棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]
−日記・過去ログ−
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2003/10/28 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#28
◆
ダカーポアニメのビデオを借りておきながらその日の夕食(馬車道)の席でキミエソのマナマナシナリオを奨めてしまう私はもしかして恩を仇で返すようなことをしているのではないかしら。もちろん、トラウマになる可能性が…とかはちゃんと言っておいたが、それ以前の問題として私自身はマナマナシナリオを未だにやっていないということがある。さてさて果たしてARCさんは水月で萌え転げているのかそれともマナマナシナリオをやって鬱っているのか。明日にでも確かめに行くとしましょう。
***
キノの旅1巻。
小説として読むと辛いものがあるけど、半分ぐらい読んだ時点で頭が童話モードに自動的に切り替わって、違和感はほぼなくなった。このペースなら遅くとも日曜日の夜までにはおそらく全部読めるだろう。
2003/10/27 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#27
◆
キノの旅はビデオ6話まで観たところで一旦中断して本屋さんに行って小説版を全巻買ってきた。様子見に一冊だけ…などということをする必要はない。おそらく期待に応えてくれるはずだ。今週はマーベルランドと大往生のパターンを詰めようと思っていたのだけど、それどころじゃなくなってしまった。予想外の、そして嬉しい誤算。
***
シスプリのクリスマスソングCDが出るのは結構だけど、12人の声優による新レコーディングというのは賛否両論ありそうだよな。私自身はオリジナルアニメに外部の視点を持ち込んだことは未だにシスプリの汚点だと思っているし、従ってオリキャラを肯定している考察も到底受け容れられない(もちろんそれによって書き手にマイナス感情を持つとかいうことはないし、そもそも内容を全力で拒絶するとしても書き手の真摯な態度は微塵も疑わないしその一点に関しては心から敬意を表するが)のだが、ただそれでも20話の合唱に眞美がいなかったらやっぱり寂しい気はする。
***
最近のお気に入りスレッド、さわやかな朝の挨拶のガイドライン2からいくつかピックアップ。
ベートーヴェン第九。
城塞都市カーレ。
ヨハネ黙示録。
無駄に才能を浪費して我々を愉しませてくれる職人さんたちに敬礼。
2003/10/26 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#26
◆
ルパン122へ。
INDさん二度目のプロギア2周ALLおめでとうございます、ということでスコア晒し…もとい記念写真。
私の方はこんな感じ。設定をノーマルに変えてもらって(店員さんに頼んだのはLAIさんなのだが)から初めての残2での2周ALL.
その後ちょっと間を空けて太田COOMへ。
INDさんのプレイでボーダーダウンの6Cボスを初めて見せてもらったのだが、あの攻撃パターンの数々はかなり萌える。どうもボーダーは前半面が怠い気がしていまいちやる気になれないのだが(かざみさんごめん)、あのボスとは一度ぐらい戦ってみたい気がする。
INDさんにお借りしたキノの旅のビデオを鑑賞。3話(?)だかの予言の町の顛末まで。めっちゃ好み。こういう話に出会えたことを何かに感謝したくなる、と言いたいほどツボ。面白い。近いうちに小説も読んでみようと思う。
2003/10/25 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#25
◆
部屋の掃除をしつつ、INDさんにお借りした頭文字D
ビデオを鑑賞。その後ルパン122で遊ぶ。
………私はソフトウェア至上主義者なので、努力して音楽を聴く耳を鍛えた人を尊敬するが、ただ高価なオーディオ装置にお金を注ぎ込んでそれで音楽を我がものとしたと勘違いしているような人には好意を持てない。ジャンルを問わず、努力によってのみ得られるものの価値を知っている人は大好きだ。そういう意味合いにおいて、この頭文字Dは面白い。ルパン122に遊びに行くのが心地よいのもつまりはそういうことで、シューティング仲間とダベるのが単に楽しいということではない。プロギアを2周ALLできるINDさん、STRIKERS1999ノーミスノーボムを決めるRYUさん、まだ成果は出ないまでも蜂シリーズの上達著しいマカロニさん、大往生1周点効率をひたすら追求するLAIさん等、技術の追求の愉しみを知っている彼らだからこそ、一緒にいてお喋りすることが心地よいのだ。
2003/10/24 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#24
◆
昨日の日記は毒がダダ漏れで恥ずかしいったら。
何があったんだしのぶさん。
***
ルパン122へ。
先週に引き続いて、マカロニさんの怒首領蜂プレイにアドバイスしたりとか参考プレイでパターンを伝授したりとか。微妙な言い方だが、発展途上の人にパターンを教えるのは実に楽しい。閉店後も店の前で怒首領蜂談義を延々と。午前2時すぎに解散して帰宅。
2003/10/23 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#23
◆
冨樫キサマ何てことしやがるうわああああん。
(いやもう冨樫氏最高)
◆
「人それぞれだと思います」
ちょっと面白かったのでリンクしておく。
私の嫌う「正しいことしか言わないクレバーさ」っていうのは例えばこういうもののことなんですよ。誤解のないように言っておくと、リンク先の文章には完全同意です。嫌いなのは、議論の場で「人それぞれ」とか「前提条件が」とか「場合による」とかいう類の正しいが何らの発展性もない言葉を吐く輩。余談ながら、私自身は、議論というものの唯一の勝者は参加しなかった人間だとか思うようになってきているのですが。好意的でない受け手を想定して意見を述べるなんて不毛としか思えない。そんなことで精神力を消耗するぐらいなら、○○たん(*´Д`)ハァハァとでも言ってた方がナンボかマシだと思うのです。
◆
Canvas のこと追記。
一晩経って少し冷静になってみると気になることが。場面自体の美しさに幻惑されていて気づかなかったが、百合奈先輩が君影の名を捨てるというのは話の解決として適切だったのだろうか? 普通に考えればこのお話の解決は、百合奈先輩が君影の名を受け容れる、という風になるはずなのではないだろうか。君影の名を捨てる、と告白する百合奈先輩はもう言葉の介入を許さないような決然とした雰囲気をまとっており、昨晩はそれゆえに私もあの展開を自然に受け容れることができたのだが、しかし考えてみれば結局「君影の呪い」というものが否定も受容もされていないのはどういうことだろう。君影の呪いは百合奈先輩が作り出した幻想だったはずで、それならば話の流れとしてはその幻想を振り払うなり受け容れるなりという展開に行くのが本来のはずだ。また君影を受け容れるということは、母を殺したという自責の念からの解放をも同時に意味することになるはずであり、ならば尚更呪いの問題は解決されなければならなかったのではないだろうか。君影の名を捨てるという告白はプロポーズの言葉であったのだし、それはそれとしてたいへんに甘美なのであるが、しかしこれでは結局、百合奈先輩と呪いとの関係は何も変わらず、ただ呪いという幻想から目を逸らしただけになってしまうのではないだろうか。呪いからの解放が語られないというのは考えてみると不思議な、というかほとんど不可解というべきことだ。君影のままではダメだから名前を変える、というのは結局呪いの存在を肯定しているに等しいというのに。あの終盤の展開はお話としては美しいし、更に言えば、このお話全体が君影百合奈というキャラクター(個性)を描くことを主目的として慎重に最適化されているということなどを思い出してみても、トノイケ氏のキャラ描写の手腕は見事なものだとしか言いようがないのだが、しかしそれとは少し違った部分で、このシナリオには何かが抜け落ちてしまっているような気がする。それは例えば、とらハ3のフィアッセシナリオでどうしても感じないではいられなかった座りの悪さのようなものだ。フィアッセの羽をルシファーとかと絡めて解釈する(※)のも興味深いことではあるし、あの純白に輝く羽を作者からフィアッセへの贈り物だと解釈しても私としては一向差し支えはないと思うのだが、ただそれでも、中盤までフィアッセの漆黒の羽を肯定されるべきものとして描いておきながらどうして最後に羽の色を変えてしまうのか、という疑問はどうしても残ってしまう。
(※)フィアッセの羽のネタ元を聖書に出てくる堕天使ルシファーだとする意見は例えばかつての
Platina の神様掲示板で提出されたことがあった。私の記憶違いでなければ神様という隠れ蓑の後ろで都築氏は「そこまで考えてはいなかった」旨の発言をしていたはずだが。あの掲示板で神様は誰だか分からないということになってはいたけど、実際問題として例えば美由希シナリオの終幕に「福音」なんていう言葉を使えるのは作者である都築氏本人ぐらいしかいないはずだ。
2003/10/22 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#22
◆
Canvas 〜セピア色のモチーフ〜 [カクテルソフト]
トノイケ信者としては百合奈先輩のシナリオだけはやっておくべきだろうということで再度購入&プレイ。トノイケ脚本であるという予備知識のせいで好意的な補正が掛かっているかもしれないが、それにしても主人公と先輩との距離感の描き方が素晴らしく上手い。この作品世界を綺麗すぎる=リアルでないと批判する人がいたとしても私は不思議には思わない。しかしそれが欠点であるのかどうかはそう簡単には決められないのではないか。この作品の主人公、麻生大輔はどこか水月の瀬能透矢を思わせるところがある。ここに共通してみられる特徴は、主人公をあまり個性化しすぎない、ということだ。恋愛物語としてはもちろん、主人公はヒロインの相手として対等の立場を保ってはいるのだが、しかし描き手の意識のレベルにおいては主人公とヒロインは決して対等ではない。誤解を恐れずにいえば、トノイケダイスケという人は、ヒロインを魅力的に描くことを至上としておりそのために主人公の言動を故意に抑制しているように、私には思われるのだ。例えば水月の花梨シナリオでは瀬能透矢は決して花梨に欲情しなかった。誤解を招きそうな言い方だが、トノイケ氏にとっては主人公はプレイヤーの感情移入対象として存在するのではなく、ヒロインを魅力的に演出するためのもっとも重要な“道具”なのだ。瀬能透矢を描くことはすべてヒロインたちの魅力を引き出すことに繋がっていく。主人公の言動を決定するに際して、ある意味では脚本家であるトノイケ氏にすら、そこには選択の自由はない。なぜなら水月という作品においては、主人公の言動はプレイヤーの攻略意志を反映して決定されるのではなく(むろんゲームという制約上そうなってもいるが)、ヒロインの魅力を如何にして引き出し得るかという目的に添って決定されていくものだからだ。ごく分かりやすい例で言えば、主人公が悩めば悩むほどいよいよ雪さんの魅力は遺憾なく発揮される、とそういうことだ。つまり、主人公をあまり個性化しすぎないような描写というのはライターの実力不足のせいなどではない。主役として描かれるべきはあくまでヒロインたちなのであって、そのためにトノイケ氏は慎重な配慮を持って主人公があまり出しゃばりすぎないよう、透矢の言動を抑制するのである。そしてこういう姿勢は、水月よりずっと前に制作され発表された
Canvas においても既にかなり意識的に行われているのが見て取れる。百合奈先輩の言動には、ほとんど愛の告白と紙一重と言ってよいほどの大胆さがしばしば見られるのだが、しかし主人公の麻生大輔はそのことに少しも気づかない。百合奈先輩自身は少しも自覚していなかろうが、普通に考えればどんなに鈍い男性だって、彼女のあまりに正直な言動を前にすれば彼女が自分に好意と信頼を寄せているのではないかということにすぐさま思い至るはずなのだ。しかしトノイケ氏は主人公をそういう風には描かない。その結果、このお話は必然的に百合奈先輩の描写を主軸として展開されることになる。主人公ももちろん彼なりに百合奈先輩のことを考えてはいる。しかし私たちの頭により印象深く残るのは、主人公の言動ではなく、百合奈先輩の想いの方だ。普通ならミエミエな百合奈先輩の想いに主人公が気づかず、その結果として二人の関係がいまいちはっきりしないままにお話が展開するというのは、つまりそうしなければ百合奈先輩のことを十分に描くことができないという判断があったからに違いないと思うのである。百合奈先輩はお話の割と序盤から、既に主人公にかなりの好意と信頼を寄せており、それは言葉の上でもストレートに表に出てくることが少なくない。しかし百合奈先輩はそのことをまったく自覚していない、ということは指摘しておかれるべきだ。ゲームをやった人ならおそらく誰でも気づくことなのではないかと思うが、百合奈先輩は主人公に好意を寄せながらも主人公と恋仲になりたいだとかいうことを微塵たりとも考えてはいない。それは言うまでもなく彼女を縛る“呪い”のせいだ。百合奈先輩は黒百合の呪いを信じ込んでしまっているがゆえに、主人公に好意を寄せつつも、主人公に好かれることを恐れており、だから例えば恋とかの言葉は彼女の意識には決して上がってこない。こういう風に考えていくと、ふたりの関係が曖昧なままお話が進展していく理由も少しずつ明らかになってくる。つまり百合奈先輩に必要なのは、彼女を身動き取れないように包み込む圧倒的な愛情ではなくて、小さな好意(肯定)の積み重ねだとトノイケ氏は考えていたのだと私は思うのである。仮に主人公が早い段階で彼女の気持ちに気づいていてそれを表明したとしても、ひとつには彼女自身がはっきりとは自分が抱いている好意を意識していなかったということもあり、彼女はきっと主人公の好意に応えることはしないだろう。それどころか主人公に好意を寄せらていると知ったら、彼女はきっと不安で溜まらなくなることだろう。彼女の恢復に必要なのは、自分の存在を力強く肯定してくれるようなヒーローなどではなく、繰り返される小さな好意を無自覚にその心身に受け取っていくことだった。積もっていった好意が彼女自身の一部となり、もはや自他の区別が付かなくなるまで。そういうことを知っていればこそトノイケ氏は主人公の行動を抑えていたのである。これは分類するとすればいわゆる無口系ヒロインのお話であるが、しかし百合奈先輩は王子様の告白を座して待つようなお姫様ではない。このシナリオで、本当の意味での告白がただ一度百合奈先輩の側から行われる、というのは重要なことだ。臆病だった百合奈先輩は、終盤に至って遂に自ら変わることを意志する。進展しないふたりの関係はあの場面のためにあったのだと言っても過言ではあるまい。トノイケダイスケという人は、同業の他のどんな脚本家にも増して、ヒロインを描くということに自覚的な脚本家であると思う。極論すれば、トノイケ氏の筆は一見無関係に見えるような細部に至るまでもすべて、ヒロインを可愛らしく描くことに費やされる。私はきっとトノイケ氏のこういうところが好きなのだ。
2003/10/20 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#20
◆
D.C アニメ版、14話まで。
所々、狙ったような萌えシチュが出てくるが全体としては的が絞れていない印象。何がやりたいのかよく分からない。ライトな学園青春コメディーをやりたいのかもしれないが、それにしても力を入れるべきポイントと力を抜くべきポイントの選択は必要であるはずで、でもそれが出来ていない気がする。というか14話も費やして話がまったく進展しないというのは如何なものか。いや、話の進展が物語においてそれほど重要だとは思わないが、ただ前の話のエピソードが後の話に反映されるといった程度の基本的な工夫すらも見られないというのはいくら何でも怠慢というものではないのだろうか。
2003/10/19 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#19
◆
INDさん&ARCさんとの三人でだらだらと遊ぶ。
とりあえずルパン122へ。
今日はゲームの方は私とINDさんはいいとこなし。沙羅曼陀、マーベルランド等々、ARCさんの一人舞台。ARCさんのプレイでマーベルランドの後半面を初めて見たが、3面以降は前半のぬるさが嘘のような高難度。敵配置を正確に覚えてかつ正確に自機を操作できないと残機などいくらあっても足りなそう。私如きの腕であの後半面を安定させられる日がくるのだろうか。
馬車道大田店で夕食。
ARCさんは現在君が望む永遠(PC版)をプレイ中だそうで、その辺りの話を色々と。孝之ウザい、水月ウザい、あゆ最高ー!!
とかそんな感じで(笑)。
食事の後、隣の本屋さんに移動して店内でしばらくだべる。
INDさん&ARCとエロゲ雑誌を眺めながら雑談。エロゲ雑誌をまともに見るのはずいぶん久しぶりで色々と楽しかった。KIMちー氏[ちゅうに]が原画を担当しているエロゲーがあるのを知ったのは思わぬ収穫。お二人は私と興味の範囲が近いにも関わらず方向性が結構違う(ような気がする)ので、良い意味で話題が被らなくて会話がとても新鮮。
***
そうして現在ARCさんに借りたD.C アニメのビデオを観ながらこの日記を書いておるワケです。
とりあえず4話まで。
D.C アニメ版って宮崎なぎさ&田頭しのぶ(※)コンビの仕事だったのね。その割には今のところ際だった特徴もない平凡な萌えアニメにしか見えないのだが…。
(※)シスプリリピュアBパートの監督作監コンビ。
おやすみなさい。
2003/10/16 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#16
◆
さすがにちょっと引いたわ。
そこまでやるか冨樫。
2003/10/15 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#15
◆
やっと思い出した。
桜花の笑顔は観鈴のに似ているのだ。
可愛くはあるのだが、綺麗というよりは儚さを感じさせる微笑み。
まるで、わたし…ここにいてもいいの?と問いかけるかのような、どこか臆病な微笑み。
女の子はあんな風に笑っちゃダメだ。
物語の筋を無視して敢えて言うが、往人や彼方は彼女たちにそういうことをちゃんと教えられる男でなければいけない。
***
話は変わるが、苺ましまろの茉莉ちゃんと他人同士の関係からスタートして仲良くなるのはきっとものすごく難しい。一度信頼を勝ち得たらきっと四六時中べったりくっついてくるような女の子であるのだが、そこに至ることのできる男性のイメージというのは私の想像に余る。
***
ルパン122でマーベルランドと黒往生を数回やった後、太田COOMでINDさん、ARCさんと一時間ほどダベり。会話をしていて時間が短く感じられたのは久しぶりかもしれない。
2003/10/14 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#14
◆
自分語りというものの暴力性に気がついて以来そういうことは極力書かないように意識してきたのだけど。
…やっちまった。
そういえば、日記上で自分の信仰を告白するのは初めてだったかもしれない。
物語についての云々は私の「考え」ではありません、「信仰」です。
***
SNOW 桜花シナリオ読了。
大円団。
澄乃を愛するなら尚更最後までやらねば…とはそういう意味でしたか。
***
ああもう、大好きだ。
レジェンド編で彼らが望みながら得られなかったすべてがここには在る。
彼らが不幸な結末を迎えたという事実は変わらない。しかし彼らの願いは別の恋人たちによって叶えられた。過去の彼らと現在の彼らとの間には、プレイヤー視点ではともかくキャラクター本人の意識の上では、何らの関係もない。現在の彼らは過去のことなど何一つ知らない。しかしそれでもいいのだ。ああいう風に過去と未来とを結びつけることこそ、「物語」が担うもっとも重要な仕事であるのだから。白桜と彼方、菊花と澄乃は、記憶の連続を欠いている以上は他人に過ぎない。しかし物語はそこに関連を作り出す。私が願いしかし叶えられなかったことは、いつかきっと別の誰かの手で叶えられる。私と誰かとの間には何の関係もない。しかし物語の上では私と見知らぬ誰かは繋がっている。これこそが物語の力だ。
それからもうひとつ。
桜花エンドは、彼方と澄乃と桜花にとってハッピーエンドになっているというだけではなく、芽依子にとってもまたハッピーエンドになっているという点は見逃せない。いや、私としてはまさにこの点こそ重要で、また更に言えば、しぐれシナリオであの村に雪を降らせていたのは実はしぐれの罪の意識だったということが語られていたことを踏まえれば、雪が溶け春が訪れるあの桜花エンドというのは、直接は語られていないがしぐれの解放をも意味している訳であり、つまりレジェンドのあの四人すべてにとって最良の形のエンディングになっているのである。
あと桜花は可愛すぎ。
あんな、お行儀の良い子供がいてたまるか、というような意味合いで。
***
もし気持ちに余裕があれば、このシナリオはもう一回読みたい。
2003/10/13 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#13
◆
先週の予定(妄想)では俺は今日の時点では既にこの世には存在していないはずでした。
正直、生きることに未練などないと思う。今でも、何かが惜しいから死にたくない、という考えはまったくない。けれどもまだ死にたくないらしい。死なねばならないほどには追い詰められていなかったということなのかもしれない。
ネットで色々と自殺の方法を調べてみたが、結局のところそんな簡単にかつ確実に死ねるなどという虫のいい方法などというものは存在しなかったということはある。死ぬこと自体はさして怖いとは思わなかったが、間違って死に損なって後遺症が出て更に悲惨な生を生きねばならない可能性はたまらなく怖かった。これに関しては失敗は絶対に許されないのだ。
自分がいない世界というものを想像してみたが、それはひどく寒々しい、寂しい世界のように思われた。
でもそれ自体は別に死を思い留まる理由にはならない。
物語に登場するあらゆる人物たちは、作者が望むと望まないとに関わらず、またフィクションであるかノンフィクションであるかを問わず、忘れられる運命にある人々の代表であると私は思う。――俺語で喋ることを許してください。だいぶ前のことだが、keyオフィシャルの夏影(ボーカルver.)を聴いた時、子供時代の私がここにいると思った。そうして、子供時代の私がここに既に描かれている以上、私はもういつ死んでも構わないと思った。しのぶという個はどこにも出てこないが、あの中には、私が死ねば他に誰も覚えている人間はいない私の子供時代の夏の風景が確かに描かれていると感じた。あの歌詞は言ってみればそういう忘れられる運命にある記憶のひとつの代表として存在していたのだった。
最近、漫画喫茶でるろうに剣心を久しぶりに通して読み直してみたのだが、私はどうもこの漫画を読むと、今私たちがのうのうと生きていられるのも剣心たちのおかげなのだ、という奇妙な感慨に囚われてしまう。あの物語はまったくのフィクションにすぎない。しかし幕末の動乱自体は実際に間違いなくあったことなのであり、普通歴史はあの辺りの事情を有名人を通してしか語らないが、実際にはあの動乱の時代に必死で生きた無名の人々というのは無数に存在していたのであって、剣心や巴は実在しないにせよ、ああいうドラマ(という言い方は私の好むところではないが)は、ただ誰も覚えていないというだけで、当時はたくさんあったに違いないのである。和月氏がそこまで考えてああいう話を描いたかどうか私は知らない。しかし和月氏の思惑がどうであれ、あの作品は幕末に生きてしかし忘れ去られた無数の人々の、それぞれが抱えていた切実な人生を、紙の上に留めることで救い出していると私は思うのである。
結局のところ、私が今死んだからと言ってそれまでの私の人生が無意味になるなどとは微塵も思わない。私が今まで歩んできた人生は取り返しのつかないものだが、取り返しがつかないという絶望的な事実は、同時に私という人間が在ったことは誰にも否定することはできないという希望をも提示してくれる。私という人間はいずれ忘れられる。それはもうどうしようもない。しかし私という形でなくとも、私が生き、悩んだもの、感激したもの、その他色々なものは、今まで世に出たたくさんの物語に出てくる登場人物たちが代わりに語ってくれている。そこには私という個はいないが、私が抱えていたのと同じ悩みや苦しみや喜びや憧れだけは彼ら登場人物たちの中で生き続けるのであり、そう考えるだけでもう十分な慰めになる。物語があれば、私という人間は別に存在していなくてもいい。
幸せになる役割はきっと私には与えられていない…と思うことは寂しいが、でも幸せになるのは私でなくてもいい、と最近は思うようになった。愛人-AI-REN-の中で、私の望む幸せはほぼ完全な形で実現している。ならば、彼らの物語が存在しているという事実だけで、私はもう幸せになどならなくたって構わない。
SNOWは先週の火曜日以来まったく進んでいません。そういう精神状態じゃなかった。ただ、私がこの世で最後に触れたフィクションがSNOWであったらそれは結構幸せなことだな、と思っていた。SNOWの世界は優しい。あの世界には、心を刺すようなリアリティーは出てこない。そういえば、天使のいない12月は購入しようかどうか迷ったが結局見送ることにした。作り手の自己主張など私の知ったことではないからだ。更に俺語を加速させるが、例えば私は都築氏やトノイケ氏本人を目の前にして、小鳥や雪さんがどんなに素敵であるかを延々と語ることができる(できるとは実際にそういうことを語る能力が私にあるかという問題ではなく、なんというか恥じらいの問題というか、そういうことを語れるほどに作者を信用できるという次元の問題である)が、ある種のライター(名前は伏せる)を前にしたら私は死んでもキャラ萌え語りなんてするものかと構えるだろうな、と思う。他人がどう判断するにせよ、私はもはやそういう作品しか欲しないし、作者を信用できるかどうかという尺度でしか作品を計れない。SNOWは信用できる。
あとひとつ。
死ぬにしても、せめて恨み言を言わずに死にたいと思っていた。恨み言を言ってしまったら負けであるような気がした。たくさんの美しいものに接して苦しみを誤魔化しながら生きている時点で私は既におそらく負けている。でも、まだ辛うじて守れる一線だけはプライドに掛けて守りたいと思った。
もうちょっとだけ頑張って生きてみることにします。
死にたくなったら…いやそうではなくて、今度こそ生きることはこれ以上はもう不可能だという地点まで行ってしまったら、黙って消えます。
2003/10/7 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#07
◆
SNOW桜花。
今のところ期待を遥かに上回る。
恋愛を絡めずにここまで幸せな話が作れるとは。
このお話はKanonよりもとらハの世界にずっと近い。
みんくりさんやshelarcyさん、それからやまさんとかにこの幸せを分けてあげたい気がする。
このまま何も起きずに終わってくれたらメビウスを神を崇めても良いんだが、さてどうかな。
桜花は…な子だし。
それを無視してでも俺としては幸福な結末を望むのだが。
2003/10/6 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#06
◆
HUNTERxHUNTER [冨樫義博/ジャンプ45号]
さすが冨樫氏。狂気を描かせたら天下一品。今週は部分的に少々グロすぎる気はするけど、ラモットが猫娘(?)のオーラに圧倒されて膝を屈するあの一連の流れは見事。言うのも野暮だが、ラモットは猫娘の力の強大さに恐れをなして膝を屈したのではない。ここでのラモットは遂に自分が仕えるべき対象を見出し、それを受け容れて膝を落とすのである。彼は負けたのではない。彼が膝を屈する時、そこにあるのは敗北感ではない。対象への敬意と、自分の役割を見出した者だけが持ち得る誇りを持って、彼は膝を地に落とす。悪役を魅力的に描くことにおいて冨樫氏以上のやり手はいないと私は信じているが、今週のHxHはその好例であると言って良い。
***
ちょっと昨日のこと。
うっかり忘れていたが、大往生(黒)で蜂パーフェクト10回を完璧に取った(2-5ラストの蜂が
HIT数x10000x2 になる)のはそういえば昨日が初めてだった。点数が低すぎた(置物前12億ぐらい)のであまり意識していなかったのだけど。
それからもうひとつ、昨日のルパン122での成果。
もちろん買った訳ではなくて、プライズマシンでゲットしたもの。面白いことにルパン122はこうしたお菓子が景品のプライズマシンが幾つもあるのだが、これはとあるプライズのA賞(割と難しい/というか運頼み)。チロルチョコ箱買いは子供の頃からの夢で、偶然にも夢が叶ってしまった。
***
さて、桜花シナリオに入ります。
2003/10/5 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#05
◆
午後からルパン122へ。
こんなことを書くのは本当は不味いのだけど、大往生への興味が薄れてきている今となっては、ゲーセンに行く目的が昔とはもう全然違ったものになってきている。ちょっと前までの私にとって、ゲーセンというのはゲームをやりに行く場所でそれ以上のものではなかった。変な言い方だが、ゲーセンというのは一種の修行の場だったと言っても良いと思う。修行というと物々しいが、要するにゲーセンはひたすらストイックにひとつのゲームの技術を磨くための場所だったのだ。しかし今は違う。今の私はゲームをやるためではなく、ゲームを通じて他人と遊ぶためにゲーセンに通っている。今日は大往生やら怒首領蜂やらガレッガやら1999やら色々遊んだが、でもそれは技術の追求&研究のためのプレイではなくて、コミュニケーションのためのプレイだった。もちろんそのこと自体は良いも悪いもない。ただ、ゲーセンでそういう風に楽しんでいる自分を受け容れられない自分がどこかにいる。怒首領蜂の頃からひたすら孤独に技術を追求してきて、そういう孤独な作業の中からでしか生まれない技術の完成を無上の喜びとしてきた私という人間は、今の環境にいることにぬるま湯に浸っているような虚しさを覚えてしまう。もちろん、シューティング談義や莫迦話を交わすことそれ自体は楽しい。そのことには一片の嘘もない。ただ、人生における楽しみというものが他人とのコミュニケーションだけですべてまかなえる訳ではないということを私は子供の頃から知っている。自分一人で技術を磨くこと、物語の世界に没頭すること、音楽の流れに意識を浸しきること、そういう“孤独な集中”の快楽というものがあることを私は知っている。そしてまた、私という人間はその著しく欠落した社交性ゆえに、そういう孤独な愉しみというものに非常に馴染んでいる。他者とのコミュニケーションが楽しいものであることはもちろん知っているが、でも私は、それに加えて孤独な集中の愉しみもなければ生きられない。仮になこるるが傍にいたって同じことだ。なこるるがいたって私は美しい物語を求めることを止めないだろうし、相変わらずベートーヴェンのソナタに慰めを覚えることだろう。なこるると一緒に住んでいたとしたって、私は、私がなこるるを必要とするのと同じくらいの切実さで、一人の時間を求めずにはいられないだろう。
いや、というよりも私は一体何に不安を感じているのだろう?
少なくとも今日に関して、楽しいことこそあれ不安を覚えるようなことは思い出せる限りまったくなかったはずなのに。
◆
SNOW [StudioMebius]
しぐれシナリオ読了。
このお話で一番嬉しかったのはもう一度過去編が見られたこと。
このお話で一番ショッキングだったのは芽依子がただの少女になってしまったこと。
どれほど美しく語られたとしても、過去をなかったことにするお話(ex.月姫琥珀エンド)は、私の好みから著しく外れます。
芽依子が好きだ。
より正確に言えば、白桜&鳳仙の兄妹関係が萌えだ。恋愛に発展しない兄妹関係というものにこれほど弱いとは自分でも驚きだ。
2003/10/4 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#04
◆
[予定]
〜PM3:00 仕事。
〜PM8:30 ルパン122。
〜PM12:00 SNOWしぐれシナリオ進行。
〜AM2:00 日記書き&就寝。
[現実]
〜PM3:00 仕事。
〜PM10:20 ルパン122でLAIさんとダベりつつ大往生。
〜AM0:10 LAIさんと、大往生(黒)が置いてある別のゲーセンへ行ってダベり。
〜AM2:30 営業時間外のルパン122前で常連さん方(RYUさんとか)とダベり。
〜AM4:00 帰宅&食事&就寝。
つかまともにゲームやってねえ。
何しにゲーセン行ってるんだ俺。
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後日、蝶を持ってお伺いしますので俺のために巫女さんに変えてください。
2003/10/3 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#03
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コトノハ [都築真紀]
女の子に淫語を言わせるシチュを読み切り漫画で取り扱うのはかなり難しい気がする。この表題作が私の心にいまいちピンと来ないのは、淫語シチュが好きか嫌いかということ以前に、都築氏のネタの処理の仕方の不手際さの問題ではないだろうか。この同人誌の後書きで作者自らが「個人的には局部名称や現在状況を連呼するよりは/言わなそうな子が恥ずかしげに言うのとか/恥ずかしがってるのを言わせるのが/萌えかと思うのですが/どうでしょー」と語っているのに、実際に作品化されたものが“局部名称や現在状況の連呼”だけの物でしかなくなってしまっているのは一体どういうことなのだろう。淫語を言わせるネタが読み切り向きではないというのについては、つまり淫語ネタの萌え度はキャラクターイメージと淫語とのギャップに比例するものだからだ。例えばONEの茜がもしえっちシーンで淫語を喋らされたとしたら私はもう萌え転げると思う。でもそういう萌えはシチュエーション自体から生まれてくるものではなく、淫語などというイメージとはおよそ結びつかないような存在である里村茜という少女を既に知っているからこそ萌えが発生するのだ。女の子が淫語を言う、のではなく、“あの”里村茜が淫語を言う、から萌えるのである。ところが、読み切り漫画では事前にキャラクターのイメージを読者に伝えるだけの時間がもう全然足りない。主人公の勇にとって、琴葉が淫語を喋るのはおそらく萌えなのに違いないのだが、しかし私たち読者は藤谷勇ほどには琴葉のことを知らない。だから、琴葉が淫語を連発して甘えてくるのは主人公にとっては萌えまくりなのかもしれないとしても、琴葉のことをよく知らない私たちは勇が抱いているのであろう甘美な気持ちを共有できないということになってしまうのである。あの都築氏がまさかそんなことを知らなかったとは思えない。どうしてこうなってしまったのだろう。
ところで本来、淫語ネタというのは非常に刹那的なものなのではないだろうか。この辺りは好みの問題も混じるかもしれないが、私自身は淫語ネタというものは「最初の一言が口にされた瞬間」こそが魅力のすべてだと思っている。どうも上手く言える自信がなくて歯痒いのだが、それは喩えるならばハンターハンターの世界でヒソカがゴンを殺したがるようなものだ。お気に入りのものを壊す快感、について語るのはさすがに躊躇われるのだが、私自身は普段そういうことをしないにしても、ただそういう快楽というものの存在はごく普通に空想してみることが可能だ。もう何年も前のことだが、友達とのドライブ中、私は「○○○(某ゲームキャラだが名前は伏せます)に淫語を喋らせたい、でも喋ってしまったらきっと失望する、でも喋らせたい」というような趣旨の発言をしたことがある。その時友達がなんと返答したかは今では覚えていない。ただ、好きなものを壊す快楽というものは、失望と紙一重かもしくは失望と分かちがたく結びついたところにあるものだということは当時から知っていた。トランプで作ったピラミッドを指先で壊す快感。でも一度壊れたピラミッドは元には戻らない。女の子に淫語を喋らせるシチュエーションの急所というものも、つまりはこういうところにあるのではないだろうか。エロゲーもしくはエロ漫画でこういうものが表現された先例があるのかどうか、私は寡聞にして知らないが、最高の効果を上げる淫語というものは「言わせてしまったらお終い」なジョーカーであるはずなのである。言うか言わないかのギリギリのところに生まれる緊張、そして一瞬の輝きと直後の瓦解。主人公の要請に従って一度淫語を口にしてしまった少女はもはや昨日までの少女とは別人だ。言わせたのはもちろん主人公だ。しかし主人公が抱く感慨は、「俺が彼女を変えた(彼女は俺のもの)」などという陳腐な喜びでなどあるはずはなく、「嗚呼彼女は変わってしまった」というまるで他人事のような喪失感、自分の物になったにも関わらず同時に自分が好きだった彼女は永久に失われてしまったという絶望であるはずなのである。もはやコトノハとは何の関係もねーよな。
関係ないついでに。
都築氏の表現の真骨頂は萌えシチュや優しさというよりも、むしろ
NAKED MIND に見られるような、事後(えっちの後)に「気に入ってもらえて/うれしいです/よかったらまたしましょう……」「あ/はい/こちらこそ……」と行儀良くお互いに頭を下げ合うというような部分にこそあるのではないかと最近は思うようになってきている。都築ワールドには親密さはあっても馴れ馴れしさはない。友達や恋人と言った関係に安住するようなキャラは例えばとらハワールドには一人も出てこない、ということを今更ながらにしても指摘しておくのは無意味ではあるまい。
現実に生きざるを得ない私としては、とらハの優しさよりも苺ましまろの傍若無人さの方がずっとリアルではあると思う。普通我々は、友達は大切だ、なんて口にしないしそんなことを口にする機会など滅多にないしそもそもそんなことは意識にすら上がらない。友達というものはそういうものだ。だから私は苺ましまろに描かれた関係にこの上ない親しみを抱き、あの世界を愛する。よつばと!の世界においてあさぎお姉ちゃんは何の罪悪感も抱かずに妹の風香を殴るのだが、この場面は私にとってどんなに愛おしいものであることか。極論すれば、兄妹というのは意地悪なことを平気でできるような関係を指すのである。
とらハワールドはそういう意味では少しもリアルではない。もし私がとらハワールドに行けたとしても、私の肺はあの世界の澄んだ空気に耐えきれず腐ってしまうかもしれない。私はあの世界に限りなく憧れながらも、あの世界で生きられる自信は少しもない。でも、手の届かないところに存在するものとしては、とらハワールドは何と完璧であることだろう。普通我々の住む世界では、礼儀正しさと親密さは反比例するものとして受け取られているのだが、とらハワールドではこの二つはまったく自然な形で共存しており、それどころか区別の必要すらないものになっている。こんなものは我々の住む世界のどこにも存在しない。でも、こういう世界を夢見て、こういう世界の存在に思いを馳せ、こういう世界に憧れ、こういう世界の存在を僅かでも信じることができなかったら、私はきっと自分が生まれてしまったこの世界に生きていけるかどうか分からない。
こういうものを矛盾でないようにして語ることができないのは私の未熟さでしょうな、やっぱり。
2003/10/2 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#02
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ぴたテン 8巻 [コゲどんぼ/DC]
しばらく気持ちが離れてしまっていたので展開が全然分からなくて、それゆえコメントのしようがない。ただ、最後の方の「天使が歩き出す人を手助けするものなら…/きっと悪魔は…/立ち止まった人を受け入れるものなのかもな…」っていう台詞が、すごく好き。ここでは言うまでもなく、天使は美紗さんを、悪魔は紫亜さんを指しているのであるが、これを読んだ時私の頭の中に浮かんだのは水月の雪さんだった。無条件にすべてを許し受け容れる存在を悪魔と呼ぶなら、透矢に現実世界のすべてを捨てさせた雪さんはまさしく悪魔以外の何者でもなかろう。もっとも念のため言っておきたいが、私は悪魔という語を否定的なニュアンスで使っているつもりはない。悪魔とは悪ではない。単に善に対立するものでしかない。しかもこの場合、善の定義がそもそも問題になってくる。一般的に言えば、人間を社会的存在たらしめる流れを「善」と、その逆に向かう流れを「悪」と呼ぶ…のだろうか。私は無学でそういうことはよく分からないので乏しい経験と想像だけで語っているにすぎないのだが。まあ実のところそんなことはたいした問題ではない。私にとっては優しいかどうかだけが尺度なのであって、それが善に連なるものなのか悪と呼ばれるものなのかはどうでもいいのだ。優しい悪魔と厳しい天使がいるなら、私は迷わず前者を選ぶ。後者を選んだ湖太郎を私は心から尊敬するけれども、でも社会的な存在であることになどさしたる魅力を感じない私という人間は、雪さんに全肯定され堕落させられ破滅することこそ幸福だと信じる。
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よつばと! [あずまきよひこ/DC]
初めて読んだ時は、この漫画は危険!この漫画の健康さは私にとって毒になりかねない!と思ったのだけど、何回か読んでいくうちに慣れた。ただ私の住む世界と違いすぎるということはやっぱりあって、時々まだ眩しさに目が眩んでしまったりする。よつばが「朝だ!」と叫んですっくと立ち上がるシーンなんて私には眩しすぎて直視するのが辛い。
あずまきよひこ氏のキャラを立たせるセンスは既にあずまんが大王で証明済みで、この漫画でも登場人物達はそれぞれが誤解のしようのないような個性を確立しているが、その中でもあさぎお姉ちゃんの格好良さは群を抜いている。あのクーラー絡みのエピソードはその最も見事な例で、よつばの嘆き(笑)に対して恵那はまったく無力なのに、あさぎお姉ちゃんは自信たっぷりにその場の空気を一刀両断してみせる。そう思いながら改めて読み直してみると、この漫画の中でよつばと対等の立場に立つことができているのはとーちゃんとジャンボとあさぎお姉ちゃんだけだ。風香と恵那は、それぞれのポジショニングの問題はともかくとして、作中ではしばしばよつばのパワーに気圧されて、よつばにどう接してよいのか戸惑ってしまっている。子供と会話ができる、というのはひとつの才能だ。私が苺ましまろの世界を愛する理由の半分ぐらいは伸恵お姉ちゃんの存在に因っている。いつかも書いたように、伸恵お姉ちゃんは高校生という立場のままで、年下の子供達に合わせて目線を下げるなんてことをしないで、ごく自然に美羽や末莉ちゃん達と付き合って行けている。よつばと!に話を戻せば、よつばと対等であるといってもとーちゃんはどちらかというと子供的莫迦っぽさでよつばと共通しているのに対して、ジャンボとあさぎお姉ちゃんはそれぞれ自分の世界を少しも損なうことなく異世界の存在であるはずのよつばとコミュニケーションが取れているという違いがある。恵那はよつばが何を考えているのか分からず、よつばの立場に立とうと努力して戸惑う。しかしあさぎお姉ちゃんはそんな野暮なことはしない。あさぎちゃんは「クーラーは良いものだ」と自信たっぷりに言い放つ。あさぎお姉ちゃんはよつばを騙して納得させたのではない。そうではなくて、あさぎお姉ちゃんの自信満々な揺るぎない態度がよつばを説得したのである。あさぎお姉ちゃんはよつばを前にして少しも気張らずまったく自然でいる。相手が子供だからといって遠慮などしない。しかし――伸恵お姉ちゃんにしてもそうなのだが――まさにその態度こそがおそらく子供の信頼を勝ち得る秘訣なのである。あさぎお姉ちゃんは本当に格好良い。
2003/10/1 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-10.htm#01
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風邪が治ってきたので復活。
どうも風邪ひいていると頭の働きが悪くて、ブリジットたんの裸を見て「うわキショ!!」とか思ってしまったりシスプリドラマCDを聴いて「こんな風にアプローチしてくる妹なんて嫌だ」とか思ってしまったり、正常な判断力がなくなってしまうのが困る。
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いやもう好い加減開き直りました。
私は同じことしか語れない。それは当たり前のことなのだ。だって興味というものは自動的にアンテナが受信するような代物で、一人の人間が興味を持てる範囲なんてどうしたって限られてしまうのだから。私が何を受信するかは私自身にだって決められない。選択の余地なんてないのだ。今の私はともかくも32年間の人生の積み重ねの上に立っている。32年の様々な経験の積み重ねによって、私のアンテナは私自身すらも明確には知らない方向を向いていて、私自身の意思とは無関係に、自分に必要なものをキャッチする。それが例えばとらハ的思い遣りだったりするワケだ。私の持つアンテナはどんな作品の中からだってとらハ的優しさを嗅ぎ付ける。私が今まで経験してきたものが事実として存在して変えられないからこそ、アンテナの指向は選択できないのだ。
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昨日はモモ(空)とか舞(香月)とかリン(ラッセル)のエロ画像を探し求めてネットを徘徊していたのだけど成果はほぼゼロ。さすがに古すぎるか。“パンツに包まれたおしり”の魅力的なヒロインコンテストとかあったらモモなど優勝間違いなしだと思うのだが。ところでネット徘徊中に旧モモの変身シーン動画を発見して久しぶりに見てみたのだが、美化された記憶と現実とのギャップに愕然。萌えやしない。
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最近はもっぱら運転中のBGMはメモル。風の手紙はいわゆる名曲というのとは違うけど、でもなんというか、これはマリエルとか桜沢昭さんとか可憐とかマリーベルとか、完全無欠な乙女しか弾いちゃいけないような曲だと思う。
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STRIKERS 1999
ロシア面、日本面の無意味テクニカルはだいぶ安定してきた。
ただし1〜2面限定。それ以上のランクではリスクだけが無駄に上がるのでやる意味がない。
6面ジオバイド(衛星ボス)のテクニカルは相変わらずワケ分からない。ノーボムであっさり成功する時もあるが大抵はコア解放攻撃で死ぬ。
7面ボスはステルス使用時はコア解放まで粘るよりも力押しで倒してしまった方が消耗が少なくて済む模様。ゲージレベル2&ボム2〜3発あればほぼ安定。
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