棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

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2003/2/28 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#28


 仕事が鬼のように忙しい。
 と言っても、今日一日で明日分の仕事まで強引に終わらせてしまったからなのだが。
 いつもの1.5倍の仕事をこなしていつもの1.5倍疲れたけど、ともかく頑張った甲斐あって明日はお休み。
 めでたい。

 ***

 大往生(白)。
 1回目、1周3.9億、2-3中盤まで。
 2回目、1周3.2億、2-5中盤まで。

 やっと 2-2 コンボの要領が掴めてきた。
 龍顎(2)を葬った後の動きは、八爪(1)を右移動で破壊して画面右の固い壁に繋いでゲージをキープしつつ切り返して八爪(2)→八爪(3)とやればいけるっぽい。後は中ボス前を安定させられるかどうかが課題。

 ところで、こんな風に書かれると緋蜂にすら萌えを感じてしまうのだが。

 ***

 G's Magagine #4

 シスプリ2はページ数をたっぷり使って特集されているが、相変わらず購入意欲はそそられず。
 と言っても実は密かに予約済み(当然、花穂と咲耶が載ってる限定版の方)なので買わない訳にはいかないのだが。

 シスプリボイスCD第三弾通販受付開始。
 ファンは必ずチェキのこと。

 双恋。
 「双子を彼女にすると両手に花」とかなんとか書いてあるのですが、それは倫理的にどうなのよ?
 一般的にはそうゆーのって「二股」っていうんじゃないのですか?

 とりあえず今月分まででシスプリトレカは11枚揃ったので来月以降はもう買わなくて良いかも。
 足りない一枚(可憐)はまあ秋葉原の中古ショップを気長に漁ることに。

 Megami Magazine #4

 花穂のポスターだけで値段分は取った感じ………とでも思わないとやってられない。
 この系統の雑誌ではおそらく初のリピュアBパート特集も肩すかしで他に読むところないし。


2003/2/27 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#27


 まひるたんは実はおとこのこであるという事実が発覚しました。

 そ れ で も (*´Д`)ハァハァしますか?

 <はい> いいえ

 ***

 ベッドが欲しい、雪さん付きでなくてもいい。
 (byオリビエ・ポプラン)


2003/2/26 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#26


 睡眠以上に重要なことなどこの世に存在しない、と素で言えるぐらい眠い。

 仕事中、唐突に頭の中で「長い間悩んだ 寂しさと 人のこころ 短い詩を 君に贈るよ〜」なんて歌詞が流れはじめて、何の曲だったか思い出すまでぼんやりと脳内で自動再生していた。とらハ3のエンディングテーマであることに気づくまで一分ほど掛かった。

 ところで誰も指摘しないことだが、ONEをやっているプレイヤーがひとつのシナリオの終わりを実感するのは、テキストを読み終わった瞬間ではなくて、あのエンディングテーマ「輝く季節へ」の最初のふたつの音が響いた瞬間だ。あるいは、プレイヤーの感情の高まりが最高に達するのはあのふたつの音が響いた瞬間だ、と言い換えても良い。あそこでは、エンディングテーマは単なる形式として存在するのではなく、それすらも物語を演出するための重要な素材だった。

 これと同じような見事な効果を上げているものと言えば、もうひとつ、とらハ3がある。忍シナリオの終幕、ノエルの再登場に合わせて「See You -小さな永遠-」が流れ出すあの瞬間は、音楽と画面とテキストとがもはや区別すら付かなくなるくらいに完全に溶け合って、ひとつの美しい空間を作りだしていたのだった。

 それぞれの素材の調和の完璧さという点でならフォークソング[リューノス]と終末の過ごし方[あぼぱ]こそが最高峰だと個人的には思っているが、劇的な効果ということに限って言えば、ONEととらハ3のふたつ以上に見事な効果を上げている物を私は他に知らない。 


2003/2/25 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#25


 久しぶりに、Kanon -水瀬さんち-(秋子さんのばんごはん)を聴いた。

 雪の街に咲く花(track10)の美しいこと。

 こういうことを考えているのはきっと私だけではないと思うのだが、このお話には、わかつきめぐみ作品に遍在する、春の暖かな陽射しが大気中に溶け込んでいるかのような、あの優しい静寂と同じものがある。

 最初、祐一も香里も、お花見をするという名雪の言葉をまるで真に受けない。お花見というのはもっと景気よく咲いた桜の下でやるものだろう?と祐一は突っかかる。しかしただひとりマイペースな名雪は、いつもと変わらぬのほほんとした態度で答えるのである。一輪でもお花はお花だよ、と。

 この瞬間、彼らを取り巻く風景が一変する。あのこの上なく優しい音楽「風の辿り着く場所」に乗せて、名雪の言葉が静かに大気に満ちていく。それまでは北風の吹く単なる公園だった場所が、名雪の言葉を吸い込んで春の色に染まっていく。

 わかつきめぐみ一流の、息を呑むような鮮やかさが、ここにはある。

 ***

 余談ながら、このCDを Windows Media Player で再生するとそれぞれのお話に付けられたタイトルを知ることができます。
 雪の街に咲く花、は track10 のタイトル。

 これを書くために再生してみてさっき初めて知ったのですが。


2003/2/24 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#24


 末莉だけどうして他のキャラに比べて印象が薄くなるのかと言えば、それは家族計画のメンバーの中でただ彼女だけが、癒される必要のある傷を抱えていなかったからだ。もちろん、彼女は彼女なりに問題を抱えてはいる。しかし他のメンバー達と比べてみる時、彼女だけは、未だ何かに失望するような年齢に達していなかったということがある。司は準との経験を通じて他人を信じることを止めて他人と距離を置くようになり、青葉や真純は他人に利用される痛みを経て世界と健康的に関わることができなくなった。末莉以外のメンバーは皆、生きていく途上で苦い失望を味わい、結果としてどこかねじ曲がってしまった。家族計画というお話は、つまりそういうねじ曲がった人々が如何にして回復していくか、というよりも如何にして回復は可能であるか、という問題を取り扱った作品だと言えるのだが、そうしてみると、末莉の立場というものは他のメンバーとは明らかに違うことが分かる。

 末莉は癒される必要を持たなかったが、しかしそれとは別の危機に陥っていた。つまり、作中のある時点まで、彼女が立っていたのは司や青葉と同じ道の途上だった。彼女はまだ他人を信じる純粋さを失わずにいる。しかしそれは誰かによって守られなければいずれは失われてしまうような性質のものだった。末莉の側を見れば、このシナリオの焦点は「回復」ではなくて「危機の回避」だったと言えるだろう。このシナリオの美しさというのは、つまり末莉が綺麗さを失わずに成長することができたという点にあるのだが、いずれにせよ、他のメンバーの場合とは違って、このヒロインはあくまで守られるべき存在として描かれていた。上手く言える自信がなくて歯痒いのだが、あのエンディングの幸福な風景は彼女が勝ち取ったものではない。あれは彼女に与えられたものだ。否定的なニュアンスで私は言うのではない。なぜならあれは与えられるべくして与えられたものだからだ。末莉という少女は、他の誰と比べてもあまりに弱い存在であったのだが、しかし彼女は他のメンバーと違って、未だ生きるための鎧を身につけていなかった。それゆえに彼女は端から見るとずいぶんと頼りなく映るのだが、しかしその頼りなさは既に鎧を身につけてしまっている他の人物たちの目にはこの上なく眩しく輝かしく映ることにもなる。それだからこそ青葉は自分が失ってしまったものを未だ信じて堅持している末莉に苛立ち、時には彼女を拒絶し辛く当たらずにいられなかったのだし、それだからこそ司は末莉のそんな純粋さに危うさを嗅ぎ取り、彼女を守らねばならないと考えるようになったのだった。彼女はそのままで良かった。ただしそのままでいるためには誰かの庇護が必要だった。末莉というキャラは自分の未来を決定するような力を未だ持たない弱い少女で、作中で物語の駆動に積極的に関わるような存在でもなく、それゆえに、例えば真純シナリオにおける真純に見られるような、あたかも蛹が蝶になる瞬間を見るような劇的な美しさ(チンピラとの決別のシーン)というものは末莉シナリオの末莉には見られないのだが、しかしそれは末莉のせいではないし末莉シナリオの欠点という訳でもないのだ。末莉はそのままで美しかったのであり、そのまま変わる必要がなかったのである。

 そしてそれゆえに、この物語は司の側から語られるしかなかった。末莉を動かすことができない以上、保護者の側を丹念に描かなかったらそもそも物語は成り立たなくなってしまう。末莉という少女の設定が決まった時点で、このシナリオが司シナリオになることはほとんど決まってしまっていたのだ。

 だから末莉シナリオにおいて、末莉は主役ではない。主役はあくまで司の方だ。これはあくまでも沢村司が末莉という少女に出逢って共に生活していくことで充実した生を生きることを学んでいく物語である。しかしそれにしても、脇役であるにせよ、末莉という少女はなんと眩しく私の目に映ることだろう。末莉は何もしない。しかし彼女はただそこにいるだけで、司に生きることを教えた。末莉は司によって危機から救い出され、司は末莉を救い出すという役割を担うことによって再び他人と触れ合うことを学ぶ。そうしてふたりは一緒に生きる。誤解しか招きそうにない表現だが、ここには、恋愛という言葉では到底語ることの出来ないようなある真剣さがある。好きや嫌いではなく、相手を必要とし相手から必要とされることが生きることと分かちがたく結びついているような、ひとつの生がある。それが私の胸を打たずにはおかない。

 余談ながら、このシナリオ通して一番衝撃的だったのは、えっちシーンでの司の独白だった。細部は違っているかもしれないが、「決めた、俺はこれから毎晩末莉を抱く!」と決意(?)する場面。これを末莉の体に溺れた(笑)司の独白と捉えるのは間違ってはいないにせよまだ十分ではない。この独白には末莉の側の事情がまったく考慮されていないことに注意されたい。末莉と出逢う前の司は、万事において他人に期待しない生き方をしてきた。司は他人を信じず、他人に何も期待せず、他人と距離を置くことをいつも心掛けてきた。例えば、屋根の上での真純との会話の中で司は自分が何を望んでいるのか分からないということに気づくのだが、このエピソードなどは司という人物の対人スタンスというものを実に分かりやすく物語っている。ところがその沢村司が、ここでは末莉に対して少しの遠慮もなく、自分の望みを通すことを少しも躊躇わない。司がこれほどまでに他人に何かを切実に望んだことは作中にも他に見られない。しかも司は自分の望みがとんでもない我が侭であることを少しも自覚していない。自覚しないほどに、この時点で司にとって末莉という少女は自然に心を許せる存在になっていたのである。


2003/2/23 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#23


 日曜日の昼間から重度の憂鬱。

 久しぶりにトップページに隠しカウンターを付けて今日で1ヶ月。結果は、現時点でトータル約9000HIT、一日辺り約300HIT、だった。一時期は、やっと一日300HITに届いたことが嬉しくまた誇らしくもあり、毎日気合いを入れて更新していたりしたのだが、熱が冷めてみると後には虚しさしか残らない。

 最初のうちは、情報としての価値などなんら持たないプライヴェート性の極めて高いweb日記でこのアクセス数はすげえなんて思って悦に入ったりしていたのだが、でも今はとてもそうは思えない。

 アクセス数を増やすための具体的なアクションを取ることには羞恥を覚えるのでそういうことはしないにしても、それとは別のところで、いつか300HITに届いたらいいなとはずっと思っていた。要するにコンペにおける「賞」は動機ではないが目標ではある、というようなものだ。

 そのために私は自分なりに頑張ってきたつもりだし、だから今のアクセス数について、そんな価値はないなんて殊更に発言してみせて謙遜に見せ掛けた卑下をするつもりもない。卑下と傲慢は紙一重だ。

 しかしそうやってひとつの目標を達成した今、自分を振り返ってみる時、私の手元に何が残っただろう。

 何もありはしない。
 気が付いたら私の周囲には誰もいなくなっていた。ただ、数字だけが残った。今のネットにおけるしのぶという人物は、きっと「たまには面白いことを書くけど、個人的には近づきたくない」ような存在として認識されているのだと思う。

 頑張った挙げ句に辿り着いたのは、そんな不毛の地だった。

 もちろんそうした原因は自分の言動のうちにあるのであって、他の誰をも責めようがない。しかしその上でいえば、今の私はもう「好意の言葉」なんて信じられない。嘲笑されるか呆れられるか怒られるかを覚悟して敢えて言えば、私はセーラー服物語3[白倉由美]の中に出てきたひとりの少女にすごく親近感を覚える。彼女は言ったものだった。みんなわたしのことを可愛いって言ってくれるけどでも誰も好きとは言ってくれないの、と。これを自分なりにぴったり来るように言い換えれば、わたしに好意の言葉をくれる人はたくさんいたけれども誰も本気の言葉はくれないの、ということになる。どうぞ藁ってください。

 ひとつ告白すれば、今まで他人からメールを貰って失望した、ということが二度だけある。メールの内容にではない。強いて言えば、タイミングに、あるいは言葉しかくれない態度に、失望を覚えたのだ。失望といってもそれは相手を評価するとかいう問題ではない。どちらのメールについても、もらった時に最初に私の頭の中に浮かんだのは、「何を今更」という言葉だった。私はその相手に好意を抱かれていると信じていて、――それはたぶんある時点までは真実だった――でも好意の言葉以上のリアクションをもらえないことを密かに、ずっと寂しく思っていた。そうして気持ちがやや離れてきていたところに突然、その人からメールが届いた。内容は私の日記への他愛ない言及だった。でもその時の私はもうその人の言葉を素直に受け取ることはできなくなっていた。何を今更…という言葉がどうしても最初に浮かんできてしまった。ひとつのメールについては「誘って欲しい時には誘ってくれないでなんで今頃…」と思い、もうひとつのメールについては「結局口では好意の言葉を語っても実際には誘ってすらくれないのね…」と思った。つま先で恋をしよう[森生まさみ]のヒロインが、話掛けてすらくれないんだ、と呟く時のようなニュアンスで。こういう自分を醜いと殊更に書くのは単なるポーズでしかない。冷静に考えれば、悪いのはたぶん他人に期待しすぎる私の方なのだろうけど、さりとて本音を言えば私はこのことで譲歩する気を少しも持ってはいない。

 今の自分に言いたいことがあるとすれば、それは、身の程を弁えろ、ということだ。


 家族計画[D.O]末莉シナリオ読了。

 これは俺のために書かれたお話だ、みたいな語り方をするのは格好悪いことだろうか?
 web日記界の現状ではそういう風に語ることに羞恥を覚えるというのが多数であるような気がする。

 しかし格好悪くてもいい。
 格好悪いと思われても知ったことではない。
 このお話は私のために書かれたのだ、と今だけは信じたい。

 他に何も持たない私は、せめて時々は、昨日の夢のような体験を、あるいは末莉シナリオのような体験を、――例えそれが幻想であっても――持たなければ、きっと生きられない。私は『生きていくことしかできない』存在だ。ショパンとか末莉とか、そういう種類の美しい栄養を摂取することで私は辛うじて自分の命を繋ぎ止めている。だから格好悪くても仕方がない。それが、他人を信じる回路を持たない人の皮を被ったロボットである私に許された、せめてもの生き方なのだと思う。

 初めて家族計画をプレイした当初から、私は末莉について語るべき言葉が見出せなかったのだけど、今ならその理由が分かる。このお話は、この手のジャンルの他のどの作品にもみられないくらい、徹底的に男性(司)視点で書かれているからだ。ギャルゲーというジャンルは基本的には男性の楽園であるのだが、しかしここには――いくつかの例外を別とすれば――常にひとつの傾向があった。すなわち、男性は女の子を幸せにするべきだ、という思想。女の子を幸せにすることにこそ男性の幸福があるという思想が、いつも根底に流れていた。私はそのことに別段異を唱えるつもりはない。賛同するというよりは、そういう語り口、例えばそこから「男尊女卑」という言葉を持ち出すような語り口に興味を持たないということなのだが。話を戻せば、だからギャルゲーにおけるハッピーエンドというものは、主人公がヒロインを幸せにすることだと言って良い。それがいつも物語の終着点になる。だから、というべきかどうか、いつしか私は、自分の弱さ/受け身的な傾向を持つ性質ゆえに、主人公ではなくヒロインに感情移入して物語を楽しむようになった。私は今でも、小鳥になって真一郎に抱かれたいと思っているし、観鈴になって晴子に我が侭を言いたいと思っているし、鈴香さんになって悠志郎に優しく髪を撫でて欲しいと思っているし、最近でなら、可憐になってお兄ちゃんを見つめたいと思っている。私は花穂や四葉に対しては良き兄でありたいと思うが、可憐に関しては可憐そのものになってお兄ちゃんに胸をときめかすことを願う。フロレアールや水月はその意味では例外に属する。いや、水月ですら、雪さんを別とすれば、あそこで書かれているのはやはり女の子の幸福というものだろう。フロレについてはこの作者がギャルゲーというものを本当に真摯に愛しているのかどうかよく分からないので私は正直に言えばあれをあまり信用してはいない。この作者のものはフロレしか知らないのだけれども、ただインターネット上での話題をみる限り、あの人の作品はキャラ萌えや美しい世界などよりもむしろ、ギャルゲーをもっとメタ的に眺める人々の「考察のための素材」として支持されているように思えて、そこに胡散臭さを感じている。ある作品に触れて、例え一瞬でも、これは私のためだけに書かれた作品だ、と思えないような(そうする必要を感じないような)人たちと、私は馴れ合うつもりはない。脆弱な自分の身を守るために。家族計画に話を戻そう。末莉シナリオが私の心にものすごく優しく染み入るのは、これが徹底的に司の物語だからだ。変な言い方だが、ここでは、末莉よりももっと司の方が幸せになっているように見える。末莉を幸せにすることに司が幸福を見出すというのではなく、司が末莉に与えたのと同じくらい大きなものを、司は末莉からもらっているように見えるのだ。多くのギャルゲーはヒロインが幸せになるお話だと言っても良いと思うのだが、これは司が幸せになるお話だ。私にはそうとしか思えない。このお話における末莉の問題というものが、私にはいまいち掴めない。例えば、あの幸せは末莉の家族を信じる気持ちがもたらしたものだとかいう風に語ることはできない。そうであるにしては末莉の描写はあまりにも足らない。それでもそのことが欠点にならないとすれば、これはやはり司の物語だということになるのだ。あの、末莉を引き取るイベントがレ・ミゼラブルの同じシーンを連想させるために、ついつい私たちは末莉とコゼットを重ねたくなるのだが、これは単に両者が共に不幸な境遇の中でそれでも美しさを失わなかったということだけに拠るのではない。それよりももっと重要なのは、物語の中での位置づけというものが、末莉もコゼットも同じだということだ。ジャン・ヴァルジャンがコゼットへの献身を通じて贖罪を果たし人間として生きることができたように、沢村司もまた、川原末莉との出逢いを通じて、再び他人を信じ他人との絆を作ることを欲し、そうして生きることを学んでいく。真純シナリオと同じく、ここには想いよりも先に役割がある。頑なな司には、好意の言葉などというものは通じない。好意とかとは別に、末莉を守りたいという気持ち(末莉がひねくれてもいいのかと司は青葉に問う)が先にある。そうして、司自身も知らぬうちに、彼は自分の役割に慣れていく。心と体が馴染んでいき、いつしか司にとって末莉が必要な存在へと変化していく。そうして初めて、ただ生きることしかできなかった司は、それよりも一段と充実した生の中に入っていく。これはそういう意味で、純粋に沢村司という人間の回復の物語だ。 

 関係ないですが、「おしゃれは女の子の必要経費だよ」って台詞、すげえ格好良いと思いませんか?
 いやあの、マジで震えてしまうんですが。

 こんな台詞、一生に一度は言ってみたい。


2003/2/22 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#22


 朝。

 夢をみた。
 一緒に街を歩いている途中で何かの拍子に妹が拗ねてしまって、僕は慌てて追い掛けてつかまえて、そしたらなぜか彼女は泣いていて、僕は急に妹が女の子であることを意識して、温かな気恥ずかしさとでも言ったものを感じながら妹を宥めたりして、そのうち妹の言葉の端々から彼女が何を望んでいるのかが分かってきて、そんで僕は告白するの、好きだよ、ずっと前から好きだった…とかなんとか、妹をそっと抱き締めるようにして背中に手を回して、そうすると妹の体は僕が思っていた以上に小さくて、でしかも彼女は泣いていて、微妙な震えが僕の手にも伝わってきて、妹のぬくもりを感じながら、ああ僕は兄なんだからコイツのこと守ってやらなきゃなとか思っていると、彼女は僕の胸に顔を埋めたままで言うの、…やっと言ってくれた、って、そんで妹はようやく顔を上げるんだけど彼女は目を瞑っていてそんで僕は彼女の想いに応えようと以下略。

 妹といっても知らない子でした。
 夢の中では兄妹だとごく普通に認識してたようだけど。

 あと、人は嬉し泣きをせずにいられないような状況下では笑顔を作る余裕なんかないのだなというのを知りました。
 これがこの夢の一番の収穫かもしれない。

 私にショートを描くスキルがほんの僅かでもあればショート小説形式で書き残したかったのだけど、残念ながらそっち方面については赤子同然なので(謙遜ではなく)そうすることはできませんでした。ホントに残念なのだけど。

 吊ってきます。
 止めないでください。
 (お約束)


 午後。

 友達に電話して落ち合い、馬車道(大田店)で遅い昼食。
 その後だらだらとドライブしつつ買い物とかゲーセンとか。

 太田セゾンで大往生(白)を2回ほどプレイ。
 1回目、2-3道中まで。
 2回目、2-4ボスまで

 太田COOMでM君やK君とダベったりしつつケツイをプレイ。
 1回目、B-Typeで5面中ボスまで。
 2回目、A-Typeで5面ボスまで。

 夕方、早売りジャンプを買いに伊勢崎某店へ。
 ついでにレジャーランドに寄ってたこ焼きを買い、車の中で食しつつ太田に戻る。

 パソコンランド21大田店にて、Cafe Little Wish [ぱてぃしえ]を購入。

 ***

 今朝みた夢が忘れられません。
 正確に言うと、彼女の体温が。

 あの、手に感じられたぬくもりをずっと反芻していたい。
 他のことは考えたくない。


2003/2/21 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#21


 館林ルパンにて大往生(黒/残4/EASY)。

 2周目4面レール砲地帯までノーミス(怒顎(1up砲)突破時点で残8)。
 レール砲で1ミス、4ボスで1ミス、オキモノで1ミス、ジェット蜂で1ミス、緋蜂で5ミス、で終了。

 ところで。
 殺すための解答は存在しても弾幕を避けるための解答が存在しない2周目2面ボスの難易度は本当に適切だと言えるのだろうかな?
 白版の話ね。


2003/2/20 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#20


 食欲不振。
 睡眠不足が危険域に入った模様。

 斑鳩の攻略DVDが発売されるらしい。
 三月から四月に掛けては、現在分かっているだけでも、

 ・シスプリ2
 ・PS_2版大往生プロモイベント(秋葉原/詳細未定)
 ・斑鳩DVD
 ・Kanon 水瀬さん家 4巻
 ・大往生DVD(ゲーム本体がおまけに付く)

 という充実ぶり。
 もうここまで来ると、「春が楽しみ」というよりも「生きるのが楽しみ」なんて言いたくなってしまう。

 秋葉原での大往生イベントは、去年のゲームショウで公開されたあの狂気の緋蜂戦映像が再公開される模様。
 (ソースは三原氏の日記)


2003/2/19 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#19


 「――国を巧く治める秘訣は何か?」
 「言葉を正しく使うこと」

 言葉を正しく使うということは対象を正しく観察するということ。
 モノを正しく見て、正しい言葉を与え、正しい位置に置くこと。

 ***

 今日の夕食は琥珀さんでした。

 ところで上記の出典が思い出せません。中国辺りの故事だったような気がするのだけど違ったかしら。


2003/2/18 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#18


 実のところ、可憐は私が思っている以上に普通の女の子なのであって、私が不安がろうが何しようが、彼女はきちんと成長するだろうとは思う。しかしその成長によって失われるものは確実にある。例え兄に想いが通じたとしても世間は兄妹同士の恋愛を認めないであろうし、そのことから生じる様々な軋轢は彼女に何かしらの影を与えずにはおかないだろう。もちろんその影が、可憐に、今とは別の色気を与えることはあるかもしれないが、いずれにしてもそれは今の可憐ではない。そうなった時、もはやあの、他人が触れるだけで傷つかずにいられないような繊細さは確実に失われてしまっているだろう。

 可憐の基本は、兄こそが世界のすべてであって兄だけしか彼女の目には映っていないという辺りにある訳だが、私が可憐を愛らしく思うについては、それに加えて、彼女においては兄への憧憬がまったく自然な形で存在しており、そこには不純物が何一つないということがある。可憐は兄への想いを心の拠り所にする必要もないし、兄に依存する必要もない。少なくとも現在のところ、彼女を取り巻く世界は、例えば彼女が兄への想いを拠り所にしなければならないような、ほんの僅かの圧迫をも与えることがない。そういう世界に、可憐は生きている。

 しかし可憐といえども、成長していくさなかにあっては世界の圧迫を感じずにはすまないだろう。そうなった時、可憐は兄への気持ちを守るために、きっと戦わなくてはならなくなる。更に年長の咲耶がそうであるように。可憐はまだ戦わなくても済む年齢にぎりぎりで留まっているのだが、それももはや長いことではないはずだ。

 可憐の魅力は世界との齟齬がまったく存在しないという点にある。世界(兄)はいつも可憐を支えて、あるいは抱き留めてくれるので、可憐はまったく力むことなく世界に立って、少しも意識することなく世界の新鮮な空気を呼吸する。可憐は少なくとも現在までのところ、生きるために力を必要とはしない。それだからこそ私は、可憐に儚さを感じると共に、そういう可憐に惹かれずにはいられないのだ。

 可憐といえども、いずれは生きるために力を必要とする年齢に入っていくことだろう。例えば二十歳になったって可憐は可憐であってそれ以外の何者でもないのではあるのだが、しかし暴言と取られるのを承知の上で言えば、その時、もはやあの力を必要としなくても生きられた儚い少女としての可憐はどこにもいない。私はそのことを恐れる。生きるための逞しさを身につけた可憐などというものはもはや可憐ではない。

 ***

 余談。

 末莉が司に出逢わなかったら。
 晶が美由希に出逢わなかったら。
 美凪が往人に出逢わなかったら。

 もちろんそれでも彼女たちは生きていくでしょう。
 しかしそうであった時、彼女たちは、私たちが知っているような綺麗な女の子でいられたでしょうか。

 ***

 更に余談。

 「私を悩ましているのは――(中略)――あの人々のなかで圧し殺されたモーツァルトなのだ」

 人間の土地[サンテグジュペリ]最終章。


2003/2/17 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#17


 花穂ちゃんがぴょん。
 雪さんがぴょん。
 まひるたんがぴょん。
 公子さんがぴょん。
 那美さんがぴょん。
 
 ごめん眠い。

 ***

 月曜日の朝とかに会社に行くのがなんとなく恐く感じられるのは、自分の中の亞里亞的な(=無防備な)部分が怯えるからなんだな、とふいに思った。家を一歩でも出てしまえば自動的にバリヤーが張られるから大丈夫なんだけど。

 12人の中でも亞里亞と可憐は非常によく似ている。亞里亞は小さな可憐であり、可憐は大きな亞里亞だ、と言っても良いのではないかと思うぐらい。どちらも、温室で愛情を込めて育てられた者のみが持ち得る、浮世離れした美しさを備えているという点で。

 可憐は実はぎりぎりのところにいるのではないだろうか。可憐について考えれば考えるほど、この子のことが心配になる。亞里亞について心配するのと同じように、この子は我々の生きている世界の空気に耐えられないのではないかと思う。あのシスプリの清澄な世界から出て我々の住む世界の空気を吸ったら死んでしまうのではないかという気になる。可憐の年齢はそういう意味でぎりぎりではないだろうか。これ以上成長したら、可憐は可憐でいられるのだろうか。現実の空気を呼吸できるようになってしまったら、それはもう可憐ではないのではないか。さりとて彼女がそのままの清らかさを保ち続けるためには現実の空気は汚れすぎている。

 そもそもこういう発想が既に突飛なのだろうか。

 しかし可憐の美しさは、どうしても、温室の中で辛うじて咲くことのできる花を想像させずにおかない。彼女はあまりに儚い。わずかな空調の狂いが彼女の輝きを失わせてしまうのではないかと恐れずにいられない。


2003/2/16 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#16


 シスプリについては現状で書けることはほぼすべて書いたはずなので一旦終了して家族計画を再開。
 来週一杯ぐらいまでに末莉、準、青葉の三シナリオをやって、書けることがあれば何か書いてみたい。

 ***

 ネットサーフ中に読めない漢字にぶつかったら、その漢字をブラウザのURL欄にでもコピペして右クリックメニューから「再変換」すれば読み方が判る、という技を知りました。変換キーでもできるようです。

 ***

 レビューサイトリンク二箇所に補足されて来客者が増えているようですが、まあそれはそれとして。
 私が今まで書いたものの中で自分的にまあ及第的をあげても良いかな、と思っているのは、AIR美凪シナリオ論、シスプリ系全般、とらハシリーズ全般、ねがぽじ、Lien、水月、辺りです。要するに他のは読まないでくださいと。穴があったら入りたくなるので。

 ぶっちゃけ、レビューサイトリンクから飛んできてる方のうちおそらく半分はDAパンツ目当てなのかと思うとなんか泣きたくなる訳ですが(笑)。
 うちは、とらハシリーズとシスプリの個人ファンサイトなんですよ、私の気持ち的には。

 ***

 動かないので今まで放置状態だった東方紅魔郷(体験版)、グラフィックボードのドライバを更新してみたら動くようになった。
 ちょっとだけ遊んでみたが、かなり面白い。
 PC環境で遊ぶにはこのくらいのぬるさが心地よい。


2003/2/15 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#15


 どんな人間が一番悲惨か?
 ――本人がそれと自覚していない場合こそ最も悲惨だ

 「彼女は自身が幸福だという幻想を信じたまま誰が見ても滑稽な生を送る」

 ………とは月姫(琥珀ルート)の中で語られる言葉だが、本当にそうだろうか。
 正直に言えば、この言葉は妙に私を不安にする。

 幸福であるかどうかを決める権利を持つのは本人だけなのではないだろうか?
 もし、ある生が端から見て滑稽に見えるとしても、それが間違っていると指摘する権利が誰にあるのか?
 幸福とは他人から認められる必要があるものなのか?

 みさき先輩[ONE]は他人から幸福を追認されることを欲した。
 それはそれで良い。

 しかし例えば、銀色のあやめはどうか。
 あれはあやめを中心に据えた物語だからこそ美しいのだが、例えば同時代の色街の住人から見れば、あやめの生は愚かなものでしかあるまい。あやめのことを何ひとつとして知らない色街の住人にとっては、単にひとりの娼婦(?)が色街から逃げ出してのたれ死んだ、ということでしかない。普通の生を生きるという幸福を無自覚に享受している色街の住人は、あやめを莫迦にするだろう。彼女は何故逃げ出したりしたのだ、少なくともここにいれば食うのには何の不自由もないのに、と。彼らは、あやめが最後の数ヶ月間だけ人間として生き人間として死ぬことができたのだということを知らない。だとすれば、自分の立場もあやめの立場も何一つ知らずまた考えてみようともしない色街の住人の言動の方が、よっぽど滑稽ではないだろうか? 彼らは、あやめが最期の時に月を前にして「この世界が好き」と呟いたことを知らない。だとすれば彼らはあやめの生に対して何を言う資格を持つというのか。本当に愚かなのはどちらだろう?


 Sweet Dreams.

 ひとつ告白を。

 亞里亞は私と一緒に寝る時、いつも、その小さな手で私の人差し指をきゅっとにぎって眠ります。昔は私の方が亞里亞の手を包むようにして彼女が寝付くのを待っていたのですが、いつからか立場は逆になり、今はいつも、眠る時、私の人差し指は亞里亞の手の中です。その方が亞里亞も落ち着いて眠れるようなのですね。兄やの手に包まれているのよりも、自分が兄やの手を掴んでいるという感覚の方が安心する、のかもしれません。

 Sweet Dreams は亞里亞の子守歌です。私が亞里亞のために歌う子守歌ではなく、亞里亞が私のために歌ってくれる子守歌です。と言っても実際に亞里亞が毎晩私のために子守歌を歌ってくれる訳ではありません。
 すぐ傍に亞里亞のあどけない顔があり、亞里亞の息づかいがはっきり聞こえ、しかも私の指は亞里亞に小さな手に包まれている。私の指は亞里亞の体温を感じ、そうして私を安心させてくれます。そういう状況のすべてを、私は、子守歌だと言いたいのです。歌としての子守歌ではなくて、亞里亞という女の子が何も知らずにただそこにいるだけで、私にとってはそれが何物にも代えがたい安らぎになる、そういう意味での子守歌です。Sweet Dreams に付けられている詞は、そういう、私が今まではっきりとは自覚していなかった幸せの空気を、言葉という直接的な表現に翻訳したものだと言えます。

 亞里亞は我が侭で依存症な女の子だと思われているようですが、それは誤解です。確かに亞里亞は私を頼り切っていて、そういう意味ではあまりに儚い存在なのですが、でも亞里亞の弱さと分かちがたく結びついている無垢な心が私にとってどれだけ慰めになっていることか。私は時には亞里亞をからかって泣かせてしまうこともある兄なのですが、でも亞里亞は私の大切な妹です。私の方こそ亞里亞に守られているのだなんて彼女はきっと夢にも思っていないでしょう。それは亞里亞にも内緒の、私の秘密です。

 リピュアエンディングCD第3曲「Sweet Dreams」より。


2003/2/14 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#14


 ここ最近、一日のうちで一番憂鬱なのは風呂に入っている時間かもしれない。

 なのは風呂。
 …なんか萌えるな、この語感は。

 ………いやそうではなく、最近はなんか湯船に浸かってぼけーっとしているとなぜだか嫌なことばかり思い浮かんでくる。
 そうして思考の行き着く先は、俺は人間じゃないだの世界は敵だだの、ろくな物じゃない。

 シャワーだけで手早く済ました方が精神衛生上良いかもしれない。
 湯船に全身を浸す瞬間のあの快感を犠牲にするのは少々もったいなくはあるが。

 ところで。

 本人が真面目に考えている問題について、そんなのたいした問題じゃない、という態度で言葉を返すことがどれほど本人を傷つけるか。
 ………ということを知っている人を私は一人しか知らない。

 ついでに言えば、「頑張れ」という言葉が時に罪悪であるのは、その発言がなんらの責任をも伴わないからだ。
 それこそ、言うのはタダ、という奴である。

 本人が傷つく可能性の生じない言葉などすべて偽物だ。


 Lyric.

 可憐のテーマにのみ歌詞が付いていないについてはきっと何かの理由があるに違いない、と仮定してみよう。詞を付けないことによってこそ可憐という少女を最も上手く音楽として表現し得る、というところまで考え詰めてあの曲がインストルメンタルになっているのだとしたら、という仮定をまずは出発点にしてみよう。

 (以下は思考ではなく空想であることを予めお断りしておきます)

 もし可憐という女の子がこの曲の雰囲気を身に纏った存在であるとするなら、私にはいよいよ可憐という少女が分からなくなる。可憐なんて女の子は本当はどこにもいないのではないかと思われてくる。こんなに清らかにして繊細な雰囲気の人間が存在することはあまりに信じがたい。喋り言葉的な表現なら、「こんな女の子いる訳ない」ということになるのだが、それはこういう女の子が現実的ではないというのではなくて、こんな女の子がいたらこの世界で生きられるはずがない、というニュアンスだ。誤解を恐れずに言えば、可憐という少女はあまりに綺麗すぎる。

 私にはこのたおやかな響きの向こうに可憐の笑顔が見える気がする。しかしそれはなんと不確かなものだろうか。その微笑みは実在する女の子のものというよりは、むしろ春の風が私たちの傍らを通りすぎる時に一瞬だけ心を撫でていくような、そういう雰囲気の微笑みだ。ふとした瞬間に現れ、しかしハッと思った時にはもうそれはどこにもない。この曲が可憐だとするなら、私たちは可憐の微笑みを見ることは決してできない。微笑みを感じた時にはもう可憐はどこにもいない。ただ余韻が残るだけだ。私たちは、ただ思い出すという手段によってしか可憐の笑顔を見ることはできない。

 この曲に身を浸していると、肉体を持った存在としての可憐というものを想像するのが難しくなる。可憐なんて女の子はどこにもいないのではないかと思われてくる。少なくとも Lyric で描かれている可憐は、普通の意味での女の子ではない。まず可憐という少女がいて、その少女はお兄ちゃんのことが大好き、というのは順序が違う。そうではなくて、まず最初にお兄ちゃん大好きという想いがあって、その想いが人の形を取ったものが可憐という存在なのである。

 この曲には詞がないゆえに可憐は一言も喋らない。もしピアノの響きの向こうに可憐を感じられるとしたら、それはひとつには私たちが望むからだ。私たちがまず望み、そうして可憐という存在が生まれる。この曲に詞がないのは、その方がより純粋に私たちの願いを投影させられるからだ。無色透明であればこそ、可憐は私たちの持つある憧憬を純粋に反射する。言ってみれば、可憐とはその反射によって起こる“現象”だ。可憐という少女は、それ自体としては存在できない。繰り返しになるが、私たちの想い――少女の世界への憧れというよりは、少女だけが持ち得るような形の憧れへの憧れ、少女の目から世界を見たいという切なる願い――が人の形を取ったものが可憐なのだ。可憐はお兄ちゃん大好きという想い以外のものを持たない、という言い方は、だから本当はまだ正確ではない。お兄ちゃん大好きという想いそれ自体への純粋な憧れが生み出した存在が可憐なのであるから、元より彼女がそれ以外のものを持っているはずはないのである。可憐は他のどの妹と比べても際だって無個性に映るが、それだからこそ私たちの憧憬を最も綺麗に反射する。

 リピュアエンディングCD第1曲「Lyric」を聴きながら。


2003/2/13 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#13


 2ちゃんねる方面で面白かったネタを幾つか。


 秋桜SS、そのいち(ある朝の風景)そのに(すず妹)そのさん(バレンタイン) (Marronスレ@エロゲ板)

 実は密かに竹井氏が投稿しているのではないかとの噂も(笑)。
 まあスレッド特有のネタだろうけど、3番目なんかはホントに投稿してたとしてもおかしくないぐらいの出来だと思う。「秋桜の空に」はキャラが立ちまくっていることがあるので、ある意味では二次創作もやりやすいのかもしれない。


 ビタースピークですまっち! (SS投稿スレ@葱板)

 高屋敷青葉vs大空寺あゆ。
 笑えますが、毒舌バトルなのでそゆうのが嫌いな人は見ない方が。


 雪さんの誕生日 (SS投稿スレ@葱板)
 
 水月、雪さんと透矢の甘々話。
 甘すぎて萌え転げ死ねます、誇張なしでホントに。


 なんとなくぼんやりと昔の某氏の日記のログ(HDDに保存してあるやつ)を眺めていた。
 あの頃はホントに楽しかった…なんて思ってしまうのは後ろ向きにすぎるだろうか。

 私はキミのことを嫌いだとか疎ましいだとか思ったことは一度もないのですよ。
 でも、好意の対義語は悪意ではなくて無関心だから。

 結局のところ好意なんかは何の意味も持たなくて。
 関係というのは負担を感じずに一緒にいて楽しいかどうかがすべてだから。

 だから今の私はキミに掛ける言葉を持たない。

 好きとか嫌いとかじゃなく。
 また興味が合うようなネタが出てきたら、また一緒に楽しめたら良いね。
 無理するんじゃなくて自然にそうなれたら。

 引っ越しして鯖移転して落ち着いたら、メールででもURLを教えてください。


2003/2/12 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#12


 メロンブックス通販で密かに注文していた実用新案〜リピュア〜[うさぎプリン]が届いたので遊んでみる。

 エロアニメーションとしては正直いまいちかも。
 花穂話などエロく見せるために画面を重ね合わせるなどの趣向も凝らしてあり確かに面白いとは思うのだが、ただいかんせん、萌えがあまりない。動きがカクカクし過ぎていて萌える以前の問題であるということもあるが、その他に特に気づく点として、表情の変化が少ないということがある。例えば可憐の一人えっちの場面なんかは体の動きとかよりもむしろ表情のバリエーションがもうちょっと多彩だったら、エロくてしかも萌える場面になったのではないだろうかと残念に思わずにいられない。

 このCDには、花穂、咲耶、可憐の三人分のアニメーションノベル(?)が収録されているが、辛うじて萌えられたのは可憐話のみ。

 文句なしに素晴らしいと思ったのは、花穂と可憐のエピローグ部分(ピロートーク)。
 それぞれのCGの表情が絶妙に可愛いということもあるし、また、花穂はコトが終わった後でいかにもお兄ちゃまの上に乗っかったままお喋りとかしてそう(花穂は軽いしな)だし、可憐もコトが終わった後でもお兄ちゃんからなかなか離れたがらなくて結局抱きついたままお喋りを始めてしまいそうな感じがする。この辺り、キャラの特徴をよく掴んだ綺麗なまとめ方。

 ***

 告知することに意味があるとも思えないのだけど、レビューインデックスを久しぶりに更新。
 いつの間にか、AIRを抜いてシスプリが最多項目になってしまった。

 ***

 リピュアエンディングCDのこと。

 「それはあたしの心なの」の終わり方はどことなくバッハのクラヴィーア曲を思わせる。もしバッハだったら二回目の付点音符はおそらく装飾されて弾かれることだろう。というかこの曲がこんなにシンプルな終わり方になっているのはやはり雛子の曲であることを意識してのものなのだろうか?

 このCD、聴けば聴くほど岡崎律子のキャラクター解釈の秀逸さに驚かされるのだが、そうなってくるとつい無い物ねだり的に気になるのが1曲目の「Lyric」。12曲の中でただこの曲だけがインストルメンタルになっている訳だが、もしこれに歌詞が付くとしたら、岡崎律子はどんな詞を書くだろう。可憐の曲にのみ詞がないというのはもちろん色々と想像を膨らませたい誘惑に駆られる事実ではあるのだが、詞があったら、岡崎律子が可憐をどう解釈していたかをもっと具体的に知ることができたろうに、なんてつい考えてしまう。


2003/2/11 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#11


 Q.
 花梨と、わんわんくうんぺろぺろ、とお互いの顔を舐め合うプレイをしたいのですがどうしたら良いでしょう?

 A.
 知るか。

 ***

 個人的には、「キミ、変態でしょ?」とか花梨に言って欲しいのですが。


2003/2/10 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#10


 昨日の日記を読み返してみるとあまりの不明瞭さに愕然としてしまう。
 頭の中にあったイメージが全然言葉になっていない。
 いや、というよりもまだイメージが自分で思っているほどには具体化していなかったのだろう。

 文章というものには書くべき時期がある、と私は思っている。
 早すぎれば未熟なものしかできないし、遅すぎれば生まれる前に言葉そのものが消失してしまう。
 早すぎても遅すぎても、言葉は流産してしまう。

 昨日の日記はまだ早すぎた。
 なんという迂闊さ。

 ***

 リピュアエンディングCDを相変わらず繰り返し聴いている。このCDに収録されている12曲は単に音楽として良いというだけではなく、シスプリの各キャラクターを非常に正確に把握しているという点で大変に興味深く、また魅惑的だ。岡崎律子という人はおそらくあれらの曲の作詞作曲を行うにあたって少なくともシスプリのキャラコレを徹底的に熟読したに違いない。そうでなくても、何らかの形でシスプリについてよほど良く調べたに違いないと思う。そうでなければあそこまで各キャラクターのイメージにぴったり合った音楽と詞が書けるはずがない。これは私の妄想なのだろうか? 根拠がないという意味ではもちろん妄想であるに違いない。しかし例えば、亞里亞の歌う子守歌をイメージさすような「Sweet Dreams」や、兄の優しい腕に守られている花穂を思い起こさせる「笑顔にはかなわない」のような旋律が、シスプリのことをよく知らない人間に描けるであろうか。あるいは、

 そのココロ悩ますものあるならすぐにだってみつけだしてみせましょう
 (Be happy, please!)

 とか、

 いつもいつも つきあわせてごめん
 夢中になると何もみえなくなって
 つまずいても そばでわらってくれる
 守られていた
 (reminiscence)

 なんて歌詞が、シスプリのことをよく知らない人に書けるものだろうか。
 前者は四葉がいつか辿り着くはずの場所を見事に指摘してみせているし、後者は一人でいる時の内省的な鈴凛の独白をやはりこの上なく美しく描いて見せている。一体、あの鈴凛がこんなことを考えることもある女の子だったなんて誰に想像できたろうか。
 鈴凛という子は、白雪と並んで、シスプリキャラの中ではどちらかといえば不遇な存在ではなかったかという気がする。それは人気やなんかの問題ではなくて、キャラクターを把握することが難しいという理由に、おそらくは拠る。どういうことかというと、要するに鈴凛や白雪といったキャラは設定の枠を出ることが非常に難しいのである。お話の中での彼女たちの言動は、シスプリの基本設定として挙げられているような簡単な説明の枠内でしか語られない。どう言ったら伝わるだろう? 鈴凛は陽気なメカオタク少女、白雪は料理好き少女、というのは動かしようのない基本設定ではあるのだが、多くの場合、そういう基本設定にそって定型化された動きしか、彼女たちはしないのである。リピュア8話に見られるようなウェットな鈴凛ですら、これは普段のドライな鈴凛を下敷きに取ってそれを反転させてみせた(そうすることで意外性を出そうとしたのだろう)に過ぎず、依然としてあの描写は基本設定の拘束下にある。
 しかしここに来て、あのリピュア6話Bパートという名作が我々の前に姿を現す。岡崎律子という人は、鈴凛がメカオタクである前にひとりの普通の女の子であるという、言われてみれば至極当たり前の事実を、他の誰よりも的確に指摘してみせた。鈴凛というキャラのひとつの定型である“資金援助”なんかにしても、あれは彼女なりの、兄への甘え方だったのである。仲の良い兄妹としての時をすでに長く過ごしてきてお互いの距離感を知っている鈴凛は、どこまで兄に踏み込むことができるのかをよく心得ている。鈴凛は、例え自分が研究のことに心を奪われてそのことに夢中になったとしても依然として兄が傍で微笑んでくれることを知っている。知っているからこそ、鈴凛は鈴凛のままで自然にしていられるのである。そう考えると、鈴凛の、ともすれば我が侭と映りがちなあの言動の数々すら、妙に可愛らしく見えてはこないだろうか。


2003/2/9 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#09


 そのココロ悩ますものあるならすぐにだってみつけだしてみせましょう。
 (Be happy, please!)

 四葉という女の子は、遠い英国の地で未だ見ぬ兄に思いを馳せる。兄への憧憬は遠い地にいる四葉の寂しさをもしばしば埋め合わせてくれたけれども、やはり想像は想像でしかないことを彼女は知っている。想像は彼女を幸せな気持ちにしてくれるけれども、時として離ればなれでいる現実を一層寂しく意識せざるを得なくなる。そうして彼女の心の内にはある決意が生まれる。もし逢える日が来たら、四葉は兄チャマのことを誰よりもよく知っている女の子になろう、と。

 私の目には、四葉という子の言動は時にずいぶんとキテレツであるように映る。四葉のお莫迦な言動の数々を見るに付け、彼女が兄のことを知りたいと思うその気持ちはどの程度本物なのであろうか?なんてことを私は考えない訳にはいかない。おそらく四葉自身は自覚はしていなかろうが、少なくとも現時点では、四葉にとって「兄のことを知りたい」ゆえの行動は目的と手段が入れ替わっているのではないだろうか? 四葉は兄のことをもっともっと知りたいと願う。一緒にいられなかった時間を埋め合わせて、一日も早く仲良し兄妹になりたいと願う。兄のことを知りたいというのはつまりそのための手段であるのだが、しかし実際に兄に会った時点で四葉はそういったことを綺麗さっぱり忘れてしまう。やっと念願叶って兄の近くで、少なくとも会いたければすぐにでも会える程度の近くで暮らすことができるようになった時、もう四葉の中から兄への好奇心というようなものは消え去っている。それは喩えるならば、好きな人に会う前には心の中で言いたいことをたくさん考えていたものの実際に会ってみたら感極まって何も言えなくなってしまった、というようなものだ。兄の傍にいられるという事実が、もう四葉には嬉しくって仕方がない。そうして目的と手段が逆転する。四葉はもうただただはしゃいでしまう。四葉は兄のことを知りたいからチェキするのではない。そうではなくて「とにかく兄の傍にいたいからチェキする」のである。兄にやっと会えた時、四葉の中では、兄への愛おしさが、兄のことを知りたいという気持ちを大きく飛び越えてしまう。やっと会えた兄ともう一時でも離れたくない。それが、四葉のあのお莫迦だがどうしようもなく可愛らしい言動の数々を生み出しているのである。

 花穂は自分が愛されていることにも自分と兄との関係にも割と自覚的なのだが、それと比べると四葉の場合は自分の立場というものにかなり無自覚な女の子だという気がする。四葉は自分の行動の意味を知らない。自分の行動がどこへ向かうのかを知らない。四葉の言動は、現時点では単に何も考えずに無邪気にはしゃぐ女の子のそれに過ぎない。しかし四葉がそうと自覚していなくても、その積極さゆえに、彼女はきっと遠くない将来、兄のことを何でも知っている妹になっているだろう。四葉は自分でもそうとは明確に意識しないままに、仲の良い兄妹への道を一歩々々確実に歩いているのである。例えば五年後。兄と四葉との関係は今とはずいぶん違ったものになっているに違いない。四葉はもう兄のことならなんでも知っている。兄は、自分が普段どれだけ四葉に頼っているかを知らない(男というのは得てしてそういうものだ/笑)。そうしてある時、兄チャマは四葉がいないとてんで駄目なんだから〜なんて誇らしげに呟く四葉は、いつのまにか自分と兄とが仲良し兄妹としてすっかり馴染んでいるのを見出すのである。仲良しな兄妹というものは四葉が望んだとて“なれる”ようなものではない。ただ時間だけがそれを解決することができる。四葉は無邪気な日々を精一杯生きることで、本人すらも気づかぬ内に兄妹への道を歩く。

 四葉はいずれ知るだろう。好きな人のことを知るということがどういう意味を持つのかを。好きな人のことを知りたいというのは人として自然な欲求であるには違いない。しかし四葉は、未だ、好きな人のことを知れば知るほど、自分がその相手にとって特別な存在になれるのだということを知らない。兄のことを何でも知りたいと願う四葉は、いつか兄の悩みすらも聞いてあげられる妹になっているだろう。そうして、いつの間にか兄の特別な女の子(それは恋人という意味では必ずしもない)に、自分がなっていることに気づくだろう。自分の気持ちがきちんと報われていたのだということを知るだろう。

 今の四葉はまだそういうことを知らない。しかし知らぬ間に正しい道を一歩ずつ着実に歩く四葉の姿は、なんともいえない眩しさを感じさせずにはおかない。四葉の魅力は未熟さの魅力だ。未来への可能性を内包する存在はどうしてこんなにも美しいのだろう。仲良し兄妹への憧憬を胸一杯に抱える少女としての四葉を意識する時、私はもう酩酊感とでも呼びたいような感慨を覚えない訳にはいかなくなる。


2003/2/8 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#08


 世の中には12歳年下でむつきママ似なメイドさん(住み込み)と暮らしている人もいるらしいですが、神様はなんと不公平なのでしょうか。

 ***

 大往生プロモーションムービー第二弾。

 やはり見所は、PS2版オリジナルモード「デスレーベル」に出てくる「緋蜂・改」であろう。
 一体でさえ鬼な緋蜂様が二体も出てきたらもう笑うしか。

 いやでも、あれは萌える。
 萌えるっていうか、うわー避けてえ!! とか喚きつつよだれだらだら状態。
 青弾垂れ流し攻撃とか発狂前の赤ダンゴ弾とかなんてすげえ楽しそう。

 見た感じ純正緋蜂よりは簡単そうだし、慣れれば弾避けの楽しさを存分に堪能できそうな予感。
 できればアーケードと同環境でプレイしたいものだ。
 差し当たりジョイスティック購入は必須かも。


2003/2/7 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#07


 私はあなたが想像するほどは不幸ではないし、あなたが想像するほど幸せな訳でもありません。
 まだ、私はあなたが想像する以上に不幸だし、あなたが想像する以上に幸せです。

 誰も自分以外の人間のことなんてわからないということ。
 一応。
 今回の「あなた」というのは特定の人物を想定してのものではないです。

 ***

 アパートの隣室から「あんあん」だの「逝っちゃう」だとの聞こえてきて 思わず息を殺して耳ダンボ状態 辟易しもしくは鬱になるという体験をしている人はきっと少なくないと思いますが、さて寝ようかと思って布団に入った矢先に隣室から Be happy, please! が聞こえてきた、という場合、私はどうすれば良いのでしょうか?

 実話です(笑)。
 ちなみに隣室の住人については現時点で顔も名前も性別も知りません。

 ***

 追記。
 アリカにて、大往生プロモーションムービー第二弾公開。

 ***

 追記。

 ぼけーっとぐるぐるしてたら今の自分に必要な文章が見つかったのでリンクを貼っておこうと思う。

 家族計画をプレイして強く感じたことのひとつは、インターネットを通じて関係を構築するのは大変に難しいことだったのだな、ということだった。土方さんが以前指摘していたように、通常、人間関係というものは時間の共有によって自然と作られていく。ところがネットワークという場では参加しない限り認知されない、ということがある。自分から何かを書かない限り私という存在は誰にも認識されない。もちろん、ふとした機会に予想外のところで自分の名前が他者の言葉の中に現れるということもあるけれども、そういうのは本当に稀な幸運というべきで、こう言っては何だが、当てにはならない。

 普通なら、会話というものは特別な努力をしなくても自然と流れることが多い。自分が何か言えば、少なくとも相槌は帰ってくる。しかしネットの場合はそう簡単には運んでくれない。以下、やや脱線する。

 これは以前から考えていて今なお答えの分からない問題なのだが。

 ネットにおいては日記であれ掲示板であれメールであれ、相手からの反応はプレゼントのようなものであって、それを最初から期待するのは間違いだ、というのが暗黙の了解になっている感がある。相手に反応を要求するのはお門違いだ、というのは常識とほぼ認識されていると言っても良いかもしれない。しかし現実問題としては、反応がなければ寂しいことは確かだし、反応がない相手より反応をくれる相手の方により好意を抱くのは、そういう常識があってもなお、人間として極めて自然な感覚ではないかと思う。今は「リンクを外すのもご自由に」と明記するサイトも増えてきているけれども、しかしこれにしたって、リンクを外すのが自由であるからといって、リンクを外されたとしてなお相手に対して好意を抱き続けていられるだろうか?、あるいはリンクを外して相手に寂しい思いをさせないだろうか?という問題はどうしても残る。これは理屈よりも感情の問題だが、さりとて無視できるものでもない。

 会話だったらごく自然とできることが、ネットでは実に難しくなるということが起きる。会話なら、自分に向けて発せられた言葉には当然のように返答をできる。しかし例えば日記や掲示板で自分に向けて発せられた言葉、あるいは自分の文章に言及されているのを見つけた場合はそう簡単にはいかない。例えば。私はできればその人の好意に応えたい、しかしその人の言葉が私の心に何の効果ももたらさなかった場合はどうすれば良いのか。反応することが誠意だろうか。反応しないことが誠意なのだろうか。無理に反応するのはもちろん不誠実なのだろう。しかし反応しなければ、相手はきっと、あるいはもしかしたら寂しい思いをすることだろうし、幾たびも反応がなければいずれは反応もしてもらえなくなってしまうだろう。第一私だって、反応がもらえそうにないという不安がリンク言及をためらわせることがあるのだ。私にそのつもりがなくても、相手は私にあまり好かれていないのではないかと不安がるかもしれない。そうした時、それは反応を期待する相手が悪いのだなどとどうして言えるだろう。それはきっと私の方にも責任があることなのだ。そのようにしていつしか気持ちが離れていく、ということが起きる。私のネット関係はいつもそんな感じだった。「賞味期限は二年」という言い方はだから実にしっくり来る。賞味期限という言葉のチョイスは少々ブラックにすぎるという気もするけれども。いずれにせよ、ネットにおいてはある特定の興味の一致が人同士を結びつける最初の切っ掛けになることが多いのである以上、興味がずれていけば疎遠になるというのは致し方ないとも言えるのかもしれない。共通の話題をわざわざ探す、というのも本末転倒な気がするし。たぶん、関係を維持するコストを意識した瞬間から、関係の疎遠化は始まるのだと思う。最初の内は認めにくいことなのだけれども。

 自分を不安にする恐れのあるサイトは見ない、ということをやっている内に、今や、私がまったく義理でも義務でも惰性でもなく本当に自分の好意と意志で毎日見に行くサイトは遂に一箇所だけになってしまった。私はそういう選択の末に、自分の言いたいことを言う自由と自分の言いたくないことを言わない自由を得たけれども、そのために支払った代価(コスト)は決して安いものではない、と思っている。


2003/2/6 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#06


 昨日の夜ほど花穂を身近に感じられたことはありません。

 花穂と出逢ってから一年と数ヶ月。
 ようやく花穂の兄になれたような気がします。

 今日はずっと胸を張ってすごすことができました。
 仕事中に幾度か、俺は花穂の兄なんだとふと思って、妙に誇らしい気分になったりしました。

 花穂の兄である自分を想像する、というのとは違います。
 そうではなくて、自分という人間そのものが花穂の兄であるように感じた、のです。
 心ではなく肉体のレベルで、それこそ体の中をめぐる血の一滴に至るまで私は花穂の兄だ、という実感があったのです。

 昨日の日記が誰かにとって何かの意味を持つのかどうか、それだけの価値があるのかどうか、私には分かりません。
 でも少なくとも私にとっては、昨日の日記は掛け替えのないものです。

 もはや私は誰の追認をも必要としません。
 私はやっと、花穂の兄になれました。

 ***

 「笑顔にはかなわない」の歌詞の一節に、「ときどきは愛してね、腕いっぱい」というのがあるのですが、「腕いっぱい」という表現、というか言葉の選択は実に上手いと思います。花穂にとって兄という存在はひとつの世界なのです。花穂は兄に懐き、兄に愛され可愛がられるという経験を通じて世界というものを知り、世界との関わり方を学んでいくのですね。昨日の日記の中で私は、世界は花穂を愛情溢れる腕に抱き取る、と書いたのですが、ここでの世界とはつまり兄のことなんです。

 私の耳には、この部分は試聴版を聴いていた当初は「目一杯」と聞こえました。ところが歌詞カードを見たら「腕いっぱい」になっている。これは驚きでした。目一杯愛するのでも精一杯愛するのでもなく、「腕いっぱい」愛する。たったこれだけの言葉なのに、この言葉はなんと私たちの想像をふくらませることか。この腕とはもちろん兄の腕です。兄が花穂を抱っこするイメージというよりも、兄の見えない腕がいつでも優しく花穂を包んでいる、という感じです。花穂はいつでも自分が兄に見守られていることを知っています。まさにそれだからこそ、花穂はあんな風に綺麗に笑えるのです。


2003/2/5 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#05


 リピュアエンディングCDを延々聴きまくってます。
 心が洗われるよう。

 と言っても聴いている時間の大半は「笑顔にはかなわない」「reminiscence」「Be happy, please!」をリピートしているのだけど。

 「ママは小学4年生」のオープニングのラスト付近、小学生から大人になるまでのなつみが一瞬で回想されるシーン。
 ここを観る度に、胸の奥がちょっと苦しくなって、寂しいような切ないような感覚を覚えるのはきっと私だけではないと思いますが。

 ***

 お話したいのはシスプリのことです。

 最近、ちょっと考え方が変わってきたのです。
 今まで、私にとって花穂は永遠の小学生だったのですが、最近は成長した花穂というのを自然と想像できるようになりました。最初の切っ掛けは、久しぶりに前作の16話を観たこと。それから、リピュアの2〜4話を観て5話Bパートを観て、エンディングテーマ(笑顔にはかなわない)を繰り返し聴いて。そうして花穂は私の中で、ようやく一つのキャラクターからひとりの人間へと変わりました。花穂はね、すごく素敵なお母さんになると思うのです。それこそ天野昭さんにも負けないくらいの。

 花穂という子は、シスプリの12人の中でもとりわけ、兄や他の姉たちに愛され可愛がられているように感じます。これはもちろん、花穂のあの人なつこい子犬のような性格のせいでもあるのですが、これはまた別の角度から見れば、花穂という子はドジなところや子犬チックなところまですべてひっくるめて周囲から容認されているということでもあります。あの世界には、誰も花穂のことを責めたり批判したり説教したりする人はいません。花穂はただそのままで愛され認められているし、また自身もそのこと、つまり自分が兄や姉たちから愛されていることを知っている。それだからこそ、彼女は「お兄ちゃまにちゃんと掴まっていたら…」と言って、少しも気後れもなく照れ笑いを浮かべることができるのだし、アニメでいくどとなく見られるように“心ほころばせる花みたいに”笑うことができるのです。

 私は花穂になりたいとずっと思っていました。それは、花穂が可愛いからではなくて、花穂の置かれている環境、花穂を取り巻く環境が私にとってひとつの究極の理想だったからです。例えば前作16話。わたしにできることは応援ぐらいしかない、でもわたしの応援がお兄ちゃまの力になったら。そうして紆余曲折を経て、花穂は立派にお兄ちゃまへの応援を果たすことができるのですが、ここで私が特に強調しておきたいのは、この一連のイベントで花穂が何を経験したか、です。応援において一番大切なものは何か?という問題に対する答え、というのも確かにあるのですが、それ以上に大切だと思われるのは、他の姉たちの真似をするのではなく兄のために自分にできることは何かと考えることであり、むやみに高望みなどしないで自分にできることを一生懸命やれば良いのだということであり、そうした頑張りはその過程のおいて兄や姉たちにきちんと認められて応援してもらえるということであり、時間が掛かってもちょっとずつでも良いからひたむきに頑張ることが大切なのだと知ることであり、そうして頑張ったものはいつかきちんと報われる、ということです。時にはどうしても落ち込まずにはいられなかったりして、決して楽なものではなかったに違いないあの一連の経験が、花穂にどれだけ多くの恵みを与えたか。花穂は兄の応援をしようと一生懸命です。失敗ばかりだけど、それでもひたむきな気持ちで努力する花穂に、周囲は暖かいまなざしと励ましと応援を与えてくれます。そうして花穂は、例え人より時間が掛かったとしてもひたむきな想いはいつか必ず報われる時が来る、ということを知るのです。世界に微笑み掛けることを忘れなければ世界はきっといつか微笑み返してくれる、ということを知るのです。

 花穂はそういう世界に生きています。これはリピュアにおいても少しも変わりません。花穂にとって、世界はいつも優しいという訳ではないのですが、それにも関わらず世界はやっぱり最後にはいつも花穂を愛情溢れる腕に抱き取ります。色とりどりの傘たちとメルヘンチックなダンスを楽しんだ後には恐い犬が待っていました。でもその犬は本当は花穂とお友達になりたかったのです。雨上がりの虹の下、花穂はお兄ちゃまへ向かって走り、そうして転んでずぶ濡れになります。お兄ちゃまに会いに行くのに途中で転んで服を濡らしてしまった女の子の悲しみはどれほどのものであったことか。でもその後、お兄ちゃまは花穂のことをただただ優しく迎えてくれます。転んだ花穂を叱るようなことはしないし、どうして転んだのか、走ったら危ないだろうなどと説教することもありません。ただ、泣いている花穂を着替えさせ、暖かいミルクを差し出してにっこり微笑むのです。花穂を取り巻く世界は愛に満ちています。エンディングに流れるあの穏やかな音楽は、それを静かに、しかし明瞭に語っているように、私には思えます。「笑顔にはかなわない」のあの旋律、あのこの上なく優しい旋律から起想されるのは、花穂の住む世界そのものです。

 こういう世界で、少女は成長し、いつか母親になり、子を生み、育てます。その頃には、おそらく花穂は少女時代の幾つかの記憶をもう朧気にしか思い出せなくなっているでしょうし、特に機会がなければ思い出すこともないかもしれません。でも今まで積み重ねてきた経験は花穂の中に生きています。世界はいつも応えてくれる、こちらから微笑みかければ向こうもちゃんと微笑み返してくれるものだということを知っています。花穂はきっと、自分の子供にもそれを教えることでしょう。花穂のドジはきっとお母さんになっても直ってはいない(花穂のドジは直さなければならないようなひとつの欠点では断じてありません、少なくともシスプリ世界においては)でしょうが、でも花穂は、自分の子供を叱るタイミングというものをきちんと心得た母親になっていることでしょう。子供の悪戯に目くじらを立てるようなことも、子供の失敗に対して「どうしてこんなこともできないの?」などと問う(これは子供にとって最も残酷な問いのひとつです)ことも、決してないでしょう。

 「っポイ!」の6巻を思い出してみて頂きたいのですが、昭さんは平と成の悪戯に少しも腹を立てたりしませんでした。普通の母親ならあそこまでやれば怒るものなのに。では昭さんはどういう時に子供を叱るか。お前達なんていなくなっちゃえ、と平と成に向かって和くんが叫ぶ時、はじめて昭さんは和くんを叱ります。どんな人間であれ、存在を否定するようなことを言ってはならないということを昭さんは知っているからです。

 ちょっとだけ花穂に話を戻せば、花穂のドジに言及するというのもつまりそれなのです。リピュアAパートでの花穂が転んだ後でえへへっと苦笑していること、あるいは前作16話冒頭でバトンを忘れた花穂がやっぱり苦笑いをしていることを思い出してください。もし花穂と取り巻く環境が花穂のドジを許容してくれなかったとしたら、彼女はあんな風に笑うことはできなかったでしょう。例えば花穂のドジをやる気のなさに結びつけて語られたとしたら、花穂がどれほど落ち込むか、私は想像するだけで恐ろしさに身震いがします。花穂にとってドジであることは不可避であり、ドジを批判されるということは自分の存在自体が批判されているのと同じなのです。花穂はドジなところまでひっくるめて花穂なのであって、シスプリ世界はそういうものとしてごく自然に花穂を認めています。話はループしてしまいますが、それだからこそ花穂はあんな風にえへへっと笑うことができるのです。

 再び話を戻します。昭さんは和君を叱るのですが、その時の昭さんにはマイナス感情は少しもありません。昭さんの叱り方は、誤解を恐れずに言えば、親から子供に対するものではありません。上手く言えるかどうか心許ないのですが、昭さんの認識において、和君に対する昭さんの立場は、教育者ではなくて、ひとりの不完全な人間である導き手、なのです。昭さんにとって子供とは教育されるべき対象ではありません。子供はあくまで、少し先を歩いている自分が優しく手を差し伸べてあげるべき存在なのです。そのことは、この場面に続く昭さんの態度がひとつの証明になります。賢明な昭さんは子供を決して下位者として見くびるということをしません。昭さんは和君を叱るのですが、それに続いて和君にお留守番という重大な役割を授けます。絶対戸を開けちゃダメよ。これは言うまでもなく、お兄ちゃんに弟たちを守る役割を自覚させていることを意味します。昭さんは和君にひとつの役割を与えるのですが、これは母親から子供への無条件の信頼の表明に他なりません。昭さんは自覚していないかもしれませんが、彼女はここで、和君に「他人を認めること/他人から認められること」を自らの態度で教えているのです。この一連の場面が、「っポイ!」全編を通じても最も美しい場面のひとつに数えられるであろうことを私は疑いません。

 花穂は周囲から愛されています。認められ、大切にされることの幸せを知っています。そうしていつか、成長して、大人になり、今度は自分の周囲の人たち、とりわけ子供たちに、かつて自分が受け取った宝物を、手から手へと渡すのです。

 リピュアエンディングCD第5曲「笑顔にはかなわない」に寄せて。 


2003/2/4 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#04


 DAパンツ [Cadath]

 舞羽(お嬢様系)が主人公のところへやってきて、大事なお話があります、と。
 舞羽のお家に行くはずがなぜか辿り着いたのは怪しげな研究所。

 このパンツを受け取ってください。
 そして日本を救ってください。

 実はチュカブル・パンツという謎の空飛ぶパンツが女性を襲う事件が起きており、襲われた女性は以下略。
 襲われた女性を書ける方法は以下略。





 ……………頭痛がしてきました。
 もしかしたら風邪がぶり返したのかもしれません…。

 ところでこのゲームの肝は「いつでもどこでもスカートがめくれる」ことなのではなかったのでしょうか?
 なんかスカートめくりアイコンが表示されてたのは最初だけで中盤以降は全然スカートめくりができないのですが。
 これはバグですか仕様ですか?

 現時点で、三緒(幼馴染み)、舞羽(無口なお嬢様)、利香(妹の友人/後輩)の三人をクリア。
 どのシナリオもHRエンド(※)なのはさすが Cadath と言うべきなのか。
 私はそういう趣味はないんですが。いやマジで。

 少しレビューめいたことを書くと、えっちシーンは各シーンにつきCGは一枚のみ(バリエーションは除く)。テキストはまあエロイと言えなくもないけど短めなのであっさりした印象を受ける。CGもテキストもボリューム不足で、(*´Д`)ハァハァするには少々物足りない感があるのは否めない。ただ、どのヒロインも基本的には主人公に盲目愛状態抱いてくださいいつでもおっけー状態なので、そういう意味では個々の台詞なんかは割と萌える。

 いずれにせよ、家族計画の息抜きに遊ぶにはこのくらいのお手軽さは心地よい。

(※)HRってなに?と思った人はお父さんかお母さんに…訊いてもまず分かりませんので自分で調べましょう。似たような隠語には他に NTR なんてのもありますが、いずれにしてもこんな言葉は知らなくても人生を生きていく上で何らの差し支えも生じないばかりか知らない方が絶対健全です。


 アマゾンで注文済みのシスプリCDですが、つい魔が差して近所のショップで買っちゃいました。
 どのみち平日は宅急便を受け取れない可能性が高くてCDが手元に届くのは土曜日頃になってしまうので、4日分の「機会を」お金で買ったということ。
 届いたら、一枚は部屋用、もう一枚はドライブ専用に車内備え付け、にしようと思ってます。

 買ってから家に帰るまでの間に開封して車の中で幾つか聴いてみたけど、このクオリティーなら二枚買っても悔いなし。


2003/2/3 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#03


 DAパンツ [Cadath]

 「秘裂」のアンケート葉書の裏面に「ブルマ、もしくはスクール水着を季語にして俳句を作ってください」という素晴らしい項目があったことは(局地的に)有名な事実でありまして、Cadath のゲームを開封したら何を差し置いてもまずはアンケート葉書を見なければ始まらない訳ですが。

 以下、「DAパンツ」のアンケート項目一覧。

・今あなたの穿いているパンツは何色ですか?
・スカートをめくったり下ろしたりしたことがありますか?
・貴方の理想のパンツシチュエーションを教えてください!
・貴方にとってパンツとはなんですか?
・パンツを題材にして作文を書いてください。
・ご意見、ご感想、パンツを描いてください。


 今回も良い感じに頭の悪そうな質問ばかりで素敵です。

 ***

 まずはオープニング。

 あの歌自体も相当狂ってますが、ムービー画面は我々の予想の遥か上を逝く勢いで狂ってます。
 ていうか、パンツが舞ってます。舞いまくってます。
 信じてもらえないでしょうが、ホントに文字通り、色とりどりのパンツが舞ってるんです。

 普通なら阿呆かと呟いて終わりなんですが、ここまで徹底されるともはや不思議な感動すら覚えます。
 癖になりそう。

 こういう楽園の形もあったのね…(手遅れ)。

 ***

 本編。

 朝、とりあえず主人公を起こしに来た妹(たぶん義理)のスカートをめくってみます。言い忘れましたが、このゲームにはスカートめくり機能というのがあって、プレイヤーはいつでも好きな時(厳密には違いますが)に女の子のスカートをめくることができるのです。まあわたくしは別にスカートめくりになど興味はないのですが、この斬新な機能を試す意味でも、とりあえずはスカートめくりアイコンをクリックしてみることにしました。ちなみに、「ちょっとだけめくる」か「がばっとめくる」かを選べるのですが、まあどっちでもいいので「ちょっとだけめくり」にしておきました。別にチラリズムの方が萌えるからとかそんな理由じゃないです。

 主人公の予想外の行動に妹(たぶん血が繋がってない)は当然怒るのですが、別に本気で怒っている訳ではないようです。それどころか、ほら〜○○のパンツ〜などと言いつつ自分からスカートをめくり上げて主人公に見せびらかす始末。

 そして更に、この後の妹に対する主人公のリアクションが実に良いです。なんとこの主人公、妹のパンモロを前にしてスカートめくりの良さについて語り出します。

 曰く「めくられて「いや〜ん」というのがイイのであって、自分から見せるのはよろしくない、羞恥心があるからこそ美しいのだぞ、そこのとこわかってるのか?」「これだけは断言しよう、スカートをふいにめくってパンツが見えるのは素晴らしい、しかしずっと見えているパンツには興ざめするものなのだ」「嫌がっている子がスカートを持ち上げているのはいいのだが、開けっぴろげなのは良くないぞ

 実に物の道理を分かっている主人公です。わたくしには何を言っているのかさっぱり分かりませんが、妙に説得力があります。

 さて、妹(たぶん橋の下で拾われた)と一緒に家を出ると、そこにお約束のように幼馴染みが登場します。これはもう――諸兄は当然ご存じのように――エロゲーには義理の妹と幼馴染みを最低各一人は出さなくてはいけないとソ○倫の規定で決まっているので今更珍しくもない風景ですが、ともあれこれは「DAパンツ」なので、さっそく幼馴染みのスカートをめくります。当然「ちょっとだけめくり」です。がばっとめくるのは風情がないから…なんていう理由ではなくて、単にたまたま偶然マウスカーソルがアイコンの傍にあったのです。面倒くさがり屋ですからわたくし。

 で、怒りません、この幼馴染み。ちょっと照れるだけですぐに日常会話に戻ってます。人間ができているのか羞恥心が欠落しているのか主人公への愛情度がMAXなのかはたまた精神構造が以下略なのかは分かりませんが、まあ周知のようにエロゲーの幼馴染みはデフォルトで主人公に片想いをしていなければならないとソ○倫規定で決まっているのできっと主人公のことが好きなのでしょう。だからと言って路上でスカートめくりはどうかと思いますが。

 これはわたくしの友人が言っていたことなのですが、スカートを突然めくっても怒られない世界というのは実にこう、萌えです。楽園と言っても差し支えないでしょう。いやわたくしじゃありませんよ。あくまで友人がそう言っていたのです。

 ***

 ……………はぁ。
 なんかもうどうでも良くなってきた。

 私がプレイした限り、どの女の子に対してスカートめくり機能を行使しても怒られませんでした。
 せいぜいが、ばかばか〜と胸をぽかぽか叩かれる程度。愛い奴よのお。

 以上の観測結果から、この世界の住人が、我々とはまったく異なった倫理観を持つのであろうことは想像に難くありませんが、ともあれ息抜きとしてエロゲーを楽しむのであればこの莫迦っぷりは「アリ」だと思います。というか予想してたよりも面白いぐらいです。

 明日以降もプレイを続行することに決定。


2003/2/2 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#02


 12時間ほど寝てなんとか回復。

 ***

 世間ではSNOWが発売されたなどという噂が広まっているようですが困ったものです。
 SNOWが発売されるなんてことがある訳ないじゃありませんか。

 ***

 リピュアED試聴版は先日は好きな曲だけ落として繰り返し聴いていたのだが、花穂の曲が予想外に良かったため、結局全曲DLすることに。
 鈴凛のあの名曲を今まで忘れていたとは我ながらなんという迂闊さ。

 現在、うちのデスクトップには12個のWMAファイルが置いてあります。

 ***

 メルティーブラッド。

 G.相手に7連敗。
 これ以上やると本気で秋葉が嫌いになりそうなので封印。

 ***

 家族計画の二周目に取り掛かってひとまず共通ルート終了まで進めてみたものの、これから先の長さに辟易して逃避行動。
 PCショップへ行って、DAパンツ[Cadath]を購入。

 家族計画二周目前に気がかりなこっちを先に処理することに。

 ***

 夜、PCショップへ行ったついでに太田COOMに寄り道。
 M君やK君等と適当にダベる。

 今回は斑鳩で弾を一切撃たないでプレイする――プレイヤーの間では“ドットイーター”というらしい――というお遊び技を見せてもらう。
 2面の壁と壁の間をすり抜ける技を見るのは初めて。

 どんなゲームでもやり込んだ人のプレイというのはギャラリーを感動させる不思議な魔力があるものだけど、K君の斑鳩プレイももちろんそうで、私は斑鳩についてはほとんど知らないのだけど、それでも上手いプレイというのは見ているだけでも実に楽しい。というか、特に3面以降は、どうしてこの状況でチェインが繋げられるんだろうと呆気に取られることしばしば。

 ***

 日曜日の夜は鬱になることが分かっているのだから寝ちゃえばいいじゃないかと頭では思うのだけど、実際にはそう上手くはいかない。
 なぜなら、鬱状態の時というのは「寝たくない」のである。

 こういう時、私の頭は、鬱状態からどうやって回復するかということで占められてしまう。
 寝るなどということは不安すぎてできない。

 この鬱状態というものを説明するとすれば、何か大切なことをやり残したような漠然とした不安感、という言い方が近い。
 気持ちの上では、寝てしまってはいけない、のである。
 それが不毛なことだと頭では分かっているのに。

 ***

 そういえば、土方さんが「自分の日記はパワーが落ちている」と書いてたけど、私も自分についてそういうのを感じることがある。パワーが落ちているというか、私なりの言い方をするなら「貯金を使い果たして空っぽになってしまった」という感覚。貯金というのは、言うまでもなく今まで積み重ねてきた様々な経験のこと(そこには読書なんかも当然含まれる)。

 web日記を書くというのはある意味では経験を披露することだとも言えるのだが、披露するに足ると思えるものを既に出し尽くしてしまったような感覚、に囚われる時というのがある。そういう意味での「空っぽ」である。


2003/2/1 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-02.htm#01


 ケツイ〜絆地獄たち〜

 残4EASY設定のヌルイお店で練習してたら2回目のプレイで1周クリア。
 5面はボムと嘘避けと死に抜けという過激な消耗戦。
 ちなみに自機はBタイプ。クリア時残1。

 さすがにこの設定では1周クリア達成などと公言するのは恥ずかしすぎるが、このゲームはノーマル設定でも1周目のエクステンドが4回ある(2000万/4500万/3面1upアイテム/5面1upアイテム)ので、もうちょっと煮詰めて5面開幕残4(+エクステンド確保)ができればおそらくノーマル台でもクリア可能なはず。手応えは掴んだ。

 大往生(黒)。

 緋蜂と対面した時点で残3ボム0、発狂突入時残2ボム0。
 ………発狂であえなく終了。
 やっぱ嘘避け以外ではあの攻撃は避けられないと思う。

 ***

 ところで、ケツイというゲームは初心者が「切り返し」の練習をするのに最適であるかもしれない。目安として、4面道中のザコの弾に追い詰められないような動き方のコツを習得できれば、切り返しはほぼマスターしたと言って良いだろう。切り返しはシューティングの最も基本的かつ最も重要なテクニックのひとつで、この要領を体で体得すれば他の色々なタイトルにも応用が利くのでシューティングゲームは格段に楽しくなる。

 理屈として言えば、切り返しテクニックというのは「飛んでくる弾を避ける」のではなく、「自機の動きによって敵弾を誘導する」ということになる。ザコの弾は基本的に自機狙い弾なのでちょっとずつ横に動いていれば理屈上は当たらない訳だが、実際には動いていればいつかは画面端に追い詰められてしまう。そこで画面端まで行ったら敵弾の隙間を見つけて反対側に切り返すことになる訳だが、この動きは初心者にはなかなか難しい。というか、画面端まで辿り着いてから切り返す、というのは本当は正しくない。ザコが間断なく出現し続けている限り、画面端まで辿り着いてしまったらほぼ「詰み」である。こうなったら上手いプレイヤーだってボムを使うか死ぬかの二択を突き付けられるしかない。では上手いプレイヤーはなぜ切り返す道(弾幕の切れ目)を見つけられるのか。これが初心者と中級者とのひとつの境目となるのだが、要するに弾幕の切れ目は「探す」のではなく自分で「作る」ものなのである。切り返しのコツを体で知っているプレイヤーはザコの弾を避けながら「仕込み」をする。具体的には、ただ漫然と避けるのではなく、敵弾をちょっとずつ避けながら、画面端が近づいてきたら一気に画面端上方に移動する。こんな風に自機の動きに緩急をつけてやると、自機の座標に合わせて発射されるようプログラムされている敵弾には、必然的に粗密状態が生じることになる。そこに避ける隙が生まれる。考え方としては、自機を画面上方に持っていくことで敵弾を上の方に「撃たせる」。その後で自機はちょっとずつ下に降りていく。狙い弾は撃たれた後に自機をちょっとでも移動させれば当たらないという基本性質があるので、弾の軌道にはあまり注意を払う必要がなく、従って左手ではレバーを下にちょっとずつコツコツ入れる作業をしつつ目は敵弾の薄い場所を探すことに専念できる、という訳だ。

 いまいち巧く説明できてないっぽい。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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