鬱と電波と萌えな日記



はじめに.

 書いてる人(しのぶ)は基本的に情緒不安定な人ですので、日によって鬱な内容だったり毒電波が混入してたり下品な文章になったりすることがあります。合わないと感じましたら、読むのをお止めになることをお薦めします。

 日記内では、ゲームや漫画等のネタバレがしばしば含まれています。ネタバレ時は赤字にてその都度注意書きを加えますが、忘れることもあります。その旨予めご了承ください。


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2001/1/28 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#28


 怒首領蜂

 1回目。
 1周19570万(自己ベスト)、2-2終了時25800万、2-3中ボスで死亡、以後落ちまくりで2-6道中で全滅。3.7億。

 (途中、捨てゲー10回ぐらい)

 2回目。
 1周17200万、2周目3面/4回目の弾消し後までノーミスノーボム。
 2-7突入時/残5ボム0、火蜂戦開始時/残4ボム2、発狂突入時/残2ボム4、クリア時/残2ボム0。

 447,795,450pts. maxhit_861

 2周クリア時、残2は初めて。快挙♪

 メモ。
 2-3ボス戦。前半で扇状弾が連続したり、あるいは小型砲台x4の弾の流れがキツくて、ボス本体へのダメージ効率が悪かった場合、戦いが長引いて苦しくなるので、状況次第では、途中から小型砲台をすべて破壊するパターンに切り換えるぐらいの柔軟性が欲しい。


2001/1/24 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#24


 1年前。いつもバイエルが聴こえてくる家があった。退社時にその家の前を通ると、いつも、誰かがバイエルを弾いているのが聴こえてきた。バイエルの響きを聴きながらその家の前を歩くのが、退社時の、私のささやかな楽しみだった。どんな子供が弾いているんだろう、これから、どんどん上手くなっていくんだろうな、と考えるとわくわくした。来年の今頃は、もしかしたらチェルニー30番とかが聴こえてきたりするのかな、なんて思ったりしていた。

 今は、その家の前を通っても何も聴こえない。いつからだったかは分からないが、気がついたら、その家からピアノの響きが聴こえてくることはなくなっていた。


 PureDream〜LastWaltz を観る。
 ただひたすら綺麗。美凪シナリオ世界の、ひとつの再現。しばらくこの手のブツは見ていなかったのだけど、いつのまにかこの業界?ってこんなにも進歩してたのね。

(※)
 今は、なにやらあったらしくて業界全体に自粛ムードがあるようなので、サイト名/作者名などは敢えて書かないでおきます。


 夏影ともに AIR のロゴが出るところ

 タイトル背景が夕焼けの海に変わる演出にしてもそうですが、この辺りは本当に、keyの趣味(センス)の良さに驚かされますよね。あたらしい物語の予感、が美しさの肝なのかどうかはさておき、key作品の素晴らしさのひとつは、雰囲気作りを徹底しているところにあるような気がします。物語本編だけではなく、タイトル画面やおまけ画面、果てはエンディングテーマまでも含めてひとつのAIR世界を作り出しているというか。例えばレストランにおけるサーヴィスというものは、料理を客に出すことだけに留まるのではなく、客がその店に入った瞬間から店を出るまでのすべての時間を通して、ひとつの居心地の良い空間を演出するという要素も含まれると思うのですが、key作品がやっていることも、そういうことなのではないでしょうか。

 あと、本編(DREAM/SUMEER/AIR)の演出の素晴らしさについて…書こうと思ったのですが、土方さん[小春亭]が、AIRレビューの中で私の書きたかったことをすべて書いてくれているので、こちらは土方さんにお任せして、私は逃げることにします。AIRの演出の凄さというのは、つまるところ、夢(物語)が、どこまでも純粋に夢(物語)であり続ける(途中で現実に引き戻されたりすることがない)ということ、土方さんの言葉を借りれば、置き場が定まっている、ということに尽きるように思われます。


2001/1/23 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#23


 AIR (key) −ネタバレ−

 気の利いたことを書こうなんて思っているといつになっても書けないので、今日までに考えたことをとにかく羅列。構成とかは一切無視。書きたいことをその場で頭に浮かんだ順にどんどん書いていく。1年後ぐらいに書くであろう、AIR感想の下書き。

 AIR編。冒頭の演出の妙。あの台詞が当然往人のものだと思っているプレイヤーは、『体が持ち上げられる』という一文を読んで初めて違和感を抱くことになるのだが、その次にマウスをクリックした時、肩にカラスを止まらせた観鈴のCGが現れて、あの台詞が実はカラスのものだったことを知る。しかしこの冒頭の驚きはそんなところにあるのではない。
 観鈴のCGが出る前に、まずBGM[夏影]が鳴り出しているのを忘れてはいけない。周知の通り、夏影はなんとも言えずミステリアスな序奏から開始されるのだが、その、不安を掻き立てるような音楽に乗せて、CGが静かに現れる。そして、夏影の旋律は、あの郷愁を誘わずにおかないような長調の響きに変わり、それから少し遅れて、映画のスクリーンのようにCGの上下がカットされて、AIRのタイトルログが、浮き出るように現れる。夏影という曲は、序奏から主題、また中間部を挟んでの主題の再現など、主題の現れ方が非常にドラマチックなのだが、この場面は、夏影と画面効果とが恐ろしいほどの調和を見せていて、プレイヤーは、これから尋常ならざる物語が始まるのだという予感を抱かずにいられなくなる。この感覚は、ほとんど戦慄に近い。夏影という曲は、この場面のために作曲されたのではないかと思ってしまう。

 AIR編の観鈴。往人と一緒に人形を探す場面。観鈴の顔を表現するのに、『頭から水をかぶったような』『汗がきらきらと輝いて』という文章が出てくるが、ここを読んだ瞬間、汗びっしりになって満面の笑顔を浮かべている観鈴が目の前に現れた気がして、クラクラ来た。汗の輝きというと、今までだと佳乃のイメージだったのだが、このわずか2つの文章は、佳乃のイメージを一気に消し去ってしまうほどのリアリティーを持って迫ってくる。この場面の観鈴は、きっとすごく嬉しそうな表情をしていると思う。
 あと、ついでに書いておくと、DREAM編の冒頭数日の往人と観鈴。例えば往人とご飯を食べてる時。AIR編を一度やった後でもう1回見ると、観鈴は往人が傍にいるのが嬉しくてしようがないんだなーというのがすごくよく分かる。誰かが傍にいる生活、誰かと一緒にご飯を食べるような生活に、観鈴はきっとすごく憧れていたに違いないと思う。観鈴は往人と出逢って初めて、その憧れの中に身を置く。自分には決して届かないと思っていた憧れの中に、身を置く。

 AIRの3人のヒロイン。佳乃シナリオだけが辛うじて恋愛モノになっているのは、恋愛をできる条件を満たしているのが佳乃だけだから。観鈴は、人を愛する以前にまず誰かから無条件に愛される経験を持つ必要があるし、美凪は還るべき場所、そこから始めなくてはならない場所を取り戻そうとして途方に暮れている。佳乃だけが、還るべき場所を最初から持っている。還るべき場所を持っているからこそ、他人に向かって堂々と歩いて行ける。『君をかのりんの仲良しクラスメイト1号に〜』なんて台詞は、観鈴や美凪からでは絶対に出てこない。佳乃は、自分が姉に愛されている/信頼されているという自覚があるからこそ、他者を愛し、信頼することができる。佳乃はだから、あんなに眩しく笑うことができるのだ。美凪の駆け落ちエンディングは恋愛といえば恋愛だが、あれは逃避場所として往人を求めているに過ぎない。

 AIR編の観鈴は、自分の夢についてどの程度自覚的だったのだろう? 夢を最後まで見ることで本当に何かが変わるのだろうか。もしかしたら、夢を最後まで見なければというのは、観鈴の思い込みに過ぎなかったのではないだろうか。観鈴は『わたしで終わらせるの』と言っていたけれども、観鈴がゴールを目指していたのが、果して神奈(=空にいるもうひとりの自分)のためだったのかどうかはどうもよく分からないところがある。

 DREAM編の観鈴シナリオでの往人は、私の読み違いでなければ、人形が光った時、人形の言葉に耳を傾けず、自分の願いを優先した。観鈴と、空にいる少女が同一の存在であることを往人は知っていた。それにも関わらず、あの時の往人は観鈴のことしか見えていなかった。往人は、方術師としての自分に課せられた使命を放棄する。しかし、まさに往人が何も考えずただそうしたいと願ったその行動によって、観鈴は後に救われることになる。

 美凪シナリオ。人は誰かを幸せにすることで幸せになれる、と佐祐理さんは言った。しかし、実のところ佐祐理さんが幸せにしたかったのは、一弥ただひとりではなかったろうか。佐祐理さんを救うことができるのは、一弥の笑顔だけではないだろうか。とすれば、佐祐理さんは一生自分を許すことができないのだろうか。

 みちるのいる世界は夢の世界だった。しかし美凪は、まさにその夢を通じて、自分を許すことができるようになる。美凪は、みちるに母親のぬくもりを教える。美凪にとって、みちると母親を会わせるというのは、本当にただそれだけの意味しか持っていなかった。しかし、ただみちるのために良かれと思ってしたそのことによって、美凪は救われる。母親と、美凪とみちるが同じ食卓を囲んで、みちるが笑っている風景。それは美凪がずっと願い続けていた風景だったはずだ。あの時のみちるの笑顔が私たちの胸を打つのは、あの笑顔がみちるだけでなく美凪をも癒しているからだ。美凪は、みちるの満面の笑顔によってようやく、自分を責めることから解放される。その後、ふたりは屋上で、互いに笑顔でいることを約束し合う。美凪シナリオは夢と現実の問題を語っているように見えるが実はそうではない。このシナリオが語っているのはもっと単純なこと、あなたの笑顔がわたしの幸せ、というただそれだけだ。みちるは美凪を幸せにすることで幸せになれる。美凪はみちるを幸せにすることで幸せになれる。このシナリオが美しいとしたら−私はAIR全編を通じてこのシナリオが一番好きなのだが−、それは美凪とみちるの信頼のゆえに美しいのではないだろうか。

 AIR編をやった後、すぐにベッドに入った。でも気持ちが昂ぶって全然寝つけなくて、ただひたすら観鈴のことを考えながら、天井を眺めていた。しばらく経って、壁に映っている、カーテンから洩れる光の上を、別の光が舐めていった。外を走って行った車のライトだった。その光を見た瞬間、私はハッとした。その感覚は、私がまだ子供だった頃から、自分の部屋で幾度となく見ていた風景と同じものだった。一瞬だが、自分が高校生の頃に戻ったような錯覚に襲われた。そしてその錯覚は、同時に強烈なノスタルジーを呼び覚ました。そのノスタルジーは、AIR編をやった後の私の寂しさと完全にシンクロしていた。私はこの感覚をどこかで味わったことがある、と思った。少し考えてから思い出した。AIRをやった後の気持ちの昂ぶりは、去年、じいちゃん(祖父)の葬式から帰ってきてベッドでひとりで泣いた時の感覚そのままだった。正直に白状すると、あの時、私が泣いたのは、じいちゃんが死んでしまったからというよりも、じいちゃんとの思い出が蘇ってきたからだった。その思い出の中で、私は小学生か中学生ぐらいだった。思い出の中には、小学生の自分がいた。小学生の頃の自分を思い出すのはとても悲しいことだった。あの頃持っていたなんと多くのものが今や失われていることだろう。今の私は家族に不信感しか持っていないけれども、私にも、家族の温もりを当然のこととして持っている時期あった。AIRがあんなにも私の心を打つのは、晴子と観鈴が、私がかつて持っていて失ってしまったものを思い出させるからなんじゃないだろうかと思った。晴子と観鈴の関係が美しければ美しいほど、私は自分が失ったものがいかに大きなものであったかを嫌が上にも思い知らされることになるのじゃないだろうかと思った。

 更に。私がAIRをやって感じる感覚は、多分寂しいとか悲しいというのとはちょっと違う。私がAIRをやって感じるのは、上手く言えないが、取り返しがつかない、という感覚だ。私はかつて子供だった。かつて、当たり前のように家族の中にいた。家族の中で笑っていた。今の私は子供ではないし、どうやっても子供には戻れない。そんなことは当たり前だと人は言うかもしれない。でも、私はかつてあった温もりをどうやっても取り戻せないことが、すごく寂しい。考えるほどに恐くなる。取り返しがつかない、という恐怖。あるいは、時間に対する恐さ。時間は決して止まらない。すべてを押し流す。私はかつて小学生だった。小学生の私は今どこにもいない。小学生の私は既に死んでいる。小学生の私はただ思い出の中だけにしか存在しない。晴子は母であろうと精一杯頑張った。しかし、観鈴は結局死んでいく。それを止めることは誰にもできない。観鈴はいなくなってしまった。もう取り返しがつかない。観鈴はどこにもいないのだ。これはもう理屈じゃない。もし過去に戻ることが許されるなら、もう一度、AIRを初めてプレイした日に戻りたい。神尾観鈴っていう変な娘が『にははっ』って笑うところを見ていたい。未来に何の憂いもなかった頃に戻りたい。この先、観鈴とのどんな物語(未来)が待っているんだろうって思っていられたあの頃に帰りたい。AIRの観鈴シナリオは、7/18〜7/23ぐらいまでをずっとぐるぐるしていれば良い。そうすれば、悲しい思いをしなくても済むのに。何も失わなくて済むのに。けど、観鈴はもういない。これが現実。過去はどうやっても取り返せない。観鈴が幸せだったかどうかなんてどうでも良い。ただ、俺の前で『にははっ』って笑ってくれたらそれだけで良い。

 あー。
 俺、観鈴シナリオ否定派になろうかな。なっていい? …ダメだよねやっぱり。観鈴は頑張ったものね。拍手してあげなくちゃいけないんだよね。…そんなこと知るか。頑張らなくっていいから、俺の傍にいてくれ。ああもうだめ。


 ここ2ヶ月の間ずっとAIR漬けの生活だった。というか気が付いたら2ヶ月経っていた。楽しかった。ひとまずAIR話は今日で打ち切り。AIRのことをもっとよく知るために、しばらくAIRから離れます。


2001/1/22 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#22


 高級スポーツカーと女子中学生の組み合わせってなんか色っぽい気がする。
 …会社で車雑誌を見ながら思ったこと。

 ああところで、ポルシェカレラ激萌え。デザインが非常に私好みな上、V10/550馬力ってのにクラクラ。
 誰か私に買ってください。


 ブラウザのスタートページに設定してある巡回ルートHTMLファイルを更新。今まで32個あったのを6個減らして24個に。なんとなく読まなくなってしまったものを削除すると共に、内容の優劣とは別に読んでいて不安になるようなサイトも削除。私も割と、好き嫌いと優劣等の評価を分けて考える人間なのだけど、こういう態度でいるとすごくキツイ時がある。読んでいると不安になるのに、正しさだけはどうしても認めずにいられないような時というのがある。今までは薬と思ってそれに耐えてたのだけど、もうそういう消耗を強いる努力はしたくない。正しさなんかに負けたくない。自分が、心から受け入れられるものを優先する。


 その日に来たメールが1通だけで、しかもそのメールが、一面識もない赤の他人からの相互リンク以来だったりすると結構凹みますよね。いや、例えばですよ。例えば。

 溜息。
 readmeに『相互リンクは受けつけておりません』とかわざわざ書かないとダメなのかしらん。


 怒首領蜂

 特に成果らしい成果はなし。

 1-4冒頭で建物を壊すと出てくる1万点星x3は、右上からのザコヘリx3の出現タイミングに巧く合わせれば2つまでは回収できることが判明。ま、ささやかだけど、あそこの星が取れるとなんとなく嬉しい。

 12月下旬から、2-3ボス戦のデータを取っていたのだけど、現時点まで約1ヶ月で、52戦/15勝。勝率[ノーミスノーボムで倒せる確率]28%。大体、4回に1回ということか。昔からすると格段に良くなってるけど、せめて勝率33%、3回に1回はノーミスノーボムできる、ぐらいまでは上げたいところ。怒首領蜂のシステムは、道中はパターン化が可能、ボスはアドリブ避け、が基本なので、元々の弾避けスキルが低い私としてはボス戦は今だに苦しい。怒首領蜂のサントラに付属していたZBL-NAI氏のインタビューで、NAI氏は『2-1中ボスのルーレット弾、2-3中ボスのおみくじ弾』なんて言い方をしていたけれども、まったくもっていい得て妙である。怒首領蜂のボス戦はどうしても運が絡む場面というのがある。2-3ボスにしても、運が悪い時は絶望的な弾避けを強いられる。それはもう仕方がない。ただし、私が死んでいる7割が常に最悪のツモだったかといえば必ずしもそうだとは言えないのが現状で、今後のやり込みでポカミスを減らしていけば、勝率3〜4割まではいけるはずだと思う。さて、6億出すのと勝率が上がるのとどっちが早いだろうか。


 カラフルピュアガール8月号[AIR総力特集]

 久しぶりに引っ張り出してページをパラパラめくっていたら、いたるさんの描き下ろしCG[美凪&みちる]があるのを発見。当時はまだゲームをプレイしていなかったので、印象に残らなかったものらしい。なんとなく特した気分。

 それにしても。keyの広報担当者は毎回大変なんだろうなーなんて、たまに考える時がある。前作、Kanonの時もそうだったけど、keyのゲームはネタバレの匙加減が非常に難しいと思う。一体、真琴のネタバレに触れることなくしてどうやって真琴の魅力をアピール(つまり、購入前のプレイヤーに興味を持ってもらう)できるだろう。観鈴にしても美凪にしてもそうだ。空に思いを馳せている少女、何かを失ってしまった少女、という以上のことを説明すれば、それはもう即座に致命的なネタバレに繋がってしまう。『ただ、もうひとりののわたしが〜』とか『飛べない翼に〜』なんてフレーズは、実質的にはプレイヤーに何も伝えていないに等しい。少なくとも私は、オープニングデモや各種雑誌の紹介記事を見ても、特に購入意欲はそそられなかった。尤もkey信者であるところのしのぶは、デモや紹介なんかに関係なくkeyの新作であるという時点で購入は決定されていたのだけど。

 そういえば、プレイ前にwebを巡回していて『翼人』という単語がふと目に入った時、私が最初に思い浮かべたのは遠野美凪だった。ああ、あの台詞はそういう意味だったのかと一人で納得していた。まぁその、要するに、美凪は、飛ぶ能力を失ってしまった翼人の末裔なのだな、と想像した訳だ。


 群馬県人として、ちょいとづしの森伊勢崎対談に反応。

 圧倒的在庫量を誇る古本屋というのは、おそらく五色温泉の近くの『ほんだらけ』のことだと思うのですが、あの店、実は隔離されたアダルトビデオ関係のコーナーで新品のエロゲーが売ってます。しかも、まだ店自体が出来てからそれほど経っていないので、あまり知られてないようです。まぁ早い話、あの店は、ことエロゲーに関しては穴場だったりするのです。何の役にも立たない情報ですが。

 ちなみに、その店の隔離コーナーは、隔離スペースから商品を持ち出さなくても買えるように、ちゃんと専用の窓口があったりして気が利いてます。専用というか、表のレジの後ろの壁に窓があって、そこから店員さんが対応してくれるってことなんですけど。ただ、窓口に備え付けられた店員さんを呼び出すためのチャイムの上に、女子高生だかのパンチラ写真(ていうかパンモロか)が貼ってあって、ちょうどぱんちゅの部分がチャイムのボタンの位置になっていて、あまつさえ隣に紙で作ったラベルがあって『ここを押して』なんて書いてあるのが、オヤヂチックでかなり嫌なんですけれども。

 そのボタンですが、結局私は押せませんでした(笑)。そこでエロゲーを買った時は、わざわざ写真を無理やり半分ぐらい剥がして、チャイムのボタンを直接押しました。エロとか下品とかが嫌いっていうんじゃないですけど、ああいうセンスは好きになれねぇです、さすがに。


 今までに出逢ったフィクションの中で、方向性はどうであれ、こんなのは一生のうちに1回か2回体験すれば沢山だ、と思ったもの。つまり、あまりに激しく魂を揺さ振られて、もうこんな体験したくない、と思ったもの。

 火垂るの墓[映画/高畑勲]、椿姫[小説/デュマ]、ひなぎく[小説/アンデルセン]、憂国[小説/三島由紀夫]


 逆に、魂を揺さ振られたが、それが私の幸福の源であるようなもの。

 魔笛[モーツァルト]、ピアノソナタ作品110[ベートーヴェン]、ピアノ協奏曲K.491[モーツァルト]、
 星の王子さま[サン=テグジュペリ]、So What?[わかつきめぐみ]、レ・ミゼラブル[ユゴー]、
 アンの夢の家[赤毛のアンシリーズ6巻/モンゴメリ]、赤毛のアン[赤毛のアンシリーズ1巻/モンゴメリ]、郷愁[ヘッセ]、
 とんがり帽子のメモル[アニメ]、ONE〜輝く季節へ〜[Tactics]、デアボリカ[アリスソフト]、AIR[key]


2001/1/20 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#20


 『禁断 秘密の花園』を毎日1回は読んでる今日この頃。


 平山さんの日記[1/9]から、Leaf vs key仮想戦記へ。

 これが載ってた2chのスレッド、某リンカーン事件で沈静化してから読まなくなってしまったんだけど、ちゃんと続いてたのね。しかも一応完結してるっぽい。確かに悪趣味だけど、このリレー小説、私は結構好きです。


 AIR。現在SUMMER編まで終了。が、これから『あの』AIR編が控えてるのかと思うとちょっと気が重い。プレイしたら最後、少なくとも丸一日は精神崩壊起こすの確定だし。実は、佳乃シナリオと美凪シナリオは現在までに3周してるのですが、観鈴シナリオ(DREAM)とSUMMER以降は今回でやっと2周目なのです。

 これからAIR編をやるので、明日と明後日の日記はお休みです。多分。


2001/1/18 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#18


 (見苦しいので削除しました、最初で最後にしますのでご容赦を)


 もう1月も半ばだけど、今年の目標。

 無理しないこと。
 自分の気持ちに嘘をつかないようにすること。


2001/1/17 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#17


 AIRの観鈴シナリオをちまちま進める。
 今まで気が付かなかったんだけど、観鈴ちんって私と誕生日が同じぢゃん。なんか嬉しいにゃ。


 禁断 秘密の花園 (刑部真芯/フラワーコミックス)

 情報ソースはこちらの日記[1/13]から。

 読了。
 基本的には源氏物語[光君と紫ちゃん]、後半でちょっと椿姫。主人公26歳、ヒロイン14歳肉体関係アリ、しかもお赤飯前から。恋人っていうより、隷属って感じ。PCゲームなら1秒で発禁確定な内容なんだけど、少女漫画だとこういうの問題ないのかしらん。ともかくも激萌え。ひたすらに耽美。背徳感が堪りません。あーもう、禁断の果実ってなんでこんなに甘いんだろうねぇ。


2001/1/16 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#16


 議論の進むべき方向がちょっと見えなくなってきたので、しばし考える時間をくださいませ。>C.Fさん

 あと、とくそんさんのこちらに反応して。
 観鈴はいる、を、わたしは観鈴を知っている、に置き換えてみたりすると見えやすくなるかもしれません。私見では、何かが存在するかどうか、というのは物理的な条件よりもむしろ、知覚するかどうかの方に拠ると思うので。つまり、わたしは観鈴を知っている、と言えれば、その時点で既にその人にとっては観鈴は存在するのだ、とか。ただ、例えばAさんとBさんが、共に『観鈴ちん萌えー!!』と叫んだとしても、それぞれが思い描いている観鈴は結局別のものだという問題はどうしてもありますよね。ゲームをプレイしているプレイヤーに限って言うと、観鈴がどこで何を喋ったとか何をしたとかは、すべてのプレイヤーが共通して認識している[不動の]事実だと思うのですが、ただ、その事実をどう受け止めるか、しのぶ風に言えば、その事実にどういう言葉を与えるかは、人それぞれ違う訳です。で、そこの違いのゆえに、議論が生れる[余地がある]、と。

 私はどちらかというと、真偽を求めるというよりも、異質の芸術観に触れるのが楽しい、っていうのが、こういうことをやっている主要な動機だったりします。


2001/1/15 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#15


 怒首領蜂

 3.8億(2-7)、4.2億(2-7)、3.6億(2-7)、4.3億(ALL)

 今日の練習は4時間。相変わらず、繋がりそうで繋がらねぇ。最後の1回は、2-2ボスで死んだのでクリア狙いプレイに切り替えた結果。使用ボム(基本的に決め打ち)は、2-3中ボスで1発、2-5ボスで2発、2-6ラストの戦車x2で1発、2-6ボスで2発。2-7突入時、残4ボム3。クリア時残0ボム0。火蜂57HIT。


 とらいあんぐるハート2 −夏のゆうひ−(OVA)

 前作に比べればマシ…と言いたいところだけど、わざわざ借りて見るほどの代物ではないかも。前半は、ゆうひのキャラクターに助けられてなんとか見られる(それでも、なんとか耐えられる、というレベルだが)程度の出来になってるけど、前作もそうだったように、後半のえっちシーンに入ると途端にダメダメになる。イチャイチャなくして何がとらハか。

 ところで話は違うけど、こちらのレビューを読んでたら、無性にとらハ2がやりたくなった。これを読んでると、とらハ2というゲームが、私が思っていたよりもずっと素晴らしいゲームであったことに気づかされる。特に[2000/02/27]は必読。


 ヒカルの碁のどこだったかで、こんな碁が打てるからいつまで経ってもやめられないのよね、みたいな台詞があったけど、この言葉って、すごく色々なことに当てはまる気がする。例えば、こういう文章/CGに出逢ってしまうからネットサーフィンは止められないのよね、とか。あと、怒首領蜂とかもそう。

 怒首領蜂をプレイしていると、すごい充溢を感じる時がある。例えばそれは、火蜂の弾幕がスローモーションに見えて、死ぬ気が全然しないと感じられる時だとか、あとコンボを繋ぐにしても、なんとなくやってたら繋がったというのではなく、自機はおろか敵機や敵弾に至るまでもが完全に自分の思惑通りに動いているように感じられて、ある面の最初から最後まで、ゲームワールド(その面)を完全に自分の支配下に置いているような錯覚を覚える時というのがある。それはもう戦いではなくて、最初から勝利の方程式ができていて、ただ、一手々々を確実に打っていって、当然そうであるべきものとして勝利を完成させる、という感覚に近い。
 何かに本当にハマル、というのはこういう体験が切っ掛けになるのだろうな、なんてことを最近思う。

 ネットで言えば、最近最も衝撃を受けた文章はこれの[さいしゅうび]。これはもうゲームプレイ日記じゃない。強いて言えば『詩』かなにかに近いが、そもそも私には、あれが文章なのかどうかわからない。言葉の羅列としての文章という形式は、あそこでは単なるかりそめのものでしかない。あれは書かれたものではない。ただ、どうしようもなく出てきてしまった何かだ。私はそれを何と名付けて良いか分からない。
 『観鈴以外のこと考えるのいやだ』とかの前後辺りを読んで、泣きたくなった。あそこで書かれていることは、私がAIR編を初めて体験した時の感覚そのままだ。ただ、私は自分の感情をここまで“かたちあるもの”として言語化することはできなかった。

 出逢うまでは自覚はなかったのに、出逢った後では、これこそ私の読みたかったものだ、と思わされる。怒首領蜂との共通点は、ぴったり来る感覚、ということ。文字通り、こころに何かが“ハマル”感じ。


2001/1/13 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#13


 ひとまず一週間のお仕事終了。
 今週は、腰痛で倒れた同僚の仕事の代理をやってたのだけど、慣れない仕事だったのでむっちゃ疲れた。目を酷使する仕事だったので、帰宅すると目がしぱしぱしてどうしようもなくて、ほとんど何もできなかった。お願いだからさっさと復帰してくれ。>同僚A氏


 コンプティーク[2月号]

 AIRトレカ、私のは神奈でした。ちょっと前のコンプの表紙になったやつ。これって何種類あるんでしょうか。もしあるのなら美凪のやつとか欲しいなー。

 『デ・ジ・キャラット ファンタジー』
 ヤバイ。買っちゃいそう。でじこには萌えたことがなかったのが私の自慢だったのに。ああところで全然関係ないのですが、私も『あずまんが大王』の面白さがさっぱり分からない人間です。皮肉とかではなく、あれってどこが面白いんでしょうか。いちお、1巻は通して読んだんですけどね。


 10日の日記の補足。
 『これが私の限界』という時、この言葉は諦念でも悲観でもなくて、誇りです。ともかくも、これだけは絶対に私にできる、という。


 AIR (key) −ネタバレ−

 ようやく再開。佳乃シナリオと美凪シナリオ。

 佳乃の笑顔は眩しい。これは、例えば観鈴には絶対に不可能な笑顔だ。観鈴はあんな綺麗には笑えない。佳乃の笑顔は、愛されることに慣れている人間の笑顔だ。観鈴の微笑みは私を不安にするが、佳乃の笑顔は私を幸せにする。

 美凪シナリオ。
 ひとは誰かを幸せにすることで幸せになれる。ばい佐祐理さん。

 思ったのですが、私たちが笑うたびに、空にいる神奈の悲しみは、少しずつ癒されていくのではないでしょうか。私たちの記憶は、みんな神奈の元に届けられる。だとしたら、私たちはいつも笑っていましょう。幸せでありましょう。私たちは、笑うたびに、そうとは知らずに、神奈に幸せな記憶を届けているのです。だから、笑顔でいましょう。いつの日か、神奈が幸せな夢を見られるように…。


2001/1/12 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#12


 日曜日に西武デパート(池袋)で買ったスラックス[Polo Ralph Lauren]が届く。24000円出しただけあって、色ツヤ肌触り共に萌え々々。うっとり。実はもう1本、ポールスミスのスラックスが欲しかったのだけど、サイズが合うやつがなくて買えなかった(3年ぐらい前だったら余裕で履けたのに〜(涙))なんて事実はありません。単なるデマです。スラックスとセーター各一着で5万ほど飛んだけど、値段の高いやつは得てして品質も良くて長持ちする(ヘタリにくい)ので、結果としてはお買い得になることが多いです。まぁ私はブランド物を買っても結局は無難な格好しかしないので、お洒落にはならないのですが。とりあえず清潔感さえあれば、お洒落かどうかはあんまり問題じゃないと思う、っていうのもあるし。ちなみに私はジーンズは嫌いです。あの肌触りがなんか馴染めなくて。


 日曜日に買ったまま放置してた同人誌とか。

1)夏の終わりのプロローグ [LIPSTAR]

 佳乃本(18禁)。ぎゃーす。佳乃ってば可愛すぎる。あーところで、これを読むまで気がつかなかったんだけど、聖さんって佳乃を手許に置いておくためにバンダナを使ったのだけど、考えてみると、佳乃も往人に対して同じことをしてるんだよね。同じ発想をしてしまう辺り、違うようでいてやっぱり姉妹なんだなーなんて。いや、あるいは佳乃は自分の腕に巻かれたバンダナの本当の意味を知っていたのかしらん…?

 余談だけど、ここの同人誌と出逢ったのは『真冬のメモリーズ』(Kanon/あゆ)が最初で、以来密かにお気に入りなのです。あゆがむっちゃ可愛いんだこれが。

2)Bright Shine on Time [LIPSTAR]

 美凪本(18禁)。美凪シナリオのその後ということでいくと、ああならざるを得ないのかもしれないけど、なんか納得いかない。

3)ふわふわ [NORTH RIVER]

 萌え漫画家、秋澤和彦氏の個人誌(今回はゲスト有り)。これを読むまで気がつかなかったんだけど、エンディング後のあゆって、実年齢こそ16歳?だけど、8年ぐらいだか寝ててその間の経験がない訳だから、精神年齢は8歳の頃のままなんじゃないか、もしかして? 体16歳/中身8歳(!!!)。なんて素晴らしい。

 俺は今日からあゆ萌えでいきます。よろしく。

 …寝言はまぁ置いといて。
 この本のあゆ漫画を読んで、自分がなぜ栞シナリオのエピローグに(感情レベルで)納得し切れなかったかが見えてきた気がする。要するに、あゆが犠牲になる決意、というか、祐一と栞のために身を引く決意とそれによる悲しみがまったく語られず、ただエピローグで仄めかすように、栞の口から語られてしまうのが気に入らないんだと思う。私も基本的には、あゆが頑張ったことが確認できればそれで良いと思うのだけど、ただ、栞シナリオにしろ名雪シナリオにしろ、あゆが頑張ったことが実感できないのが問題なのだ。例えば栞シナリオだったら、やっぱり夢の中で栞とあゆを出会わせるべきではなかったろうか。あるいはいっそ、同じ日に栞と祐一が同時に夢を見る、なんてのでも良いだろう。『ボクのこと忘れてください』みたいなエピソードが栞シナリオにもあったら、栞シナリオにおけるあゆの犠牲も、もうちょっと受け入れやすかったような気がする。


2001/1/11 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#11

◆ 
 私が見た世界で観鈴やあゆが幸せになったとしたら、それは私が見たからです。(by C.Fさん)

 ふみゅ、なるほど〜。
 見ることによってひとつの世界が実現する、というのは、私も完全に同意します。音楽は誰かに聴かれることによって初めて存在する、それと同じように、物語は誰かに見られる/読まれることによって初めて存在する。まったくその通りだと思います。それと共に、ここに来ていよいよ、私とC.Fさんとの土台の相違点が明瞭になってきたようにも思います。

 まず、認識する主体である『わたし』が見ることで物語が生れる。ここまでは、おそらく同意見だと思います。先の日記で私は、物語世界は閉じた輪を成している、というようなことを書きましたが、これは、より厳密に言えば『私が見た物語世界』を意味します。幾らなんでも、私が知覚しないうちから物語世界があると考えるほどは蒙昧ではないつもりですので。そもそも、物語世界の閉鎖性を発見するためには、既に物語世界を観察している必要がある訳で、観察はもう前提条件です。結局、私とC.Fさんとでおそらく決定的に違うのは、私は、観察するというのはただそれだけの意味しか持たず、観察しても依然として物語は私には捉えられない存在である(無関係である)という風に考えている、のに対して、C.Fさんは、観察することで既に物語との関係は生じている、という風に考える、という辺りではないかと思われます。

 あと、ちょっとミヒャエル・エンデっぽい言い方をすれば、実現したひとつの物語というのは、確かに、誰かが見たから生れたもの(※)であるのですが、それと同時に、物語というのは元々あってそれが誰かによって発見された(※)、という風にも言えるのではないかと思うのです。ちょっと違うけど、『はてしない物語』の中の、バスチアン少年とグラオーグラマーン(ライオン)の会話などは、これに似た問題を提示しています。この問題は、グラオーグラマーンが言うように、相矛盾するようでいてその実どちらも正しいものではないかと思うのですが、それぞれの立場としては、C.Fさんが前者にウェイトを置くのに対して、私は後者の方にウェイトを置いているのではないか、という気がします。

(※)これらは作者と物語との問題であると同時に、物語と受け手との間の問題でもあります。 

(1/14追記)
これを書いた時点ではまだ13日分は読んでないです、ので念のため。


2001/1/10 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#10


 あゆのことはひとまず置くとして、受け手(プレイヤー)の問題について、私見をつらつらと。

 ええと、C.Fさんの日記[1/7]の記述なんですけど、概ね頷けるもののどこかしっくりこない点があって。なんでだろうってしばらく考えていたのですけど、どうやら、私の立場からだと、プレイヤーが世界を夢見て実現させる、って部分に違和感を覚えるらしいです。で、迷惑もいいところかもしれませんが、私の立場を表明(説明ではなく)してみるのも無駄ではないような気がするので、試してみようと思います。

 いきなり本題に入りますが、『物語世界は、私の思惑など全く意に介さず存在する、ひとつの物である』というのが、私の基本的立場です。リルケ風に言えば、物語世界は、自分以外の何者をも必要とせず、自らの内部に閉じこもって完全に自分だけで充足している物、という感じになります。そして、物語世界がそういうものである以上、物語世界と私とはまったく別の次元の存在で、私は物語世界に対していかなる種類の働き掛けも成すことができません。私にできることは、ただ、物語世界を視ることだけです。私が望もうが望むまいが、ONEにおいて浩平は帰ってくるし、Kanonの奇跡は起きるし、AIRで観鈴はゴールしてしまいます。私は物語世界に対して傍観者でしかないからです。Kanonの中で起こった奇跡はあくまで物語世界の中での出来事であり、プレイヤーは結局それを外部から見ているに過ぎない。こういう立場に立つゆえに、あゆの奇跡がプレイヤーの望みの実現だという考えに、私はどうしても違和感を抱かざるを得なくなります。繰り返しますが、私と物語世界とは別々の存在だからです。卑怯な言い方かもしれないことを承知で言えば、私は、物語世界を自分の外部にあるものと認識します。

 ここまで読んでお気づきと思いますが、私はONEもKanonもAIRも、ゲームだと思っていません。商品としてはゲームに違いないとしても、これらの作品の魅力はまず第一に物語部分にあると考えるからです。(この辺はもう完全に雪駄さんとは正反対の立場ですね)

 私は、物語世界を認識する。しかし、認識した結果得られるのは、単なるひとつの事実でしかない。例えばそれは、観鈴がゴールしてしまうという事実だったりするのですが、いずれにしても、私はその事実を前にして無力です。私にできることはないのかどうか? 実はたったひとつ、あります。事実に名前を与えることです。事実は不動のものとして存在するとしても、私は対象に言葉を与えることで、その事実と何らかの関係を持つことが出来ます。物に名前を付けるとは、物に意味を与える行為です。私は対象を名づけ、対象に意味を与える。対象は、その時初めて、意味を持ったものとして私の前に顕れます。それは『観鈴萌えー』であっても良いし『最期の瞬間、観鈴は笑顔だった』という言葉でも良い。ともかく、物語世界の事象は、意味を持ったものとして再度認識される。私は観鈴に対して何もできないけれども、ただ、観鈴の生に意味を与えることだけはできます。これが、おそらく私の限界です。

 …とかなんとか、色々書いてはみたんですが、うーん。読み直してみると、なんかC.Fさんと似たことを別の言葉で言っているだけのような気が。ただ、私としては、キャラクターの幸福をプレイヤー自身の世界で実現する、というくだりが(おそらくは土台の違いゆえ?)チンプンカンプンだったのと、あと、例えば真琴にしても観鈴にしても、幸福になるならないという問題よりも、真琴や観鈴が、ともかく一生懸命生きていて、それは決して無駄ではなかったということに、私たちが気づくことが重要なんじゃないかと思う、っていうのがあって。
 必ずしも、私はキャラクターの幸せを望むっていう立場ではないみたいです。書きながら意識し出したことなのですけど、私が欲しいのは、キャラクターの幸せではなくて、キャラクターを肯定できる何か、キャラクターの存在を証明する何か、なのかもしれません。


2001/1/9 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#9


 怒首領蜂

 4.31億(ALL)。
 1-2コンボミスで500万落ち。1周1.87億。2-3中ボスで瞬殺された後、2-3ボスで3ボム使用、2-5ボスで1ボム使用、2-6ボスで4ボム使用で、2-7突入時、残5・ボム0。火蜂戦開始時残4ボム2。残0ボム0でALL.


 巡回してたらONE卒業文集のアンケートとか発見。企画に関しては、以前、さる人のお誘いを受けたものの、幾つかの理由があってお断りしてしまったのだけど、このくらいならということでさくさくっと回答。

 ONEにひとこと = おばぁちゃんになった瑞佳と一緒に、陽のあたる縁側でお茶を飲みたい。

 いやその、基本的には真面目に答えてます。
 まぁ、書いてリンクを貼っておけば宣伝になるだろうということで。ささやかながら。


2001/1/7 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#7


 早朝。なんか目が冴えちまってるのでつらつらと。


 空くんの手紙(小田 空/集英社文庫)

 これが文庫で読めるとは、良い時代になったものです。この漫画は、So What? に出逢うまで、私のバイブルでした。ただ、今読むとさすがに『古臭さ』があるのは否めないですね。So What?は純粋なひとつの世界だけがあったけど、こちらは作者のメッセージ性がより前面に出ている感じ。もちろん、メッセージといってもそれはどこまでも優しくて、メッセージがあることが不快をもたらしたりすることはないのだけど。まぁそうですね、言ってみれば、So What?は完成されて作者の手を離れたところに厳然と存在する芸術作品で、こちらの空くんの手紙の方は、絵日記のようなもの、あるいは、毎月、作者から読者に届けられる小さな手紙のようなものなのではないでしょうか。普通に手紙を書く代わりに、作者は、空くんやうさぎやゴジラの物語に、何かのメッセージを託して、読者の元へ届けるのです。それはいつでも親愛の情に溢れていて、受け取った私たちは、一時、現実を忘れ、空くんが住むおとぎの国で、夢の時間をすごすのです。

 特定のエピソードでというと、私は『聖夜の小さな奇跡』と『11番目の月の夜に…』(共に1巻収録)を推したい。前者の敬虔と素朴。後者のリリシズム。大人が忘れてしまった単純さ。単純さを取り戻すことで、世界はいかに美しいものになり得るか。

 追記。
 コミックス版に収録されていたハニワのお話が文庫版で収録されてないのはなんでですか? 勿体無い。


 昨日のゲーセンにて。

 私が例によって怒首領蜂をやってると、3台ぐらい隣で喧嘩が。横目でちらりと見ると、店員さんが誰かに絡まれてる様子。『おめえの態度、ムカつくんだよ! こっちのが立場が上なんだよ、分かってんのか!?』などと聞こえてくる。こっちはもう蜂に集中するどころではなく、注意は完全に隣へ。断片的に聞こえてきた会話(といっても一方的なものだったが)から、当初は店員同士の先輩後輩関係の確執かなとも思ったのだけど、その後、絡んでいた方が、『もうこんな店には来ねぇ』と言ってたところから判断して、店員vs客だと判明。同時に、ドキュソ客であることも判明(藁)。客のが立場が上、なんて言ってる時点でドキュソ確定です。店員さんの方は、最後まで屈せずかつ手も出さなかった様子。こう言って良いかどうか分からないけど、カッコイイ、と思った。


 先日買ってきてなんとなく放置してた、平均率クラヴィーア曲集(エトヴィン・フィッシャー版)を聴く。とりあえず、私の特に好きな1番/23番/24番などをチョイス。が、なんかピンと来ない。口直しに、グルダ版を聴き直す。なんかもう、グルダ版に出逢ってしまった今となっては、他のピアニストのは聴けないっぽいです、私。グールド版ですら物足りない。

 ついでという訳ではないけど、他の曲を色々聴き漁ってみたりとか。

 グリーグ・抒情小曲集(仲道郁代)から作品43-6『春に寄す』。冒頭のテーマの優しさに心を溶かされそう。なこるる(美凪でも可)に抱っこされてる感じ。作品12-1のアリエッタは、なこるる(美凪でも可)の子守唄というところか。あと、このCDに関しては作品65-6『トロルドハウゲンの婚礼の日』が好き。曲の雰囲気が、なんかショパンのマズルカ(作品6-3/ホ長調)に似てる。土の匂いがする素朴さ。自分でも何言ってるかよく分かってませんが。

 モーツァルト・ピアノ協奏曲23番/24番(ヴィルヘルム・ケンプ)。
 24番はいつ聴いても素晴らしい。特に第3楽章の、静寂の中に鳴り響くオーボエの美しいこと。そして、モーツァルトの他のピアノ協奏曲にもしばしば出てくる、フルート&オーボエ&ファゴットの掛け合いから、ピアノソロの入り。昔はよく、このピアノソロ部分を自分で弾いてはひとりで悦に入ってたりしたものだった。旋律自体の美しさもさることながら、特に、ト長調の音階を経た後の分散和音の響きが、もう脳髄をとろけさせるほど綺麗なのである。この部分はCDで聴くとあっというまに過ぎて行ってしまうが、自分でゆっくり弾いてみると、ここにはなんとも言えない郷愁の甘さが隠されている。ついでながら言っておくと、音楽には、自分で演奏してみなければ分からない美しさがあることを初めて知ったのは、この曲を弾いた時だった。以来、私はモーツァルトのピアノ協奏曲のピアノソロ部分を色々(と言ってもそんなにたくさんではないが)自分で弾いてみて、その度に、モーツァルトの響きがどんなに美しいものであるかを、繰り返し体験していった。24番もそうだが、21番の第1楽章のソロ(特に、237小節からの分散和音の響きが大好きだった)なども、私は今までに何回弾いたか分からない。
 23番。特に第3楽章。空にいる神奈に、この響きが届いたら、神奈の悲しみは少しは癒されるかもしれない、なんて思った。もうダメ。こういう曲を聴くと、幸せすぎるゆえに泣きたくなってしまう。24番は基調はハ短調だし、曲の性格も、諦念の安らぎみたいなところがあるが、イ長調を基調とした23番は、もう天国の音楽だとしか言いようがない。ちょうど、聖書の『ヨハネによる啓示の書』の中の楽園に関する記述、『嘆きも悲しみも苦痛も、もはやない。以前の世界は過ぎ去ったのである』をそのまま実現したような音楽。なこるるも、仙水さんも、観鈴も、みんな笑って暮らせる世界。


2001/1/6 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#6


 ぐるぐる。


 面白いweb日記はないかなーと思って、日記の栞あたりからあっちこっち飛びまくる。
 30分ほどぐるぐるして見つけたのが、こちら

 他人の文章に魅かれる理由とかって、言葉にできないようなすごく微妙なものだと思う。すごく説得力のあることが書いてあるのに、読んでると不安な気持ちにさせられてしまうような文章というのもあれば、内容云々以前の部分で、読んでいてなにかホッとさせられるような文章というものもある。そういえば、銀色夏生さんがなんの本だったかで、『ある物が優れていてもそれがわたしを不安にするなら、それはわたしにとって良くないものだ』(注、うろおぼえです)みたいなことを書いていたことを思い出す。最近、私も、そういうことを段々と考えるようになってきている。他人の言葉を聞くのは大切なことだが、他人の言葉に流されてはいけない。私の『普通コンプレックス』というものは、こういう当たり前のこと、ごく基本的なことを一々言葉にして確認しなければならないというところに源があるのではないかな、と最近思う。自分の幼稚さゆえの、というか。

 ああ、いきなり脱線してしまった。
 上述の『夢の記録』のONEに関する記述[12/31][1/3][1/4]が、なんか私の好みのツボに入る、と言いたかったのである。

 茜シナリオの主人公は茜だし、とか。ちょっとびっくり。私以外にもこういうこと考えてる人っているのだなーなんて。ちょっと前に私は、AIR編の感想に関して『プレイヤーの分身であるはずの主人公を切り捨ててしまった』と書いたのだけど、今にして思えばこの意見は、MOON.から始まる一連の麻枝企画作品に対しては完全に的外れなものだったと思う。AIRでは確かに国崎往人を途中退場させてしまっているのだけど、考えてみると、そもそも一連の麻枝企画作品において、主人公がプレイヤーの分身であったことが一度でもあったのだろうか。比較的恋愛らしいONEにおいてさえ例外ではなくて、私は最近、ONEの物語のいくつかは、浩平が女の子に出逢うお話ではなくて、女の子が折原浩平という少年に出逢うお話ではなかったろうか、なんてことを考えている。いや、最近考えているというのは正しくない。この考え自体は、去年、ONE感想を書いた時から既にあった。ただ、あの時と今とで違うのは、ONEの物語のいくつかは、浩平が帰ってこなくても物語として破綻することなく成立するのではないかと、いよいよ強く感じるようになってきたということだ。

 AIR編をプレイした後で、主人公の退場という図式からONEの繭シナリオを連想したのはおそらく私だけではないと思う。AIRにおいて、国崎往人の退場は物語上の必然だった。観鈴が本当に必要としていたのは友達でも恋人でもなかったからだ。それと同じことが、ONEの繭シナリオでも起こっている。椎名繭という、現実に立ち向かう術を知らない泣き虫の女の子は、浩平少年と出逢うことで、変わっていく。自分の足で歩くことを知る。そして、逆説的な言い方だが、繭が自分の力で歩くことが、辛うじてできるようになった時点で、浩平はその役目を終えて姿を消す。皮肉なことに、繭の自立のためには、あの時点では浩平の存在は邪魔だったのだ。繭は、誰にも頼ることなくひとりで歩く。そうして、みあという少女と出逢う。みあは言う。『すると、繭が学校に来られるようになったのもその男の子のおかげなんだね』と。一人称が繭に移り、その友達にここまで言わせてしまった後で、浩平の存在になにほどの意味があったろう。浩平の帰還は、『ギャルゲーの皮を被ったものを』作らざるを得なかったゆえの、あるいは、まだ麻枝氏自身がギャルゲーの形式を突きぬけられなかったがゆえの、妥協の産物ではなかったろうか、と思われてくる。

 麻枝氏が書きたかったのは、いつも、恋愛とは別の何かだった。これはAIRにおいて明瞭な形で現われてきているが、この思想自体は、既にMOON.やONEの頃からずっと底流しているものだ。麻枝企画の物語は、『男の子の恋愛物語』ではなくて、『女の子が一生懸命に頑張る物語』なのであり、その意味でこの人のお話はいつも少女漫画だった。ONEに関して言えば、繭シナリオの“みあ”の台詞は、そのまま、みさき先輩や七瀬や澪にもそのまま応用が利く。もちろん、本当は、みさき先輩と澪は久弥氏の物語なので、麻枝氏とは別に考えるべきなのだろうけど、ただ少なくともONEのシナリオに関しては、久弥脚本は、企画者(麻枝氏)の影響下に置かれていたように私には思える。というのは、みさき先輩のシナリオも澪シナリオも、繭シナリオと同じく、浩平が消えた時点で、浩平がその役割を終えているように見えるからだ。エピローグのみさき先輩や澪が、浩平を今なお必要としていたのかどうか、私にはどうもよく分からないところがある。繭も、みさき先輩も、七瀬も、澪も、みんな何かを抱えている。彼女たちは、浩平少年に出逢って、その何かから解放されていく。彼女たちをしがらみから解き放ったところで、浩平少年は消えてしまう。あとには、彼女たちだけが残る。後に残るのは、彼女たちの物語だ。ここに来て、『すると、みさきが外の世界へ出て行けるようになったのもその男の子のおかげなんだね』と誰かに言わせて物語を締めくくっていけないどんな理由があるだろう。というより、今のkeyチームが再びONEのリメイクを行うとしたら−なんてのはまったく空想の遊びに過ぎないが−、ONEの物語は、より一層、女の子の描写に特化されたものになったのではないだろうかと想像したい誘惑を、私は感じる。AIRから遡ってONEのことを考える時、私はそこに進化の跡を見つける。麻枝氏は、MOON.(郁未)→ONE(繭)→Kanon(真琴)と、物語を書いていく中で、段々と、自分が一番書きたいことをはっきりと意識するようになっていった。そして遂に、AIRの観鈴シナリオ(AIR編)に至って、麻枝氏は、自分の書きたい世界を完全に顕現させることに成功する。…というのは言いすぎだろうか。

 日記の過去ログを読んでたらしのぶのAIR日記に言及してる部分があってビビった…のは内緒です。にははっ。


 うっちーさんの日記[12/14]に触発されて自分語り。

 今の“しのぶ”は、人格においても趣味においてもオタクだと思ってるけど、私は自分がオタクに*なった*という風に考えたことがない。つまりある時期までまともで、ある時期から道を踏み外した、という風に考えるのは、自分に対しては違和感がある。なぜ、オタクなのか、という問いには私は答えられない。ただ、はっきりと言えることは、今の私はなるべくしてそうなったのであって、例えばコミュニケーション不全だとかが原因ではないと思っている。

 突然だけど、観鈴ってまんま俺じゃん、と思った人はAIRをやった人の中にどのくらいいるだろう。私は、思った。仲良くなると泣き出してしまう観鈴が、他人とは思えなかった。私は観鈴のように泣き出したりはしないけど、誰かと仲良くなった時に、この絆を失いたくない、嫌われたくない、という感情が急激に大きくなって、不安で居ても立ってもいられなくなるっていう感覚は、私も自分のこととして知っている。
 あと、別の例だと、映画、シザーハンズを観た時、ああこの主人公って俺じゃん、と思った。独りでいる時こそが一番幸せで、というより、独りでなければ幸せになれないような人間。あのエンディングはもの悲しいとも言えるかもしれないが、主人公視点から言えば、彼はようやく『孤独を手に入れた』のだ。こういう人間は実際にいる。私は、多分、そうだ。

 今の私がこういうものとしてあるのは、こうなったのではなく、昔からこうだったのだ、と思う。いや、思うというよりも、私は自分が昔からこういう人間だったことを知っている。大昔から、私は、誰かと遊んでいても、一緒にいる誰かと遊ぶというよりも、遊びそれ自体に熱中してしまう子供だった。例えば、ダイヤブロック(分からない人は『レゴブロック』でも可)で遊んでいたとすれば、その時私の頭の中は完全に、ダイヤブロックで何を作るか、だけに集中してしまっていて、一緒にいる人のことに関心が向かなかった。誰かとかくれんぼをやれば、見つからない場所に隠れることに全力を掛けた。私はいつでも、誰かと遊ぶことよりも、遊びそれ自体に没頭してしまう子供だった。つまり、今とまったく同じ、なのである。もちろん、こういう子供だったからコミュニケーション能力など発達する道理もなかったが、ただ言えるのは、私はコミュニケーション不全だから、独り遊びに没頭する子供になった訳ではないということである。私は一人で遊ぶことが好きだった。それがなぜかと言われても分からない。ただ、そういう子供だったのだとしか言い様がない。たまに『家に帰ってもすることがないから』と言って友達とダベっている人(学生時代にもいたし、社会人になってからもこういうことを言う人は時々いる)がいるが、私にとって、これほど不可解な言葉はない。私は、相対的に言えば、周りの人間よりも、独りで遊ぶことに長けていたと思う。私は、学生時代から今に至るまで、毎日、今日は家に帰ったらなにをして遊ぼうかなんてことをいつも考えていたので、家に帰ってもすることがない、なんて発想が出てきたことはついぞなかった。これは、密かに私の誇りだ。あ、脱線した。結局、今の私は道を踏み外してこうなったのではなく、自然に成長した結果こうなったのだということは、断言してもよい気がする。もし『人生やり直し機』(fromドラえもん)があってもう一度子供時代から人生をやり直せるとしても、置かれていた環境は違うかもしれないとしても、私はやっぱりこういう人間になっただろう。仮に、今の記憶をキープしたまま子供になれたとして、確かに同じ失敗は繰り返さなくて済むかもしれない。しかし、同じ種類の失敗は絶対繰り返すだろう。私は、それこそ生まれ変わりでもしない限り、こういう人間以外にはなりようがないのだ、と思う。これは諦念というものなのかもしれない。ただ、諦めというのはやっぱり正しくない気がする。なんといっても、私は今の自分が嫌いではないのだから。


 C.Fさんの日記[1/3]から。
 話題がタイムリーなのは偶然ではない気がするのですがと前置きしておいて。

 『最近考えていること……』以下のくだりは、まったくその通りだと私も思います。というか、私が上手く言えなかったことをちょうどぴったり来る言葉で言って貰えたという感じです。栞シナリオのエピローグは、あゆが望んだ世界そのものなのであって、それゆえに、あのエンディングはあのままで完結して全然差し支えないのです。栞と祐一があゆのことを知って悲しむ、なんてことをあゆは絶対に望んでいないはずだし、残酷な言い方をすれば、あゆの願いが実現するためには、あゆの存在が忘れられることがどうしても必要だった訳で、おそらくあゆもそこまで知った上で最後の願いを祐一と栞のために使ったのでしょう。

 でも、プレイヤーは事実を知っています。私は、あゆの願いを理解していても、やっぱりあゆのことを思うと悲しくなります。あゆが目を覚まさないという事実よりも、あゆが頑張ったことが誰にも知られないということに、やるせなさを感じます。あゆのことを想うなら、あゆを誉めなければならないのに、私は誉めることができない。なんとなくですが、天使のお仕事という同人作品は、作者のエゴイズムの産物だったような気が、私はしています。あの物語が生れた動機は、『あゆがどう思おうとわたしは納得なんかしてやるもんか』という気持ちだったような気がします。あゆの気持ちは尊重しなければならない、でも自分の気持ちを押し殺して良い理由はどこにもない。そうして、自分の気持ちを、あるいはエゴを形にしてしまったのがあの物語だったと思う。でも、あの作品はまさにそのエゴイズムこそが肝なのであって、そのエゴイズムこそが、人の(私の)心を打つのだと思うのです。

 エゴイズムなんてゆー超個人的なものが動機じゃ、説得力を欠くこと甚だしいかもしれませんが。


2001/1/5 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#5


 愚痴。 −ただし、AIR激ネタバレにつき注意−

 美凪シナリオをやろうとしてAIRを起動したのだが、何回プレイしてもバス亭ENDか観鈴シナリオに入ってしまう。バス亭ENDだけでも5回は見せられた。色々苦労してどうしてもダメで、結局攻略チャートを見てなんとか美凪ルートに入れたのだが、イライラしてしまってこれ以上続ける気になれない。美凪シナリオの、情景的?な文章の書き方が私は大好きなのだけど、肝心の美凪シナリオに入るフラグが厳しすぎる気がする。はっきり言ってウザイ。

 観鈴シナリオは、観鈴だけ普通に相手してれば自然と入れる。佳乃シナリオも、観鈴に普通に接して普通に佳乃の相手をしてれば入れる。しかし、色々試した結果、どうやら美凪シナリオに入るためには、観鈴と佳乃を適当にあしらってはいけないらしい。観鈴に関してはまぁ下宿先ということで一歩譲るとしても、相撲エピソードでちゃんと佳乃の相手をしないと、美凪ルートに入れないっていうのはどう考えても納得いかない。観鈴シナリオと佳乃シナリオは、彼女たちにきちんと対応するかどうかがそのまま分岐条件になっており、非常に分かり易いが、美凪ルートに入る道は、直接的にはプレイヤーに示されない。観鈴シナリオと佳乃シナリオは、プレイヤーがそうしたいと考えて選択すれば自然と望むルートに入れるが、美凪シナリオに入るのはプレイヤーの直接的な意志とは関係しない。美凪シナリオへの道は、プレイヤーの思惑とは別に、単なる偶然の結果として開かれる。この偶然に、プレイヤーを納得させるどんな意味があるというのだろう。これではまるで、選択肢が、プレイヤーを、美凪シナリオから遠ざけているみたいではないか。こうなってくると、選択肢の存在は本気で鬱陶しい。AIRの物語全体が、SUMMER編のような選択肢なしの物語であってはいけないどんな理由があるのか、私には分からない。これほど美しい物語を堪能するのに、選択肢が邪魔になるのだったら、選択肢が存在する理由が分からない。AIRが『ゲーム』でなければならないどんな理由があるのだろう。いや、この言い方は正しくない。AIRがゲームであることは別に構わない。少なくとも、DREAM編の佳乃シナリオでは、往人の、宿命からの解放が語られている訳で、これは観鈴シナリオとの対比として考えても、大変に興味深い問題を含んでいる。つまり、SUMMER編で柳也と裏葉が、神奈のために、子供に自分たちの意志を継がせるというのは、神奈萌え云々を除外して考えれば、これはもうエゴイズム以外の何物でもないのであって、その意味では、国崎往人は、本来としては観鈴のために力を使い果してカラスにならなければならないどんな理由もないのだ。観鈴萌え視点から見てしまうと、佳乃シナリオというのは存在そのものが許しがたく思われるのだが、国崎往人視点では、あれはれっきとした別の可能性の物語として成立する。そして、複数の可能性が存在することを効果的にプレイヤーに伝えるためには、DREAM編はどうしても選択肢によって分岐するAVG形式でなければならない。もしDREAM編が全三話のオムニバス形式だったら、往人の解放をプレイヤーが実感するのは難しかったろう。しかし、これはAIRの選択肢の存在を無条件に肯定するものではもちろんない。別にAIRに限ったことではなく、選択肢の存在が物語に厚みを与えているというのはおそらく事実だろう。しかし、AVGを作っている人たちは、一つひとつの選択肢の意味をどの程度吟味しているのか、私は大変怪しいと思う。もし、ある選択肢が必要かどうかを逐一吟味していったら、本当に必要な場所にだけ選択肢を設定するというところにまで注意を払ったら、選択肢の数は確実に今の半分以下に減るのではないか。逆に言えば、今のAVGには無駄な選択肢が多すぎはしないだろうか。選択肢は、プレイヤーに楽しみを与えるためにあるのでなければならない。本来、選択肢というものは、そういうもののはずだ。選択肢は『選ぶ』ためにあるのであって『つぶす』ためにあるのではない。なんでこの程度のことを誰も考えないのだろうか。


2001/1/4 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#4


 なんか左手の人差し指の先っぽが痛いっていうか、痺れがあるんで、人差し指を使わないでタイピングしてるんですが、やりづらいことこの上ないです。ちなみにわたくし、仮にも文章系サイトの管理人でありながら、タッチタイプができません。ちゃんと練習したことないので。最初の1文字のキー位置さえ分かれば、あとは手が勝手に動くぐらいまではできますが、でもやっぱりキーボードをちらちら見ながら打ってる始末。


 お星様にお願いっ! 5巻 (藤崎真緒/花とゆめ)

 俺様としたことが今まで気がつかなかったのだけど、縞崎先生とちまの身長差って、恋人というより父娘って感じじゃないだろうか。14ページ下のコマ、愛娘に、いってらっしゃいのちゅ〜をするパパ。おお、なんて素晴らしい発見。ていうか藤崎先生、あの絵は反則だと思います。縞崎先生の腰の屈め具合とか、何気にちまの腰に回された右手とか、ちまの両手が何気に先生の胸に添えられてるのとか。あ゛ーーー俺もいってらっしゃいのちゅ〜してぇぇぇぇぇっ。
 …すいません、もしかして不良読者ですか私?


 AIRトレーディングカード。
 とりあえず2箱ほど購入。なんか佳乃の箱しかなかったのだが、もしかしてこの辺りで人気の差が…?
 肝心の中身なんだけど、ゲーム中の絵がすべて使われてる訳ではないのね。ということは、後で『パート2』とか、『パーフェクトコレクション』とか『完全版』とかいう、ファンから金を毟り取る作戦が控えてるんじゃないかもしかしてゴルァ。
 差し当たり、川にはまった佳乃のうろたえる表情のCGがないのとか、美凪の抱っこCGがないのとか、遠野家の食卓でのみちるCGがないのとか、ぬいぐるみを抱くみすずCGがないのとか…って書いてて思ったけど、良いCGが軒並み抜けてるじゃん。あー今確信しました。AIRトレカは絶対に第2弾が出ます。今回CGを出し惜しみしてるのがその何よりの証拠。なんか納得いかないなー。元々、トレカなんて営利目的商品以外の何物でもないんだけど、それを踏まえた上で、それでも私たちはファンアイテムとしてトレカを買う訳ですよ。つまりさ、営利目的であることをここまであからさまに表出しちゃいかんでしょう。本音はどうであれ、建前としては、ゲームとかに関わる仕事っていうのは『夢』を売る商売なんだから。


 怒首領蜂

 2-3中ボスで瞬殺されて、マキシマムx9が消滅して、2-4終了時、残0ボム2ってのはいくらなんでも御無体じゃございませんこと。をほほほほほ。…鬱だ。明日は怒首領蜂特訓デーに決定。


2001/1/3 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#3


 昨日に引き続き、体調悪し。でも、蜂だけはしっかりやる。


 A3対応のプリンターがあれば、ひょっとして、なここるの抱き枕ぐらい簡単に作れるんじゃないかと思う今日この頃。アイロンプリントペーパー使ってさ。浅はか過ぎるかしらん。画像はね、1枚、いーやつがあるんですわ。


 怒首領蜂

 4.20億(2-7)、4.26億(ALL)、3.3億(2-7)。捨てゲーはノーカウント。

 がお…。
 いい加減、クリアしてもあんまり嬉しくない。いや、ちょっとは嬉しいっていうか、達成感はやっぱりあるんだけど、かつてのように、火蜂を倒した瞬間、思わず拳を握り締めて『よっしゃーっ』て呟いたりすることは今はない。
 うーん、なんでたかだか2-6ボスまでノーミスで逝く程度のことができないかなぁ。(観鈴構文)

 関係ないけど、今日、1-6ボスとの戦闘中、頭の中で『うん、悪くない』だの『がおがおしてないよっ』だのと声が響いてきてあやうく死にかけました。

 更に。昔、別のゲーセンで怒首領蜂をやってた頃は、1ミスのプレッシャーに耐え切れなくて嫌気が差して途中で投げ出してしまって、私が蜂をやらなくなると同時にそのゲーセンから蜂が撤去されてしまって(お金入れてたの私だけだったのね)、それからしばらく空白期間が続いたのだけど、結局今はまた別の環境で(別のゲーセンで)蜂に打ち込む生活に戻ってしまった。今は、さすがに6億狙いプレイゆえにストレスなんかも結構溜まってるのだけど、チクショーとか叫びながら(ちょっと嘘)プレイしていても、不思議と、止めたいとかは全然思わない。時には筐体を叩きたくなることもあるのに、やっぱり、怒首領蜂をやるのは楽しい。最近、ふと、ああ俺って本当に怒首領蜂が好きなんだなぁとしみじみ思ったりする。


 AIR (key) −ネタバレ−

 このゲームって、DREAM編をクリアすると、タイトル画面が朝の海から夕暮れの海に変わりますよね。そして次にSUMMER編をクリアすると、またまた、今度はタイトルCGが夜の海に変わる訳ですが、この演出というか小技って、結構センス良いっていうか、感動的だと私は思うんです。まぁ控えめに言っても、巧いなーと思う。エンディングがあって、FarewellSongと共にスタッフロールが流れて、次にタイトル画面に戻った時、今まで見慣れていた朝の海が、さーっと流れるように夕暮れの海に変わる。ドキッとしませんか。これは、本来変わるものではないタイトル画面が変わることへの驚きでもあるのですが、それ以上に特筆すべきことは、この演出が、ひとつの物語の終わりと新たな物語の始まりとを、プレイヤーに強烈に予感させることです。ありていに言えば『まだ続きがあるんだ』という驚きと期待を感じさせる演出です。本当に、なんというか、心憎い手法です。このインパクトは、往年の名作、DESIREで(以下DESIREネタバレにつき注意)やっとすべてのシナリオが終わったと思ったプレイヤーの前にマルチナシナリオへの入り口が現われた時の衝撃に匹敵すると言いたい気がします。未知の扉が目の前に突然現れて、しかもその扉は、私たちの期待と不安をいやがうえにも煽ってくる。好奇心を強烈に刺激されて、この扉の向こうには何があるんだろうと考えずにはいられなくなる。扉を開けずにはいられなくなる。かつてDESIREで体験した驚きを、私たちはAIRで再び体験することになります。

 …という訳で、AIR3周目は、以前のセーブデータを別フォルダに移して、真っ白な状態でやってます。どうしても、あの、さーって流れるように画面が切り替わる瞬間がもう一度見たかったので。


2001/1/2 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#2


 怒首領蜂

 5時間で5試合。内、1周ノーミスノーボムがわずか1回。最高点は3.9億。クリアチャンスが2回あったにも関わらずクリアはできず。はっきり言ってヘタレ過ぎ。


 らじPONやピュアメールに生駒治美さん(=なこるる)が出演しているらしいとの情報が。むぅ。2本ともノーマークだったのだが、生駒さんが出てるとあれば、プレイするのはむしろナコ萌えとしての義務かもしれぬ。てか、やってみてぇ。生駒さんの喘ぎ声があるのならそれだけでも買う価値がある。あ、いかん、本音が…。


 千歳。
 ていうと、私が思い出すのは、Natural(F&C)のヒロインだとか、あとちょっと古いけどきんぎょ注意報のお嬢様とか、かなぁ。それはともかく、私も、特に根拠は思いつかないのに特定の名前に萌えてしまうっていうのあります。しのぶの場合だと、『忍』『遥』『薫』『葵』『悠』とか、あと、『乃』がつく名前とか、ちょっと古風かつ男女どちらでも使えそうな名前に萌えます。なんでって言われると困るのですけど。ちなみに、娘がいたとして付けてみたい名前ってのに絞ると『紫乃(ゆかりの)』が私内部ではベストですね。いや、実際にはあまりにお嬢様っぽすぎてつけられないだろうけど。あくまで憧れの名前ということで。

 ああ、てか、紫乃っつー名前の娘(身長150cm前後/細身/中学生)が欲しい。んでもって、あん、パパ…くすぐったいよぉとか(以下自粛)。しのぶは『お兄ちゃん』などと言われても無反応ですが、『パパ or おとうさん』と言われたら0.1秒で壊れます。


 なんか頭イタイ。もしかして風邪ひいたかしらん。とりあえず、栄養のあるもの食べて寝ます。


2001/1/1 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-01.htm#1


 怒首領蜂

 1-6ボスにて1ミス後、2-6ボスまでノーミスノーボム。4.35億、クリア時、残0ボム6。
 …正月早々6億チャンスを落としてますが。(涙)
 …もしかして厄払いとかした方が良いですかね?(号泣)


 以前からやってみたかった、日記のインデックスを作ってみる。
 実際やってみると分かるけど、日記にインデックスを付けるのって結構勇気が要りますよね。だって、自分の文章に自負を持ってなきゃ普通わざわざインデックスなんて付けないでしょ? インデックスっていうのは要は読む人が目的の文章をすぐに探せるようにつける訳で、それって裏を返せば、自分の文章を読んで欲しいって意志表示とも取れるだろうし、意志表示ができるってことは、自分の文章に一定の価値は認めているってことになる、はず。いや、私は他人のサイトのインデックスについてそういうことを考えたことはないですけどね。ただ、自分でインデックスを作ってて、俺って厚かましくないだろうかとちょっと自問してみたくなったという次第。


 トップページのアクセスカウンターは外しました。やっと10万HIT越えたところだし、ちょっともったいない気はするけど、カウンターの上昇率に一喜一憂してる自分にいいかげん嫌気が差したので。なんかね、10万HIT越えて得意がってる自分というのがいるんですよ。はっきり言って穢らわしいです。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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