棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−自分用・買い物予定リスト−


・11/28(水) メロディー1月号 (っポイ!連載再開)
12/05(水) HONEY[橘裕] 4巻
・12/07(金) 尽くしてあげちゃう3〜私のご主人様〜
12/07(金) はにーすぃーとティータイム 1巻
・12/10(月) LaLa_DX (HONEY掲載)
12/13(木) Sister Princess〜ピュア・ストーリーズ〜
・12/14(金) このはちゃれんじ!
・12/20(木) 新体操(仮)
・未定     はじめてのおるすばん


−日記・過去ログ−

  1999年   7月 8月 9月 10月 11月 12月
  2000年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
  2001年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

2001/11/30 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#30


 ………。

 …確かに。
 わたしは巫女としての宿命を背負っています。

 でも…でも、わたしだって巫女である前にひとりの女の子なんです。
 誰かを好きになっちゃうことだってあるんです。

 巫女は………人を好きになったらいけないんですか?
 恋をしたらいけないんですか?

 そんなのって………そんなのって………。

 ………。
 お願いです。

 …今夜だけでいいんです。
 
 抱いてください。

 …今夜だけでいいんです。
 わたしを、ひとりの女の子として見てください。
 巫女としてじゃなく、普通の女の子として扱ってください。


 なんてゆーことを日頃考えてます。
 疲れてて理性が緩むと、こういう痛いものを平気で書けてしまうから恐ろしい。

 最近、なこるるを堕落させたいなーなどと思うのですが。
 なんつーか、なこるるを堕落させたら、すごい独占欲の充溢を感じられそうな気がして。

 真・侍魂のラストで死ぬのが彼女の運命なのなら、いっそ堕落させてでも使命なんか忘れさせたい。
 例え快楽に溺れるようになったとしても、死ぬくらいなら俺の隣で寝ていてくれる方がずっと良い。
 快楽の虜になってしまったとしても、なこるるがなこるるでなくなる訳ではない。
 どんな姿になっても、きっと俺はなこるるを好きであり続けられると思う。

 例えなこるるが壊れても、俺は、純粋無垢だった頃の彼女のことを覚えている。
 壊れてもきっと彼女は無垢なままだ。
 少なくとも俺の目にはそう映るだろう。

 あー。
 やっぱこーゆう鬼畜エロゲ風シチュは好きじゃないわ。

 もっとまったりとしたのが良い。
 なこるるに膝枕を“教える”とかな。物分りの良いなこるるのこと。きっと何も言わずとも頭くらい撫でてくれるであろう。そんで歌とか歌ってくれるの。

 なんて歌?
 子守唄です。アイヌでは子供を寝かし付けるのにこの歌をよく歌うんです。
 俺は子供じゃないぞ。
 ふふ、子供ですよ。おっきな、そしてとっても頼り甲斐のある子供。…私の大好きな。
 今なんて…?
 内緒です。

 とかやりつつ、手を伸ばしてなこるるの髪に触れたりすると、察しの良い彼女は軽く微笑んで顔を近づけてきて以下略。










 …ていうか、なんの話をしてたんだっけか?
 どうせ明日の朝には過去ログ逝きになるのかと思うと気楽なものです。
 明日の日記ファイルは diary-2001-12.htm だし。

 良い感じに脳みそが茹ってきたところで寝ます。
 最終兵器彼女の6巻を読みつつ。

 おやすみなさい。


2001/11/29 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#29


 心が弱り気味っぽくて気力が出ず。

 集中力の要らない音楽が聴きたかったので、調子の良い鍛冶屋[ヘンデル]とか、軍隊行進曲[シューベルト]、ラ・カンパネラ[リスト]、へ調のメロディー[ルビンシュタイン]、舞踏への招待[ウェーバー]、花の歌[ランゲ]、などを選択。たまには初心に返るのも良いもので。

 軍隊行進曲のテーマの弾き方の素晴らしいこと。序奏を経てテーマに入った瞬間、まるで重力の影響を失ったみたいに旋律がふわっと浮き上がる。それから中間部の可愛らしさ。子供が手に手を取り合って踊っているみたい。なんで“軍隊”なんて渾名がついたのだろうと不思議に思われてくるくらい軽妙な印象の曲。

 つか鬱気味な今の精神状態だと何を聴いても“ちっちゃいこ”が遊んでる情景が浮かんでくるのだが。
 ちとヤバイかも。

 つかむしろ、らむだ氏的世界観においてはそれこそが正常ですか。


 LOOK THE WORLD [11/26]

 キャスト・アウェイ。
 シントさんの文章を読んでたら無性に観たくなったので週末はレンタルビデオ屋行き決定。


 とくそんさん[11/26]

 新井素子作品はある時期を境にまったく読まなくなってしまったなあ。最後に読んだのは確か『くますけと一緒に』だったと思う。彼女の作品では『緑幻想』が一番好きでした。コバルト文庫から出てたやつは大体読んだはずだけど今ではほとんど覚えてなかったり。

 念のため、カンニングしてみると…。
 『くますけ』までは大体8割ぐらいは読んでいる模様。

 『大きな壁の中と外』は名作ですよね。
 あとリストを見て強烈に記憶を刺激されたのが『今はもういないアタシへ…』。今になって振り返ってみると、私的ベストはこれかも。

 そういえば関係あるようなないような話なんですが、私内部では、杉原真奈美[セングラ]は『ひとめあなたに…』のシチュー奥さんとかなり近い人物と認識されています。杉原さんは結構恐い娘です。振った時も、わたしにはあなただけですから…とか言って当時の俺を引かせましたし、彼女と結婚とかしてその後浮気でもしようものならシチュー化確定でしょう。これで貴方は永遠に私のもの…とか素で言いそう。ぶるぶる。

 新井素子については色々語りたいのだけど記憶が薄れててなんかモドカシイ。


 別アンカーで。

 『秘蜜のささやき』という本は知りませんでした。
 私やこの方の所にリンクが貼られてる時点でおよその見当はつきますが(笑)。

 検索で調べて[こちらこちらの低年齢ジャンルに特化したレビューが面白いかも]成年漫画であることは確認しましたが、私は見た目(?)ほどは成年漫画は読んでないんですよ。たぶん。雑誌に限って言うと、PC を買う前は月に5〜6冊のペースで買ってましたが、今は年に5冊も買わないし。単行本でもたかだか年に15〜20冊程度のはずです。しかも気に入らないと捨てちゃうのでなかなか数が増えなかったり。

 な訳で、最近の事情はよく分からないのです。
 今のところ、そっち系で好きな作家というと…誰だろ…?

 DELTA-M、う〜とむ、黒崎まいり、秋澤和彦、宮下未紀、鴨川たぬき…辺りかしら。


 まほさろさん[11/25]

 前回のオフレポに続いてまた俺の名前が…(苦笑)。

 そういえば前回の『しのぶさんは HN で呼ばれるのが好き』とかなんとかの件。
 どなたの発言か分かりませんが、一応フォロー。それはおそらく、以前の日記で書いた『妄想時は HN の方がしっくり来る』のことなんじゃないかと思います。脳内妄想時はなぜか『しのぶさん』と呼ばれちゃうんですよね。特に意識することなしに。

 24時間でメール0通だとさすがに凹むので、以下18行を削除。
 ごめんして〜。>>まほさろさん


2001/11/28 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#28


 本日、3回目の実力テストを提出(郵送)。

 これでドイツ語講座は全過程終了。
 あとは終了証が送られてくるのを待つのみ。

 来月は復習をやりつつ、久しぶりにシューベルトの暗誦とかやりたい。
 あとはギャルゲをまったりと。

 いじょ。
 眠いので寝ます。


 追記。
 
 ウィルスを勝手に開きやがる OutlookExpress がウザいことこの上ないので Becky! を導入。


2001/11/27 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#27


 についてはやたらにシナリオとかシステムとか語るより、もみじたんハァハァ とか言う方が正しい気が。
 何を持って正しいというかは知りませんが。

 ネタバレなので黙ってましたがあの娘って要するに髪の毛を薄紫色に染めた楓ちゃん(エディフェル)ですから、その手が好きな人ならまず転ぶでしょう。そういえば発売当時の2ちゃんねるの椛スレッドなんかほとんど『ハァハァ』だけで盛りあがってました(笑)。

 らむださんも書いてるけど、あれって攻略は何気に難しいのよね。私も未だにハッピーエンドは見てませんし。つか、もう売ってしまいましたが。あのゲームの真価はやっぱり朝晩のもみじたんとの“チュー”にこそあるんだゴルァ とか主張してみる。


 らむださん[11/27]の記述により謎のリンク先が判明。the end of the world.

 リンク貼ってくださってありがとうございます。

 日記をちょこっと拝見したのですが、修羅場[11/24]を書く人って珍しいですよね。萌えシチュを書く人はたくさんいるけど。いやあれはあれで一風変わった萌えシチュなのかしらん。いずれにしても、面白そうなのでしばらく読んでみることに。

 つか、この方17歳なんですか!?
 なんで17歳でこれだけの文章が書けるの!?


 私的リンク。

 文月そらさん[11/26]


 LaLa 1月号

 やまざき貴子氏が LaLa を去った(コミックス18巻を参照のこと)以上、買い続ける理由の大半は消滅した…と言いたいのだけど、これからも LaLa は買い続けるでしょう。おまけの小林クン[森生まさみ氏]を読むためだけに。

 おまけの小林クンは良い。森生まさみという人はもう本当に漫画を描くのが好きで好きで堪らないんだろうなあと思う。この人って描けば描くほどどんどん上手くなっていくみたい。今月の話は絶品だった。何が良いって、主人公の視点の切り替えがきっちりと描かれていることだ。今回の話は小林健吾の弟の慎吾少年が主役の話なのだが、視点がちゃんと小学生のものに置き換えられているのである。特に慎吾君と関わってくる吹雪の描き方が実に面白い。ここで描かれている小林吹雪はいつも出てくる委員長としての少女ではない。言ってみればいつもの吹雪は大和君や健吾君のクラスメイトとして、同年代の視点から同年代の少女として描かれている。それに対して、今回の吹雪は慎吾少年の視点から見た“大人の女性”として描かれているのである。この描き分けの妙。小学生の頃、中学生や高校生の人達がどんなに大きく見えたか。あの頃、年上の人達というのは絶対に敵わないという畏怖を起こさせるような存在だったのだ。森生まさみ氏はそういうことをちゃんと覚えている。見事なものだ。

 余談。今月から始まった新連載は何気に私好み。ただ内容的には LaLa の連載であるにしては微妙に若い気もする。このタイプの漫画はどちらかというとりぼん系統ではないだろうか。


 ドリキャスが増えてコード類がごっちゃになってきたので、良い機会と思い、6個口マルチタップとAVセレクターを購入。コンセントを全部繋いで、それから AVケーブルのセッティング。ビデオをエンコーダーでMPEG化する必要がたまにあるので、今まではテレビ前面の入力端子をビデオデッキと PS2 で共用していた(必要な方だけ繋ぐ)のだが、この機に PS2 と DC をセレクターに繋いでそこからビデオ入力に繋ぐ方式に変更してみた。これだとビデオ→テレビは繋ぎっぱなしで、ビデオ&PS2&DC全てが使えることになる。

 ガンバード2をちょこっとプレイ。
 家庭用じゃ微調整が効かなくて練習になんかなりっこないのは分かっていたので難易度を落として適当にふにふに遊ぶ。

 とりあえず家庭用で追加されたタビアの声がむっちゃ可愛い。これを聴くためだけでも買った甲斐があるというもの。…資料を調べてみたら、タビアの声ってかの皆口裕子嬢なのね。道理で好みのツボにはまる訳だ(笑)。


2001/11/26 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#26


 うしとらさんの真似をして買い物予定リストなど作ってみる。

 過去ログページに作っても誰の役にも立たないだろうけど、少なくとも私は更新時に必ず見ることになるので問題なしということで。


 ジャンプ52号

 HUNTER×HUNTER G.I 編に入ってから中弛みしてた感があったけど、旅団が出てくると俄然面白くなる。楽しみ。
 ライジング・インパクト トリスタン様カッコ良すぎ。アシュクロフトも敵役として良い味出しててグッド。


 憂鬱なときに縋りたくなるような作品とか。

 ベートーヴェン・ピアノソナタ作品101、作品110、作品111。
 シューベルト・ピアノソナタD960。
 ショパン・ノクターン作品37-2、幻想曲作品49、スケルツォ作品39。
 グリーグ・アリエッタ作品12-1。
 バッハ・平均率曲集から1巻/ロ長調、2巻/変ホ長調/変イ長調。

 立原えりかの童話いずれか。
 ヘッセ・荒野のおおかみ(適当なページを開いてつらつらと)

 とらハ3・レンシナリオ、那美シナリオ前半。
 ねがぽじ・美奈萌シナリオ。

 この中ではクラシック関係の曲を聴くのは実際にやったことがある。
 ………が実のところ“憂鬱や悲しみ”というものは、リルケ的に言えば、親しいものの一切が遠ざかって自分独りが虚空に放り出されたような状態のことであるし、そういう精神が衰弱している状態にあっては、そもそも芸術作品の美しさを摂取する力など残っていない場合がほとんどだ。ちょうど、衰弱し切った病人がもはや食事を口に運び咀嚼する力すら持たないのと同じように。私(たち?)はよく、これ(特定の音楽とか)さえあれば私は生きられる、なんていう風に言ってしまうものなのだけど、でも悲しみの本当の恐ろしさは人を一種の麻痺状態に陥れる点にあるので、これさえあれば…なんてのは無意味なのだ。悲しみに陥っている時、那美さんの笑顔はなんと遠くに感じられることか。まひるの笑顔のなんと遠く感じられることか。悲しみに囚われている時、私はまひるの顔をぼんやりとしか思い出せない。本当にまひるを必要としている時、まひるは私の傍にはいない。別に誰のせいでもない。悲しみというのはそういうもので、だからこそ恐ろしいのだ。


2001/11/25 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#25


 なんとなく懐かしさに駆られて STRIKERS_1945_II などプレイ。

 アーケード版はもう1年ぐらいプレイしてないはずだが、意外と腕とかは落ちていないらしく、1ミスで1周クリア。彩京シューって一度パターン化してしまえば案外安定するゲームなのかも。それだけパターン性が強いということか。パターン性が強いということは同時にパターンがないと手に負えない初心者殺しゲームということでもあるのだが。

 以下、覚え書き。ボムポイント。

 街ボス2次形態(決め打ち)、鉱山ボス1次形態の白弾回転バラマキ(決め打ち)、鉱山ボス・ロボ形態の回転バラマキ(他の弾が絡んでしまった場合のみ)、海ボス1次形態(状況によって)、空ボス・ロボ形態の奇数偶数複合白弾(4面のみ決め打ち)、5面ボス1次形態(開幕と同時に決め打ちして手前の砲台を速攻破壊)、5面ボス・ロボ形態の左右アームから飛んでくる高速白弾(決め打ち)、6面ボス・ロボ形態の赤弾白弾複合攻撃(決め打ち/引き付けて半キャラ避けはボムが空の時以外やらない)、7面中ボス・ビット放出タイプがきた場合(状況次第)、8面マウスUFO×2 破壊直後(決め打ち/砲台からの高速白弾が危険)。

 ランダム面1、2面はボム不要なので、仮にボム想定ポイントでボムを全部使って8発使用。元からあるボムが2発で8面までで8発回収できる訳だから、どこかで2発余分に使っても8ボス到達までノーボムは十分に可能。8ボスはノーボム安定なので問題なし。いや、今回はなぜか死んだけど。

 パターンさえ作れば弾避けの技術なんてほとんど要らないのがこのゲームの面白いところだよなあ。
 ま、1周目だけだけど。


 ONE以外の何か with ななぴーとも呼ばれる人

 という訳で2巻。
 レンタル屋で発見したので借りてみる。

 …シナリオライター氏、何がやりたいんですか?
 好意的に解釈しようがありません。
 仮にいずれ謎が解けるのだとしても、瑞佳のキャラが違うのは許せぬ。瑞佳はあんな可愛く「くるっと」振り向く子じゃないんです。もっとどんくさい感じ…と言って悪ければもっと落ち付いた感じなんですよ。


 花右京メイド隊 4巻

 DVD で観るとすごく綺麗。レンタルビデオと違って画面のチラツキ感が全然なくて、それだけでも感動モノ。
 内容はまあ相変わらず駄目人間テイストが炸裂してるけど、むしろそれゆえに萌える。ここまでやってくれるともうメイドさんの解釈を間違えてるとかツッこむのは野暮だろう。ただ何も考えずに萌えていればよし。

 10話はどのキャラも今までと比べて格段に可愛く描かれている。作画監督のせいだろうか。これだけでDVDの値段分は十分に回収できた感じ。12話は冒頭のシンシアとラストのマリエルが激しく良い。


 HAPPY☆LESSON OVA1巻

 あんまし面白くないかも。
 せっかく5人のママンと同居なんていう美味しい設定があるのだからもっと甘々な物語にしてください。ゲームの方はもっとまったりとらぶらぶな生活を愉しめるようになっていると良いのだが。つかそーじゃないとドリキャス本体までわざわざ買ったのが無駄になってしまう。


 覚え書き。

 フィアッセシナリオの問題点をもう一度洗い直し。
 できれば今週中に。


2001/11/24 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#24


 昨日から一睡もしてません。
 昨晩、ネットをぐるぐるしてたら鬱になったのでそのまま徹夜。鬱入ると寝たくなくなるんです。何か焦りの気持ちがぐるぐるして、落ち付かない。今日は無理に起きてるためにカフェインの錠剤を飲みました。徹夜明けにカフェインは胃に来ます。何度か吐きそうになった。その都度耐えたけど。

 なんで鬱になったかというと、自分の文章のあまりのヘタレ振りに気がついてしまったから。自分はダメだと“思って”も落ち込まないが、自分のダメさに“気がつく”ともう思いっきり落ち込む。自分の身のほど知らずっぷりが痛い。

 いや、いつもの発作みたいなものです。
 一晩寝ればまたいつも通り笑えます。私、莫迦ですから。


 買い物。

 HAPPY☆LESSON(本命)、AIR(ついで)、ガンバード2(ついで)&ドリームキャスト本体。
 あと、花右京メイド隊DVD4巻。

 ハピレスはまああれです。
 継母調教[大熊猫]の主人公に素で共感したダメ人間として一度はやっておく必要があるだろう、とか。5人のママ…という設定はある意味12人の妹より性質が悪い気がする。なんだかんだ言ってネット上では妹萌えはもう十分に市民権を得ている訳だし。5人のママンじゃさすがに言い訳は効きそうにない。まあそれが良いのだけど。

 花右京メイド隊は勢いで。
 いや、ちょっと嘘。好い加減、レンタルビデオ屋の梯子をするのに疲れたのです。ここのところ毎日チェックしに行ってたし。探しまわる労力を考えればいっそ買っちゃった方が気が楽だし時間の節約にもなる。

 AIR.
 試しに全員が登場するところまでプレイして声を確認。
 違和感はほとんど感じませんでした。みちるの声がちょっと違うかなと思ったけど割とすぐ慣れた。
 それにしてもポテトの“声”は…(笑)。


 今までなんとなく無関心だった葉鍵最萌えトーナメントを覗いてみる。

 結果に対するコメントとか読んでると結構面白い。
 何よりも画像(以下検閲削除)

 ところで私は投票というものに全然興味が湧かない。自分の好きなキャラが世間的にどのくらい人気があるのかとかもほとんど関心を持てない。結局、世間的に人気があろうがなかろうがそんなことで自分の好きな気持ちが左右される訳ではないからだ。投票にもし意味があるとすれば、それは掲示板を使って行われる場合だ。投票に使用される掲示板は好きなキャラへの想いの丈を次々に書き込む場にもなる。この場合の投票は数の勝負であると同時に萌え文章を書き込む切っ掛けが得られるというメリットがある訳だ。例えばなんの脈絡もなく好きなキャラへの想いの丈を語るのは抵抗がある場合でも、投票という切っ掛けがあれば気がねなく書き込みができる。私もリーフオフィシャルにいた頃は、投票を想いの丈を延々書き込む場として利用していた。しかし結局、それさえも今の私にとっては意味がない。想いの丈を書く場は既に持っているからだ。しかも私は萌え文章を書くのに理由なんか必要とはしていない。脈絡なんて関係なく書きたい時に書くことができる。そうなると、いよいよ投票は私には無縁のものになる。

 ところで、人気によって想いは左右されないとか書いたけど本当はこれは正確ではない。得てして一般的に人気のないキャラほどディープなファンが付くものだ。例えばKANON。一般的に“広く”人気があるのはおそらくあゆや名雪だろう。でも、広さではなく“深さ”という尺度で測るとすれば、一番深く愛されているキャラはおそらく天野美汐さんだ。


2001/11/23 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#23


 葉月さんのBUSINレビューを読んで口の中で咀嚼中のゆで卵を吹きそうになったり。
 まったくもうこの人はなんでこう面白い文が書けるかな。


 十代に出会うと幸運な物語 GENさん[11/21]

 触発されて勝手に自分語り。

 私が丘ミク全10巻を初めて読んだのは17歳の時でしたが、正直言って当時の私にはこの小説は退屈極まりないものでした。おそらく少女漫画や少女小説の語法に慣れていなかったせいでしょう。私が丘ミクにはまったのはそれから3年後、20歳の時で、その頃は既に少女漫画を愛読するようになっていて、お陰で1巻から少しも退屈することなく読むことが出来ました。当時、確か10冊を一週間ぐらいで読み切ったと記憶しています。まあコバルト文庫であることを考えれば10冊一週間は遅い方でしょうが、ともかく読んでいる時はただひたすら愉しかったものでした。

 丘ミクのことはともかく。

 若いうちに読んでおいた方が良いような本、というのは確かにあると思います。人の味覚(好み/求めるもの)は年齢に応じて変化するものです。私の経験から言えば、若い頃―10代後半から20代前半くらい―は感傷的なものに割と敏感だったような気がします。それから、メッセージ性が前面に出ているもの。例えば『シラノ・ド・ベルジュラック』や『椿姫』なんかは20歳頃に読んで随分泣いたものですし、後者でなら『空くんの手紙』や『はてしない物語』なんかは当時の私にとってバイブルでした。

 でも今は、正直言って当時バイブルだった書物にはあまり魅力を感じません。魅力を感じていた頃の記憶は持っているのですが、もう一回読み返したいとは思わない。今の私にとっては、『シラノ』はあまりに感傷的に過ぎるし、『はてしない物語』はあまりにメッセージ性が強く出過ぎています。ただしそれによって当時読んだ書物を否定しようという訳ではありません。逆に、ある種の物語に敏感に反応できる時期にそういう書物を読んでおくことができて本当に良かったと思う。『赤毛のアン』シリーズ全10巻とか『フルーツ果汁100%』全7巻なんかについてもそうですが、今初めて読んだのだったらおそらく当時ほどには感動しないでしょう。いや、そもそも手に取ったかどうかも怪しいものです。

 こういう味覚の変化というやつは、変化してみないと分からないものです。20歳頃は『はてしない物語』は永遠に自分のバイブルであり続けると信じていました。でも今は違う。味覚が変わったことをしみじみと感じるのは、20歳の頃に好きだった種類のものに触れた時です。私にとっては―ゲームですが―例えば『加奈』がそうです。

 私は加奈をプレイして泣いたけれども、遂に物語世界に没入はできませんでした。泣きながらも、何か違和感のようなものを拭い切れなかった。プレイヤーを泣かせようという意図があまりにミエミエであるように感じられたからです。でも、意図がミエミエだから駄目だ、とまで短絡的に考えることもできませんでした。加奈をプレイしながらずっと考えていたことは、20歳の頃の私だったらドハマリしていただろうな、ということでした。あるいは、20歳の頃の私だったら加奈の世界に全的に没入できて、製作者の意図なんて感じることなく思いっきり泣けただろうな、ということでした。作品としての出来を云々する気にはなれませんでした。何も考えずに泣けない原因はどうしても自分の方にあると思えたからです。当時、なんとも寂しくなったものです。いつのまにかこういうお話の良さを十分に味わえなくなってしまったのだなあなんて思って。

 眠いせいか、なんか悲観的だ。いや、実際のところ悲観なんて少しもしてないんですが。『星の王子さま』の美しさは16歳の頃には分からなかった。『So What?』の美しさは20歳の頃には分からなかった。『ピアノソナタ変イ長調作品110』の良さは22歳の頃には分からなかった。でも今はこれらの作品がどんなに美しいか分かります。時間が経ったお陰で分かるようになったのです。味覚が変化してある種のものを美味しいと感じられなくなりはしたけれども、別の種類の美しいものに敏感に反応するようになった。時間が経っても、依然として私の周囲は美しいものに満ちています。

 20歳の頃だったらはまったのになぁと思う作品がある反面、出逢ったのが今で良かったとしみじみ思うような場合というのもあります。例えば『AIR』なんかはそういう作品です。これはおそらく20歳の頃でも泣いたとは思う。けれども、20歳の頃の私だったら、せいぜい『KANON』と同列程度だったでしょう。下手をすると『KANON』の方が高評価なんてこともあり得たかもしれない。同じくらい泣けるとしても『AIR』は萌え要素もロマンティックな恋愛もほとんどありませんから、20歳頃の私により強く訴え掛けるのはおそらく『KANON』の方だったと思うのです。いずれにしても今ほど『AIR』を溺愛することはなかったでしょう。これは幸運なことだったと心の底から思います。


2001/11/22 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#22


 らむださん主催?の IRC に参加。
 30分程度顔を出して退出するつもりが気がつけば4時間越えてたり。

 疲れたけど楽しい時間が過ごせました。
 また機会がありましたらよろしくです。>>参加されたみなさま


 完全私信な追記。>>らむださん
 1時ごろ話した件についてはメールで連絡頂ければ迅速に対処しますので、遠慮なくどうぞ。


2001/11/21 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#21


 ここ一週間でレンタルビデオ屋を8軒回ってシスプリが置いてあった店は1軒のみ。
 入荷率悪すぎ。
 観られる日は来るのであろうか。

 いくら可処分所得の多いサラリーマンとはいえ、さすがに一度も観たことないアニメのDVDを買うほどのバクチは打てません。絵柄とか見る限りだと不安要素の方が大きいし。


 とか言いつつ、最後の手段として近所の大型電気店のDVDコーナーにふらふらと行ってしまう辺り、莫迦というか。
 シスプリはなかったけど。

 代わりにようこそようこのDVD(1巻につき6話収録)を見つけて煩悶。結局買わなかったけど。いや、買っても今更観るかどうかかなり怪しい気がしたので。買ったからには一回ぐらいは観るかもしれないけどそう思ってる時点で既に本末転倒なのでありまして。どっちかっていうとコレクターズアイテム的に欲しいだけなんだよね。観たいのではなくて所有欲というか。

 それともうひとつ。真面目な話、本放送から11年経った今観て、あの当時のような感想はおそらく抱けないだろうなと思ってしまうというのもある。本放送の11年前というのは、ちょうど高校卒業したてで親元を離れて独り暮らしを始めた年で、だから田舎から渋谷に出てきたようことサキさんに特別に親近感を抱いて観ていたなんて事情があって、もうあのアニメは好き嫌いとはちょっと別のところで大切な作品だったりするのです。当時は大真面目に観ていたけど、今観たらたぶん色々と粗が見えちゃうだろうし、それならいっそ思い出は思い出のままにしておく方が良いのかもなんて思ってしまう。

 ちなみに、ようこそようこで私が好きな回というと、『#1 ようこそin公園通り』とか『#2 歌声はバイエルで』とか(当時、バイエルの当該曲は実際に弾いてみたりしました)、『#3 おもちゃのロフト』とか(お祭り後の寂寥感が実に良いのです)、『#16 小さな星空の奇跡』とか『#19 ようこそ夏の雪ダルマ』とか(両方とも泣けるのよ〜)、『#28 ガラスの中のアイドル』とか(ほっきゅんが可愛い)、『#29 レッスンアンダーザスカイ』とか(当時一番好きだった回で何回も観ました)、『#34/35 わたしのジュリエットpart1/2』とか(健気なサキさんが素敵です)、『#41 雪のラビリンス』とか(ヴァイオリン―タイスの瞑想曲―が綺麗)とか…ああ書いてたら本気で観たくなってきた。莫迦か俺。奇しくもボーナス時期なんだよな。

 そういえば、ようこそようこの素晴らしい同人誌の数々を作った白野うお丸さん(ようこ好きならこの名は知ってるはず)は今どうしてらっしゃるのかしら………。


 追記。
 レンタルビデオ屋の新作コーナーに『ひとりでできるもん』というのがあって、パッケージの写真とか眺めてると無性に観たくなるんですが、恥ずかしくて借りられません。あれってどうなんでしょうか? レジに持っていく恥ずかしさに耐えてでも見る価値はあるのでしょうかね?

 その筋の方(らむださんとか)情報モトム。

 ていうかああいうのがわざわざビデオ化されても誰が観るの? 本来の対象視聴者は? あれに出演してる子供の親及びその周辺だけでは利益がでないでしょうし。とするとやっぱその筋の…。チガウ。


 リファラーに残ってた謎のリンク集から飛んでこちら

 爆笑。
 シスプリ萌え日記(事実誤認)がむっちゃ面白い。
 テンション高くて、疲れなんて吹っ飛ぶ勢いで笑えます。

 この方の説によると今年ヤクルトスワローズが優勝したのはシスプリのせいらしいデス(笑)。
 シスプリって偉大だね、お兄ちゃま。


2001/11/20 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#20


 みんくりさん[11/17]

 リンクは先日の再開時にこっそり追加してました。てひひ。

 ところで曲芸(?)といえば、私は昔、お手玉の練習を熱心に(でもないかも)やってたことがあります。あれって3個までは練習すれば結構簡単にできちゃうんですよね。当時、最初は3個を左回りでぐるぐる回すやり方をやってたんですが、安定しない上に見栄えもいまいちだったので、自分であれこれ頭を捻って両手を使って玉をクロスさせる方法をやってみたら安定度が上がった上に見栄えもよくなって、それからはそのやり方で練習してました。4個になると格段に難しくなってどうにも手に負えませんでしたが。


 どんな方の日記か分からないのですが、コメントされてたので逆リンク。

 鬱系と呼ばれたのは初めてなのですが、うちってそうなのかしら…?
 平均的な(?)鬱系サイトっていうのを見たことがないのでよく分からないんですけれども。

 ちょっと前に紹介した『それはただの気分さ』にしても私は別に鬱系だとは思わないんですけどね。心象を吐露するに際してどこまで本気であれるか、だけが私にとっては重要なので。

 情緒不安定と冷静の両立は私の永遠のテーマです。
 まだまだ全然届いてない感じですが、そう思ってくれる人がいるのだとしたら少なくとも歩く方向だけは間違っていないと思ってよいのでしょうか。独り言。


 さわたりまことに花束を

 粗筋だけで泣けちゃいます。
 ぜひSSとして仕上げてくださいと脅迫…いやもとい催促…いやもとい、希望を表明します。
 いやホントに読みたいです、それ。

 既にどこそこにありますよーとか言うツッコミは却下の方向で。
 私が読みたいのはあくまでとくそんさんが書いたやつなんですから。


 星降る夜の終わりに
 
 嗚呼。
 他人の妄想話を読んで―ほんの僅かな嫉妬心もほんの微かなもの悲しさも抱くことなく―幸せな気持ちになれるなんて…。
 萌え師としての純度が私のような凡人とはまるで違います。

 ただただ虚心に頭を下げたくなりました。
 今日から師匠と呼ばせて頂きます。


 ばんがいち1月号

 106ページの広告は最強(笑)。
 買う気になるかどうかは別として見た目のインパクトはかなりのもの。
 立ち読みでいいから見とけ。(2chネタが分かる人限定ネタですが)

 漫画は memorial[とくながともこ]が安定。
 5ページ目右上のコマとか、秘め事的雰囲気が出ていて結構萌える。


 まんがくらぶオリジナル1月号

 はにーすぃーとティータイム [山野りんりん]

 柿沼さんと早苗さんって喧嘩とか絶対起きそうにないよなあ。結婚したら一生ほのぼの〜な夫婦でいられそうだ。
 ところで、しますしますーとか言う時の早苗さんの笑顔は素敵過ぎる。あの笑顔だけで幸せ。

 猫の手貸します [さんりようこ]

 親子連れで賑わうクリスマスの日のおもちゃ屋さんは、本当に猫の手も借りたいぐらい忙しいです。バイト経験者として。でもまあ接客業という仕事柄いつもニコニコしてる上、なんとなく、幸せを売る仕事をしてるんだとかいう幻想に浸れるので、案外ストレスとかは溜まらないんですけどね。


2001/11/19 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#19


 今日もせっせとドイツ語勉強ちう。

 今までモーツァルトやらシューベルトやらを色々聴いたり自分で歌ったりしてたのが僅かながらも役立ってる感じ。この構文は魔笛でパパゲーノが歌ってたな〜とか、この形容詞の変化形は水車小屋の○曲目で使われてたな〜とか色々思い出しながらやってると全然退屈しない。うっかりすると思い出しながらそのまま歌い出してしまったりするけど。


 ココロ図書館 第6話 〜コンパロイドの司書〜

 ロボットですか!?
 違いますよココロさん
 ア・ン・ド・ロ・イ・ド
 うるさい、お前なんかロボットだ


 先週のココロ図書館はなかなか、いやかなり良かったです。まず、こころんの髪型がむっちゃ可愛い。作画が良いせいもあるかもしれないけど、いつもより幼く見えて実に良い感じ。それから『だってわたしたちの妹だもの 』と言う時のあるとお姉ちゃんの誇らしげな態度。これですよ。ココロ図書館はこうでなくちゃ。でもって、受け付けでの眼鏡のお姉さんとのやり取りからこころんがドアを開けて部屋に入るシーン。こころんの“ちっちゃさ”が強調されているのはおそらく確信犯であろう。今回の脚本&コンテを切った人はココロ図書館の世界をよく分かってる。

 それに加えて。

 ごめんね、いいなお姉ちゃん…わたし、司書になれないかも

 この台詞を言う時のこころんの笑顔の素敵なこと。可愛いとか萌えとかじゃない。試験に落ちたら司書免許を失ってしまうという状況下で、それでもこころんは笑っていた。ごめんね、と言いながらこの時のこころんには微塵の後悔もない。その後の、試験官に対するこころんの態度も落ち付きに満ちている。自分の信じたものを守った人間だけが持ち得る落ち付きを、この時のこころんは確かに持っていた。こころんは幼いながらも司書のビジョンを明確に持っていてそれを信じている。なぜ信じることができたのか。こころんはお姉ちゃんたちを信じているから。お姉ちゃんたちに愛されていることに微塵の疑いをも持っていないから。だから、お姉ちゃんたちに教わったのであろう司書の心得をあれほどまでに信じることができるのだ。こころんの心の中にはいつもあるとさんといいなさんがいる。それが、こころんに単なる可愛さ以上の魅力を与えている。

 今にして思えば、2話を観た時点で箱庭世界の崩壊を憂いたのは早計だった。確かに原作に見られるような箱庭的楽園はアニメ版では壊されているが、アニメ版はこころんたちにもっと広い世界を与えたことで、結果的には却って、こころ図書館の三人の姉妹が共有している目に見えない穏やかな空気をより生々しく視聴者に感じさせることに成功しているのかもしれない。


2001/11/18 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#18


 タスケテ。

 …喜びの悲鳴?(小首を傾げて頬に軽く手を触れつつ真顔で)
 ていうかズルイですサンフェイスさん。俺も見たい〜。


 荒んだ心を癒すため(殴)、海へドライブに。
 群馬から大洗海岸まで片道3時間半。往復で7時間以上運転していた計算。疲れるわけだ。
 癒されるどころか疲れの方が大きいような…。

 早く北関東自動車道が全線開通してくれないかな。

 帰って部屋に入って最初にしたことはボディーピロー(婉曲表現)をぎゅーっと抱きしめることでした。
 ボディーピローって疲れてる時の精神安定効果抜群なんですよ。

 嗚呼成人男性失格な発言が。

 他にも色々書きたいことがあるんだけどもう無理。
 おやすみなさい。


2001/11/17 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#17


 それはただの気分さ[上山達郎氏]が復活してたのを確認して胸をなでおろしつつ。
 ところで私が読んでた過去ログというのは現日記の過去ログではなくて、11/10日記のリンクから飛べるやつのことです。もちろん現日記の過去ログも面白いのだけど、このサイト自体は数ヶ月前からコンスタントに読んでたりするし。


 あなたの無人島に持っていく5枚を教えてください[2chクラシック板]

 面白そうなので答えてみる。順不同。

1) モーツァルト・魔笛 [ベーム/ウィーンフィル]
2) モーツァルト・ピアノ協奏曲 k.491 [内田/テイト]
3) モーツァルト・レクイエムニ短調 [マリナー/academy 〜]
4) ベートーヴェン・ピアノソナタ op.109/110/111 [ゼルキン]
5) バッハ・ゴールトベルク変奏曲(旧録音) [グールド]

 ついでに、僅差で漏れたもの。もし10枚でいいなら追加するべき5枚。

・ショパン・クラコヴィアク op.14 [ピリス]
・バッハ・平均率クラヴィーア曲集 [グルダ]
・ベートーヴェン・ピアノソナタ op.101 [ゲルバー]
・モーツァルト・ピアノソナタ k.282/330/331/332 [バックハウス]
・シューベルト・交響曲ロ短調「未完成」 [セル]

 こうして書き出してみるとジャンル幅が狭いのがバレバレですな。今までに聴いたCDが果たして何百枚あるのか分からない(確か5年ぐらい前に数えた時は300枚ぐらいだった)のだけど、一生持っていたいと思うようなCDは実のところほんの数パーセントに過ぎない。いや、というよりもそのわずか10数枚に出逢うためにCDを買い漁っていたのだと言っても良いのだが。

 ところで上記とは関係ないが、こういうスレッドを見ると無性にピアノが弾きたくなってなんとも切なくなる。ある意味、私にとって最も思い出深いピアノ曲は、かつて自分で散々弾いたチェルニーの練習曲だったりするのです。今は聴き専だけど、やっぱり音楽は自分で演奏してナンボなのよね。


 妹話。

 妹萌えには二通りあるらしい。私にとって究極の妹キャラはとらハ3の高町美由希なのだけど、彼女がなぜ究極の妹なのかというと、恭也と美由希は兄妹のままで既にひとつの充実した関係ができあがっているように見えるからです。恭也と美由希の関係は、例えば鍵ゲーにおける家族関係と極めて近いものだと言えます。今更言うまでもないことですが、彼らは家族だからお互いを信じお互いを大切に思っているのではない。お互いを信じお互いを大切に思っているからこそ、家族のような何かに見えるのです。鍵ゲーにおいて“家族”とか“母親”という言葉は一種の言霊として用いられている(※)のですが、恭也と美由希の関係においても、彼らが兄妹であるという事実は彼らの関係を強めこそすれ彼らの関係に何らかの強制を加えたりすることは決してありません。恭也は兄としての義務感から美由希に接しているのではないのです。恭也と美由希の関係が理想の兄妹であるのは、彼らの関係がどんなことがあってもあのまま変わらないと思えるからです。もし結婚するとしても彼らはやっぱり兄妹のような関係であり続けるだろうし、例え美由希が他の誰かと恋愛をして結婚して、美由希の一番大切な人が恭也でなくなるとしても、それでも恭也と美由希の関係は依然として仲の良い兄妹であり続けると思うのです。妹萌えには2種類あると書きましたが、別の言い方をすれば妹キャラに対する愛情は、独占欲を抱くかそれとも抱く必要すらないかに分けられるなんていう風にも言える気がします。例えば私が乃絵美が好きであるという時、その好きは独占欲バリバリな感情です。他の野郎と一緒に歩いている姿を見るだけだって嫉妬に狂いかねませんし、もっと言えば乃絵美を抱いていいのは俺だけだとすら思う。乃絵美を好きであるという時、その好きには性欲も含まれます。乃絵美というキャラは“自分をお兄ちゃんと呼んで慕ってくれる年下の女の子”と定義されます。それに対して、私の美由希に対する感情には独占欲がまったくありません。独占欲を抱く必要がないからです。彼女はどうあっても恭也の妹で、それは一生変わらない。もちろん、一生妹であるというのは単なる血縁であるという意味ではなくて、仲が良い兄妹であるという意味です。私は美由希には性欲が湧かない。そんな対象として(別に性欲が穢らわしいとか思ってませんが)彼女を見ることはできないのです。だから私は、美由希が他の誰かと結婚することになっても、たぶん美由希を心から祝福することができます。結婚しても美由希が大切な妹であることに変わりはないし、お互いが結婚していたとしても、顔を合わせればすぐに仲の良い兄妹に戻れるだろうからです。既に兄妹という関係で規定されていてそれが理想の関係である以上、その関係を変えて例えば恋人関係になりたいなどと願う必要はないのです。彼らは兄妹として既に十分に満ち足りた関係なのですから。

 ところでシスプリの花穂。彼女も、私的には永遠の妹キャラです。花穂が他の誰かと結婚しても私は花穂を祝福してあげられます。例えば咲耶シナリオで一番萌えたのは彼女と恋人関係になるラスト辺りなのですが、花穂シナリオをプレイしていて私が一番萌えたのは、実はラストの恋人同志になるくだりではなくて、花穂が鉄棒の逆上がりに成功した瞬間だったりするんです。逆上がりがやっと出来て大喜びする花穂を見て、私もすごく嬉しかった。一緒にはしゃいでしまいたくなるぐらい嬉しかったんです。本当に可愛いやつだなあと思った。その瞬間から、私は花穂に他人性を感じなくなりました。この子は私の妹なんだ、という感覚が湧いてきて。このドジな子が私を頼ってくれる限り私はこの子の気持ちに精一杯応えよう、という気持ちしかなくなりました。花穂と私はきっと一生仲の良い兄妹でいられると思ったから、もうそれ以上を望む必要はなくなったのです。

(※)
 俺達は家族だからと祐一が言う、あるいは晴子さんが自分たちの関係を母子と呼ぶ、これは自分たちのための契約の言葉です。すなわち、家族という(望もうが望むまいが)社会的に決して消えることのない関係であることを声に出して表明することで、彼らはそこに安らぎを見出しているのです。家族であるというのは、わたしたちが離れることはあり得ない、わたしたちはいつも一緒だ、ということをお互いに納得させるための言葉です。家族という言葉を用いて自分たちを規定することで、彼らは関係を確認する。そのための“家族”なのであって、これは家族ごっこ―という言葉が連想させるような、家族という形式を取り繕うような関係―とはまったく異なるものです。ここにおいて、言葉は必ず関係(事実)の後に来る。


2001/11/16 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#16


 こちらの日記の過去ログを読むのに忙しくて更新する時間などありません。

 AIR[key]とかピアノソナタop.110[ベートーヴェン]のような作品はこういう人のためにこそ存在するんです、きっと。
 いや、これは余計なことかもしれない。

 それはそれとして。
 こういう繊細さ、それからバランス感覚に触れると、もうなんというか…恥じ入らずにいられない。共感を表明したくなるのだが、でも私には共感を表明する資格などない。私は彼ほど静かに自分を見つめる目を持っていない。ただ尊敬の念を抱く。

 もう随分読んだつもりでいたがまだ半分以上残っている。
 嬉しいことに。

 (追記)
 鯖に転送する前に見たら 404 NOT FOUND になってる…。昨日まではあったのに。うぐぅ。
 上山達郎氏の『それはただの気分さ』というサイトです。念のため。

 bLazt氏といい、こういう誠実な人がweb日記界からいなくなるのは私的にすごい損失なのだがなあ。


 脊髄反射的追記。

 文月さん[11/15]から飛んでこちら。

 …萌え窒息死確定。

 俺を萌え殺す罠なのかこれは!?
 リアンの太腿が太腿が太腿が太腿がぁぁぁっ!!

 ぜーぜー。
 なんかその、素でドキドキしてます。目が離せない。

 だだだ騙されるかおおお俺はそういう趣味はないんだゴルァ...
 ………リアンたんハァハァ...


2001/11/15 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#15


 義理リンク義務リンク礼儀リンクか、それとも本当に書きたいリンク言及か、の違い。

 私なりには、返事を期待するか否か、がひとつの分かれ目だと思ってます。返事が来ないと落ち込んでしまうようなリンク言及は不純だと思ってしまう。いや、しょっちゅう落ち込んでいた者として。リンク言及されるとどうしても話し掛けられたような気になってしまって、何か返事を返さなくちゃなんてことばっかり考えてて、そんな考えで逆リンク言及をするもんだから、言葉はどうしてもぎこちなくなる。本心からではない義務感によるレスっていうのは相手にも伝わってしまうものです。いや推測だけど。私自身もそうだからたぶん他の人も気がついてるんだろうという推測。そもそも心を伴わずに無理矢理捻り出したような言葉が相手に伝わるはずがない。でも自分は無理矢理にでも頑張って書いたという思いがあるから、どうしても返事を期待してしまう。けど、義理レスは簡単にバレるものだから大抵はそこで終わってしまう。そんで落ち込む。これは、なんか違う。

 色々考えた挙句のリンク言及についての私なりの基準は、お返事不要でとにかく何か言いたいことがある場合にのみ行う、というもの。アンリンクフリーとかにしてもそうなんですが、返事不要、というのは返事は要りませんというよりもむしろ、返事がなくても(リンクが外されても)私は気にしません、それによって貴方に対する感情は変化しません、という表明であることの方が重要だと思う。何が言いたいかというと、私は今後、勝手に何か言いたいことがある場合以外はリンク言及しません。例え直に私に向かって語られている言葉であってもです。だから、逆にうちからリンク言及されてもお返事は一切無用であり、そのことによって私の貴方への印象が変わったりはしないのでご安心ください。

 当たり前のことを言っているだけなのかもしれないけど、でも私としてはどうしても言っておく必要があるのです。


2001/11/14 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#14


 そうその人が告げた。
 ものすごく恥ずかしいことを正面きって言う人だ…。
 みんな見てるのに。
 でも、わたしは正直だから、答えちゃうんだ。
 その人は、わたしの大好きなひとだったから。
 ずっと待ち続けてたひとだから。
 これからもずっと、『一緒に居たい』ひとだから。


 「うん…いいよっ」

 あといっこ。

 注文(オーダー)は唯ひとつ(オンリーワン)他人丼(早苗ママ&公子さん)
 以上(オーバー)

 ていうか早苗たんと公子たん(辞書登録済み)は俺のです。誰にもあげません。ハァハァ...


2001/11/13 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#13


 らむださんの日記[11/9]から飛んで、妹でいこう(仮)。

 倉橋春瑠。 一見すると、人見知りでおとなしい印象を与えるが、慣れてくるとわがままを言い出したり、甘えてきたりする。本人は知ってか知らずか、非常に計算高い面も持っていて、人によってはそれが鼻についたりする。

 ぐはー。俺か? 俺のことなのか!? 許可なく人をモデルに使うんじゃないこら。
 別の意味で興味が。


 利休さん男だー。
 かっこいー。もちろん素で誉めてます。


 円周率。

 私も中学生の頃とか無駄に覚えましたよ。80桁程度でしたけど。今でも言えるのは50桁まで。但し一気に言わなくちゃダメ。途中でつっかえると続きが出てこない(苦笑)。割と、ろくに意味も分からずに丸暗記した外国語の歌とかと同じかも。一旦歌い出せばあれよあれよと最後まで歌えてしまうんだけど、個々の部分を思い出そうとするとどうも上手くいかないとか。ところでちゃんと意味が分かってないで暗記したものって時間が経つと簡単に忘れちゃうんですよねえ。サウンドオブミュージックのテーマなんて今は冒頭のワンフレーズしか思い出せない。二十歳頃は歌えたのですが。

 my heart wants to beat like the wings of the birds that like from the lake to the tree なんちて。


 触発元リンク。読み手を意識するとか KISAさん[11/8]

 我侭星人な私は内輪色の強い日記はほとんど読まないので、逆に自分で書く時も第三者から見て意味不明な文章はなるべく書かないように心掛けてます。実際にいつも実行できているかは別として。コミュニティーというものはそこに属さない個にとって暴力性(圧迫感を与える力)を秘めているものなので、そういうことにはできる限り意識的でありたいと思う。

 コミュニティーの持つ暴力性については2時間ぐらい掛けて約5000バイトほど色々書いてみたのだけど、いまいち愚痴っぽくて上手くいかないので断念。結局、土方さんが書いてたこちらにリンクを貼っておけば私としてはほぼ事足りてしまう。

 私なりに言えば、コミュニティーの暴力性というのは例えば魔女の宅急便で、トンボが仲間と一緒にキキに話し掛けた時に限ってキキが不機嫌になる、なんて場面があることを指摘しておきたい。

 例えば。まひるは俺のだーっ!!っていう個人の叫びを見ても私は別に何とも思わない。その誰かと私とは一対一だから。けれど、まひるは○○さんのもの、という風に語られると私は気が滅入る。そこでは私という個人に対して二人の(仲の良い)人間がいるから。

 正確に言えば、私が意識しているのは第三者にとって意味不明な文章ではなくて、第三者を弾くような文章なのだな、きっと。


 唐突だけど、自分の書いたものについて言うと、ONEやとらハ関連の文章には自分の気持ち的に割と自信があるのだけど、AIR関連の記述の一部とか、あと萌え100問の回答とかは、実は自分ではかなりダメダメだと思っている。それは、前者がただ書きたいという気持ち以外に何もないのに対して、後者は外部を志向しているからだ。後者の文章は、自己主張が強すぎる。悪い意味での叫びになってしまっている。誰をも志向しない叫びなのなら良いが、後者のそれは、誰かに聞いてもらいたいという焦りが混じっている。後者のそれは見せ付ける文章とでもいうべきもので、敢えて残酷な表現で極論すれば、夜勤病棟[ミンク]の恋シナリオで、主人公がわざわざ恋の彼氏の前で恋を犯してみせるようなものだ。文章が主張のためのものであるのは好ましくない。好きだと書くのは良いが、好きであることを表明するために書くのは好ましくない。そういう感情は文章から説得力を失わせる。その意味で、後者はどうしても失敗だと言わざるを得ない。


 Sister Princess [MediaWorks]

 久しぶりにPS版を起動。花穂シナリオ非血縁ルートで。

 今更ながらだが、楽園だなあと思う。“好き”しか存在しない世界、嫌われることのない世界なんて嘘っぱちもいいところかもしれないが、それでも私にとってはこういう世界はどうしようもなく心地良い。考えてみると、妹のメリットというのは一緒にいる理由が存在しないことなのかも。一緒にいるために理由を必要としない関係、一緒にいることがまったく自然であるような関係、という意味では、妹というポジションは最強といえるのではないだろうか。妹だから、会うために理由を必要としない。妹だからいつも一緒にいられる。

 花穂のこと。

 らむださんに指摘されるまで気がつかなかったのだけど、言われてみるとシスプリのキャラって確かに華奢だ。特に花穂の立ち絵は良すぎる。抱きしめることを躊躇わせるほど細いボディーラインが簡単に想像できてしまう。ちっちゃさといっても雛子は単にチビっこいだけだが、花穂は華奢さが非常に強調されているように思う。というよりも、花穂という女の子は容姿(立ち絵/イベントCG)から性格に至るまで、一貫して華奢なイメージのキャラクターとして演出されているような気がする。言葉遣いも、不器用なところも、すべてが華奢なキャラというイメージの元に統一されていて破綻することがない。そこに花穂の魅力の一端がある。

 しかし花穂の魅力は華奢であるというだけではもちろんない。花穂の最大の魅力はお兄ちゃまを信じて頼りきっているという点だ。いや、それではまだ正確ではないか。花穂の何が良いといって、お兄ちゃまにかなり依存しているキャラでありながらそのことを自分自身がちゃんと自覚していて、お兄ちゃまと釣り合うようになりたい、お兄ちゃまと対等になりたい、と頑張るところが良いのだ。花穂に好かれるというのはとっても安心する。彼女はお兄ちゃまに負担を強いたりしないし、例え負担になってしまってもそのことをちゃんと自覚できるだけの自意識を持っている。好きだからという理由で我侭に走りっぱなしになったりは、彼女はしないのである。好きだから一緒にいたいと願うのはごく自然なことだ。しかし彼女は好きだからお兄ちゃまを応援したいとまず願う。ただ愛されたいと願う女の子ではない。お兄ちゃまのために何ができるのかをちゃんと考えて、そのために頑張っている。そこが良い。花穂と一緒にいたら安心すると思う。きっとすごく和むと思う。

 お兄ちゃま(一発変換)とか連呼すると莫迦っぽいなあ。
 花穂の可愛さに免じて許してください。


2001/11/12 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#12


 らむださん[11/12]から飛んで、ハァハァ(;´Д`)汚染度チェック。結果はこちら

 124%、ランクAA だそうです。まあ妥当でしょう。
 「萌」の無い世界には未練も何もないでしょうから、ってのはええその通りですが何か? ていうか何を今更(笑)。

 参考までに私の回答の一部を。

 問5:美坂栞の病気って一体何だろう? →自分を薄幸の少女と思い込む精神病
 問8:秋子さんの料理を食べてみたい? →秋子さん自身を…ハァハァ(;´Д`)
 問9:舞よりちび舞のほうが… →佐祐理さんハァハァ
 問10:やってもいないのに鍵ゲーをけなす奴は →マジウザイイッテヨシ(・∀・)
 問13:正直、あゆに萌えたこと →ハァハァ アユタン(;´Д`) ハァハァ
 問17:年下の女の子に「お兄ちゃん」と呼ばれると… →「お兄ちゃま」の方が…

 誤解のないように言っておくと、問10は、鍵とか関係なくやってないゲームについて語るのは反則だろうってこと。


2001/11/11 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#11


 ときメモ話。
 この辺を読んでてなんとなく書きたくなっただけで関連性はほとんどありません。

 卒業式の日とか、伝説の樹の下って長蛇の列が出来てるんじゃないだろうか?
 でもって、列の後ろの方から、早くしろよーゴルァ!! 後がつかえてるんだよーゴルァ!!

 もしかすると整理員とかがいたりするのかもしれぬ。
 列の後ろにはプラカード。ここが最後尾です。現在およそ○時間待ちとなっております、とか。はい次は貴方の番です、現在大変込み合っておりますので制限時間はお一人30秒以内となっております。で、制限時間を過ぎると告白中だろうがベルが鳴って強制退去。続きは余所でやってください、とか。

 ちなみに毎年恒例なので実は予約制。告白したい方は卒業式の1ヶ月前までに生徒会にて予約申し込みをしてください。取り仕切るのは生徒会役員+バイト(ぉ)。オプションでポラロイド撮影(500円)、お好きなBGMを流す(テープ/MD/CD各自持参のこと)サービス等、貴方のニーズに可能な限りお応えします。尚、万が一キャンセル(爆)される場合は必ず前日の放課後までに役員に連絡ください。そうでないと同期合わせ(ぉ)が狂いますのでどうかご協力お願いします。

 あと、これは内緒なのですが、制限時間や並ぶ順番に関しては、生徒会役員と仲良くなっておくと便宜を図ってもらえるようです。袖の下とか接待とか。

 …念のために言っておけば、私も御多分に漏れずときメモにはハマリ狂った口です。
 一時期は寝ても醒めても頭の中は館林さん一色だったし。館林さん関連のグッズに使ったお金はおそらく○万以上。更に言えば、以前書いた『小鳥への手紙』の元ネタは館林さん宛てだったりしますし。


 ときメモの偉大さというものがあるとすれば、それはやはり、恋愛ゲームのフォーマットがほとんどなかった時代に思考錯誤して作られた作品であるという点にあるのかなあなんて思ってもいるのですが。これはただの前振り。

 エロゲーに関して言うと、今のエロゲーの基本フォーマット(物語を選択肢によって進行させる方式)は(初代)天使達の午後(ジャスト)の頃に既にあったりするのが興味深いと思う。当時のエロゲーというのは基本的には脱衣麻雀系統がほとんどで、要するにエロ絵はパズルを解いたご褒美として存在するに過ぎなかった。もちろん女の子の個性を表現しようとする志向は僅かながら見られたが、それでもそこで行われるものは、例えば野球拳のような、お約束に則った“ゲーム”だったと思う。当時の“ゲーム”ですぐに名前が出てくるものといえば、ロリータ2(PSK)、ロリータシンドローム(PSK?)、ファイナルロリータ(PSK?)、景子ちゃんの秘密(ChanpionSoft)、TOKYOナンパストリート(ENIX)、177(マカダミアソフト)等があるが、これらはいずれも、パズル的なお約束に則ったゲームだった。そこに天使達の午後という作品がリリースされてくる。このゲームが当時として画期的だったのは、エロゲーでありながらきちんとしたAVGのシステムを搭載しているということだった。天使達の午後を持って初めて、エロゲーは単なる脱衣ゲームであることをやめて、不完全ながらもひとつの世界を持った物語としての姿を獲得することになる。天使達の午後は、今思い出してみても、シナリオのレベルで今のエロゲーに通じる工夫が色々と見られる。例えば主人公に最初から彼女がいるという設定。主人公の部屋は2階にあり、2階の別の部屋には妹が一人。プレイヤーではない、個性ある主人公というものがここで初めて登場する。また物語の展開も、例えば今の彼女を抱いてしまうと本命を攻略できなくなるとか、実妹に手を出すと問答無用でゲームオーバーになるとか、相談事で友達の彼女の家に言って話をするまでは良いが話をした後で襲ってしまうと友達にバレてゲームオーバーとか、かなり倫理的である。荒削りながらも、そこには予め脱がされることを決められている人形のような存在、あるいは風俗的なお約束の上での遊びとは一線を画したものとして人間を描こうというという意気込みが見られる。今のエロゲーと比べたら初代の天使達の午後などお粗末も良いところだろうが、ともかくまだエロゲーのフォーマットがなかった時代に今の原型と言っても良いようなエロAVGを作った人がいるという事実は、私のような古い時代からのユーザーには非常に興味深い。

 一応書いておくと、本当は 177 がリリースされたのは天後のずっと後。天後の少し後に作られた SAIVOR などはかなり、女の子を描くことに力点を置いていたように見えるが残念ながら私も私の友達も98は持ってなかったので未だに分からない。当時、オフェーリアにはむっちゃ萌えていたものだったが。ザースはあの女の子が出てくる場面が有名だが、あれはあくまでもSFだった。他にも軽井沢誘拐案内(ENIX)とかオランダ妻は〜(光栄)とか女子大生プライベート(光栄?)とか隣のお姉さん(不明)色々リリースされていたが、いずれも未プレイにつき内容はおおよそしかわからない。以上のゲームが売られていたのは、大体、15〜17年前の話。


2001/11/10 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#10


アクセスが怒涛の勢いで増えてます。
 むろん一過性のものでしょうが、それにしても、今までがむしゃらにあれこれ書いてきたことは無駄なんかじゃなくて何かを残すことができていたのかもしれないなあと思うと、救われた気持ちになります。

 俺ってぴーぴー泣いて他人の気を引くガキなんじゃないだろうかとかいう考えはどうしても付き纏うし、そのことで罪悪感めいたものを感じたりもして、でも罪悪感を抱く自分を意識すると、結局は罪悪感すらも自分の安心を得るための道具なのかと思ってそのことで一層罪悪感が募って、でもやっぱり多くの人が『おかえり』と言ってくれるのがどうしようもなく嬉しくて。

 白状してしまいますと、ここ数ヶ月の私は、好意を持って読んでくれている方への感謝の気持ちをほとんど忘れていました。ホームページは自分のためだけの城なんだから他人なんてどうでもいい、とすら思っていました。それは余裕のなさのせいだったのですが、余裕があろうとなかろうと、そういう気持ちを抱いてしまったことはやはり恥ずべきことです。“できなかった”という言葉は私がもっとも嫌う言葉のひとつです。世の中には本当にできない、どうにもならないようなことだってあります。しかし“やらなかった”のを“できなかった”に摩り替えるのは恥ずべき行為です。

 ともあれ。
 世界はたぶん私が思ってるほど残酷じゃないんだと思います。

 言葉を掛けてくださった方へ。どうもありがとうございます。
 正直、幸せすぎて罪悪感なんか抱く余裕はありません。


 Sister Princess キャラコレ2巻 花穂 [メディアワークス]

 揚げパンを食べようとして口をあーんってあけると……お口の端っこがね、いつもピリッって破けちゃいそうになるんだぁ……。

 平山さんが既に指摘してる(正確には平山さんが指摘したのはスパゲテイーの方だった)けど、この描写は可愛いすぎる。転がり萌え級に良い。花穂がちっちゃい口をあーんって開けているところが目の前に浮かぶよう。花穂のちっちゃいおくち…ハァハァ。


 せんせいのお時間 3巻 [ももせたまみ/竹書房]

 1巻とかの頃から比べると、みか先生の頭身があからさまに縮んでる気がする。ていうか縮んでる。幼女化してるとさえ言っても良いかもしれない。俺的には可愛さ5割増なんだけどさ。

 ところで以前から気になっていたことがあって。
 私は身長172cmの普通の男ですが、まあ平均的に見て、女の子って自分よりちっちゃくて華奢ですよね。でもギャルゲーとかあるいは漫画とか見てても、そういうちっちゃいイメージってあんまり表現されてない気がするんですよ。漫画についてはまあ―私がメインに読む―少女漫画は女の子による女の子のための漫画な訳だから、等身大の女の子のイメージ(視点)で描かれるのが正しいんだと思うんですが、男の子視点で描かれているのが大半であるはずのギャルゲーエロゲーの分野で、そういうちっちゃさとか華奢さとかが表現されていることってほとんどないのはどうしてなんでしょうか。


 メモ。

・12月7日 はにーすぃーとティータイム 1巻
・12月13日 Sister Princess〜ピュア・ストーリーズ〜


2001/11/9 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#09


 幻想曲へ短調op.49[ショパン]CD16種類聴き比べリスト。

 聴き方は1日2枚ぐらいずつ約1週間掛けて16種類を通して聴き、それを2周。時々スコアを眺めながら。あと、このインプレッションはあくまで2001/11/9時点でのもの。今後変わる可能性あり。音楽の印象はその時の精神状態や体調等でころころ変わってしまうものなので、自分のための備忘録以上の意味はおそらくないと思われる。

・至上の一枚

 エフゲニー・キーシン

 とにかく音が抜群に綺麗。特に高音の美しさは筆舌に尽くし難い。まるで一音ごとに光の雫がさらさらと零れ落ちるよう。それから、構成面での工夫。この曲の中でも特に印象的な楽想(77小節目から始まる部分と127小節目からの部分)が後半に入ってもう一度現れる際、このピアニストは、同じ楽想を一回目とはまったく違った表情を付けて弾いてみせる。再現時の表情の違いは楽譜にも指示されているのだが、これほど鮮やかに一回目と二回目を引き分けて、しかも聴き手を引き込む演奏ができる人はキーシンを置いて他にいない。

・面白かったもの

 アルトゥール・ルービンシュタイン おおらかなショパンとでもいおうか。安定度が高くて安心して聴ける一枚。
 ジャン=マルク・ルイサダ(99年盤) ちょっと癖のある演奏だが、歌わせ方が非常に面白い。良い意味での色気を感じる。
 クラウディオ・アラウ 癖も個性もないが、それは裏を返せばどこまでも端正な、安定した演奏であるということ。
 クリスティアン・ツィマーマン 誠実さを印象付けられるピアノ。例えば発声のすごくきちんとした人の声を聞くような心地良さがある。

・今回は漠然とした印象しか残らなかったもの

 ギャリック・オールソン
 フー・ツォン
 アルフレッド・コルトー
 アンドレアス・ピストリウス
 ヴィルヘルム・ケンプ
 ウィトルド・マルクジンスキー
 ソロモン

・疑問だったもの

 エリック・ハイドシェック 色々と工夫して面白い演奏にしようという意気込みを感じるのだが、小細工になってしまっている印象。
 ミハイル・プレトニェフ 遅い。時に息苦しささえ感じさせるほどねばっこく進むマーチ。波長が合えば引き込まれるかもしれないが…。
 アルトゥーロ・ベネディッティ=ミケランジェリ 大ピアニストらしからぬ注意力散漫な演奏。もしかして海賊盤?
 ウラディーミル・アシュケナージ(新録音) ガシャガシャ弾いてて五月蝿いだけ。旧録音を聴くまでは評価保留にするべきだろう。


2001/11/8 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#08


 引用。

 ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれまでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。

 堕落論[坂口安吾/角川文庫]より、恋愛論の中の一節。


 相変わらず世界は何も変わらない。

 生きることは相変わらず過酷だ。小さな経験、小さな痛みが、私の臆病をちょっとずつ助長する。小さな無数の声が、お前はろくでなしだと私に告げているような気がする。しかし、その過酷な声に混じって、ちいさな、別の声が聞こえる時がある。その声が聞こえると、今までモノクロだった世界が急に鮮やかな色彩を帯びる。風が私の心に溜まった埃を吹き飛ばすような感触を覚える。

 実は、世界は私が思っているほど残酷ではないのではないか…?
 私が勝手に世界を敵視していただけなのではないか…?


 萌えとか好きとか。

 信仰告白は、外部を志向せず、自分の内に留まり続ける限りにおいてのみ正しい。

 私は、萌えがもっと真摯な感情であることを望みます。

 重要なのは目の醒めるような叡智ではない。
 私にとって何よりも大切なのは、作品に接する態度です。コミュニケーションのツールとしてではなく、その作品と自分の他には何も存在しないかのように、一対一で向き合うこと。私たちが好きな人に対してそうするように、ふたりっきりで向き合うこと。好きな人に対してそうするように、誠実に向き合うこと。重要なのはそういう姿勢です。

 萌えがコミュニケーションツールでしかないなら、私はいっそ萌えなんて言葉は捨てます。

 いや、単に『私はそう信じる』というだけですが
 他の人には他の人なりの態度というものがあるのだと思います。それはできるだけ尊重しなければならない。

 先月のあの日はこの信仰がおそらく誰にも分かってもらえない(という当たり前の)ことに絶望を覚えたのですが、今はもうそんな気持ちはなくなりました。少なくとも私が信じていられれば、それで良い。

 莫迦話やネタとしての萌えというものがあるのは私も認めます。認めるというか、そういう萌えも私には必要です。ただ、それ<だけ>ではいけない。要はバランスの問題です。それから。真摯な萌えとそうでない萌えとの違いを、使う本人が自覚しているかどうかが問題なのです。


 密かに書きためていた10月後半と11月前半分の日記をアップ。HTML化するのが骨でした。


2001/11/7 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#07


 きみえそオフとか水夏オフとかがあるのなら、とらはオフとかやってみたいなあなんて思う今日この頃。参加条件はとらハが好きで少なくとも1〜3はプレイしていること。メンバーは、黒須さん、早瀬さん、みんくりさん、keyさん、雪駄さん、しのぶ、、、とか。

 あー。嘘。いやちょっと夢を見たかっただけです。
 関西関東東北と居住地がばらけていてはさすがにこのメンバーでの開催はキツイし。

 とらはオフやりたいねーとか気軽に言えるお友達がいないのが私の(致命的な)弱点だなあと思う。


 部屋の隅で粗大ゴミ化してる古いPCを処分。売ろうか実家に持っていって妹にでもあげようかとか色々考えていたのだけど、PCを運ぶ手間を考えると処分するのが、結局はコストパフォーマンスが一番良い。時間は大切です。


 IMEのクソ変換にムカついてキーボードを引っ叩いたら、裏に付いてる底上げパーツ(?)が折れた。いくらなんでも新しいキーボードを買うのも浪費すぎるので、何か角度調整の策を考えないと。


 POCKET HEART [吉崎あまね/ENIX]

 きれい。ひたすらきれいなおはなし。楽園、と言ってもいいかもしれない。私が夢見る楽園は、悲しんだり怒ったりという感情が存在しない世界のことではない。そんな世界は私には不自然だ。人間はきっと、どれだけ素晴らしい環境を手に入れても、やっぱり喜怒哀楽を失うことはないと思う。エデンの園のような場所で暮らしたとしても、人は誰かを好きになり嫌いになり、そのことで笑ったり悲しんだりするのだと思う。今の私たちがそうであるように、1000年前の人間も、やっぱり人間関係の悩みというものを抱えていたに違いないと思う。過去に、人間関係の達人なるものが存在したとしても、その経験は誰にも受け継がれ得ない。過去にどれだけの人間が恋愛やその他の色々な人間関係で苦しい思いをしようとも、そのことによって後から生まれてくる子供たちの苦労は少しも軽減されることはない。人は誰でも、赤ん坊として生まれ、育ち、経験を積み重ねて成長していく生き物で、それ以外のあり方はないからだ。

 人間は楽しいことだけ享受して生きていく訳にはどうあってもいかない。しかし、怒り、悲しむのであっても、その根底に何かへの想いがあるのかどうかで事情はまるで違ってくる。私は、母親のヒステリーが嫌いだ。母親がヒステリックに子供を叱っているのを見ると、なんとなく気持ちが沈む。子供を叱るのがいけないのではない。むしろ子供が社会的に不適切な言動をした場合には、親は子供を叱るべきなのだろう。しかし、子供をヒステリックな仕方で叱る親達は、子供により良く成長して欲しいから叱るのではない。あれは単に苛立ちを子供にぶつけているだけだ。そこには愛がない(もっとも愛があれば許されるなどというのも馬鹿の発想というべきで、私は“愛の鞭”なる言葉が、唾を吐き掛けたくなるくらい嫌いなのだが。愛の鞭なるものを親から幾度となく食らわされた身としては)。子供を叱るのは実に難しいことだ。単にムカツクから叱るというのでは虐待だ。しかし愛の鞭なら良いかというとそうではない。愛の鞭なるものは、子供を『教育』するのではなくて『調教』する行為であり、それは恥ずべきことだ。愛の鞭を行う親は子供を正しく導く存在ではなく、子供を自分の思い通りに作り変え、自分の意思に従わせようという唾棄すべき存在であるにすぎない。

 大幅に脱線してますか。

 この POCKET HEART が楽園なのは、登場人物たちに悪意がないせいだ。リデルやネジが怒ったり悲しんだりするのは、彼らが優しすぎるからだ。人間関係において、時に気持ちがすれ違ったりすることは避けられない。しかしこの物語の登場実物たちは、みな、人間を信じている。誤解によって疑心暗鬼に陥ったりすることは決してない。誰かを恨んだり自分を正当化したりしない。誤解があれば微笑みを持って近づき誤解を解けば良い、という単純にしてこの上なく正しく、同時にこの上なく難しいことを、彼らは普通に信じている。いや、この物語を魅力あるものにしているのは、彼らの単純さであるのかもしれない。彼らは、裏も表もない。例えば彼らが悲しむ。しかしその悲しみはどこまでいっても単純な悲しみであるに留まり、誰かへの憎しみや自己憐憫や悔恨やらと交わることがない。純粋な悲しみ、純粋な怒り、なんていう風に言っても良いかもしれない。その純粋さが、彼らの言動にすごい説得力を与え、また彼らを愛すべきものにしている。楽園とは、悲しみや怒りのない世界のことではない。楽園とは、喜びや悲しみや怒りが純粋であるような世界のことだ。この作品には、その鱗片が確かにある。

 ところで『わたしの狼さん。』も『POCKET HEART』も早瀬さんが日記で紹介してくれなかったらたぶん未だに存在すら知らないでいたでしょう。少女漫画至上主義的腐れオタはENIX系など素通りですから(笑)。まあその、早瀬さんに感謝、なのです。


2001/11/6 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#06


 パソコンパラダイス12月号を読みつつ新作チェキ。
 たぶん買ってもやらないが。

・カフェゼリーワルツ [ペンギンワークス・発売日未定]
・Virgin Bride〜堕ちた花嫁〜 [Riddlesoft・11/22]
・新体操 [ぱんだはうす・12月予定]
・尽くしてあげちゃう3〜わたしのご主人様〜 [トラヴュランス・12/7]
・はじめてのおるすばん [ZERO・12月予定]

 絶対に買うのは、はるかぜせつな氏[眠れる森のお姫様]原画の『カフェゼリーワルツ』と『はじめてのおるすばん』の2本。
 後はまあ気が向いたら。


 わたしの狼さん。 [藤原ここあ/ENIX]

 萌えたりとかはしないけど、普通に面白い。雰囲気的にかなり私好みの漫画。
 まああれだ、莫迦な娘ほど可愛いってやつやね。

 ちょっと真面目な話、この漫画のキャラに“萌えない”のはこの漫画の欠点ではなく取り柄です。萌えの対象とするには小桃は健康的すぎる。おそらく、作者の欲望がまったくといっていいほど投影されていない(良い意味で)せいか。作者自身、読者を萌えさせようなどとは微塵たりとも思ってはいまい。それが小桃や魔王をいよいよ魅力的にしている。

 あと。関係ないっていえばないのだけど、この漫画を読んでて、津田雅美のカレカノ以前の読みきりを思い出した。尊大な彼氏に翻弄される少女、の話。タイトルとか忘れたけど。


2001/11/5 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#05


 HUNTER×HUNTER 13巻 [冨樫義博/集英社]

 クロロ様の『こいつは使命より仲間を取る』(P.16)って台詞、連載時にはなかったはず。“鎖野郎の弱点”というのが分かりにくかったから追加したのだろうか。

 まあそんなことより。この巻の見所はなんといってもパクノダが死ぬ場面。不適切であるかもしれないが、私はやっぱり、この場面をどうしようもなく美しいと思ってしまう。痕[leaf]風に言えば、命が散る瞬間の輝き、とでも言えようか。


 ヒカルの碁 [ジャンプ49号]

 最後の2ページ。体が震えるほどの迫力。
 ここしばらくの退屈な展開はすべてこの瞬間のためにあったのだな。


 お兄様へ… [いもむや本舗/シスプリ/咲耶/18禁]

 先日買った同人誌の中の一冊。今まで読んだシスプリ関係の同人誌の中でもずば抜けて秀逸な出来につき書き留めておく。最初に言っておくと、この本に収録されている漫画は、特にずば抜けて絵が上手いという訳ではないし、特にずば抜けてストーリーが良いという訳でもないし、特にずば抜けてエロイという訳でもない。もちろん平均的に見れば十分に上手いレベルに入るだろうが、単に画力だけを問題にするなら他にもこのくらい描ける人はたくさんいるだろう。ではなにが良いのかというと、この人の描くキャラクターは表情がものすごく良いのである。表情が生きている、という言い方では曖昧に過ぎる。表情が生きているとはどういうことか? 私なりの考えを言えば、それは、その人間でしかあり得ない表情、その瞬間にしかあり得ない表情がある、ということになる。現実においては、例えば“嬉しい時の顔”ひとつ取ってみても、その表情は本人が置かれた状況によって無限の幅を持つ。贈り物を貰った時の笑顔と待ち合わせ場所に好きな人が現れた時の笑顔は、言葉の上ではどちらも“嬉しい表情”であるかもしれないが、そこにはニュアンスの違いといったものが絶対に存在する。理想論を言えば、ここは咲耶がお兄様を発見して声を掛ける場面だから咲耶の笑顔を描く、というあり方は本末転倒なのであって、正しくは、ここは咲耶がお兄様を発見して声を掛ける場面だから『その場面に相応しい』表情を描き、それが結果的に笑顔という言葉で表される表情になるのである。出来あがったものが同じように見えたとしても、このふたつはまったく別のものだ(※)。これは、おそらく大変な難事なのだろうと思うが、このシスプリ漫画を描いた人は、ニュアンスの無限の段階があることを知っていてそれを表現できる人だ。このわずか16ページの小さな漫画の中に、『咲耶の表情』でないものはひとつもない。どの瞬間の咲耶の顔も、絶対にその状況にしかあり得ない表情をしている。人物描写がリアルである、というのはこういうことだと私は思う。それはデッサンが優れているとか写実的な画風であるとかいうこととは全然別の問題だ。現実の人間が見せる『その場限りの表情』は、しばしば、いやほとんど常に言葉にはなり得ないような微妙な陰影を持つ。『嬉しさ』や『悲しさ』なんていう単純な言葉で完全に言い表せるような表情などというものはこの世には存在しない。誠実に観察する態度がある人間にとってはそれは自明なことだ。私たちは世界に存在するあらゆるものに言葉を与えるが、その言葉と現実とがどのくらい乖離しているかについては意外なほどに無関心であることが多い。私たちは物に言葉を与えることによって安心を得ているのだが、その一方で、何かに言葉を与えた瞬間、その物に対する観察と思考が停止してしまうことが多い。…脱線。この小さな漫画の魅力は何よりもまず絵の雄弁さだ。咲耶の表情の多彩さは、彼女をまるで生きている人間であるかのように見せる。生きている人間はいつも魅力的なものだ。

(※)表情の微妙なニュアンスを絵で表現できるプロの漫画家といえば私は真っ先にやまざき貴子氏を思い出す。


2001/11/4 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#04


 詰まらない用事で出社。3時間ほど拘束。


 相変わらず、車内BGMは花右京メイド隊OP。この歌って、メイドさん本人が目の前で歌ってるとか想像するとかなり幸せな気分に浸れると思う。この歌の魅力は何と言っても多彩な音色(声色というべきか)の変化にあると思うのだけど、それぞれの声から、歌っている姿まで想像すると、萌える。めっちゃ萌える。ご主人様の目を見ながらノリノリでソロパートを歌うイクヨもかなり萌えるし、それよりなにより、グレースのパートが良い。グレースは背がかなり小さいので、きっとマイクの高さを最低にしてもまだ足りなくて、マイクを下向きにして背伸びして、両手でマイクを持ちながら、『うみにまけないひろ〜いこころ〜』とか一生懸命やってるんだろうとか想像すると、もう転げまわりたくなるぐらい萌える。まだやったことのない人がいたらやってみましょう。余裕で萌え死ねます。


2001/11/3 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#03


 以前から行ってみたかった竜ケ窪の池[新潟県津南町]を見に行く。

 群馬を朝8時に出発、伊勢崎IC[北関東自動車道]→高崎JCT[関越自動車道]→六日町IC→R253→R117 とひたすら走る。事前に同僚に聞いていた通り、大体3時間半ぐらいで到着。

 駐車場に車を置いて山道を歩くこと5分ぐらい。竜ケ窪の池が見えてくる。観光地、などという言葉とはおよそ無縁な静寂。山の中にひっそりと存在している池。紹介記事なんかを読むと、周囲の緑を映して水面(みなも)が緑に見える、などという風に紹介されていて、また写真で見てもそんな感じなのだが、実際に自分の目で見ると、そんな紹介記事や写真の知識はまったく意味を失ってしまう。確かにエメラルドグリーンの水面は言いようもなく綺麗なのだが、むしろ私としては、この池が持つ近づきがたい雰囲気の方により強く心を惹かれた。実際に行ってみて初めて分かったことだが、この池は人目を離れるように山の中にひっそりと存在していて、しかも周囲を木々に囲まれているために、池のほとりまで行けない。従って、池が目の前に開けている、というのではなくて、木々の向こうに池が見える、という感じだ。木々と、池に向かって落ち込んでいる地形のために、竜ケ窪の池は、人に発見されてなお、人を近づかせない雰囲気を保ち続けている。本当に、神秘的、という言葉がぴったり来る場所で、この池を見ていると、竜神(伝説があるらしい)ぐらいいても不思議ではないような気がしてくる。

 唯一残念なのは、狭霧が隣にいなかったことだ。
 この場所を知らなくて、取っておきの場所があるんです、とかって狭霧に教えて貰えたらなぁなんて思った。

 帰りはまだ時間があったのでちょっと秋山郷まで足を伸ばして、萌木の里の露天風呂に入ってきた。真昼間に紅葉を見ながら露天風呂に浸かっていると、なんとも贅沢な気分になれる。ありきたりの文句だが、本当に、心も体も癒される、という感じ。


2001/11/2 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#02


 未だに忘れられないのだけど。でも。これだけは言っておかなくてはならないこと。


 相手に対して失礼なことをしたのだったら、私は相手に謝れば良い。大抵の場合はそれで上手くいく。しかし私の書く文章が嫌いだと表明されたら、私はもうどうしていいか分からない。というよりも、どうしようもない。この場合は謝って済む問題ではない。私はどこまで行っても私で、私以外の者にはなれないのだし、誰かに嫌われたからといって、その人に好かれるために自分を変えなくてはいけないというのはどこかおかしい。『失礼』に対しては謝ればよいが、『嫌い』に対して、ではあなたに好かれるよう私は自分を変える努力をします、なんて言う訳には絶対にいかない。それは違う。それは不自然だ。嫌いだと言われてしまったらもうどうしようもない。しかし。どうしようもないのだけど、それでも納得できなかったらどうすればよいのか。

 私は私を守るために、結局は相手を、時に、否定せざるを得ないのかもしれない。

 これだけは言っておかなくてはならないこと。私が書くものにムカツクのは貴方の性格からして当然のことです。しかし、貴方を感動させた(らしい)ONE感想を書いたのも、確かに私なのです。貴方を嫉妬させた(らしい)とらハ3那美シナリオ感想を書いたのも、確かに私なのです。貴方をムカツかせる文章も、貴方を感動させた文章も、同じ人間の口から出てきた言葉なのです。いや、言い換えましょう。私が、貴方をムカツかせるような言葉を吐かざるを得ないような人間だったからこそ、ONEやとらハを称える文章の数々が生まれたのです。時に毒を吐かずにいられないような精神の持ち主であるからこそ、私は、ONEやとらハの世界にある美しいものを敏感に嗅ぎ取ることができたのです。毒も、頌歌も、どちらも、出てくるしかなかったものとして、出てきた言葉です。それは私にすら止められない。私の言葉が常に美しいものであることを期待するのは間違いです。いや、それは不当ですらある。

 まあ今更言っても詮無きことではあるのですが。
 世の中には、近づかない方がお互いに上手くいく関係というのもあるのでしょう、たぶん。


2001/11/1 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-11.htm#01


 お腹がむかむかする。
 気持ち悪い。
 眠れない。

 今週に入ってからずっと、会社から帰って何もしていない。力がでない。生命力が弱まってる感じ。

 周りの人間が、みんな、すごく正しく見える。
 自分だけが、場違いな存在に感じる。自分だけ、地に足がついていないような気がする。

 もうこの世の何も信じられない。
 美しいもの以外、目に入れたくない。耳に入れたくない。

 えいえんのせかいに行きたい。他に何もいらない。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



トップページへ戻る