棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

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2003年 1月

2003/1/31 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#31


 会社の昼休みに郵便局に行ってシスプリCDの申し込み。
 帰宅後、リピュアEDアルバムを予約。

 やるべきことはやった。
 あとは待つのみ。

 ***

 雪が降って、雪さんが…
 …どうなったのか続きが気になる訳ですが(私信)。


2003/1/30 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#30


 咲耶は8時間も寝たのに全然寝足りない感じ。
 眠い。

 ここをお読みの諸兄は当然のようにリピュアキャラクターズエンディング集テーマアルバムの試聴版をローカル保存して連続再生して法悦の時を堪能していることと思いますがこんばんは。

 今更ながらだけど、『それはあたしの心なの』とか『春の歓び』は名曲だ。
 聴いているだけでゾクゾクする。
 『Be happy,Please!』も勿論良い曲だけど、この曲はインストゥルメンタルでも(〜の方が)いいような気も。

 G's Magazine 3月号

 読むところなどないのだけど、四葉のトレカとシスプリCDの通販要綱があるので購入。
 どうでも良いのですが双恋のぶるま絵はエロすぎると思います。

 Megami Magazine 3月号

 読むところなどないのだけど、エロゲー紹介ページに載っているDAパンツ[Cadath]というゲームがなんか面白そう。
 スカートめくりに特化したゲームというのはかなり斬新だと思う。
 今度秋葉原に行った時に忘れてなかったら買うかも。

 スカートめくりは萌えです。
 特になこるるは私の趣味でロングスカートしか履かないので、それはもう甘美なもので。
 たださすがになこるるは大事な女性なので、手段としてのスカートめくりはできるけど、それ自体を目的としてのスカートめくりはちょっとできませんですけどね。

 そういえば思い出したのだけど、DAパンツのテーマソングはなかなか逝っちゃってるので一度くらいは聴いてみるのも一興。

 あと、巻末に小池定路氏[アボガドパワーズ]へのインタビューが。
 アボパの新作、MxS は久しぶりに小池氏が原画をやるらしい。
 購入決定。


2003/1/29 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#29


 思考が鈍化してる…気がする。
 嫌だ。

 ***

 手紙を書く場合に本文を書いた便箋以外に白紙の便箋を一枚入れる、とかそういう一見無駄な様式というものを、私は愛します。

 ***

 月曜日は雪、火曜日は春のような暖かさ、水曜日は風花。
 ここ数日の天気はなんか変。

 ***

 もうずいぶん時間が経ったので書いてもよいだろう。

 その昔、keyのオフィシャルBBSで「これ(Kanonのこと)で泣かない奴は人間じゃない」という内容の投稿をしてバッシングを受けた人がいたが、これは本当に叩かれるほどの内容だったのだろうか。当時この投稿を見た時、少なくとも私は特別な感想は持たなかったし、それだけにこの発言が叩かれているというのを知った時はやや意外にすら思ったものだった。叩く理由というのも、もちろん分からない訳ではない。この発言を一種の差別のようなものと解釈する人であれば、確かに反発を覚えずにはいられないだろう。しかし、私は今でも信じているのだが、この発言には差別的な意図は微塵もなかったと思う。あれは Kanon の美しさに全身を震わせずにおれなかった一人の人間から(本人の意識すら飛び越えて)躍り出た感激の言葉だったはずだ。誰もあれを感嘆表現だと受け取らなかったのだろうか?というのは、当時から今に至るまでずっと不思議に思っていることのひとつだ。

 ***

 脈絡なし。

 好きな曲であれば、その曲の主要なフレーズぐらいは口ずさめて当たり前だし、もっと言えばその曲を大まかにでもいいから脳内で最初から最後まで再生できるぐらいでなければ「私はこの曲が好きだ」などとは言ってはいけないと思います。何が言いたいのかというと、モーツァルトやベートーヴェンに近づく唯一の道は、ただひたすら聴き込むことだけだ、ということです。ひとつの曲の魅力が本当に分かってくるのはある程度口ずさめるぐらいまで聴いてからのことで、それまではひたすら辛抱強く、繰り返し、真剣に、聴くより他にありません。
 モーツァルトは美しい。しかしその美しさは、モーツァルトを真剣に求めた人にしか分かりません。オーディオ環境にいくらお金を注ぎ込んでも、音楽を繰り返し繰り返し聴くことの出来る辛抱強さと真摯さが欠けているのであれば、音楽の魅力にはほんの僅かにすら近づくことはできないでしょう。オーディオ環境はなんの埋め合わせにもなりません。
 良い音楽はどんな環境で聴いたって美しいのです。美しさを求める努力をした人にとっては。


2003/1/28 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#28


 メルティーブラッド。
 今度は別ルートで…と適当にやっていたら秋葉が巨大化して一方的にタコ殴られて終了。

 勝てるかあんなもん!!(笑)

 昨日のシオンルート(全部一番上)は割と普通のお話だったけど、今日やった謎のルート(全部一番下)はどことなくコメディーっぽい。
 あのラスボスはどう見ても「マヴカプ」のパロディーだし。

 ***

 家族計画に関係あるようなないような。

 私はもしかすると思い違いをしていたのかもしれない。
 すべて、関係というものは「生じる」ものであって、「求めたり」「求められたり」するものではないのではないか。

 ***

 ツァラトゥストラを読んだのはずいぶん昔のことで内容もほとんど忘れてしまったが、未だによく覚えている箇所がひとつだけある。自分から離れよ、とツァラトゥストラが弟子に語るくだりだ。一度私から離れ私を否定しろ、そうして戻ってきた時、我々は本当の友人になれるだろう、とかそういう内容だったと思う。

 別にこの本に示唆を受けた訳ではないが、私は尊敬する人の日記をなるべく読まないようにしている。本気でその人に追いつきたいと思ったらその人の影響を受けることだけはしてはいけないと思うからだ。その人のコピーになったところでその人には絶対に及ばない。それどころかコピーではその人に興味すら持ってもらえないだろう。その人に振り向いてもらえる可能性は失われてしまう。それでは意味がない。その人と肩を並べようと思ったら私は私のままでなくてはならない。尊敬や好意は時に諸刃の剣だ。尊敬する人の言葉は時に私を縛り付け身動きを取れなくする。それは尊敬という魔力のせいなのであるが、問題なのはその魔力が私にとって良い刺激とならずに毒になってしまうことなのだ。魔力に十分に対抗し得るだけの強さがない限り、尊敬する相手の言葉はいつでも非常な危険を孕む。

 ***

 つい魔が差して吉野屋で「大盛りつゆだく」を。
 お兄様は墜落しました。


2003/1/27 (月)
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 遅まきながら、メルティーブラッド[渡辺製作所&Type-Moon]を入手したので遊んでみる。

 とりあえずストーリーモードを一回通してプレイ。
 シオンエンド。

 初見でも適当なキー操作とボタン連打だけで勝ててしまうというのはさすがに難易度低すぎだと思うが、クリアできずにストーリーが楽しめないのもそれはそれで問題であるはずなのでこのくらいでも良いのかも。私としては格闘ゲームが大の苦手ということがあるので、このくらいの難易度だと適度に緊張感があってちょうどよい。

 しかしこのゲームの肝はやはり翡翠&琥珀コンビだと思う。
 ぶっちゃけ、可愛すぎ。

 琥珀さんの猫歩き、翡翠バックダッシュでのスカートが広がる演出、は思わず頬が緩む愛らしさ。
 あと、交代する時のハイタッチなんかも素敵。

 ***

 反応のようなそうでないような何か。

 ***

 街を歩いているカップルを見て羨ましいと思ったことは私もほとんどないです。

 ただ、去年の春に安土城に行った時にたまたま居合わせたカップルを見た時は、本音をいうと微かに寂しさを覚えました。安土城なんていう観光名所と呼べるかどうかも疑わしいようなマニアックな場所に一緒に行ける異性の知り合いがいるというのがね、ちょっと羨ましかった。

 ***

 インターネットというものは、自分を見失わなず他人との距離を正しく測れる大人のための娯楽だ。
 ………なんてことを、家族計画をプレイしているとつい考えてしまう。

 私や、今は閉じ籠もってしまったかの人は、たぶん、インターネットコミュニティーに参加するにはあまりに未成熟だったのだ。


2003/1/26 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#26


 ある人について、その人に付き纏う状況(背景)を無視して一方的に批判を加えることの残酷さに比べれば、好き嫌いでものを言う方がよほど正当である…と思う。例えば人は浩平の言動を非難するけれども、なぜ浩平がそうしたのかその理由を考えることはしない。浩平にはそうするしかなかった理由があったのではないか、と考える人は残念ながら決して多くはない。

 意固地な青葉、自閉的な準、依存症の真純、卑屈な末莉。
 「理想」という尺度でものを見れば、彼女たちには非難される余地はいくらでもある。しかしもし理想という尺度で彼女たちに批評を加える人があったとすれば、私はその人とは決して相容れないだろう。そうする人は、彼女たちがそういう人生を生きざるを得なかった背景を無視しているからだ。理想は美しいものだが理想通りに生きられる人間などいない。芸術作品は教育のためにあるのではない。

 アニメ版シスプリ(前作)で私がどうしても許せないことのひとつは、あの作品がシスプリ世界に外部の視点を持ち込んでしまったことだ。あの世界はあまりに純粋でなさすぎる。まずあの世界が外部の人間(じいや)の意志によって作られた人工物であるということ。それから、アキオと山田。彼らは立場は違えどいずれも航の引き立て役としてあの世界に存在している。私は彼らを見るのは不快だが彼らそれ自体は別に嫌いではない。私が嫌うのは、というか憎むのは、彼らのような引き立て役(外部)をあの世界に存在させてしまったスタッフだ。アニプリのあの強引さは独特の魅力を生み出しもしたが、それと同時に拭いがたい傷をシスプリ世界に付けてしまった。本来、シスプリ世界の基本は「あるところに男の子と女の子がいました」という書き出しで始まる童話のようなものなのである。ところが、アニメ版スタッフはシスプリ世界に現実の尺度を持ち込んでしまった。なぜ男の子と女の子がいたのか、その理由付けをしてしまったのである。虹は美しい。しかし虹ができる仕組みを科学的に解明したところで虹がより一層美しく見えるようになる訳ではない。アニメ版スタッフはそういう失敗を犯した。もし歯に衣着せぬ言い方をしてもよければ、それは失敗どころかほとんど陵辱に等しい。それは例えばミッキーマウスの中に人が入っておりあまつさえそのアルバイトが時給幾ら貰っているということをわざわざ子供に教えるような残酷さだ。


 家族計画[D.O]、真純シナリオ読了。

 なるほどと思った。
 このシナリオにおいて焦点となるのは、司の気持ちを如何にして真純に向けさせるかという部分である訳だが、見事な解決だ。リルケは、孤独な人間を動かすためには献身への要求がその人に全力で襲いかかる必要がある、ということをさる書簡の中で述べているが、つまりこのシナリオはそういうことだ。

 ここまで4つのシナリオを読んできていよいよ強く確信するようになったのだが、家族計画というお話では、人と人との繋がりの問題が「想い」ではなくて「どれだけ時間を共有したか」という尺度で語られる。エロゲーというジャンルにおいてこういう作品を私は他に知らない。司に必要だったのは愛の言葉でもなければ献身的な行動でもない。真純に好意を寄せられていることを知りながらも彼はそれを額面通りには受け取ろうとしなかった(それは臆病でもあり誠実さでもある)し、あの臆病な真純が火傷をすら省みずに自分を救ってくれたという体験を経てすら、まだ彼は真純の気持ちに応えることができなかったのだ。彼が真純を受け入れるためには、ただ、真純と一緒の時間を過ごすということだけが有効だった。いや、この書き方では本末転倒だろう。真純は全力を持って彼を助けた。その結果、真純の生活のために自分の存在が必要不可欠であるような状況が、否応なく発生した。…否応なくという書き方も本当は正しいとは言えないだろう。司はその誠実さゆえに、真純を助ける必要が自分にはあると感じるようになった。司の心の問題において、真純のために生きねばならないような状況が発生した。そうして彼はそういう日々を生きた。それはエンディングから過去に遡るような言い方をすれば、真純との生活に慣れるための期間だった。想いではない。自分が必要であるような状況がまず最初にあって、そういう日々を生きることで、真純との生活がいつしか本人すら気づかぬ内に心と体に馴染んでいき、いつしかそれが司の日常となる。司が他人との絆を作るためにはただそういう方法だけが有効だったのである。


2003/1/25 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#25


 午前中のみお仕事。

 ***

 ケツイ。

 5面中ボス後までで5660万点ぐらい。
 なんとなく稼ぎのコツが掴めてきた風味。
 ノーマルショットでザコを破壊(なるべく接近して壊し「5」の箱を出すのが望ましい)、それから約5秒程度はロックショットで壊した敵がすべて最初と同じ箱を出すので、「5」箱回収しまくりでついでにロックショットで倍率も掛かってウハウハ…ということらしい。要するに、道中は、接近してザコを破壊→即ロックショット発動、の流れを繰り返すということになる。

 ***

 青葉シナリオはレンシナリオにちょっと似ている。
 本気のパンチを受け止めてくれる相手がいるという幸福。

 ***

 中古ショップで不要なゲームを売る。
 査定中に店内のプレミア同人誌を眺めていたら運悪く「ちゅうに」の未所持本を2冊発見してしまってちょっと迷った末に購入。2冊で3Kの出費だが物が物だけにやむを得ない。

 ***

 秋桜の空に〜空色の涼香〜をようやく聴き終える。
 声については「くしゅふふふ〜」と「くすすす」をそのまま喋るのをなんとかして欲しいところだが、キャスティング自体は概ね満足。すずねえの声はかなりはまっていると思う。やや違和感があるのは鞠音か。お話自体は思ったより普通、としか。個人的にはもっとギャグのテンションが高かったら良かったのだけど。

 ***

 夜。
 館林ルパン122でK君とダベり、太田COOMでM君とダベる。


2003/1/24 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#24


 将来の夢。

 日曜日の夜とかに無性に人肌恋しくなってて思わず公子さんにぎゅーって抱きついてしまって、そんで公子さんは最初はちょっとびっくりするんだけどそのままにしててくれて、しばらく経ったら僕(←誰?)の耳許で、しのぶくんにぎゅってされるの嫌じゃないけどでももうちょっと優しくしてくれるともっと嬉しいかな…とか言ってくれて、そんで僕は慌ててごめんとか謝って抱き締めてた手を緩めるんだけど、公子さんはううんいいよっって言ってくれて逆に僕をぎゅーってしてくれて、僕はそんでやっと安心して眠りにつくことができて、朝まで公子さんの腕の中で幸せな夢を見て。それから一ヶ月ぐらいしてまた同じことをやるんだけど、その頃には僕もそろそろ公子さんを抱く時の力の入れ具合が分かってきてて、でも自分では気づいてなくて公子さんに指摘されたりするの。くすくす…しのぶくん…女の子を抱くの上手くなったね、って。

 ………すいません、猛烈に死にたくなりました。
 幸せ過ぎる妄想は反動が恐いです。


2003/1/23 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#23


 ケツイ〜絆地獄たち〜 [ケイブ]

 基本的には平日はゲーセンには行かないのだけど、ケツイの入荷日らしいので試しに。3回ほどプレイしてみた印象で言うと、今作の弾幕のイメージはドラゴンブレイズ[彩京]に近いと思う。ただしドラブレと違って道中は割とアドリブが利くのがケイブシューらしいと言えるかも。ボスはある程度は攻撃パターンを記憶して対処しないと厳しいものが多い。まあアドリブでもそこそこは避けられるけど。現時点での感触としては「弾避けが楽しい」というよりも「厳しい弾避けを強いられている」というのが正直なところ。仮に初心者向けかどうかを問題にするなら「否」と言わざるを得ないだろう。

 初プレイは3面ボスまで。3回目のプレイ、3面道中までノーミスノーボムで戦艦の1upを取り逃したにも関わらず4面ボス最終形態まで辛うじて到達。スコアは2200万ぐらい。稼ぎ方がよく分からない。

 ***

 追記。
 アリカのホームページにて、怒首領蜂・大往生(PS2版)のプロモーション映像(約11MB)を公開中の模様。

 狂気の緋蜂発狂攻撃も見られます。
 落とすしか。


2003/1/22 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#22


 姉妹公認で抱き枕を所持する勇者。

 世の中にはエロゲをやっていることがバレて近しい人から無視されるなんて人も少なからずいる訳で、そういうのから見れば弟君は恵まれてるなあ、なんて。

 ところで抱き枕使用上の注意とか(笑)。

 ・自分で綿を詰める場合はとにかく目一杯詰めましょう。こんな固くて良いのか?と思うぐらいまで。抱き枕は使っている内に中の綿がヘタってくるので最初にキツメに詰めないと後でへにょへにょになってしまいます。必要な綿の量は、標準的な大きさのもので、長座布団1個半ぐらいです。
 ・洗濯はまあ普通に洗濯機で洗えば良いとして、乾かすのは室内干しで十分です。最近の抱き枕に使われているあの肌触りの良い布は乾くのが早い(ような気がする)ので、室内干しでも一日ぐらいで乾くと思います。暖房器具があれば尚良し。
 ・抱き枕を抱いて寝ると必然的に布団が身体に十分に掛からないことになる上、寝返り等によっていつの間にか布団をはいでしまうこともよくあるので、冬場は室内温度に注意しましょう。抱き枕のせいで風邪をひいたらさすがにシャレになりません。
 ・室内温度が十分であれば、最近の抱き枕は肌触りが大変よろしいので、敢えて薄着で寝るとより心地よい抱き心地を味わえるかもしれません。…というアドバイスを某オフでされたことが。その話の場合はシーツでしたが。本人の名誉のために誰の発言かは伏せます。
 ・この注意書きは無保証です。自己責任ということでひとつ。

 あと一点。
 抱き枕に他人が抱きつくと怒る、のは普通です。たぶん。
 例えば、自分のお気に入りのぬいぐるみは誰にも触らせたくない、とかいう風に置き換えたらなんとなくピンと来ないでしょうか?

#お気に入りのぬいぐるみを他人に掴まれる不快感、ちなみにわたくし経験があります。


2003/1/21 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#21


 鈴香さんに告白して了承されるという夢を見た。

 目が醒めてからしばらくは夢現の状態でその夢を反芻していたのだが、だんだん時間が経つにつれ、なんであれが夢なんだろう?どうして目が醒めちゃうんだろう?ずっと夢の続きを見ていたかったのに…と妙に悲しくなってしまった。

 ところで奇妙なことながら、今回の夢には厳密には鈴香さんは「出てきていない」。
 告白は電話でのものだったから。

 夢世界の設定では、なぜか鈴香さんと美月と柚鈴が同じ学校(ちなみに舞台は私の母校の中学校だった)に通っており、鈴香さんは放課後になるといつも二人の妹を連れて家に帰るということを私は知っていて、だから「いつものように」彼女たちと一緒に帰ろうと私は彼女たちを待っていた。別のクラスの教室で友達とはしゃぐ美月、また別のクラスの教室で静かに机につっぷして居眠りをしている柚鈴、は確認したが、その日はなぜか鈴香さんだけが見当たらなかった。それから少し経って、ふと気づくと教室には誰もいなくなっていた。私は鈴香さんに電話を掛けてみた。その後、何を話したかは実はよく覚えていない。ただ、この上ない幸福感があったことだけは確実に覚えている。


 唐突に千秋恋歌の再プレイ。

 鈴香さんが恋しくなったから再プレイを始めたのに、実際に読み進めていくとどうしても悠志郎よりも鈴香さんの方に感情移入してしまう。なんとか会話を紡ごうとして上手くいかずに焦ってしまう鈴香さんを優しく抱き寄せる悠志郎、とかあの辺の場面はもちろんこのシナリオの中でも最高に愛おしいシーンなのだが、それだけではなく、例えば最初のえっちシーンなんか見ていても、悠志郎視点で鈴香さんに萌えるよりも、鈴香さんの側を空想して、好きな人に身体を求められるってどんな気持ちなんだろうとか考えてドキドキしてしまう。


 青葉シナリオについて一番言いたいことは、「それはアリなのか」ということです。
 あるいは、「ずるい」の一言。

 これだけでは何のことか分からないでしょうが、私を名指しして家族計画を薦めてくれたあの人ならきっと察してくれる、と妄想してます。

 結果論ですが、青葉シナリオを最後に取っておかなかったのは失敗でした。
 もうお腹一杯でこれ以上プレイするモチベーションはありません。

 コンプしないとなんとなく座りが悪いので一応あと二人、春花と真純もクリアしようとは思いますが。
 青葉シナリオ以上のものになど少なくとももう向こう数年は逢えない気がします。


 昨日の日記について補足。

 『美しさを他人から教わってしまったら好きだという気持ちに誇りを持てなくなってしまう』
 ………という一文がまず抜けている。

 それから、なぜ創り手に敬意を払うのかという話。
 以下、ヘッセの「荒野のおおかみ」から一部引用。

 たとえ私がバッハとハイドンの全作品を頭に入れていて、この上なく気のきいたことを言いえたとしても、それで誰の役にたつ訳でもありません。だが、私がサキソフォンをとって活気のあるシミーを吹けば、シミーが良くっても悪くっても、人々を喜ばせますよ。みんなの足を浮きたたせ、血をわかせます。それだけが問題ですよ。

 これが、物を創る人間と私のような者との致命的な差というやつです。
 で、私はそういうことを理解した上で、なお、ゲームや本についてのエッセイのような文章を書くことを望んでいる。
 もう何年も前に読んださるプロの文章に感銘を受けて以来、批評めいた文章であっても、それが時には読者に別の人間の視点を提供し得るという点ではやはり独自の価値があるのではないかと思うようになったからです。

 しかし、私のやっていることには矛盾があります。
 私は自分と作品との蜜月を守るためなら他人の意見をシャットアウトすることを躊躇わないけれども、そう考える私自身は他人に「貴方とは違う人間の視点」を提供するつもりで文章を書いている訳ですから。いや、視点の提供というのは文章を書く理由ではありません、もちろん。文章を書くのは結局ただ「楽しいから」書くというただそれだけです。その上で強いて言えば、視点の提供というのは文章を書く上でのひとつの許しです。そういう副次的な効果もあるということを心得ていた方がやりがいがあるとか。


2003/1/20 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#20


 あの激痛日記を書いた日から今日でちょうど一年か、なんてしみじみと。
 青葉シナリオをやってからやたら人肌恋しくなってて精神状態ヤバメなんですけれども。

 ところで書くこととか読むこととか。
 この辺りが参照元。

 ゲーセンでゲームを遊ぶのと家でゲームを遊ぶのとの決定的な違いのひとつは、他人にプレイを見られる可能性が常にありまた他人のプレイを見る機会が常にある、という点にある訳なんですが、シューティングゲーム好きな人の中には、他人のプレイを見ないことを主義にしている方もいらっしゃるようです。名前は伏せますが、今は閉鎖してしまったとあるシューター氏の日記によれば、要は、パターンは自分で作ってナンボであり他人のパターンを真似て(そこまでいかなくても参考にして)全一を取ってもそれでは誇りに思えない、ということらしいのですね。

 この気持ち、私にはすごくよく分かります。と言っても私自身はシューティングに関しては自分の腕のなさにある種の諦めを抱いていて、下手なりに愉しめれば良いという考えなので、割と平気で他人のパターンを真似しますし、また逆にパターンを真似される(これを嫌うプレイヤーはある程度存在するようです)ことについても特に気にはしないのですが。

 ただし作品鑑賞の分野においては話は別で、これはとにかく自分の目で見た物を最優先する、ということに拘ります。というのは、ある作品の美しさを本当に自分のものとして所有し味わい尽くすことができるのは自分で発見した時だけだと本気で考えているからです。なんか激しく分かりにくい言葉遣いですが、要は、美しさは自分で発見しなければ意味がないということであり、他人に言われて気づいた美しさは自分のものにはならないということです。まだ分かりにくいですね。つまり、ある作品の美しさに気づいた瞬間のあの充実感、あるいはほとんど法悦とすら言っても良いかもしれないようなあの幸福感は、他人から教わることのできるような性質のものではないと思うのです。ただ自分で発見した時のみ、そういう圧倒的な幸福を味わうことができる。だから私は、他人の文章を読むことにはいつもある警戒感を抱きます。もしある作品について自分で未だ気づかぬ美しさを他人の語る言葉で知ってしまったら、その瞬間からもうその美しさは永久に自分のものとして味わえなくなってしまうからです。もちろん他人の言葉に気づかされるというのも時には重要なことであり、そうして得た発見というのもまた幸福をもたらしてはくれます。しかしそれはやはり、自分自身で発見した際のあの酩酊感ともいうべき感覚とは比べるべくもない、ほどに差があるのです。

 他人の意見を聞かず自ら井の中の蛙になるのは愚かなことではないのか?という意見は当然ありそうなんですが、正直に言えば、こと作品に接するということに関しては私は井の中の蛙で全然構わないと考えます。少なくとも、他人の意見を読むことによって、ある作品との間に得られるはずだった蜜月を逃す危険に比べれば、自分で発見したわずかなことだけを抱えてその作品と二人っきりの蜜月を過ごす方が遥かに幸福であるはずだからです。重要なのは作品を客観的に評価することなどではありません。私にとって重要さの尺度は、どちらがより充実して幸福であり得るか、ということただ一点です。

 ところで話は変わりますが、私は常に、物を創る人間よりも自分を下位の存在と見なしています。普段の私の傲慢さを考えれば嘘臭いことこの上ない発言ですが、でもこれはやはり偽らざる気持ちで、言ってみれば、自分をそういう立場に置くことで、私は、作品の感想やらを好き勝手に書くことを自分に許すことができているのです。これは卑下とは違います。ひとつの物を創るというのは大変な努力が要ることです。芸術というものは感性だけで創られるのでは当然なく、むしろ創る過程の99%までは地道な作業をひたすらコツコツとこなすことを要求されます。物を創る、というのはそういう地道な作業を苦としない人にだけ許された特権だとすら思います。私はそういう地道な作業をおそらく苦と感じてしまう。私は物を創る資格を持つ人間ではなく、それゆえにそういうことができる人には敬意を払います。

 ただし、敬意を払うということはなんでもかんでも好意的に解釈して「良かった探し」をすることを是とするものではありません。他にどんな欠点があっても美しい箇所は美しい箇所として認め、他にどんな美しい箇所があっても疑問に感じる点はそれとして正直に書く。それが受け手としての誠実さだと私は思います。

 余談ではありますが、サリエリがモーツァルトの一番の理解者であったように、創作物の美しさを本当に隅々まで知ることができるのは同業者だけで、それゆえに創作をしない(できない)私には確実に限界点が存在します。モーツァルトのピアノ協奏曲などを聴いている時、私は偶に、これは作曲の心得がある人の耳にはどんな風に聞こえているのだろうなんてぼんやりと考えることがあります。例えばプロの作曲家が聴くモーツァルトと私が聴くモーツァルトは絶対に同じ物ではないはずです。出所はどこだか忘れましたが、モーツァルトが死んだ時、アントニオ・サリエリは「彼が死んだのは世界にとっては残念だが、我々にとっては僥倖だ、彼が長生きしたら我々作曲家はみんな失業していまう」と言ったそうですが、これなどはまさにそういう例の典型というべきでしょう。いや、本来言いたかったことから少々脱線しました。我ながら面白いことだと思うのですが、私は自分に限界があることを知りながらも、今の受け手専門の状況に満足しているのです、実は。私は自身では物を創れなくてただ他人が創った物について語ることしかできないのですが、そういうポジションこそが自分に一番相応しい場所だと感じているというか。私にとって世界が優しかったことはほとんどないのですが、ただ、この点に限って言えば、自分の今いるポジションと自分の望むポジションが一致しているという意味では幸せな状況にあると思っています。更についでに言えば、「受け手の気楽さ」という言葉は物作りの苦労との相対的な意味合いでは概ね正しいと思いますが、受け手というものが常に気楽であるという意味に捉えられるのだとすれば私はこの言葉に激しく異を唱えます。物作りの苦労を知らないという意味では確かに受け手は気楽なのではあるのですが、そもそも作り手の苦労が透けて見えるようなタイプの創作物が本当に良い物であるのかどうかという問題がありますし、またそれとは別に受け手自身の問題を考えてみても、できるだけ誠実に物を見て、見たものを正確に言葉に置き換えようと思ったら、それはやはり相応の苦労を伴うものです。もちろんそれすらも創作の苦労ほどではないということはあるにせよ。

 ああなんか猛烈に恥ずかしい。
 何書いてるんだ私は。

 ところで今回のごたごたで shelarcyさんには無用のご心配(本来なら抱かずに済んだはずの)をお掛けしてしまったようで大変申し訳なく思っております。余計なことながら念のために書いておけば、今日の日記は私が勝手に書きたいと思って書いただけですので気になさらぬようお願い致します。問われたりツッコミを入れられたりする場合には相手にもそれ相応の覚悟(本気)を要求します(それすらできない相手は放置するまでです)が、今回はこちらの一方的な好意ですので。


2003/1/19 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#19


 大往生(白)。
 やっっっっっっっと、1-1で550HIT達成。

 今週末は4回プレイして4回とも2-5エンド。
 我ながらかなり調子良いと思う。

 ***

 例えば兄として妹を叱らねばならないような状況があったとしても亞里亞だけは叱れそうにないのだが、そうして甘やかされた挙げ句、亞里亞は成長したらナオミ[痴人の愛]みたいになるのだろうか、それもまた良し、ていうか女王様亞里亞(16歳)に罵られながらお馬さんごっこ。激萌え。
 …などということを考えつつ亞里亞スレッドなどを見ていたのだが、考えることは皆同じらしい。
 やはり亞里亞「攻」は基本だよな。

 ***

 日曜日なので思考が澱む前に寝ます。
 青葉シナリオを読み終えたら、だけど。

 ***

 青葉シナリオ読了。
 俺のために書かれたシナリオですか? ですよね?

 他人を信じるという回路が欠如しているゆえに誰かから愛されることなどあり得ないと思っているこの私にとって、司と青葉のような関係の可能性を提示されるのはほとんど革命にも等しいことです。

 準シナリオもかなり心に染みたけど、私はきっと青葉シナリオに出逢うために家族計画をやっていたんだと思う。

 『貴方が得られなかった愛情をわたしが注いであげる
 『貴方を守ってあげる

 アンタがその台詞を言うか青葉。
 こんな台詞を言ってもらえる司が羨ましいんじゃなく、こんな台詞を言えるほどに強く信じられるものを得た青葉が羨ましい。


2003/1/18 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#18


 準シナリオ読了。
 俺の望むものが得られた以上、もう家族計画は封印してもいいよな?

 もちろんしないけど。

 なんかもう、家族計画について抱いていた不信感が一気に吹き飛んだ気がする。素で羨ましい。
 大切にされることが、じゃない。
 いや、それもあるのだけど、それよりも、ああいう環境に放り出された彼らがだ。

 例えば AIR(晴子と観鈴)や ONE(瑞佳と浩平) において人間関係というものが意志の力によって作られねばならないものだったとすれば、家族計画における人間関係は当人の意志とは無関係に半ば強制的に発生するものだと言える。ここでは、関係は意志の力によって作られるのではない。まず、選択の余地なく、共同生活が存在している。関係は、その中から、当人が望もうが望むまいが、勝手に生まれてしまう。ひとつの家に住むということは時間と空間をいやが上にも共有しなければならないということで、そうして生きていく中では、例え不本意であろうが誰かと顔を突き合わせねばならないし、言葉を交わさずに済ますこともできない。そうしてある日気が付くと、彼(彼女)いつの間にかその空間に馴染んでいる自分を見出す。これは、意志とか想いなんて高等なものではなく、もっと原始的な、人間に生まれつき備わっている環境への適応能力に拠るものだ。自分について考えてみればよく分かるのだが、私が他人を信じるために本当に必要なのは、例えば無条件の優しさではない。そんなのはお話の世界にしか存在しないもので、現実感を欠く。今の私が、差し当たっては、そういう、現実を忘れることのできるものを必要としているのだとしても。いずれにせよ、現実的に考えた場合、私が誰かと関係を結べるとすれば、そのために一番必要なのは優しさとかではなくて「慣れ」だ。そうせざるを得ないような状況というものがまず最初にあって、その状況に時間を掛けて身を浸し、いつしかそうすることに慣れていく。そうすることが当たり前になっていく。ある種の人にとって、きっと関係というものはそうしなければ作られない。山田一という人が脚本をどのように構築していったのかはもちろん私如きにわかるはずもないのだが、ただ、最初に氏の頭の中にあったのは、「まずはあの七人をひとつの家に押し込める、そうすればあとは勝手に関係が生まれていく」なんていうくらいのものだったのではないだろうか。


2003/1/17 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#17


 明日は久々の連休なので気が緩みまくり。

 今更ながら最萌えロリトーナメントを眺めてみる。

 葉鍵系でベスト8まで残ったのは澪とあゆのみ。澪は途中経過は相手に恵まれた感があるが、準決勝のアリス戦はおそらく苦しいだろう。水月の脇役である鈴蘭が水夏の主役であるお嬢を破っている辺りから考えても、水月陣営の方がおそらく勢いがある。あゆがカナ坊に負けてたり、乃絵美や初音が一回戦敗退してることなどは意外な気もするが、これも時代の流れというものか。乃絵美に関しては相手が悪すぎた(末莉)ということもあったのだろうが。

 ところで、今までこの手のトーナメントで慣習的に行われている「支援」という行為は本当に支援の役割を果たしているのだろうか?というのはずっと前から不思議に思っていたことのひとつだった。支援画像の存在目的は、建前上は要するに浮動票の確保ということなのだろうが、最萌えトーナメントにわざわざ参加するような人たちが自分の投票するキャラを事前に決めていないなんてことがあり得るだろうか?と思っていた。

 …思っていた、のだが、さっき末莉の支援画像を見て目眩を起こして危うく投票しそうになった。
 支援画像侮り難し。

 ***

 一週間振りに大往生(白)をプレイ。
 特に成果はなし。2-5道中で終了の5.3億ぐらい。


2003/1/16 (木)
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 どうして皆が普通にできていることが私にはできないんだろう。
 末莉を見ているとあまりに他人と思えなくて心が痛い。

 あれを書いた人は実によく分かっている。末莉のようなタイプは青葉のようなタイプに嫌われる。青葉は本当は末莉が司のように自己主張することを望んでいる。しかし末莉のようなタイプはそうすることができない。ただ萎縮してしまう。そうして関係はいよいよ悪化する。
 更に言えば、大抵、事態は関係を一層悪化させるような方向に進みがちだ。注意しているつもりでも、偶然が、事態を最悪の方向に向かわせる。シチューを零すとかみそ汁をぶちまけるとか。現実とはそういうものだ。
 そういう現実を独りで生きていくのはあまりに辛い。私が美しいものを求めずにいられないのは詰まるところそのせいだと言ってよい。私はまだ生きねばならない。そのためには美しいものを美しいと感じられる心を失ってはならない。私がそれを失ったらもう何も残らない。そのためだったら何だってしてみせる。美しいものに対して誠実であるためだったら、そのために邪魔になるのだったら、人間関係だって切り捨ててやる。間違っているとしたって私には他に道はない。
 当然あると期待していたはずの反応がないというのは恐ろしい。言葉は虚空に吸い込まれる。まるで最初からなかったように。私の言葉など最初からなかったように。私など最初から存在しなかったように。
 私の真似をしたって私には近づけませんよ、と本当はもっと前に明言しておくべきだったのだ。真似は真似であって所詮本気ではない。そしてもちろん、本気でないもので人の心は動かないし、それどころか本気でない態度は人を傷つけさえする。

 たぶんあと二時間ほどで準シナリオが終わる。おそらく明日中にはなんとかなるはず。
 家族計画をやっていると、なんか憎まれ口を叩きたくなるよね。たぶん一人ぐらいはそういう気持ちを分かってくれる人もいるんじゃないかな。なんていうか、俺は泣いてなんかない、誰が認めてやるもんか…みたいな。

 ちょっと疲れてます。
 具体的に言うと、シスプリに萌えられない程度。
 シスプリはある程度精神的に余裕がないと楽しめない種類の作品だと思う。

 もうちょっと細かく言うと、精神的に疲れている時は可憐と亞里亞が欲しくなる。ある程度余裕がある時は花穂と咲耶が好ましく見える。これらの間には埋められない溝がある。可憐や亞里亞の場合は、身体が欲するという感じ。こういう時は花穂や咲耶の笑顔は眩しすぎて耐えられない。花穂や咲耶に興味を持てるような精神状態の時は可憐や亞里亞を欲しない。好きや嫌いではなく、ただ欲しない。欲しないから興味も湧かない。

 生きるのは問答無用だと言い放つ青葉様、ひたすら甘やかして駄目にしてそれでも微笑んでくれる雪さん。
 私はどちらの言葉を信じたらいいんでしょうかね?


2003/1/15 (水)
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 咲耶職人さん、今まで楽しい夢をありがとう。

 そして、お疲れさま。
 貴方のことは忘れません。

 ***

 家族計画は遅々として進まず。
 やはり声をきちんと聴いているのが敗因か。
 しかしボイスを飛ばすなど、このゲームに関してはもったいなくてできない。特に寛と青葉。

 ちなみに。
 しのぶさんの現在の興味順位は、準>青葉=寛>春花>末莉=小夜>真純、といった感じです。

 今のところ、家族的馴れ合いに対する青葉の苛つきとか、高屋敷家に馴染んでいく司に対して寂しさを感じる準とか、そういう細かい部分の描き方が非常に上手い、ということをひとまず指摘しておきたい。


2003/1/14 (火)
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 怒りたいのに怒ることに明確な正当性がないと思われるような場合に取り得る最善の選択は、たぶん「忘れて」「黙って距離を置く」こと以外にはあるまい。色々言いたいことはあるのですが、それはおそらく個人的な思想の押しつけなので何も言いません。結局のところ、我々は相容れなかった、のです。メールの最後の一文で貴方が暗に認めておられるように。どちらが悪いということで言うなら両方とも悪いのでしょう。私は狭量に過ぎるし、貴方は私に関心のあるフリをしたという点で不誠実だった。やや偽善めいてはいますが、お互い、距離を置いた方がきっと幸せです。


 ベートーヴェンのピアノソナタについて。
 (2ch ベトスレより)

 32番の第2楽章は、「ただいま」と「さようなら」が言葉にならない感情となっていて、感慨深い

 こうして言われてみると、どうしてこんなことに今まで気づかなかったのだろうと首を捻りたくなるのだが、きっと、当たり前のことを当たり前に聞こえるように言うことほど難しいことはない、ということなのだろう。私には、どうあってもこれ以上に上手くあの歌を言葉に置き換えることはできそうにない。長い遍歴の末、ベートーヴェンは遂に心の平安に辿り着くのだが、気がついてみるとそこは彼自身の“思い出”なのであった。既に老いて求める力をも失った時、彼は初めて、幸せな記憶に身を委ねることを知る。そうして、老人にしかなしえないようなすべてを悟りきったような微笑みを持って、彼は呟く。ただいま、と。彼は辿り着いたのではなく、帰ってきたのである。

 ただいま、さようなら、というとどうしても観鈴[AIR]を思い出しますが、これは余談。


2003/1/13 (月)
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 この世にはまだまだ私の知らない美しいものがたくさん眠っているはずで、それを発見すること以上に大切なことなど私の人生には存在しません。独りの時間を大切にする、というのも、行き着くところはつまりそこなのです。


 もし咲耶が必要とするなら
 (咲耶スレより)

 こういう発言が出てくる限り、私はやっぱり2ちゃんねるを嫌うことなんてできない。
 (なんとなく、元ネタがありそうな気配ではあるが…)


 同人誌を三冊ほど。

 ・お兄様へ…5 [あずまゆき/いもむや本舗]

 前作、前々作とは打って変わって直球ドシリアス路線。忘れてたけど、この人はこういうのを描ける人だったんだよなあ。1〜2ページ目、兄の同級生と咲耶との描き分けからして既に絶妙と言いたい上手さ。今までのいもむや本舗の咲耶は妹キャラというよりも兄と対等の恋人のような存在として描かれていた訳だが、今作を描くに当たって、作者のあずまゆき氏は、基本に立ち返って敢えて妹キャラとしての咲耶を描いてみせる。普段私たちが見慣れているはずの咲耶の制服姿も、極端なまでに大人キャラとして描かれた兄の同級生と比較される時、むしろ色っぽさよりも、幼さや未成熟さと言った妹的要素の方を強く印象づけずにはおかない。そして言うまでもないことだが、咲耶自身がそういうことをちゃんと自覚していてあまつさえコンプレックスまで抱いてしまうという辺りが、年下の女の子(妹)としての咲耶をいよいよ魅力的なものにしているのである。
 「あなたって確か○○君の妹さん…よね?」 この何気ない台詞が咲耶に与えた衝撃はどれほどのものであったろう。いつもお洒落に気を遣いお兄様に振り向いてもらうべくアダルティな雰囲気を意識して演出してきたつもりの咲耶が、この一言で、実にあっさりと、お兄様と対等の女性という立場から年下の女の子というポジションに落とされてしまっている。例えばこれが「咲耶ちゃん」等と名前を呼ぶのであったら、まだ彼女のダメージはそれほどのものではなかったろう。しかし選りにも選って「○○君の妹さん」である。ごく一般的に言えば兄にとって妹というものはいついかなる時でも“年下の女の子”なのであり、咲耶も当然、兄にずっと妹として扱われてきた経験ゆえに、そのことを知っている。妹ではなく、一人の女性として見て欲しいといつも思っている咲耶にとって、再び、自分が妹であることを明確に意識させられるということがどんなにショックであったかは想像に難くない。
 こういう設定があればこそ、ここでの咲耶は今までのどの本にも見られなかったような愛らしさを獲得することになる。ここで描かれているのは、単なる恋人としての咲耶でもなければ単なる妹としての咲耶でもない。ここにはその両方がある。あずまゆき氏がここで描いてみせるのは、妹であることを自覚しつつも一人の女性として扱って欲しいと願う女の子であり、また妹であることを知りつつも咲耶をきちんと一人の女性として大切に扱うことを心得ている一人の兄である。この二人は依然として兄妹でありながら、同時にお互いを一人の異性として尊重することを心得ている恋人同士、に完全になり切っている。なんて素敵な関係なのだろう。

 ・twinkle heart [みつかさみつき/アライアンス]

 お話もなにもなく全編えろえろなのだが、不思議とあまりイヤラシイ感じはしない。こんなことを言うのはさすがに我ながらどうかとは思うのだけど、この漫画での咲耶は、お兄様と過ごす時間を本当に愛おしんでいるように見える。身も蓋もない言い方をすれば、要するに描かれているのはセックスなのだが、ここには肉欲というものはほとんど感じられない。ここでの咲耶は、ただただ、やっと訪れた“お兄ちゃんの日”を目一杯余すところなく楽しもうということだけを考えている。彼女はお兄様本人だけでなく、お兄様と一緒に過ごす今、一瞬一瞬を、全身全霊を込めて愛おしむ。ここには、そういう女の子としての咲耶がいる。

 ・月じゃない星じゃない輝くのは [ぱんこ/凹凸]

 水月/雪さんオンリー(健全)。私の知る限り、最高の水月本。雪さんの台詞が!台詞が!
 勿体ないので台詞をここに書き出す訳にはいかないが、あのような言い回しができる人がいるというだけで私はもう幸せな気持ちになれてしまう。萌え転げるのではないが、これを読んだら、心が暖かくなって、もっともっと雪さんのことが好きになる。


2003/1/12 (日)
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 リピュアBパートを1話から10話まで連続で鑑賞。
 前半の話を放送してた頃はまだ免疫がなかったので正しく作品を見られていなかった可能性があると思ったのだが、今回の再鑑賞では特に発見はなし。

 どうも体調が優れない。
 悪寒というやつは普通に寒さを感じるという状態とは全然違う。寒さを肌で感じていられるうちはまだ幸せな部類だ。その時寒さは自分の外部にあるものだからだ。しかし悪寒の場合は、寒さは自分の内部にある。まるで自分の身体から生命力の一部が損なわれてしまったような、そういう種類の寒さだ。

 鞠絵はそういう状況下で遠くにいる兄のことを想っているのだろうかと想像すると、なぜか泣きたくなる。
 きっと、鞠絵ほど、兄を想うことと生きることとが分かち難く結びついている妹はいない。

 実は、会えない兄に想いを馳せることしかできないような鞠絵の境遇というものは、私にとって非常に身近なものだ。私だって、公子さんや那美さんが隣にいないことに言いようのない寂しさを覚えて、ただ遠くに想いを馳せることだけがその時の自分の存在のすべてであるような夜があるからだ。

 家族計画セカンドプレイ進行中。
 共通ルートと思しき部分まで律儀に読んでいるのでなかなか進まない。いつもの私だったら迷わずスキップするところなのだが、この作品に関しては飛ばすのを勿体ないと感じてしまう。おそらく既読スキップを使えばあっと言う間に終わるのだろう。しかしそれでは疑似家族を演じていった果てにあるものとしての結末を正しく把握できない恐れがある。それでは意味がない。

 ところで、準や青葉まで家族まんせーなエンディングに辿り着いたら怒りますよ?
 ただでさえ、人間関係なんて要らんと言いながら少しずつ高屋敷家に馴染んでいっている司に苛ついているというのに。なんていうかね、置いてきぼりにされた…というか、いっそ、裏切られたとでも言いたい気分。末莉シナリオはもちろん好きですがね。少女を守る騎士という役柄は私にとってひどく魅惑的なので。


2003/1/11 (土)
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 午前中はお仕事、午後から秋葉原。
 疲労困憊。

 どのくらい疲れているかというと、亞里亞のちっちゃい手で抱っこしてもらいながら子守歌を歌って欲しいなあなんて素で考えるぐらい。

 ワタクシ、自分のキャラクターが「受」であることを最近ようやく自覚いたしまして。要するに私は押し倒すよりも押し倒される方が好きなんですな。好きというか、その方がしっくり来るという感じ。例えば、いつも独りで部屋に閉じ籠もっていて時々幼馴染みの女の子が強引に部屋に入ってきては私の手を取って無理矢理外へ遊びに連れ出す、みたいな。そういう男の子でありたい。

 亞里亞に溺れたい。亞里亞なしでは生きていけないような体になりたい。圧倒的に自分より弱い存在であればこそ、逆に私は彼女を前にして完全に無力にならざるを得ない。無自覚の穢れなさを前にして私はただ頭を垂れて跪くしかない。最近分かってきたのだが、亞里亞に萌えるというのは、彼女に守られていると自覚しそこに幸せを見出すことだ。亞里亞の小さな手に思いを馳せることなくして私は生きていくことができようか。答えは否だ。亞里亞は誰かによって守られねばならぬほど弱い。それも確かに一面の真実だ。でも私だって、いや、私の方こそ、亞里亞なしで在ることができようか。亞里亞がその小さなおててで私の服の裾をきゅっと握る時、実際には私の方こそ彼女に守られているのだ。


2003/1/10 (金)
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 リルケの書簡のどこだったかに、他人に理解されない寂しさについて語っているくだりがあったのを思い出す。誰かと一緒に歩き言葉を交わしていたはずなのに、ふと気づくとその誰かは、わたしの遥か後方に立ち止まって、ただ曖昧な微笑みを浮かべている。とか、そういう感じの文章だったと思う。

 究極的には、リルケの言葉を理解できるのはリルケだけだ。なぜならリルケの人生を生きたのはこの世にただ一人リルケ本人しかいないのだから。そういう意味で、言葉というものは、それが真面目なものであればあるほど、それが個人的な次元のものであればあるほど、いよいよ独自になり交換性を持たなくなる…ものであるのかもしれない。

 例え問われても、「自分にとっての孤独」などという問題について私は語るべきではなかった。真面目な問題に回答するという行為は、言ってみれば自分の血肉の一部を切り取って相手に渡してみせるようなものだ。そんな時、どうしたって相手は困惑せざるを得ない。言葉が出てくると思っていたところに血みどろの生々しい肉片が出てきたら、誰だって引くだろう。

 しかし差し出した肉片を無視されれば私はやはり傷つかずには済まない。何といってもそれは私自身の一部なのだから、肉片を拒否されるというのは私自身が拒否されるのと同じことだ。

 今の私にできる最善は、差し出した血肉に対して無反応や曖昧な微笑みを返されても、感情を乱さないこと。
 それはもうそういうものとして諦めるしかない。
 これもまたひとつの経験。

 結局、同じところに私は帰ってくる。
 私の言葉は特定の誰かに向けて語られてはいけない。

 ***

 藤原由紀乃のヴァルトシュタインソナタを聴いてみる。

 第一楽章の終止部、半拍ずれて右手オクターブがゆっくり降りてくるところの弾き方がワザトラシイ。変に表情を付けようとして不自然になっている感じ。個人的には、ここを上手く弾いてくれるとそれだけで幸せになれてしまうぐらい好きな箇所なのだけど、残念ながら音階にシンクロして心が勝手に踊り出すような愉悦は味わえなかった。


2003/1/8 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#08


 家族計画[D.O]ファーストプレイ終了。

 仁王立ちする青葉の姿に魂を揺さぶられ、末莉のえっちシーンで脳を溶かされた。

 再起不能。
 時よ止まれ。
 このまま寝て目が醒めなくても我が人生に悔いなし。

 ただし私はたぶん末莉に恋してはいない。
 どうしても、彼女に対しては誠実な保護者でありたいという気持ちが先に来て、それ以上を望む気になれない。
 末莉が幸せになるためなら何でもするだろうが、彼女の一番の人になるのは私でなくても良い。
 もし末莉の気持ちに応えることが末莉の幸せなのなら、その時は別だが。

 ………………書いてから気づいたのだけど、これってまんま司の心情なのな。

 あと、えっちシーンの甘美なことと言ったら!
 初代とらハを初めてプレイしてからほぼ4年、遂に、あのレベルのものに再び巡り会えた。
 小鳥/唯子レベルのえっちシーンにはもう二度とお目に掛かれないだろうと本気で思っていたのだが、どうしてどうして、分からないものだ。


2003/1/7 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#07


 さっちゃんはですね、ちっちゃいからバナナを半分しか食べられないのではありません。
 そうではなくて、バナナを半分しか食べられないくらいちっちゃいおんにゃのこなんです。

 さっちゃんがちっちゃい女の子であることを、バナナを半分しか食べられないという角度から表現する。
 この歌詞を書いた人は萌えの何たるかを実に的確に把握していらっしゃいますね。

 つまり今日は花穂の誕生日である訳で、プレゼントにお兄ちゃまのバナナを(強制終了


2003/1/6 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#06


 風邪が再発してぴんち。
 いつもなら一回直ってしまえばその冬はもう再発はしないんだけどな。
 もしかして年なのかしら。

 差し当たり今日の夕食は白雪特製以下略。
 いつもなら公子さんに看病して欲しいなどとほざくところなのですが、公子さんに風邪が移ったら困るのでそゆう妄想は却下です。


 りんごの唄 [加賀美ふみを/平和出版]

 パーツ単位では萌えるけれども、全体としてはセックスを目的ではなく手段として取り扱っている(一話は除く)のが不満。
 この辺りは好みの問題ですけど。

 りんごが、指先を唇にちょんと当てて「また明日、会ってね」と言うシーンなんか、加賀美ふみを氏の面目躍如というべき名シーンだとは思うのだけど。
 ただ、あの指が実はりんごの指だというのは残念ではある。主人公の指だったら完璧なのに。

 文句なしに面白いのはやはり第一話。
 ここでは、初めて女性を体験する主人公のどきどき感の演出や、主人公がりんごの誘いに抗しきれずに深みにはまっていく一連の描写が非常に上手いのだが、これらの場面が異常に説得力を持つのは、加賀美ふみをという作家が萌え描写のエキスパートだからだ。私たちはそうと気づかぬ内に主人公にシンクロしつつお話を読み進めていくのだが、そのシンクロニティーを生み出しているのは主人公の描写よりもむしろヒロインの方の描写に因る。加賀美氏という作家は、単に女の子を可愛く描くのに留まらず、女の子の、主人公の視点から見た可愛らしさ、というものを描くことができる人である。自分の拙い愛撫に過敏な反応を示すりんごを見て主人公が「かわいい」と感想を漏らす時、読者の目から見てもその時のりんごはやっぱり耐え切れぬほどに可愛いのであり、そこにはほんの僅かなズレも生じない。私たちはシンクロしていることにすら気づかない。一つひとつの場面があまりに自然だからだ。


2003/1/5 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#05


 大往生、ショット強化にて安定して前半面を突破するためのアドバイス。

 ・ショット強化機体はレーザー時のスピードが異常に遅いので、速い弾を避ける場合はショットに戻す。(例:1面ボス等)
 ・固い敵にレーザー、ザコにショットはこのゲームの基本だけど、ザコと固い敵が同時に出てきている時は、必ず、ショットメインで倒す。(例:道中全般)
 ・3面後半、6way青弾を撃ってくる空中機は真正面にいれば死なないので、出現と同時に密着して倒し、倒したらザコの弾を下移動で避ける。
 ・ショット強化機体のショットは意外に強力なので、道中はショットメインで進む。

 この辺りを意識するだけで、前半面はだいぶ楽になると思います。


2003/1/4 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#04


 孤独について。

 リルケは孤独を愛することを説いていますが、それは人付き合いを断てということを意味するのではありません。私なりに言い換えれば、リルケは、孤独を蔑ろにするなと言っているのです。孤独を恐れ孤独を避け続けることで、私たちは気づかぬ内に何かを失っている。リルケの言葉はそういう警鐘なのです。

 今は作品鑑賞の問題に限定するとして。
 例えばこういうことです。

 一人の人が貴方に近づいてきて、微笑みと共に信頼の籠もった言葉を投げかける。
 また別の時、一人でいる貴方の周囲を幾人かの人間が取り囲んで、貴方について、あれこれ言葉を交わし合う。

 前者については特に問うまでもありませんが。
 後者のような状況下で、貴方は周囲の人間を信用し彼らに対して心を開くことができますか?

 誤解されていますが、作品は物ではありません。いや、物なのですけれども、物として見ている内は、その作品は私たちには心を開いてはくれません。もし議論の結果として作品の秘密を知り得たとしても、それは単に作品を解剖したに過ぎません。そんなやり方では作品は心を開いてはくれないのです。そんなやり方では作品は微笑み掛けてはくれないのです。私は作品の秘密を知りたいのではありません。そうではなくて、私は作品に微笑みかけて欲しいのです。秘密を知るのであれば、それは作品自らが微笑みと信頼を持って語ってくれるのでなければなりません。そのためにはどうすればいいか。

 これは自分について考えてみれば分かります。私だったら、どういう人間を信用するか。どういう人間になら微笑み掛けることができるか。私が微笑みかけることができるのは、誠実さを持って近づいてきてくれる人だけです。いや、こんなことは別に私に限ったことではないはずですが。誰でも、人を品定めするような相手には心を閉ざします。それと同じことが、作品についても言えるはずなのです。だから、私は、作品に対して誠実さな微笑みを持って近づかなければならないと考えるのです。そのためには、私は独りで作品と向き合わなくてはなりません。私は私の方をきちんと向いてくれないような相手に心を開くことなどできないからです。

 私は、花穂やなこるるやまひるに対して誠実であるために、独りでいなければなりません。しつこいようですが、それは人間関係を絶つということとはまったく別のことです。彼女たちもそんなことは望まないでしょう。そう思えるためには、私だって彼女たちを外界から隔離して独占することなど望まない、という程度の理由で十分です。ただ少なくとも、彼女たちと向き合う際には、私は独りでなければならない。意外に知られていないように思いますが、作品というのはたいへんにデリケートなものです。作品というものは、彼らの正面を向いている間しか、私に微笑みかけてくれません。ちょっとでも作品以外の方向を向いてしまえば、もう彼らは表情を消して身を隠してしまいます。私はしばしば、語れば語るほど作品から遠ざかっているように感じることがあります。これも自分について想像してみれば簡単なことで、つまり誰かが「私に対して」話しかけてくる時にはその誰かは当然私の方を向いているはずですが、その誰かが「私について」語っている時には、彼の視線は必ず私以外の方向を向いている。要するに、自分の恋人を前にして自分の恋人が如何に素晴らしいかを客観的に語る馬鹿はいない、とそういうことです。

 ただし、正直言って現時点で未だ、私は自分のこの意見に自信を持つことができていません。概ね間違ってはいないとは思うけれども、どこかに理論の飛躍があるような気がしています。どこが間違っているのかはまだ分かりませんが。  


2003/1/3 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#03


 もう戦うのには疲れた…なんて言いたいのだけど…………………。

 マルテの手記の終わりの方に、こんな一節がある。

 人々はめいめいの愛にただ一種の虚栄を感じているだけだったのだ。
 そして、お互いに愛を競っているらしかった。


 私はもちろん、ずっと前からこういうことに警戒してきたつもりでいた。しかしふと気づくと、私も彼らと同じことをやっている。誰だったか「オタクはネット上において自分が如何にダメ人間であるかを互いに競い合う」なんて言った人がいたが、これは本当に見事な観察眼というべきだと思う。そう、ある意味で、オタクはいつも戦っている。自分が如何にこの世界にどっぷりはまっているダメ人間であるかを一生懸命アピールすることに余念がない。

 私は、ああはなるまいと自分に言い聞かせてきたつもりだったが、しかしふと気づくと私も彼らと同じことをやっている。ネット上で定期的に一定量以上の文章(もっとも私が読む量などたかがしれているのだが)を読んでいると、いやが上にも、ある作品に対する深い洞察を見せるような文章に接する機会も増えるのだが、そう言う時、私は敗北感を抱いてしまうことがある。こんなこと、口にするも恥ずかしいのだが、要するに、自分がその作品に対する一番の理解者ではないと思わされることが悔しくて堪らないのだ。私が、ヘタレなりに気合いを入れてゲームの雑記を書くのは、自分がその作品の一番の理解者だと思っていたいからだ。私はつまり、他人の文章を読んでも落ち込まないために、文章を書く。もちろんそれがすべてではないが、そういう部分は確実に存在する。ネット環境を持っていると、何かを“自信を持って好きで居続ける”ことはなんて難しいのだろうと思う。別に笑ってくれても呆れてくれても構わないが、私は自分がある作品に対する一番の理解者だと思えなくては嫌だ。

 いや、念のために言っておきたいのだが、例えばまひるのことを一番好きなのは俺だ!と自信を持って思うということは、自分以外の他人がすべて二番目以下だということを意味するものではない。ここにポーズはないはずだと信じるが、私は、作品に対する姿勢が他人にどう評価されるかという部分には興味がない。つまり、例えば「花穂のお兄ちゃまはしのぶさんだ」と思われること自体ははっきり言えばどうでもいい。問題なのは他人からどう思われるかではなくて、自分がどう思うかなのだ。他人を尊敬することと自分が一番だと思うこととは対立しない。逆に、私の文章が誰かに敗北感を抱かせてしまうことがあるとすれば、その誰かと私との一対一の関係に限定しては、私のその文章は失敗だということになる。誓って言うが、私は作品なりキャラなりを独り占めしたいのでは断じてない。しかし現実には、他人の文章を読んで敗北感を抱かないためには、独り占めするぐらいの勢いを持って文章を書くしかない。もう一度言うが、私は独占など望んではいない。むしろ独占を忌み嫌うぐらいだ。にも関わらず、私は、自信を持って何かを好きだと思い続けるために、戦わなくてはならない。

 しかしそう考える一方で自分のそんな考えに言いようのない虚しさをも抱く、と表明する態度にはややポーズが混じるかもしれない。しかしポーズではあってもそれはやはり嘘ではない。私は戦うのは嫌だが、戦うことによって好きなキャラクターをもその戦いに巻き込んで穢しているのではないかと想像することは更に嫌だ。こんなことを書くといよいよ道化に拍車が掛かりそうなのだが、私にとって何よりも重要なのは、好きなキャラクターなり物語なりと一対一であれるかどうかということだ。一対一でない関係は純粋ではない。私は花穂が好きだ、という気持ちが他者へのアピールという形を取ることは絶対にあってはいけない。ところが、Web日記を書き続ける限り、私は花穂が好きだ、という気持ちを自信を持って抱き続けるために、いやが上にも気合いを入れて文章を書くしかない。好きだという気持ちは、もっと穏やかな、どこにも向かわずに内に閉じ籠もっているようなものであるべきなのに。

 ああそうだ、思い出した。
 綺麗で居続けるためには力が要る、しかし力を手に入れるためには純粋ではいられない。さんさんさん[柳原望]。

 つまりそういうジレンマだ。

 私は何か書く度に作品なりキャラクターなりを穢しているのではないか?
 穢さない唯一の方法は、もはや一切書かず一切読まない、しかないのではないか?

 どうして好きという気持ちを抱くだけでは満足できないのだろう?
 どうして好きという気持ちを外へ向けて語らずにいられないのだろう?


2003/1/2 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#02


 ストレス発散目的の秋葉原散財ツアー。

 といっても現段階ではまだ品物は出揃っていないようで、二ヶ月振りの同人誌漁りにしては収穫は少なめ。
 あと、ラジオ会館が閉まっていたのが痛い。
 K-BOOKSで中古同人誌漁りをしたかったのだが。

 一通り買い物を終えてからHEYで大往生を一回だけプレイ。
 左手に弾避けの神が降臨して2-5開幕残3という快挙を達成。二度目のオキモノ(2-5ボス)到達。
 一旦離れてまたHEYに戻ってみたら偶然にもギーガーさんと遭遇。
 少しだけお喋り、その後ギーガーさんのプレイを拝見。
 ショット強化機体での上手いプレイは滅多に見られないので貴重な機会でした。
 2周目4面神顎のノーボムパターンは目から鱗。
 まさかあんな抜け方があったとは!

 午後7時半。
 かねてよりの約束通り土方さんとジョナサンで夕食。
 11時過ぎまでひたすらお喋り。
 例によって書くのは憚られる内容なので詳細はヒミツ。

 あと、お誕生日プレゼントを渡したりとか。
 本日を持ってうちのなのはは土方家の養女になりました(謎)。

 ***

 購入物一覧。

・りんごの唄 [加賀美ふみを/平和出版]
・晩秋の巫女 [ソフトさ〜くるクレージュ]
・水月アンソロジー [エンターブレイン]
・紫刻 [パープルハート&ちくわの気持ち/サムスピノベルCG集]
・小さな命のおくりもの [和/銀色SS]
・またここであいましょう [MINTBLUE/乃絵美]
・PurePure [DiGiEL/ナコリム]
・TwinkleHeart [ALLIANCE/咲耶]
・秘密の萌え帳 [18モンキーズ/オリジナル]
・BLUEMOONに照らされて [芝刈組/水月]
・心を開いて3 [LOVELESS/千影](中古)


2003/1/1 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-01.htm#01


 家族計画[D.O]プレイ中。

 予想を遥かに上回って愉しいのだが、意地を張っていても周囲から普通に許されている司という人物に少々嫉妬を覚える。
 あんな優しい世界が現実にあって堪るかばかやろう。

 たぶん最低でも1月いっぱいぐらい、あるいはもっと長く、この世界に浸ることになるでしょう。

 ***

 今年もよろしくお願い致します。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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