棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

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2002/3/31 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#31


 秋桜の空に [Marron]

 すずねえに恋愛中。
 というかむしろ、すずねえの弟になりたいです。

 他にどんな言葉が必要なのか分かりません。だってだってすごいんですよこの人。「よしよし、ごめんねーお姉ちゃんが悪かったねー」とか、もう慰めるとかじゃなくて「あやす」って言葉がぴったり来るような甘やかしっぷり。主人公17歳(たぶん)すずねえ18歳(たぶん)なのに、どう見ても幼稚園児とちょっと大きめのお姉さんという感じ。すでにこれはいちゃいちゃですらないです。ただひたすら甘やかしてるだけ。あかりや瑞佳だってここまで極端な世話焼きじゃありません。こういうのがやりたかったんですよ俺。なんか毎回同じことを言ってる気がしないでもないですが。キャラのイメージで類似したものを敢えてひとつ挙げるとすれば、継母調教の景子さんでしょうか。彼女をもっと元気のいいお姉ちゃんにカスタマイズしたらすずねえになりますたぶん。いずれにせよ共通するのは、主人公への無条件肯定。これはまああかりや瑞佳もそうといえばそうなんですが、すずねえの場合は自他ともに認める年上のお姉ちゃんであるゆえに、世話を焼くにしても、献身的というよりは、可愛がるという方が近いのです。雰囲気でいうなら、これは主人公がお姉ちゃんにひたすら可愛がられるゲームです。好きとかいうのはとっくに飛び越えてしまっているんですね。すずねえはもう只々主人公のことが可愛くてしょうがない。だから甘やかすんです徹底的に。愛されるとか尽くされるとかは他のゲームでも体験できますが、可愛がられるというのはなかなか体験できるものじゃありません。世の多くのギャルゲーエロゲーにおいては、ヒロインは基本的に庇護の対象であることが多いのですが、このゲームにおいては通常の関係が逆転しています。主人公はすずねえにとって庇護の対象なんです。ここが、あかりや瑞佳との相違点でしょう。すずねえのデフォルト感情は、例えば「わたしがあなたを守ってあげる、この残酷な世界のすべてから、あなたを守るの」(大村いろは/終末の過ごし方)とかそういう感じです。愛される、という言葉は考えてみると非常に抽象的な言葉です。愛されるとはどういうことなのか。私は愛する/愛されるという言葉にリアルを感じることができません。それはどういうことなのか、参照するものが自分の内にないからです。でもすずねえなら。彼女は好きとか愛してるなんて野暮なことは言いません。それはただの言葉です。念のため書いておけば、私は、すずねえと恋仲になる前のお話の方が遥かに好きなのです。すずねえは主人公が好きで、主人公のことが可愛くてしょうがなくて、あらゆる場面で主人公を庇い、守ろうとするんですが、でもそれは必ずしも恋愛感情に基づくものであるとは言えません。これは恋愛感情よりずっと遥か先にあるものです。あるいは恋愛感情以前の問題と言ってもいいのですが、もうなんていうか、すずねえは何も考えていないんです。自分が主人公に尽くしてることなんか微塵も認識していないというか。すずねえが主人公を可愛がるのは主人公が可愛いから。すずねえが主人公を守ろうとするのは守りたいから。それだけで他になんの理由もありません。主人公とすずねえは弟とお姉ちゃんという関係に自然に収まっています。好かれるというのは私にとっていつも、幾分かは重荷です。好意に応える義務が生じるからです。いや、本当は義務なんてないのですが、好意に応えなきゃ嫌われちゃうという意識が、私に重荷を負わせます。でもすずねえに好かれるのなら、私はたぶんそんな重みを感じなくて済むと思うのです。彼女は好意で主人公に尽くしているんじゃないからです。彼女はただ主人公のことが可愛いんです。だから可愛がる。そこには他になんの思惑もありません。それが私を安心させるんです。なんの思惑もなく可愛がられている時、初めて、ああ私はこの人に愛されているんだ、と思えるのです。


2002/3/30 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#30


 某所で紹介されていた俺正というレビューサイトが面白い。

 レビューというよりは感想風の読み物という感じで、購入の参考レビューというよりも既にゲームをプレイした人が読むためのライトな読み物という印象。ただし、ライト=内容がない、では当然ない。例えば、月陽炎についての「シナリオとキャラが分離している」という指摘、はじるすについての「愛がない」「爛れた空気の蔓延」という指摘。特に後者は、私がはじるすについてずっと感じていたにも関わらず上手く言えなかった違和感が、はっきりとした言葉で示されている。あと、加奈についての指摘なんかも興味深いと思う。

 それはそれとして、この方の秋桜の空に[Marron]のレビューを読んで“すずねえ”なる人物に激しく心惹かれたので急遽購入&プレイが決定しました。この方によれば、このゲームは「キング・オブ・甘えゲー」だそうで。甘ったれ&ナルシストなしのぶとしてはやるしかないでしょうやっぱ。


 まあ一応私見も書いておくと、私自身は甘えゲーにはほとんど飢えてはいないんですけどね。甘えたい願望を満たすゲームがあるかっていえば確かに少ないような気はするのだけど(もっとも私のエロゲープレイ本数自体たかがしれてますが)、結局のところヒロイン側に普通に感情移入してしまう私的には、世のギャルゲーエロゲーは多かれ少なかれ甘えゲーだとも言えてしまうので。これらのゲームのほとんどは、主人公がヒロインを幸せにする、という筋書ですから。ある意味、とらハシリーズとか月陽炎なんて最高の甘えゲーです。

 今思いついたのだけど、私がKANONのあゆとか名雪に感情移入できてもONEの澪には感情移入できないというのはなかなか興味深いことだと思う。澪は必ずしも浩平を必要としていない、自立しているキャラですからね。その愛くるしい言動にも関わらず。萌えはするけれども感情移入はできない。みさき先輩なんかは一見自立しているように見えるけれども、澪とは逆に浩平を必要としている(あれは浩平との出会いを通じて閉じた世界から外にでることを覚えるシナリオなので)ので、萌えも感情移入もスムーズにできるんですが。

 今更ながら、ONEの澪シナリオは面白いと思う。澪の魅力のひとつは「解決を必要とする課題」を抱えていない、という点にあるのではないかと。その、抱えていないということが、彼女にある軽やかさを与えているような気がします。可愛い外見に幻惑されがちですが、彼女は鍵系ヒロインの中でも稀な、良い意味での「大人」キャラです。少なくとも、精神的な幼さを抱えている他の鍵キャラとは明らかに違う。


2002/3/29 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#29


 眠い。

 ゴールデンウィークの旅行の準備は着々と進行中。「るるぶ」やら地図やらを眺める日々。色々と面倒なんだけど、でもその面倒さすら楽しい。

 桜の樹の養分になって美しい花を咲かせることができるのならそんな死に方も悪くないなあ。いやむしろひとつの理想であるかもしれない。全然見当違いな反応ですが。美凪とかのことだと私はどっちかっていうとみちるになりたいかな。みちるになって美凪のスカートをめくりたい。往人の身でそんなことしたら三日はお焦げご飯を食べさせられそうだけど、みちるならね、許して貰えるかなあと。ところで私は「高町家に生まれたい」とか時々書いてますが、これはもちろん、今の私はとらハ世界に相応しくないと感じているからです。高町家で暮らすには、今の私は穢れすぎているから。リセットして最初からやり直すとかでもしなきゃ駄目なんです。こんな私でも桜を咲かせることができるのだとしたら、それは素敵です。そんな死に方は悪くないと思う。


 追記あれこれ。


 車の修理完了。
 クラッチディスク&カバー&レリーズベアリングを交換。後、スパークプラグも。なんか部品代よりも工賃の方が高かったが、ともかくクラッチの繋ぎは面白いほどスムーズになった。運転が楽しい。


 この状態は、不特定の場(コミュニティ)においてなりやすい。特に、人が多くなればなるほど、その”人”が自分とは関係がなくなるほどなりやすい。”自分”という存在が”認識”されていない錯覚がこの状態を作り出すのだと思う。東京の街を独り歩いてる時など、わりと、この状態か、これに近い状態になったりする。

 独りでいる時よりも人混みの中にいる時の方が孤独を強く感じる、みたいなことはよく言われますが、私の経験では、一番孤独感が強くなるのは中途半端に群衆の中にいる時だと思います。独りでいる、というのはそれが単純にそれだけの事実として留まっている限り、痛くも痒くもありません。独りでいることが悲しく思われるのは、独りでいることを相対化してしまった時です。例えば、ある子供が一人で砂場で遊んでいる。その子は一人で全然気にしないで楽しく遊んでいる。けれども、同じ公園内で鬼ごっこをしている数人の別の子供達が、ふとその子の視界に入る。その時その子は初めて、自分が一人であることを意識する。そして言いようのない寂しさで胸が一杯になる。例えばこういうことです。私についていうと、私は東京の街の一人歩きには孤独をあまり感じません。東京という場所は人がたくさんいますが、それらは結局“一人の人間がたくさんいるだけ”であるように私の目には映るからです。あれはコミュニティーではないからです。東京の中では、私も“たくさんのひとり”の中の一人であるにすぎない。でもだからこそ、相対化の寂しさからは無縁でいることができるのです。思うに、最も強い孤独を覚えるのは中途半端な関係が存在する時なんです。例えば会社(学校)での休み時間に雑談の環の中に一見入っているように見えるのに、実は場を支配する会話にまったく入っていけなかった場合。会話の場というものはそれほど自由なものではありません。少なくとも4人以上の人間が場にいれば、かならず場を支配する人間が――という言い方が不穏当であるなら、イニシアチブを常に取るような人間が――生まれます。一見自由に会話が行われているように見えても、実質は中心人物の思惑に従って場の会話は進行します。良い悪いではなくて、単純に現実とはそういうものです。人が集まれば必ず序列が生じるという、ただそれだけのこと。そして、こういう場で会話に入れなかった場合、孤独感は人混みの中を歩くことの比ではありません。なぜなら人混みの中の彼らは端から自分と無関係な存在ですが、あるコミュニティーにおいては関係があるはずだからです。場が盛り上がっている状況で自分が場に入れなかった場合、恰も、取り残されたような感覚、「自分という存在が認識されていない錯覚」が生まれます。この場合、意識の問題において自分はもはや“聞き手”ですらないのです。表面上はむろん、語り手と聞き手とに分かれているのですが、しかし語り手の意識が自分以外の誰かの方を向いている――いやむしろ、相手の意識が自分の方に微塵も向いていないと錯覚させられる――としか思われないとしたら、それはもはや会話ではありません。ただ、ある二人の会話を横から盗み聞きしているのと何ら変わらないのです。つまりこれが、私が多人数での「オフ」を怖がる理由です。私は自分が部外者になるのも、誰かを部外者にして自分だけ楽しむのも嫌です。最近いよいよ強く思うようになってきているのですが、会話というものが言葉のキャッチボールであるのなら、本当に会話と呼べるものが成立するのは二人ないしは三人ぐらいの少人数の場合に限られるような気がします。私の観察するところ、コミュニティーが多人数になればなるほど、参加者一人あたりの個性はその分薄まるように感じます。例えば10人の人間がテーブルについて雑談をしていたとすれば、そこではもはや問題にされるのは言葉だけで、その発言者のことは全然意識されなくなるようなのです。私は、多人数での雑談というものを、恰もカードゲームかなにかであるように感じます。つまりそういう場では、それぞれがその瞬間瞬間で適切なカードを切っていくことで、ゲームのようなものが成立しているのです。カードはしかし出来合いのものです。むろん人によって所持しているカードは違うのですけれども、結局のところ、そこで一番重要なのは、いかにその瞬間に相応しいカードを切れるかという判断力とスピードです。相手の出したカードに反応して自分は手持ちのカードを切る。これは大人数である場合、確実にスピード勝負になります。同種のカードを何人もが持っていても、カードを切ることができるのは一番速く場に出した者だけです。残りの者は大人しく引っ込めるしかない。引っ込めたカードは重いです。いや一枚一枚は大したことはなくても、積み重なれば倍々的に重さを増していきます。いやこれは脱線。問題なのは、そういう場においては誰もカードの内容しか見ていないということなのです。ここでまた先ほどの問題と重なるのですが、カードの内容しか見ていないということはつまり、私が私である必要はどこにもないということです。…もっとも、多くの人たちが多人数のコミュニケーションを普通に楽しんでいるように見える以上、間違っているのは私の方なのかもしれません。でも、いずれにしても私は多人数でのコミュニケーションを行うに必要なスキルはまったく持っていないようですし、またそれを望んでもいません。私は、私にとって相手が主賓であり、相手にとって私が主賓であるような、そんな会話を望みます。


2002/3/28 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#28


 ジグソーパズル(1000P)がキーボードの上に落ちてきてキーが一個外れてしまったが、おかげで個々のキーの外し方が分かった。これでようやく隙間のゴミも掃除できる。怪我の功名というやつか。


 しばらく放置してたサンフィールドネットの解約を申し込む。
 ついでにここ4ヶ月ほど放置状態だったサンフィールド鯖のメールチェック。81通ほど溜まってた。尤も特に読むべき内容の物はなくて、すべてのメールが「ウィルス付き」「プロバイダーからの通知」「スパム」のどれかに分類できてしまう。ウィルス添付メールの送り主になんか知ってる名前とかもあったが気にせず全削除。とりあえずこれで毎月1500円ほど浮く模様。


 あにかの雑感。ネタバレしまくりにつき注意。

 11話 [約束]。

 キスシーン。名雪贔屓な私的にはなんとなくムカツク。が、それはそれとして祐一とあゆの身長差、萌え。あゆがベンチの上に立ってやっと祐一と同じ高さってことはどう少なく見積もっても 30-40cm の差はあるよな。つまり祐一の身長が平均並で 170cm強だとすればあゆの身長は130-140cmぐらいということに。普通にしてたら腰を屈めないとキスできないことは間違いないであろう。理想の身長差。まんせー。
 あゆお泊まりイベント。水瀬家の幸せな食卓の風景に寂しさを感じてしまうあゆ、の描写がなかったのは残念。

 12話 [夢の跡]。

 名雪萌え者的にはかなり痛い。祐一の怒鳴り声に、昔ゆきうさぎを壊された時のことがフラッシュバックしてしまう辺りの演出とかは巧いと思うがそれゆえに一層痛い。でもそれにも関わらず祐一の元に行き人形を探すことを提案する名雪。痛いが結果的には名雪の一途さが引き立っている。惚れ直しました。なんていじらしいんだ名雪。でも痛い。
 秋子さんの携帯電話に真琴と一緒のプリクラが。こういう小技は好き。
 秋子さんの事故から病室。涙ぐみながら祐一に思いの丈を語る名雪。この時の名雪の表情(アップ)の素晴らしいこと。萌える云々ではもちろんなくて、その場面だけの一回きりの表情、としての美しさ。
 あゆとの再会。最後のお願い。お願いを言う直前の「間」の取り方、あゆのアップ、微笑み、祐一の瞳に映るやや俯き気味のあゆ。ゲームとは違うけどこれはこれで。というか文句の付け所がない。演出として完璧。
 ただし、その後、あゆと祐一が泣く場面は頂けない。あんな風に涙を流しては駄目です。泣くにしてもせいぜい、涙が一筋、頬を伝うぐらいじゃないと。キャラクターの過剰な感情表現は物語に嘘臭さを与えてしまうことがあります。あの場面はあんな風に泣かせなければもっと悲痛になったはずです。
 あゆの消滅から秋子さん復活。待てやコラ。祐一が名雪の心を開くんじゃないのか。目覚ましはどうなる。

 13話 [風の辿りつく場所]。

 佐祐理さんの袴が素晴らしく萌え。それはそれとして留学ってなんですか。祐一の通い同棲計画はどうなりますか(そんな頭の悪いこと考えてるのはアンタだけです)。
 卒業式に天野さんが出てこないのは何故ですか。ていうか駄目だろ出てこなくちゃ。真琴があのような消え方をした以上、せめてあのエピローグを再現するぐらいのことはして欲しかった。「空からお菓子が…」とか「もしかしたらこの街の人の半分ぐらいが…」とか。
 秋子さんが目覚めてなお名雪が心を閉ざしてるっていうのはどうなんだろう。いまいちしっくり来ないのだけど。
 回想シーン。名雪4〜5歳ってことはすなわち12〜13年前。すなわち秋子さん22〜23歳。おっけー!!
 看護婦さんが無駄に可愛い。
 目覚ましの使い方を間違えてます。けど、あゆ方向でシナリオを収束させるためにはこうするしかないのかも。
 名雪の唐突なキス。蛇足としか思えないのですが。演出的にもいまいちハマってないし。
 あゆの目覚め。ゲーム版の、秋子さんに語らせる手法が恐ろしく冴えていただけにいまいちに感じられてしまう。でも比較ではなくアニメ版単体として見ればこれでも良いかも。

 総評。
 おそらくあゆENDになるであろうことは予測できていたものの、シナリオの同時展開のおかげで名雪萌え的には結構不満も残る。あと真琴&天野さんの扱いの悪さも許し難い。全員のシナリオを綺麗にまとめるためには名雪ENDに持っていくしかなかったと思うのですよ。名雪シナリオから恋愛要素を取ったら何も残らないんだから。あゆは復活はしても友達止まりってことで。なんにしろ名雪が不遇すぎ。これが激しく納得できぬ。


2002/3/27 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#27


 あんよさんの妹話。

 あの妄言全体が最後の「可憐さん、私の妹になってください」のための前振りのような気もしないでもないのですが(笑)、それは敢えて気にしないことにして幾つか戯れ言返し。

 あんよさんの妹話は私にとって非常に刺激的なものです。示唆に富む、と言っても良い。あれを読むと、妹与太話を書いていた時の私が本当は何を望み何を考えていたのか、すごくクリアに見えてきます。

 まず一点。考えてみると血縁と関係の永続性とはなんの関係もないんですよね。そもそもあの私の文章は最初は妹キャラには二種類いるって話だったのに一体なんであのようなトンチンカンな展開をしたのか我ながら 笑えます 不思議に思います。血縁云々に関しては、おそらく私の個人的な嗜好が知らぬ間に反映されていたのでしょう。つまり、去年の春頃、とらハ3忍シナリオ感想でも書いた通り、私は「血の繋がり」とか「同じ血を共有」とか「同じ血を分け合った仲」とかいうシチュに根拠不明なロマンチシズムを抱いているのです。それがたまたま暴走したのでしょう、きっと。

 それから二点目。というかこちらが本題なのですが、私はあの妹与太話を書いている時に念頭に置いていたのは、アニメ版シスプリととらハ3でした。私にとっての理想の兄妹関係はこの二作品において最も完璧な形で表現されていて、まあ言ってみればそれをモデルにしていた訳なんですが。しかし今にして分かるのですが、私があの時点で本当に書きたかったのはたぶん「妹萌えとはどういうものか」ではなくて「理想の兄妹関係とはどういうものか」、ということだったのです。あんよさんは、お書きになった日記の中で、妹に恋する兄の心理を完璧に描き出して見せました。それを読んでようやく分かったのですが、私にとっての理想の兄妹関係は、双方に恋愛感情がまったくない関係でなければならないのです。シスプリの航、それからとらハ3の恭也(※)、彼らはいずれも妹を妹以上のものとしては見ていません。妹と恋仲になりたいなどと彼らは望まない。妹はあくまでも妹であり、その関係に無自覚に満足しています。また妹の側も、兄に対して兄以上のものを望まない。関係が決して壊れないというのは、本当は血縁の問題なんかじゃなくて、この点にこそあったのです。彼らは兄妹という関係に良い意味で何も期待しません。自分たちが兄妹であることを普通に認識し、それを受け入れ、その関係に完全に満足しているからです。私はこういう関係を兄妹の理想型として見ています。だから、もし「萌え」という言葉を使うとすれば、私のそれはある種の「関係」への萌えです。兄が妹に萌えて(恋して)しまっては、私の理想の関係は成り立たない。理想の兄妹関係とは、ふたりが恋人になることではありません。恋人になった時点でふたりは兄妹関係を喪失するからです。とした時、私に想像しうる最も美しい兄妹関係は、シスプリやとらハ3に見られるような、それぞれが兄妹として充足した関係だということになるのです。

 ここまで語って初めて、ゲームの妹には二種類ある、という説が意味を持ってきます。つまり兄妹が兄妹のままでそれ以上にならない関係こそが、私の理想的に、本当の兄妹だと言えるのです。それ以外の妹キャラは、むしろ「妹系キャラ」とでもいうべき存在です。例えば家具に「ひのき」のものと「ひのき調」のものとがあるようなものです。前者は本物の檜ですが、後者は檜に似た外見をもったもの、です。現在のギャルゲーに登場する妹キャラは、そのほとんどが攻略可能となっています。攻略可能であるということはつまり恋仲になれるということです。兄は(プレイヤーの意思であるにせよ)妹と恋仲になることを欲し、また妹も兄を兄としてではなく、ひとりの男性として見ており、そういう存在としての彼に愛されることを願います。ここにおいて、妹系キャラにとっては兄妹という関係は単なるかりそめのものでしかないことが明らかになります。兄が妹を妹として見ておらず、妹も兄を兄として見ていないのだとすれば、ここにはもはや兄妹関係と呼べるものは存在していないのです。従って、彼女は「妹」ではなく「妹系」とでも呼ぶ方が妥当であるように、私には思われます。彼女は妹ではなくて、あくまでも「妹のような女の子」なのです。そしてまた同様の理由によって、妹に恋してしまう兄も同じく「本当の兄」ではありません。あくまで私の理想を最優先にして考えればということですが。

 ただ、心というものは自分が担うしかないものであり、自分の思い通りになるものではありません。兄が妹に恋してしまうということも起こりえるひとつの可能性ではありましょう。それはあんよさんの仰るとおり、無明地獄であるのかもしれない。私は兄妹の理想型を提案してみたのですが、しかし現実的にはおそらくどのような兄妹であれ、その関係が永続するという保証はどこにもないのです。少なくとも、人の心はどう転ぶか分からないというだけでも十分に、そう疑う理由になりえます。シスプリやとらハ3はそういう関係の永続を信じたくなるようなある美しさを持っていて、私はそれを称揚したいと思うのですけれども、実のところ、永遠などというものはないのです。永遠はただ、信じられるかどうか、ということによってのみ語られうる。兄妹の仲が良ければ、あるいは危険もまた大きいのかもしれません。おそらく、あんよさんが書いていらっしゃるのは、その「危険」のことなのだと思います。

 無論、危険を単純に「悪」と分類して満足するほど私は愚かではないつもりです。もしも理想の兄妹関係を楽園になぞらえるとすれば、妹というのはあるいは禁断の果実であり、妹への恋というものは失楽園を意味するのかもしれません。妹に恋してしまった兄は楽園から追い出される。楽園の入り口は御使いが守護しており、二度とそこに帰ることはできない。彼は地獄を彷徨わなければなりません。しかし、この場合、どうして妹を好きになってしまった兄が悪いなどと言えるでしょう。彼の心に生まれてしまったもの、おそらくもしかすると彼の意思とは無関係に生まれてしまった、妹への恋心によって、どうして兄を責めることができるでしょう。一体誰が、兄を責める権利を持つでしょう。兄はただ、夕焼けを見て我知らず感嘆の溜息を漏らすようにして、妹を女性として見ることを知ってしまっただけなのです。それは兄の咎であるとは私には言えません。でも、それでも。妹が禁断の果実である限り、兄は地獄に堕ちざるを得ない。しかし兄はそれを後悔することはないでしょう。それどころか、その地獄すら、彼は愛おしく思うに違いありません。その地獄は、妹へのどうしようもない恋心によって生じたものだからです。どうしてそれを愛せないはずがありましょう。彼は喜んで地獄を双肩に担うことでしょう。彼にとって本当に地獄なのは、妹への愛情を失うことです。それに比べたら、愛による苦しみは既に甘美です。危険と呼ぶなら、それは美しさに満ちた危険です。いや、結局のところ、兄にとって場所は問題ではないのかもしれません。例え失楽園であっても。兄は楽園を失ったまさにその原因によって、別の形の楽園を手に入れているとは言えないでありましょうか。

(※)
 とらハ3の美由希シナリオでは選択肢次第で恭也と美由希が恋仲になる展開もありますが、はっきり言ってあの物語的には恋愛描写は蛇足以外の何物でもないので、敢えて無視してます。


 いやーいい感じに酔っぱらってて(お酒は飲んでませんが)書いてて楽しくてしょうがないです。突っ走り過ぎててやや悪趣味に堕している感もありますが。脳みそのツボを的確に押してくれたあんよさんには本当に感謝しております。
 どうか、これからもよしなに。


2002/3/26 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#26


 愛車のクラッチがジャダーを起こしている(簡単に言うと接続時にビレる)ようなので、修理屋に持っていく。あとちょっと前にぶつけられて破損したドアミラーの交換も依頼。ちなみにうちの車は現在丸6年で8万kmちょい。板金直し以上を要する事故歴なし。ここまでの修理及び交換はタイヤ交換2回、バッテリー交換2回、ウォーターポンプ交換1回(メーカークレーム)、それに今回のクラッチ交換とドアミラー交換。それ以外は今日までエンジンもミッションも足回りもステアリングも至って快調。いや厳密に言うと冷却系の不具合が一回あったのだが、いずれにしてもここまで乗って深刻な不具合ゼロならまあ上出来と言って良いであろう。信号待ち中にエンストとか夏場にエンジンが掛からないとかノッキングが起きるとかトーイン調整が甘くて走行中に車が右に勝手に逸れていくとか(いずれも過去の別の車で経験あり)やられると寒すぎますから。

 代車はECVT車。オートマティック車に乗るの久しぶりすぎてなんか恐い。なんていうか、アクセルを踏むだけで車が走るっていうのが既に感覚的に変だし、停車時にクラッチを踏まないで止まってもエンストしないっていうのも変。すごい違和感。やっぱオートマは運転する楽しみがいまいち感じられなくて嫌。マニュアル至上主義者の戯言ですが。


 ちょっと理由があって地図を眺めていたら。

 広島は岡山の西であるという衝撃の事実を知ってしまいました。
 いや私の脳内地図では、西→東の順で[山口][岡山][広島][兵庫][大阪]だったので。

 あああなんかもう俺死んだ方がいいかも(笑)。。。
 鬱出汁脳って言葉はこういう心情を表すためにあるんだろうなあ。

 すいません許してください。>>関西在住の方


2002/3/25 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#25


 昨日の、とらいあんぐるパーティー2[都立産業貿易センター4F]とかあれこれ。

 荷物もさほどは増えないだろうだろうという楽観的予測で今回は久しぶり(10年振りぐらい)に電車での上京。急行りょうもう号に乗って群馬〜浅草で約1時間25分。そこから都営銀座線で神田まで行ってJR線に乗り換え、浜松町駅へ。ここまでで出発から約2時間。今更ながらに思うけど、はっきり言って時間的にも体力的にも電車の方が全然楽です。ただ私が上京するのは基本的に買い物目的なので、ある程度の買い物をする場合に限っては、荷物を持ち歩かなくて良い分だけ自家用車で行った方が楽なのですが。でも都内を移動するだけなら絶対知佳鉄を使った方が能率は良い。

 一応、浜松町駅から都産貿までは地図を用意してあったのだけど、実際に行ってみると駅からなんとなくそれっぽい人の流れが出来ているので、流れに付いていくだけでほとんど問題なく会場に着くことが出来た。午前10時ちょっと前に会場到着。11時開場なのでとりあえず会場の場所だけ確認して30分ぐらい喫茶店でまったり…と思っていたら既に行列ができていたので、カタログを買って急いで並ぶ。5分ほどでざっとサークルチェックを済ませてマルテの手記を読みながらひたすら待つ。

 11時開場。
 とりあえず最初の10分ぐらいで事前チェックした買い物を終わらせて後はまったりとその他のサークルを見て回る。一通り見て回ったところで、約束通りみんくりさんのスペース[F-16/minim]に挨拶に。…みんくりさんがいねえ(苦笑)。仕方がないので時間潰しがてらサークルをもう1周して(しかもまた新たに買い物をしてしまう罠)、更にしばらく壁際で買ってきた本の立ち読み。とらハとは直接関係ないのだけど、AIRの夏影とかONEの雨とかの耳コピ楽譜を売っているサークルさんがあって、そこで買った楽譜をつらつらと眺める。30分ほどしてF-16を見てみると誰か別の人が。とりあえず前に何人か人がいたので空くのを待つ。待ちつつ、なんて声を掛けようかどきどきいっそこのまま帰るかなどと5分ほど逡巡した後(笑)、意を決してみんくりさんのところへ。挨拶さえすんでしまえば後はなんとかなるもので、ご好意でブース内に招いてもらい、しばらく雑談。とらハDVDはシステム周りが改善されるのが期待大とか、声優の日向さん(神咲那美の人/この人の名前って“ひなた”と読むんですね、私は“ひゅうが”だと思ってました)が休業してしまったのは返す返すも残念ですねえとか。あと、晶はあまり好きじゃないですか?(みんくりさん)あまり萌えないですね(しのぶ)とか。せめて、晶はむしろレンと一緒にいる時のこそ魅力が発揮されるキャラだと思います、ぐらい言える機転があったらなあと後で思うが所詮は後の祭り。そういえばあと、みんくりさんに最近やったゲームのことを聞かれたのだけど、考えてみたら私ここしばらくゲームやってないんですよね。妻みぐいは買ったその日にセーブデータを当てちゃったし。最後にプレイしたゲームがなんなのか思い出せない辺り、我ながら相当ゲーム離れが進んでいるようです。閑話休題。みんくりさんとお話中、IDさんとJokerさんのことが出る。お会いしました?(みんくりさん)いえ顔とか知らないので(しのぶ)。という訳で、みんくりさんの心遣いで、会場に来ていらした IDさんJokerさんを紹介してもらう。しばらく IDさんと雑談(jokerさんには申し訳ないことをしたかもしれません)。結局、なんだかんだでトータル1時間ほど喋ってて、12時ちょっとすぎになったところでお別れ。会場から離脱。

 浜松町駅に戻る途中、まだ時間に余裕があったので途中にあった旧芝離宮恩賜庭園(読み方が分からないのですが)をぶらぶらと散策。満開の桜の木の下のベンチでしばし骨休め。風が気持ち良くて和む。

 秋葉原へ移動。
 とらいあんぐるハート3 VFB[SoftBank]、瞳の中に(ピュアストOPのマキシシングル)、ひなた120%[藤崎真緒/花とゆめ]、3丁目の回覧板[ひな。]、えっちな秋子さん[マルケン]等を購入。そうこうしているうちに約束の時間になったので、土方さんと合流。さすがに日曜日はジョナサンも混んでいるらしく、少し外れたところにあるマクドナルド(入るの久しぶりだったり)で食事&雑談。小春亭の昔のコンテンツが見たいです〜とか言ってみるものの却下される(笑)。いやまあ気持ちは分かりますが。私も記憶から消し去りたいようなテキストは結構書いてますし。小一時間ほど(時間が経つのが早いこと)雑談したあとで今日はお別れ。そのまま神田駅まで歩いて知佳鉄で浅草まで行き、最初と同じ急行に乗って、なんとか暗くなるまえに帰宅。

 買ってきた同人誌(19冊ありました)を抱えてベッドに潜り込み、全部読んでから就寝。


2002/3/24 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#24


 とらパ2(都産貿)行って来ました。
 くたくたに疲れたので詳細は明日。

 どのくらい疲れているかというと、秋葉原に寄って買ってきた「えっちな秋子さん」(同人AVG/マルケン)で(*´Д`)ハァハァする気力が湧かないぐらい疲れてます。今は秋子たん(*´Д`)ハァハァよりも睡眠のが大事です。我ながらかなり重症です。

 おやすみなさい。


2002/3/23 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#23


 ネタはあるのですがモチベーションダウン中でなんとも。
 やる気が湧かない、という言葉もカタカナで言うとなんとなくカッコイイですよね(美坂妹風)。


 買ったまま放置してた、シスタープリンセス・デスクトップアクセサリーを開封。

 …音声データぐらいしか使い道がなさそう。
 しかも肝心の音声データも、花穂の声は確かに萌えるのだけど、現状の乃絵美ボイスと入れ替えるほどのものかどうか疑問。

 ところで、花穂は妹キャラです。
 対して、乃絵美は妹系キャラです。
 あくまで、しのぶ基準でってことですが。

 この差はどこにあるのかというとつまり、「花穂萌えー」と「乃絵美たん(*´Д`)ハァハァ」の差です。
 花穂は普通に妹として好き。乃絵美はあわよくば恋人にしたい、という差。

 【萌え】 刹那的ときめき、あるいは好きという気持ち
 【(*´Д`)ハァハァ】 性欲を含む萌え感情

 〜が私定義。
 よって私の対鈴香さん感情は「姉たま萌え」よりも「姉たま(*´Д`)ハァハァ」の方が正しい。

 最近、私内部で鞠絵と亞里亞の株が急上昇中。
 鞠絵はひとまず置くとして。

 亞里亞は昔から嫌いだったのだけど、考えてみると私が亞里亞を嫌う心情っていうのはほとんど同族嫌悪なのです。同族である以上、転び方によっては好きになる可能性はある訳で。最近思うのですが、亞里亞は妹だと思うから腹が立つのであって、娘だと思えば彼女は12人の中で一番可愛いです。花穂はコンパーチブルの許されない純妹キャラなのでまた別。亞里亞のあのどうしようもない依存体質も、パパに甘えてくる娘だと思えばすべて許せます。むしろもっと甘えてくれ。


2002/3/22 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#22


 タカハシさんからの個人的な100の質問

 sunfaceさん[3/18]から。
 元のURLは不明。

 注、興味のない質問は飛ばしてます。

01) 自分が今使ってるハンドルネーム以外で自分の名前を考えてください。

 「しのぶ」以外の選択肢はない。
 本名よりも「しのぶ」である時の方が断然、幸せな記憶が多いので、本名よりも好き。
 ただし「お兄ちゃま」と呼ばれるのが大好きです。ていうか誰か呼んでクレ。

02) 自分の自伝を書かなければ行けません。さて、最初の一行と最後の一行を考えてください。

 「彼にとって“普通”であることほど難しく、また憧れであることはなかった」
 「彼は終生、普通の人に憧れ続けた。が、それは遂に叶えられることはなかった」

08) 一番最近買ったアルバムでヒットは?

 ベートーヴェン・ピアノソナタ全集[イブ・ナット]

09) 一生聴き続けるだろうなぁ、と今のあなたが思うベストアルバムは?

 モーツァルトの魔笛。

10) ものすごい好きなサイトを教えてください。(出来ればアドレスもお願い)

 小春亭
 セクサロイドは眠らない

11) 祈りって、何処に辿りつくと思いますか?

 自分のもっとも奥底にある、柔らかい部分。
 そうとしか表現しようがない。
 いずれにせよ、自分自身に向かうものだと思います。漠然とそう感じるってだけですが。

14) 恋してますか?

 もし、架空のキャラに対する心情をそう呼んで良いなら、一年中。

15) キャー! あなたにとってその人はどんな人ですか?

 私に生きることを教えてくれる人です。

16) ちなみにマンガキャラで理想の人は?

 伊吹公子さん、なこるる、那美さん。

18) CD(もしくはアナログ)何枚ぐらいありますか?

 概算で400枚強。
 思ったより少ない。

19) 本(マンガも合わせて)は何冊ぐらいありますか?

 手元にあるのは200冊前後でしょうか。

24) 自分の中での最大のアイドル(同性・異性はどっちでもいいです)は?

 幽遊白書の仙水忍。

25) 一日の終わりです、眠る前にすることは?

 いつもは本を持ってベットに入って、眠くなるまで本を読みます。

27) 土曜日と日曜日、どちらが好きですか?

 「明日も休み」っていう感覚が良いので、土曜日。

28) 好きな物につぎ込める最高金額を教えてください。

 例えば、なこるると一緒に暮らせると仮定して。
 なこるるを幸せにするためなら、いくらでも。

29) その好きなものってなんですか?

 上記の通り。

34) 目覚める時と眠る時、どちらが幸せでどちらが安心しますか?

 愚問です。  私を悩ます色々なものから解放される安堵感を覚える、人生でもっとも幸せな時間のひとつです。眠りに就くひとときは。

37) 自分の目の色は何色ですか?

 物理的には黒。
 でもきっと、濁ってます。世界への不信と敵意のせいで。

39) 今の自分と赤の他人として出会っていたら、どんな風な関係になると思います?

 他人。
 たぶん、敵視しあう。

42) ありがとう、と言うのに照れはありますか?

 あまり照れないかも。
 ありがとうと言えないとしたらそちらの方が問題。

43) 誰にでもいいんで「ありがとう」と言ってみてください。

 私なんかに好意を持ってくれる幾人かの優しい人へ。
 ありがとうございます。

44) 逆に誰かに「ありがとう」と言われるとしたら、あなたのどんな行為、もしくは言葉にだと思いますか?

 少なくとも、無私の態度であることが条件か。

48) 恋してる相手の日記を、盗み見たいと思いますか?

 Nein.
 どれほど親しい間柄であっても不可侵の領域はあると思うので。

49) どの季節が好き?

 桜の季節。

50) 半分を「もう半分しかない」「まだ半分もある」のどっち派ですか?

 もう半分しかない、とまず思う。
 その後、まだ半分だこれからだ、と思い直す。

52) 一人の男が飛行機から飛び降りました。どう?

 他人なんかに興味ないですし。

56) 自分には絶対書けない、でも憧れてやまないテキストサイトは何処ですか?

 bLatz日記。

57) 眼鏡を掛けていますか?

 ja.
 でもできれば掛けたくないのですが。
 衝動的に布団に「ぽふっ」って顔を埋められないのが残念でして。

58) 妄想してみてください。

 うちの過去ログをどうぞ。妄想だらけです。むしろ妄想以外の記述を探す方が大変かもしれません。

59) 嘘つきですか?

 割と。
 臆病なんで。

60) 

 どうして60番が飛んでますか?(藁

64) オシャレだと思う人ってどんな人ですか?(思想、服装、なんでもアリ)

 清潔な印象を与えられるかどうかがすべてだと思ってます。

70) 未だに理解に苦しむ誰かの言葉ってありますか?

 みんなどうしてそれほど自分の正しさを信じられるんだろう?
 人生においてこれほど不思議なことは他にありません。

71) 難しいとは思いますが、自分を好きか嫌いかで言うとどっちですか?

 簡単です。
 嫌いです。
 これでもナルシストなんですが、それはそれ。

73) ああ、自分はそんな偉そうな事を言える人間じゃないけど、でも、それでも「コイツってセンス悪いよなぁ」って人はどんな人?

 虚栄心の強すぎる人。

74) 騙されやすい方ですか?(誰かと比べてとかじゃなく、自分の中で)

 とても。

75) 誰か、大好きな人の素敵な所を、惜しげもなく誉めてみてください。

 なこるるの目は素敵です。
 性格はおとなしめなのに、いつも好奇心に溢れています。
 そんな眼差しで見つめられる時、彼女に愛されていることを本当にしみじみと実感できます。

 …いかん、これじゃただのノロケだ。

78) 日記なんていう、かなりプライベートなものを公開してるのは、何故ですか?

 私のはたぶん日記じゃないです。
 うちの場合、日付は単にある文章と別の文章とを区別するために便宜上付いているにすぎない。

79) 最近は見た目では分からないオタクってたくさんいらっしゃるのですが、
   外に目を向けているので、彼ら(彼女ら)はオタクと言うのが正しいと思いますか?


 個別性を無視したその手の分類には興味ないので。
 それ以前にオタクの定義ってなんですか?

88) 笑うのと泣くのはどっちが羨ましい行為だと考えていますか?(状況によって異なるとは思いますが)

 当然、泣く方。
 笑うことは誰の前でも一応はできるが、泣くことはそうはいかない。
 この人の前では泣くことが出来る(許してもらえる)という人がひとりでもいたら、その人は幸せだと思います。

89) 他人の許せない種類の言動や行動は?

 礼儀知らず。馴れ馴れしさ。過度の虚栄。正しい(無難な)ことしか言わない(しない)クレバーさ。

90) 自分の考え方の揺れのせいではなく、今よりも幸せになれるとしたら、ソレはどんな状況であると思いますか?

 高町家に生まれること。

91) 「賢い」と「優しい」は別のものだと思いますか?

 賢い人が必ずしも優しいとは限らないのが現状ですが、究極の賢さは優しさに繋がるものではないかと思います。
 優しい人こそ、私にとっては「賢者」です。

95) (おおざっぱすぎますが)人を好きですか?

 単数での人は好きです。
 複数形なら、大嫌いです。

 何度もしつこく言いますが、私が興味あるのは個人であってグループではないのです。

96) 基本的に、男の人と女の人ではどちらが好きですか?

 上記とほぼ同じ。
 ただ、私内部では男女差というものはあまり問題ではない。
 結局私にとっては、男も女も不可解な他人であるということに変わりないので。

98) 無意識のうちに呟いてしまう独り言ってありますか?

 あいたたた…。(まひる風に)

100) おつかれさまでした。最後です。最後なので一年前の自分に一言、そして一年後の自分に一言、をお願いします。

 「もっと人を見る目を養いましょう、うわべの好意に騙されてはいけません」
 「私の想いが、ずっとなこるると共にありますように」


2002/3/21 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#21


 日記を書くために許された時間、10分のみ。
 時間がないのでビルダー直書き。落ちたら今日は更新中止ってことで。いつもはメモ帳(Windows付属の)に書いてコピペなんですが。ビルダーは信用ならないから。たまたま会社に置いてあった日刊スポーツとか見てたら、例の「おさかな天国」のCD発売イベントがサンシャイン水族館で行われたという記事がありましたが、それはどうよ。魚を食べましょうって歌でしょう? いや、一応建前としてはさー変じゃない?(笑)。皆が注目していると思われる新作ラッシュの4月26日ですが、先日土方さんに聞いたゲームのタイトルが全然分からなかったので、今更ながら調べてみたり。「WIND」は絵と設定を雑誌で見た限りだと正直どうでもいい感じ。「歌われるもの」はなこるる好きとして当然デフォ買い。「LOVERS」は葉月さんのトップで紹介されていたのを発見。ジュエリーフィッシュの新作ということなら当然買い絶対買い。…と思ったのだが、予約したところで4月26日は私はほぼ確実に群馬にはいないのでありました。いや、旅行の予定があるので。とりあえず予約の取り置きをいつまでしてもらえるのか確認しておかねばなるまい。10分経ちました。おわり。


2002/3/20 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#20


 あにかの 10話。

 ………最悪。
 真琴シナリオ(原作)の至妙な美しさをことごとく台無しにしやがった。


2002/3/19 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#19


 昨日の続き(18日の行動)。


 しながわ水族館を出た後、東京タワー水族館へ。
 こっちは空調がデタラメで居心地最悪だったのでノーコメント。暖房がガンガンに効いていてしかも普通に暑いのではなく湿度が異常に高い、いわゆる蒸し暑い状態だったので、入って早歩きで1周して出てきてしまった。入場料はもったいなかったけど。

 ただ、東京タワーの足下にある(良い意味で)寂れた雰囲気の公園はかなり良い感じ。
 地図で確認してみると「芝公園」と書いてあった。


 時間が早かったので、予定を少し変えて新宿タワーレコードへ。
 スクリャービンとかベートーヴェンとか数枚購入。
 本命だったショパン・エチュード(藤原盤)は見つからず。


 秋葉原。車を停めて30分ほど仮眠。
 その後買い物。

 同人誌(佳乃18禁とか名雪18禁とか花穂18禁とか)8冊ほど。あと同人ソフトやら18禁漫画やらいくつか。
 ちなみにゲームには目もくれず。

 同人誌は、童話の消えた森[LIPSTER]が大当たり。
 神奈・柳也・裏葉のシリアス系。泣ける。


 夜7時。
 今日のメインイベント、土方さんとのデート(ぉ)。

 秋葉原駅で待ち合わせということにしてあったものの私がうっかり目印の扇子を持っていくのを忘れたため、お互いに相手を確認する材料がないという笑えない事態に。携帯で連絡を取り合って、5分ほど遅れてなんとか合流成功。お互いがすぐ近くにいて携帯で話しつつやっと互いの姿を視認、という図はなかなか笑えます。とりあえず土方さんが仕事帰りということなので、食事ができる店に行きましょうということでジョナサンへ。

 土方さんが実はすごく話し上手かつ聞き上手な方だったせいで、聞いて喋って聞いて喋って退屈する暇もなくあっという間に3時間経過。「家族に衣装のことがバレたら土方姓じゃなくなってしまいます(笑)」「俺も巫女服欲しいんですけどねー」「普通5万円っていうとそれなりの金額だけど、巫女服で5万とか聞くとあんまり高いって感じしないですよね」「なんか、たった5万で買えるのかーみたいな」「月陽炎の柚鈴の一番可愛いCGは柚鈴の溜息CG(立ち絵)です」とか。それ以外の内容は色々とここには書けないことが多かったので略。別に気まずいとか黒いとかそういうんじゃなくてお互いのプライベートに関わることが多々あったので。頂いた名刺にびっくりしたこととかそっち関連の裏話とか書けないのが少々残念ではあるのですが(笑)。まあその辺りは秘密ということで協定(?)が結ばれているので。

 結局午後11時ちょっと前まで喋ってて、その後解散して帰宅。
 さすがに都内を走り回って疲れたのでweb巡回もせず日記も書かず、同人誌だけ読んですぐ就寝。

 充実した一日でした。


2002/3/18 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#18


 有給休暇な日。


 朝7時半起床。身支度をして8時半に群馬を出発。
 東北道→首都高(恐怖の渋滞に巻き込まれつつ)→湾岸道とひたすら走ること3時間半。
 12時に、目的地しながわ水族館に到着。

 割とステロタイプかもしれませんが、私は実は水族館が好きなのです。いや、水族館というよりも「海」が好きってことなんですが。遊び場として好き、ではなくて、海への憧れみたいなもの。特に、光の届かない深海とかそういうイメージにすごく憧れます。気まずい話ではあるんですが、(ついでに言えば私の日記をある程度読んでいる人には予想が付くんじゃないかと思いますが)どうして海(深海)が好きなのかと言えば、要するに、深海には人間がいないからです。実際にどうかということは置いておいて、人間に踏み荒らされていない聖域(超主観的かつどりーまーな発言であることは承知の上です)というイメージがある空間だからです。私は昔から、次に生まれる時は深海魚になりたいとか普通に思ってまして。人間の決して手の届かない深い深い海の中で、真っ暗な空間で、ただ一人で泳いでいるだけの存在になりたいのです。もちろんそこは今の我々の生活よりも遥かに危険に満ちているのでしょうけれども、それでも構わない。死ぬにしても、どうせなら私は力に殺されたい。常識とか正しさとかいう正体不明な化け物に圧殺されるのは嫌なのです。他の魚に食べられてしまうにしても、もっと大きい魚の生きる糧になると思えば納得できます。社会の中での、あるには人間(複数形)の中での自分の位置が分からなくなって、孤独を覚え、孤独に衰弱させられるのは嫌なのです。

 あと、水族館の面白いのは。
 魚たちを見ていて思うのですが、彼らは私たち人間のことなんかこれっぽっちも気に留めてないらしいのです。例えば昔からある使い古された意見で、「動物園の動物は檻の中に入れられてしまっていて可哀想」というのがありますが、少なくとも水族館の魚に関してはそういうイメージが湧きにくいか、あるいは全然湧かない。彼らは人間のことについても自分自身のことについても等しく無関心であるように見える。そういう雰囲気が、私の目には一種の賢者かなにかのように映ります。昔、寺泊水族館に行った時、怪しい形の深海魚を色々見た時にも思ったのですが、もし魚たちが人間と喋れたとしても、魚たちはきっと私のことなんか相手にしないです。私がなにか話しかけたとしても、魚たちに軽くあしらわれてしまうでしょう。例えば不思議の国に迷い込んだアリスのように。魚にとっては、色々なことでうだうだ悩んでいる私如きは、単なる未熟者にすぎないのです、きっと。魚は私にとって、時として畏怖の対象です。以上のことは結局どりーまーすぎる妄想なんですけれども、そういう妄想ができるところが水族館の面白いところな訳です私にとっては。


2002/3/17 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#17


 馬車道行ったんですよ。馬車道。
 そしたらなんか、ウェイトレスが出てきたのは最初だけで、あとはずっとウェイターの給士なんです。
 もうね、あほかと、ばかかと。
 馬車道ってのはな、もっと萌え萌えであるべきなんだよ。
 矢羽根模様の着物と紫の袴との絶妙なバランス、露出の少ない服ゆえに、着物からのぞく白い手が醸し出す仄かな色っぽさ。
 そんなところがいいんじゃねーか。
 ウェイターはすっこんでろ。



 くすん…にいや…。


 帰宅後、友達に焼いてもらった Flashムービーを鑑賞。
 全部見るのに三時間ほど掛かったが、笑えるのあり、泣けるのあり、エロいのあり、と実に楽しい。

 個人的にヒットだったのは、
 ドラえもんが動かなくなるやつ(泣ける)、しぃとギコの出会い(泣ける)、八頭身モナーによるうる星やつらOP(激ワラ)
 の三本。

 私が知らないだけで、もしかして Flashムービーって流行ってるのかしらん。
 気合い入れて探してみたら他にも面白いのが見つかるのかも。


2002/3/16 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#16


 沈黙。沈黙。沈黙。


 まほさろさんの[3/15]から。

 妹ブーム特集とやらが面白そうだったので Flash を買いに行く。
 「妹の歴史」なんて記事もあるけど、凡庸というかなんというか。男性の弱体化とか、自分より弱い存在を求めているとか、母性本能がとか言われても、表面的すぎるというか、何を今更という感じでさっぱり面白くない。最低でもせめて、オタク達は自分が男性であることに疲れていて少女との同化を望むようになってきている、ぐらいは書いてくれないと(笑)。いやまあこのネタ自体既に10年以上も前に「オタクの本」のなかで誰かが言ってたことなのだけど。

 それはそれとしてシスプリの記事。
 「美少女ゲームはほとんどが恋愛モノですが、女の子との接点は恋愛だけじゃないだろうという観点で、3年前から『妹』をメーンにした企画をスタートさせました 」 電撃G'sマガジン副編集長、高野希義氏のコメント。

 やはりシスプリは純・妹萌えな作品でありましたか。
 私の見る目もそれほど曇ってはいなかったようで一安心。

 ところでアニプリの主人公こと航くんって名字が設定されてたんですね。海神航(みなかみわたる)、というそうで。記事を見て初めて知って、慌ててDVDのジャケットを見てみたら確かに書いてありました。てか本編で呼ばれたことありましたっけ? いやそれよりなにより、主人公の名字が決まってるってことは自動的に妹たちの名字も決まってしまうということにはならないのでしょうか。

 海神可憐、海神花穂、海神衛、海神咲耶、海神雛子、海神鞠絵、海神鈴凛、海神白雪、海神千影、海神四葉、海神春歌、海神亞里亞。

 日本語の響きとしては特に変だという気はしない(白雪はちと変だが)けど、字面的にはすごく変デスYO兄チャマ。


 わたしはあなたにパンを焼いてあげました。
 だからあなたもわたしにパンを焼いてください。

 この台詞をあゆの告白だと勘違いしてた、ということは以前の日記に書いた。
 が、どうしてそう思ったのか。

 この台詞はああいう場面で使われているゆえに、好意のお返しを期待するのは悪いこと、みたいに受け取られてしまいがちだが、しかし好意の見返りを期待するというのは本当に悪いことなのだろうか。私は自分を人間として不良品だと思っているので自分を参照することで他の人間のことが分かるなんて到底信じられないのだが、それでも、他人から好かれたいと思わない人間なんていないのではないだろうかとは思う。

 例えば。誰かが私に好意でもって何かをしてくれたとする。そしてその人は気遣いのつもりで、私が勝手にやったことだから君は気にしないで構わないよ、と言ってくれたとする。でも、私はもしかしたらその言葉に傷つくかもしれない。恩着せがましいのは反吐が出るほど嫌だが、その時の精神状態とかふたりの間の空気とかの状況によっては、私は彼から何も期待されていないんだろうかと思って落ち込むかもしれない。かもしれないっていうか、そういうことはかなりありそうなことだと思う。私はよく、メールの最後に「お返事とかは気にしないで結構ですので」みたいなことを書くのだが、これは本当はものすごく「余計な一言」だったのではないだろうか。私だったら、返事はいらない、なんて言われたくない。絶対。言われたら悲しいと思う。返事が欲しい、と言われるのはもちろん嫌だが、だからって、メール(別に掲示板でもweb日記でも同じだが)という形でのアプローチをしておきながら、返事は要りませんなんてわざわざ書くのは却って失礼ではなかったろうか。

 返事が要らないとわざわざ書くのは、究極的には「私はあなたを必要とはしていません」と言っているに等しいのではないか。繰り返すが、私だったらそんなことを言われたら悲しい。私だったら、好意を寄せてくれる人がいたら、むしろ私はその人に期待されたいと願う。期待はひとつの好意の形だ。「だからあなたもわたしにパンを焼いてください」という精神は、むしろ健全だと思う。もしもあゆがこんな風にして主人公に告白していたとしたら、どんなにか素敵だったろう。あの、あゆの台詞は、状況を考慮せずに台詞だけ取り出してみると、「約束」を連想させる。「わたしは毎朝あなたのためにパンを焼いてあげます、だからあなたもわたしに夜毎のパンを焼いてください」 あの台詞を私はきっとこんな風な意味で想像していたのだ。パンを焼いてくださいなんて、一歩間違えば押しつけがましくなってしまうような台詞は普通は言えるものではない。でもだからこそ、そんな告白はロマンチックだという気がする。

 家に来て彼女がコートを脱いでくれない寂しさに比べれば、ずかずか部屋に上がり込む彼女の方がどんなに良いかしれない…。


2002/3/15 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#15


 アニメ版シスプリ 第6話 〜お兄ちゃんは王子様〜

 唐突ですが。
 鞠絵が「でも明日本番なのに今から新しい脚本を覚えるなんて…」って言うシーンがありますが、ここは全然リアル(現実的)じゃありません。現実だったら、あの状況で鞠絵のような子は意見を言う機会(タイミング)なんて絶対ありませんもの。現実なら、鞠絵のか細い言葉など他の妹たちの声にかき消されること間違いなしです。現実なら、「でも明日…」ぐらいまで口に出してから、誰も自分の言葉を聞いていないどころか自分の方を見てすらいないことに気づいて沈黙することになるでしょう。ウェイトレス桃ちゃん先生みたいに。でもアニプリ世界では、鞠絵のような子でも、話をちゃんと聞いてもらえるのです。

 現実世界では、ある程度多くの人間が集まれば、彼らは必ず「中心」に属する人と「周辺」に属する人に分かれます。例えばパーティーに10人の人間が出席していて、皆がひとつのテーブルについていたとすれば、積極的に会話を楽しむ2〜3人と、ほぼ聞き役になってしまう7〜8人に、必ず分かれます。現実とはそういうもので、私はそんな現実が嫌いです。なぜなら私はそういう時いつも「周辺」になってしまう人間ですから。いや、周辺が嫌なんではありません。そもそも私は「中心」になれるような性格ではないですし、そのこと自体は別段なんとも思っていないです。ただ、「周辺」側の人間はなかなか「中心」と会話をすることが出来ないというのが嫌なのです。「中心」側は得てして「中心」側だけで盛り上がってしまって、そこには私のような者の入り込む余地がない。中心側の、いつでも受け入れる用意があるのに、なんて言葉は無意味です。問題は、一部の人間に、恰も自分が脇役的ポジションであるかのように感じさせてしまっているという点にあるのですから。

 シスプリ世界が優しいなあと思うのは、彼女たちにそういう区別が存在しないことです。12人もの人間(妹)がいるにも関わらず、ここには序列がありません。主役も脇役もありません。特定の人物が常に“場”を動かし、他の皆がそれについていくという図式はここにはありません。彼女たちは全員が主役なのです。また、彼女たちもそのことをよく知っています。特定の人間が他の人間の出番を邪魔する(悪気の有無は問題ではありません)ということは、あの世界では起こりえない。別に気張ったり構えたりしなくても、鞠絵は自分が望む時に喋ることが出来るし、周りもまた、いつでも鞠絵の言葉を聞く用意を持っています。無論、他の妹たちにしてもそうです。私はアニメ版シスプリのこういうところが、すごく好きなのです。


2002/3/14 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#14


 あにかの。

 いくつかの不満はあるにせよ、絶妙なポイントで佐祐理さんを使ったという一点ですべて帳消しです。
 あのやり方は本当に感動しました。

 結局、祐一の妄想が出てこないまま舞編が終わってしまうらしいことが心残りですが…。

 最後の方で出てきた女の子、天野さんじゃないかと期待しませんでしたか文月さん…と書こうと思ってたら既に書いていらっしゃる(笑)。
 この期に及んで新キャラが出るとしたらもう天野さんしかいない訳で、私は本気で天野さんかと思いましたよ。しかもネタではなく素で、アニメ版の天野さんってこんな顔なのか〜とか思ってました。栞の話が出てようやく「あれ?」てな具合で。<<莫迦


 真面目な与太話。メイドさん編。

 真のメイドさん萌え者はメイドさんをメイドとして愛する、と言ったのは藤木隻氏ですが。ともかく ELYSION というゲームの独自性は、ご主人様とメイドという主従関係こそが彼らにとっての理想の人間関係であると言い切ったという点にあります。

 この説に従えば、早瀬さんとかはどう考えてもメイドさん萌え者ではないということになってしまうのですが、ただ正直言ってメイドさん萌えという“立場”がそれほど重要なものだろうかということを私としては考えてみたい訳でして。それと、個々人の事情を無視して一律に○○萌えという風な分類を行うのは相当に粗雑なやり方ではないだろうか、とか。

 自分はメイドさんから逸脱したものを望んでいる、だったかそんなようなことを書いた早瀬さんは非常に正確に自分の性向を観察/把握しているように思えます。下世話もいいところですが、なんでそう思うのかというと、たまに早瀬さんが他人とは思えないと感じる瞬間があるからです。メイドさん萌えを標榜しつつもメイドさんとは違うものを求めるという心情はすごくよく分かります。私もそういう心情を持っているからです。

 以下自分語り全開で行きますが、私はメイドさん萌え者ではありません。でも私はメイドさんが好きです。私はたぶん、メイドさん萌え者ではなくて、メイドさんという形式を必要としている人なんです。どういうことかというと、つまり人間関係の初期のある一瞬に、ご主人様とメイドさんの関係をなぞらえるような経験を通過する必要があるということです。激しくわかりにくい文章ですが、最も単純化して言えば要するに大切にされたいということです。この人は全存在を掛けて私に尽くしてくれる、と信じられる瞬間を経験するところからでなければ人間関係の構築が可能にならないのではないか、ということです。そして重要なのは、この経験はあくまでも瞬間で十分であるという点です。私は別に主従関係などというものを大真面目に望んでいる訳ではない。それはある瞬間に必ず必要なものではあるのですが、そこに留まるべきものでもない。むしろそれは通過されなければならないものです。その人はメイドさんでなくてはならないのですがメイドさんであり続けてはならないのです。主従関係の存在するところには「○○さんは今晩はご飯抜きですっ」なんて言葉は絶対に出てくるはずはないのですが、でも私は「ご飯抜きですっ」と言えないような関係は寂しいと感じます。彼女はメイドさんであるのだけれども、自分との関係は「ご飯抜き」と言えるような親密なものであって欲しいと願います。「ご飯抜き」という台詞がなにゆえに最強なのかといえば、この台詞が、自分とメイドさんとの親密さの証明であるからです。「こんな台詞が普通に言えてしまうくらい」メイドさんに信用されているということだからです。でもここまで行ったらもはや彼女はメイドさんではないでしょうおそらく。私としては、自分がメイドさん萌えかどうかなんて実のところ大した問題ではないのです。重要なのは、自分にとっての、自分だけの人間関係のあり方であって。私はメイドさんが好き、という言い方は本当は正しくない。そうではなくて、私が好きな人はいくらかメイドさん的だ、とでも言うのがきっと正しいのです。そしてそれだけで十分です。


2002/3/13 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#13


 一昨日の日記を一部修正。

 咲耶の台詞、「思い」じゃなくて「想い」でした。
 それと、四葉の台詞は「です」じゃなくて「デス」ですよね。

 すまぬ、我が愛妹(※)咲耶&四葉。

(※)
 「愛娘」という言葉があるんだから、愛しい妹という意味の「愛妹」という言葉があっても良いと思いませぬからむださん。


 妹与太話。(あくまでネタです)

 真の妹萌え者は妹をあくまでも妹として愛でる、という説がある。
 ちょっと古いが、脳天高橋氏は、自身の書いた小説「ロリータ軍隊」の中でこういう指摘をしている。すなわち、妹萌え者は妹をあくまでも妹として見る、妹萌え者が妹を一人の女性として見ることは自身への裏切りである、というのである。この説の当否はひとまず置くとして、これは大変に興味深い意見であるように思われる。

 この説を仮に受け入れてみるなら、今のギャルゲーエロゲーに登場するいわゆる「妹キャラ」は二種類に分類することができることになる。すなわち、本物の妹キャラと偽妹キャラとに。そして私の見るところ、大半の妹キャラは偽(いつわり)の妹である。なぜなら、多くのゲームにおいて、妹系キャラのシナリオは妹と恋仲になることを最終目的としているからである。妹と恋仲になるというのはいかにも甘美であるように思われる。しかしよく考えてみるとここには罠がありはしないだろうか。果たして恋仲になった時、妹はなお妹であり続けるのだろうか。そうではあるまい。このタイプのゲームのエンディングにおいて、主人公は妹をひとりの女性として愛するようになる、という点には留意する必要があるだろう。エンディングで彼らは兄妹の壁を乗り越え、あるいは捨て去って、新しい関係を獲得しているのである。もはやここには兄妹という関係はない。あるのはごく平凡な男女による、恋人という関係だけだ。ついに妹と恋仲になった時、もはや妹がどこにもいないとはなんという皮肉であろうか。言ってみれば、世の多くのエロゲーにおいて、妹キャラは妹という殻を脱ぎ捨てることを宿命づけられている。これは本物の妹萌え者にとってはまことに憂慮すべきことではあるまいか。

 では、本物の妹萌えとはなんであるか。これは結論からいえば、妹をあくまでも妹として愛する姿勢だと言うことができよう。妹萌え者は、兄と妹という関係をすべての上位に置く。兄妹であるということこそが何よりも重要なのであり、恋仲になることや結婚することすらここでは邪道な営為とみなされるべきである。社会通念上の問題であろうとも、現実において兄妹は原則として結婚できない。しかしそれがなんであろうか。兄妹という関係は元々切っても切れないものであることを忘れてはならない。例え戸籍上の縁を切ったとて、彼らは依然として、同じ母親の腹からでた、血を分けた兄妹であり続ける。いやむしろ、兄妹という関係の前には戸籍など何の意味もないというべきであろう。これだけの結びつきが、兄妹という関係にはデフォルトで存在するのである。この上なにを望むことがあろう。極論であることを承知の上で私は敢えて言いたい。妹の結婚を祝福できずして何が兄か、と。妹が他の男性と結婚しようとも、自分は依然として兄であり続けるのだし、妹は依然として妹であり続ける。どんな環境に置かれても、顔を合わせればすぐに兄と妹という関係を取り戻すことができるのが兄妹ではないか。いや、そうではない。失われたわけでもないものをどうやって取り戻すというのだ。兄妹という関係は失い得ないものだ。当人同士の意識の問題であったり戸籍上の問題であったりする恋人や夫婦という関係は、失われる可能性を必ず内包している。しかし、兄妹という関係は永遠である。失われないことが宿命づけられているとすら言っても良いであろう。

 ごめん続かなくなった。
 やっぱ似非妹萌え者にはこの辺りが限界っぽいです。

 上の文章はアニメ版シスプリ賛歌としてお読みください。
 アニメ版シスプリの魅力はやっぱり、永遠の関係を信じられるというところにあると思うのです。
 いつか航が誰か他の女性と結婚しても、いつか妹たちが他の男性と結婚しても。
 航にとって彼女たちはずっと可愛い妹であり続けるし、妹たちにとっても航は大好きなお兄ちゃんであり続けると思うのです。
 そういう意味において、私はあの世界を「悠久の楽園」と呼びたいのです。
 ちなみにエロゲーにおいてこういう関係が存在しているのは、私の知る限り「とらハ3」の恭也と美由希だけです。あー今思い出したけど、あと「このちゃ」の貴英とこのはも含めていいかも。

 最後にしつこく言っておきますが、しのぶの最優先は「娘萌え」です。
 らむださんを妹萌えレベル10とすると私はせいぜい5ぐらいでしょうね。


2002/3/12 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#12


 眠くて死にそうなのですお兄ちゃまは。

 ウェルカムハウス(シスプリのサントラ track_34)を聴くと、なんか落ち着く。
 ああ自分の部屋に帰ってきたんだなあとしみじみと思えます。

 全然脈絡ないけど現在のうちのデスクトップ。
 らむださんを羨ましがらせるためだけに(ぉ)仮公開。

 最近思うことひとつめ。
 鬱系の内容の日記っていうのは(少なくともアピールしようなんていう助平心が働いていない限り)つい読みふけってしまうような不思議な力があるものだけど、それを歓迎するような風潮が仮にあるとしたらそれは不味いんじゃないかなあということ。読む人の心に染みるような鬱な文章っていうのは本人はギリギリのところで書いている訳で。それを単純に“面白い”と言ってしまうのは、敢えて残酷な表現を用いれば、他人の流す血を見て喜んでいるようなものなんではないかと。いや、そういう例を見た訳ではないのですが。

 最近思うことふたつめ。
 「萌え」であれ「(*´Д`)ハァハァ」であれ、それはひとつの刹那的感情であり、また自己完結な感情です(まあ感情というのはそもそも自己完結的なものなのでしょうが)。萌えは特定のキャラを指向するものではありません。例えば美凪にぎゅーってされて「こうすれば痛みが少しは和らぎますか?」って言われる場面に萌える時、自分の萌え感情はあくまで自分内部に留まり続けているのです。美凪はひとつの切っ掛けにすぎない。あくまで、萌え感情は本人の内部でのみ勝手に発生するものです。ここに「萌え」と「好き」の違いがあります。「萌え」は言ってみれば自己満足な感情です。でも「好き」は必ずしもそうではない。美凪が好きである時、ある人は自分が美凪にふさわしくあるだろうかと考えたりする。ある人は好きな美凪の笑顔を望む。好きという感情(?)は相手を指向します。相手が架空であろうがなんだろうが、好きという気持ちは人間対人間という「関係」を前提にしています。

 ただし、「萌え」であれ「(*´Д`)ハァハァ」であれ「好き」であれ、それは書かれた瞬間から、本人が望もうが望むまいが、ひとつの立場の表明を意味します。書かれた「まひるたん(*´Д`)ハァハァ」は、「私はまひるが好き」という自分の立場の表面である、ということです。そういう見地から考えると、萌え感情なり好きという気持ちなりが完全に純粋なものであり続けられるのは、言葉にならない限りにおいてであると言えます。言葉にしない限り、私と(例えば)まひるはふたりっきりで向き合っています。が、言葉にした瞬間、そこには夾雑物が確実に混じります。言葉にするということ、すなわち誰かに見られる可能性があるというだけで、すでに私とまひるはふたりっきりではない。…いやそうではない。言葉にした瞬間から、私の視線はまひるから離れて余所を向いてしまう。まひるを見ているのではなくて、余所の誰かの方を向いてまひるのことを語っているにすぎなくなってしまう。まひるとの蜜月は言葉を用いない限りにおいて可能なのです。

 まだ考え中なんですが、これはもっと練りたいテーマ。


2002/3/11 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#11


 お父さん、ずっと可憐のことを見つめていて…
 お父様、わたしのこの想いは届いていますか?
 おとうたま、だいだいだーいすき!
 パパ、大きくなったら花穂のことお嫁さんにしてくれる?
 父上様、手を繋いでいてくれませんか?
 父さん、ぼくだけの父さんでいて欲しいんだ…

 オヤジ! こうすればオヤジはアタシのことを覚えていてくれる…
 とうさま、姫、我慢できなくて…
 父くん、結ばれなかった悲しい記憶が…
 ぱぱチャマ! もう離したくないデス…
 父君様、ずっと父君様のお側に…
 だでぃ…亞里亞、どっきどきしてるの…





 ――というゲームはいつになったら出ますかメディアワークス様。

 昔の日記では「PC18禁希望」とか書いてますが、当時の俺は馬鹿でした。今はむしろ一般作希望。
 そのほうが色々妄想する楽しみがありますからねなんといっても。
 シスプリはゲームでなく脳内会話こそ本編、という大原則を忘れちゃいけません。

(にしてもピュアストを持ってないと意味不明な上、呼称が一部苦しい模様)


 こんなことを書いたのには別に意味はありませんからね念のため。
 別に、巫女服を着た実妹が夢に出てきてしかもなぜかその服のままで風呂に入ってて服が体に密着してて激萌えで目が醒めてから思い出して鬱駄氏脳になって自分を取り戻さねばならなかったからなんて事実は断じて鬱出汁脳。

 …妹がかつて巫女さんのバイトをしてたことがあるというのは事実らしいですが。

 そういえばピュアストOPの四葉の声は凶悪ですよね。
 特に最後の「〜デス…」の辺りは窒息死的勢いで萌えます。(現実逃避)


2002/3/10 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#10


 女の子は特別教 [タカハシマコ/HotMilk_Comics]

 女性にしか描けない話だなあというのが第一印象。
 当たり前…かどうかは分からないけれども、女性のイメージする“可愛い女の子”と男性がイメージする“可愛い女の子”は絶対に違う。どこがどう違うのかを述べるのは難しいのだけど、不思議と、そういう違いははっきりと分かってしまう。ちょうど、友達の顔の特徴を言葉で言うのは難しくても会えば間違いなく本人を見分けられるというようなものかもしれない。

 第三話『髪長姫』。生理が来たことで泣く友達に向かって浴びせられる情け容赦ない言葉。秘密の代わりに友人の長い髪を要求し、それをほとんどなんの感慨もなくゴミ箱に捨てる少女。彼女を残酷だと言うのは我々大人の視点にすぎないのだろう。おそらく当の彼女は少しの後ろめたさも抱いてはいない。彼女にとってそれはイジメでも八つ当たりでもない。苛々させられるというだけで、彼女(にとって)は十分に正当なのだ。

 第十話『やさしくしてね。』。自分が世界の中心だと信じて疑わない少女。自分以外の世界を知らない少女。それは彼女の罪ではもちろんない。ある年頃までの子供は多かれ少なかれそういうものであろうから。その少女が、初めて、自分以外の人の世界を垣間見る。初めて、世界が自分ひとりだけのものでないことを知る。未知の世界が少女の前に顕現し、その、今まで見たこともない風景に、彼女は驚く。見事な筆致というしかない。

 余談。
 タカハシマコという名前は聞いたことがあるような気がする。
 多分、昔この人の作品をどこかで読んでいるはずなのだが、どこだったろうか?


2002/3/4 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#04


 土方さんの月陽炎論には非常に多くのことを教わりました。
 勝手に、感謝を。

 私は本編の鈴香END.からは何も受け取ることができなかったのですが、あのエンディングが鈴香自身との決別であるという解釈はすごく正しいように思います。今まで気が付かなかったのですが、確かに、鈴香は――例え選択の余地がなかったのだとしても――有馬神社内では柚鈴や美月の母親的ポジションにありましたし、また鈴香自身もそのポジションに自分の居場所を見出していたようなところがあったと思います。しかし鈴香は、有馬家の抱える問題の噴出(真)によってすべてを奪われてしまう。そしてそうなった時、柚鈴や美月の保護者としての鈴香はもはやどこにもいなくなってしまう訳で。エンディングの一枚絵の鈴香があんなにも頼りなく見えるのは、おそらく自身の拠り所をまったく失ってしまったからなのでしょう。ここまで来れば、(私は自分では遂に気づくことができなかったのですが)もはやあの双子の姉妹の意味も明らかです。あの双子の姉妹が柚鈴と美月の写しであることは言うまでもありません。鈴香は最後にあの幼い姉妹に別れを告げるのですが、それは柚鈴や美月との別れであり、また、保護者としての有馬鈴香がもはやどこにもいないことを、残酷なまでに象徴しています。

 いやまあ、土方さんの文章をなぞってみただけなのですが。
 自分の中に定着させたかったので、自分の言葉を使ってわざわざ書き直してみました。

 あと、私見。
 月陽炎という作品の面白さのひとつは、絆の強さかなあなんて最近は思います。これはとらハシリーズやねがぽじなんかにも見られる傾向なのですが…ええとなんといったら良いのでしょう………人間関係までも含めてそのキャラクターの魅力になっているというのかな。例えば愛さんは彼女自身の魅力だけではなくて、愛さんを取り巻く人々との関係まで含めて魅力を放っているとか、そういう人間関係を除外して愛さんという個性を語ることはできないと思わせられるものがあると思うのです。これはもちろん愛さんに限ったことではなくて、さざなみ寮の住人すべてについて当てはまることなのですが。それと同じようなことが、おそらく月陽炎にも言えるのではないかな、と。例えば鈴香について言えば、柚鈴や美月の保護者であることや葉桐や一哉との確執までもひっくるめてそれらすべてが鈴香という個性を形作っているのではないか、とか。もちろん、どんな人間にせよ関係を無視してその人自体を語ることなどできないのでしょうけれども、それにしても、月陽炎という作品では特にそういうことを強く感じます。柚鈴の魅力は、鈴香と美月を抜きにしては語れないし、美月の魅力もまた有馬家の確執の影響を唯一被っていないキャラとしての立場(これも月陽炎論を読むまで気が付かなかったのですが)に触れることなくしては語れない。というかできるだけ簡単に言えば、やっぱり鈴香も柚鈴も美月も、姉妹三人揃っている時こそ、個々の魅力が最も眩しく見えると思うわけです。千秋恋歌から取れば、悠志郎の恋人としての鈴香は凶悪に可愛いけれども、そのいちゃいちゃ振りが柚鈴と美月にバレてしまうなんてイベントが発生する時、物語は鈴香萌えなんて次元では語れない輝きを帯びます。恋人としての色気のある可愛さではなく、(誤解を招きそうな言い方ですが)姉妹としての、もっと健康的な魅力です。あの瞬間、鈴香は悠志郎の恋人でもなく、柚鈴や美月の保護者でもなく、本当に普通の仲の良い姉妹になりきっています。本編にすらこれほど完全に幸福な場面があったかどうか。(続く)


2002/3/3 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#03


 天気が良くてなんとなく外に出たい気分だったので、ふらりと県立館林美術館へ。

 絵とか彫刻とかのジャンルは私は門外漢もいいところで、はっきり言って全然わからないのだけど、それなりに気に入る作品というのはひとつぐらいは見つかるもので。今回面白いと思ったのは、フランソワ・ポンポン(初めて聞いた)という彫刻家の「シロクマ」という作品。必ずしも写実的な像ではないのに、非常に肉感的というのだろうか、内部で血が脈打ち筋肉がしなっているかのような不思議な迫力がある。特に印象深いのは、熊の足の太さ。単純に本物の熊と比べるならいくらなんでも太すぎるだろうというぐらい太いのだが、その太さが、まるで大地にしっかりと根を下ろしているような力強さを醸し出していて、また、見る者に熊と大地との親和を感じさせる。技術的なことは私には分からないが、この像には不思議な安定感がある。おそらく熊と大地との親和が生み出す安定なのだろうと思う。この熊の体を支える四本の足は大地によってしっかりと受け止められている。あるいはいっそ、大地が熊の生命を受け止めていると言っても良いかもしれない。熊が大地を踏む、大地は熊の足を受け止める、熊と大地の呼吸が、ある瞬間にひとつになる。この像はそんな想像をさせ、またそんな想像は私を奇妙に安心させる。


 ONE以外の何か〜澪とも呼ばれる人[OVA] 3巻
 詩子さまの ぶるまー 笑顔が眩しすぎます。

 本編は相変わらずですけどね(棒読み)。
 もしかすると、ONE_OVA の監督って最初から「物語」を作る気なんてなかったのかもしれない。このOVAは物語というよりもむしろ「イメージクリップ」とでもいったものを目指していたのではなかろうか。全体をひとつにまとめるのを放棄して、その場その場の美しさを表現することに力点を置いていたのではなかろうか。それが成功しているかどうかは別としても。

 それから、問題の「澪の声」。
 澪は喋れないので心の声(独白)としての演出な訳ですが、ああいうやりかたもアリかなあとは思いました。

 ただ、正直に言えばやっぱり違和感は拭いきれなくて。たぶん私だけではないと思うのですが、上月澪というキャラは声を持たないところもひっくるめて彼女の個性(魅力)だと言いたいようなところがあって。(ミロのヴィーナスではないけれど)澪に声が付いたらという仮定は私たちの好奇心をくすぐるけれども、ONE本編中での彼女が声の問題を自分なりに解決している――澪は声に代わる自己表現の手段をいくつも持っているのですから――ことを鑑みると、声が付いたからといって必ずしも澪の魅力が増すとは言えないのではないか、という疑問がどうしても生じるのです。


 月陽炎 - 千秋恋歌 - [すたじおみりす]

 人は語り得ないもの(姉たまの魅力)の前では沈黙しなければならない。

 あああああもう。
 幸せ。
 ここまでやってくれたらもう無条件降伏するしかありません。こういうのが見たかったんですよ俺は。感涙。
 本日をもって、月陽炎の本編は「千秋恋歌」の方になりました。俺内部で。


2002/3/2 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#02


 ベートーヴェンの「ロンド・ア・カプリッチョ - 失った小銭の怒り - op.129」を初めて聴く。

 ベト先生が小銭を落として、それにムカついて作曲したというエピソードで知られる曲。←マジです
 怒りとかいうイメージから、熱情・第一楽章のミニチュア版みたいな曲を想像してたのだけど、実際に聴いてみると長調で、しかも拍子抜けするぐらい軽快な音楽。聴いているだけで心が躍るような感じ。あのベトさんがこんなお茶目な曲を書いたのかと思うとなんとも微笑ましい。


 いつのまにかちゃっかりプレイしてたんですねお兄ちゃんてば(笑)。

 Sacrifice については、当初は「このゲームは莫迦ゲー」という方向で書くつもりでした。でも「莫迦ゲー」と呼ぶのは結局ただの「分類」ですし、それではこの作品の個性について何も語っていないに等しいだろうと思って、方向性を変えました。あの主人公は実際面白い奴だと思います。なんといっても、ただの陵辱野郎に見えないのが良いです。あの主人公の個性のおかげで、このゲームはエンターティメント性を首尾良く獲得していると言いたい気がしぺす。莫迦ゲーに見えるのも要はあの主人公の個性が前提にあってこそですし。

 最初は正直言って、あまりに強引な展開の連続に「地雷か!?」と思ったりもしたのですけどね。いくらなんでも失恋したそばから「抱いて」はねえだろうよコラ、とか。でも慣れてしまえばあれはあれで味があるもので。剣道少女とかもそうですけど。しかし脳内補完をきっちり押さえてくるとはさすがは私が見込んだお兄ちゃんだけのことはあります(迷惑&失礼千万)。

 話は変わりますが、二匹目のドジョウは私は正直言って少々引いてます。
 いくらなんでもあざとすぎる気がして。

 ところで、マルチの手記ってこうゆーやつ?


 猿元さん[2/28]から飛んで2ちゃんねるメンヘル板へ。

 そんな風に考えるのは「私が心の醜い人間だからだ」という指摘を受けそうで
 では私は一切の屈辱、理不尽に対して「笑顔」しか許されないのでしょうか?


 これ、私が前から言いたくて、でも言っちゃ不味いかしらと思って言えなかったことそのままなんですよね。なんか上手く書けないので端折りますが、他人とは思えない。これ以上書くと醜い言葉が連発しそうなので以下略。


 PC初心者。

 激しく激しく激しく激しく激しく激しく激しく激しく激しく激しく激しく激しーーーーーーーーく同意。
 人に物を頼む時だけニコニコして近づいてくるんじゃねえよヴ(検閲削除。
 (会社の話です、念のため)


2002/3/1 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-03.htm#01


 あるところにひとりの男の子がいたんです。

 その男の子は小学校に上がる前から両親に勉強を教えられていました。
 毎日、毎日、今日は算数、今日は国語、と。

 男の子に勉強を教えるのはもっぱら母親の役目でした。
 遊びたい盛りの男の子にとって、勉強の時間は苦痛でした。

 母親は、男の子が勉強を覚えられないと叱りました。

 どうして覚えられないの?
 これはさっきやったばかりでしょう?
 違うでしょう?

 訳もわからず勉強をさせられることも嫌でしたが、
 男の子にとってもっと嫌だったのは、
 そういう時、母親の言葉がなんともウンザリしたような調子を帯びることでした。

 ある時、男の子は耐えかねて、母親に抗議しました。
 もっと優しく教えて、と。

 すると母親は、いかにもワザトラシイ猫なで声で少しだけ喋って、
 こんな風にやれっていうの?
 と聞いてきました。

 それが拒絶の意であることは男の子にも明らかにわかりました。
 母親の言葉が、極端な反対意見を用いての否定であることは感覚でわかりました。

 男の子は、でも言葉を知りません。
 そういうんじゃなくて…もっと普通に教えてよ…、
 と返すのがやっとでした。

 男の子は、母親の粗雑な口調が嫌だったのです。
 普通に喋ってもらいたかっただけなのです。
 甘やかされたかったのではなくて、普通の、ひとりの“人”として接して欲しかったのです。
 
 でも、それは遂に母親に伝わることはありませんでした。

 それだけの話。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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