■日記、あるいは雑記■




《過去ログ》
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文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp


2000/9/23 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#23


 再び、『萌え』の話。(づしの森のBBSを参考に)

 8月何日だったかの日記の『萌え定義』が冗談なのは、萌えっていう言葉が、誰に対してもある程度共通したイメージを喚起させるほどには定着していないような気がするからです。
 もちろん、『萌え』という言葉がある程度普及しているという事実を鑑みれば、やはり少なからぬ人たちが、萌えという言葉でしか語り得ない感情の存在を感じている、と言っても良いのでしょうけど。
 あと、『萌え』って人間に対して使うとなんかしっくりこないですよね。萌える対象というのが常にフィクションであるのだとすれば、この言葉が『決して手の届く事の無い対象への恋愛感情』であることを、萌えという言葉を使う人は無意識のレベルで知っているのではないかとも考えられますね。恋愛であれなんであれ、人間関係を持つというのは常に相手に対して責任を持つことが含まれる訳ですけど、フィクション相手の場合にはその責任がなくて、より単純に恋愛の楽しい部分だけを享受できる、みたいなことがあって、それが『萌え』の正体なんではなかろうかと思ってみたりします。
 うーん。結局、個人的には『対象がフィクションであることを前提にした恋愛感情』=『萌え』という辺りで割とすっきりする気が。


2000/9/22 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#22


  『しのぶくん、甘えたさんだぁ』 (にー)
 …なんてちーちゃんに言われてぇーーーーーっ。(叫)


 『お星様にお願いっ!(藤崎真緒/花とゆめ)』4巻読了。
 1〜2巻を読んだ時ほどドキドキしないのは演出不足だろうか、それとも私が単に慣れてしまっただけなんだろうか? 藤崎センセーの極意(だと勝手に思っている)であるイチャイチャが、3〜4巻辺りは比較的平凡なレベルに収まっているのが、どうも気になる。
 ところで今日までうっかり気がつかずにいたのだが、この漫画って系統としては『妹モノ』なんだよね。妹がいる人は判ると思うけど、普通、兄貴にとって妹というのは女ではなくただの年下のガキとしか認識されてなくて〜女の子として意識しちゃったら、一緒にオママゴトをしたり、お風呂入ったりなんてできない〜それは大人になってもあまり変わらないものなんだけど、妹といえども女なので、妙齢になれば、それなりに綺麗になっていくもの。あのガキが何時の間にか変わったなぁという感慨を抱いたことがあるのは多分私だけではないだろう。しかしまぁ普通は、ああ綺麗になったなぁと思ってもそこで終わりになる(ならなかったらヤバイ)のだけど、もし相手が血が繋がってなくて恋愛対象になりうる存在なのだとしたら、そういう意外性っていうのはかなり強力な起爆剤になるのではないだろうか。この辺りは想像でしか語れないのがアレだけど。なんにしても、自分は智のガキの頃を知っていて、なおかつ女としての智も知っている、しかも智を開花させたのは自分だっていう自負、これはもう男の浪漫的にこれ以上考えられない幸運だと思う。
 いやまぁ本当はそんな理屈はどうでもよくて、恋人としての立場に不慣れで途惑いまくりな智に激萌えなのデス。
 『先生、あたしとしたいの?』 とか、智が言うと可愛すぎる。


 『ピアニストという蛮族がいる(中村紘子/文芸春秋)』
 おそらく日本を代表するピアニストのひとりである著者のエッセイ集。先日というか昨日、実家で時間潰しをするために久しぶりに手に取って、結局全部読んでしまった。内容は、主にクラシックピアニスト達の裏話を集めたものなのだが、中村紘子さんのユーモアたっぷりな語り口で聞かされていると、時に常識外れな奇行振りを見せたりする芸術家が、なにかすごく可愛らしい存在に思えてくる。お薦め本なので、ちょっとだけ引用。

 そこに更に「受け手」の状況がある。「好き嫌い」というだけでなく、それ以前に、その芸術あるいは芸術家とどういう時、どういう状況で出会うか、ということだ。そして私には、これは演奏家の場合にことに重要となると思われる。
 とりわけその、椅子に腰掛けての左右対称の演奏姿勢のせいか、演奏家の中でも最も寿命が長いと噂されるピアニストの場合は、その生涯を通じて実にさまざまな場所で、そしてさまざまなコンディションのもとで、それぞれ違う一回限りの生きた演奏を行い、膨大な数のしかもそれぞれの「人生の時」にある聴き手と「一期一会」の出逢いをする……。或る時代を生きた、または生きている演奏家への評価が、そういった膨大な「一期一会」の一種の集積だとすれば、そこには目のくらむような何かがある。


2000/9/21 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#21


 告別式。
 泣かなかった。どっちかっていうと、おじいちゃんが死んだという事実よりも、おばあちゃんの寂しげな姿の方に心が痛んだ。いや、おじいちゃんも好きだったんだけど。


 叔母と久しぶりに会う。叔母に、小学生の頃と同じように『ゆきおちゃん』(←私の名前)と呼ばれた時は、嬉しさとも懐かしさとも判らない感情で胸が詰まった。叔母は目が見えない。小学生の頃、突然、視力を失ったのだそうだ。しかしそれにも関わらずというべきかそれだからこそというべきか、叔母は誰よりも優しい。叔母は目が見えないゆえに、他人と自分との距離を測ることを一切しない。ちょうど、ONEのみさき先輩を思い浮かべてみてもらえれば良い。みさき先輩がそうだったように、叔母もまた、信用を前提として他人に接することのできる強さを持っていた。だから叔母はまた、いつでも誰に対しても人懐こかった。叔母と一緒にいる時間はいつでも心地好かった。『ゆみちゃん』(←私は叔母をこう呼ぶ)と一緒にいる時ほど、人に好かれる気持ち良さ、人に信用される心地好さを強く感じられることはない。

 もう一度、小学生の頃のように無邪気に叔母と遊べたらな…と思う。切実に。そう思うと、泣きたくなるほど寂しい。


 ちょっと必要があって実家で時間を潰していたら、戸棚に、私の名前が書かれた古いカセットテープが置いてあるのに気がついた。試しに再生してみたら、6歳の頃の私の肉声が入っていた。自分でいうのもなんだが、ああ俺にもこんな可愛い頃があったのかとしみじみ思った。あれから、23年という時間が流れた。今の私は、世間的にはいわゆる“大人”だ。ああしかしなんと言ったらよいのだろう。あのテープを聞いてから、大人になったことが、なにか取り返しのつかない恐ろしいことのように感じる。いや違うか。多分、取り返しがつかないから恐ろしいのだ。時間は残酷だ。私にもいつか、祖父のように、動かなくなる日が来る。いや、私がそれが恐いんじゃない。自分が死ぬことは別にそれほど恐いとは思わない。私が恐いのは、私の好きな人が年をとり死んでいくことだ。いや、まだ違う。私が恐いのは、多分、私を好きでいてくれる人がいなくなることなのだ。いくらなんでも私だって、自分がひとりで存在できると考えるほど愚かじゃない。人間との関係は、私が生きていることを保証してくれる。思い出の中のものが今だに現実に存在することは、私がかつてそこにあったことを保証してくれる(※)。しかし、時間は私だけでなく、私が存在していた証すら容赦なく押し流す。それが、たまらなく恐い。考えれば考えるほど、思い出の中に埋没してしまいたい気分になる。

(※)今回の葬式で初めて知ったのだが、昔よく遊びに行った祖父母の家はいつのまにか改築されていて、当時の面影は微塵もなかった。


 なんか色々なことが自分の内で起こり過ぎて、妙にセンチになってる。読んでる人は嫌気が差すかも。ごめん。


 おまけ。昨夜のお通夜に出た時、来訪者の中にひとり可愛い娘(見た目20歳前後)がいて気になっていたのだけど、今日、その娘に話しかけられて愕然。短大に行っていた実妹(20歳)だった。…ネタじゃないところが恐ろしい。私が人の顔を覚えるのが苦手ってのもあるけど、それにしたって変わりすぎやん。>妹
#今にして思えば、去年の暮れに会ったときは実家だったから判ったんだな…。


2000/9/20 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#20


 母方の祖父が亡くなった。今日はお通夜。


 中学校だったか高校だったかで音楽教師をしている叔父に久しぶりに(10年振りぐらい?)会う。会話の流れでたまたま、モーツァルトは素晴らしいという話になって、しばらく二人で音楽談義に花を咲かせる。
 叔父は、魔笛やアヴェ・ヴェルム・コルプスの素晴らしさを、私の前で熱っぽく語った。魔笛のタミーノのアリア(Dies Bildnis ist bezaubernd schon,wie 〜)の旋律がいかに素晴らしいかを語るのに、叔父は指で旋律をなぞるような仕草をしながら、自ら歌ってみせたりもした。正直、私にはその姿が眩しかった。叔父は、音楽を全身で、また全霊を傾けて味わうことを心得ていた。言葉の内容云々以前に、私は叔父の語りに感動してしまった。

 インターネットワールドにいると、時々、自分を見失うことがある。インターネット上では常に冷静であることが要求される。不特定多数の意志みたいなものとして、そうすることが望ましいという暗黙の了解がある。それにそぐわない人は『酔っている』と言われたり『イタイ』と言われたりする。
 しかし改めて考えると、熱中することの何がいけないというのだろう。『酔っている』とか言われるのはなんとも居心地が悪いものだが、音楽であれゲームであれ、酔ってしまいたくなるほど熱中できないというのだったらその方がよっぽど不幸ではないだろうか。もちろん、文章を書く上では感情に任せて書いてしまってはいけないのだが、ただ、自分について考えてみると、『酔っている』とかいう類の言葉を言われたくないという意識が、自分の文章に枷みたいなものを作っているのではないかと心配になる。何かを表現しようとする人には枷があってはいけない、というかなければないほど好ましい。技術の問題は無視できないしまた無視してはいけないが、技術以前の問題として本人の意識がなんらかの形で『いじけている』(ゴッホの書簡中の言葉)としたら、本当に心に届くものは書けないだろう。


2000/9/18 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#18


 最近、職場に貼ってある水着カレンダーのモデルさんの胸の谷間が妙に気になる。俺の萌え対象は14±1歳だと思ってたんだが。私が漫画のキャラクターだったら、『うおーそんなはずはないんだー』と叫びつつ、壁に頭をガンガンぶつけていたに違いない。


 一年経った今にして思うと、私が源内考察(Kanon論)に拒否反応を示したのは、あの方の批評の矛先の一部が私たちプレイヤーに向いていたからなんじゃないかしら。ちょっと前、とあるONE考察を読んだ時、『ONEのテーマはプレイヤーに届いていない』という一文があって、その時もなんとなく嫌な気分になったのだけど、正直な話、受け取り方に関してアレコレ言われるのが私は不愉快なんだろう。彼らの言うことを真に受ければ、私はKanonやONEを正しく受け取っていないということになってしまうのだから、好意的に読むのはどうしても難しくなる訳だ。庵野や田中芳樹〜あとミヒャエル・エンデとかもそうだけど〜みたいに、何かの主張するために作品という触媒を使うという手法もアリだとは思うけど、正直言って私には受け入れられない。言い訳だけど、ことある毎に庵野氏や田中氏の名前を出してますが、EVAも銀英伝も、作者の主張が出てこない限りにおいては第一級の仕事だと思ってます。EVAの幾つかの場面は、今でも思い出すだけでドキドキするぐらい。


 レンタル屋に行って、『とらいあんぐるハート』(OVA)とか、遊佐未森の『HOPE』とか、丹下桜のベストアルバム(タイトル失念)とか借りてくる。ビデオはダメダメ。もし買ってたら金返せと言ってしまうだろう出来。日常描写は、とらハ2の優しい雰囲気がイマイチ感じられないし、えっちシーンが単なるセックスになり下がっているのが致命的。いや、えっちとセックスが違うのかと言われればそれはまぁやることは同じなんだけど、都築さんの描くえっちは、あくまでもいちゃいちゃの延長線上にあるので、その意味に限っては、あんなのとらハじゃない。


 『せんせいのお時間』の2巻を読んでいたら、北川さんはギャップ好き、みたいなことが書いてあったのだけど、ギャップ、つまり、一見○○で実は△△っていうのは萌え要素の基本というか、普遍的なものだと思っていたんだけど、実はそうではなかったんだろうか?
 いやしかし、私の知る限り、例えばとらハの綺堂さくらに萌え殺された人は、皆一様にあの黒い下着の意外性にやられたのではなかったろうか。…都築さんって策士だよねぇ。もっとも私はあの黒い下着にはあまり萌えなくて、どっちかっていうと、あの一見クールな印象の少女が主人公に心を許して無防備な姿をさらすみたいな所に萌えていたんだけども。これは、ONEの茜シナリオ最大の萌えシーンと同じ理屈。
 茜シナリオというのは、澪の場合と違ってキャラ萌えするような種類のシナリオではないと思うのだけど、ただ、えっちシーンで浩平が茜のスカートを上手く脱がせられなくて悪戦苦闘している場面で、茜がくすっと笑って自分からスカートを脱いでくれるシーンは萌えた。今、書きながらその場面を思い出すだけでも頬が緩むぐらいである。こんなことをイチイチ解説するのもアホだと思うが、要するに『あの茜が』というのが良いのだ。あの茜が自分からスカートを脱いでくれる(ような可愛さを持っている)なんて、クラスの誰が想像できるだろう、みたいな。自分だけは特別なんだっていう感覚。なんとなく歪んでるような気もしないではないけど、少なくとも私にとって、ギャップは重要な(何が?)というよりデフォルトの萌え要素なので、むしろそうでない人が存在する可能性を想像する方が難しい。


 『オレ達から貴方への鎮魂歌です』(HUNTER×HUNTER/WJ42号)

 団長、格好良すぎ。惚れ。いや、どっちかっていうと、団長が格好良いというより、シーンの美しさが際立っているという方が正確なのかもしれないけど。
 私が冨樫作品を好きなのは、富樫氏が〜少年漫画家の中でも数少ない〜悪役を魅力的に描ける人だからだ。例えば幽遊白書の戸愚呂弟に仙水忍。幽白の2大悪役であった彼らは、いずれも戦う理由があって戦っていた。もっと正確に言えば、彼らは彼らなりにそうしなければならない理由があるということが、読者に伝わるように描かれていた。幽遊白書には、その意味では悪役というものは存在しない。ただ、立場の違いがあるだけである。
 戸愚呂弟は自分を否定されることを欲していた。しかし自分を否定しようと思う者には、自分の全力を上回る力をもってすることを要求した。俺を否定したくば、俺以上の力を示せ、と。
 仙水忍は、自分と人間が相容れない存在だと知った時、自分を否定することをせずに、逆に人間を滅ぼしてしまおうと考えた。しかしプライドの高かった仙水は、魔界に行き、妖怪に殺される過程で結果として人類が滅ぼされるような計画を作った。彼は、人間なんかに殺されるのは絶対に嫌だと考えていた訳だが、逆に人間を殺すことにもすごく嫌悪感を持っていた。それはいわゆる道徳的な意味ではなくて、どんな形であれ人間と関わりを持ちたくなかったからだった。
 この、幽遊白書の2大悪役に共通してみられる特徴のひとつは、彼らの人生が、もはや抜き差しならない、それ以外の選択はあり得ないというところまで来ているという点にある。彼らには、そうする以外の『生』は存在しない。例え死ぬための生であっても。だから、凡百の悪役のように、彼らは自分の行動に疑いを持ったり、自分の行動を悔いたりするということがない。方向性はどうあれ、その一貫性がある種の美しさを生んでいるのは間違いないと思う。私の好みの問題もあるかもしれないが、悪役が主人公と戦っているうちに自分の行動に疑問を抱くなんていうのは、最悪の展開だと思う。悪役を登場させるなら、悪の道に走らずにはいられなかった理由が欲しい。どうしてもそうする以外の道はなかったのだと納得するしかないような描写が欲しい。戸愚呂も仙水も、自分の行動に疑問を持ったりはしなかった。どうしてもそうするしかないというギリギリの人生を生きていたからだ。そこに説得力が生れる。ああ、幽白悪役論っぽくなってしまった。
 H×Hの旅団については今のところ戦う理由はないようだが、それにしても彼らに罪の意識がないというのは見逃してはならない点だ。そもそも自分たちが一般道徳的に見て悪いことをしているという意識が、彼らにはそもそもないのだろう。団長を始めとする幻影旅団の魅力は、彼らに罪の意識がないというところにある。倫理と美には本来何の関係もない。冨樫氏はそのことがよく判っている。


 づしの森のMK2氏の日記のどこだったかで、癒しという言葉を軽々しく使うなみたいな内容のものがあったと記憶しているのだが、まったく同感である。しかし『これがあれば私は生きていける、というぐらいでなければ癒しという言葉は使うな』というくだりは、更に同感であるのです。
 MK2氏の言葉を前提に考えるなら、私の人生の中で『癒された』と言える芸術体験は多分一度しかない。若い時分、生きるのが辛くて辛くて、いつ死んでもいいやと思っていた頃のこと。モーツァルトの魔笛に出逢った私は、涙をボロボロ流しながら、ああこの音楽があれば俺は生きていける、と思った。こういうことを考えたのは、後にも先にもこれ一回しかない。

 クラシック音楽を聴き始めてだいたい11年ぐらいになるが、その間には人には言いにくいような音楽体験が幾つもあった。ショパンのピアノ協奏曲1番第1楽章を聴きながら、これは青年ショパンによる自分のためのレクイエムだなんて想像して泣いたこととか、モーツァルトのレクイエム(ニ短調)を聴きながら、この曲があれば私は何の憂いもなく死ねるだろうと想像したこととか、もし神というものがいるとしてその言葉がこのレクイエムのように響くなら、私は進んで頭を下げるだろうと思ったとか、モーツァルトのピアノ協奏曲24番を聴きながら、モーツァルトは天界を追放された天使なのだと想像したこととか、ショパンのピアノソナタ第2番(ポゴレリッチ版)の第3楽章の中間部に酔いしれながら、このまま時間が止まってしまえば良いのにと思ったこととか、ベートヴェンの第9交響曲の第3楽章を聴きながら、ここにはなこるるや仙水さんが笑って生きられる世界がある(←大真面目。というか、あの音楽はベートーヴェンの描いた究極の理想郷だと思う)なんて思ったこととか、バッハのゴルドベルク変奏曲を聴きながら、音楽に人を殺す力があるなら私はゴルドベルク変奏曲に殺されたい、なんて思ったりしたこととか、シューベルトの変ロ長調の即興曲を聴きながら、これはなこるるをモデルに書かれた曲に違いないなんて激しく勘違いした想像をしながら悦に入っていたりしたこととか…。



 極めて個人的な話。どうして私の文章内で“なこるる”は平仮名表記なのか? これは要するに、SNKのナコルルと私内部に住んでいるなこるるは別人だからです。最初は同じだったのですけどね、長くナコ萌えをやってて色々な妄想をしているうちに、だんだん自分だけのなこるるとして妄想が独り立ちしてしまった、という次第。


2000/9/17 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#17


 相変わらずマニア以外意味不明であろう、怒首領蜂日記。

 ゲーセンで5時間ほど粘る。
 本日の成果。(いずれも今日初めて達成したもの)

 1-2 499HIT. クリア時1993万。
 1-3 クリア時 4000万。
 1-4 696HIT. あと+2HIT予定。
 1-6 739HIT.

 2-4 蜂全回収パターン、ほぼ完成。
 2-6 蜂全回収パターン、ほぼ完成。(ただし、道中の弾避けが不安定なのでまだまだ)

 今日のベストプレイ。
 2-6ボス到達時、残5ボム1、火蜂戦開幕時、残3ボム4…にも関わらずクリアならず。(泣)
 ただし、道中は2-2以外すべての蜂アイテムを回収。

 今日の準ベストプレイ。
 2-6ボスで全滅後、1continueで火蜂戦の練習。
 2ループ目の2番目でボムが尽きた後、3番目→4番目ノーボム突破→発狂へ。
 発狂(放射弾)ノーミスノーボム。火蜂戦140HIT.


2000/9/15 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#15


 アクセス解析で偶然捉まった、MOON.考察。(トップページはこちら
 本格的なMOON.考察って初めて読んだ。私の日記をわざわざ読んでくださる方は、基本的に考察系は好きだと思うので紹介しておきます。

 あと、『脳天高橋』の移転先はこちらであることが判明。葉月さん、うしとらさん情報どうもありがとうございます。


2000/9/14 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#14


 私に色々と考える切っ掛けを与えてくれたあの日記の中間部分は、実は単に、マルチがどうして感情を所有しえないか、ということについて論じていただけだったんじゃなかったろうか、と思い至る。それが自分にも当てはまると感じたというのは確かにあるんだけど、そう感じた瞬間から頭の中がそれ一色に染まってしまったのが、今考えるとかなり恥ずかしい。多分、私があんな風に考えたのは、最初の佐祐理さん論を解釈しそこねて、そのことが後ろめたさになっていたからなんだと思う。

 あーなんか。ダメダメ。バランスが狂ってるというか、精神が死んでる。ここんところずっと。
 右手を見詰めつつ『最低だ、俺って…』とか言いたい気分。(※)

(※)
要するに、他人を利用して自慰行為をしてしまった時に呟く台詞。
出典は言わずもがな。

 出直してまいります。


2000/9/13 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#13

■ 
 修了試験が無事終わった。あとは、本試験を残すのみ。気持ち的には少しだけ楽になった。なぜか、最近は受験勉強が楽しい。別にちーちゃんとは関係なく。あ、ちーちゃんといえば、Honeyって1巻が99年9月発行で2巻が2000年7月発行になってるのだけど、ということは次に新しいちーちゃんの笑顔を見られるのは来年ということですよね?
 …もっと速く描けやオラ。
 …すいません嘘です。橘センセー愛してます。でもひとつだけお願い。遅くても全然構わないですから、どうかちゃんと完結させてください。あれを未完で終わらせるのはあまりに勿体無いです。待ってます。


 Honeyを読んでたら、『贖いの扉』が読みたくなったので本屋さんへ。最初、全然見つからなかったのだが、しばらくして、贖いの扉というタイトルの単行本はないのだということに気づく。ヴァンプの4巻だったっけか?と思ってバクチで買ってみたら大正解。あと、ついでにという訳ではないけど、ちょうど思い出したので、藤本隆志の『ヴィトゲンシュタイン』も購入。


 脳天高橋さんのサイトってどこに引っ越したのでしょう?
 ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。


 正当化とか(特に誰宛てというのではないです。独り言)

 今木氏の9/9の日記がしのぶのことを書いているのだと、昨日の夜に突然気がついて(←遅すぎ)愕然。今までweb日記上で自分のことを言われてるのかと思ったことは幾度かあるけど、今回に限っては自意識過剰じゃない気がする。仮に最小に見積もっても、しのぶが、あの文章を読むべき対象のひとりに含まれていたのは間違いないんじゃないかと。あれから1日、仕事中もずっとあの文章が頭から離れなかった。もちろん今も離れていなくて、おまけに超寝不足だったりもするのですが、とにかく書いてこのもやもやから解放されないと、何かとキツイのでこうして書いているのですけど。

>あの他人を嫌いになるにはあの自分の感情を自然に自明に所有しうるための基盤がやはり必要なわけです。

 感情と正当化という単語が、自分内部で上手く結びつけられなくて、あの文章を噛み砕くのにかなりの時間を要したのだけど、これって要するに、少なくとも健康な人間においては、すべての感情は『自分は正しい』を前提としているということ、別の言い方をすれば、ある感情を抱くためにはまず自分を絶対に信じている必要があるのだということ、ですよね。
 これに気がついて、道理で私が理解し辛かった訳だと納得しました。私は自分の正しさをあまり信じていない人間でしたから。例えば、今まで20数年生きてきて幾度となく経験したことですが、何らかの形で私と他人とで意見が食い違うようなことがあると、多くの人は、まずは自分の意見(あるいは知識)を主張するという所から始めます。けど、私はそれをやりません。正確には、できないんですが。他人と意見が食い違った時、私はまず、どっちに理があるんだろうと考えるところから始めます。半ば無自覚にですが、多分、第3者視点みたいなものを想像して、そこから自分と相手を見ようとしているのだと思います。『正しさ』は個々人の認識の中にしか存在しないというのに、それ以外のところ〜多くの場合は、世間という不特定多数の他人の目〜に正しさの基準みたいなものを仮設して、そこから自分と相手を判断しようとするのです。ほとんど前提的に、自分を信じていないんですね、私は。まぁ20歳ぐらいからは、自分をある程度は信じられるようにと、立ち止まったら終わりだという強迫観念をいつも抱えて自分を保ってきた訳ですが、でもそういう第3者視点的発想はやっぱりなくなるものではない。私の文章が時に説得力を欠くのは、私が『自明に所有できる基盤』を持っていないことに、本当の原因があるのだと思います。というか、あの日記を読んで、そう思い至りました。終わり。


2000/9/10 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#10

 今日も出社して講習。昼休みを利用して日記書き。日記を書く時間はあってもAIRはまだ当分やらない。日記はその時だけで済むけど、AIRをやっちゃうと多分尾を引くし、絶対語りたくなっちゃうから。

 車の中でシューベルトの『美しい水車小屋の娘』を聴く。こんな繊細な青年がいたら、現代ではとてもじゃないけけど生きていけないようなぁ、なんてことを思う。時代背景を無視して言うのもアレだけど。
 それにしても面白いと思うのは、主人公の青年がロマンチストとして描かれているのに対して、相手の女性が割と現実主義者のように描かれていることだ。
 例えば、第10曲の『涙の雨』(tranenregen)の最後の方などはその最たるもので、主人公が、夜の幻想的な風景の中で彼女と一緒にいることに、感極まって涙を流してしまい、小川が涙で揺れる、みたいな場面があるのだが、彼女の方は小川が揺れるのを見て、『あら、雨だわ、私、家に帰りますね』と素っ気なく言ってしまう。同床異夢とでも言うのか、もう一種滑稽なほどに、ふたりの想いは乖離している。この青年は結局失恋して自殺してしまうのだが、私などから見るともう彼女に出逢ってしまったのがこの青年の不幸の始まりだったのだとしか言えない。
 私はこの連作歌曲集が大好きだが、車の中など、ひとりで居る時に自分で歌っていると、不意に気恥ずかしくなることがある。この歌曲集はあまりにも甘い。これはシューベルトの天才があればこそ、現代でも歌うに足りる芸術になっているのであって、詩自体は現代の感覚から言えば自己陶酔が過ぎて、とてもじゃないけど耐えられるものではない、という気がする。
 いや、こんなことを言いつつも私はこの歌曲集が大好きなんですけどね。そうじゃなきゃ、20曲中約1/3もの歌を丸暗記したりはしないですから。

 夜。
 講習終了後、床屋。
 いつも思うのだけど、床屋で洗髪してもらうのはどうしてあんなに気持ち良いんだろう。あれは、人生における…というのは言いすぎかもしれないとしても、日常における至福の一時だと言いたい気がする。

 づしの森の日記、読了。
 私は、他人が何を考えているかにはいつも興味を抱いているけれども、他人の日常にははっきり言って全然興味がない。その意味で、ここの日記は本当に読んでいて楽しかった。

■Honey【1】(橘裕/花とゆめ/白泉社)

 癒し系(便利な言葉だ…)ってやつですか?
 いや、それよりこれって本当に少女漫画ですか?
 密かに、男性読者をターゲットに描かれてませんか?

 うにゅ〜。ツボにハマりまくり。ちーちゃん可愛いーーーーーっ!!!
 結婚してください。僕は本気です。
 今月一杯は、AIRやらなくてもネットに繋がなくても、ちーちゃんさえいれば受験勉強ごとき余裕でやっていけそうな気がする。いや、やっていける。(断言)

 と突っ走りつつ今日の日記終わり。


2000/9/9 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-09htm#9

 更新停止中にも関わらず、気づく人はちゃんと気づいてくれるんですねぇ。
 佐祐理さん論には結構感銘を受けたのだけど、どうも誤解に基づく感銘だった模様。
 でもま、マルチに関しては、一応言いたい事は言っちやいます。

■再考(ちと、電波混入気味)

 んーと。多分、私がマルチを許せないのは、マルチを『女の子の恋人として』見てしまうからなんだと思う。私がマルチ萌えだった頃、妄想内のマルチは恋人的な存在でした。すると、色々と不都合が生じてくる。例えば、マルチには嫉妬という感情がない。ということは、例えば私が浮気しても多分マルチは悲しむかもしれないけど怒らないだろう、と容易に想像できてしまう。けど、私は怒って欲しいんです。まぁ浮気は例として極端だけど、いずれにしても自己主張がなかったら、私はマルチに愛されていると信じることができなくなる。これは確実に。あとまぁ細かい妄想まで挙げれば限がなくて、例えばマルチと一緒にドライブに行ったとして、途中でレストランに入ったとしたら、食事は私ひとりで食べなければならない(これはかなりキツイ)とか色々あって。今はマルチが好きではない、と。

 マルチは負の感情を持たないゆえに、『人間として』見たら、まったく中途半端な存在だと思う。けど、単純にマルチを、身の回りの世話やら仕事の手伝いをしてくれるメイドロボとみなすなら、逆に全然問題ない。というか、マルチがメイド『ロボット』である限りは、好きや嫌いということは関係なくなる。こんなことを言うとファンを敵に回しそうだけど、結局ロボットは道具な訳だから。その意味では、同居するのは別に量産型だって全然構わない。

 『RISE』のななこに関して言えば、あれは私的に『人間として』許容できる存在です。マルチとななことの大きな違いのひとつは、前者が明確な目的を持って作られたのに対して、後者は目的なく生れてきた存在だということ。生れることに目的がなく、それゆえに存在意義に悩んだりしてしまうという存在は、人間らしいと言いたい気がします。

 …とここまで書いてて思ったのだけど。来須川重工?が想定しているメイドロボのユーザーって、本来は、人手が足りない企業であるとか、寝たきり老人であるとか、とにかく切実に人手を必要としている種類の人たちなんだよね。そう考えると、感情らしきものがあるマルチっていうのは、そういう環境に実に適合したロボットであるような気がする。例えば、一緒の職場で働く相手が笑顔だったらこちらも気持ち良く仕事ができるし、寝たきり老人にとって、なにをしても怒らないし何時間でも話を聞いてくれるマルチは大きな救いになるかもしれない。
 何が言いたいのかっていうと、つまり。健康な人間〜というのは差し当たり、自分の力だけでごく普通に生活できるという程度の意味〜が自分視点でマルチを語ってしまうと妙なことになるのかなってこと。


2000/9/5 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#5

 今木さんが惚れているらしい『づしの森』というサイトを見に行く。
 とりあえず日記を半年分ほど読んでみる。
 うくー。…負けた。
 自分のことを語りすぎるとか、後ろ暗いところとか、自虐的なところとか、ゲームや文章に対する姿勢だとか、読めば読むほど、あらゆる点においてこの方は他人とは思えないのだけど、ただ、ここまで赤裸々に自分のことを語る勇気?は私にはない。私は他人からどう見られるかとかいうことを結構気にする性質なので、そういうことを書きたい衝動に駆られたとしても、自分を赤裸々に書いて嫌われたらどうしようという意識が、どうしても働く。
 私が躊躇してしまう一線を、最初からそんなものはなかったように乗り越えてしまう強さ。こういう人を尊敬しない訳にはいかない。

 MK2さんの日記を読んでいると、なんか異常な程に脳が刺激されて、文章を書きたい衝動に駆られる。アイデアが沸沸と湧いてくるような感覚。
 あの日記に逐一コメントをつけているだけでも今年一杯ぐらいはネタに困ることはないだろうと思うが、さすがにそれはできないので、特に気になったものを3つほどチョイスしてリンクしてみる。

1)2000年6月11日分

 後半のあのSSのこと。甘ったれの極みのような文章だけど、でもああいうのを書かずにいられない“痛み”は私も知っている。

2)2000年4月17日分

 『名雪は記号じゃない。ひとりの人間だ』
 これはギャルゲーに対する私の基本アプローチと完全に一致する。重要なのは、名雪という人間が、栞という人間が、Kanonという物語の中で“どう生きたか”なのであって、テーマやらなんやらは私にはどうでも良いことなんです。

)2000年4月2日分

 小池定路氏についての『「瞬間を切り取る」ことに長けている人』
 この表現はすごく巧いと思った。


 速攻でリンクページ更新。

 ついで、というのもなんですが。MK2さんの日記を読んでいたら『MOON LIGHT HEAVEN』というサイトのことを思い出したのでリンクを貼っておきます。お好みに合うかどうかは判りませんが…。私はスマートな日記を書く人に憧れますが、こういう、泥まみれになって文章を書いている人を尊敬せずにはいられません。ま、ヘッセの『荒野のおおかみ』を愛読してるような人間ですから。

■再び、今木氏の日記より

 僕は佐祐理さん嫌い
 これほど、倉田佐祐理という人間をよく理解した文章は他に知らない。私は基本的に佐祐理さん萌え萌えな人なので共感はできないが、ただそれにも関わらず、今木さんが書いていることはすごくよく理解できる。自分に逆らわない存在、自分を嫌う可能性がない存在に対する『ある種の気持ち悪さ』という感覚は、多分、私が東鳩のマルチに対して感じるものと部分的に似ている。

 もしマルチと一緒に暮らしたとしたら、遠からず、私はマルチに愛されているという自信を持てなくなるだろうと思う。そうなった時、私はもしかしたら、なぜ自己主張しないんだといってマルチを殴るかもしれない。怒ってみろ、と言ってマルチを殴るかもしれない。マルチは優しい。けど、悪く言えば優しいだけだ。

 …浩平も、自分を許してしまう瑞佳が苛立たしかったんだろうなぁ、なんてことを考えつつ、ここのONEレビューを再読してみる。…圧倒されてしまった。すげぇ。(脱線しつつ終わり)


2000/9/4 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-09.htm#4

■語り口

 ゲーム感想文にしても日記にしても、私の文章って読み手を選ぶと思う。いや、傲慢な意味ではなくて、要するに口に合う人と合わない人がはっきり分かれてしまうという意味で。
 
 私のONE感想文についての『考察として読むと、かなり痛いものが。』というコメントは、否定派の意見の最大公約数だと思う。ズバリ言われたのは初めてだったので少々ショックを受けたが、意見自体は想像の範疇でもあった。

 実を言うと、あのONE感想の『感想』部分を『考察』に書き換えたいという誘惑に、私は今まで何回もかられていた。考察の方が、言葉として格好良いからだ。しかしそれでも今日まであれが『感想』という題であり続けたのは、あの文章を考察と呼ぶことに対して、何より私自身が違和感を感じていたからに他ならない。

 どういうタイプの文章を『考察』と呼ぶのか、実は私はよく判っていない。しかし、web上で著者によって『考察』と銘打たれている、ゲームに関する文章の数々が『考察』なのであるとすれば、考察という種類の文章は、私が読みたいもの(=書きたいもの)ではない。

 大昔、リーフオフィシャルBBSの常連だった頃、『自分のONE感想は長大なノロケだ』と書いたことがある。この『ノロケ』という言葉は、自分の文章の特徴を最も的確に表現したものだと今でも考えている。こんなことを言うと、あなたはノロケだと自覚した上でweb上に文章を発表しているのかと責められかねないのだが、それでも私は自分の文章を発表できる理由がある。つまり、私が目指しているのは『他人に読ませることが可能なノロケ』なのだ。あれを考察とは呼べないとしても、シナリオ解釈の領域においては、他人に読ませるに値するものが幾らかは含まれていると信じる。というかそもそも、著者本人が価値を置いていないようなものを発表するなんてのは不誠実というものではないだろうか?

 私の文章が人を選ぶとしたら、その理由は多分、知より以上に感情を流出させているような語り口にあるのではないかと思う。もっともそうと自覚していたところで今更変えられないしまた変える意志も更々ないので、口に合わなかったら御縁がなかったようで…ということにならざるを得ないのも確かなんだけど…。

 自分でも、損してるなーと思うことはあるんだけどね。


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