鬱と電波と萌えな日記



はじめに.

 書いてる人(しのぶ)は基本的に情緒不安定な人ですので、日によって鬱な内容だったり毒電波が混入してたり下品な文章になったりすることがあります。合わないと感じましたら、読むのをお止めになることをお薦めします。

 日記内では、ゲームや漫画等のネタバレがしばしば含まれています。ネタバレ時は赤字にてその都度注意書きを加えますが、忘れることもあります。その旨予めご了承ください。


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2000/12/31 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#31


 ここしばらく、自分の自己顕示欲っぷりに嫌気が差してネットから離れてたのだが、やっと回復してきた気がする。まぁそのなんだ、関係っていうのは、一対一であってそれ以上であってはいけないっていうか、一対一であることが望ましいと思うのだ、私は。例えるなら、舞の良さは、祐一と佐祐理さんがそれぞれの舞との個人的な関係において“知っている”だけで良いのであって、それ以外の他人に舞の良さを分かってもらおうなんて考える必要はないのだし、むしろ考えちゃいけないんじゃないかということだ。ゲーム中でもそうだったように、そんなことをしても徒労に終わるのが関の山だし、そもそもそんなことにエネルギーを使うなんて勿体無い、と私は思う。自分の力は、ただ好きな人好きな物のためだけに使えれば良い。それ以上を望んじゃいけない。閉じた関係の美しさってあると思う。たとえば、往人と美凪とみちるの関係みたいな。私は、そういう関係を持ちたい。それだけで良い。


 夜7時、高崎。
 群馬音楽センターにて、ベートーヴェン・交響曲第9番。

 この曲って、実演で聴くとなんか麻薬的だ。第一楽章はぼけっと聴いているうちに終わってしまったが、第二楽章以降は、聴いていて体が震えることがしばしばあった。


 演奏会の帰り、いつものゲーセンに寄って怒首領蜂。

 384,305,180pts. maxhit_722

 有終の美というやつか。年内の6億到達は果せなかったが、今年最後のプレイはきっちり2周ALLで締めくくることができた。ひとまずは満足。


2000/12/27 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#27


 天使のお仕事 (APPLE Project) −ネタバレ−

 やられた。泣いた。
 Kanon栞トゥルーの後日談だけど、むしろ補完シナリオと呼びたいような出来。本編ではおそらく敢えて書かなかったのであろう、栞シナリオにおけるあゆの犠牲の問題に、この同人作品は正面から向き合う。自分の幸せが誰かの犠牲の上に成り立っているのだとしたら、わたしは笑えるだろうか、という問題。Kanon本編の栞エピローグは、無知ゆえの幸せ、の典型なのだが、このビジュアルノベルの作者は、敢えて祐一と栞に真実を告げ、立ち向かわせる。おそらく作者は、あの栞エピローグにどうしても納得できなかったに違いない。何も知らずにあゆの犠牲に救われて“のうのうと”幸せを享受する祐一と栞に、何か完全には割り切れないものを感じていたに違いない。いや、本編のあのエピローグが不完全だったとは私は言わない。ただ、この物語を描いた作者は、あゆの自己犠牲が誰にも知られることがないという事実にどうしようもないやるせなさを感じていたに違いないと思う。だから、この物語において、祐一と栞は真実を知らされる。物語のラストであゆが意識を戻すのはおそらく二次的な問題でしかない。それより重要なのは、祐一と栞があゆの犠牲を知る、ことだ。その上で、あゆの願い通りに、ふたりが幸せになるかどうかだ。祐一と栞があゆのために一年間やってきたことは、しょせん悪あがきに過ぎなかったのかもしれない。しかしこれこそ、作者が(あゆのために)描きたかったことではなかったろうか。その意味では、これは祐一と栞の物語であるというよりも、あゆのために描かれた物語だと言えるのかもしれない。


 ONEのほん 1・2・3・4 復刻版
 ONEのほん 5・6・7
 ONEのほん eternal (あとりえ雅)

 こう立て続けに良い同人作品に出逢ってしまうとなんか嬉しい。この本の存在自体は、とらの穴で見て、結構以前から知っていたのだけど、中身が一切分からないので警戒して買わなかった。MK2さんが日記だかでこの本のことについて語っていたのを読んで興味が湧いた、てのが切っ掛け。
 余談だけど、私は普段は同人誌っていえば(MK2さんとは逆で)いわゆる“18禁ゲームパロ”しか読まない人なのです。

 どの本も良いのだけど、特に『eternal』はファン必読な素晴らしさ。特に、みさき先輩と繭と茜が好きな人は必ず読むべし。いやむしろ買え!! 絶対泣けるから。


2000/12/26 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#26


 怒首領蜂

 スコアに関しては成果なし。
 4億点台はぽんぽん出てるのだが、なかなかそれ以上いかない。さすがにここまで来ると、ひとつのミスも許されなくなってくるだけに厳しい模様。ふぁいとっ。

 それ以外の成果色々。

1-2 ようやく501HITまで伸びた。やはり、前半の3つ並んだ建物への撃ち込み方が鍵。
1-3 前半111HITの+3HIT分がどこで伸びてるか分かった。安定できるかも。
1-3 後半はワープザコ2機+ICから左の砲台x2まで繋いで67HITまで伸びる。レーザーHIT稼ぎがポイント。
1-3 ボスHIT、345HITまで伸びる
1-4 700HIT到達。が、まぐれ。
2-6 中盤激戦地の動きのパターン(タイミング)を練り込む。死亡率が大幅ダウン。
2-6 ボスを初めてノーミスノーボムで葬ることに成功。


2000/12/17 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#17


 こころが弱ってる。

 最近、自分が一番自然な形で自分であれるような“かたち”が少しずつ見えてきたような気がする。やっぱり、しのぶが一番自然にしのぶでいられるのは、独りでいる時だけだ。自分を、心底から肯定できるのは、孤独にフィクションと向き合っている時だけだ。物と一対一で向き合うこと、一対一の閉じた関係を持つこと、物が私に心を開いてくれるのはただそういう状況に置かれた時だけだ。リルケがいつも教えてくれてたことを、私はいつのまにか忘れていた。今の私は、リルケの顔を正面から見られない。もう一度、物との関係を作り直さなくてはならない。物に向き合う態度、物に対して誠実であることを私は学び直さなくてはならない。しばらくは、それに従って自分の生活を打ち立てなくてはいけない。


2000/12/14 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#14


 だーかーらーなんでこの時期に蚊がいるんだよ。
 俺の血を吸って良いのはさくら(byとらハ)だけだって言ってるだろうがゴルァ。


 何気にドルアーガの塔のBGMが聴きたくなったので、MIDI系検索エンジンで探す。こういう時、ネット環境の存在は本当にありがたい。ちなみに落としたのはこちらのサイト

 あの冒頭のファンファーレ。これから冒険が始まるのだという予感を、これほどまでにプレイヤーに実感させるような素晴らしい音楽が、当時のアーケードゲーム界で他にあっただろうか。今聴いても、心が震えてしまう。またそれに劣らず美しい、エンディングテーマ。当時中学生だった私は自力でのクリアなど到底不可能なヘッポコだったが、ある時たまたま上手いプレイヤーが全面クリアするのを見る機会に恵まれて、ギャラリーながらに感動したものだった。このゲームのエンディングは、単に、英語で書かれたおめでとうメッセージとバックグラウンドミュージックだけのシンプルなものだったのが、それにも関わらず、今に至るまで数あるアーケードゲームの中でこれに匹敵する充実をプレイヤーに与えるものがあったかどうか、私はちょっと思い出せない。


 怒首領蜂

 1-2前半でザコヘリを1機逃がしていることが判明。あと、3つ並んだブロックのところはレーザーの打ち込み具合でHIT数がもうちょっと増やせそう。うまく行けば500HIT安定するかも。

 2-6ボスの青弾3WAYは、今まで画面右端からスタートして左に移動して避けてたのを、1周目と同じく左端から右への移動に変更。1周目は抜けるタイミングを完全パターンにしているので、2周目も同じ要領で行ける気がする。まだちょっと恐いが慣れれば今よりは安定するんじゃなかろうか。またこの3WAYを画面右端で終わらせた場合、次の回転赤弾+狙い青弾の複合を1周目と同じく少しずつ移動するパターンでノーボムで避けきれる可能性があるのも大きい。これで理論上はノーミスノーボムで鬼畜様まで行けることになる。ま、あくまで理論上(完璧に繋がれば)なので実質的にはほぼ0%なんですけどね。


 短い間だが、AIRから離れていたお陰で、少し距離を置いて考えられるようになったような気がする。今日は、今後AIRについて考える上でヒントになりそうな着想が色々浮かんで、実に楽しかった。ゲームをやっている最中だとかゲームの雰囲気が頭の中に残っている状態だと、どうしても個々のシーンの美しさやらキャラ萌えやらが邪魔をして、物語を俯瞰することが難しくなるのだ。特にAIRのような、美しさを極めたようなゲームだと尚更そう。

 S.MA.PのBBSで11番目の猫さんがKanon/AIRについて仰っていた言葉、

>鮮烈なイメージで泣いてしまう。
>泣いたことは憶えているのに、何を思って泣いたのかは憶えていない。

 これはkey作品の演出効果の特徴を非常に端的に言い表していると思う。


2000/12/13 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#13


 今日は仕事が忙しくて鬱入ってる暇がなかった。無理にでも笑ってるとそれなりに幸せでいられるものらしいですね。知りませんでしたよ。


 Moe -萌黄色の町- (ユニゾンシフト)

 ファーストプレイ。雪村奈津美END.
 元々、このゲームに興味を持ったのはこの娘のビジュアルに魅かれたからなのだけど、蓋を開けてみれば期待していた後輩キャラではなくて、同い年の幼馴染みキャラだった。基本的には、主人公とドツキ漫才をやっちゃうようなタイプ。最初から主人公に密かに惚れてる幼馴染みというギャルゲーのパターンを踏襲しているのだが、傾向で言うと、あかり(東鳩)や瑞佳(ONE)タイプではなく、晶(Lien)に近いか。表情や仕草がころころ変わるのが結構可愛い。
 が、シナリオがベタ過ぎ。7000円だして新品を買ったのでそれなりには言わせて貰う。なんか、東鳩とかONEとか有名ギャルゲーの焼き回しという感じ。作者が今までプレイした恋愛系ゲームの色々な要素を集めて再構成しただけというか。消化しきってしまえれば良いけど、コピーしただけのものはオリジナルに対して常に劣化する。良く言えば、適度に笑えて適度に萌えられるライトな恋愛ゲーム、という風にも言えるが、要はこのゲームでなければならないもの、他のゲームでは代替できない魅力、いわゆる『個性』が欠けているのだ。初代とらハは、絵/音楽/シナリオどれを取ってもONE/Kanon/AIRの美しさには敵わないが、それでもあのゲームが今なお魅力を保ち続けているのは、恋愛のくすぐったさ、いちゃいちゃをとにかく徹底的に描いたからだ。初代とらハは、とにかくいちゃいちゃを追求するというその勢いだけで、他の弱点を補ってなお説得力を持つだけの作品になってしまった。よく漫画なんかに出てくるような『荒削りだけど光るものが』っていう今日では割と陳腐化した台詞が、とらハに関してはまさにそうだという風に響く。Moeの場合は、多分まだ、作者自身が何を一番描きたいのか分かっていないのだろうと思う。思うって言うか、ゲームをやってみての、それが印象。


2000/12/12 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#12


 2.14さん[死刑台のエロゲーマー]の日記(11/8)から飛んだ高橋直樹のホームページが面白い。思わず読み耽ってしまった。流しているのが精液であれ涙であれマスターベーションであることに変わりはない、とかのくだりは本気でニヤリ。名言。オタク談義とかは結構痛いのだけど、痛みに快感を覚えるのがオタクのオタクたるゆえんだし。特に自覚的であろうと躍起になっている人であれば尚更。

 ところで私が今まで読んできた限り、音楽であれ本であれ絵画であれ、創作に対する評論や感想というものは、常に、作品それ自体が持っていると思われる質的な部分についての叙述を基本としている。例えば、ある作品が美しかったらそれはなぜ美しいのか?であるとか、その作品を通じて作者が言いたかったこと…もとい表現したかったことはなんであるか?とか。いずれにしても、プロアマであるを問わず芸術批評/感想は、対象を観察してそれになんらかの言葉を与える作業であると言って良いのだが、ここで問題にしたいのは、そうした文章は多かれ少なかれ審美眼的な態度で書かれているということだ。いや、審美眼的であることには良いも悪いもない。むしろ私が考えるのは、なぜ創作ジャンルの中でギャルゲーだけが、審美眼的に語られるのと同じくらいの頻度で、社会問題的なものと絡めて語られるのかだ。端的に言ってしまえば、現在のネット上では、ギャルゲーについて語るのと同じ位、ギャルゲーユーザーについても語られている(それが自分語りであれ他人の観察であれ)という事実に、なんとなく疑問を感じたりするのである。オタクのコンプレックスの問題に触れることなくしては、ギャルゲー批評というのは成り立たないのだろうか。少なくとも私の知る限り、例えば『モーツァルトの魔笛を観て、パパゲーノに自分を投影しせずにいられなかった、魔笛を観てなにか救われた気持ちになった』であるとか、『ベートーヴェンに共感する人間が抱えるコンプレックスとは?』などという意見はプロアマのものであるとを問わず読んだことがない。今の流行り言葉で言えば、ベートーヴェンの音楽などはまさに『癒し系』の最たるもの(ベートーヴェンほど魂の平穏を切実に求めた人はいない、彼の後期の音楽はある意味すべて自分を救うための音楽だった)だと思うし、当時からベートーヴェンの音楽に『魂の救済』のようなものを聴き取っていた人はたくさんいたに違いない。しかしいずれにしても、ベートーヴェンの音楽は救いであるという風には語られても、ベートーヴェンの音楽にハマルことをコンプレックスを抱いていた人はいたのかどうか。私はそういう文章に出逢ったことは今までに一度もない。繰り返しになってしまうが、今のネットワールドにおいて、ギャルゲー批評とギャルゲープレイヤー批評は切っても切れない関係になっているのだが、私は最近、そこになにか純粋ではないものを感じずにいられなくなってきている。要は、(私を含めて)ものを考えることが好きなギャルゲープレイヤー層の(一部の)、自分について徹底的に自覚的であろうとするゆえの自己批判的態度が、私にはなにかイヤラシイものとして映るのである。私はゲーム業界とは無縁のしがないサラリーマンだが、それゆえに知り得たこともある。オタクという言葉に必要以上の意味を与えているのは実は当のオタク自身であるという事実である。会社にそこそこ長く勤めていてそこから学んだことなのだが、一般人は実はオタクが自分でそう思っている程にはオタクについて注意を払っていないものだ。それは無論オタクメディアに対する無知もあろうが、そこを差し引いてもオタク趣味であることは別段ハンディキャップになる訳ではないのが実情である。もちろんゲームキャラに欲情したなんて言ったら10中8,9退かれるだろうが、考えてみれば誰それが好きだの誰それに欲情したなんて話は一般人だって友達相手にしかしないのであって、そんなのは元々T.P.Oを弁えなければならない話題であるというだけなのだ。オタクが仮に嫌われることがあるとすれば、それはコミュニケーション不全によって距離を作ってしまうとか、不潔であるとか(2chで言われるような、よれよれシャツによれよれジーンズ且つ風呂に入らないオタクって本当にいるんですかね?)の問題であって、オタク趣味とは直接的には関係ないのである。ぶっちゃけた話、ギャルゲーを現実逃避場所的に語ったり、キャラ萌えを母胎回帰願望みたいなものとして語ったりする姿勢になにか違和感を感じる。いや、私もそういう語り口は嫌いではないのだが、なにかしっくりこない感じは残る。ギャルゲーというのは元々欲望の充足を目的として作られたメディアなのだと言われてしまえばそれは確かにその通りなのかもしれない。しかしそのことを認めることと、コンプレック的視点を認めることとはおそらく同義ではないだろう。なんだかんだ言っても私はやっぱり健康なものに憧れるし、できればそうありたいと思う。例えば『萌えーっ』と叫ぶにしても、そこに自嘲の意がこもっていれば、私基準ではそれは不健康だ。萌えを叫ぶのであれば、そこになんの疑問も抱かず高らかに叫ぶのでなければならない。まぁこれは極論だけど、ただ自覚的な自虐は端から見てあまりみっともいいものではないし、ギャルゲーが欲望のメディアであることを認めた上で、自嘲抜きに自然なかたちで『感動した』と言えたら、それは今よりも一段高いギャルゲーの楽しみ方であるような気がするのだ。以上、半分ぐらいは自分の今後のために。

 あと。
 多分、私はレビューを書かなくても済む人と同じレベルに到達するためにレビューらしきものを書いているんだと思う。ゲームとの関係性を構築するための唯一の手段だと思い込んでいるというか。ポーズでもなんでもない単なる事実として、私はゲームをやった時、いや、広い意味でのフィクション体験をした時、自分がその時に感じた感情を繋ぎとめておきたいといつも思っていて、あ違うか、思っているんじゃなくて、書くことで自分の感情を繋ぎとめておかないと、その時々の感情をきちんと自分のものとして所有できない気がして不安になるというのが近い。自分がゲームをやって何かを感じたということを確認するために、私は書く以外にどうやったらいいか分からない。

 私にとって、書くというのは関係性を築くための行為だ。そこに、健全やらなんやらの問題が絡んでくる。対象が美しければ美しいほど、私は自分のコンプレックス的視点がイヤラシク思える。それは対象と自分を比較しているからというよりは、対象の美しさに自分が釣り合っていないのではないかという不安だ。ちょうど、誉めてくれた人に対して自分はそんなたいしたものじゃないと卑下するのが失礼であるのと同じように、コンプレックスを抱いてコンプレックスを前提とした関係性を構築しようとするのは、ある作品に対して失礼なんじゃないだろうかと思わずにいられない。それは作品に対する依存だ。関係というのは一方的なものであってはいけない。

 ああところで、高橋直樹氏の文章を読んで、やっと『Moe〜萌黄色の町』をプレイする気になりました。絵柄は以前からいいなぁと思っていたんですけど、なんとなく踏ん切りがつかなくて買ってなかったのです。ああいうこと(注、好意的な意味)を書いてる人がどんな脚本を書くのかは多いに興味あるところ。

 んで上のを書いてから1時間後。買ってきました。パッケージ裏のキャラクター紹介を読む。

 『気の強い主人公の幼馴染み』
 『おとなしいお嬢様な同級生』
 『病弱でどことなく儚い同級生』
 『猫ミミ猫シッポの謎の少女』
 『ドジで天然系家出少女』
 『色っぽく気さくな保険医』

 なんなんですかこの記号で固められたようなキャラ設定は。
 …もしかして設定自体が既にネタですか?
 まぁいいか。やってみたら良い意味で裏切られるかもしれないし。


2000/12/11 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#11


 AIR佳乃シナリオをやるつもりだったのだが、ついついゲーセンに長居してしまった。怒首領蜂は成果無し。というかここ2週間やってなかったので下手になってる。パターン忘れというところまではいかないのだが、いまいちレバーが手に馴染まない感覚があるというか、自機を制御下に置き切れていない感じ。私用語で言えば、シンクロ率の甚だしい低下。

 いちお、成果と呼ぶにはあまりにささやかな成果だが、1-3前半で111HITを出すことに成功。が、どこで増えたのか分かってないので安定はしそうにない。あと、1-4は中盤のパターンを変えたことにより理論上は700HITに届く可能性が出てきた。まぁ現在の全国レベルプレイヤーは1-4で7xxHIT(他人の攻略データなので伏せ)ぐらい出てるらしいので、それから比べればヘタレもいーところなんだけども。


 散財。

・コート2着(余所行き用のロング/普段の出歩き用のハーフ)
・とらいあんぐるハート3(ジャニス/アイボリー)
・バルドバレット(戯画)
・CD-R10枚BOX(FUJIFILM)

 本当はスラックスとセーターも欲しかったのだが、質とデザインの良いものがなかったので今回は見送り。スラックスは値段が高くても良いから、長く履いてもヨレヨレになりにくい物が欲しい。車に乗ってるだけで皺ができてしまうようなのは論外。

 近所の唯一のパソコンショップは、新作に関しては予約しないとほとんど買えないヘタレ店なので全然期待していなかったのだが、今回に限ってなぜか売ってたので即キープ。元々はバックアップ用のCD-Rを買いに行っただけだったのだが。
 ああ、ゲームですが、いつプレイするかはまったくもって未定です。ごめんなさい。今週いっぱいAIRやった後、来週からは蜂をやる予定なので。


 アクセス解析のリンク元URLを見る度に思うのだが、果してうちのリンクページは他サイトへの窓口としてちゃんと作用しているのだろうか。せめて、あるサイトからうちに流れてくる人数と同じくらいの数の利用はあって欲しいなぁと思う。作用してなかったらなんか申し訳ない気がする。


 web日記にゲーム等の感想を書く者として。まだ考え中なのでメモ。
 『私はこう思う』と『私はこう思いたい』の間にはどのくらいの差があるのだろう。少なくとも私の文章に関する限り、その差はほとんどないような気がする。いやそもそも、人は『こう思いたい』という願望から自由であれるのだろうか。どんな意見も、結局は本人の人生観を抜きにして語られることはあり得ないのではないだろうか。とすれば、ある意見が個人の思惟から離れたありかたで妥当性を持つということは可能だろうか。せいぜい、個人レベルで共感できるかどうかという問題しか残らないのではないだろうか。


2000/12/10 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#10


 最近、web巡回をさぼり気味で巡回ルートHTMLの1/3程度が『未読』になってしまっているのですが、それはともかく。

 アシュタサポテのBBSで以前紹介されていた、あ、逃げないでっていうサイトの日記が最近は楽しいです。
 あと、そっから飛んだTakaki's Worldとかも楽しい。なんというか、この人たちには勝てねぇと思いました。尊敬のまなざしと共に。

 あと、たまたま発見したこちら
 世の中には私が知らない優良サイトがまだまだいっぱいあるんだなぁとしみじみ。ていうかさ、、、

 幼稚園、おっけー。

 とりあえずMK2さん[づしの森]にもお薦めなサイトです。多分こういうの好きじゃないかと。私信みたいなもの。


 まほさろさん[エルディア情報部]の日記(12/1)を読んで、久しぶりにリューノス・オフィシャルサイトへ行ってみる。
 トップ絵、確かにフォークソング好きな人なら一見の価値アリかも。

 更に、まほさろさんの日記からコゲとんぼ氏の個人サイトへ飛んで、氏のAIRレビュー(日記11/18)とか。
 少々不遜な物言いであるのを許して頂きたいのだが、私が読むのが恐いのはAIRにハマってる人の意見なので、否定派(という程強いものではないにせよ)の意見は別に読んでも問題ないかなと思った次第なのですが。

 読んでみて「それだけの事が出来るんだから、最初からやってよ」とか、なるほどと思った。あと「ファンに甘えてる」とか。確かに、AIRは最初の取っ掛かりが弱いというのは私も感じていたところ。AIRプレイ初日の日記では「この程度かkey!!」なんて書いてるし。私がAIRをプレイする前に漠然と感じていた恐さっていうのは、要するにkeyのブランドイメージに流される恐さだった。多分私は、keyに対する自分の信仰心(認めたくないが信頼ではない気がする(^^ゞ)を恐れていたのだと思う。AIRをやるプレイヤーの大半がおそらくKanonをやっているであろうことは想像に難くないが、これは、実はkeyにとってはプレッシャーであると同時にアドバンテージでもあったのだ。リーフの下川氏が言った『ゲーム開始20分以内にプレイヤーの心を掴んでしまわなければいけない』は至言だった−コゲとんぼ氏も日記内で『掴み』の大切さについて語っていたが−と今でも思っているが、keyはONE/Kanonによって築き上げたブランドイメージの故に、シナリオライターにとって必須の課題である『冒頭の掴み』を必ずしも徹底しなくても良かったと言える面はあったのではないだろうか。そのことを差して「ファンに甘えてる」と言う人があったとしても、それは無理のないことであるような気がする。
 私を含め、特にkey作品を溺愛している人たち(すべてでは無論ないでしょうが)は皆、key作品に一貫して流れる『何気ない日常の中に潜む美しいものを見つける事がどんなに大切なことであるか』という思想?に慣れ親しんでいるので、私たちはAIRのDREAM編前半の日常を“keyらしさ”として比較的容易に受け入れることができてしまう。私自身にしてみても、keyは絶対やってくれるという期待(←笑うところ)があったからこそ、そのままプレイを続けられたのだという一面があったことは否定できない。key信者(最近やっと自覚しました(わらい))としては、「ファンに甘えてる」と言われたらもう返す言葉がない。他ならぬ私自身、keyを甘やかしまくっているのだから。いや、AIRをやった後では信者であって一向構わないと思ってますけどね。

 余談だけど、手に取ってもらわなければ始まらないとかのくだりを読んで、私が勤めてる会社のことを思い出してちょっと失笑しました。機能性や性能を云々してもさ、まずは外観で引きつけられなきゃしょうがない訳ですよ、商品ってやつは。
 DMH17さん以外は分からないだろうなぁこの話。


 とらいあんぐるハート’S サウンドステージを聴いてみる。

 寒い、ひたすら寒いです。耐えられませんでした。このCDは、センチのOP−通称、暗黒舞踊−と同じく、なにかパーティーの時などに罰ゲームに使うのが適切でしょう。どちらも精神攻撃アイテムとして一流だと断言します。


 ジャンプのこと少し。ネタバレにつき火曜日まで隠蔽。

 ヒカルの碁
 佐為の立場の不安定さみたいなものについては以前から仄めかされていたけど、いよいよそれが切実になってきたというところか。このまま行くと、あるいは佐為がヒカルから出て行くなんて展開になるのだろうか。そんで、別の誰かに取り憑いてヒカルやアキラの前に立ちはだかる、みたいな。それはそれで面白いかも。展開としてはやっぱり、まずアキラが謎の新人棋士と対局して敗れ、遂にSAIが目の前に現れたことを知る、みたいな感じか。まぁこれ以上キャラクターを増やしてもしょうがないだろうって問題もあるし、外れる可能性の方が高いだろうけど。そもそも佐為がプロ界に乱入したら物語のバランス(力関係)が崩れてしまうんじゃないかって問題があるので、作者としても佐為の扱いは難しいところではないだろうか。
 とりあえず当面は新初段シリーズか。倉田佐祐理六段登場希望。既に、若い切れ者的イメージのキャラは緒形さんがいるので、どんなビジュアルになるんだろうとか楽しみ。

 ライジングインパクト。
 1オーバーって。実はパーシバルって下手だったのですか? トリスタンと組むぐらいだからそれなりの腕は持ってるだろうと思ったんだけど。あ、下手っていうのはあくまであの超人ぞろいの物語世界においてということね。


 AIR (key) −ネタバレ−

美凪 『こうすれば…少しは痛みが和らぎますか?

 ぎゃーーーーース。
 危うく悶え死にするところでした。恐るべし遠野美凪。
 ところで、遠野さんって目がとっても綺麗だと思いませんか? そういう描写があったかどうか思い出せないけど、立ち絵とか見てるとつい見惚れてしまう瞬間があります。でもやっぱり、私の基本としては、遠野さんは『いい奴』なんですけど。

 美凪旅立ちEND.

 美しいというよりは、痛いエンディングだと思った。特にトゥルーを既に知っている状態だとなおさらそう感じる。正直に言ってしまうと、あんな美凪は見たくなかった。私の感傷の問題として、これはもうバッドエンドだとしか言えない。
 屋上で美凪を突き放す往人を見ていて、なんでコイツはこんなに冷たいんだと最初は思ったのだけど、今なら往人の気持ちが分かる。美凪は母親から逃げてしまった。往人の方から旅に誘うということは、自分が美凪の逃げ場になるということだ。それは取りも直さず、自分が美凪の『夢』の住人になってしまうということを意味する。往人は、美凪の友人として、また男として、それを許せなかった。だから、敢えて選ばせた。自分の意志で自分の道を決めろと突き放した。美凪が夢を見続けることを許さなかった。

 いずれにしても、これは本当に救いようがないエンディングだ。なぜなら、あの時母親に会うことを拒絶してしまった美凪は、還る場所を失ってしまったからだ。夢はいつか終わるものだとしても、夢はそのまま胸の奥に大切にしまっておくことはできる。例え夢だったとしても、夢を見たその時間は思い出としていつまでも残る。このシナリオが悲しいのは、美凪が思い出を捨ててしまったように見えるからだ。美凪があんなに頼りなく見えてしまうのは、彼女が還る場所を持たないからだ。往人と美凪の旅は、還る場所を持たない彼らの旅は幸せなものになるだろうか。また、往人と美凪の中のみちるは笑っているのだろうか。いや、いつかみちると過ごした日々のことを幸せな記憶として思い出せる日が来るのだろうか。みちるのことを思い出してふたりで微笑み合える日が来るのだろうか。そうであって欲しいと心から願うけれども、残念ながら、私は即答できない。

 もひとつ。結局、分岐条件はなんだったんだろう。前回のプレイとの違いというと、妄想テゴメCG(笑)を見たというだけなのだけど、妄想CGを見て且つ『おはようのキス』でこちらの分岐になるってことなんだろうか。いずれにしても、分岐条件に必然性が感じられないのはどうしたものか。原因と結果がちぐはぐ過ぎる。これでは、主人公(=プレイヤー)の思惑や意志は結局、美凪の意志に、ひいては物語の展開になんの影響も与えていないということになってしまう。美凪が母親の前で一歩を踏み出せなかった理由が描かれていないのは気になるところだ。


2000/12/9 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#9


 口内炎ができた。咀嚼するたびに痛い。
 もしや高野山の呪いか?

 (ぽかっ)

 …が、がお。


 かのうぉのファンメッセージコーナーにまほさろさん[エルディア情報部]の名前が載ってる〜。にははっ。


 AIR (key) −ネタバレ−

 なんかね、AIRやっちゃったら他のギャルゲーをやりたいって気が起こらないです。元々ギャルゲー熱が落ちてるところに持ってきてこんなすごいの見せられちゃ、もう当分ギャルゲーはいいや、って思ってしまう。

 佳乃シナリオのこと追記。
 『自慢気に言う姉と誇らしげな妹』ってフレーズがすごく好き。なんていうか、眩しいなーって思う。

 あと、疑問がひとつ。なんで佳乃が空に行こうとした(神社で死のうとした)のかがよく分からない。謎に興味なしとか言っておいてアレだけど、物語の本筋に直接関わる問題だけに、すっきりさせとかないと気になる。
 一応、現段階では、あの羽根に込められた悲しい記憶と佳乃の思いがオーバーラップしてしまった、つまり子供のために犠牲になろうとする母の記憶が、往人を傷つけてはいけないという佳乃の思いと重なってしまってああなったのかなって想像しているんだけど、なんか今一つしっくりこない。なにか見落としてる?感じ。3周目の課題。

 もひとつ。
 聖さんは、妹が空を指向しないように、自分の元に繋ぎとめておくために、佳乃にバンダナを与え、それに魔法を掛ける。魔法という言葉はこのシナリオ中では言霊になっているが、この言葉は本当は佳乃のためにあったんじゃない。正確には、あれは佳乃を離したくないがゆえの、聖さん自身のための魔法だ。バンダナがある限り、妹はわたしの元にいる、っていう。しかし、往人の出現によって、バンダナはその魔力を失う。佳乃が再び空を指向した時、往人を想う佳乃の前でもはやバンダナはその役目を果たさなかった。皮肉なことに、と言うべきか。佳乃が自分の手から離れたことを、聖さん自身が本当に受け入れることができた(受け入れざるを得なかった)のはこの時だったような気がする。

 ただしこれは羽根の記憶の問題を敢えて無視して聖さんを中心にした解釈。これに佳乃と母の問題&羽根の問題を入れると解釈は厄介になる。振り出しに戻ることになってしまうのだが、私が分からないことのひとつは、あの羽根が佳乃にどういう作用を与えていたのかということ。単に、悪霊のようなものが取り憑いていただけだったのか、それとも、佳乃の意識、あるいは思いになんらかの影響を及ぼすほどに、佳乃の意識のレベルにまであの羽根の記憶が入り込んでいたのだろうか。


 美凪シナリオ2周目。8月4日まで。

 考えすぎかもしれないけど、このシナリオで繰り返しシャボン玉が出てくるのはなかなかに象徴的ではないだろうか。シャボン玉のイメージが“夢”と重なるというのもあるし、またみちるとシャボン玉という組み合わせは、有名な童謡を連想させる。

 しゃぼんだま 飛んだ 屋根まで飛んだ
 屋根まで飛んで こわれて消えた
 かぜ かぜ 吹くな しゃぼんだま飛ばそ


 昔、ラジオで誰かが言ってたんだけど、これって、幼くして死んだ自分の子供を想って書いた詩なんだよね。一見のどかなこの詩に出てくるシャボン玉っていうのは、実は夭折した子供のことで。いや、多分有名なエピソードだとは思うんだけど。


2000/12/8 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#8


 最近の日記中のリンク切れとか色々と修正。


 私は実は誰でも考え付く程度のことしか書いてないのかもしれないなんて思うと、書くのがとてつもなく恐くなる。けど、誰にしろ、階段は一歩ずつ昇って行くしかない訳で。半年後、一年後に書かれるであろう文章は、『今』の積み重ねなくしては存在し得ない。昔、リーフのBBSに投稿したONE感想は今読むと記憶から抹消したくなるようなシロモノだが、それなくしては今のONE感想は存在し得なかった。今は、ただ書くしかない。多分、自分を納得させられる一語を言うためには、千の言葉を費やす必要があるのだ。ちょうど、STGを繰り返しプレイしながらちょっとずつ先の面に進んで行っていつかラスボスに辿り着くように。怒首領蜂、現全一プレイヤーはラスボス(2周目7面)まで一週間で辿り着いたそうだが、私は半年(もちろん、毎日欠かさず通い詰めてである)掛かった。早い遅いはあっても、誰であれいきなりラスボスに辿り着くという訳にはいかないものなのだ。このことを忘れてはいけない。

 最近なんとなく、他のweb日記書きさんたちはAIRについてどんなことを書いてるんだろうなんてことが気になる。気になるんだけど、今は正直言って恐くて読めない。影響を受けるのが恐いし、それよりなにより、自分が気づかなかったAIRの魅力を他人の言葉で知らされてしまうのが嫌だ。勝手な言い草だとは思うけれども、自分で納得行くまで、書き尽くしたといえるまで、まずはやり倒したい。AIRはそこまで信じるに足る作品だ。

 ふと不安になったので、次の一歩を歩くために自分に言い訳をしておく必要を感じたのデス。ちょっとでも心が軽くなるなら、言い訳も時にはアリではないかと。にははっ。

 AIRは、私内部では既にONE/デアボリカと同列です。あるいは越えたかも。


 家族。(反吐なので読むの禁止)

 麻枝氏が使う『家族』って言葉は、いわゆる社会を構成する要素の最小単位としての家族とは別のものなんだよな。戸籍上のとかそういうのとはまったく別の、還るべき場所としての家族。血の繋がりとかはどうでもいい感じ。KanonにしろAIRにしろ、家族という言葉で語られる人間関係は、いつも標準の形とはズレている。いわゆる、父がいて母がいて子供がいる、っていう構図は描かれない。これはおそらく偶然ではないだろう。
 なんでこんなことを思ったのかっていうと、麻枝シナリオの中で語られる家族っていう言葉に、私はどうしても違和感を覚えてしまうからなんだけど。麻枝シナリオにおいて家族って言葉が意味するものは、おそらく還るべき場所のことなんだけど、これはもう少し詳しく書けば、『そこから始めなくてはならないもの』っていうイメージの言葉なんだと思う。って俺以外に意味が分かりませんねこれじゃ。ええとねつまり。ちょっと前の日記にも書いたけど、人が他の誰かと新しい関係を築くためには、もっとストレートに言えば誰かを愛するためには、まず本人が、無条件で“いる”ことを許されている場所を持っている必要がある。簡単に言っちゃえば、まず無条件に愛されるという経験を済ませておく必要があるということ。おそらく、家族っていうのはそういう場所のこと。
 でもこれは頭で考えてそう思うってだけで。私はやっぱり家族って言葉はピンとこない。家族という言葉からすぐに温もりをイメージできる人ってどのくらいいるのだろう。少なくとも、私は幸せなイメージと直接的に結び付けられるタイプではない。佳乃が『一緒に住んでれば家族だよぉ』って言ってるけど、私の経験則では、それは違う。一緒に住んでるだけでは家族じゃない。かなり言い難いことなんだけど、私は、村上春樹のノルウェイの森に出てくる小林緑という少女に、他人とは思えないほどに共感を覚える人間で。あと、終末の過ごし方の瑞沢千絵子とか。
 私の両親は不器用な人間だった、と思う。父は、私に色々なものを買ってくれたり色々なところに連れて行ってくれたりしたけど、それだけだった。物質的にはそこそこ恵まれていたと思う。しかし、父が私に何かしてくれるたびに、私は子供ながらに違和感を覚えていた。僕がして欲しいのはこんなことじゃなくて、もっとささやかな何かだ、といつも思っていた。具体的に何をして欲しかったのかは分からなかったけど、なにか違う、という感覚はいつもあった。母は、なんというか、よく分からない存在だった。元々快活な人柄ではなかったが、それにしても私は母の笑顔をあまり思い出せない。今にして思うのは、母は多分、人を愛する術を知らない人だったのだという気がする。ちょうど、トルストイの小説−確か、少年時代か青年時代のどちらかだったと記憶しているが−に出てくる、愛する術を知らなくていっそ相手が病気になることを願ってしまう人物のような存在だった気がする。こんなことを言うのは許されないことだろうか。私の両親は、私を愛そうと一生懸命だったとは思う。ただ、ふたり共、どうすればいいか知らなかった。愛情を形にする術を持たなかった。家族は、私が高校生の頃だったかを境に、急速に冷めていった。何があったのかはよく知らない。また、今更知りたいとも思わない。ただ、確かなのは、今の私は『家族』という言葉に何の希望も持っていないということだ。だから、KanonにしろAIRにしろ、家族という言葉はなんかしっくりこない。いや、どうだろう。あるいは、家族という言葉にプラスのイメージを持っていないからこそ、AIRで語られる家族のイメージがこれほど心に響くのだろうか。ただ、こんな言い方は私にしか意味のないことかもしれないけれども、AIRの霧島姉妹、神尾母子、遠野姉妹と母、という三組の家族は、家族という言葉では到底足りないぐらいに眩しすぎる。重ね重ね、超個人的表現で恐縮だけど、彼らの関係に私は家族なんて言葉を与えたくない。麻枝シナリオの家族は、無条件でいてもいい場所、そこから始めなくてはならない場所のことで、家族という言葉自体は便宜的なものに過ぎない、と言いたい気がどうしてもしてしまう。私を含め、ONEやKanonやAIRが、好きとか感動するとか泣けるとか美しいなんて次元をとっくに超えてしまって、ただただ大切なものだとしか言いようがないという人たちは、家族という言葉をどう捉えているのだろう。


 AIR (key) −ネタバレ−

 2周目そのいち。佳乃シナリオ。
 なるほど、SUMMER編をやった後でなら、あの羽根がなんだったのか、なんとなく分かる。いやその、私は謎とかにはあまり興味ないんですけどね。しつこいようですが、私にとって重要なのは、誰かが笑ったとか泣いたとか、ある瞬間に何を考え何を思っていたか、だけなんで。

 んで、とりあえず最初に言っておかなくてはならないこと。
 汗をかいた佳乃の二の腕を『むにむにーっ』ってしたくありませんか? 特にそういう描写はなかったと思うけど、佳乃って肌がすごく柔らかそうじゃないですか。なんかさー、汗かいてる肌に触ったら、ぴとっ、って感じで手のひらと肌が吸い付くような感触がありそうで。うわーっ触りてぇ。あと、バンダナを俺の手でほどきたい。すごく。なんていうか、佳乃を本当に裸にしたって感じがするじゃないですか。もう感動モノだと思う。

 ああ、『かしこまったよぉ』とか言われてぇ。ダメだ、幸せすぎて真っ当な言葉が出てこねぇ。


2000/12/7 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#7


AIR (key) −ネタバレ−

 美凪BADを見る予定でプレイしたのにTRUEに行ってしまった。えっちシーンも見られなかった。
 むー。『おはようのキス』選択でえっちシーン&BADENDになるんじゃなかったのか。嘘吐きぃぃっ。誰に言ってますか俺。

 あ、いちお理屈っぽいことを言っておくと、物語にはハッピーやバッドなんて本来存在しないと私は考えてます。ハッピーやバッドという言葉は、所詮ゲーム表現ゆえの方便でしかないと思う。物語っていうのは基本的にある人間の人生の一部を切り取ったものでしかない訳で、それにハッピーとかバッドっていう名前をつけることが私にはよく判らない、っていうのもあるし、またシナリオ表現の観点から言っても、語られた物語には、すべてなんらかの意味があるべきです。というか、物語を書くとは、語られるべきものの取捨選択を行うことだと言っても良いと思う。トゥルーエンディング以外のシナリオを見たプレイヤーに、『ゲーム攻略失敗』『時間損した』と思わせてしまったらアウトなのです。便宜上、バッドエンドと呼ばれているエンディングであっても、『これもあり得るひとつのかたち』だと思わせなきゃいけない。そういうゲームでは、便宜的な呼び名としてのバッドはあるかもしれないとしても、実質的にはバッドは存在しない。いや、存在するしないというよりも、プレイヤーがある終わり方を受け入れられるかどうかです。受け入れられたら、それはもはやバッドではないのです。別の可能性を描いた別のシナリオが存在するということ(プレイヤーに認識において)に過ぎない。
 この辺りは、フォークソング[リューノス]なんかが、ゲームというシステムを使った物語表現の理想形だと思うので、ぜひプレイをお薦めしたいんですが。いやその、元々は『美凪BAD』という言葉を使うことに抵抗があったので、つらつらとこんなことを書いてみたというだけなんですけどね。


 美凪とみちると往人の三人を見ていると、なんとなく舞と佐祐理さんと祐一の関係を思い出したりするんだけど、でも私はこっち(AIR)の方がずっと好き。舞佐祐理祐一の、お互いを大切に思う気持ちは私の心を打つけれども、AIRの美凪みちる往人の三人の方が、私は安心して見ていられる。自分を投影してみたくなるっていうか、あの世界に安住したくなる。

 Kanonの舞シナリオは、私に言わせれば自己犠牲の匂いが強すぎる観があった。ドラマCDなんかを聴いていると−あれは物語を1時間程度の長さでまとめている故に却って作品の構造が掴みやすくなっているのだが−舞と佐祐理さんと祐一が最後に笑って卒業式を迎えられたのは奇跡以外の何物でもないと思われてくる。いや、私がここで言いたいのは、実際に奇跡が起きたかどうかじゃなくて、平穏無事な結末を迎えたことが奇跡だと言いたくなる程に、彼らは切羽詰っていたということです。

 これに比べると、AIRの美凪シナリオはなんて平和なんだろうと思う。第一、このシナリオには『敵』が出てこない。彼らは、より純粋に、自分たちの作った小さな輪の中に安住することを許されている。自分の思いも力も、決して外に向かって用いられることがない。ただ、小さな輪の中で、好きな人のことを思って、好きな人のために力を使うことができる。ここでは社会性が見事なまでに排除されている。彼らは、ただ、好きな人のためだけの個人であることを許されている。私はこういう物語に魅かれずにいられない。

 …ああ、今日はダメだ。頭死んでるわ。


2000/12/6 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#6


 かのうぉのおまけCDに付属していた観鈴ランチャーに主要なアプリを登録。かつスタートアップにも登録。
 いつでも観鈴ちんと一緒、にははっ。


 AIR2周目をやる前にちょっとだけ。まとまらないので自動書記かつ断片になる予定。 −ネタバレ注意(核心)−

 昨日の日記が一行で終わっているのは、書かなかったんじゃなくて書けなかったからです。ノックアウト、というよりもむしろ全身木っ端微塵にされたという感じ。昨日はなんていうか、終わった後から気持ちが昂ぶって全然寝つけなくて。自分が今感じているものが寂しさなんだと気づくまでに三時間が必要でした。

 AIR編の観鈴と晴子。あんなものを見せられてしまった後では、もうどんな言葉もチンケに響いてしまう気がして、恐くて書けない。というよりもむしろ、書かないことこそが、AIRに対する最も誠実な態度なのではないかという気すらする。本当に、圧倒された。ありきたりな文句であろうとも、このことをまずは書いておかないと先に進めそうもない。

 AIR編は出だしからして既に驚きだった。あそこで寝ているのが実は往人ではなく一羽のカラスだったというのはどういうことだろう。AIR編は一応、カラス=往人の視点で描かれてはいるが、あのカラスは実のところ、ほとんどプレイヤーに物語を見せるための視点の代理としての役割を与えられているに過ぎない。カラスが物語に参加しているのは実質、中盤の記憶が戻る辺りまでで、その後は完全に傍観者になってしまう。もちろん、晴子が不在の間の観鈴の孤独を救ったのはカラス=往人であったかもしれないが、この一点を除けば、物語の中核であるAIR編では、本来の主人公であるはずの国崎往人は退場してしまっているのだ。これは、ギャルゲーとしては破格である。脚本化の麻枝氏は、以前のコンプティークのインタビューで『今まではギャルゲーの皮を被っていたものを作っていたのだがこれからは思いっきりやりたい』と豪語(注、悪い意味ではない)していたが、麻枝氏は、自分のやりたいことを表現するために、遂にはギャルゲーとしての最も基本的な形式、すなわちバーチャルリアリティー恋愛が成立するための前提たる、プレイヤーの分身としての役割を持つ主人公の存在すら放棄してしまった。一般的なギャルゲーの文法に従えば、観鈴を救う役割は当然主人公である国崎往人が担っていなければならなかったはずだ。観鈴の最期に傍にいるのは国崎往人でなければならなかったはずだ。しかし、麻枝氏の描こうとした物語において、プレイヤーの分身であったはずの国崎往人は退場してしまう。いや、あるいは国崎往人は、あの物語の中で役割を終えてしまったのだと言うほうが正確かもしれない。
 いずれにしても、麻枝氏は、観鈴を幸せにするための役割の最も重要な部分を、国崎往人ではなくて神尾晴子に与えた。観鈴に必要だったのは、友達でも恋人でもなくて、自分を無条件に愛してくれる母親だった。おそらく、観鈴は、友人関係や恋愛関係を育むにはあまりに未成熟だったのだ。愛されることより愛することの方が素晴らしいなんていう一般論はここでは糞食らえだ。観鈴にとって何より必要なのは、誰かから愛されることだった。誰かから愛されることを知ること、愛されることの気持ち良さを知ることだった。観鈴だけではない。多分、人間はそこからでなければ出発できないのだ。だから、観鈴に必要なのは、往人ではなくて晴子だった。本末転倒な表現であるのを承知の上で言うが、観鈴の幸せに対する麻枝氏の解答はまったく正しい。私は、麻枝氏がこういう解答を与えたことを、観鈴に晴子を与えたことを感謝せずにはいられない。観鈴が晴子のことを『おかあさん』と呼ぶ時、あるいは晴子の腕に抱かれている時の観鈴は本当に幸せなのだと信じられる。例え短い時間であったとしても、観鈴はあの時幸せだった。そう言っても良い…と思う。

 あと観鈴の強さのこと。私は、DREAM編の観鈴が強かったかどうかは今でもよくわからない。しかし、AIR編後半の観鈴は強かったと言いたい気がする。これは、私の主観として、また希望として。この違いは、多分、強さに裏付けがあるかどうかということなんだろうと思う。念のために言っておかなくてはならないが、ここで私が言う強さというのは、観鈴自身がとうこうというより、むしろ私が見ていて安心できるかどうか、という意味に限定してのものであることを了承されたい。
 要するにDREAM編の観鈴は、私を不安にした。あの頃の彼女は、しっかり掴まえていなければ消えてしまうのではないかと思うぐらいに儚く見えた。彼女は愛されることを知らない。それはつまり自分で自分を肯定できないことを意味する。あの頃、観鈴は他人を愛するために生きていたのではなく、他人に嫌われないために生きていた。だから私は不安になった。
 しかし、AIR編後半の観鈴は、なんと大きく違っていることだろう。ゴールに向かって必至に歩く観鈴は、今や自分が晴子に愛されていることを知っている。晴子に必要とされ、自分がここにいてもいいんだということを知っている。だから、残りわずかな命を振り絞って、彼女は歩く。ゴールに向かう彼女は、確信に満ちている。その姿は弱々しいのに、私はもはや掴まえていなければなんてことを全然考えない。あの時の観鈴にとって、晴子の腕の中は、自分が、まったく当たり前のこととして帰るべき場所だった。わずか十歩かそこらの短い距離であっても、観鈴は自分の力で歩き、自分が当然最後にいるべき場所である晴子の腕の中に帰っていく。最後は、どうか幸せな記憶を。観鈴は、最後の瞬間、母親の腕の中で確かに笑っていた…。

 あとあの。割と頭で考えて書いてます。
 本当のところ、観鈴がいないのが寂しいです。自分の中で完全に真実なのはこの一言だけ。

 これから2周目いきます。


2000/12/5 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#5


 AIR (key





 AIR編読了。








2000/12/4 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#4


 小休止。


 昨日は徹夜明け後、寝ようと思ったら友達の襲撃を受けてそのまま秋葉原へ逝ってました。
 以下、保護した物。

1)かのうぉ(コンプティーク12月号増刊)

 裏表紙(ウェディングドレスを着た真琴)は真琴好きなら1秒で萌え死確定じゃないかという気が。
 中身はまだ読んでません。

2)Kanon・公式原画/設定資料集(エンターブレイン)

 『没イベントの大半が舞と佐祐理のエッチシーン 』(P.210)ですと!?
 今からでも遅くはありません。修正パッチ希望。>key様

 ただ、真面目な話、コレクターズアイテムとしては面白いかもしれないけど、私としては原画とかはあまり興味を引かれなかったので、書下ろし表紙とボツイラスト等だけでこの値段だと考えるとコストパフォーマンスは悪いかも。あと、全年齢版の追加CGの原画が収録されていないのはなんでなんですかね?

3)CANVAS〜セピア色のモチーフ〜

 秋葉原では品薄状態。新品中古ともほぼ全滅。梯子しまくって『ぽち』で中古をなんとかキープ。

4)とらいあんぐるハート’S サウンドステージ(DISCOVERY)

 ずっと前、雪駄さん[S.MA.P]家の掲示板で情報を見て以来なんとなく気になっていたのだけど、何気に入ったメッセサンオーで発見、即キープ。まだ聴いてないです。都築氏書下ろしのミニドラマ、というのが気になる。

5)CD.ベートーヴェンとかバッハとか色々。8枚ぐらい。




 凶アリア(デアボリカ/Alicesoft)のこと。 −ネタバレ注意−

 凶になってしまってから感情が蘇るまでのアリアの解釈について、面白いものを思いついたのでメモ。個人的にはこの解釈が一番妥当だと思うのだけど。

 まず、私が以前考えていたのは、、、

 瀕死の重傷を負ってしまったアリアに動揺した(ほとんど錯乱に近いか?)アズライトは咄嗟に彼女を凶にしてしまう。記憶を失ったアズライトは自分の思い通りの凶を作れなかったため、偶発的にアリアは感情を喪失した凶になってしまった。その後、永い時を経た後にレティシアと邂逅した彼女は、レティシアの優しさに触れて感情を取り戻す。

 という何の捻りもないもの(捻れば良いってものでもないけど)だったのだが、これは読み方としては甘すぎたと今は思う。

 まず、アリアが感情を持たない凶になったのが偶然であるというのが既に違う。今の私の考えでは、アリアが感情を喪失したのはむしろ必然なのだ。そう考えたほうが、後の解釈をするのにもしっくり来る。作中の説明では、記憶を失ったアズライトは自分の思い通りの凶を作れないとされているのだし、その意味ではシンプルに凶アリアの感情喪失を偶然だと考えても無論良いのだが、私は敢えてそこに理由を持たせてみたいのだ。
 結論から言えば、あの感情を失ったアリアの姿は、アズライトの意志であるよりはむしろアリア自身の意志によるものだったのだ、と私は思う。周知の通り、アリアはあの時点で既にアズライトにアプローチを掛けて失敗している。しかも彼女の方からの夜這いという捨て身のアプローチが、である。あの日の夜、アリアはアズライトに多分残酷な形で振られてしまった。アズライトを助けた時のアリアが、まだ失恋の痛手を引きずっていたであろうことは留意しておかなくてはならない。それと、『レティシアでないと駄目なんだ… 』とまで言われてしまった後でも、アリアにしてみれば自分の初恋が破れたことを簡単には受け入れられなかったであろうことも。アリアがアズライトを追いかけてあの危険極まる屋敷まで来てしまったという事実が、既に彼女の未練を十分に物語っている。
 そしてアリアは、探している恋人のために自分を振った男が、人形に無防備に近づいていき切り刻まれる姿を見る。レティシアという恋人があるにも関わらず、自ら進んで死に向かう男の姿を見てしまう。アリアの胸の内はきっと、情けなさと悔しさで一杯だったに違いない。アリアにしてみれば、アズライトの、レティシアへの想いが本当に切実だったからこそ失恋の痛手を辛うじてであっても支えていられたのに、自分を振った男は目の前にある人形をレティシアと思い込み、単なる人形の前に簡単に命を投げ出してしまう。これはアリアにしてみれば裏切り以外の何物でもないし、また、おそらくそれ以上に、アズライトをいとも簡単に惑わしてしまう程の影響力を持ったレティシアに対して、アリアは激しい嫉妬を抱いたに違いないと思う。アズライトに対する情けなさとレティシアへの嫉妬と自分自身への悔しさ、それを自覚できるゆえの自己嫌悪。それでもアリアはアズライトの危機に身を投げ出してしまう。人形の刃(やいば)に切り刻まれた時、アリアはきっと『わたしって莫迦だ…』と自嘲したに違いないと思う。そして、自分の感情を整理できないアリアは、いっそ自分のこのどろどろした感情が消えてしまえば良いのに、と思う。
 こうしてアリアは、その強烈な想いゆえ、凶にされたことを引き金として自らの感情を閉ざすに至る…。

 アリアは、おそらく感情を喪失したのではない。なぜなら失ったものは再び蘇ることはないからだ。むしろ、アリアは感情を閉ざしてしまった、と見るほうが自然なのではないかと思う。また、そう考えたほうが感情が蘇った時の解釈もしっくり来る。
 さて、アリアはなぜ、レティシアと出逢うことで感情を取り戻したかだが、これはアリアがなぜ心を閉ざしてしまったかを考えてみればほとんど自明である。アリアの心を閉ざしていたのはレティシアへの嫉妬だった。主人に忠実なはずの凶アリアがレティシアを殺そうとした場面は、実に端的にそのことを示唆していなかっただろうか。あの時レティシアが抵抗したり、あるいは取り乱したりしていたら、あるいはアリアはレティシアを殺していたかもしれない。しかし、レティシアは落ち着き払って言う。『一緒になろう 』と。この瞬間に至って、アリアは、自分の好きだった男が愛していたのがどんな女性だったのかを悟る。そうして、アリアの嫉妬は氷解する。

 これ以上は書く必要はないだろう。ただ、この解釈でいくと、アリアは心を失ったのではなく閉ざしていた、あるいは感情を表現する術を失ってしまっていたということになるので、彼女は孤独の痛みを知りながら、何百年だかの間、どうしようもなくただ耐えるしかなかったのだということになってしまうのが、個人的には痛い。


2000/12/3 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#3


 『Farewell song』を聴くと身震いしてしまう。

 『風の辿り着く場所』も『Last Regret』も『鳥の歌』も特に良い曲だとは私は思わなくて、keyはボーカル曲はダメだと思っていたんだけど、『Farewell song』だけは素晴らしい。最近、頭の中ぐるぐるしっぱなし。


 カウンターの回転が不気味に速いのはなんでですか?
 ここ3日で300HIT平均出てるみたいなんだけど、アクセス解析を見ても特に変化はないみたいだし。


 朝。


 AIR (key) −ネタバレ−

 SUMMER編、読了。
 観鈴の夢の正体は分かった。主人公が受け継いだものに関しても分かった。が、呪いというのがどうもよく分からない。つまり、なんで神奈があのような夢を見続けなければならなくなったのかが、よく分からない。読み方が甘かっただろうか。
 あーなんか何かを書きたい気持ちになれないや。


 AIRってどっからどう見ても萌えるゲームじゃないですよね。でもそれは、キャラクターが魅力的じゃないからではなくて、逆に魅力的すぎるからなんです。観鈴も佳乃も美凪も神奈も裏葉も、他のサブキャラにしても、彼女たちには“記号”が感じられない。いや元々私はキャラクターに記号を見るタイプとは対極の立場にあるんで余計にそう思うんでしょうけど。以前にも書いたけど、萌えって言葉は人間に対して使うとしっくり来ないんですよね。多分、AIRのキャラクターに萌えない(佳乃だけははちょっとアザトイ気もするけど)っていうのもそういうことなんだろうなと。AIRワールドの中にはキャラクターはいないんです。ただ人間がいるだけ。私とは別の時間別の空間の中で一生懸命生きた人間がいる。あるいは『いた』と言う方がしっくり来るかもしれない。

 以下、素人考えなんで浅はかかもしれないですけど。歴史っていうのは人間それ自体を題材にするのではなくて、人間が社会の中にどう関わったかを調べる学問で。それに対して、物語っていうのは、人間がただそこにあった、ということを記述するものだと思うのです。もっと簡単に言えば、公人としての人間を記述するのが歴史で、私人としての人間を記述するのが物語だと言えるのではないか、ということなんですけど。例えば、歴史はナポレオンがいつどういう戦いをやってとかいうことは書き記すけれども、ナポレオンが笑ったとか泣いたとか、彼の悩みとか彼が恋をしたとかは書き記さない。それは歴史の領分ではなくて物語の領分です。
 歴史と物語との間に優劣をつけようとは更々思わないのですけれども、ただ、私は社会がどう動いたかよりも、誰かがある瞬間に笑ったとか、ある瞬間に泣いたとかということの方に心を動かされる、ということは言っておかなくてはなりません。例えば、1000年前にどこかで誰かが笑ったということ。それは社会の流れになんの影響も与えないちっぽけなことだったかもしれない。その笑顔は、せいぜい本人の他にはその友人とか恋人とか家族とか、わずか数人にとってだけしか意味のなかったちっぽけなものだったかもしれない。どこにでもある、なんら珍しくもないものだったかもしれない。けれどそれでも。その笑顔が確かにそこにあったということ、その笑顔を見て誰かが一緒に笑ったということ。そこに人間がいたということ。誰も憶えていなくても、そこに誰かがいて、彼(彼女)が生き、笑い、泣き、恋をしたということ。これは、少なくとも私にとっては、社会の流れよりもはるかに重要なことだと思われるのです。
 いや、ていうかさ。神奈が、裏葉が、1000年前(※)に生きていて、そこで笑ったり泣いたり、大切な何かを守るために一生懸命に生きていたりとか想像するのって素敵じゃないですか。私そういうの弱いです。なんかわくわくしてしまう。誰も憶えていなくたって、彼女の笑顔は確かにそこにあったんです。
 AIRは単なる物語に過ぎないのかもしれません。けれど、AIRをプレイしていると、この物語の向こうに、膨大な数の忘れられた笑顔が見えるような気がするのです。SUMMER編のラストで、柳也と裏葉が空を見上げるシーンがありますよね。あの時、彼らは、空にいる神奈を見ていると同時に、いつか神奈が救われるであろう未来をも見ていたはずです。こういう言い方をしても良いかどうかわかりませんけれども、1000年前の柳也と裏葉の視線は、空を通して、私のところまで届いていたように思われてならないのです。もっと分かり易く言えば、あのラストシーンを見ていると、私は柳と裏葉のふたりに見つめられているような気持ちになるのです。彼らは、忘れられてしまった笑顔を代表しているのだ、と言ってはいけないでしょうか。

(※)
 『1000thSUMMER』ってフレーズから1000年前かなって思っただけで、実際にあれが何年前だったのかは私は知りません、念のため。

 最初に書こうとしてたことと大きくずれてしまった。けど、まぁいいや。
 んで、AIRの女の子のことなんだけど。私の、彼女たちに対する感情っていうのは、『萌え』でも『好き』でも『惚れ』でも『愛してる』でもない。強いて言えば『傍にいて欲しい』『彼女が傍にいてくれたら幸せだろうな』というのが一番近い。実のところ、萌えとか言える隙が、この物語にはないとかいうのもある。ちょうど、デアボリカのレティシアがあんなに可愛いのにも関わらず、レティシアの瞳にはアズライトし映っていないというのが私には嫌というほど分かってしまって、アズライトとレティシアの間には何物も入り込む余地がないと思わされてしまって、萌えという言葉を使えなくなってしまう(使うことを許されないというか)というのと似ている。


2000/12/2 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#2


 しばらくAIRに専念させてください。ごめん。


 AIRの佳乃シナリオに出てくる姉妹丼、あれってCG1枚しか出ない上テキストもこれからってところで終わっちゃうんですが、これってもしかしてバグですか? あと、みちるにえっちシーンがないのとか。特に後者は残念すぎるので早急に修正パッチを作ることを要請します。>key様


 美凪シナリオのこと追記。 −AIRネタバレ−

 別れが寂しくなかったら、出逢った意味なんかないだろ

 この台詞を読んだ時は本当に吃驚した。シビレタっていうか。こんな当たり前のことを何で今まで誰も言わなかったんだろうという感じ。以下電波らしいもの。

 この世界の中に変わらないものなんてない。永遠なんてないんだと割り切ったほうが、賢いのかもしれない。けど、私はやっぱり永遠を求めてしまう。魂が震えるような体験をした時、このまま時間が止まってしまえばいいのにと思う。幸せな時、この時間がずっと続けばいいのにと思う。私は莫迦なのかもしれない。しかし、永遠を求める自分を、私は嫌いじゃない。

 ある瞬間に、時間が止まっちゃえばいいのにと思えるということ、そういう瞬間を所有できるということはとっても幸せなことではないだろうか。夢はいつか終わる。季節は常に移ろいゆく。時間は待ってはくれない。それはもう私たちにとって絶対避けられない宿命みたいなものだ。けど、それが絶対に避けられないのだったら、尚更、自分の全存在を掛けてなにかを愛しいと感じるような瞬間は貴重なんじゃないだろうか。夢はいつか終わる。だったら尚更、全力で対象を愛しきらなくちゃいけない。その瞬間にすべてを捧げなくちゃいけない。そうしたら、その後に来るであろう別れの痛み、寂しさは、むしろ名誉だ。

 夢はいつか終わる。けど、終わっても、夢は消滅してしまったりする訳じゃない。いや、夢がというよりも、夢の中で起こったすべてのことが、だ。あらゆる時間は二度と繰り返されることはない。しかし、この幸せな時間がずっと続けばいいのにと願ったその想いは残る。ある瞬間を愛しいと思ったこと、ある瞬間に永遠を求めたこと、わたしのこころがそう感じたという事実、永遠を求めるわたしのこころがある瞬間に存在したということ、これはもう絶対に打ち消しようがない。もし誰も憶えていなくても、それは確かに“そこにあった”のだ。

 えいえんはあるよ

 今、自分の言葉ではっきりとそう言える。


 観鈴のこと、追記。
 あのね、子供の頃とか、独りで遊んでいて、その時は完全に自分の世界に入って充足してるんだけど、ふと、他の同い年ぐらいの子供たち(複数形)が楽しそうに遊んでいるのを見てしまって、途端に現実に引き戻されて、自分の世界が妙に味気なく思えてしまって絶望的に寂しくなる、っていう経験したことないですか? 観鈴の子供時代ってそういう感じだったんだろうなって容易に想像できてしまうんですよ。なんか居た堪れないっていうのはそういうことなんです。


2000/12/1 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2000-12.htm#1


 昨日はずっと美凪とみちるが傍にいてくれたので、幸せだった。会社にいる間中ずっと、自然に笑っていられた。いつものように無理しなくても、笑顔でいられた。笑っても憂鬱にならずにすんだ。


 AIR (key

 観鈴シナリオ読了、、、らしい。
 色々と意味不明なので保留。
 疑問だけ。

 観鈴を救うとは、彼女をどうすることなのだ?
 観鈴にとって、救われるというのはどういう状態になることを指すのだ?

 これからSUMMER編やります。

 …の前にちょっとだけ叫んでおこう。観鈴ちんは強くて優しい娘? そんなこと知るか。観鈴はただ俺の腕の中で笑っていればそれでいいんだ。

 ていうかさ、観鈴のあれって本当に強さなのか。私はなんか釈然としないんだが。強さってなんなんだろう。最近、私は、人間っていうのは一様に弱い生き物なんじゃないだろうかとかいうことを考えている。強い人なんているのだろうか。単に、ある瞬間に誰かが強く見えることがあるってだけのことなんじゃないだろうか。
 観鈴の強さは強さではなくて、ただそうでなければならなかった振る舞いの結果にすぎないんじゃないかという気が、私はする。普通、いじめられっこは人並み以上に耐性が強い。これは今まで人間の中で生きてきて観察してきた中で私が知り得たことのひとつだ。いじめられっこなら普通に耐えられるような事態に、いじめっこ側の人間がいとも容易く屈することがある。でもそれは彼らが強いからじゃない。そういう耐性を身につけなければ生きていけないかったからだ。結果として、彼らは耐性を持つようになった。もしかすると、ハンディキャップを別の何かで埋め合わせなくてはならなかった。
 観鈴もそれと同じなのではないか、という気がする。観鈴は強いんじゃなくて、強く見えるのだ。孤独な子供が、自分の孤独にも関わらずやっぱり楽しそうに遊んでいるのを見たことがないですか? って誰に言ってますか俺は。私はそういうの見たことがある。子供っていうのは、独りでも孤独を感じずに充実して遊ぶ才能を持っている。それは自分の子供時代を思い出してみれば分かる。何かに没頭できるのはひとつの才能だ。その意味で、時に子供は大人より賢い。しかし、子供が独りで充足していようとも、彼あるいは彼女が、楽しそうなのにも関わらず悲しみをまとっているように思われることがある。本人の思惑は別として、見ている方は居た堪れない気持ちになる。観鈴を見ていると、私は同じ気持ちにさせられる。観鈴を見ていると、突然抱きしめたくなる。そしてそのまま時間が止まってしまえばいいのにと思う。なによりも観鈴のために、そう思う。観鈴は、多分子供の頃から友達がいなくて一人で遊ぶような子供だったのだろうな、と思う。しかし彼女はいつまでも子供ではいられない。子供だったら孤独を忘れて目前の遊びに没頭できるのだが、彼女はすでに色々なことを考える年齢に達している。彼女は、独りで遊ぶことに慣れてはいる。しかし、おそらく子供時代ほど無邪気には遊べないのではないか。観鈴の笑顔は儚すぎる。観鈴の笑顔は私を不安にする。彼女は、笑顔でいることで自分を保っているんじゃないのか。
 あのな観鈴、泣きたい時には泣いたっていいんだ。お前が泣き止むまで、何時間でも何日でも何年でも、永遠にでもいい、俺が傍にいてやる。お前は人に迷惑を掛けることを覚えなくちゃいけない。お前はここにいていいんだ。いや、いなくちゃいけないんだ。お前が笑うと俺は嬉しいからさ。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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