棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

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2002/2/28 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#28


 アルルの女のメヌエットを聴きながら。


 今週に入って最初の三日は平和だった。
 何も書くことがないぐらい。
 ずっとリルケ書簡集を読んでいた。

 今日、会社でちょっと嫌なことがあって頭が落ち着かない。
 頭の中で騒音がずっと鳴り響いているような感じ。

 会社から帰って、すぐに寝て頭をすっきりさせてから読書に専念しようと思った。
 が、眠くならない。

 仕方がないので書簡集を取り出して続きを読み出した。
 一時間半でやっと20ページ。
 頭の中がうるさくて内容が入ってこない。
 数行読む毎に、頭に騒音が鳴り響く。
 気が付くと目だけが機械的に文字を追っていて、頭の中は会社のことでいっぱいになっている。

 すげえ嫌だ。

 明日は期待のゲームの発売日だが、買いにはいかないつもり。
 こんな精神状態でゲームはできないし、また、したくない。

 月陽炎の世界に現実の憂慮なんか1mgだって持ち込みたくない。
 俺の大切な世界を穢させるものか。


 2ちゃんねるのクラ板のどこだったかで、同級生の女の子がこの曲を弾いているのをたまたま目にして一目惚れした(中学生時代だったか)、なんて投稿があったけど、なんとなくその気持ちは分かる。この曲には、まだ夢の世界に生きていて現実の刺々しさを一切知らない穢れなさとでも呼びたい雰囲気がある。例えばこの音楽をそのまま形にしたような少女がいたとして。その少女の肌はきっとほんの微かな刺激にも耐えられずに傷ついてしまうような繊細さを持っているに違いない。音楽が決して手の届かない場所にあるというのはひとつの悲しみでありえるが、この曲に限って言えば、届かないことはあるいは救いであるかもしれない。その少女の肌に私のようなものが触れることは許されないのだから。私の手は決して届かないが、そのおかげで少女の美しい肌を傷つけずにすむ。


 ベートーヴェン作品111のアリエッタを聴きながら寝ます。


2002/2/24 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#24


 ここ2〜3週間、サイトを開設当初のスタイルに戻すことをずっと念頭に置いて日記を書いてました。

 元々私は掲示板からネット世界に入った人間で、個人サイトを開設したのは、自分の本当に書きたいものは掲示板という場にそぐわないのではないかという判断からでした。掲示板はやっぱりまず第一にコミュニケーションスペースだと思うので、そこでコミュニケーションを指向しないような長文を書くのは不味いだろう、と。もっともこういうことは私はリーフオフィシャルで長文投稿をしまくった後で気づいたのですが。逆に言えば気づくためにそういう経験が必要だったとも言える訳で、だから私は掲示板で長文を書く初心者を見ても特に注意しようとかは思いません。自分が通ってきた道なのでっていうのもあるし、私も初心者時代には先達にそれなりに叩かれているので、尚更、初心者を叩くことはしたくない。

 なんか脱線してますが、とにかく。サイト開設当初のような、誰の反応をも望まずに自己完結して満足していられるようなスタイルにもう一度戻らなくてはとずっと思っていたのです。しのぶOSにはコミュニケーション用メモリーがほんの僅かしか与えられていないので、無理をするとあっという間に過負荷でフリーズを起こします。それは絶対に避けないといけない。

 で、ここまで書いてきて、なんとか元に戻ったと思えるところまで来ました。
 あとはこのまったりペースがどこまで続くかだけ。メモリー不足に陥らないように用心しなくてはいけない。


 Sacrifice -制服狩り- [RateBlack]

 陵辱系ということにはなっているけど、蓋を開けてみるとあまり酷いという印象はない。これはおそらく主人公の性格によるところが大きい。この主人公は理事長という立場にいるのだけど、女子学生を奴隷にすることになんらの罪悪感も後ろめたさも抱いていない。が、それでいて反吐がでるような悪党という訳でもない。むろん悪人であるには違いないのだが、テキストがそれを感じさせない。強いて例えればランス(AliceSoft)みたいなイメージ。この主人公が動く動機は必ずしも性欲ではない。かといって遊びかというとそれも違う。彼にとって陵辱&奴隷化は必ずしも第一目的ではない、という辺りがこのゲームの面白いところだ。この主人公は徹底的に権力志向の人間として描かれる。彼にとって女子生徒は学園を経営するための道具に過ぎない。良い手駒がいれば学園の知名度を更に高めることが出来る、そのために彼は女子生徒を集める。例えば単純化すればこんな感じだ。 1)アイドル志望の(有望な)少女を学園に編入させる。 2)学園の財力とコネクションを使って少女の目標をバックアップする。 3)その見返りとして少女の体を求める。 ヒロイン数は25人と多いが、多かれ少なかれ物語はこんな感じで進行していく。この主人公を、女子生徒を奴隷にすることに喜びを覚える変態と定義して片づけるのはあまりに粗雑に過ぎる。彼にとって少女の体を奪うことはあくまで取引なのである。少女に教育環境を提供するかわりに見返りを求めるというような。彼にとって女子生徒は、まず第一に学園経営を有利に進めるための手駒であり、少女たちに対してもそういう立場を隠さない。権力への強い指向という点でこの主人公はひとつの個性を確立している。この主人公のやっていることは明らかに鬼畜の所行だが、とにかく彼の一貫した立場は非常に分かりやすく、その明瞭さはゲームをやる上である種の心地よさとして働く。

 えっちシーン。これも面白い。
 実のところ、えっちシーンに至る過程ははっきり言って粗雑もいいところで、ページ数制限故に強引にエッチシーンに持っていかざるを得ないエロ漫画とほとんど同じレベルなのだが、主人公の性格の分かりやすさとテキストの莫迦チックなノリのせいで、陵辱の陰鬱さみたいなものはほとんどない。なにしろ理事長室の隣の部屋はベッドルームなのである(笑)。面接が終わったら即、騙して隣室にいって強引にえっちなんてことも珍しくない。しかも、初めてなのにしっかり感じてしまうヒロインたち。そして最初は嫌がっていた少女たちも段々と回数を重ねる毎に主人公に忠実になっていく。陵辱といっても例えば悪夢[Mebius]なんかは本当にただ陵辱するだけという感じだが、このゲームでは少女たちは従順な奴隷になっていく。この辺り、陵辱というよりも調教に近い。調教系のゲームには、少女のえっちスキルを上げることに主眼を置いたものと少女の心を支配することに力点を置いたものとの二種類があるのは今更いうまでもないと思われるが、このゲームの調教は後者である。回数を重ねるに連れて、少女たちはあたかも崇拝する対象ででもあるかのように、主人公に接するようになる。この辺りの描写は非常に私好み。ひとつだけ不満を述べるとすれば、ヒロインたちの学園外での(それぞれの分野での)活躍の様子をもっと描写して欲しかった。例えば、栗野たんが音楽コンクールのフルート部門で優勝する場面とか。そういう描写があればその後の調教シーンがいよいよ引き立つのに。まあその辺りは私は想像力で補完しましたがね当然。普段フルートを吹くこの口が…(*´Д`)ハァハァてな具合に。でもそれぞれの少女の活躍の場面があったらなあとはやっぱり思う。で、その後、理事長室で「ご褒美」と。

 …ままー。あの人なんかぶつぶつ言ってるよ。
 しっ。目を合わせちゃいけません! ほら、さっさと歩いて!
 

 総評。
 CG枚数の少なさ(バリエーション抜きで各キャラ4枚程度)、エロテキスト(喘ぎ声)のワンパターンさ、各声優の個性が必ずしも十分には生かされていないこと、ゲーム性が皆無であること、等欠点も少なくないゲームだけど、抜きゲーとして評価するなら「尽くして3」「はじるす」に匹敵するレベルです。世間の評価はともあれ、個人的には満足の一本。端的に言って、優越感を味わいたい駄目人間向けかも。ていうかそういう性癖の人以外にはただのクソゲーかもしれません。

 あと最後に、フルート少女(*´Д`)ハァハァとか科学オタ少女(*´Д`)ハァハァとか。


2002/2/23 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#23


 月陽炎のサントラを聴きながら。

 「千秋恋歌」がちゃんと姉たまの声なのがすごく良い。
 えてしてキャラの声と歌う時の声は違うことが多いのに。ようこそようこ然りシスプリ然り。


 仕事中、左手中指をドアにぶつけてからなんか微妙に痛む。
 普段はなんともないのだけど、タイピングで中指使うとちとキツイ。


 お兄ちゃまのどんどん大きくなってもう花穂のお口に入らないよう。
 …っていうさる同人誌の台詞は今にして思えばキャラコレのあの文章に基づいていたのかもしれない。
 なんか唐突に思い出したのだけど。


 今月もあと一週間を残すのみ。

 現在のところ、ベートーヴェンの初期〜中期のソナタの方の聴き込みはまあ順調。
 よくよく聴いてみると、op2-2、op10-2、op22、op26、、、辺りはかなり面白い。今まで何を聴いていたんだろうと思ってしまうぐらい。op22の第三楽章とかop26の変奏曲なんかもう萌え萌え。
 逆に、op2-3、op10-3、op27-1、op31-1、、、辺りの曲はもうお手上げ。どこがいいのか全然分からなくてこれ以上聴く気になれない。

 一方の読書。
 リルケ書簡集はあと一週間で終わるかどうか微妙。

 書簡という性質上、第三者が読んでも意味がよく分からない場所というのはどうしてもあって、そういう部分が続くとどうしても眠くなってしまう。
 あともうひとつ遅れる理由は、時々寄り道をするせい。例えばルー・ザロメの名前が出てきた時点で中断してニーチェ書簡集を引っ張り出してきたりとか、ブゾーニの名前を見つけた時点で中断してバッハを聴いたりとか、また別の場所ではマルテの手記を参照したりとか、小品(若い労働者の手紙等)を読んでみたりとか。

 何にせよあと一週間、心置きなく千秋恋歌で(*´Д`)ハァハァするためにも頑張って終わらせねば。
 「みんな仲良くご懐妊END」が俺を待っている〜。

#そのようなシナリオはありません


 君が望む永遠 アンソロジーコミック [宙出版]

 当たり外れの激しいこの手のアンソロ本にしては収録漫画の平均値は割と高めかも。
 皐月みかず氏の「あの丘の木の下で」がむっちゃ笑える。


 殺伐オフ。

 笑わせて頂きました。
 俺もその異様な空間(推測)に居合わせたかったなあ。

 小心者のしのぶは未だに吉野屋でオプション注文をしたことがありません。
 私はネギが好きではないので、いつかは「並、ネギ抜きで」とか言ってみたいのですが。


2002/2/22 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#22


 そうだ〜おまえのせいだ〜。

 なんて台詞をさらっと言えてしまう透って奴はただ者じゃないよなあなんてことをふと思う。
 私が仮にまひるにあの時と同じ質問をされたらなんて答えるだろう。きっと何も答えられはすまい。変わったのがクラスメイトの方であれなんであれ、とにかく美奈萌が攻撃(排斥)される原因がまひるにあることは間違いないかろうが、かといって「おまえが原因だ」とは普通はなかなか言えないだろう。まひるは何も悪くないのだが、それだからこそ尚更、私はまひるを前にして沈黙せざるをえない。あるいはまひるのせいだということを語った上で、百の言葉を使ってまひるは悪くないということを延々語るか。いずれにしても透ほど上手くはいかない。

 透だったら、おどけた口調で「そうだ〜おまえのせいだ〜」と言うだけで、すべて通じてしまう。ここには微塵の残酷さもない。透はまひるのことを知っている。彼女が、その単純さゆえに、言葉に込められた想いを恐ろしく敏感に察知できることを知っている。だから、ただ事実を、あるいは思ったことを口にすれば良い。

 あるいはこんな言い方もできる。
 最上の配慮とは気遣いを相手に悟らせないことだ。この点で透の取った手法は恐ろしく冴えている。気を遣って話すことももちろんできたろう。しかしまひるはこちらの気遣いをすぐに察してしまう。透とまひるは、気遣う側と気遣われる側に分かれてしまう。透はあくまでも、まひると対等の友人なのだ。彼はそのポジションを、素晴らしく巧みなやり方で守る。一体、おどけた態度を示す人間が、その内面までも不真面目であるなどとどうして言えるだろう。香澄ですら、もしかするとあの場面で適切な返答をできずに場を重くしてしまったかもしれない。しかし透は、細心の注意を持って、自分とまひるとの間にある空気を守る。あのような態度を示すことで、透はこれから起こるはずだった沈黙をいとも軽やかに飛び越えてみせる。


 あの場面は美奈萌シナリオを終幕へと進ませるひとつの曲がり角だったわけだが、それにしてもこの終幕の筆致の見事なこと。まひるは透との短い会話の中で、自分の居場所がこの学校にはもはやないことを知る。あの屋上の場面以降、物語からは「重さ」が消える。まひると学校との間に接点がなくなったからだ。もはや、まひるに対してクラスメイト達はなんの影響も持ち得ない。もはや、まひるはクラスメイトや先生からの圧迫を受けることはなくなった。それだからこそ、美奈萌シナリオの終幕はあれほどまでに軽やかなのだ。透との会話、放送室での香澄とのやり取り、そこにはかつてのような不安や憂いは微塵もない。まひるの周囲からは一切の騒音が消え去っている。放送室での香澄とまひる、それと外の喧噪との対照の妙。

 そして、このシナリオのもうひとりの主役、夕凪美奈萌。彼女は最後にまひるを見る時、ようやく、まひるという女の子がどんなにかけがえのない存在だったかに気づく。その瞬間、美奈萌の周囲からもまた、一切の雑音が消え去る(美奈萌が気づいた後、終幕までクラスの喧噪等の描写が一切ないことに注意すべし、ついでに言えば私はあの終幕に“音”を一切感じない)。

 この物語はひとつの事件から始まる。その事件を発端としてまひるの日常は変わってしまう。まひるの周囲を恐ろしい騒音が取り囲む。その騒音はまひるの言葉になど一切耳を貸さず、まひるをただただ圧迫する。が、物語が終幕に達した時、事態は一変する。もう誰も、まひるも香澄も美奈萌も周囲の騒音に悩まされない。もはや、彼女たちの耳には自分たちを煩わす喧噪は届かない。まひるの笑顔を忘れなかった三人だけが、周囲の騒音と無縁に、静かな空間の中で満ち足りている。

 あの最後のシーンの綺麗なこと。あの幸せそのものな場面で、美奈萌とまひるが手を絡めているのは偶然ではなかろう。私は、手を絡めるという行為にすごく、なんというか、色気を感じる。手を繋ぐという行為が仲の良さの象徴だとすれば、手を絡めるという行為はそれよりも更に深い絆、結びつきを感じさせる。例えば「君が望む永遠」の遙と孝之のあの場面。私は二度目にあの場面に立ち入った時、遙以外のキャラを狙っていたにも関わらず、遙に逆らえなかった。あのおまじないは、実は遙の独占欲の強さや思い込みの強さといったものを暗示していたのかもしれないが、それはともかく、私がここで強調しておきたいのは、手を絡めるという行為が、すごく深い、強い想いを象徴しているように思われることだ。あの、美奈萌とまひるの絡められた手は、彼女たちの結びつき、彼女たちの幸福をこの上なく雄弁に語っている。更に言えば、あの一枚絵の美奈萌は、夕凪美奈萌自身であると同時に実はまひるの笑顔を知る者の代表なのではないか、と私は思う。まひるの笑顔を知る者とは、香澄や透やひなたであり、また更に広い意味ではゲームを遊んでいる私たちプレイヤーも含まれる。それが正しいかどうかは私にとって大した問題ではない。私はただ、あの美奈萌シナリオEND.こそが、ねがぽじという作品の最も美しい終わり方だと信じたいのだ。


 脳内参考文献はヤコブセンの「フェンス婦人」。
 数日前にこれを読まなかったらこんなことはたぶん考えつかなかった。


2002/2/21 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#21


 生まれて初めて、落花生の殻の剥き方を知りました(笑)。
 (今までは指でつぶしてた)


 唐突だが。

 組織のトップとしてのレッド総帥は明らかに間違っている。
 しかし私人としてのレッド総帥はぜってぇ正しい。

 どんな願いでも叶うとした時、誰が実現可能なこと(可能性があること)を願うものか。

 …。
 例えばこういうこと。

 あなたは自分の頭で考え、必要と判断し、努力をしてそれらの習慣を獲得したのですか?
 違うでしょう?
 それなのに私には努力を要求しますか?
 その、自分の習慣を絶対と信じられる根拠はなんですか?
 どうしてそこまで自分を信じられますか?

 私が常々疑問に感じていて口にだせなかったことにひとつに「会話って楽しいものなんですか?」っていうのがあって。
 どうもね、多くの人にとって会話というものは楽しいものらしいんですが、私にはそんな感覚は分かりません。
 私はコミュニケーションのためのコミュニケーションには全然魅力を感じていません。

 こういうことを考えさせられるような状況に直面した時、自分はやっぱり“普通じゃない”なんて思ったりするんですが。
 「普通」には基準なんてないです。ただ、そう感じるかどうかだけ。

 俺の人生における最大の願いは「普通でありたい」ということです。
 子供の頃からこのことはずっと思ってた。

 で、神龍さま。
 次の人生は高町家の子供として生まれますように。

 ***

 こんなことを書いてますが別に鬱ではないので念のため。
 鬱でないから真面目(真剣)でないなんて言わせませんが。


2002/2/20 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#20


 みりすのトップ絵が更新。

 祝、千秋恋歌マスターアップ。
 これでちゃんと発売日に(*´Д`)ハァハァプレイできそうですな。

 それにしてもあの絵は良い。
 美月もいいがそれよりなにより、双葉たんの右手はどこにあるんだろうとか考えるとハァハァハァハァハァハァ。


 KANON アニメ 5話、6話

 少なくともお兄ちゃんは期待しててくれそうなので調子に乗ってダイジェスト。

 今週も萌え絵三昧。
 名雪とか名雪とか真琴とかあゆとかあゆとか佐祐理さんとか。

 …が。
 今週の真の主役は誰が何と言おうと秋子さんなのでありまして。

 いかなる萌え絵が束になってかかろうともッ!! この秋子さんの前では塵芥も同然ッ!! あらゆる言葉は無意味ッ!!
 (*´Д`)ハァハァ...


2002/2/19 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#19


 とあるツールを使ってシスプリのCGをPC上で見ているのですが、じっくり見ていると色々と発見が。

 亞里亞のお姫様抱っこCGは恐ろしく絵になるなあとか。
 このCGの一番のポイントは、亞里亞の左手です。絵として見るとあの左手は不自然なほどに小さいんだけど、却ってそれが亞里亞の華奢な印象を高めてます。亞里亞の“小さいおてて”が主人公の襟を”きゅっ”と掴んでいる、感じ。つまりあの左手には亞里亞の頼りなさと兄やへの信頼が籠もっているのでありごめんなんでもない。

 表情的な手というと、他にすぐ思いつくのはONEの茜シナリオのキスシーン。
 あの時の茜の右手は超重要。
 それから、「きみえそ」の遙と孝之のあれ。

 手で色気のようなものを表現する手法はすごく好きです。


 WingsXmas -遠い空のクリスマス・イブ-

 一番驚いたのは、とらハSSシリーズなのに痛くない、ということだったり。
 今までのような聴くに耐えない恥ずかしさ(わざとらしさ)は息を潜めてて、ここでは本当に普通に、良質のドラマが展開されてます。今までと違ってはっきりした物語として全編がまとめられていて、聴いていて非常に心地よい。

 主演は、セルフィー、フィリス、リスティー、フィアッセ、知佳。
 作中での彼ら曰く、羽持ち全員集合(笑)。


 はにーすぃーとティータイム [山野りんりん/まんがくらぶオリジナル4月号]

 家族旅行を楽しむすぃーと館の一家ももちろん良いのだけどそれよりなにより言いたいのは、
 柿沼さんと瞬くん羨ましいー!!
 …ということだったりします。

 いやだってさ、好きな人からわがまま言われるのって最高の幸せじゃん。


2002/2/18 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#18


 歯医者で歯石取り。
 歯石は「取る」というよりも「削る」という方が正しいのだけど。

 痛い。
 水が凍みる。
 関係あるかどうか分からないけど(たぶんない)頭が重い。

 うぐぅ。


2002/2/17 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#17


 その反応を読む限りちゃんと見られたようで(笑)。
 良かったです。


 渋谷のタイトーステーションにて怒首領蜂の新作のロケテをやっているとの情報を掴んだので急遽上京。
 (WSAT教授、いつもありがとうございます)

 タイトル。「怒首領蜂・大往生」。ケイブ、開発状況70%.

 開店直後なのでスコアネームがデフォルト。
 上から順に「WTN」「NAI」「NAL」。←怒首領蜂の A、C、B 各タイプの全一プレイヤーのスコアネーム。

 コイン投入、自機選択。
 話には聞いていたけど、やはり機体は A-Type と B-Type の二種類のみ。
 強化は、ショット、レーザー、及び両強化の三種類。
 この辺り、アレンジバージョンからのアイデア流用か。

 以下、何回かプレイしてみての印象。

 初プレイ時、1面ボスでいきなりボムを使わされる。
 …なんか難しくねえ?

 2面ボス前で、謎アイテムをゲット。
 ボスで使用するとHIT数が怒濤の勢いで上がっていく。気が付けば1200HIT以上。

 3面道中で謎アイテムを使用。ハイパーモードに移行。
 アレンジバージョンと同じく、HIT数が怒濤の勢いで上昇。適当に撃ってるだけで350HITぐらいいく。

 5回ぐらいやって一番進んだ時で4面冒頭まで。1700万点ぐらい。

 画面が妙にごちゃごちゃした感じなのと、怒首領蜂ほどには弾幕が美しくないというのがあって、
 なんか「怒首領蜂」の続編というよりも「怒首領蜂II」の続編という印象。

 一応ケイブ製らしいが、怒首領蜂の池田&神山コンビの仕事なのかどうかは疑問。

 以上。


 買い物 in 秋葉原。

・Sacrifice -制服狩り- [RateBlack]
・WingsXmas -遠い空のクリスマス・イブ-(とらハSS_5) [Discovery]
・高冬由衣-アイタイアナタ- [Ivory]
・Janis&Ivory GameSongsCollection vol.1 [Ivory]
・お楽しみCD36 [ウエストサイド]
・WhiteChristmas (シスプリCG集/18禁) [StudioSakura]
・超人はだかゴッド (シスプリCG集/18禁) [第8観音丸]
・月光晶 上下巻 [岡野史佳/角川書店]
・Yonugキュン 3月号
・カラフルBee 3月号
・ベートーヴェン ピアノソナタ全集 [イーブ・ナット/EMI]


 では、わたくしは理事長としての大事な仕事があるのでこれで。
 ハァハァ。。。


2002/2/16 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#16


 ちゆ12歳[2/14]より。

 近所のスーパーで初めて「おさかな天国」を聞いた時は笑いを堪えきれなくて、怪しい人状態になってしまったものでしたが。

 あの電波ソングって全国区だったんですねえ。
 地元だと「ヒタチヤ」以外のスーパーでは聞いたことなかったのでローカルなのかと思ってましたわ。


 Sacrifice -制服狩り- [RateBlack]
 
しのぶ 女子校の理事長になってみたいと思わない?
友人A 言っておくけど、お前が想像してるようなことは絶対起こらないから(断言)。
しのぶ …まだ何も言ってないんだけど。

 Sacrifice の声優陣は確かに豪華ですよね。
 私はE-LOG3月号を読んで初めてこのゲームのことを知ったんですが、「日向裕羅」「鳥居花音」の名前を見た時点で半ば購入が決定しました。声優に疎い私でもさすがにとらハ関係の名前は知ってましたし。

 ついでに言えば、設定の方もよく読むと非常にしのぶ好みで、
 表向き善人で裏は悪人の主人公とか、攻略要素がないとか、着衣えっちとか、着衣えっちとか、着衣えっちとか、
 すげえ萌え&燃えだったり。

 ていうかどこにも売ってないのは俺に精神的苦痛を与えようという誰かの陰謀ですかゴルァ(病院逝き)。


 もう一個、みんくりさんの日記から。

 とらハに関するアンケート。
 といっても元ネタは分からないんですが、便乗して回答してみたい。

 Q:一番印象に残ったシーンはどこですか?

 A:耕介のバイトの最終日(みんくりさん)っていうのもかなり渋い選択だと思いますが、私がもし一個だけ挙げるとしたら。
 それは、知佳の告白でもなく、レンと晶の喧嘩でもなく、忍の告白でもなく、弱気な一面を見せる唯子でもなく、嫉妬深い瞳ちゃんでもなく。

 小鳥の「…あっ、ごめん、今のなし」を挙げます。

 あと、次点で恭也の「お前は俺の宝物なんだよ」辺りの一連のやり取り。とらハシリーズについては「優しい」とか「萌え(表現としての)」なんて言葉が散々使われて、もはや言葉がたいした意味を持たなくなってしまってる感があるのですが。まあとらハシリーズのキャラたちが優しいというのはそうなんですけど、その優しさの底にあるものは何かっていったら、それは何よりもまず「好きな人を大切にしたい」という想いではないかと思うわけです。とらハキャラが誰かを好きになる時、そこにはエゴというものはあまり見られない。一緒にいたいとか、好きな人の傍にいると幸せであるとかは、実は極めて個人的な事情です。そこでは気持ちいいのはあくまで“わたし”という主体です。でもとらハキャラは必ずしもそうではない。彼らには、ある種過剰なほどの、相手への気遣いやいたわりが見られるのです。例えば真一郎の心情を想像してみると、彼は小鳥と一緒にいられるから幸せなのではなくて、小鳥の傍に居させて貰えることに幸せを感じているように見えます。単に一緒にいることが心地よいというだけで終わったりはしないし、お互いを大切な存在だと確認してそれで終わったりもしない。とらハシリーズのキャラが他の作品のそれと違うと思えるのは、(こう言ってよければ)彼らの謙虚さです。真一郎が小鳥に告白する時、それは私には、ある許しを請うているように見える。あなたの傍にいてもいいですか? ぼくをあなたの一番にしてくれますか? と。これは唯子の時も知佳の時もそうなんですが、告白という儀式を経て恋仲になった時、彼らが抱いているのは喜びよりもむしろ感謝の気持ちだと思います。わたしを(ぼくを)あなたの一番にしてくれてありがとう、みたいな。彼らが優しいのはきっとそういう謙虚さを持っているからです。彼らは自分たちが“好きあっている”なんて認識はおそらく持っていないでしょう。ぼくは小鳥に好きでいてもらえている(真一郎)、わたしは真くんに好きでいてもらえている(小鳥)。彼らはきっとそんな風に自分たちのことを認識しています。だから、自分を好きになってくれた相手に感謝して、自分を好きになってくれた相手を、本当に大切に、大切に扱うのですね。


2002/2/15 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#15


 (○時○分)

 お前はこれから寝るんじゃなかったのかぁぁぁ。
 なのにどうしてこんなネタスレを読んでるんだぁぁぁ。
 いいのかそれでっ。
 よくないだろっ。

 (10分後)

 こんな面白いスレを読まずにいられるかぁぁぁぁ。
 自制など効かないぃぃぃぃぃ。

 (30分後)

 ふー。
 結局最後まで読んでしまったぁ。



 …という訳で(久しぶりに覗いてみた)葉鍵板の高槻スレが面白い。
 MOON.の嫌いな人はクリックしないでください、マジで。
 スレを読んだ結果不愉快になっても当方は一切関知致しません。

 ちなみに葉鍵板といえば、これも当然チェキしてます。当然、創立初期から。


2002/2/14 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#14


 月陽炎のことを考えつつぐるぐる。

 オフィシャル掲示板の投稿をざっと眺めたところでは、姉たまシナリオに関するこの見解にかなり同意。

 これは他のシナリオについても言えることなのだけど、月陽炎の欠点のひとつは、真という人物を巧く扱えなかった点にあったと思う。真というキャラは本当は選択の余地を持たないようなギリギリの人生を生きているはずで、その辺りをきっちり描写できれば物語にもかなりの深みがでたであろうに、作中での彼は遂に単なる悪役以上のものにはならなかった。真という人物はそもそも事件の発端を作ったキャラであり、また真は真なりに自分の信じるものに従って問題を解決しようとしていたはずだった。もし真の切実さがもっと表現されていて、真の言動に善悪を越えたところでの説得力が備わっていたら、月陽炎という作品はどんなに面白くなったろう。しかし残念ながら、作中での真はとうとう台風として以上の意味を与えられなかった。有馬家は真という台風(自然現象)に襲われたに過ぎない。本来なら真とは有馬神社が抱える負債であり、真の出現は有馬家内部に抱えていた問題の顕現として演出されねばならなかった。内部に抱えている以上、それはどうしても出て来ざるを得ないものであるはずだった。しかし作中で描かれた真なる人物は、その不十分な描写のゆえに恰も外部からの闖入者のような印象を与えてしまうことになる。真という外部から訪れた“嵐”によって有馬家は崩壊する。嵐という自然現象に、柚鈴も美月も鈴香も、ただ翻弄されるしかない。柚鈴や美月の決断は嵐の後に生きるためのものであって、嵐自体に対して彼女たちは無力だった。そして、鈴香に至っては一切の選択が許されない。彼女はなす術もなく一方的に全てを奪われる。有馬鈴香という個性は遂に独り立ち(いわゆるキャラ立ち)する機会を持たなかった。サブキャラだからと言われてしまえばそれまでなのかもしれない。しかし、それでも残念な気持ちは残る。私が姉たま(*´Д`)ハァハァであるという点を差し引いても、鈴香というキャラはもっと活躍する可能性があったのではないかとどうしても思ってしまう。もし、真が有馬神社が抱える必然として出てきたのであったら。リンク先の投稿者が述べているように、鈴香はひとつの選択をしなければならなかったはずだ。結果どうなるにしても、私はとにかく、鈴香が選んだ道を肯定できると思う。少なくとも選択の余地がないのよりはずっと良い。

 まあ仮定の話をしても詮無きことではあるのですが。
 差し当たり、姉たま(*´Д`)ハァハァな同志は、月陽炎スレッド・5th を読むことを強く推奨します。
 訳あってリンクはできませんけど。


2002/2/13 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#13


 早瀬さん。

 蜂クリアおめでとうございます。

 私が初めて1周クリアしたのはもう4年以上も前ですが、あの時の感動は未だに忘れてません。
 夜12時過ぎだっていうのに友達の家に電話を掛けて、舞い上がりながら報告したのも良い思い出です(笑)。

 早瀬さんもあんな感覚を味わっているのかなあなんて思いながら日記を読んでました。
 それと、微力ながらでもお役に立てたのでしたら、私としてもこれほど嬉しいことはありません。


 KANON アニメ 3話、4話

 今週はまこぴーの魅力炸裂でした。
 という訳で真琴セレクション(リンク先ネタバレ)。

 //////

 真琴最高ッ!! 真琴まんせー!! アニメKANONのヒロインは君に決定だ!!(笑)

 おまけ。
 秋子さん佐祐理さん


2002/2/12 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#12


 断片。
 落書きみたいなもの。

 2ちゃんねるの月陽炎スレッドを覗いてみる。
 2ちゃんねるでは柚鈴や美月よりも鈴香さんや双葉たんの方が人気があるらしい。

 姉たまが人気があるのがなんとなく嬉しくて、月陽炎・鈴香シナリオをやり直してみたり。

 月陽炎で一番面白いのは実は姉たまと美月の掛け合いなんじゃないかと思う今日この頃。
 「後で社務所へおいでなさい」とか(笑)。
 この台詞がちょっと早口になってる辺り、声優さんもよく分かってる。

 最近、甘やかされたい願望が急速に大きくなりつつある。
 たぶんそういう症状は以前からあったのだろうが、最近はそれが自覚せざるを得ないぐらい大きくなっている。

 そして。
 困ったことに、というべきだろうか。
 こんなことを書いていることからもおおよそ想像がつくと思われるが、私自身そのことに大して後ろめたさを感じていない。

 月陽炎は私にとって、間違いなくヒロインに感情移入して楽しむ作品だ。
 この作品で私が最も好きなのは、

 「分かってる? 私と一緒になるってことは…」「…幸せになれるということです」とか、
 「ずっと悠志郎さんに甘えてしまうかもしれませんよ?」「それこそ男冥利に尽きるというものです

 とかのやり取りである。(プレイした人にはどの場面だとかは説明の必要はあるまい)
 私はこれらの場面を、ヒロインに感情移入して追体験する。
 こんな台詞を言ってみたい、のではなく、こんな台詞を言われてみたい、のである。

 これと似たシチュエーションと言えば、KANONの舞シナリオなんかも思い出す。
 終盤の、舞と祐一のやり取り。
 「ずっと泣き続けるかもしれない」「泣きやむまでそばに居てやる」とか。

 KANONを初めてプレイした時は別段なんとも思わなかったのだが、
 その後しばらくしてKANONドラマCDでこの場面を聴いた時、私はひどく感動したものだった。
 ああそうか、舞シナリオっていうのは舞に感情移入するお話だったのか、とぼんやり考えた。

 作者の思惑としてどうだったかは分からない。

 しかしそれにしても、月陽炎は言うに及ばず、とらハシリーズでさえ、最近の私の感情移入の対象はもっぱらヒロインの方だ。
 以前だったら、普通に小鳥や唯子を可愛いと思っていただろう。
 いやもちろん、今でも小鳥も唯子も可愛い女の子と思っていることに間違いはない。

 しかし今は、私はむしろ、小鳥になって真一郎に告白されたいと願う。
 小鳥になって真一郎に抱かれたいと願う。優しく、壊れ物を扱うようにおずおずと、抱いて欲しいと思う。
 唯子になって、自分の臆病さまでひっくるめて真一郎に愛して貰いたいと願う。
 「私なんかと一緒にいて退屈じゃないですか?」「一緒にいると落ち着くよ」
 なんて、さくらになって真一郎に言われたいと思う。

 こういうことを考えている人は私以外にどのくらいいるのだろう。
 主人公とヒロインの双方に感情移入できるような、コンパーチブル(?)な味わい方ができるような作品が少しずつ増えてきているのだろうか。
 それとも一部の受け手が勝手にそういう読み方をしているだけなのだろうか。

 最近、継母調教をもう一回やってみたいなあなんて思っている。
 あれは今にして思えば、私のために作られたとしか思えないような作品だった。

 あの主人公に拒絶反応を示すのは普通の健全な男性としてまったく真っ当な反応だと思う。
 しかし私には、あの世界はどうしようもなく心地よい。

 景子さんは主人公を受け入れるか否かなどでは悩まない。
 景子さんは、自分の行動を不道徳だと感じざるを得ないゆえに罪の意識に苛まれる。
 主人公への肯定は前提になっており、ただそのための手段と折り合いがつけられないだけだ。

 あの世界には好きや嫌いという選択はない。
 あるのは無条件の肯定だけだった。

 書いてて思いついたが、そういえばフロレアールも全肯定の世界だった。
 あの世界の心地よさは、何よりもまず、メルンはジャンを嫌うことは決してないという点にある。
 それどころか、メルンはジャンの言うことなら何でも楽しそうに聴くし、ジャンと一緒にいれば何をしても楽しいといった姿勢を見せる。
 メルンがジャンを好きだと言う時、そこには何らの選択も判断もない。
 フロレアールで一番重要なのは、私にはこのことだと思われる。

 シスプリ。
 あれはゲーム版よりもアニメ版の方が断然面白い。
 アニメ版のシスプリワールドは、主人公にとって一種のサナトリウム(本来の意味とは少々ズレるが)だ。
 比較するのもナニだが、エヴァという作品が鞭でもって主人公に生きることを教えたのだとすれば、
 シスプリは飴でもって主人公に生きることを教えている。

 シスプリは例えば妹との禁断の愛などというものは一切描いていない。
 彼女たちが妹であるという設定は私には非常に興味深いものに思われる。
 あの空間が完璧なサナトリウムとして機能するために、兄妹という関係ほど適切なものはないような気がするのだ。

 まず初めに、兄を慕う妹というのが大原則として存在する。

 そうしたら後は、兄妹であるがゆえに一緒に住むことが正当化され、
 妹たちはお互いに仲が良くひとつの女の子コミュニティーを形成しており、
 しかも全員がお兄ちゃまを好きであるという設定ゆえにそのコミュニティーは必ずお兄ちゃまを中心として動くことになる。
 更に言えば、兄と妹という関係には発展性がない。好きの嫌いの、といったドラマはあの空間では起こりえない。
 そのことが、彼らの関係に一層の安定を与えている。
 あの空間は永遠に続く蜜月なのであるが、妹という設定なくしてこれ以上の楽園を作り得るだろうか。

 これらがどこまで計算されて作られているかは私には分からないが、
 いずれにしても、シスプリという作品は一部視聴者の“甘えたい願望”を恐ろしいほど的確に押さえてくる。





 激しく趣旨の不明な文章ですな。
 なんとなく電波の赴くままに書いただけなので、なにが言いたいということはないのですが。
 強いて言えば、いつものような自分語り。
 いつもとちがうのは、全然鬱じゃないってこと。

 というかなんで毎回々々シスプリ方向に話が進みますか俺。
 シスプリについて書く気は全然なかったのだけど。
 なんにせよ、私はアニメ版シスプリが大好きらしいです。
 観れば観るほど好きになっていくみたい。
 あれは私には、最上の18禁ゲームと同じくらい気持ちよい。


2002/2/11 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#11


 世界への敵意を私が持ち続ける限り、私の文章にはある限界が絶対につきまとうような気がする。
 世界への敵意が、私の文章にある限界を与えてしまっているような気がする。


 気が付けばタッチタイピングの練習を始めて三週間経過。

 この三週間で打った文章の総量は、メモ帳のプロパティで約130KB. どこだったかのサイトで、タッチタイプは2〜3週間でマスターできる、なんて書いてあるのを読んだ時は正直信じられなかったけど、やってみればなんとかなるものだ。

 尤も今でこそなんとか日記を書ける程度に打てるようにはなっているけど、最初の三日ぐらいは本当に大変だった。「こんにちは」と打つのに、まず「こんにちは」を頭の中で「KONNNITIHA」とローマ字変換して、更に「K→右手中指」「O→右手薬指」「N→右手人差し指」なんて考えながら打たなければならなかった。我ながらよく耐えたものだと思う。


 STG好きへの100質問なんてのをどこかで見かけたのだけど、考えてみると私は蜂以外のSTGはほとんどやっていないので回答できないのだった。

 ところで、○○への100質問が流行る現状を見ていると、みんななんだかんだ言って自分語りが好きなのねぇなんて思う。例えばシスプリについて何か言いたいと思っても、普通はまず、シスプリの何について語るかで躓く。文章を書くにはどうしても何らかの形で的を絞り込むことが必要なのだが、その「的の絞り込み」は慣れていないとなかなか難しい。そこでひとつのフォーマットとして「100質問」が意義を持つことになる。シスプリについて何かを語れと言われても難しいが、例えば「もっと人気があっても良いと思う妹は?」とか、「白雪について一言」とか言われれば、割と簡単に書くことができる。100質問が面白いのは、的を絞り込んでくれてかつ書く切っ掛けを与えてくれるというところにある。何の脈絡もなく、私は花穂が好きである、という趣旨の文章を書くのは躊躇われても、100質問という機会が与えられれば、語ることは容易に正当化されるのだ。


 蜂日記に反応。

 6面ボス到達時に残1ボム4残せれば、弾避けを一切せずにボスを倒せます。
 つまり、もうクリアできるレベルまで届いているということ。

 頑張ってくださいませ。

 あと補足1.
 5面後半は生き残りさえすれば350〜400HIT確定です。
 ザコがうじゃうじゃ出てきて厳しいけど、逆に間断なくザコが出てくるからコンボの切れる暇がないんですな。2周目突入条件を満たすのはこの方法が一番楽だと思います。

 補足2.
 モアのあの筐体(私が最後にプレイした去年の夏と変わってなければ)は最初は確かにちょっと戸惑いますね。目線がいつもと違うのは私も結構キツイです。ただ、あの堅めのレバーは慣れればやりやすいと思います。自機の微調整がしやすいので。


2002/2/10 (日)
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 昨日の午前3時に寝て、起きたのが午後3時過ぎ。
 12時間ぐらい寝てたことに。

 ここのところずっと毎日6時間平均ぐらいしか寝てなかったし、たまにはいいのかもしれないけど、なんか損した気分。
 いや、寝まくったにも関わらず気分が優れないには、ひとつは夢見が良くなかったというのもあるのだろう。

 昔の夢―正確に言えば昔の知り合いが出てくる夢―は私が最も見たくない夢のひとつだ。

 ペルシャ(魔法の妖精さん)は昔の楽しい思い出を探る過程の中で、ひとりで何かをやったことよりもみんなでワイワイやった記憶こそ本当に価値あるものであることを見出すのだが、私にとっては過去の記憶は必ずしもそういうものではなかった。私にとって多くの過去は後悔と羞恥の記憶であるに過ぎない。どうしてあんなことを言ったんだろう、どうしてあんなことをしたんだろう、どうしてあそこでああ言わなかったんだろう...etc 
 私にとっては、ひとりで何かをやったことの方が遥かに気楽に思い出せる。後悔や羞恥を伴わない記憶は大抵ひとりでいる時のものだ。いや、本当は誰かと一緒にいて純粋に楽しかった思い出というのもあったのかもしれない。しかし量の差というものは絶対にあって、後悔の記憶に対してそういう満ち足りた記憶はあまりに少ない。

 以前からずっと考えていて今まで口にだせなかったことがある。

 私は観鈴が羨ましい。

 彼女がどんなものを背負っていたにせよ、彼女は最も幸せな瞬間に死ぬことができたのだ。どんなに大きな幸せであろうとも、時間が経てば記憶は色褪せる。やがてはそれは思い出でしかなくなってしまう。そういう思い出は無論貴重なものだが、それが貴重であるというだけでは人生は生きていかれない。

 悲しい時には健康な時の理論は役に立たない。病気の本当の怖さは体が衰弱することではなくて、心が弱ることだ。風邪を引いた時のことを思い出してみればよい。熱でうなされている時のあの心細さ。ああいう状況の本当の怖さは、親しいものの一切が自分から遠ざかるように感じられることだ。まるで世界の中で自分だけが取り残され忘れ去られたように感じてしまうことだ。熱にうなされている時は、愛読している本も愛聴している音楽も、そしてもちろん「萌え対象」も、一切が生彩を失う。○○を聴いていられれば私は幸せでいられる、という言葉は正しいかもしれないが、それも実は「聴ければ」という条件が付いていることを忘れてはなるまい。風邪を引いている時は「聴けない」状態なのだ。そんな状態の人間に向かって、自分に親しいものを思い出せなどと言うのはナンセンスでしかない。

 どうも脱線してしまったようだ。
 …それ以前に思考がどこかへ飛んでいってしまった。続きはまたあとで。


2002/2/9 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#09


 大型電気店でシスプリDVD(フィギィア付き)を買うのはきつかったです。
 あれを羞恥プレイと呼ばずして何と言うのか。


 シスプリ(アニメ)の妹たちは12使徒というよりも12人のベアトリーチェだと思う。
 あるいはより私に近しい例なら、荒野のおおかみことハリー・ハラーに生きることを教えるヘルミーネ。

 アニメの主人公は最初、勉強に打ち込むだけの青年として描かれる。それが例えば学歴社会への批判であるとかは私は言わない。そんな見方は私に最も遠いものだ。ただ、1話の主人公は予備校の生徒集団の一員として描かれており、あの一種のロボット的な表現は、何か無機質さとでもいったもの、何も持たない冷たさ、個性の欠落といったものを否応なく感じさせる。

 主人公は妹たちと出会い、共に生活することを通じて、世界がどんなに光に満ちているかを学んでいく。このことは、いわゆる“アキオへの手紙”が証明している。主人公は毎回、アキオへ近況を書いて送っているのだが、シスプリが単純に妹たちとの蜜月を過ごす物語であるのなら、あの描写は本来なら不要のものであるはずなのだ。それにも関わらず、毎回、主人公の心理がアキオへの手紙を通して語られているのだとすれば、それはすなわちそうする必要があるからだ。つまりそれは、アニメ版の主人公はゲーム版のように状況を単純に受け入れている訳ではないことを意味する。主人公は妹たちとの交流を通じて世界を見、世界の新しい側面を発見する。新しい発見をするたび、ちょっとずつ主人公は少しずつ変わっていく。変化ということ、これこそがアキオへの手紙の意味するものだ。

 そう考えていく時、私はひとつの印象的な場面を思い出す。
 あの冗談としか思えない可憐との出逢いのシーンは単なるハッタリ演出だったのだろうか? そうではあるまい。あの、可憐が海に沈みゆく主人公の手を取って引き上げるシーンは、シスプリの物語を象徴しているようではないか。あの瞬間の可憐は、まさしく森の中で迷うダンテを導き終には天上に引き上げるベアトリーチェではないか。シスプリ舞台の開幕としてこれ以上に効果的な演出はあるまい。

 以上、シスプリ与太話。


 PCショップへ。

 Sacrifice は入手できず。とりあえず妻みぐい[AliceSoft]の予約のみ。
 あと、KEY+LIA Natukage/nostalgia (例の、夏影ボーカル付きver.のCD)が売ってたので即キープ。

 夏影は現時点ではこれといった感想はなし。
 もうちょっと聴かないと何とも言えない。


 久しぶりにゲーセンへ行って怒首領蜂などやってみる。

 1回目。
 C-S でプレイ。2面500HITでるが3面ワープ雑魚で粘りすぎて死亡。捨てゲー。2700万ぐらい。

 2回目。
 B-L でプレイ。5面道中で死んだ後崩れまくりで6面前半で捨てゲー。6500万ぐらい。

 3回目。
 C-S でプレイ。4面696HIT. なぜか5面後半(796HIT)で死亡。1周15500万。
 2周目。3面中ボスでボム。3面ボスで1ミス2ボム。4面、5面、6面は5面道中で1ミスした以外は6ボスまでノーミスノーボム。
 火蜂発狂でEND. 3.35億。

 現役時代のような安定感はないが、思ったよりは忘れていない模様。
 最初、ちょっとレバーが手に馴染まなかったけど、すぐに慣れたし。


2002/2/8 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#08


 KANONアニメ考察。

 で、回想シーンに入ったと思ったら祐一の奴、
 『あゆは…泣いてるより……その…笑ってる方が可愛いから………』
 とか言ってるんです。
 そこでぶち切れですよ。
 あのな、今日び丘の上の王子様なんか流行らねーんだよ。
 母性本能くすぐるような顔して何が『泣いてるより笑ってる方が可愛いから』だ。
 日本のどこにそんな恥ずかしい台詞を吐く小学生がいるのかと問いたい、問いつめたい、小一時間問いつめたい。
 おまえ単にフラグを立てたいだけなんちゃうかと。


2002/2/7 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#07


 頭の中でどんな化学反応が起きたのか分かりませんが、最近無性に更新が楽しいです。
 なにか吹っ切れた感じ。

 頭がすっきりした後で色々考えてみて分かったことは、義務感でもって自分の意にそぐわないことをやっても結局は破綻するしかないのではないか、ということだった。自分を騙しても、その時は良くても後で絶対反動が来る。

 誤解を招きかねない表現だが、結局のところ私はやりたいこと * だけ * やっていれば良かったのだと思う。無理に愛想笑いをする方がよほど相手に失礼ではないか。残る問題は、本当にやりたいことを見極めることだろう。自分を騙していないかどうかを常にチェックすること。その言動が自分の意に添うものであるかどうか。その言動に何らかの打算がないかどうか。

 二年前の正月。Striderさん家の掲示板に新年の挨拶を(当時はまだそんなことができる余裕があったのだ)書き込んだ時のこと。私の「今年も楽しい一年になるとよいですね」という投稿に対して、「趣味でやってることにストレスを溜めてもしょうがないですしね」なんて返答を貰ったことを、今更ながらに思い出す。あの時のStriderさんの言葉はなんと正しかったことだろう。

 たかがネットじゃないか。
 趣味じゃないか。
 どうしてストレスを溜めるようなことをわざわざやる必要があるだろう。


 レンジで温めた弁当。単行本。冷たいパック牛乳。

 この3つをひとつの袋に入れるコンビニバイトは首になって然るべきと思うのだがどうか。たまーにこういう頭の悪いバイトに出会うんですが勘弁してください。ていうかそのくらいちゃんと教育してください店長さんも。そもそもその程度のことが言われなきゃ分からないってのも問題なんですが。


 今月号のCPGにこのちゃ漫画が載ってるとの情報を得た(情報提供・IDさん)ので買いに行く。

 うーん、ちゃんと荒川節だ(笑)。
 やっぱりあのお兄ちゃんてば素敵。


 利休さん。

 お体を壊さないようにして頑張ってくださいませ。
 メイドさん小説は個人的にはもちろん楽しみなのですが、私からのお願い、どうか自分の生活を優先してください。

 気長ーーーーにお帰りをお待ちしております。


 早瀬さん。

 簡単とはいえある程度の慣れはやっぱり必要ですんで気長にやるのがよいかと。
 私は1周クリアするのに1ヶ月掛かりましたし。

 1回目の位置合わせは左から4個目のボムの真上で動かなければ多分いけると思います(バラマキ最中に動くと死にます)。
 もしくはボスの左右に付いてるちっちゃい砲身みたいなやつに自機のセンターを合わせるというのでも可です。

 2回目は…やっぱ説明難しいですね(汗)。1回でも実際の動きを見れば「なんだこんな簡単なのか」になると思うんですけども。1回目のバラマキが終わったらすぐに画面中央(X軸のみ)に移動する、のが超重要です。これをやらないと移動する予定のスペースが青針弾でふさがってしまって絶望的な状況になります。

 1周目でしたらどの場所でも即時完璧に回答できますので、攻略に詰まったら遠慮なくどうぞ。


2002/2/6 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#06



 シスプリDVD_angel4 は売ってませんでした。

 …が、某はじるす同人ゲー体験版(情報提供/WSAT師)がエロすぎたので鬱氏にはならず。


 検索対応。

 『はじめてのおるすばん レビュー』で検索してうちに来られた方はこちらへどうぞ。
 らむださんのレビューについては、

・本物は着眼点が違う(28歳/会社員/男性)
・こういうレビューを待ってました(20歳/学生/男性)
・なんていうか、こだわりのある人ってカッコイイですよね(18歳/短大/女性)
お兄ちゃん大好き!!(13歳/中学生/女性)

 等々、各地から絶賛の言葉が続々寄せられております。
 ぜひ一読をお奨めします。

 …すいませんごめんなさい嫌がらせとかではないです。
 あれ読んだ時は、素で「うわー負けたー」と思ったので。


 KANON アニメ 2話

 栞メインの話と思いきや、ラストで真琴登場(登場シーンが笑える)。

 びっくり。
 もしかして複数シナリオ同時展開 !?
 話を破綻させずに全員のシナリオを平行展開させるなんて可能なんだろうか。
 そもそもそうなると祐一と結ばれるのは誰なんだろ?

 予告。腕をぶんぶん振り回す真琴がなんかやたら可愛い。あと倒れる真琴とかも。
 来週がすげえ楽しみ。

 追記。

 来週は2話連続放映[文月さん]とのこと。知らなかった…。
 早くも佐祐理さんにお会いできるのか。
 あああもう、早く一週間経たないかなあ(笑)。


2002/2/5 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#05


 半角二次元板などという悪魔の板が誕生したせいで寝不足のしのぶです。
 こういう時、アナログ回線の不利をしみじみ実感しますな。


 ベビーピンクの朝は完全に記憶から抜け落ちてました。

 いや、私はタイトルは知らないんですが、そのままの歌詞が出てきてしかも悶絶級の曲ということでならたぶん合ってるでしょう。
 もうかなり古いですが、とあるM@Dムービー(あゆonly)でこの曲が使われてたことがあってそれで知ってたんです。セラフィムコールのEDだというのは知りませんでした。あれは目が覚めそうです。ていうか人前では絶対聴けません(笑)。

 世の中にはこの手の歌が好きな人というのは確実に存在するらしく、恥歌レビューなんてのを作っている方もいらっしゃるようです。
 (しばらく更新してないらしく、情報が少々古いですが…)


 なぜか、ショパンのノクターンop15-1が頭の中をぐるぐる。
 中間部の不穏なざわめきはともかくとして、主旋律の儚く控えめで清楚可憐で虫も殺さぬような嫋やかな雰囲気がツボに入ったらしい。


 しあわせのおひめさま  [いもむや本舗/月姫18禁]
 お兄様へ…2  [いもむや本舗/シスプリ咲耶18禁]

 前回に引き続きメロンブックス通販での購入。
 関東圏なら一日(注文した翌日)で届いてしまうというサービスは素晴らしい。

 ………ええい。
 相変わらず、いちゃいちゃいちゃいちゃしやがってからにこのガキャー!!(大満足であることの表現)

 今更言うまでもないことかもしれないのだけど、萌えのツボとエロのツボ、両方を的確に押さえてるのがこの人の凄いところ。
 この人が脚本&原画をやって18禁ゲームを作ったら初代とらハ並みの萌えエロ作品ができるんじゃなかろうか。マジで。


 お節介。

 なんか寝付けなかったので、怒首領蜂の5面ボス攻略マニュアルなんか作ってみました。
 早瀬さんと利休さん(もしまだやってれば)に捧ぐ。

 5面ボスは結構キツイのですが、パターンになるので覚えればかなり安定します。

 (何かと問題あるので攻略マニュアルは週末には消えます)

 あと、3面1UPの手前は初心者死亡率9割(推定)の魔の場所ですので慣れないうちはボムを使った方が良いと思います。
 ノーボムで抜ける際は弾を撃たれる前に片側の砲台を壊せるかどうかが鍵になります。 


2002/2/4 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#04


 眠い。

 眠いと自然に、思考が公子さんの方に傾く。
 このままぼーっとしてて、公子さんに優しい言葉を掛けられながら押し倒されて服を脱がされてそっと愛撫されたら気持ちいいだろうなぁとか。

 小鳥になって真一郎に抱かれたい、でも可。


 以前にもちょっと書いたけど、私はまひるの言動が一切予測できない。
 でももしかすると、まさに私の理解を超えている存在だからこそ、まひるは私の天使なのかなぁなんてことも考える。

 まひるという恒星があってその周りを香澄や美奈萌や透が回っているというのは、まさにその通りで。実は昨日の日記を書きながら、例の場所で一旦手を止めてしばし考えていたんですよ。奴ら(香澄、美奈萌、透)は“あく”が強すぎて接点がない、あのコミュニティーはまひるがいなければ成り立たないのだ、とか。それでもあの文脈の中では、ねがぽじは何よりもまずまひるについて語っているお話である、ということを言いたかったので、誤解を招くだろうなあと思いつつも、ああいう書き方を選択しました。キャラクター本位に見れば、もちろん(やまさんが指摘しているように)あの環の中心にいるのは紛れもなくまひるなのですけれども。

 ところで折角ねがぽじをプレイしたことですし、この機会にファンディスクもやってみては如何でしょう?
 本編に負けず劣らず、まひるの魅力が炸裂してるので。

 こういうのを見ると、いよいよ、ねがぽじがまひる本位な物語であることがよく分かります。
 ねがぽじでは“物語”というものはそれほど重要ではなくて、まひるがそこに居さえすればそれだけで十分なのだと思わされます。


 三月頭、月陽炎-千秋恋歌-発売までにやっておくべきこと。予定。

 現在ちょっとずつ読んでいるリルケ書簡集[国文社]をすべて読み終える。あと二冊。
 ベートーヴェンのソナタ、op10-2、op10-3、op22、op26、op27-1、op31-1 の6曲を少なくとも二回、楽譜と突き合わせて聴く。

 Sacrifice-制服狩り-[RateBlack]を購入&プレイ。
 妻みぐい[AliceSoft]予約。
 まいむ[スクアドラ・ディ]予約。

 2/06(水) アニプリDVD 4巻
 2/08(金) アワーズ増刊号(若いウォルター様はぁはぁ)
 2/12(火) Youngキュン(あずまゆき氏の漫画が載ってることが条件)


2002/2/3 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#03


 ここ数日、ベートーヴェンのいわゆる前期のピアノソナタを聴き直している。

 後期のソナタばかり聴いているとそれ以前の作品がどうにも物足りなく思えてしまって、ここ数年は前期のソナタをほとんど聴いていなかった(前期でも op7、op14-1、op14-2 辺りは割と好んで聴いていたけど)のだけど、じっくり聴いてみるとなかなかどうして面白い。

 op10-2、op10-3 辺りはもうちょっと聴き込んだら好きな曲の仲間入りをするかも。これらは(後期の作品群のように)文学的想像を喚起させるような曲ではなくて、もっと単純に、音の秩序ある流れそれ自体が快感であるような音楽である訳で、従って音楽を単純に“愉しむ”ことができる。陶酔や法悦といったものはここにはない。ただ、聴くことが愉しい。


 自分の言葉が意味を持つことがあると例え一時でも信じられるというのは大変に幸せなことです。
 滅多にないことであるだけに尚更しみじみと、そう感じます。

 まあその。
 ここ一週間ぐらいずっと、やまさんの日記に何かしらのコメントをしたいなあと思っていたのです。で、ねがぽじファンディスクのおまけシナリオも一通り読み終わって、頭の中も適度にねがぽじ色になってる今こそ書く機会だろうと。

 まひるという個性については去年の日記で色々書いてるので今は触れないことにして、ねがぽじという作品の表現について。基本的には『ヒロインがまひるとの絆を手にする物語』というやまさんの言葉で既に必要にして十分なことは語られているのですが、私なりの印象でいえば、ねがぽじという作品は徹底的に『初めにまひるありき』な物語だなあと思うのです。この作品はたったひとつのことだけを繰り返し語っているように思えます。語られなければならなかった唯ひとつのこと、それは広場まひるという個性です。この作品はゲームとしてな体裁上、まひるの言動をプレイヤーが決定することになっていますが、実際にはまひるは主役(PC)ではありません。少なくとも、例えば主役キャラというものをプレイヤーの視点の代行者と定義付けるとすれば、あの世界には主役は存在しないのです。最近になって気づいたのですが、あの世界について語るには、“まひるを中心にして香澄や美奈萌や透がいる”というよりも“香澄や美奈萌や透の環の中にまひるがいる”と言った方がしっくり来るように感じます。なんか無駄に読み手を混乱させるような書き方をしてる気がしますが、要するにあの物語が私たちに提供している(私たちに向けて表現している)のは、例えば“まひるから見た香澄”ではなくて“香澄からみたまひる”だと思うのです。あのお話はまひるとその仲間たちの交流を描いてはいるけれども、実際には私たちは、香澄や美奈萌や透の視点を通して、まひるという女の子に繰り返し出会い、彼女がどんなに素敵な―ほとんど天使と言っても過言ではない―女の子であるかを繰り返し確認するのです。いや、香澄たちだけではなく、まひるを排斥しようとするクラスメイトたちまでもが、ここではまひるという個性を表現するための重要な一要素です。作者が語るすべての言葉は、たったひとつのものを指向しています。たったひとつ、唯、まひるについて語ること。ねがぽじとはそういうお話だと私は思います。


2002/2/2 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#02


 今日は一人仕事でした。
 社会不適合者であるところのしのぶとしては当然、一人で仕事ができるというのはある意味天国なわけですが。

 …まあ一人仕事というのが常に良いかというと必ずしもそうとは言えないのですけれど。

 一人仕事のメリットは自分のペースで仕事が進められること。必要にして十分な仕事をこなせば好きな時に考え事(あるいは妄想)に浸ることができる。その代わり、思考が澱むと際限なく深みにはまってしまう。ジャン・ロタール言うところの“嵐”に取り憑かれやすくなる。これがデメリット。

 誰かと一緒に仕事をするメリットというのは、何よりもまず、思考が澱みにくいという点にある。思考の澱みというやつは一人で解決するのは難しい。もちろん時間が経てば嵐は去るが、それでは時間が掛かりすぎる。実のところ、思考の澱みを追い出すにはほんの一瞬の笑いがあれば十分なのだ。ほんの数秒の会話で事足りる。それで澱みは簡単に消える。しかし逆にいえば、そういう状態から脱するには“他人”が絶対に必要でもある。まったくもって、『独り』というのは難しい。


 昨日の続きのようなそうでないような。

 ――限りなく妄言に近いのですがと前置きしつつ。

 フィアッセシナリオでティオレさんとなのはが出逢うシーン。私はあのシーンが大好きなのです。このシーン自体はふたりが挨拶を交わすという以上の描写はなかったはずですが、でもここは非常に重要な場面だと思うのです。私はあの場面に鮮やかな対照の効果を見ます。過去を持つ人と未来を持つ人。ティオレさんは与える側の人。なのはは受け継ぐ側の人。どうしてそうなのかと問われても説明できないのですが、あの場面にはある暗示がある気がするのです。都築氏自身がそこまで考えていたかどうかはともかくとして、私はあの場面を見る度に、50年前を、あるいは50年後を想像してしまうのです。時間が流れて、いつかなのはがおばあちゃんになった時、その時もやっぱり、なのはおばあちゃんは多くの子供たちや孫に囲まれて幸せそうに微笑んでいるのではないでしょうか。ティオレさんがそうだったように。もしかするとその時点ではもうこの世には桃子さんはおろか恭也も美由希もフィアッセもいないかもしれない。でも、なのはは彼らから貰ったものを大切に胸に仕舞っているに違いありません。なのはの孫はティオレさんのことも桃子さんのことも知らないでしょう。でも、なのはの中にはティオレさんや桃子さんやその他たくさんの人たちの笑顔が生きています。それは形には残らないし誰にも見せられない。でも、なのはおばあちゃんの微笑みの中には彼らの笑顔が生きています。そして、私たちの知らないなのはの孫は、なのはおばあちゃんの優しい微笑みに包まれ、別の誰かに同じように微笑むことを学んでいく。形としては残らなくても、確かに何かが受け継がれていく。幾つかの欠点にも関わらず私がやっぱりフィアッセシナリオを許せてしまうのは、あのシナリオがこういう想像を喚起させるからです。


 KO.KO.RO. TASTY [みずも倶楽部/ココロ図書館18禁]

 みずも倶楽部の冬コミ新刊。いいな×こころん。
 メロンブックスに入荷したとの情報をWSATさん(いつも有益な情報感謝です)から得て、即座に通販申し込み。
 やっと今日届きました。

 で、読んだのですが……………。

 あああああああああああああこころんがこころんがこころんがーーーーーーーーっ!!!!

 (しのぶお兄ちゃまは萌え死んだので今日の日記は強制終了されます)


2002/2/1 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-02.htm#01


 槇原愛[とらハ2]という子は非常に興味深いキャラだと思う。愛さんはさざなみ寮の中で最も地味なキャラだが、それにも関わらず彼女は不思議と存在感を保っている。私自身は実はそれほど愛さんのことが好きなわけではない。でもやっぱり愛さんは魅力的に映る。たぶん、愛さんという女性の魅力は、自身の個性によってではなく、誰かと一緒にいることで初めて発揮されるのだ。名脇役とでもいうのだろうか。一緒にいる人間の魅力を引き出し、そのことによって初めて愛さん自身も輝く。例えば知佳が「綺麗だねって言ってくれたよ」と言いつつ愛さんにきゅっと抱きつく。他の誰でもなく、ただ愛さんだけがこういう役割を担うことができる。愛さんが最も魅力的なのはこういう時だ。以前書いたことの繰り返しになるが、愛シナリオでだけ告白シーンに出歯亀があるのは決して偶然ではない。さざなみ寮の皆に頼られ愛されているというところまでも含めてが、愛さんの個性だからだ。

 とらハ3のフィアッセ。彼女の立ち位置も愛さんと似ている。とらハ3の中でもフィアッセシナリオは決して出来がよいとは言えないのだが、そのひとつの原因はおそらくフィアッセの個性に因る。もしかすると都築氏自身もフィアッセというキャラを持て余していたのではないかとすら、最近は思う。フィアッセ関連の名場面といったら、これを読んでいる諸氏はどの場面を思い浮かべるだろう? フィアッセが魅力的な場面というと、私がすぐに思い出す場面は3つある。ひとつはシナリオ終盤、クリステラソングスクールの面々がフィアッセのために舞台で待っている場面。ふたつめはレンと晶の誕生会で彼女がふたりを抱きしめる場面。みっつめは美由希シナリオのエピローグで彼女が「始め」の声を掛ける場面。個人的には特にふたつめとみっつめが重要で、とらハ3全編を通じても最高の名シーンに数えられるこれらの場面で、フィアッセは遺憾なくその魅力を発揮する。もうお気づきと思うが、興味深いのは、いずれのシーンにしてもフィアッセが自身の個性によって輝いているのではなく、むしろ一緒にいる人たちを引き立てて輝かせ、その反射を受けて彼女自身がいよいよ光り輝いているという点だ。フィアッセは何よりもまず高町家の“お姉さん”であり―あるいはソングスクールの一員であり―、そういうポジションにいる時こそ、彼女は一緒にいる誰かと魅力を引き立てあい輝きあい、世界を優しく照らしてみせる。

 とらハ2における愛さん。とらハ3のフィアッセ。彼女たちは、言ってみればそれぞれの世界の“母”のようなものだ。知佳や美緒が笑ったり泣いたり出来るのも、薫と真雪さんが喧嘩に興じていられるのも、きっと愛さんがいるからなのだ。みんな、愛さんが自分たちを見守っていてくれているのを知っている。あるいは。美由希の免許皆伝の時、美由希が一人前の剣士として歩き始める時、その掛け声を掛けたのはフィアッセだった。他の誰にその役割ができるだろう。


 余談だが、フィアッセシナリオの失敗点のひとつは“お姉さんキャラとしてのフィアッセ”しか描けなかったという辺りにあるような気がする。去年の秋頃から何となく考えていたのだが、個別シナリオに入って恭也と恋仲になった後でさえ、フィアッセには何らの変化も見受けられない。彼女はずっと“お姉さん”のままだ。それこそベッドの中でさえ。フィアッセが長身で年上のキャラなのはもしかすると知佳との差別化を図るためだったのではないだろうかと私は密かに考えているのだが、それにしても“年相応の、恋する少女としてのフィアッセ”が見られたら…と想像せずにいられない。美由希はシナリオ自体の完成度が非常に高いので“妹”のままでも構わないと思うが、フィアッセは翼のエピソードも恋愛要素もどうも中途半端な感が否めない。せめてフィアッセが恭也の前ですごく可愛い一面を見せてくれたら、どんなに面白くなったろう。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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