃないかと思うんですよ。私はそういうの苦手なので、尚更、才能のように感じられるっていうのもあるかもしれないけど。フィクション世界でいえばこの辺りの問題はアン・シャーリーが私の師匠なんですけど、あれは1巻と6巻がお薦めでっていやそういう話じゃなくて、『赤毛のアン』より『Anne of Greengables 』の方が字面も響きも美しいと思うのですが如何ってだから脱線するなよ俺、話を戻すと、わざわざフィクション世界を持ち出さなくたって、例えば会社で同僚とごく自然に談笑できるなんていうのもその種の才能だろうなーなんて(羨ましく)思ったりする訳です。それで。自分を取り巻く世界から美しいものを探せる人、自分を取り巻く世界から喜びを感じ取れる人にとって、世界は変化に富んでいるはずだと思う。しのぶもたまには、世界が次々に新しい美しさを見せているように感じられる時というのはあります。たまにだけど。そういう時なんか、私はアン・シャーリーの見ている世界を垣間見たような気がしてなんとなく幸せな気持ちになったりするのですけど。いずれにしても、変化に富んでいる世界(個々人の主観でということですが)っていうのは、日常とは違う何物かなんではないだろうか、と思うのです。浩平と一緒にいる瑞佳にとって、大切なのは日常じゃなくて浩平が傍にいるという状況ただそれだけで。あと、猫の世話をしている時の瑞佳もきっと幸せだろうなーとか想像できるのですが、いずれにしても瑞佳自身にとって日常はむしろどうでも良いシロモノで、まず好きな人好きなものが傍にあるっていうのが大切なのであって、いわゆる日常という言葉は、それを外部から見た時に、つまり私たちプレイヤー側から見た時に、日常に見える、っていうだけのことなんじゃないかと思ったりするのです。日常という言葉を敢えて使うとすれば、日常っていうのはただ存在するだけのシロモノで価値も無価値もなくて、個々人がそこにどういう意味を見出していくかだけが問題なのだとでも言えましょうか。


2000/11/8 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#8


 たまにふらっと死にたいなーとか思ったりする。いや、死にたいっていうか、消えていなくなりたいって感じ。なにも考えなくて良い状態になりたい。…という思考が頭の中をぐるぐるするんだけど、大抵は1時間ぐらいで消えていきます。1日の中で、鬱と躁を何回も繰り返す状態。疲れるっていえば疲れるんだけど、思考なんて自分の意志とは無関係に余所からやってくるものだし、最近というかここ数年は、その時々のそういう感情とか思考の動きに身を委ねていたりもする。なんにしろ、自分で決定や判断を下さないのは楽だ。激しく意味不明。

 今午前2時を回ったところなんですが、自由に使える時間はあと4時間しかないんですよね。しかもそのうち1時間は仕事の用でPCをいじらなくちゃならないので、実質的には3時間しかない。最低と言われようとも、自分が今やりたいことを優先します。しのぶは所詮こんな人間。

 たまにね、もうダメかもしれないなんて思う時があるんですよ。今に私は完全に自分のためだけにゲームをやってない。ゲームをやっていても、さてこのゲームについて何か書かなくちゃ何を書こうかなんてことをどうしても考えてしまって時々気が重くなる。はっきり言って楽しくない。自力で攻略チャートを作りながら2週間以上掛けてのんびりと東鳩をやったあの頃にはもう戻れない。毎日、帰宅してから寝る時間まで延々と三国志(吉川英治)を読んでいたあの頃にはもう戻れない。すごく、独りになりたいと思う。今、多分一番強い欲求はそれ。週一更新かつネットに繋ぐのも週末のみにしたいなーなんて最近本気で考えているんですが、ただ、書きたいことは放っておいても出てくるんですよね。書かないと、バランスが崩れる気がする。馬鹿ですかもしかして。


 まるいち的風景 4巻(柳原望/花とゆめコミックス)

 『世界は感情で回ってる。そのおこぼれにあずかるのがビジネスさ
 こんな台詞をさらっと言い切ってしまえる柳原さんってすごく好き。以前から漠然と思ってはいたんだけど、今回4巻を読んで確信した。やっぱりこの漫画の世界こそ、ロボットがいる社会の理想形だと思う。しのぶの好み的に。まるいちには感情なんてものはない。まるにちはどこまで行っても道具に過ぎない。人間が使うための、人間に奉仕することを目的に生み出された道具だ。柳原さんという人は、ロボットに人間の代わりを求めない。あくまでロボットと人間は違うものとして描く。その姿勢は特に、何巻だったかの『笑うのは、お母さんの仕事にしてあげてください』っていう台詞に端的に顕れている。感情を持つことは人間の領分だという考え方。
 昔、RISEをプレイした時に考えたのだけど、ロボットの頭脳があらゆる点で人間と同じであるなら、ロボットは自分の存在理由やら人権やらについて考え始めるはずで、人間に奉仕することを潔しと思わないだろう。すべてのロボットがそうだとは限らないにせよ、何割かのロボットは絶対にそういうことを考えるはずだ。考えなかったら、そのロボットの感情は所詮人間に都合良くプログラミングされた偽りの感情であるにすぎない。ロボットが完全に人間と同じ感情や理性の動きを持つなら、人間がロボットに嫌われるということだって当然起こり得るはずなのだ。
 柳原さんは多分、ロボットに人権を認めるなんていう考え方は持ってはいないだろう。作者は、あくまでもロボットは人間に奉仕し人間が使うための道具なのだという姿勢で漫画を描く。しかし、敢えてすっはりと境界線を引いてしまう姿勢は、私には非常に心地よい。ロボットは道具だ。しかし道具は道具として、やっぱり人間に愛されることができる。感情なんかなくたって、まるいちはやっぱり人間に必要とされ、人間に愛されている。ロボットは道具である限り、いともたやすく人間と共存できるのだ。なにも難しいことなんかない。

 あ、ちなみに4巻で一番好きな台詞は、美月さんの『前よりもっと好きになるよ』ってやつ。一瞬、美月さんの声が聞こえた気がした。いや、違うか。頭の中で音楽が鳴った感じというか。なんて言ったら良いんだろう。


 なんでここで註文どおりにちゃんとこういう音が完璧に来るか
 モーツァルトの魅力はまさにそれです。抱っこして欲しい時に抱っこしてくれる感覚。その時に自分が一番欲しい言葉を言ってくれる感覚。モーツァルトの音楽はいつも、私たちが『次はこうだったらいいな』というその通りに流れていく。もし期待と外れても、それはやはり新鮮な驚きと喜びになる。モーツァルトの音楽は、最初の一音が鳴った瞬間から、あとは自然と、あるべきところに流れていく。無理な力は一切加わらない。ただ、音が勝手に(音それ自体に意志があるかのように自発的に)自然と気持ちの良い方に流れていったらそれが音楽になった、という感じ。音楽は既に楽譜に書かれていて、演奏者はそれを再現しているに過ぎないのに、モーツァルトを聴く時、私たちは音楽が誕生する瞬間に立ち会うのです、その都度新しく。


 リンクを2件追加。どちらも、何を今更感が強いですが。


2000/11/7 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#7

 くそー眠い。なんでこんなに眠いんだ。


 アクセス解析で捉まったこちら

 信号の場面での長森の台詞なんですが、あれを書いた当時、私が考えていたことというのをかいつまんで書いてみます。まず、対談でも仰っておられる通り、『“また”逃げちゃう』と瑞佳は言っているけれども、浩平が逃げたという描写はゲーム中にはないので、私はこの『逃げる』を『自分(瑞佳)の内から記憶が逃げる』と解釈しました。また、浩平が消えてしまう運命にあることを、瑞佳はあの膝枕シーン時点で間違いなく知っていたと思われるのですが、それが浩平の口から語られたのではないとすれば、瑞佳が浩平の異変を知り得るためには一度は記憶を失うという体験を経ている必要がある訳で、物語の流れからいけば、あの学校での瑞佳が浩平の記憶を失っていたというのもほぼ間違いないと思われます。そうして前述の、記憶が逃げてしまうという台詞との関連から、『わざとしらんぷりを』というのは学校で最後に会った時のことではないかと私は解釈したという訳です。つまり瑞佳のあの台詞は記憶を失ったことに対する釈明であり、言い換えればそれは記憶を失ったことを認めまいとする自分への嘘であり、記憶を失ったことを浩平に知らせたくないゆえの嘘だということです。

 …とまぁ当時の私はこんな感じに考えていたんですが、今、ONEを起動して確認してみた感じでは、あの時の瑞佳が繋ぎとめておきたかったものが浩平の記憶であるという部分の解釈は今なお妥当だとしのぶ的には思えるのですが、その前のしらんぷり発言に関しては、泣きたいのを我慢して…という台詞とセットにして考えれば、あの台詞はストレートな意味であの場で浩平に逃げられたくなかったからと解釈するのも妥当かもしれないという気もします。確かにそう考えればあの台詞は嘘ではないということになりますよね。ただ、どちらの解釈を取るにしても、なぜ瑞佳はあの状況でしらんぷりをしたのか?という疑問は残らざるを得ないのですが…。しらんぷりすることと逃げちゃうこととの因果関係がよく判らないですからね。なんで瑞佳は『逃げられちゃう』と思ったのかという問題。あの『逃げちゃう』が単に学校をサボったの意でないことは今更述べるまでもないでしょう。そうであるにしては横断歩道での瑞佳の言動は切実すぎます。

 ちなみに記憶が戻る切っ掛けになったのはあのぬいぐるみだろうということは以前から考えていました。あと、横断歩道ですれ違った瞬間に記憶がっていうのは私は考えたことなかったんですけど、それも解釈としては面白いのではないかと思ったというのも付け加えておきます。瑞佳はああいう場面でしらんぶりできるキャラなのかなって問題とかあるので、『しらんぷりしてた』を、どんな形であれ“嘘”にしてしまった方が、しのぶ的にはしっくり来るような気がするんです。


 あゆちゃんパンチ!(渡辺製作所)初プレイ。
 うぐぅ、稼ぎ方が判らない。現状のプレイ内容だと1億はおろか1000万すら遥か彼方。とりあえず、死んだ時に表示されるフキダシCGがむっちゃ可愛いです、特にうるうる栞、激萌え。あと、エフェクトがとっても綺麗。無敵時のキラキラとか、羽根が舞い散るところとか。ゲーム的には、5キャラ使ってみた感じ、唯一スリップしない栞が今のところ使いやすい感じ。名雪とかだとジャンプした拍子にすべって敵に突っ込んでしまったりするので慣れないと厳しい。ところで、あのマニュアルの蛙の説明って………いや、なにも言うまい。気のせいだよね。


 突然だけど。私の日記を読んでくれた誰かが感想とか意見を言ってくれるというのはいつでも嬉しいものなんだけど、それがすごく真剣だったりすると私はなんか後ろめさを感じてしまうんですよ。私なんかの文章をそんなに真剣に読まないでくれよお願いだから、みたいな。これはまぁ、他人に影響を与えることが怖いっていうのもあるんだけど、それよりもしっくり来る言い方をするなら、私は自分の文章が他人に影響を与えるということが信じられないというか、そんなことあるはずないと、どういう訳か考えているからなんですよね。多分、私は他人から好意を受けることにあまりに不慣れなので、相手の真面目さが時に重荷に感じられてしまうことがあるんだと思う。私は他人に好かれるはずがない、というのが私のデフォルトなんです。もちろん、他人に対する時にはそんなことは絶対に外に出さないけど。好意を寄せてくれているらしい人に対して自分を卑下するのは、相手に失礼だと思うから。

 で、ここからが本題なんだけど。私なんかの文章をそんなに真剣に読まないでくれと思っている私は、他人の文章に関しては能うる限り真面目に、ほとんど没入に近いような状態で読んでいるんです。いや、ちょっと違うか。つまり、自分の文章を好意的に読んで欲しいと思うのだけど影響は受けて欲しくないと思っている、というのが近いかもしれない。けど、これってもしかすると大半のweb日記書きが思っていることなんじゃないかなぁという気が、最近するんです。そうすると、ここには矛盾がある訳ですね。はい。私は、他人に負担を与えないような文章の読み方(そして、反応の仕方)を知らなければいけないのではないかな、というお話。
 差し当たり、他人の文章を読んで嬉しがったり不安になったりする必要なんてないんだと思う。少なくとも、書いた人はそんなことは望んでいないはずなんだから。自分自身の問題に絞って考えてみても、極論すれば他人がどう思うかなんてことは私には関係ないんだよね。別に他人がなんらかの意見を提出してきたからって、その意見に従って自分の意見を判定する必要なんてどこにもない訳で。自分がそう思ったのならそれが自分の意見なんであって、他人がどう思おうともその意見を持ち続けていて全然構わない。少なくとも私は、自分の文章に関わる他人に対してそういう風に考えているし、多分他の(私が巡回している範囲の)web日記書きの方もそうだろうと思う。

 文体が前半後半で違う辺り、かなりアウトですな。我ながら。


 愚痴。読まない方が。

 最近また職場の同僚でPCを買った人がいて、パソコン教えてくれとうるさい。現在、どうやって断ったものだろうと頭を抱えているところ。パソコンってヲタクの娯楽だと私は思う。ヲタク専用というのではないけど、なんていうか、ヲタク度の高い人の方がパソコンを楽しめるっていうのはあるような気がする。前にもちょっと書いたんだけど、一般人っていうのはパソコンが道具に過ぎないことを全然知らないことが多い。例えばインターネットの楽しみは、しのぶ的には、色々な人間の色々な意見を読むことができて、かつ自分自身でも意見を発表することができるというところにあるのだけど、大前提として、意見を読むにせよ発表するにせよ自分が強い関心を持つ話題というのがなければそもそもお話にならないのであって、インターネット環境があったからといってそれだけでパソコンを使うのが楽しくなる訳ではない。目的のない人にパソコンを教えるとすると、せいぜい基本のファイル操作や日本語入力ぐらいしか教えられないし、お互いにそんなのが楽しい訳はないのだ。実際、今まで2回ほどド初心者にパソコンのレクチャーをして2回とも相手をがっかりさせてしまったことがある。もちろん相手はそんなことは言わないが、そんなのは言わなくたって雰囲気で判ってしまうものだ。こういう時の居心地の悪さというのはもう堪らないものがある。私にしてみれば『PCを使ってなにがやりたいだそれが判らないで教えてもなにもないだろうが』ぐらいは言いたいところなのだが初心者に向かってそんなことも言えないし。正直言って溜息が出る。ぶっちゃけた話、パソコンというものに対する世間の誤解はウザイ。とりあえずパソコンが道具であることぐらいは最低限知っていて欲しいものだと思うのだが、どうしてこんなことになっているのだろう。なんでも良いから目的を持って欲しいと思う。別にそれはエロ画像が見たい、とかだって全然構わない。少なくとも目的があれば、私はそうするために必要な作業を教えてあげられるんだから。あらかじめ先回りして、何の為に買ったんだとか聞くと怪訝な顔をするしよー。勘弁してください、ホント。あと、MS-WORDの入門書に載ってるレベルのことをいちいち質問してくるのも止めて欲しい。あと、ネット歴1ヶ月程度で、串の刺し方だの聞かないでくれ。串は身元を隠すためにあるんじゃないんだよ。わかってる?


2000/11/6 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#6


 ゴキブリは地球上から絶滅してください。俺は本気です。いかなる反論も却下。ゴキブリ見ると足が竦むんだよチクショー。あんな生き物は存在しちゃいかん。


 土曜日の夜、愛車がオーバーヒート。
 日曜日、元ディーラーメカニックの知人に相談。
 月曜日、修理工場へ持ち込み。ウォーターポンプよりクーラント洩れ&バルブカバーガスケットよりオイル洩れとのこと。部品代工賃合わせて9000円。ついでにということでエンジンオイルとエレメント、エアフィルターなど交換。7000円。


 話の本筋に対するレスポンスではない気がするのでリンクは貼らないでおきます。反論というよりも、別の立場を擁護しておきたかったという感じ。STGとSTG好き人間に対する世間の誤解みたいなものに対して。

 いちSTGマニアとして言わせてもらうと、STGに物語性を求めるのは、囲碁や将棋に物語性を求めるようなものではないかと思うのです。少なくともゲームが“遊んでなんぼ”のものである限りは。囲碁や将棋、あと麻雀とかトランプの大貧民(地方によっては大富豪かな)とかのようなスタイルのゲームの快感っていうのは、要するに知恵比べの快感であると思うのですが、STGの場合もそれに近くて、シューターっていう人種は敵機の繰り出す弾幕に本能的に挑戦意欲を掻き立てられるのです。この弾幕をどうやって避けるか、ということに知恵を絞り、その場その場で解答を作っていく。ちょうど先週号のジャンプのヒカルの碁の主人公のように、生きる道を懸命に探すという作業。

 これはもう興味のない人にとってはなんでたかが陣取りゲームにそこまで入れ込むんだって話になるんですが、いずれにしても本人は大真面目なのであって。生きる道を探し、苦労の末に解答に辿り着いた時の充実感というのは、囲碁もSTGも多分同じで。そのために、シューター(格闘ゲーマーも同じですが)は日々巧くなるために練習に励むのです。自分の描いた理想の通りにプレイが決まった時の快感は、それまでに費やした何百時間かを十分に埋め合わせて尚おつりが来るものだし、そうやって獲得した実績はシューターのプライドになります。例え端から見ると苦行に見えようとも、シューターはやっぱりSTGを愛してるし、ゲームを楽しんでいるんです。そうは見えないとしても、これは絶対にそうです。シューターのスコアアタックは“遊び”じゃないと見られがちですが、それは違います。シューターにとってゲームは遊びです。ただし極めて真剣な遊びだというか、シューターは真剣に遊ぶのが楽しいのです。

 努力した者だけが辿り着ける世界というのは厳然として存在する、という言い方は傲慢に聞こえるかもしれませんが、これはどんなジャンルにおいてもおそらく真実で、実際例えばONEやKanonを自分なりに解釈して解答と思えるものを獲得することは、その過程においても結果においても、やはりギャルゲーマーにとって喜びであるはずです。

 STGに物語性を求めるというのは、マニアから見れば『そういう楽しみ方もアリだよね』という程度のもので。もちろん、世界観に拘ったSTGというのも最近は色々あるようですが、極論すればそれはSTGの本質からみればあってもなくても良いような、おまけ程度のもの。例えばSTGメーカーとして有名な彩京のストライカーズシリーズにはエンディングが存在しません。STRIKERS1945_2に至っては、2周クリアしても画面にでっかい文字で『終』と出るだけです。これはまるで、STGというのは解答を探すことそれ自体が目的なのだと主張しているようなものではないでしょうか。このエンディングはなにか象徴的であるというか、彩京のSTG観を端的に表わしていると思います。もちろん彩京には他にガンバードシリーズやドラゴンブレイズのように物語が設定されたものもある訳ですが、それにしてもこれらのゲームに付与された物語が、STGを楽しむ上でどれだけ役に立っているかは疑問が残ります。むしろ彩京のストライカーズシリーズの形こそ、STGに必要なものだけを残して余分なものを削ぎ落とした理想形ではないかと言いたい気が、私はします。

 STGに物語性がいらないというのではないのですが、ただ物語表現としては、リアルタイム進行を特徴とする現行のSTGスタイルは向いていないのではないかという気がどうしてもするのです。できないというのではないけれども、戦争であれ戦争を舞台としたヒューマンドラマであれ、物語を表現するのにより相応しいスタイルというのは他にあるはずで、その役目をSTGに負わせる必要はないのではないか、と思うのです。


2000/11/3 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#3


 2chエロゲ板のELYSIONスレッドを読んでみる。
 うーむ、あのゲームの絵を描いてる横田守ってもしかして有名な人だったのか。全然知らなかったです。ああそういえば社内報の今月の運勢を読んでたら、11月の獅子座は『国際的な恋の予感』とか書いてあったんだけど、これはもしかして今月中に私は謎の組織からのオファーを受けて地中海の孤島でメイドさんと暮らせるということでしょうか。ところで私4人の中からひとりなんて選べないので、4人全員を専属メイドにしたいんですけどダメですか? いちお、4人っていうのはジェーンとディアナとミレイとヘレナね。あ、4人全員均等に愛しますんで心配は無用です。


 昨日の夢の中にあゆが出てきたような気がするのだけど、いまいちよく憶えていない。なんかすごく勿体無いことをしたような気が。いや、といっても別に18禁な夢とかじゃないんですけど。
 辛うじて憶えているのは、夢の中であゆが泣いてるイメージがあって、あとは私の想いみたいなものが強烈に記憶に残っている。私の記憶違いでなければ、夢の中の私は死んでしまったか死にそうだかな状況で、ただあゆのことだけを考えながら『俺はまだ死んじゃいけない。ここで俺が死んじゃったら、あゆはまた独りぼっちになっちゃうじゃないか!! 俺はまだ死ねないのにっ…』みたいな感じ。この台詞だけは割と鮮明に憶えている。かなり切羽詰ってる夢だったように思うのだけど、なんでこんな夢を見たのだろう。特に心当たりはないのだけど。いやそもそも、しのぶはあゆ萌えじゃないんですけどね。…ただ、この夢が切っ掛けであゆ萌えになったとしたらそれはそれで面白いかもしれないけど。
 ああでもどうせなら18禁の夢がよかったのにチクショー。秋子さんがあゆをリードして3人でGo!とかさー。あ、今なんかクラピカの声が聞こえたような気が…。すいません、私の頭の中はそんなのばっかりです。


 昨日、書くのを忘れてたのですが、カラフルピュアガールの最新号にAIRオリジナルサントラ(初回封入版)の解説が載ってます。解説してるのは、折戸&戸越コンビ。参考までに。


 メモ。11月以降に買う予定のゲーム。ただし、プレイするかどうかは別。★印(1-5)は期待度。

・継母調教(大熊猫)★★
・顔のない月(ROOT)★★★★
・CANVAS〜セピア色のモチーフ〜(カクテルソフト)★★★
・二重影(ケロキュウ)★★
・とらいあんぐるハート3(JANIS)★★★★
・いただきじゃんがりあん(すたじおみりす)★★★★

 この中で一番安心して買えるのは実はいただきじゃんがりあんかもしれない。
 麻雀は結構好きなのです。


2000/11/2 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#2


 アルカディアを買いに行ったついでにPC雑誌を4冊ほど物色。
 以下、パラパラッと見た印象。

・アルカディア12月号
 ナコルル@カプエスバージョン。あのイラスト、なんか恐いんですけど。殺意が漲ってるというか。わたしの前に立ちはだかる奴は容赦なく消すわよっ!って全身で主張してる感じ。嗚呼、あんなのナコルルじゃねぇ。やっぱナコルルはさー、真サムがベストだと思うんです今更だけど。斬紅郎以降は強すぎてこれまたなんか違う。真サムのナコルルはキャラ性能がむっちゃ悪いんだけど、しのぶとしてはそれゆえに愛しい。ナコルルは元々戦いをするような少女じゃないのに戦わざるをえなかった悲劇のキャラで。真サムナコの可憐さとかキャラ性能の悪さっていうのは、あの世界からすると場違いだとすら言いたい気がするのだけど、実はあれはナコルルのキャラクター設定から来る必然でそうなっているのです。ナコルルは場違いキャラであるがゆえに弱く、ゲーム中で羅将神ミヅキを倒したとしても、エンディングでは舞台から退場せざるを得ない。エンディングでナコルルが自ら犠牲になって自然を救うという展開はナコルル萌えな私の感情的には納得行かないんだけど、感情論は別として考えれば、あのエンディングの形はやっぱりナコルルの物語の結末として一番自然だなという気がする。おそらく、真サムにおけるナコルルの物語のコンセプトは『自己犠牲』だったと思う。あのエンディングだけではなく、およそ戦いには似つかわしくないひとりの少女が戦いに身を投じるということが既に自己犠牲以外の何物でもない。ナコルルは可憐かつ優しいゆえにあの世界と相容れず、それだからこそ彼女の物語はいよいよ悲劇になる。
 ああもう!! なんていうかさ、もう戦わなくっていいんだよってゆってあげたいんですよ俺は。ナコルルが恐い夢を見ないように、ずっと起きてて見守ってやる。ナコルルが戦いの夢を見てうなされたりしたらすぐに起こしてやる。んで、ナコルルの震えが止まるまで、ずっと抱っこしててやる。落ちついたら、あったかいミルクを作ってあげる。しのぶの、対なこるる感情っていうのはそういうのです。萌えじゃない。なこるるのためならなんでもするぜっていうようなもの。愛してます、に近いけどまだ違う。そんな言葉じゃ語れない。なこるるがいつも笑っていられるようにっていう。しのぶの願いは、なこるるの笑顔を守りたいっていう、ただそれだけ。それが私の世界観の中心であるような。ちょっと違うか。僕の世界の中心には大好きな君がいる、って感じ。ついでに言うと、なこるるが人生の中心であり得たら、私は自分と自分を取り巻く世界のすべてを心から信じられて、心から好きになれると思う。
 …読者無視して何恥ずかしいこと語ってますか俺は。まぁ俺的に書いてて楽しかったからいーや。

 ところで、真サムでナコルル使って勝ったら即レバー右入力はお約束ですよね。

・カラフルピュアガール12月号

 最後の方に載ってるホームページ作成講座がなかなか。リンクページについてなんだけど、所々、読んでてニヤリとしてしまうような記述が。

 『ネットには「相互リンク」という社交辞令のようなものがあります 』とか。
 『相手のHPにリンクを張ることで、その人と「知り合いである」ということを外部に示すことになります 』とか。

 確信犯だか天然だかよく判らないのだけど、曲がりなりにもホームページを運営している人間から見ると、かなりの皮肉ぶりで結構笑える。

・電撃姫 vol.11

 keyスタッフインタビューが載ってるらしいので購入。まだAIRやってないので読まないけど、雑誌と同人誌は買えるうちに買っておかないとね。ちなみにAIRですが、わざとプレイを先延ばしにしてます。あのkeyスタッフが作ったゲームという事実がどうしようもなく重荷で。感動できなかったらどうしようとか、名作をプレイする以上つまらないことは書けないなとか阿呆なことばかり考えてしまう。最低限、keyなんてメーカーは知らん、とか100回ぐらい唱えて、無名のソフトハウスが出したなんとなく絵が綺麗なゲームだとか無理やりにでも自分に思い込ませないとプレイできそうにないです。とりあえず姉妹丼に期待。あ、言っておきますが自己暗示ですよ。そうやって少しでもプレッシャーを減らそうっていう。あ、あれれ、なんで鼻が伸びるんだろ?

 あと、DVDカタログのキャンパス前編の紹介のこと。
 私を悶絶させた台詞『くすっ、おにぃちゃんの赤ちゃん 』はあるんでしょうか…いやそうじゃなくて、杉部奈穂嬢の紹介なんですけど、『就職活動のストレス解消に校内トイレでエッチに励むイカしたお姉さんなのだ 』って、奈穂ちゃんはそんなキャラじゃないんですけど。ファンが見たら怒るぞマジで。あのですね原作付きアニメとか見てても思うんですけど、基本的なキャラ設定とか、原作の世界観と違うようなオリジナルキャラとかオリジナルストーリーとかを作る意図がわからないんですが。オリジナルがやりたいなら世界観レベルから自分で作れよ。他人の原作を別メディアでやるなら、原作に忠実にやるべきじゃないんでしょうか。それが原作者への最低限の礼儀だと思うんですが。そういえばクラシック演奏の世界では、19世紀末から20世紀前半頃は、原作を自分流に勝手に解釈して主観的に演奏するのが主流だったらしいですね。例えばルービンシュタイン(ショパン弾きとして有名なピアニスト)の回想なんか読むと、そういうことが書いてあります。今はそういう考え方は死滅してて、原作至上主義みたいになってますけど。アニメゲーム業界はまだまだ歴史が浅いということなんでしょうかね。

・E-LOGIN12月号

 エログの話とは違うけど、最近のPC雑誌に付いてるおまけCDって密かに立ち読み防止機能を持ってない? どの雑誌にしろ本屋内で読もうとすると、CDが邪魔で読みにくいったら。

・電脳IDOL vol.9

 癒し系ゲーム特集。
 これはもしかして特集自体が捨て身のネタですか? 
 『アキバの夜に集結した“癒し”を求める男たち 』(←AIRの行列のことらしい)とかのくだりは笑うところですよね?
 溜息。


2000/11/1 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-11.htm#1


 言い忘れてた、というのはかなり不誠実な話なんですが、すみません、本当に忘れてました。
 お騒がせな例の認定試験は無事合格してました。
 試験が終わった後、会社で上司に試験の手応えを聞かれるたびに『楽勝でした』とか答えてたので、落ちたら洒落にならないなーと思っていたのですが、これで一安心です。


 はにゃ〜ん=blush のこと。追記。

 やっぱり、『はにゃ〜ん』を『blush』と訳してしまうのは違うと思う。blushに恥じらいとか赤面とかいう意味があるのだとしても、『恥じらい』や『赤面』と『はにゃ〜ん』はやっぱり意味が違う。いや、意味というより、ニュアンスがっていうか。やっぱり、『はにゃ〜ん』という言葉でしか伝わらない雰囲気みたいなものが確実に存在すると思う。CCさくらの英語版というのが外国人−日本語を母国語に持たない人−向けに出版されたのだと仮にすれば、読者にはぜひ原文の『はにゃ〜ん』のままで読んで欲しい。他の言葉じゃ代替できないんだから。まずは『はにゃ〜ん』という言葉が前提として存在することを認めた上で、『はにゃ〜ん』の意味について言葉を費やすべきだ。

 これは要するに『萌え』と同じ。『萌え』という言葉でしか表現できない感情の動きというものは厳然として存在するのであって、それを適当な言葉に置き換えることは許されない。『萌え』は例えば、ある対象に向かった時に思わず頬が緩んでしまいくすぐったいような快感を覚えること、なんていう風に説明することはできるけれども、それは結局説明に過ぎないのであって、そういう感情の動きを適切に言い表す言葉は『萌え』以外にはないのである。

 …考えてみると、萌えの定義が人それぞれ違っていても結局この一言で意味が通じてしまうっていうのは面白いよなぁ。コミュニケーションは常に誤解であるとかいう論はとりあえず置いておくとしてさ。

 今日の結論。『萌え』は世界中どこへ行っても『萌え』です。安易に訳してニュアンスを変えちゃいけません。うむ、なかなか頭悪そうな文章ができた。

 そういえば昔、宮城県出身の人と話をしていて方言の話題が出た時、宮城の方には『いづい』(いずい?)という言葉があるなんてことを聞いたことがある。かなりうろ覚えなので真に受けないで頂きたいのだが、確かその人の説明によれば『いづい』とは『痒い』に似ているんだけど痒いともやっぱり違っていて、痒いんだけど手が届かないもどかしさ、みたいな意味合いだったと記憶している。いずれにしても私が生まれ育った群馬にはそういう言葉は存在しなかったので、その言葉の意味を正確に知ることはできなかった。ただ、間違いないのは、『いづい』という言葉を自然に所有している人たちにとっては『いづい』という言葉でしか表現できないなにものかがあるということだ。


 『おまえがかわいすぎるのが悪いんだ』に一票。
 言ってみてぇ、こんな台詞。マジで。罪悪感込みで萌えとか言えるMK2さん素敵です。あ、ちなみに高河ゆんの漫画は『ありすIN WONDERLAND』しか知らないです。ごめんなさい。あと、へーちゃんを抱きてぇとか万里に抱かれてぇとか密かに思ってる成人男性はきっと一杯いると思います。まぁ個人的にはトラちゃんを苛めたいなぁとすごく思うのですが。別にリュージとセットでなくてもいいです。セットでも構わないけど。あと、小島君とか縛って…いえ、なんでもないです。私が女だったらという前提条件つきの想像、もとい妄想ですけど、万里に抱かれる女性は幸せだと思うです。

 で、壊れ文章とかの話なんですけど。私の好み的に、壊れ文章をさらっと書ける人というのはカリスマなのです。例えば脳天高橋さんとかロジックパラダイスさんとかプチ日記さんとか。巧い…いや、上手い文章を書ける人は私的に無条件尊敬モードなんですけど、その中でも壊れ文章を下品にならずに書ける人に、私はすごく憧れてしまいまして。いや、憧れというよりもむしろ、ああ羨ましいなぁチクショウみたいな。元々甚だしい無い物ねだりだし、羨ましがったってどうなるものでもないんですが。あのですね、壊れ文章、すごく書きたいんです。けど、私が書くとどうしても下品さが抜けないから書けない。

 この辺りは人によって色々な考えがあるのでしょうけど、しのぶの価値観的に言うと、文章のクオリティーはどれだけ自分を曝け出せるかによって決定されると思うのです。私はだから、どれだけ整った文章であっても本人の人格が投影されていないような文章には心が動かされない。正方向であれ負の方向であれとにかく自分の意見を言うことを恐れてはいけない、というのが私の理想で。その理想に従うと、私の文章はダメダメです。私は自分の暗黒面を隠してるから。MK2さんの日記を初めて読んだ時に『負けた』と思ったというのはつまりそういうことで。いや、暗黒面を出せればそれで良いというものでもないんですけど、ええと、要は私には裏表がありすぎて、そんな自分が嫌いだ、というか。最近特に強く思うのですが、私は世間のジョーシキに縛られすぎていると思う。縛られすぎて、自分の考えまでも歪められてしまっているように感じる。心の中で何を考えようが自由なはずなのに、それすら完全に自由ではない。
 実は私は高橋しんの『いいひと』が大嫌いで、それはなんでかっていうとあの漫画の主人公は完全にあるがままの自分で生きててしかもそう生きることがそのまま社会の利害と一致しているからです。フィクション相手にそんなこと言ってもしょうがないんでしょうけど、そんな美味い話があってたまるかと思う。感情的に、すごく不愉快な漫画です。私の目には、もう一度あの温もりをとただそれだけを願った真琴の愚かさや、永遠の責め苦を願った戸愚呂弟の愚かさの方が遥かに真実に映る。そこには正しさとか合理性とかは一切なくて、ただ、もう自分にはそれ以外の選択はあり得ないのだというギリギリの生だけがある。私はそういうものの方に遥かに価値を置く人間です。けど、私の内部には『いいひと』が嫌いだという考えを圧迫する何かがあるのです。私内部の何かが、ああいう漫画を受け入れられないお前は不健康なのだ、と囁くのです。それで、大抵の場合、私はその囁きに屈します。しかも屈辱的なことに、時には屈したことにすら気づかない。これはおそらく確実に、私の文章を歪めてます。私は文章を書くにあたって、無意識に無難な話題を選択をしているのです。だから、裏表がない(ように見える強さを持った)文章に憧れずにはいられない。これが、あの数行の背後にあったものです。

 あと、今日の日記の一部は無視して貰えると、しのぶ的に気が楽です。


 本のこと。
 現在、サン=テグジュペリの『城砦』を読んでるのだが、最初の1ページ目でいきなり『同情への軽蔑』が語られたりとか、あと全体的な語り口の強靭さとか、なんかニーチェを読んでるような気持ちにさせられる。正直、今の私のレベルでは噛み砕くのにすらかなりの労力を要するのだけど、とにかく今は読み進めなければどうにもならない。今は難儀でも、数年後にはもうちょっとよく理解できるようになっているだろう。多分今は、そのために必要な道の途上なのだ。
 まだ1冊目なので、読み終えるまでにはあと2週間ぐらいは掛かるだろう。それが終わったらリルケの書簡/小品/論文等とドストエフスキーの白痴を再読。最低限これだけはどうしても読んでおきたい。白痴は2回目なので、以前見えなかったものも色々と見えてくるだろうと思う。楽しみ。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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