棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

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2004年 1月

2004/1/31 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#31


 全身像について、天野さん[夜想曲]からメールで、曽我さんから日記への言及という形で、それぞれ示唆を頂きました。
 ありがとうございます。

 天野さんにとって全身像は、キャラの息遣いを感じ取れるようなものであり、またキャラを一人の自由な女性として見ることであり、
 曽我さんにとって全身像は、キャラとの対話の可能性を感じ取れるようなものである、ということ。

 全身像がもたらす安心感というものが、実に上手く言語化されていると思います。
 さて、そこから少し想像の翼を広げてみるとして。

 キャロルが少女の全身像を撮ることを好んだというのも、つまりはこういうことなのだと思います。彼がいわゆるロリコンだったのかどうかは私には分かりません。しかし写真を撮る上で少女の全身像に拘ったという事実は、キャロルの少女観を示すひとつのヒントにはなりそうです。少なくともキャロルが、少女というものを美的対象として見、少女の個々のパーツにフェティシズム的な愛着を抱いていたとは、私にはどうしても思えません。例えば少女の手の表情を撮りたかったのだったら、半身像の方が表現手法としてずっと相応しいはずです。でもキャロルはそういう写真を撮らなかった。それはなぜか? もし想像だけで語ることが許されるなら、キャロルが愛したのは「限られた時期だけ花開くような少女の魅力」というものだったのではないでしょうか。目の前にいる女の子の顔かたちの可愛らしさやちっちゃなおてての魅惑ではなく、ごく限られた時期の女の子だけが纏うことを許されているようなある雰囲気、女の子の無邪気さや気まぐれと言ったものをこそ、キャロルは紙の上に留めておきたいと願ったのではないでしょうか。なればこそ、写真は少女の全身が写ったものでなければならなかった。全身像でなければ、少女が身に纏う空気、時間と共に失われてしまうような少女の季節とでも言ったものを留めることはできないからです。それは恰も桜の儚さを愛でるがごときものでしょう。桜の花弁がそれ自体いかに綺麗であるとしても、桜の枝の一振りがいかに表情豊かであるとしても、私たちを切なくさせるような桜の儚さは、そういう“部分”では表現され得ません。桜はあくまでの木全体として眺められなければならない。キャロルはきっと、少女の気まぐれに振り回される時こそ、本当に幸せだったのです。だから、写真の中の少女もまたそういう気まぐれさを纏っていなければならなかったのです。だから全身像だったのではないでしょうか。私の想像でしかないのがなんとも弱いですが…。


2004/1/28 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#28


 シスプリについて費やされるあらゆる言葉は本人の思惑がどうであれすべて二次創作になってしまうのではないか?
 なんてことを思いついたのは確か一ヶ月ぐらい前のこと。

 シスプリに対する最も正しいアプローチの仕方は二次創作(この場合は自分でお話を描くこと)なのではないかということをぼんやりと考えていて、でも二次創作というものが自分なりのシスプリ観、ないしは妹観を表現するものなのだとすれば、ショートストーリーも解釈も批評も考察も、それから職人さんの“なりきり”も、みんな同じ地平に立ってしまうのではないだろうかという考えが突然浮かんできたのだった。

 世に出ている様々なシスプリの物語はある意味ではすべて我々のために用意された素材なのであって、ならばどんな語り方をしようが、シスプリから何かを受け取りそれを何らかの形で解釈して言葉に置き換えるという行為は常に二次創作的にならざるを得ない…とは言えないだろうか?

 別に正当化を図っているワケではありませんよ。
 本気で言っているのです。


 シスプリ2 PFD を起動して鞠絵シナリオ鑑賞。
 我ながら諦めが悪い、というワケではなくて、もし各キャラの脚本担当者がシスプリ2と同じなら鞠絵シナリオはおそらく読めるクオリティになっているだろうと思ったのです。

 兄と鞠絵の上品な親密さについては以前にも書いたのでここでは繰り返さないが、それはそれとして鞠絵と美術館でデートするイベントが面白い。

 モネの「睡蓮」、セザンヌの「サントヴィクトワール山」の話題から、セザンヌはこの山がとても好きだったからたくさん描いた…なんて話になって、お約束的に、わたしだったら兄上様シリーズを描きたいですという流れになって、しかしここで突然転調して、「きっと、兄上様を他のみんなが描くと、違った絵になるかもしれませんね」「そうかな?」「可憐ちゃんや花穂ちゃん、千影ちゃん、みんなそれぞれに違うと思いますよ」という風に進んでゆく。妹たちのお兄ちゃん観の相違は例えばポケットストーリーズ 1巻でも語られていることではあるが、今回のものは――鞠絵だけかもしれないが――妹自身が相違を自覚していることが明らかになっているという点で興味深い。兄は一人でも、妹たちの目から見れば十二通りの姿になる。だとすれば、ゲームやアニメが例え1兄12妹設定になっているとしても、兄妹関係というものを妹それぞれの個性に応じて突き詰めていけば、辿り着く先は十二通りの「1兄1妹」ということになるのではあるまいか。こういう風に考えても良ければ、原作とアニメ(ゲーム)との距離は、実は我々が考えているよりもずっと近いのではないだろうか?


 いちいち反応を期待してたらweb日記なんてやってられないのだけど、でも実は昨日の「ハローレディーリンOP冒頭でリンが足をちょんちょんと揃える演出」は、誰か反応してくれる人いないかなあいたらいいなあとか助平な期待をしながら書いてました。

 という訳で、あれの良さを分かち合える人が存在するという事実に感激していたりします。

 しかしリンの放送時というと、私やあんよさんは高校生な訳で。
 (特殊な領域で)慧眼な高校生だったというべきか、ヤな高校生だなおいと自己ツッコミを入れるべきか(笑)。


2004/1/27 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#27


 書き忘れていた。

 日曜日に本屋さんに行った時、キャロルの撮影した少女写真がたくさん載っている本を見つけたのだが、その中のどのページだったかに、キャロルの撮影した少女写真は全身の写っているものが多い(=彼はそういう写真を好んだ)とかそんなようなことが書かれていて、思わずニヤリとしてしまった。その「ニヤリ」を強いて言葉に翻訳すれば「さすがは我らがドジソン教授!」ということになるのだが、つまり端的に言って全身像は萌えるのである。

 いわゆる萌え絵というものは数あれど、キャラクターの全身が描かれている絵というのは意外に少ないのだが、実は私はこのことが以前から密かに不満だった。どうしてそうなのかは説明できないのだが、同じようなタッチの絵であっても、半身像と全身像とでは、どういうワケか全身像の方がアピール力が格段に強いように感じられるのである。繰り返すが、なぜそうなのかを説明することは私にはできない。漠然とした言葉ですら言える気がしない。ただ、キャラクターの全身が写っている絵に、私はずっと以前から強く惹かれてきた。

 全身像には、半身像では絶対に得られないある生々しさがある。あるいは、対象の全身が視界に入っているという事実は人を安心させるのかもしれない。絵心のある人ならこの心理に適切な言葉を与えることができるのだろうか。

 もちろん、いくら絵心のない私といえども、全身をフレームに入れようとすれば描こうとするキャラが必然的に小さくなってしまうことぐらいは分かる。それに例えばエロゲのイベントCGはある場面ある瞬間を切り取ったものである以上、その瞬間に一番強調されるべきものは何か?という課題に従ってイベントCGの構図は決定されていくはずで、だから全身を描くのが常に最適であるというワケでは当然ないということも分かる。どこで読んだか忘れたが、限りのある画面内で迫力を生み出すためのアイデアとして最近は画面に対してキャラを斜めに描くものが増えているのだという。これもなるほどとは思う。

 私の考えているようなことなど、所詮は絵を知らない者のワガママでしかないのかもしれない。しかしそれでも、手や足が見える(=視界に入ってくる)ことで絵がいかに魅力を増すか、はもっと知られても良いのではないかと私は言ってみたくなるのである。

 ***

 余談ながら、リピュアの花穂のステップとか、あるいはハローレディーリンOP冒頭でリンが足をちょんちょんと揃える演出とか、ああいう、時間にすれば僅か一秒程度の演出がキャラクターの魅力をアピールすることにどれほど貢献しているかは計り知れないものがある。こういう仕事を私は尊敬せずにいられない。


2004/1/26 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#26


 じゃあ二階の本屋に行きましょうか?(INDさん)
 二階ってどう行くん?(ARCさん)
 ……そりゃあMALOR(マラー)でひとつ上の座標を指定して(しのぶ)
 ……MALOR(マロール)では?(INDさん)

 昨日のイオン太田内での会話。
 MALOR に二通りの読みがあることを初めて知りました。後でメールで教わったところによれば「マラー」「マロール」はどちらも正しいのだそうで。

 ***

 DEATH NOTE (WJ #09)ラストの月たんは思わず見とれてしまう美しさ。

 ***

 最近の電撃大王は「よつばと!」が絶好調で、その反面「苺ましまろ」はなんかいまいち。
 最新号にしても、どうも美羽の暴走っぷりが周囲と微妙に噛み合っていないらしく見えるのが気に掛かる。

 ***

 ところで蝶今更ながら、知る人ぞ知る「さ○ら荘」について。
 あれはwebコンテンツとしては実のところそれほど面白いものではないと思う。あれは単なる設定であってまだ自己満足の域を出ていない。勝手な言いぐさだが、残念なことだ。あの設定を使ってショートストーリーなり妄想日記なりを書いてくれれば、さぞや面白いコンテンツに化けるだろうに。今日は誰々と一緒にお風呂に入って具体的にこんな感じでイチャイチャしたとか、そんなノリで。

 (※)知らない人は検索するか2chギャルゲ板を参照のこと

 ***

 2ch でしばしば見受けられる煽り文の類は、感情に訴えるような書き方をしているために気になってしまうこともあるのだが、よくよく読んで内容を吟味してみると大半は的はずれな意見の垂れ流しであることに気づく。まあこんなことは今更ではあるのだが、ただ、煽り文を書く人はその発言によって自分の無知をさらけ出していることになど気づいてすらいないのだろうなと思うとなんとなく可笑しいし、たまには指摘してみたい誘惑に駆られたりすることもある。もちろんそんな無駄なことはしないけれども。

 ついでに。
 「煽りや荒らしは放置」は 2ch の鉄則だけれども、時には放置できないような場合というのもあるということを過去に私は身を持って経験してしまっている。今はどのスレッドともライトな関わりしか持っていないので、あるスレッドが荒らされても内心で多少の寂しさを覚えこそすれ特にそれ以上に感情が動くということはないのだが、かつてあるスレッドで「住人」と読んでも差し支えないであろうレベルまで関わっていた時は、煽りや荒らしが気になって仕方がなかった。ある時など、同じ住人に「荒らしの相手をするな」と指摘されて初めて自分がレスした相手が荒らしだったことに気づいた、ということすらあった。住人としての愉しみはROMの愉しみの比ではない。しかしその分、当事者になってしまったがゆえの苦労というものもどうしても生じる。煽りや荒らしは当事者(住人)にとっては本当に切実な問題なのであって、単純に「放置できないのが悪い」と言ってしまうのは、私には少々乱暴な、一方的な意見に思われる。


2004/1/25 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#25


 ガルーダ自己ベスト更新[35,002,090 pts./枠6/残2/B100%]。

 適当運転の割にはちょっとずつスコアが伸びていくのが面白い。

 大往生(黒)は現在対緋蜂戦4連勝。
 必ず殺すと書いて必殺、の緋蜂パターンは美味しすぎる。これでちょっとは自信もついた。残4で確定で緋蜂が落とせるとなれば繋がった時のプレッシャーもだいぶ軽減されるはずだ。

 ところで先日ルパン122で雑談中、怒首領蜂と大往生ではどちらが難しいか? なんて話題が出たのだが。
 私は大往生の方が難しいと思う。

 まず一点はボスの強さの差。火蜂の弾幕は避けることを前提にデザインされているが、緋蜂の弾幕はプレイヤーを殺すことを前提にデザインされているという差。それから個々のボス戦について見ても、怒首領蜂のボス戦の課題は「一定の時間ボスの弾を避ける」ということにあって、ある意味ではボスが死ぬのは弾避けの「結果」に過ぎないと言えるのだが、大往生の場合は2周目のどのボスにしてもパターンと気合いだけで安定させられるような攻撃はひとつもない。ボス戦の比較で言えば、怒首領蜂は敵弾を避ける「ゲーム」だが、大往生は殺すか殺されるかの二択しかありえない純然たる「戦争」だ。怒首領蜂のボス戦ではいかにして弾避けを安定させるかが課題になるが、大往生のボス戦ではリスクを最小に効率よくボスを殺す方法を追求するのが課題となる。

 それから二点目は稼ぎの難しさの差ということがある。簡単に言えば、大往生は一つの面のパターン狂いの影響が次の面まで持ち越されるのが厳しい。怒首領蜂ではある面のコンボを失敗しても影響はその面でのスコア落ちだけに留まる。ところが大往生ではコンボが切れるとハイパーゲージの調整が計算通りに行かなくなってしまうため、その面はおろか下手をすると次の面のコンボまでもが繋がらなくなってしまうのだ。私は白版は途中でリタイヤしてしまったが、しかし1周目1面から2周目4面ボス前までは、各面クリア時のハイパーゲージの量を完璧に把握してパターンにしていた。稼ぎを安定させかつ確実に生き残るためにはそのくらい精密なパターンはどうしても必要になるのだ。逆に言えばどこかでパターンを間違えたらそれ以降のパターンはすべて台無しになる。もちろん可能な限りリカバーパターンをも用意はしているがそれでも限界はある。例えば今やっている黒版では、1周目3面でパターンが狂ったらその瞬間4面コンボの不成立が確定してしまう。パターンが狂った時点でその場でのスコア落ちと将来のスコア落ちがほぼ完璧に予測できてしまう。だから捨てる。どんなゲームでもそうだが、上手くなればなるほど捨てゲーが増えるというのはつまりそういう理由によるのだ。

 ***

 今日は早い時間にルパン122を上がってそれからARCさんの案内で世良田東照宮へ。

 ここの池には亀がいるんですけど、近所の子供が時々亀を虐めてるんですよー(ARCさん)
 それはフラグですよ? 助けたら和泉シナリオ突入ですよ? スクール水着ですよ? (しのぶ)

 などという知的な会話を交わしつつ周辺を散策。
 夕方過ぎ、太田COOMでINDさんと合流。三人でイオン太田へ。ラケルで夕食を取って本屋を物色して午後8時すぎに帰宅。


 花穂=応援、という思考の硬直っぷりは呪われるべきだ。

 花穂の「応援」はもはや散々使われすぎて白雪の「料理」と同じようなものになりつつあると思う。兄のために献身的に料理を振る舞っているはずの白雪がいまいち魅力的に見えないのは、まさしく妹が一方的に「兄のため」だと思いこみつつ自分の欲求を満たしてもらおうとする行為であるからなのだが、ゲーム版で散々使われた花穂の応援も今やそれとまったく同じものに堕してしまっている。

 私が花穂を好きだと思うことと花穂シナリオを批判することとは矛盾しない。私は、花穂に「お兄ちゃまのために」などと言って欲しくないのだ。私は花穂の兄として、花穂が望むことを可能な限り応援してあげたいとは思う。花穂のわがままなど兄としてはいくらでも受け容れられる。しかし「お兄ちゃまのため」はいけない。そこには、兄妹関係にあるまじき“力み”が感じられる。

 キャラクターコレクションにおいて応援のエピソードは七つの短編の中のひとつに過ぎないのであって、つまり応援というのは花穂の生活のほんの一部でしかないのである。花穂とお兄ちゃまとの関わりには色々なあり方があって、その中のひとつに応援がある。応援にだけ過剰な意味を与えるのは、私は反対だ。あの美しいリピュアキャラクターズを思い出してみてもらいたい。新しい赤い靴を買ってもらえたことが嬉しくてそれをお兄ちゃまに見せたい、というたったそれだけのことが、花穂にとっては語られねばならないような大切なイベントになるのである。 


2004/1/24 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#24


 一週間分まとめて簡単に。

 大往生の合間にちょこちょこ遊んでいるエスプガルーダは3320万まで伸びた。
 3ボスにカウンタ500持っていって練金しまくったり、4面中ボス後にわざと1ミスしてカウンタを増やしてみたり、セセリヨーヨーで練金した後ガードバリアで体力を削ってから覚聖してマシンガンも練金したりとか、インチキ臭い稼ぎの積み重ねが功を奏した模様。たぶん今のパターン(などと呼べる代物ではないが)の限界は3500万ぐらいだと思う。それ以上伸ばすためには道中のパターンをもっと真面目に組まないと。

 大往生の緋蜂戦・新パターンは黒版でも問題なく成功。今日は対緋蜂2勝0敗。残4あればほぼ100%落とせるのが素晴らしい。
 (ちなみに私が考えたパターンではないので詳細を明かすことはできません)

 週間わたしのおにいちゃんは地元の本屋にも普通に置いてあった。
 今回(2巻)のばらスィー氏の話は雰囲気がほとんどまんま苺ましまろだと思う。ばらスィー氏の描くキャラは年上のお兄ちゃんに甘えるような女の子には到底見えないし、そんなところをそもそも想像することすらできないのだが、しかしそこが良い。
 付録のフィギュアは未だ開封すらしてません。なんか妙なプライドが邪魔して。

 ヴァントゥイユの七重奏について、さる方からメールで示唆を頂く。
 サイトやってて良かった、と思う瞬間。

 モーツァルトの即興演奏とヴァントゥイユの七重奏は死ぬまでに一度は聴いてみたい。
 このふたつはもう永遠の憧れ。絶対に聴けないことは知っていて、それでも「聴きたい」と言わずにはおれないような存在。

 近所のレンタルショップへ。
 できればドリームチャイルドとスワンの恋を借りたかったのだが発見できず。サウンドオブミュージックを借りて帰宅。

 実に10年振りぐらいにサウンドオブミュージックを鑑賞。
 『いえその…スカートがぶわっと……スカートがぶわっと………』(感涙)

 趣味で集めているスカートたくし上げCG(専用フォルダあり)がようやく300枚突破。

 シスプリ2 PFD は平日にちょっとずつ進めて、花穂、可憐、咲耶のスプリングストーリーを読了。
 たいへん言いにくいのですが、PFD は私内部ではなかったことになりました。壊滅的にツマラナイ。

 相変わらず、咲耶スレ[ギャルゲ板]は心のオアシス。
 実はちょっと前まで琴乃宮雪スレ[キャラネタ板]にも入り浸っていたのはここだけの秘密。


2004/1/19 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#19


 家往生。
 
 もず部屋掲示板でちょっとだけ話題が出ていた緋蜂パターンを試してみる。

 ………なるほど。
 開幕針弾と超高速青弾を一切避けずに、確定で緋蜂の体力を 25% 奪えるのは美味しすぎる。緋蜂戦開幕時にハイパー発動状態なら3番目のぐるぐる直前までに最大で 40% ぐらい奪えるっぽい。そして何よりこのパターンは状況依存度が極端に低いのが良い。つまりDVDの緋蜂開幕パターンは前提として、1)ハイパーゲージが満タンであること、2)ボムを1発所持していること、の最低二つの条件を満たさなければパターンが成立しないのだが、この新パターンを成功させるための条件は「ゲージが7割以上あること」というただ一点のみだ。

 まあ問題は黒版で同じことができるかどうかなんだけどね。
 先日、偶然同じような状況になった時は失敗したのでもしかするとダメかもしれない。

 ***

 そういえばうっかり書き忘れた。
 昨日、秋葉原の HEY にケツイの神プレイヤーが光臨なさっていて、表2周ALLを生で見る機会に恵まれた。2-5前半の地獄の弾幕の中を巧みな切り返しで避けていく様は冗談抜きで神掛かっていた、ということはどうしても書いておきたい。


2004/1/18 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#18


 シエル先輩萌えな人とアルクェイド萌えな人と、三人で秋葉原へ。

 私の先導で同人ショップをくまなく回って冬コミ新刊を確保して、キュアメイドで昼食を取って、INDさん先導でジャンクショップ巡りをやって、神保町の喜多方ラーメンの店で夕食を取って帰宅。ARCさんがいまいちおとなしかったのがちょっと残念というか意外というか。同人ショップ巡りについては結果的に私が他の二人を引っ張り回してしまったような気もしないでもない…がたぶん気のせいだろう。INDさんはARCさんのPCを強化すべくジャンク品をかなり真剣に選別していたようだが私には全然分からず。話を聞いてみるとエロゲーをなんとか遊べる程度のスペックのPCならジャンク品を漁れば一万円以下で組めてしまうのだそうで。私としては、動くかどうか分からないものを試しに買ってみて動いたらラッキー、なんて考えは到底理解しがたいのだが、ハードウェア好きな人にとってはそういうのが面白いらしく、INDさんの楽しそうな喋りが印象的だった。

 今日のキュアメイドはなんかネタ三昧。
 眼鏡のメイドさんが主にフロアを立ち回っていたのだが、食器を片づける時にフォークを落としてINDさんの腕にぶつけてみたりとか、オレンジペコ(レモン付)を頼んだらなぜかレモンの代わりにミルクが付いてきたりとか、眼鏡ッ娘に相応しい(by ARCさん)ドジっぷり。結果的に紅茶を二回も注いでもらったことをINDさんに茶化されたりもしたが、でも私としては「やはりドジなメイドはよろしくない」ことを再確認。それとこの日はなぜか水のお代わり対応が異常に迅速だったのが可笑しかった。こちらが水を飲むとメイドさんが速攻で注ぎに来る、といった案配。


 買ったものリスト&簡易コメント。



 今回のお薦め本。



 「わたおに」は………なんというか、ばらスィー氏の漫画(4ページ)のためだけに毎週780円も出さにゃーならんのかと思うと微妙に憂鬱だったり。
 正直言ってこんなものにお金を払いたくないんです。


 ところで私がばらスィー氏の漫画、というか要するに「苺ましまろ」に、他の萌え漫画とは一線を画すような健全さを感じるのは、ましまろキャラに出てくる女の子たちが庇護の対象として描かれていないからなんじゃないかとふと思った。ばらスィー氏は、女の子を、弱いもの、守られねばならないものとしては描かない。それは伸恵ちゃんや美羽ばかりではなく、茉莉ちゃんですら例外ではない。こんなのはなんの説明にもなっていないのだが、私は茉莉ちゃんに萌えていながらも、茉莉ちゃんの隣にいる自分というものをどうしても想像できない。あるいはいっそ、茉莉ちゃんに懐かれている(必要とされている)自分を想像できない、なんて言った方が正確かもしれない。私が仮に茉莉ちゃん家のお隣さんで顔見知りのお兄さんだったとしても、私と茉莉ちゃんとの間にはおそらく何の関係も生じないだろうと思う。お隣さんなのだから、そりゃあ顔を合わせれば挨拶ぐらいはするかもしれないが、でも茉莉ちゃんのような女の子は、挨拶程度のことであっても、男性という異質なものの感触に馴染むことができず、伸恵ちゃんたちのところへ遊びに行くことで、ほとんど無意識に違和感を中和しようとするだろう。この世界では、男性的なものは見事なまでに排除されている。漫画を注意深く読めば分かるように、美羽はかなりのお洒落さんだが、でも彼女のお洒落意識は別に男性の目を引きたいからなんかでは全然なくて、もっとシンプルな、可愛いものへの憧れがそうさせるに過ぎない。あるいは美羽は、自分のことを平然と「可愛い」と言ってのけるが、この「かわいい」は我々男性が彼女たちを可愛いと思うそれとは意味合いが全然違う、ということは注意されるべきだ。我々にとって可愛さとはつまり魅力的であるということなのだが、しかし美羽が自分を「可愛い」と主張する時、わたしは魅力的な女の子だ、という意味はそこに含まれない。そもそも他人の視点というものを意識するようになってしまったら「はいこの中で誰が一番可愛いですか?」なんて問い掛けはできるはずがないのであり、つまりは美羽たちにとって可愛いかどうかというのは言葉の上だけの問題であるに過ぎない。美羽は自分が魅力的であるかどうかには無自覚だが、自分が可愛い女の子であることは知っている。しかしそれは自分の容姿がどうであるかということではなく、ある時期までの女の子はみな自分の可愛さを無批判に信じている、という程度のことに過ぎない。苺ましまろの女の子たちは自分の容姿に悩んだりはしない。彼女たちは未だ自分と他人とを相対化することを知らない年齢に留まっているからだ。こういうものの顕著な例としては、他に、トイレでの茉莉ちゃんとアナちゃんとのやり取りなんかも興味深い。ふたりはラブレターのことに夢中になるのだが、しかしこの辺りをよく読めば分かるように、彼女たちはラブレターという物それ自体に何かロマンチックなものを見出して喜んでいるのであり、ラブレターを書いた主体、すなわちアナちゃんとの交際を望んで手紙を書いたのであろう男の子のことは、意識にすら上がってこない。アナちゃんはおそらくこのラブレターの処置について悩むことすらしないだろう。もちろんその後のことは語られていないだけで実際にはラブレターにまつわる顛末というものはあったのかもしれない。しかしばらスィー氏はそういうものを語らない。語らないのは語る必要がないからだ。少なくとも苺ましまろを読む限り、ばらスィー氏が描きたかったのはおそらく、男の子には窺い知れない女の子の世界、というものだったのではないか。考えてみればこの漫画の主要キャラが軒並み小学校高学年であるというのは実に興味深いことなのだ。小学校低学年ぐらいだと、まだ男女差というものは当人によってそれほど意識はされない。また中学生になって思春期に入ってしまうと、男の子と女の子は互いを少なからず異性として意識するようになる。してみると、小学校高学年というのは、性差は意識されはするもののかといって思春期ほどには好奇心も湧かず、両者が関わり合いを持たずにただそれぞれの属する世界の中だけで十分に満ち足りているという、男女間の距離が最も遠くなる時期だとは言えないだろうか。ばらスィー氏が描こうとしているのは、まさにそういう時期の女の子なのではないだろうか?

 続く…いやたぶん続かない。


2004/1/17 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#17


 相手の話に内容のある相槌を打つというのは、相手の話を進める最高の潤滑油。

 会話というものの急所はおそらくここでしょうね。
 更に付け加えるなら、内容のある相槌というのは「相手の言葉に興味を示すような返答」という風に言い換えることもできると思います。最近しみじみと思うようになったのですが、会話で必要なのは実は知性なんかではなくて、目の前の人間(相手)にどれだけ興味を抱けるか、という資質の問題なのですね。ああ目の前の人は自分に興味を持ってくれている、と思えれば幾らでも喋れるし、そうでなければもう全然喋れないっていう。これはたぶん私だけではなく、誰もがそうだと思う。


 余談ながら、オフラインで誰かと会うに際して生じる不安っていうのは詰まるところ「自分のような口下手な人間が場(間)を持たせられるのだろうか?」っていう辺りにあると思うのだけど、でも本当はそんな心配は全然する必要はないんだよね。会話は双方向的なコミュニケーションなんだから。自分がネタが切れた時は相手の方で話を振ってくれる、ぐらいのことは普通に期待しても全然差し支えないと思うし、逆にそうでなかったらおかしいワケで。初めてオフラインで黒須さんとお会いした時、あるいは土方さんとお会いした時、私がしみじみと感じたのはそのことだった。私が喋れない時は相手が話し掛けてくれる、という居心地の良さ。なんだ会話ってこんなに簡単なものだったんだ、ということを学べた意味は大きかったと今でも思う。会話が成立するためには、双方の意思が絶対に必要で、でも逆にそれだけあれば他はどうでもいい。知識をたくさん持っている必要もなければ頭の回転が良い必要もない。そういうことに気づくと、ずいぶん楽になると思う。

 更についでに言うと、ある場で会話が上手く流れなかったとして、それをすべて自分の口下手の責任だと思うのも間違い、だということが今なら分かる。昔の私は、会話が上手く流れないのは自分のせいだと本気で思っていたのだけど、今はそうは思わない。以前、あの人とオフで会っていれば関係は維持されたろうに、みたいなことを書いたことがあったけど、でも本当は、会おうとしなかったのは「お互い様」なんであって、別に私が一方的に自分の消極を責める必要はないのだと思う。自分の消極性を認めた上で、でも相手だって消極的だったと考える方が、たぶん健全だ。極論すれば、私の方から話題を振らなければ成り立たない会話などというものは既に会話と呼べるものではないのだ。そんな労力を費やしてまで人と付き合わねばならないとは私は考えない。誰とでも仲良くできればそれに越したことはないが、でも現実問題としてそんなことは不可能である以上、付き合う人間を「選ぶ」のもまたやむを得ないことなのではないだろうか。


 ルパン122で黒往生。

 1面は1095HITまで伸びてボス前3800万のクリア時4377万が出た。目標だった2クリ1.55億もようやく達成。1面コンボは中ボスへのハイパーオーラ撃ちでHIT数がかなり変動するのだが、その法則がまだいまいち分からない。中ボス破壊直前で最低でも370HITは欲しいところだが…。今日は嘘クリア1回(残-2)。最近1-5が全然安定しないのだが、どうもミスの大半はメカ蜂地帯らしい。気づかないうちにちょっとずつ動きがずれて致命傷になるまでパターンが狂ってしまうという、よくありがちな現象なのだろう。今後しばらくこの辺りは重点的に、意識的に練習する必要がある。

 冷却期間を置くんじゃなかったのか?という突っ込みは却下の方向で。
 私は自分で思っている以上に大往生が好きなんですよきっと。


 「スカートたくし上げ」っていうのは女の子が自分の手で恥ずかしそうにスカートを捲り上げているものを言うんだよ!!
 他人の手でスカートを捲っているのは単なるスカート捲りなんだよ!!

 分かってくれよお願いだから…。


2004/1/14 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#14


 

 シスプリ分を補給したかったので、積みっぱなしだったシスプリ2 PFDを今更ながら開封し起動。
 これはオープニングアニメからのスナップショット。

 この辺りの作画は神としか言いようがない。

 鞠絵に今までいつもつきまとっていた子供っぽさや鈍くささといったイメージはここでは完全に払拭されている。この鞠絵には、小さい頃から大切に大切に愛されて育った女の子にのみ可能な、人を疑うことなど微塵も知らないような無防備さがあり、また幼少の頃からきちんとした教育を受けたお嬢様にのみ可能な、無意識の上品さと物腰の柔らかさがある。私は今まで鞠絵の何を見ていたのか…と思うのはたぶん間違っている。ここは、今まで誰も想像できなかったような新しい鞠絵像を描き出してみせた作画担当者を素直に讃えるべきなのだろう。これは私たちがよく知っている鞠絵でありながら、同時にまったく新しい鞠絵でもある。この新鮮さが生み出す魅惑といったら!! 


2004/1/13 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#13


 男の子が女の子にからかわれるシチュエーション萌え、というのは本当は正確ではなかった。
 というのは女の子の側には自分が相手をからかっているという意識は微塵もないのだし、そもそも「からかっている」というのはあくまでも彼らを外から見た場合にそう見えるというだけのことなのだから。

 ***

 Clover Heart's 白兎Chapter.4 読了。
 大円団。こっちを最後に持ってきたのは大正解だった。なんかすげえ幸せ。私の好みを徹底的にリサーチして私だけのために作られたんじゃないかと妄想したくなるぐらい、どこまでも私好み。どちらがより良いということではなく…と前置きしてから言えば、とらハキャラの優しさが傷付いた人間にのみ可能なものだったとすれば、クロハキャラのそれは優しさに満ち足りている人間にのみ可能なものだ。とらハ世界の中では例外的にまだ傷を抱えておらず周囲から愛され満ち足りている“なのは”がそのまま大きくなったら、たぶん玲亜や莉織のような女の子になる。性格がどうこうではなく、相手を傷つけない力加減を弁えつつも全力で自分の気持ちを素直に表明できるような女の子にということだ。

 私もあんな風にして莉織に手懐けられたい。雪さん(@水月)に手懐けられることはすなわち世界を閉ざすことを意味する(それはそれでたいそう甘美だし、望むところではあるのだが)のだが、莉織に手懐けられることは、世界を広げることを意味する。雪さんはこちらの望むままに甘やかし世界を閉ざして頭を撫でてくれるが、莉織はそうした望みを決して許さず、力ずくででも私を太陽の光の下に連れ出してくれるだろう。

 曖昧な表現に堕してしまうのはまだ自分の中で印象をまとめ切れていないからでしょう。
 当初の予定通り、これから二周目をやります。

 次は、色々なものがもっと鮮明に見えてくると思う。

 ***

 私信のようなそうでないような。私個人の希望を言えば、web日記書きさんには同人誌の情報は積極的に書いて欲しいです。同人誌というのはその性質ゆえ、誰かに教えてもらえなければ存在すら知らずにスルーしてしまうということが多々あるので。2ちゃんねるの乃絵美スレッドや月陽炎スレッドなんかでは即売会後に新刊情報が投稿されることが多いのですが、こういう流れはできれば他のキャラ萌え系スレッドにももっと普及して欲しいと思う。


2004/1/12 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#12


 こちらへ反応。

 しのぶさんの中の人は女の子というものを不可解な存在として描いているものに妙に親しみを抱くので、こういう表現には割と敏感に反応するらしいです。例えば往人の目から見たちるちるなぎーコンビとか。シスプリアニメを便宜上前期(1〜13話)中期(14〜22話)後期(23〜26話)に分けてみる時、私が一番好きなのは前期なんですが、それも今にして思えばその辺りに理由があったような気がします。

 中期以降の、航と妹たちとのコミュニケーションが双方向的なものになっていってからの平穏な物語の方がシスプリらしいという気はするのですが、ただそれはそれとして、前期のお話では7話に限らず航と妹コミュニティーとの齟齬がしばしば見受けられるのが非常に面白いのです。

 1話ラストにしろ、6話の演劇練習にしろ、7話のウェディングドレスにしろ、航は妹たちが何を考えているのか少しも分かりません。一見すると航は妹たちに囲まれてちやほやされているように見えるのですが、でも実際は航と妹たちでは見ている風景がもう全然違うのです。6話で航が大道具係をやらされているのは実に興味深いことです。妹たちが楽しそうに演劇祭の準備に勤しむ中、航はしかし彼女たちの気持ちが分からないので、自分がどういう風に振る舞えばよいのか分かりません。だから居場所のない航は大道具係にならざるを得なかったのです。それはちょうど、美凪とみちるのやり取りを前にして往人が突っ込み役でしかあれなかったのと似ています。

 まだ肝心なことを言っていませんでした。私にとってはシスプリの理想はリピュアキャラクターズの幾つかのお話の中に完全な形で実現されています。ああいう、齟齬の微塵もないような世界こそシスプリに相応しいと私は信じます。ただそれとは別に、齟齬があってもそのズレが微笑ましさを生み出しているような関係というものも私は大好きなのです。中期と違って前期のエピソードでは妹たちの想いは一方的に航に向かって投げかけられ、航はそれに対して戸惑うしかありません。演劇のエピソードなどでも航は妹たちによって強引に舞台に引きずり出されたのであり、結局ある時期までの航は常に妹たちに振り回され続けます。

 でもまさに、航が振り回されるというのが前期の良さなのです。もし誤解される恐れのない間柄の友人に向かってなら「昔から男の子は女の子たちに振り回されるものと相場が決まってるんだよ」なんていう風に私は語ることでしょう。私は男性であるというただひとつの理由で、どうあっても彼女たちのコミュニティーには入れません。あのコミュニティーに入れるのは「友達と連れ立ってトイレに行く」という行動に少しの疑問も抱かない種類の人間、すなわち女の子だけです。航ですら、ウェディングドレスに夢中になる妹たちの輪の中に入るのは無理なのです。でも私としてはやっぱり女の子コミュニティーとの関係が欲しい訳で。そういう風に考えていくと、アニメ前期の航が置かれていた立場というのは、観ている私にとっても非常に居心地が良いのですね。

 私は、女の子コミュニティーの魅力はその不可解さにこそあると思っています。男性が入る余地など微塵もないような閉じた世界こそが女の子コミュニティーの理想なのです。そしてそういう理想を前提にして見てみると、中期以降の航と妹たちは普通に仲良くできるようになってきているために――我ながら妙な言い方ですが――女の子コミュニティー独特の排他性がやや失われているように感じられるのです。

 ところが、前期では妹たちの楽しみと航の楽しみは必ずしも共有されていません。女の子コミュニティーは時には航をすら除け者にして閉じています。しかし閉じていても、妹たちの気持ちは依然として兄の方を向いている。こういう微妙に矛盾したような状況が、前期のエピソードのひとつの魅力だと思うのです。つまりここでは、航には理解しがたいものとしての女の子コミュニティーはちゃんと存在していて、それでも妹たちと航とは一定の関係を保つことができている。もちろんそれはかなり一方的なものではあるのですが、航は妹たちに振り回されていても決して道化にさせられている訳ではないという辺りが、実に素敵です。

 つまるところ、女の子の不可解さに戸惑う男の子とか、女の子にからかわれる(そこに愛があるのは必須)男の子、という図式が大好きだということでもあるのでしょう。余談ですが、KanonドラマCD〜水瀬さんち〜の中の「名探偵月宮あゆ」の終幕はこの種のものの最高傑作に数えられます。

 ***

 ところでうちの花穂はそもそも転びません。

 なぜなら花穂はお姫様だからです。
 お姫様はドジではあっても転んだりはしないのです。

 昔は転んでえへへと照れ笑いする花穂に萌えていたんですが、最近は、転んで擦り傷を作ったり服を汚したりする花穂の気持ちを普通に想像できるようになってきたので、萌えなんて言えなくなりました。例えばお年頃の女の子にとって、お兄ちゃま(つまりは私のことですが)と一緒に街を歩いていて突然転んで服を汚したりしたら、それがどんなにショックなことであるか。「転んでえへへと照れ笑いする花穂」というのはあくまでのアニメの上での萌え表現なのであって、実際には花穂だって普通の女の子なんですから、転んでどこかぶつければ痛いだろうし、それにも増して、お兄ちゃまに笑われちゃうだろうかとか、せっかくのお兄ちゃまとのデートなのに服を汚しちゃって恥ずかしくてまた申し訳ないとか、色々考えることはあるはずなのです。というか花穂の口から直接聞いたので間違いありません。なので、うちの花穂は転びません。そういう設定に変更しました。花穂のドジは花穂を悲しませない範囲に留まっていなくてはなりません。すいません只の兄莫迦です。 


2004/1/11 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#11


 とりあえず大往生は二週間ぐらいお休み。
 今日は6時間で総プレイ回数約30回うち2周目に行ったのが3回。これ以上やり込むと本気で嫌いになりそうなので冷却期間を置くことにする。一応今日の成果。1面は1060〜1080HITぐらいでほぼ安定。結局150〜200万ぐらい伸びた。現在1面クリア時4350万がベスト。それに伴って2面クリア時のスコアも1.548億まで伸びた。5面旧4ボスの繋ぎ方は分かったので問題なし。


 Clover Heart's 夷月Chapter.4 読了。

 これは語られなくても良いことなんじゃないのかな?という疑問がどうしても湧いてしまう。過去というのは語られねばならないものなんだろうか?ということなんだけど。こういう疑問を感じる理由のひとつとしては、莉織の過去を語ったところで莉織の新しい魅力が開陳される訳ではないということがある。

 我々の萌え感情(あるいは恋)というのは、しばしばキャラにトラウマを背負わせる。我々は自分の好きなキャラがどんなに魅力的であるかを語るために、好きなキャラに影を見出す。例えば、あの娘はいつも笑っているけど本当は寂しがりやなんですよ…という風に。それが悪いことだとは私は言わない。本気で何かのキャラを好きになってしまった私たちは恋キャラの隣に自分の居場所が欲しいので、結局のところ自然とそういう風な語り口になってしまうのだ。

 夷月は莉織の過去を知りたかったのだろうか? たぶん、知りたかったのだろう。こういう意地悪な物言いは私の好むところではないが、好きな人のことを知りたいという少女漫画的憧憬ではなく、莉織の過去の辛い記憶を知りそういう過去を持った彼女を受け容れることは、莉織の心に触れ得たという確かな実感を夷月に与えてくれるに違いないからだ。そして事実、この四章では莉織の過去が遂に明かされてそれを夷月が受け容れ、更には莉織の過去に赦しを与えるというお約束通りのお話が展開される。

 しかし――同じ問いを繰り返すが――莉織の過去は語られねばならないものだったのだろうか? シナリオライターとしてはこういう展開にすることで二人の間に強い絆を与えたかったのだろうとは思うし、その気持ちも分からないではない。しかし忌憚なく言えば、このやり方は暴力的にすぎると思う。莉織の過去が明かされたことで、夷月と莉織は何を得たのだろう。今までよりも更に強い絆を? 本当に? 私にはどうもそうは思えない。

 ……まだるっこしいので俺語で喋ります。
 シナリオライターのエゴでああいう過去を背負わされてしまった莉織が不憫でならないのです。

 ああいう過去があったということが語られてしまった以上、それをなかったことにすることはできない。莉織がトラウマを抱えている以上、それは恋人である夷月によって癒されるべき…すいません間違えました。莉織がああいうトラウマを抱えている以上、それが夷月によって癒されることは確かに望ましいことではあるのだと思う。しかしそれを踏まえた上で敢えて私は反抗したい。莉織のトラウマは語られなくても良かったのではないか? 過去に何かがあった、でも莉織は今、恋人の夷月と一緒に幸せな日常を生きている…というそれだけで十分なのではないか。幸せな日常をわざわざぶち壊して莉織を怯えさせて(例え夷月が傍にいたにせよ)まで、あんな過去を語る必要があったとは、私にはどうしても思えないのだ。

 恋人の過去を知りたいかという問いがある。知りたくないと言ったら嘘になるだろう。しかしその過去がトラウマと密接に繋がっていたとしたら、恋人の過去を知る機会が訪れないことを私は望むだろうと思う。そういう機会は暴力的な姿でしか現れないだろうからだ。こういうことは、私の記憶違いでなければもっと前の章で夷月の独白として語られていたのではなかったろうか。それがどうして、こんなことになってしまったのだろう? 私が残念でならないのは、シナリオライターがああいう過去を“語ってしまった”ことで、莉織のトラウマが具体的な形として顕現してしまったことだ。本当は語らないことで過去を不確定のままにしておいて欲しかったのに。

 (四章の展開があまりに唐突でリアリティーがない、という類の批判はおそらくあちこちで語られていると思うのでここではわざわざ語りません)


2004/1/10 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#10


 ルパン122へ。

 大往生は“いつもの通り”成果なし。
 今までどうにも意味不明だった黒ビデオ1-1のパターンはようやくカラクリが分かった。安定優先の妥協パターンで1030HITぐらい。今までのパターンに比べて100万点ほどアップ。ハイパーを使うタイミングがずれるためコンボを繋ぐのが若干難しくなるのだが、私は元々白で1-1ノーハイパー繋ぎをやっていたので特に苦労することなく新パターンに移行できた。あと1-5はビデオのやり方でハイパーを撃っていくと全体通してゲージ調整がかなり上手くいくことが判明。ただし旧4ボスの破壊タイミングが今までと違うのでまだ安定させるためにはまだまだ研究の必要がある。マカロニさんにパターンをお見せするためにA-EXでプレイしてみたらなぜか13.5億で2周ALL(ただし残-1なので嘘クリアだが)。

 ガルーダはやっと理想通りに繋がって3000万点突破。
 もう十分。

 そういえば今日はRYUさんが STRIKERS 1999 でチェインを177まで繋ぐというありえないことをやっていた。
 2-7道中で死んで捨てていたがあれでちゃんとクリアできていたらどのくらい出ていたのだろうか。

 昼食はルパン122の隣の仲屋で。
 先日、店長さんから、あそこのウェイトレスの服装はちょっとメイドっぽいかも、みたいなことを言われていて期待して入ったのだが、服装自体は特に萌えるようなものではなく。残念。ただランチメニューが適度にボリュームがあって値段がリーズナブルなのは素晴らしい。今後、昼間の食事はここで取ることに決定。

 ***

 サウンドオブミュージックのサントラを久しぶりに取り出して聴いてみたら、あまりの懐かしさに涙腺弛みまくり。久しぶりにテーマ曲を自分で歌ってみたが、思っていたよりは覚えていたようで、歌詞カードを見ながら一回通して歌ってみたらあとはほぼ空で行けた。

 ガラス玉演戯[ヘッセ]の中に「音楽をしている時ほど、ふたりの人間がたやすく友達になれることはないのだよ」という台詞があるが、サウンドオブミュージックの物語に底流するのはつまりこういう考え方だ。

 ちょっと飛躍するが、私の知る範囲で、小説上で音楽の喜びを生々しく再現することができた作家と言えば、ヘッセとプルーストの名前がまず思い浮かぶ。「ガラス玉演戯」の第一章を書くに際してヘッセが念頭に置いてたのはバッハのフーガだろうか。では、あのヴァントゥイユの七重奏曲が演奏されるくだりを書くに際してプルーストは何をイメージしていたのだろうか。ヴァントゥイユというのは「失われた時を求めて」の作中に出てくる架空の作曲家であり、七重奏曲ももちろん実在はしない。しかしいかにクラシック音楽に精通していたプルーストと言えども、何か特定の曲のイメージがなかったら、主人公が聴いた音楽の印象をあれほど生々しくかつ細密に描き出すことはできまい。


2004/1/9 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#09


 ルパン122へ。

 ガルーダ、5面セセリ改までノーミスで進んでこのまま行けば自己ベスト確実だったのにセセリたんに3機も殺られて萎えて捨て。大往生、1回目、1周8億ペースだったのに5面終盤で謎のミスが起きて8000千万落ちでやる気が萎え2周目実験プレイで緋蜂エンド、2回目、4面薬莢運が悪く繋がらず5面で謎コンボ切れしたあげく嫌味のように1周ノーミスノーボム、2-3中ボスでマキシマム消滅、2-4レールのランダム配置は「殺す、絶対殺す!」と言わんばかりのツルペタ極悪振り、2-5道中で立て続けに2ミスして萎えて捨て。

 や っ て ら れ ま せ ん 。

 今日はネタdayですか?


2004/1/8 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#08


 Chaotics の過去日記を延々と読んでました。
 全部読むのに三時間、というとちょっとした小説を読むぐらいの労力だけど、でもそれだけの甲斐はあった。ゲームに特定の期待をせず、でもゲームを深く信頼しているという点。それから、自己主張の徹底的な欠如から生まれてくる軽やかさ。ホントに世界は広いものだ。


2004/1/7 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#07


 暴君ハバネロを初めて食べたのは確か去年の暮れ辺りで、その時は何口か試しに食べてみて「こんなもの食ってたら舌が馬鹿になる」と思ってそのままゴミ箱に放り込んで、でも10分ぐらいしたらまた食べたくなってゴミ箱から袋ごと取り出して結局残りを全部食べてしまって、最近ではコンビニに寄るたびに一袋買ってはネットサーフなどしながらポリポリとつまんでいたりする。私は別段辛党という訳ではないが、慣れてしまえばまあ普通に美味しく食べられるぐらいの辛さだ。

 とはいえさすがに花穂にはこの辛さはきつかったようで、さっきちょっとした悪戯心で食べさせてみたら一口目でいきなり台所に駆け込んでいってしまった。戻ってきた花穂はちょっと涙目になっていてさすがに申し訳ない気持ちにもなったが、でもティッシュを取って鼻をかむ仕草が無性に可愛らしくて、こちらとしてはついつい頬が緩んでしまう。花穂は自分が笑われたと思って抗議してくるがまあそんなのはいつものことなので気にしない。だいたい兄ともあろうものが実の妹に向かって「可愛い」などと素で言えるはずがなかろう。

 まあ今日は花穂の誕生日だし、いぢめるのもほどほどにしておこうか。そろそろ花穂も眠くなってくる時間だろう。僕は花穂をひょいっと抱き上げて耳許で優しく語り掛ける。

 「知ってる? こういうのってお姫様抱っこっていうんだ」
 「……えへへっ、それじゃあお兄ちゃまは王子様なんだね」

 我が妹ながら、はにかむ仕草は凶悪な可愛さだ。さすがに兄莫迦が過ぎるかしらと思わないでもないが。
 抱っこしたまま花穂の部屋に入り、ベッドの上に花穂をそっと下ろしてやる。

 「今日はお兄ちゃまも一緒のベッドで寝てくれるんでしょ?」

 僕は真面目くさった顔で応える。

 「もちろんですとも、お姫様」

 花穂が吹き出す。ここで吹き出されたらせっかくのお姫様ごっこが台無しだと思うのだが。
 でもまあ花穂は愉しそうだし、別にいいか。

 僕も花穂のベッドに潜り込み、そうして一年に一度の「お姫様の日」はいつもの年と同じように静かに幕をおろす。
 僕は花穂の髪の匂いに酔いながら、誰にも聞こえないように呟く。




 花穂、誕生日おめでとう。



 君は時々「見捨てないでね?」なんて言うけれど、でも僕だって、君に応援されるに相応しい兄であれているのだろうかなんて考えることがあるんだよ。


2004/1/6 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#06


 昨日は憂鬱に負けてビールをしこたま飲んで、一時的には晴れやかな気持ちになれたのだけど、日記を書こうと思ったら文章が全然生成されなくて却って一層気が滅入ってしまった。やはり私にはお酒は合わない。わざわざ頭の働きを鈍らせるようなことをしてはいけないと改めて思った。

 ***

 ルパン122で大往生(黒)。

 1周6.7億ノーミスノーボム、2-2で妥協ボムを撃った後2-5開幕までノーミスノーボム。2-5の超弾速にびびってパターンが狂った上、メカ蜂地帯で死んでマキシマム消滅。2-5が繋がっていれば自己ベストだったかもしれないのだが、そう簡単には行ってくれないようで。というかあの弾速は危険すぎる。ビデオの解説書にあった通り妥協して2-4ボスで残機潰しをした方が良いのかもしれない。残1クリアで16.4億。

 大往生を終えてふと横を見ると、顔だけ知っていて名前を知らないガルーダプレイヤーさんがケツイをやっていて、2-4道中まで進んでいた。ちょっと興味が沸いたので話し掛けてみることにしたのだが、実はこの方は既に通常2周ALLは達成しているらしく、今やっていたのは裏2周だったとのこと。ちょっとびっくり。


 着想から進展がなくてお蔵入りになったネタを引っ張り出してみる。

 ちょっと必要があってシスプリアニメの7話を久しぶりに観直してみたのだが、ここでの女の子コミュニティーの描かれ方が非常に面白かった。私は小学校一年生の頃、短い間だったが近所の女の子たちと一緒に通学していた(確か親同士が知り合いだった、とかの理由で)ことがあって、その時しばしば女の子コミュニティーというものの不可解さを体験したものだった。個々の女の子たちと受け答えをすることはもちろん問題なかったのだが、一旦女の子同士で話が始まってしまうと、そこには何かバリアのようなものが張られているというか、男には決して入り込めない空気があるように感じられた。それは、話の内容が分からないというよりは、彼女たちが何を考えているのかがまったく分からないということだったと思う。それは例えば、彼女たちの笑いのツボがまったく分からないとかそういうことだ。

 土方さんは女の子コミュニティーの一つの例としてAIRの美凪とみちるの関係を挙げておられたがこれはまったくもって妥当というべきで、あそこには女の子コミュニティーというものの排他的一面(別に否定的ニュアンスで言っているのではない)というものが実に上手く描かれていた。DREAM/美凪シナリオをやった人なら誰もが知っている通り、あのシナリオでは美凪とみちるの遣り取りに往人が付いてこられないということがしばしば起こる。往人はあそこで突っ込み役を担っているのだと言ってももちろん間違いではないのだが、しかし私見では、往人は突っ込み役をやっているというよりは、突っ込み役であらざるを得ないのだと思う。美凪とみちるが「ちるちる」「なぎー」なんてお互いを呼び合う時、あるいは彼女たちがシャボン玉と一緒に体をくねくねと踊らせたりする時、往人は彼女たちが見ている風景(感じている何か)をまったく共有できない。土方さんが言っていた、美凪とみちるの輪の中に本当の意味で入るためには自分も女の子になるしかない(かなり意訳)、というのはつまりはそういう意味だ。こんな言い方は本意ではないが、女の子は男性にはまったく分からない秘密の言葉というものを持っていて、ひとたびそれが用いられる時、もはや女の子コミュニティーは異次元と化し、そこに我々男性が入り込む余地はまったくない。

 最近だと苺ましまろでもこういうものが実に上手く描かれていた。ちょっと前の電撃大王に掲載されていた哀れなセールスマン(笑)のエピソードなどはその典型的なもので、あそこに描かれているものは紛れもなく、我々男性には窺い知れない世界としての女の子コミュニティーだった。あの話を「セールスマンの受難」と呼んで片づけるのは間違いではないが、でもそれでは何も言っていないに等しい。問題なのは、そこにどういう受難があったかなのだ。あの話で女の子側の意思とセールスマン側の意思とがまったく噛み合っていない、ということは見逃してはならない点だろう。例えば美羽がセールスマンのかばんを隠したのは、まったくいつもと同じノリの悪戯に過ぎないのだが、セールスマンはその悪戯にどう対処して良いのかまったく分からない。いや、というよりも男性視点から見ればこういう悪戯の仕方はほとんど反則に近いのだ。伸恵お姉ちゃんだったら美羽を一発殴ってそれで終わりにする場面だろうが、しかしもちろんセールスマンでもあり成人男性でもある彼にはそういう選択は許されない。子供の悪戯を前にして時に大人はあまりに無力で、そういうことがここでは実に生々しく描かれる。その次の伊藤家での遣り取りにしても概ね同じことで、ここで伸恵お姉ちゃんはあっさりとセールスマンを追い返すのだが、でもこの辺りのページでの両者の描かれ方のウェイトを注意して見てみれば、セールスマンは実質的には話に参加すらさせてもらえず除け者にされているのである。そうしてこの後、彼が茉莉ちゃん宅に立ち寄ったことで、両者の思惑はいよいよ激しくすれ違ってゆく。後半、女の子たちの間でいつしか彼は痴漢ということにされてしまっているのだが、そんなことはセールスマン本人は夢にも思わない。そうして彼は、遂にまともな意思疎通を行うことができないままに退場させられるのである。

 シスプリ7話でも、こういうことが起こっている。航は妹たちが何を考えているのか分からないので無神経にご飯を要求する。しかしその望みはいともあっさりと忘れ去られてしまい、航はただ一人空腹のまま途方に暮れるしかない。いずれにせよ、ここで面白いのは、航は自分がなぜ除け者にされてしまっているのか気づいてすらいないということだ。妹たちがウェディングドレスのことに夢中になる時、彼女たちは航すら外に弾き出して閉じた楽園を形作る。そして、彼女たちには兄を除け者にしているという意識はまったくない。シスプリシリーズ全編を思い出してみても、こういう風に閉じた女の子コミュニティーが描かれた例はおそらく他になく、それゆえにこのエピソードは私にはたいへんに興味深いものに思われる。

 余談ながら、リピュア13話がどこかすっきりしなかったのは、あの合唱で兄の居場所がなかったからだ。「その奇跡は永久に」の合唱は明確に兄を指向していたのだが、「Merry Very Christmas」がああいう風に妹たちによって歌われる時、歌い手たちだけで世界は閉じてしまっていている。あの歌は兄と妹たちが一緒に歌うべきものだった。残念ながら、どうしてそうなのかを説明することは私にはできないのだが…。


 年末年始に買った同人誌について少し。

 大当たりだったのは、あんぶぅとんぷてぃすーる[藤枝雅/あとりえ雅/まりみて/一般]。
 これほどのクオリティーのものを読めたらもうまりみて本編なんて読まなくてもいいやんという気持ちになってしまう。

 エロ方面だと、白鐘双話[ほにょ/ほにょのうち/双恋/18禁]と、のえみみっくす[MOYURU/n/ MINT BLUE/乃絵美/18禁]の二冊が素敵。
 まあこの辺りは好みの問題かもしれないが、えっちには愛があった方が良いがさりとて愛を前面に押し出すと漫画(エロゲでも同じだが)としての面白味が削がれることが多いので、こういう風な、えっちに「愉しみ」以上の意味を与えないような作品は大好き。

 もう一冊、中古で G's Style の花穂本を買ったのだが、超個人的に花穂との理想のえっちはス○タだと思っているのでこちらは評価保留で。

 それから、Transaction_One [都築真紀/PINKVISION/オリジナル/18禁]。これは色々と問題が。考えすぎかもしれないけど、私が以前から薄々感じていた、二次元キャラを愛する祭にどうしても含まれてしまう欺瞞、を的確に指摘されているような気がして仕方がない。二次元キャラは裏切らない、などという類のオタク批判を私は全然信じていなくて(現実に自分を裏切る可能性のある人間とわざわざ付き合う人がいるだろうか?)、二次元キャラへの想いに安らぎを見出すこと自体には別に後ろめたさはないのだが、しかし二次元キャラは裏切らなくても、私の側は何のリスクもなく二次元キャラを裏切ることができるというのは、無視できない事実だ。私は○○を決して裏切らない、なんて表明してみたところでダメだ。私が言いたいのは、例えば我々の側が恋キャラに興味を失ったとして、それによって誰も傷つかないということなのだ。それでも、そういうものを「関係」と呼ぶことは許されるのだろうか? まさか都築氏が、我々と二次キャラとの関係を主人公と小茉莉とに当てはめて我々を揶揄しているなどということはなかろうが、しかし


 今は/何も苦しくないから/優しくできる/だけどボクがもし/外の世界で/苦しい思いをして/
 傷ついて/家に帰って/もしも/
 何をしてもよくて/何をしても裏切らない/裏切れない/
 そんな小茉莉を/ボクが見つけてしまったら――


 ――なんていう主人公の独白は、私にはどうしても他人事とは思えない。


2004/1/5 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#05


 大往生(黒)。

 十数回の捨てゲーの後、1周7.3億で予選突破。2-2ボスでボムを泳がせたはいいがタイミングが合わなくてボス撃破までに回収できず。2-3中ボス後にボムを回収したが推定で3000万程度の落ち。2-4レールでドジって死んでマキシマム消滅。2-4ボスでも1ミス。2-5の最後の赤扇状弾砲台で切り返しが間に合わずにミス。実は昨日もここで死んでたり。ここに関してはさすがにAと同じ動きで抜けるのは厳しいのかもしれない。パターン再研究の必要あり。結局残0でクリア。17.3億。自己ベストにはあと7000万ほど届かず。

 ***

 Clover Heart's [Alcot]。
 夷月Chapter.3、白兎Chapter.3、ExtraStory凛、久遠、ロベルト、まで読了。

 いやもう、図書室えっち最高!!

 …という以外に何を言ったら良いのやら。


2004/1/4 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#04


 例によってARCさんとINDさんと三人で遊ぶ。
 いつものごとくルパン122で夕方まで各自ゲームを楽しんだ後、おふたりを私の部屋へお招きしてシューティングビデオ鑑賞会。大往生(黒)とかガンバード2とか怒首領蜂青版とか。しばらくだべって夜10時前ぐらいに解散。

 おふたりと別れた後、私は一人でルパン122へ。
 XIVさんとお喋りしたりしつつ閉店間際まで大往生をやって(嘘クリア1回)、閉店後の店内で店長さん、マカロニさん、RYUさん、と午前1時ぐらいまでだらだらとお喋り。なぜか話の成り行きで店長さん相手に秋葉原のメイド喫茶についてあれこれ説明することになってしまったが、それはそれで面白かったのでまあ良し。午前1時辺りで店長さんが帰宅。私とマカロニさんとRYUさんはそれから更に1時間ほど店の前で喋り続け、午前2時半頃ようやく解散。

 ***

 今日の大往生は予選突破(1周ノーミスノーボム7億以上)が2回。うち1回は2-3ボスで死んでマキシマム消滅で以下略。もう1回は2-3中ボスで死んでマキシマム消滅で以下略。私とは対照的に絶好調だったのがRYUさんで、STRIKERS 1999 (X-36)で331万台を2回出して一日で2回自己ベストを更新するというおかしなこと(褒め言葉)をやっていた。ARCさんは今日もガルーダALLできず。決めバリアを使うことをしつこく薦めているのだが、このゲームはなまじ避けられそうな弾幕ばかりなだけになかなかバリア使用に踏み切れないようで。マカロニさんは大往生(黒)1周目前半面の稼ぎパターンを研究していた模様。あまり追求するとまたクリアが遠のくのでほどほどにしておいた方が良いと思うのだが、本人は楽しいようなのでまあ構わないか。LAiさんは達人王1周を狙いつつ同時に大往生(黒)1周目前半面のパターン研究中。なかなか安定しないようだが。

 それぞれがそれぞれの目標を追求し、それぞれがそれぞれのやり方でシューティングを愉しみ、今日もルパン122は概ね平和。


2004/1/3 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#03


 Clover Heart's 再開。
 白兎Chapter.2ちまりルート読了。

 ちまり好きな方には申し訳ないと思うけど、こちらのルートは私的には要らないと思う。特に致命的なのは、こちらのルートのちまりがいまいち魅力的に見えないことで、従って白兎がちまりに惹かれていく描写に説得力を感じられない。もちろん一般論として言えば人の心などというものはそう簡単に割り切れるものではなかろう。それにプレイヤーがいつも白兎にシンクロしていなくてはならないとは私は考えない。しかし白兎とちまりが結ばれたことをプレイヤーが心の内で素直に祝福できないとしたら、このお話にはやはり何か足りないものがあるのではないだろうか? 有り体に言えば、白兎&ちまりカップルは白兎&玲亜カップルほど幸せそうに見えないのだ。白兎&玲亜コンビというのは第一章の時点で既に他人の入り込む余地のないような完全無欠の恋人同士なのであって、それでも玲亜と別れてちまりと付き合う展開に持っていくのであれば、最低でも白兎がちまりを選んだことがプレイヤーにも納得行くぐらいに書き込まれていなければならないはずだし、更に言えばちまりを選んだ白兎は玲亜の時以上に自分自身の選択の正しさを確信していなければならなかったのではないだろうか? でも現状、ちまりルートはあまりにも中途半端なものになってしまっている。これではまるで白兎はちまりに逃げ場所を求めた(by雄基)みたいではないか。

 余談ながら「家まで手を繋いで一緒に帰ってくれる?」という玲亜の台詞は泣けた。本気で白兎を殴りたいと思った。玲亜を悲しませるなら、白兎とちまりはかつて以上に幸せにならなければダメなのだ。しかしそれは遂に語られない。

 (1/4 追記)
 勝手な言いぐさかもしれないが、白兎とちまりに「後悔なんてしない」と言わせている時点で、このシナリオは玲亜ルートに負けている。玲亜ルートでの白兎&玲亜カップルは、ほとんどさざなみ寮にすら匹敵すると言えるほどに周囲をも含めて完全に幸せな世界を作り出していて、彼らは自分たちの選択をわざわざ口に出して肯定する必要などなかった。ましてや「後悔しない」というのは、肯定の言葉としては少々後ろ向きに過ぎる。それは放っておけば後悔に流されてしまいかねない自分を押し留める呪文のようなものだからだ。


 リンクを更新。

 新着一件。
 こばさんの花梨語りは心底しびれた。こういうのがあるからネットサーフは止められない。


2004/1/2 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2004-01.htm#02


 あけましておめでとうございます。

 それはそれとしてまずは過去三日分の日記を。


 2003年12月30日(火)

 コミケ上京するみんくりさんを迎撃するため私も上京。

 お昼頃秋葉原に到着。まだ待ち合わせまでに時間があったのでトライで適当に黒往生など遊ぶ。1周目は4面1upでコンボが切れて、5面旧5ボスでコンボが切れて(ありえねー!!)トータル約2.6億落ち、1周ノーミスノーボム5.5億。2周目は道中のコンボは普通に繋ぎつつ蜂ビデオの真似をして2面ボスで妥協ボムを使用。4面ボスでも追い込まれて1ボム使用。超弾速の2-5を2600HITで繋ぎ切って置物前で17億強(残6ボム1)。で、残1でクリアして17.96億(うろ覚えだけどたぶん)。たった300万点だけだが何げに自己ベスト更新。でも自己ベストなんかよりも、今回のプレイで、20億の壁が思っていたよりも低いらしいということが分かったのが最大の収穫だった。「1-4全繋ぎ&1周8億以上」と「2-4ボスまでフルマキシマム」ができなくても問題ないということであれば、私のような基礎能力の低いプレイヤーでも20億というのは普通に実現可能な数字だ。

 午後2時頃、待ち合わせ場所である秋葉原駅へ。みんくりさんは以前会った時よりも服装とか髪型が格段にお洒落になっていて、ちょっとびっくり。ただ本人は別に意識している訳ではないそうで。久しぶりの秋葉原ということで、まずはみんくりさんが未だ行ったことのない Cos-Cha へ。私はペペロンチーノを、みんくりさんはオレンジジュースを注文。ペペロンチーノは麺以外の具がまったく入っていないしオレンジジュースは一杯600円だしで、この店の食事は相変わらず割高。1時間ぐらいお喋り。主に実体験に基づく巫女服の構造についてとか。土方さんからの受け売り知識である、巫女服は胸のある女性の方が形が崩れにくい、という話とかしてみたら「それだと那美さんはたいへんそうですねー」とか返されたのが可笑しかった。

 一時間ほどお喋りした後、せっかくの機会なのでということで同ビル4階のメイド漫画喫茶 Laplace へ移動。店内に入るとメイドさん(ねこみみ付き)のお出迎え。とりあえず二人並びの席に付いた後、みんくりさんは漫画を調達に。私の方は、さてどんな口実で備え付けの“呼び鈴”を鳴らそうかと思案。ちょっと考えて、レジに「プリントアウト希望の方はメイドをお呼びください」とか書いてあったことを思い出し、それならばと備え付けのPCで桶狭間古戦場とかその近辺の史跡のマップを検索してプリントアウトしてもらうことに。ただ、店に入る前は呼び鈴を鳴らすのを楽しみにしていたのだが、実際にその場にいてみると、漫画喫茶という場所柄店内がおそろしく静かなので、ちょっと気が引けてしまって控えめにしか鳴らせなかった。まあそれでも結局なんだかんだで二回ほど呼び鈴を使用したのだが。それからこの店についてちょっと触れておくと、普通の漫画喫茶はドリンク類はセルフサービスということになっているが、このラプラスではドリンクはメイドさんが持ってきてくれる。具体的には、メイドさんが常時――もちろん煩わしくない程度に――店内を巡回していて、コップなりカップなりが空になっているのを見るとメイドさんが傍に来て「おかわりはいかがですか?」と訊ねてくるという案配。このサービスは自分は席に座ったままで漫画を読むことに専念できるメリットがあるのと、さりげにプチご主人様気分を味わえるのが素敵。ふと横を見るとみんくりさんはもしかしてヴァンプ[橘裕]の3巻を読んでいた。このシリーズはまだ読んだことがなかったとのことなので、知る人ぞ知る4巻収録の名作「贖いの扉」を薦めてみたら、思いの外気に入ってもらえたようで、内心にんまり。一時間半ほどまったりと過ごしてから外へ。

 とらのあな二号店へ。みんくりさんはシャーリーとヴァンプ4巻を買っていた。Cos-Cha で「シャーリーっていうメイドさん漫画があるんですが、この漫画の何が素晴らしいって、13歳のメイドさんがフレアスカートの裾がぶわっと広がるのに感激するっていうシーンがあるんですが、森薫って人はこの描写だけに3ページ以上も使ってるんですよ!!」と力説した甲斐があったというもので。それから店を出てひよこへ行って相変わらず「CLOSED」なのにがっくりしつつ、行くあてもなくぶらぶらと歩きつつお喋り。ジャグリング(大道芸?)とシューティングゲームは、膨大な反復練習で技(パターン)の精度を高めるしかない、という点で意外と似ている、とか。夜7時半ぐらい、一旦秋葉原駅まで行ってみるが、ありがたいことにまだ時間は大丈夫とのことなので、駅前(?)の古炉奈へ。お会いする前は、さすがにこの時期にとらハの話題はもはや難しいだろうと思っていたのだが、どうしてどうして、夜10時ちょい前に店を出るまで、みんくりさん主導で延々ととらハ談義。特に印象深かったのは、美由希シナリオ以外では恭也の“妹離れ”がちゃんと描かれていない、という意見。“御神の剣”に囚われている高町恭也の解放がしっかり描かれるのは美由希シナリオだけなのだが、恭也が主人公である以上、本当は他のシナリオでもこの解放はもっとちゃんと描かれるべきだったのではないか、とか(ちょっと自信ないのですがそういう要旨で合ってますよね?>>みんくりさん)。この席では私はどちらかというと聞き役だったが、でもいつになく充実した時間だった。私の方は、途中、とらハ絡みでSNOWとClover Heart's を薦めてみたり。「SNOWとClover Heart's はとらハシリーズの遺伝子を正しく受け継いでいる作品なんですよ」とかそんな感じで。

 午後10時頃。
 そろそろ帰りの電車が心配だとのことで、お別れすることに。

 帰り際にみんくりさんにおみやげ(Transaction_One /都築氏の冬コミ新刊)をもらって、私は感激のあまり平服して(嘘)、次回にお会いする機会に期待しつつ、改札前でお別れ。

 私はそれから一路名古屋へ。


 名古屋旅行【前半】 2003年12月31日(水)午前

 秋葉原を出たのが夜の10時ちょっと過ぎぐらい。それから国道1号線をひたすら走って途中車内で仮眠を3回ぐらい取って、翌朝9時ぐらいに名古屋手前まで到達。早瀬さんには「到着はおそらく午後になる」とメールでお知らせしていたので、あまった時間を利用して私は個人的趣味で史跡探索などを。以下写真付きで簡単に。

 桶狭間古戦場跡は国道1号線沿いに案内板が出ているので簡単に分かるのだが、鷲津・丸根両砦は見つけるのにちょっと苦労した。一応メモ程度に書いておくと、鷲津・丸根砦というのは織田信長が大高城を牽制するために築いた砦で、大高城からかなり近い位置にある。従ってに両砦を探すためには、1号線から南にちょっと行ったところにある大高駅をまずは目標物にするのだが、大高駅の入り口は南側しかなくて北側からではどこが駅なのか分からないので、そこでちょっと戸惑うかもしれない。ちなみに自分で行ってみて初めて気づいたのだが、鷲津砦と丸根砦はかなりお互いにかなり近く、歩いて10分程度で行き来できる。また桶狭間(田楽狭間)から鷲津・丸根両砦も意外と近い。逆に、清洲城&熱田神宮と桶狭間の間はかなりの距離がある。各場所の距離が実感として分かってみると、今川義元が桶狭間で一息付いたのもごく自然なことだと思われてくるのが面白い。清洲城は現在の名古屋城よりもずっと北にあり、織田信長が最終的に奇襲を決意し号令を発した場所である熱田神宮(これについては異説もあるようだが)ですら、桶狭間からはあまりに遠いのだ。普通に考えればそんな遠距離からの動きが今川方の警戒網に引っ掛からないはずはないだろうし、まして織田軍との戦力差を考えれば、今川義元が油断したのも無理からぬことと思えてしまう。清洲城は名古屋城築城時に廃城になりそのまま放置されていたこともあり、現在では土塁と石垣がわずかに残るのみである。清洲城址の川向こうには望楼型(※)天守閣が建てられているが、これは近年になってから再建されたもので、城跡というよりは資料館とでも言った方が正しいようだ。

 (※)望楼型天守というのは、館の上に望楼(櫓)を付け足したような形状のもので、天守としては古い形式(現存はしていないが望楼型天守の最も美しい例といえば安土城だろう)。築城技術が発展するにつれてこの形式は廃れ、代わりにビルディングのような構造を持つ層塔型天守(現存している物で言えば、名古屋城や大阪城など)が主流になる。

 余談ながら。
 熱田神宮は信長塀を見るために行ったのだが、途中社務所を見てみたら巫女さんがたくさんいて眼福だった。わざわざお守りを買ったのは言うまでもない。


 名古屋旅行【後半】 2003年12月31日午後〜2004年1月1日夜

 午後2時すぎ、早瀬さんの携帯へ連絡を入れて捕捉してもらい、まずは食事をということで名古屋駅ビル内にあるラケルへ。こちらはオムレツ・オムライス専門店だが、大きなフリルの付いた、素朴な感じの可愛い制服のお店としても(一部では)有名。オムライスをぱくつきつつ、巫女服の構造なんかの話を延々と。それから、個人的にラケルのサービスで良いと思ったのは、水が大きなグラス(ポット?)に入って予めテーブルに用意されていること。私は食事の祭に割と水を飲む方なので、こういう風に好きな時におかわりできるのはたいへんにありがたい。あと、ラケルの食器は“不思議の国のアリス”のデザインが入ったものが使用されている。明るすぎない店内に、素朴な制服に、アリス柄の食器に、とイメージの統一がちゃんと図られていて、非常に良い雰囲気を作り出している。でも我々の話題はと言えば巫女服萌えなのだが。

 ラケルを出て適当に道を歩いていると、名古屋駅近辺は実は意外と駐車場料金が安いことが判明したので、確認できた範囲で一番安い駐車場に車を移動。秋葉原辺りでも今は一時間400円ぐらい取られる(新宿辺りだと一時間500〜600円のところも)のだが、私が利用したところは昼間が一時間300円で夜8時から翌8時ぐらいまでが一時間100円と、東京と比べると破格の安さ。車を預けた後、メロンブックスで同人誌を漁って、ちょっとだけゲーセンにも寄って、それから今晩の宿泊先である早瀬さんの部屋(ワンルームマンション)へ。

 夜はまったりと。炬燵にもぐりつつ早瀬さんの部屋の本をあれこれ漁って拾い読みして、それから早瀬さんお手製のキムチ鍋を食べて具がなくなった後はご飯を入れておじやにして食べて、無目的にテレビを眺めて突っ込みを入れたり笑ったり。観ていた番組は、アポロの月面着陸は実は嘘だった!?とかそういう類のもので、まあやっていることは某MMRといい勝負なのだが、笑えるという意味ではエンターティメント性は高いと言っても良かろう。いずれにしても私としては、Clover Heart's をやったばかりということもあって、大晦日をこんな風にお約束的に過ごすことに密かに感動していた、ということは告白しておきたい。冗談抜きで、こんな風にぼけーっとテレビを見ながら何も考えずに大晦日の夜を過ごすなんてことは実家を離れて以降はたぶん一度もなくて、それだから、こういうのは実に心に染みた。あんまり大袈裟に言うと胡散臭くなるかもしれないけれども。余談ながら、クロハをやっていると、一緒に食事をするとか、おはようを言う相手がいるとかいう程度のことが、本当はすごく幸せなことだったのだということにいやが上にも気づかされる。普段は意識しないけれども、少なくとも一人暮らしをしている限り、朝起きた時に誰かにおはようなんて言う機会はほとんどないのだ。この日は午前1時すぎぐらいに就寝。

 ***

 朝10時半起床。早瀬さんはもっと早く起きていたようだが、私が前日からほとんど寝ていないことを知っていたからか、ありがたいことに起こさないでいてくれたようで。身支度を済ませて車を駐車場から出し(この駐車場は安い代わりに時間制限がある)て別のところに泊めなおして、それから地下鉄に乗って大須へ向かい、今回の旅行の主目的である M's Melody へ。午前12時前ぐらいの時点で既に10人程度が順番待ちをしていたので、まずは予約を済ませるべく入り口の巫女さん(注:ウェイトレス)のところへ。

 お帰りなさいませ、ご主人様。





 ………破壊力抜群の挨拶に頬が緩みそうになるのをなんとか堪えつつ、人数と名前を伝えて行列最後尾へ。
 30分ぐらい待ってようやく店内へ案内される。

 店内は全体的に白いイメージを基調としたデザインになっており、その点では秋葉原の某メイド喫茶と同じなのだが、雰囲気の作り方はこちらの方が段違いに上手くて、某所のようなチープさはほとんど感じない。二枚掛けのテーブルクロスに眩しくない程度に太陽の光が差し込んでくる様子は清潔感溢れていて感動的ですらあるし、棚に陶器の人形が並んでいたり、壁に蝋燭を模した電球が備え付けられていたり、巨大なアンティークオルゴールが置いてあったりと、小道具も効果的に用いられている。

 メニューを選んだら、テーブル備え付けの呼び鈴で巫女さんを呼ぶのだが、ここでまた衝撃が。
 普通の店なら注文を取りに来る時は「ご注文はお決まりでしょうか?」みたいな感じであるのに、

 お呼びになりましたでしょうか? ご主人様?





 ………もしかすると知らない内に頬が緩んでしまっていたかもしれませんが不可抗力です。

 私は無駄に気が小さいせいか旅先では食が細くなるのだけど、今回は前日にしっかり寝られたのとお店の雰囲気が良いこともあって、美味しく食べることができた。そういえば、早瀬さんによるとこの店では女性のお客さんの場合は「ご主人様」ではなくて「お嬢様」と呼ばれるのだそうで。それはそれで、というか、なんかすごく聞いてみたい気が。

 ***

 昼食を済ませて戻る途中で商店街のアーケード出口付近に目をやると、ちょっと広くなっているスペースに派手な赤いスーツを着た大道芸人がいて、どうもジャグリングショー(?)が始まりそうな雰囲気だったのでしばらく見物することに。今回観ることができた大道芸は、中国独楽を使った技色々、ナイフを使ったお手玉各種(お手玉しながらリンゴを食べるなんてのも)、それから極めつけは、不安定な台の上でバランスを取りながら火の付いたバトンでお手玉をしたりとかも。しかし技自体の巧さもさることながら、このショーの真価は芸人のエンターテイナーとしての手腕にこそあったと思う。特に印象的なのは、技が失敗しても全然気にしないでその失敗すらも巧みな言葉回しで芸にして笑いを取りに行くような姿勢があることで、ジャグリングの技すらあくまでも観客を愉しませるための手段にすぎないとでもいうような、溢れんばかりのサービス精神があったからこそ、私や早瀬さんを始めとする多くの観客から笑いと感嘆の声を引き出すことができたのではなかったろうか。私は実はこういうショーを生で観るのは初めてのことで、そういう意味でも貴重な経験だった。

 とらのあなに寄って同人誌を物色してから帰宅。
 夕方過ぎぐらいには名古屋を発つつもりだと告げると、それならばということでここには書けないようなお土産を色々ともらってしまった。

 今回、早瀬さん宅で一番受けたのは「リアル鬼ごっこ」ネタ。
 どうやらそういうタイトルの小説があるらしいのだが、プロの物書きとは到底思えないような壊滅的な日本語が物議を醸したものらしく、例えばネットで検索を掛けてこの辺りとかこの辺りなんかを読んでみるとその凄まじさがよく分かる。エロゲ界隈では、お前の感じている感情は〜なんて言い回しが一時期流行ったが、この小説での日本語の使われ方ははっきり言ってそんなものの比ではない。

 午後7時すぎ、早瀬さんとさよならをして私は一路群馬へ。
 往きと同じく国道1号線をひたすら走り、路面凍結の不安があったので念のため箱根越えを避けて熱海の方に迂回してちょっと迷ったりしつつ、午前7時ぐらいに群馬到着。 


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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