棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

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2002/12/31 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#31


 あの匿名掲示板については、結局、「ゴミ溜の中に宝石がある」と取るか「宝石は眠っているにせよゴミ溜だ」と取るかの違いなんだろうなあと思う。私はまだ(把握している限りでは)あそこに嫌な目に遭わされたことはないので、特に否定的感情は持っていないのだけど、ただもし何かの拍子で嘲笑的晒しを受けたりしたら、その瞬間からきっと2ちゃんねるを嫌いになると思う。

 立場の問題というのはどうしても付き纏うもので。
 以下、話は大きくずれるけど。

 例えば、「コミケは徹夜禁止」という意見は正しい。それは合理的な理由やなんかよりも、コミケという巨大なイベントを運営する主催者が禁止を謳っている以上はそれに従うのがマナーであろうと考えるからだ。それは盲従するということとは違う。コミケというイベントが存在するのは“当たり前”ではないのである。絵を描く人がいなければ漫画というものが存在しないのと同様、主催側の努力なくしてはコミケは存在しないのである。私としては、徹夜をしないというのは、禁則だからというのではなく、紳士協定としての意識の上で守られるのが好ましいのだと思っている。

 ただしどうしても言っておかなくてはならないのだが、コミケで徹夜をする人間がマナー違反であるとしても、そういった行為を声高に批判する人の言葉をそのまま受け取ることには、私は非常に警戒感を抱く。私は、良心というものが絶対的なものだとはどうしても思えない。私が徹夜をしないのは、本当は良心に従っているからではない。ただ、徹夜をしなくても済むから徹夜をしないのである。もし、例えば手に入れることを考えるだけで息切れを起こしかねないほど欲しい同人誌なりグッズなりがあったとしたら、私はきっと、何の躊躇いもなく徹夜を敢行すると思う。つまり私が徹夜をしないのは、単にそうする必要がないからなのであり、必要がないような立場にいるからこそ、前段のような「良識的な言葉」を言えるのである。

 低劣な揚げ足取りを予測して先回りしておくが、私は別に徹夜を認めている訳ではない。徹夜は依然として、よくない、のである。いかなる立場に基づくものであれ徹夜をしないというのは、行為それ自体としてはまったく完全に正しい。しかしその正しさは、徹夜をする人を批判する権利までも保証するものではないと思うのだ。徹夜はいけないという意見は正しい。だが貴方はどういう立場からその意見を述べているのか? 私が問いたいのはその部分だ。貴方は徹夜をしない。だがそれは本当に良心なのか? 単に、徹夜をする必要がないから徹夜組の気持ちというものが分からないだけなんじゃないのか? こういう疑問は避けてはいけないような気がする。もし徹夜をしないということが完全に良心の元で行われるのだとしたら、それは、喉から手が出るほど欲しいものがあるのだけどそれでも紳士協定に従ってわたしは徹夜を我慢する、ということにならなくてはいけないのではないだろうか?

 私は徹夜はしない。
 しかしそのことで、徹夜組を批判する権利、が生まれる訳ではない。


 棺の中の楽園、2002年総集編。

 1月。 鬱で身動き取れなくなったので公子さんとの対話を書いて乗り切る。タッチタイピング習得。
 2月。 22日のねがぽじ雑記は、私が今年書いた文章の中でのベストのひとつ。
 3月。 土方さんとオフラインで初めて会う。とらパでみんくりさんIDさんと会う。
 4月。 怒首領蜂・大往生が稼働。ゴールデンウィークでのミーハー京都旅行で東福寺に惚れる。早瀬さん利休さんらむださんみんくりさんと会う。
 5月。 ゲーセンで知り合いができるという初めての経験。16日の荒川工論は今年書いた文章の中でのもうひとつのベスト。
 6月。 みんくりさんの協力を得て、とらハ好きへの100質問を完成。萌え文集2の原稿執筆。雪さん[水月]と出逢う。
 7月。 特になし。
 8月。 夏コミでみんくりさんと会う。秋葉原 Mary's にてオフ会。OGREさん、まほさろさん葉月さん、黒須さんと会う。
 9月。 しぃ[しぃのうた]、透子さん[水夏]と出逢う。TGSで緋蜂を初めて見て、あまりの弾幕に開いた口が塞がらなくなる。もずさん主催の大往生オフに参加。
 10月。 シスタープリンセス RePure.放送開始。
 11月。 花梨に萌える。リピュア8話Bパート9話Bパートに出逢う。
 12月。 特になし。

 今年ネットで見つけた名言はふたつ。

 ・か、勝つぞっ!@巫女さん
 ・お兄ちゃんどいて、そいつ殺せない@“自称”妹な人

 今年はあまりゲームをこなさなかったように思うが、水月[F&C]、秋桜の空に[Marron]、Phantom of Inferno[Nitro+]、怒首領蜂大往生[Cave]の四作に出逢ったというだけでも、ゲームライフは十分すぎるほど充実していたと断言できる。


 最後に、萌え文集2用に書いた短文をアップして今年の締めくくりとしたい。





 「3丁目の回覧板」に寄せて

 私は、お気に入りの本はいつも座ったままで手の届く場所に置くようにしている。そうして、そういう本は特に必要がなくてもちょっとした時間の合間に手にとって読んだりするのである。それにしても、ひな。氏の「3丁目の回覧板」はもうずいぶん長いこと、私の部屋のお気に入りポジションに座っている。今までに何回読んだかなどは既に思い出せない。洗濯が終わるまであと五分ほど待たなくてはならないような時、なんとなく寝付けない時、会社から帰って疲れでぼーっとしている時、生活の中にちょっとした合間に、私はよくこの本を手にとって適当なページを開いて読んだものだった。

 私は、この人の描くお話が大好きだ。この人のお話に出てくる登場人物たちには悪意が微塵もない。しかしだからといって優しさに溢れているというのとも違う。優しさに溢れたお話を描く人といえば例えばシナリオライターの都築真紀氏がいるが、この人は悪意というものを知っている。現実が時としてどんなに厳しいものであるかも、人間というものが時としてどんなに醜くなるものであるかも知っている。だからこそ都築氏の描くお話はあれほどまでに優しいのである。それと比べると、ひな。という人の描く物語は――こう言って良ければ――もっとずっと素朴だ。もちろん私は、ひな。という人がどんな人間でどんな生き方をしてきた人なのかは知らない。でも少なくとも作品を読む限りに於いては、この人は世界というものをよほどシンプルに信じているように思える。生きる上では本人にも生活上の様々な悩みはあるのだろう。でもそれによってこの人の世界観は少しも曇ったりしない。この人は美しいものを欲している人ではない。美しいものに慰めを見出すような感傷はひな。という作家には無縁のものだ。この人はきっと、ただ単純に美しいものが好きなのである。この健康さは私のような感傷的な人間にとってさえどんなに心地よいことだろう。

 この作品は13編の小さな恋のお話を綴ったものであるが、「3丁目」という言葉のイメージが示すように、それらはすべてひとつの小さな町を舞台にして展開される。また「回覧板」という言葉が示すように、お話各編はそれぞれ独立していながらも相互に微妙に繋がっており、全体としてはあくまでも“ひとつの小さな町の中での出来事”としての性格を保ち続けている。とある小さな町がある。その小さな町に住む人々のささやかな人間模様を描いたのが当作品であると言っても良いが、こういう描写の仕方はひな。という作家の世界観を想像してみる上で非常に興味深いことだと思われる。なぜ舞台を小さな町に設定したのか。それはおそらく作者にとって世界がそういうものであるからだ。世界という言葉はなんとなくスケールの大きいイメージがあるが、しかしもっと小さい世界というものもある。ひとりの人が生活するごく身近な空間、ひとりの人の目から見える身近なもの、そういう身近な世界というものもあるのである。思い出してみて欲しい。子供の時分、まだ世界などという概念を知らなかった頃のこと。自分の生活圏が世界のすべてだったあの頃。自分に近しいものだけで構成されていた世界は今にして思えばなんと美しかったことだろう。あの頃、私たちは世界が美しいことにも自分が幸せであることにも無自覚だった。でも無自覚であること以上に幸せなことがあるだろうか。

 ひな。という作家は世界をそういうものとして描く。この物語の登場人物たちは自分たちがどういう世界に住んでおり世界がどういう風に出来ているかについてまったく無自覚だ。美しい、などというのは結局世界を外部から見た人間の感想にすぎない。お話の中で、彼らはただ生きている。世界は美しくも醜くもないし、優しくも残酷でもない。少なくとも彼らはそういうことをまったく意識していない。男の子も、女の子も、ただ自分の生活を精一杯に生き、その小さな生活の中で笑い、泣き、誰かを好きになり、時に喧嘩する。でも彼らの小さな経験は決してそれだけに終わらない。ひとつの想いが生んだひとつの言葉、ひとつの行動が、別の生活を持つ別の誰かに受け継がれていく。彼らの気づかぬところで、別の誰かが彼らから何かを受け取っていく。ちいさな町の中で生まれたひとつの物語は、それと気づかぬうちに別の物語を産み出す。ひとつの優しさが、別の優しい言葉を産み出す。人の生活は一人ひとり違っていて、他人を真似たりして上手くいくようなものはひとつもない。どんな経験も、その人だけの一回限りのものだ。でも、それでもひとつの経験はそれだけに留まらずに何かを周囲に残していく。ひとつの経験は回覧板のように別の人の別の経験へと受け継がれてゆく。そうして巡っていく想いは、もしかすると再び自分のところに帰ってくることもあるのかもしれない。誰かの笑顔がわたしにささやかな幸せをもたらし、わたしのちいさな微笑みがまた別の誰かに受け取られる。ひとつの笑顔が別の笑顔を生み、想いが巡り巡ってみんなが笑顔になれるとしたら、それはとても素敵なことではないだろうか。ひな。氏はそんなことを考えながらこのお話を執筆していたのかもしれない。

 あるいは、このお話はあまりに楽天的にすぎるという人もあるかもしれない。それでも、この本の世界には、誰もがかつては持っていたにも関わらず今は失われてしまった世界観が息づいていることを持って、私はこの作品を肯定したく思う。かつては私もああいう世界の住人だったことがあったのだ。再びそういう世界を思い出させてくれたこの作品とひな。という作者に、どうして感謝しないでいられようか。


2002/12/30 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#30


 大掃除と大往生で体力精神力共に使い果たして瀕死なのだが、最後の気力を振り絞って日記書き。


 大掃除の所要時間は約6時間ほど。

 掃除中はPC付けっぱなしでスキャナーフル稼働。
 面倒だったので今まで先送りにしてきていた、エロ漫画雑誌のお気に入りの話のデジタルデータ化作業。
 約50枚程度を処理。これでやっと雑誌が処分できる。

 ともあれこれで某氏の迎撃準備は完了。


 大往生(白)。
 遂に2-5ボス到達。

 2-4開幕残3ボム0、2-5開幕残1ボム1で開始10秒ぐらいで1ミス、巨大空中機x3直後の赤ダンゴが避けられず緊急回避ハイパー、旧4ボスで1ボム決め撃ち、メカ蜂地帯はパターンで抜けて9機目のメカ蜂破壊後にハイパー使用、旧5ボス後の大型戦車x3手前の蛾爪ラッシュでハイパー使用(ここは必ず1ハイパーが必要)、ラストの大型空中機ラッシュでチキンボム。
 道中の嘘避けなし。
 メカ蜂地帯のパターンがだいぶ出来てきたのと、旧4ボス、旧5ボス前の蛾爪ラッシュの切り返し方針が固まってきたのが大きい。ラストの大型空中機ラッシュは一応ノーボムパターンはあるのだが、正直ボム所持状態で避ける勇気は今のところない。
 白版では初体験のオキモノ戦は5秒程度で終了。
 スコアは5.1億。

 一応メモ。
 ・旧4ボス後のザコラッシュは、弾消し発動中に画面右上〜左上〜下〜切り返し〜右上〜下〜切り返し〜メカ蜂1機目、の流れが現状ではベター。
 ・メカ蜂地帯は基本的な動きの方針は1周目と同じ。理論上はノーボムノーハイパーも可能だと思う。
 ・旧3ボス後のザコラッシュは、弾消し発動中に画面中央上〜右上〜下〜切り返し、の流れが現状ではベター。


 ちょっと用事があって実家に帰ってみたら、上の妹が近日入籍するとのこと。
 びっくり。

 用事ついでに実家に置いてきたCDを何枚か持ち出してみたり。
 モーツァルトのピアノ協奏曲 K.467 [リパッティ]とか色々。

 久しぶりに聴いた K.467 は、なんとも言えず懐かしかった。
 この曲は、私が最初に体験した「モーツァルトのピアノ協奏曲」だったのだが、聴いていると、今でも、初めてこの曲に萌えた時のことが蘇ってくる。音楽センスの欠片もない私にとって、新しい曲を聴くというのは、いつも非常に忍耐の要る仕事だった。例によってこの曲も、魅力に気づくまでに何回聴いて居眠りを繰り返したか分からない。それでもこの曲については比較的早い段階で魅力に気づくことができたと記憶している。ひとつには、この曲はピアノソロの入りが非常に分かりやすいから、ということがあったのだろうと思う。周知の通り、この曲ではオーケストラが一段落したところで、オーボエ、ファゴット、フルートが順に短いソロを奏でてピアノを誘導するのだが、私にはこの木管たちのソロパートとピアノの入りが、三人の兄とひとりのお姫様の登場シーンであるように思えた。三人の兄たちが、順番に、可愛い妹を手招きする。それに応じて、ひとりのちいさな女の子がとてとてっと舞台に走り出てぴょこんとおじぎをする。木管の後に入ってくるピアノのあの愛らしい旋律を聴いて、私はどうしてもそういう想像をしないではいられなかった。こういう聴き方はおそらく邪道なのだろう。ただいずれにしても、ピアノの入りに萌えたおかげでこの曲の魅力に早くから気づくことができたのもまた確かなので、あまり大きな声では言えないが、そういう聴き方もあっていいよな、とは密かに思っていたりする。

 ***

 そういえば。
 日記には書かなかったが、先週の木曜日の退社後、実は耳鼻咽喉科に行った。私の唯一の耳は普通の人よりも鼓膜へ至る通路が狭いらしく、3年に一回ぐらいの割合で耳垢が詰まって通路が塞がれて、耳が聞こえなくなってしまう(正確には、耳を手で塞いだような状態になる)ということが起きる。
 水曜日の夜の入浴後からそうなったのだが、その夜は「もしかしたら今回は耳垢ではないかもしれないこのまま耳が聞こえなくなったらどうしよう」などという妄想に囚われていて、その時に真っ先に私が考えたのは、モーツァルトのピアノ協奏曲K.467 が二度と聴けなくなるのだろうか?ということだった。告白すれば、これは恐怖などと呼べるものではなく、アン・シャーリー的な悲劇的空想とでもいうべきものだったのだが、いずれにせよ、その夜はずっと、モーツァルトの調べが頭から離れなかった。

 もし、私の好きな曲ベストテンとかいうのを仮にやるとしたら、モーツァルトのK.467 はおそらく10位前後なのではないかと思う。少なくとも、魔笛とレクイエムとハ短調のピアノ協奏曲、バッハのゴールドベルク、ベートーヴェンの後期ソナタ、ショパンのクラコヴィアクと幻想曲、といった名曲よりも上に来るということは、普通ならまずありえないはずだ。

 ところが、耳が聞こえなくなったらという悲劇的空想に囚われた時、私の頭の中で真っ先に鳴り響いたのは K.467 だった。もっと言えば、この協奏曲の第一楽章の後半、あの有名な「疾る哀しみ」という言葉がぴったり来るような、分散和音を基調とした哀歌が――ことに左手の分散オクターブの上で右手によって奏される3度ずつ上昇する和音が――繰り返し、私の脳内で鳴り響いていた。

 ***

 今考えてみると、なぜ思い出した唯一の曲が K.467 なのか?については、おそらくはこの曲が私にとって一番身近だったから、ということなのだろうと思う。私が今までに一番たくさん聴いたのは間違いなくK.491なのだが、ただし K.491と違って、K.467 については、部分的にではあっても、自分で実際にピアノの前に座って音を鳴らしてみた経験がある、ということがある。もちろん私はそんな大層な技術などは当時から持っていなくて、弾いてみたと言っても通常の半分以下のスローテンポでやっと音を並べることができたという程度のことにすぎないのだが、。ただ、その程度のことであっても、CDで聴くのと自分で実際に音を出してみるのとでは、やはり理解には雲泥の差が出る。私は K.491 の美しさについては耳で知っているに過ぎないが、K.467 の美しさについては、曲のごく一部ではあるが、全身の感覚で知っている。音楽の本当の美しさは自分で演奏してみなければ分からない。下手糞なピアノであっても、自分で実際に弾いて聴いた響きには、CDのどんな名演奏も敵わない生々しさがある。

 こういう経験を最初にしたのは、確かショパンの軍隊ポロネーズと革命のエチュードだったと思う。20代前半の頃のある夜、ツェルニー練習曲に辟易した私は、息抜きのつもりで、当時の技術では弾けるはずもないショパンの楽譜を取り出して、知っている曲の和音をあれこれ奏でてみるということを思いついた。その時とりあえず最初にやってみたのが、軍隊ポロネーズと革命のエチュードの冒頭の和音だった。それはショッキングな体験だった。ことに革命の冒頭の和音の響きの綺麗なこと。自分で鳴らしてみたそれは、どんなCDの演奏よりも美しかった。ああ俺は今までこの曲のことを何一つ知らなかったのだ、と思った。そういうことがあって、それ以来、私はツェルニーの合間に、時々色々な楽譜を取り出しては耳に馴染みのある曲の一部を自分で弾いてみるということを繰り返すようになった。

 …なんか疲れたので寝ます。


2002/12/29 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#29


 仕事は今日の午前中で終了。
 明日から7連休。

 品物をレジで精算する段階になって財布にお金が入っていないことに気づいてさあ大変。
 という愚挙を久しぶりにやってしまった。

 普通の本屋だったのに、品物の中に、シスタープリンセスGAMESTORIES があったのが痛すぎる。
 死にてえ。

 大往生(黒)。
 2周目が良い感じに繋がって、緋蜂で終了の8.4億。

 具体的には、2-3後半全繋ぎ成功、2-4開幕〜1Up砲台繋ぎ成功、2-5道中ノーミスノーボム突破(ハイパーは決め撃ちポイントで何回か使用)、とか。

 ちと疲れで頭がぼけぼけ状態なので、寝て仕切り直し。


2002/12/28 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#28


 仕事中、強烈な萌え飢餓に襲われた。
 これはたまに日記に出てくる「萌え失調」というのとは違う。この日記中で使われる「萌え失調」というのは、我々の脳内に存在する萌えを司る機能が麻痺状態に陥っていることを示す言葉なのだが、今日の「飢餓」というのは、体が強烈に萌えを求めてしまうという状態で、具体的には「今すぐこの場を飛び出して花穂を思いっきり抱き締めたい」という衝動に駆られて体が疼く、等の症状がでる。

 体が疼くほどの強烈な萌え衝動を抱いたのはずいぶん久しぶりな気がする。
 あんな感覚を味わえるのなら、仕事が忙しいというのもあながち悪いものでもないのかもしれない。

 Du holde kunst...

 ところで、最近の私はギャルゲー(エロゲー)というものを以前よりも素直に楽しめるようになったかもしれないと思う。
 ギャルゲーキャラというものは男性の欲望の反映である、などというのは今やあまりに陳腐化した意見に過ぎないが、それでも以前の私はそういうステレオタイプな意見にすらある種の怯えを感じていて、web日記中で萌え語りをする時ですら、内心では微妙な後ろ暗さや照れや自嘲というものから完全に自由であることはできなかった。しかし今の私は、花穂のことを考えてもこころんのことを考えても、絆箱のパッケージの末莉を眺めていても、純粋に幸福しか感じない。家族計画はプレイしたことないが、おそらくは末莉という子も男性の欲望に極めて忠実にデザインされたキャラなのだろう。しかし今の私だったら、そういう意見に対して、少しの気負いもなく、ふーんそれが何か?と言えそうな気がする。ていうか言える。花穂も咲耶も雪さんも花梨も、確かに男性受けを狙って作られているのには間違いないのだろうが、それでも、仕事に追われて忙しい日々にあって、彼女たちの存在がどんなに慰めになっているかを考えると、もうそれが男性向け商品であることなどどうでもよくなってしまう。私は大真面目に主張したいのだが、例えどれほど正しい意見であっても、それが他人の楽しみに水を差すようなものであるのなら、そこには如何なる正当性も本当はありはしないのだ。

 今の私なら、シューベルトの「音楽に寄す(An die Musik)」を、何の衒いもなく萌えキャラのことを思い浮かべながら歌えると思う。


 近所のショップで予約していた家族計画-絆箱-[D.O]を引き取りに行ったり、あと本屋を適当に物色。
 正月休みは末莉たんで(*´Д`)ハァハァする予定。

 …ところで、真の達人は「末莉たんで(*´Д`)ハァハァ」ではなくて「末莉たんと(*´Д`)ハァハァ」なのではないかとふと思ったのだが如何に。
 「で」と「と」の間には無限の距離があると思う。

 私も、なこるる相手だったらごく自然に「と」なんだけどな。
 他のキャラだと「で」かもしれない。

 G's Magazine 2月号

 シスプリ2の画面を見れば見るほど購入意欲が減衰していくのは私だけですか?
 衛の水着が、1秒で押し倒されても文句は言えまいというぐらいエロいという事実があるのだとしても。
 あと、水着を着て温泉に入るのは邪道の極みなのですぐに水着を脱いd

 物欲ニュース方面では。

 ・Kanon〜水瀬さんち〜の続編(来年2月から3ヶ月連続)が発売。
 ・シスプリ語り掛けボイスCD、G's 来月号で誌上通販予定

 必ずチェキのこと。

 今日は、リピュアの 1a、2a、4a、13a を観てから寝ます。
 おやすみなさい。


2002/12/27 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#27


 今日もリピュア最終回を鑑賞。

 心に来るものがない、なんて昨日は書いたけど、それはまだ正確ではない。
 できるだけ正確に言えば、感動はすれどもその感動に身を委ねきることができない、という感じだ。

 もっとも前半部分は論外で、感動する場面というのはあくまでもあの合唱部分に限られているのだが。
 なぜ前半が論外なのかと言えば、それは要するに、兄と四葉と鈴凛が他のメンバーに内緒でパーティーの準備を進めていたから、ということに尽きる。衛がキャンプに行く話や12話のレストランの話もそうなのだが、妹間のコミュニケーションがごく自然に、ほとんど当たり前のこととして行われていないというのは、女の子コミュニティーとしての楽園を求めるいちシスプリファンとしては、正直、見ていて辛いものがある。

 前作では決してそういうことは起こらなかった。前作には幾つかの許し難い欠点があるのだが、それでも妹間のコミュニケーションが完璧に取れていたという一点において、あの世界はやはり楽園だった。

 合唱部分。
 これはツボにはまったらきっと感動に包まれて震えてしまうのだろうなあと思う。私は残念ながらツボに入らなかったが。あれは着想としては悪くはなかった。個々人のソロパートがきっちりあるということだけ取っても、ああいう展開はまさに私が望んでいたものであるはずだった。それにも関わらず、あそこには何かが足りていない。こんなことを言うのはさすがに虚しくはあるのだが、例えば妹たちが歌いながらもっと動いていたらどうだったろう。四葉と鈴凛を組ませて踊らせるとか、千影の前に亞里亞がちょこんと立っていたりとか、衛が花穂に後ろから抱きついている感じでふたりで体を揺らしながら歌うとか。今書いたカップリング自体は私の趣味にすぎないが、ただ、あの場面で何よりも重要だったのは、おそらく妹たちの自発性の演出だったのではないだろうかと思うのだ。実際に放送されたあの場面はあまりに生真面目すぎて、まるで卒業式の合唱か何かのように見えてしまう。そのため、妹たちは楽しんで歌っているはずなのにその様子がいまいち伝わってこない、ということになってしまう。大好きなお兄ちゃんへの贈り物としての歌、というのはもっと自由な、伸びやかなものであるべきではないだろうか。恰もアドリブでやっているように見えて息がぴったり合っている妹たち、というものこそ、たぶん私が一番観たいものだったのだと思う。もちろん、アドリブでありながら完璧に息が合う、なんてことは現実では起こり得ない。しかしお話の世界なら不自然さを感じさせないでそれができるのだ。前作の6話や20話はそれを見事に証明してみせている。

 余談ながら、モーツァルトのピアノ協奏曲の面白さのひとつは、各楽器が意思を持ち、恰も即興で音楽を紡いでいっているように錯覚できるというところにある。

 川名みさき。

 思わず夜食を吹き出してしまった。
 腹イタイ。
 どうしてくれるんだ。


2002/12/26 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#26


 リピュア最終回を観直してみたが、やっぱりいまいち心に来るものがない。
 観ながら、前作の20話を懐かしく思わずにいられなかった。

 20話を初めて観た時に私が思ったのは、これは非常に危ういバランスの上に成り立っている名作だ、ということだった。
 パーティーや合唱やプレゼント交換など、クリスマスを演出する上では定番であるような素材を使って、作為的なものを感じさせない物語を作るというのは――シスプリのメインターゲットが目の肥えた大きいお兄ちゃんたちであるということも踏まえれば――非常に難しいことであるはずで、20話の素晴らしさのひとつはそういう離れ業を見事に達成してみせた点にあるのだと思っていた。
 こういう言い方が許されるものかどうか分からないが、リピュアの13話は、失敗した前作20話だった。前作の監督やスタッフたちは、ありきたりな素材をひとつひとつ丁寧に調理し、シスプリ風味の味付けを施していくことで、これ以上あり得ないと思わせるような美しいクリスマスのシーンを作り出すことに成功したのだが、リピュアのチームはそういう味付けの部分に無頓着すぎた。クリスマスという舞台で物語を作れば、どんな設定だろうとある程度感動的なものを作り出すことはできる。しかし、それを一歩超えて、シスプリでしかあり得ないような物語を作れるかどうか。おそらく我々が期待していたのはそこだった。そういう意味で、リピュア最終話はシスプリであるには何かが足りない。

 例えば、冒頭からして兄の不在が語られるなど、何事であろうか。
 20話を思い出してみて欲しい。
 あの回で、妹たちの誰かが、一瞬でも悩んだり寂しそうな表情をしたりしただろうか。
 あそこには、現実にはあり得ないような、お話だからこそ可能であるような、完全に、一部の曇りもないような、幸福な時間が実現されていた。

 例えば、みんなでクリスマスの準備をしましょうと声を合わせる場面。
 しかし20話を思い出して欲しい。
 あの話ではそんな野暮なことは言わなかった。
 あの、兄を中心とした女の子コミュニティーにあっては、そんなことはいちいち確認するまでもない当たり前のことなのだ。

 例えば、妹たちみんなの一番の願いはお兄ちゃんが傍にいてくれること、プレゼントなどもらうまでもない、みんなお兄ちゃんにたくさんの気持ちをもらっていたのだから、だからわたしたちもお兄ちゃんに心のお返しをしましょう、という一連の場面。
 しかし20話を思い出してみて欲しい。
 あの話ではそんな野暮なことは言わなかった。
 あの、兄を中心とした女の子コミュニティーにあっては、そんなことは今更確認する必要もない当たり前のことなのだ。
 気持ちは、兄に向かって、ただ一度だけ語られれば良いのである。

 それからもうひとつ、20話での職人芸的丁寧さの最も見事な例として忘れてはならないのが、合唱の前の妹たちの台詞の数々だろう。個々の台詞について引用することは今はしないが、あの、たったひとつの気持ちを12人が順番に語っていく演出の妙味について何と言ったら良いのだろう。彼女たちが語っているのは、できるだけシンプルに言えば「お兄ちゃんありがとう」というたったひとつの気持ちであり、それはつまりお兄ちゃんを慕うすべての妹たちが最も大切なものとして共有する想いなのであるが、しかしたったひとつの想いでありながらも、個々人のレベルにまで降りてくれば、そこにはやはり12人12様の想いがある。あの合唱前の台詞は、そのことを、やや間接的にではあるが、教えてくれている。注意深い人であれば、無造作にリレーされているように見えるあれらの台詞が、実はそれぞれの妹たちの個性を十分に把握した上で吟味され決定されているものであることに気づくだろう。もしそう言われてもピンと来なければ、各人の台詞を他のキャラに置き換えることが可能であるかどうか想像してみればよい。あのリレーがどんなに計算されているものであるか、分かるはずだ。同じでありながら違っているというこの魅惑。12個の宝石がひとつに溶け合い、かつて見たこともないような目映い輝きを放つ。しかもよく見れば、その輝きの中では、依然として、それぞれの宝石の持つ個々の魅力は少しも損なわれてはいないのである。あれは、そういう奇跡がたった一度だけ実現した回だったのだ。

 制作の苦労を知らない一視聴者の気楽な意見ではあるのだが、リピュア最終話のひとつの問題は、前作の20話と同じ路線で制作してしまったことだったのだと思う。もし違う方向で勝負していたら、出来映えに関わらず一定の評価は得られたかもしれない。しかし同じような素材で既に完璧なものが存在する以上、それはどこまで行っても劣化したコピー以上のものにはなれない。


2002/12/25 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#25


 ごめんねお姉ちゃん、わたし、司書になれないみたい…。

 そう言いながら、しかしこころんは笑顔だった。
 いつか私もあんな風な笑い方ができる日がくるだろうか。
 私が今後なお生きていて良いとすれば、ただそれを目指すことだけが私に許された生き方であるような気がする。

 ***

 リピュア最終回。

 まあ、その…。
 Christmas Love Destiny レベルの話を期待する方が間違ってるんだろうけどさー。


2002/12/24 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#24


 うーん。
 振られてしまいましたか(苦笑)。
 まあ、現状のような、付かず離れずの距離も私は嫌いじゃないです。

 銀色夏生氏の真似をする訳じゃないけど、
 「お互いが一番好ましく見える距離」
 みたいなものを…その、なんていうか、今後も探して行けたらいいなあなんて思っております。


 ヤミと帽子と本の旅人[ROOT]読了。

 1周した時点でCGモードは半分ほど空白。セーブデータを落として補完してみたが、初美とのえっちシーンが2種類とも未回収だったので、今回見たのはおそらくノーマルエンドなのだろう。ただ正直、もう1周する気力はない。言いたくはないがテキストが少々退屈なので。

 色々な本の世界を旅するという基本に加えて、ある世界での行動が――必要アイテム取得という程度のものであれ――別のまったく異なる世界で物語を展開させるための鍵になる、というアイデアは悪くない。ただ、面白いアイデアを得ていながらも、作品化する段階でそのアイデアを完全に消化しきっていないような印象がある。着想だけで満足してしまっていてそれ以上踏み込まれていないゆえに、お話が表面的に見えてしまっているのが残念。

 …ちょっと違うかな。
 お話が表面的であるというのはそうなんだけど、なぜそうなってしまうのか。これはおそらく的が絞り込まれていないからなんだろう。主人公は初美と喧嘩して、仲直りしないままに異世界に飛ばされてしまった、早く元の世界に戻って初美に謝らなければ、というのがゲーム序盤に示されるひとつの「方向」なのだが、幾つもの本の世界を旅する過程で、プレイヤーはそういう方向性を簡単に見失ってしまう。少々おちゃらけた言い方をしてよければ「あれ? 俺ってここで何をしようとしているんだっけ?」ということになってしまう。また途中から物語に絡んでくる別の人物たち(言うまでもなく、リリスやガルガンチュアのこと)の行動も、残念ながらプレイヤーの視線をいよいよ迷わせることにしかならない。リリスやガルガンチュアのお話が語られる途中から、物語の方向性がまったく見えなくなってしまったのはあながち私の読解力のせいばかりではあるまい。
 本来ならば序盤以降の主人公のあらゆる言動は、基本的に「元の世界に戻って初美と仲直りする」という思惑に従って為され、物語世界はそんな思惑を反映して進行していかなければならないはずだったのではないだろうか。もちろん、異世界に飛ばされた主人公がそこで別の人物たちの物語に巻き込まれる、というのは展開としては別段おかしいものでもない。ただいずれにしても、全体として見て、主人公の意思はあまりに物語に反映されていなさすぎるのだ。ゲームをプレイした印象を優先して語るなら、主人公は色々な世界を旅して自分で考えて行動し何かを為したのではなく、色々な世界をただ単に漂っていたというだけだ。これは設定上の制約(主人公の魂が誰かに乗り移るという形でしか別世界に存在できない、という)の問題でもある訳だが、一体どうしてこのような設定を用意したのだろう。結局、主人公の意思などこれっぽっちも語られず、また当然反映されることもないまま、物語は迷走したまま終幕を迎えてしまう。物語がひとつの解決を見たような気は、なんとなく、する。しかしその解決は一体誰がもたらしたのだろう。私には分からない。

 ミルカのお風呂CG、藤姫のえっちシーン、の2つ以外はおそらく遠からず忘れてしまうような気がする。


2002/12/23 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#23


 幼少時のこと。

 しろやぎさんからお手紙ついた〜♪
 くろやぎさんたら読まずに食べた〜♪

 という歌の真偽を確かめるため、動物園で山羊に紙を差し出してみたら本当に食べてくれて妙に嬉しかった。

 …という思い出が唐突に蘇ったのだが、今にして思うとこの記憶は本物なんだろうか?
 割と生々しい記憶として残っているとはいえ、いくらなんでも紙を食べる動物がいるとは信じがたいのだが。

 この記憶が本物だったとして、あの時の山羊はお腹を壊したりしなかったろうか?なんてことが今更ながらに気になっていたりする。


 水月ビジュアルファンブック[エンターブレイン]

 基本的にはゲーム中のCGと原画を掲載している訳だが、それに加えて、トノイケ氏書き下ろしのサイドストーリー(雪さんメイン)、トノイケ氏と☆画野朗氏による各キャラクターについてのコメント、トノイケ氏の水月関連コラム、原画に逐一丁寧に付けられた☆画野朗氏のコメントの数々、と「読む部分」が非常に充実しているため、この手のものに付き纏いがちな割高感はほとんどない。ファンなら必ず購入すべき一品。

 個人的には、トノイケダイスケ、☆画野朗、両氏のコメントの数々を読むためだけにでも購入する価値があると思う。こういったものを読んでいると、水月という作品がいかに制作者に愛されつつひとつの作品として完成していったかがよく分かる。

 幾つか例を挙げるとして。

 例えば透矢が雪さんの胸に顔を埋めるシーンに付けられた画野朗氏のコメント。
 「彼女が大切な人を抱き締める時、どう包み込むのか、って考えて描きましたね。…左腕の抱きが甘い。」

 左腕の抱きが甘い!
 言われてみれば確かにそんな気もしなくはないけど、こんな小さな点をわざわざ指摘するプレイヤーはおそらくひとりもいまい。雪さんが大切な人を抱き締める、というのを一枚の絵として表現するに当たって、☆画野朗氏は雪さんならどうするか?という問題を徹底的に追及する。他の原画のコメントにも見られるのだが、表情から仕草に至るまでのすべてが「大切な人を抱き締める」ことの表現になり切っているか?そうしてこそその絵は完全なものになる。そういう目で見る時、確かにあの左手は、あの状況の雪さんの左手としては意味がやや曖昧であるのかもしれない。あの絵自体に特に欠点があるとは思われないが、この原画についてこういうコメントを付けることができる☆画野朗氏のプロ意識に、私は感動を覚えてしまう。

 花梨のえっちシーン原画のひとつへのコメント。
 「透矢と「対等」に扱うことが、花梨を描く上でのコンセプト」

 まさに!
 感涙。

 アリスのえっちシーン原画についてのコメント。
 「Hシーンは肌と肌が触れ合っている雰囲気を大事にしないと、全然Hくない気がするので頑張りたいところ」

 これは水月中のすべてのえっちシーンにおそらくは共通する、☆画野朗氏の拘りだろう。

 インタビューより。
 「シーンの前後の状況について事前に聞くことができていたなら、雪さんはもっとずっと素敵な表情を見せてくれていたはずですよ」

 マヨイガでの雪さんの微笑みについて。
 あの、じっと見つめていたら何かが失われてしまうのではないかと恐れずにいられないような、およそこの世界に存在する優しさと儚さとの最も純粋なエッセンスであるようなあの美しい一枚絵が、まだ完全なものではないなどということがあり得るのだろうか?


2002/12/22 (日)
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 妹汁[アトリエかぐや]はそれなりに面白かったし萌えるのだけど、私的にはいまいちインパクトが弱くて早々にリタイヤ。
 ゲームとして詰まらないとかそういうのじゃなくて、どちらかといえば私の熱意の問題。炉でえっちなゲームがやりたい御仁には普通にお薦めできる程度には面白い。それでも敢えて苦言を呈すれば、はじるすほどにはエロくないし、個々のキャラクターに人間らしさをほとんど感じないのが今の私にはマイナス要素になった。人間らしさを感じないというのは、つまり彼女たちが可愛くはあってもその可愛さはあくまでもエロゲーキャラの役割に特化した可愛さであって、言ってみれば彼女たちの笑顔は風俗嬢のそれと大差ない、ように思えた。私は、生活、こそが見たいのに。
 (いや、風俗には行ったことありませんけど)
 (そもそもロリゲーにそういうのを期待する私の方がたぶん間違っている)

 現在、ヤミと帽子と本の旅人[ROOT]プレイ中。
 藤姫も良いが、それよりなによりミルカのお風呂シーンに理性を破壊されそうになった。
 はじるすのしおりたんとかもそうなのだけど、幼女のお風呂シーンはこの世でもっとも美しいもののひとつだと思う。

 ただ、現状ではエロシーンがなさすぎてそれが少々不満。


 で、そんな誰の役にも立たないようなことを書いても仕方ないので、先日書いて没にした大往生攻略メモを拾って掲載することに。
 弾避け、繋ぎ共に5面最難関であると思われるメカ蜂地帯の完全パターン。

 メカ蜂は、中央、左、右、右、左、中央、左右、中央、と計9体登場する。

 まず画面中央からメカ蜂[1]が登場。これは青弾を右に避けつつレーザーを撃ち込んで破壊。壊れたらショットにして周辺の雑魚を撃ちつつ一旦画面右端まで行ってそこからレーザーにして切り返し、画面左端まで移動する。レーザーにするのは、青弾(小)を連射してくるミニ水晶をあぶってコンボを安定して繋ぐためである。

 続いて画面左からメカ蜂[2]が登場。これは画面左端に密着して青弾をやや左に撃たせて右に避けつつレーザーを撃ち込み破壊。壊れたらショットにしてすぐに画面中央付近に移動して次のメカ蜂に備える。

 すぐにメカ蜂[3]が画面右より登場。これはメカ蜂の左側にレーザーを当てて青弾を右に移動して避けつつ破壊する。壊れたら一気に画面右ちょい上へ移動して、左から襲ってくる針弾に粗密状態を生じさせ、針弾の隙を見て切り返す。言うまでもないが、画面下の方でもたついていると道がなくなる。切り返したら一旦画面左端まで移動してザコを撃ち、すぐにまた右へ切り返す。ここで一瞬レーザーにして3個目の蜂を出すとより安定する。

 メカ蜂[4]が画面右に登場。ここは慣れないうちはコンボが切れやすいポイント。画面右端でメカ蜂を壊すとなぜかコンボが切れることがあるので、メカ蜂のほぼ真下でレーザーを撃ち込む。尚、壊れたらショットにして最速で画面左端へ移動すること。

 メカ蜂[5]が画面左に登場。こいつは画面左端やや上の方で待ち構え、出現と同時にレーザーを撃ち込んで破壊。青弾は下要素の移動で避ける。最速で移動して待ち構えていないと弾避けが著しく困難になるか、最悪、抜け道を針弾に塞がれてしまう。

 すぐにメカ蜂[6]が画面中央に登場する。撃ち込みポイントはメカ蜂の左半身。破壊したらレーザーのまま(ここでショットを使うと直後に撃つ物がなくなってゲージが足りなくなる)左から出てきているザコを「一機ずつ」壊していき、次いで縦に並んだ水晶2つを、上に移動しながら壊す。

 するとそのまま、画面左右同時に展開されるメカ蜂のうち右側のやつ[7]にレーザーが繋がる。ここのメカ蜂をあぶっていると画面左から針弾が飛んできているのが目に入るので、針弾を安定して避けられる位置まで自機を真下に下げる。安全位置をキープした頃にメカ蜂[7]が壊れるので、壊れた瞬間に左へ移動。ザコをレーザーで一機だけ撃ってからショットにして最速で画面左端まで移動。メカ蜂[8]にレーザーを撃ち込む。ここも青弾と針弾は下要素の移動で避ける。先ほどと同じく最速で移動しないと道を塞がれてしまうので注意のこと。

 メカ蜂[8]を破壊したらしばらくショットで画面左から出てくるザコを撃ち、頃合いを見て画面中央に出てくる最後のメカ蜂[9]にレーザーを撃ち込み破壊する。破壊したらショットにしてゆっくりと画面右端やや上まで移動。そこからちょっとずつ下に降りながら針弾等を避け、画面下に着くちょっと手前辺りでハイパーを発動。画面左端から出てきていたザコが3〜4体残っているはずなのでそれらをまとめて処理して画面中央付近まで移動する。

 まあ結局、細かい部分は何回も練習して体で覚えるしかないのですが。
 このパターンを使って以降、コンボはほぼ100%成功してます。
 あと、際どい弾避けをしなくて良いのが美味しいところ。


2002/12/21 (土)
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 今日も普通に仕事してました。

 年末は30日まで仕事らしいです。
 こういうご時世なんで仕事がないよりはあるほうが良いのかもしれないけど、でも考えるとちょい憂鬱。

 あと、ボーナス出たりとか。
 11月入社なんでほんのわずか(エロゲ数本買える程度)だけど。

 ***

 大往生(白)。
 ようやく1周5億達成。

 ***

 予定では今頃は藤姫(*´Д`)ハァハァのはずだったのだけど。
 眠くて無理。


2002/12/20 (金)
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 残業で疲れたので今日の夕食は白雪特製チキンときのこの香草グラタンハーブの香り付きです。
 (セーブオンで買ったんだろうがとか突っ込む意地悪な輩は雪さんビンタの刑…だと悦ぶ人がいそうなので…ニヤリング那波パパの刑です)

 今日は咲耶の誕生日な訳ですが、お祝いメッセージはとっくに咲耶スレに投稿済みなのでこちらでは敢えて言わず。

 幼咲耶(おさなさくや)は可愛すぎるのだけど、それゆえにあの話は一層心に痛い。
 結果としては、あの話を観たことで咲耶がいよいよ愛おしく感じられるようになったのだけど、だからと言ってあれを許せるというものでもない。

 昨日の文章を書いてみて自分の中でようやく明確になってきたのだけど、要するに私が一番言いたかったのは、
 「あれではまるで決着が付いた後みたいじゃないか」
 ということなんだよね。

 これは結局、手法の間違いということなんだろう。
 あの、幼咲耶と現咲耶を対比させる演出方法は、あれがもしお兄様が誰か他の女性と結婚することが決まってしまって嘆き悲しむ咲耶、を表現するためのものだったら本当に完璧だったと思う。幼い咲耶にかつての夢や憧れを語らせることで、無邪気な日々の終焉はいよいよ明瞭に、残酷に、切実に、なるからだ。
 しかし第二話「ホーリーウェディング」の時点では、無邪気な日々はまだ終わってはいないのである。彼女自身が信じる強さを持ち続けていられれば、まだ希望は残されているのである。咲耶は既に運命の赤い糸を無邪気に信じていられる年頃ではあるまいが、でも咲耶が願っている間だけは、運命の赤い糸は未だに咲耶の小指に結ばれているのである。
 おそらくあの脚本を書いた人は、切なさの表現という目的に目が眩んでそのための手法を誤ったのだろう。一口に切なさと言っても、あそこで本当に語られるべきだったのは「幸福が失われてしまったゆえの悲しみ」ではなく、「いつか失われる日が来るのではないかという不安」なのである。あのお話は確かに美しいのだが、敢えて言ってしまえば、表現のための表現に堕してしまっている。美しくはあるが必然性を伴わないという弱さがある。
 例えば9話Bパートの春歌が傘を開くシーンがなぜあんなにも心に染みるのかと言えば、それはあの闇夜にぱっと開かれる傘のピンクの鮮やかさが春歌の満面の笑顔(喜び)を象徴しているからだ。12話Bパートに足りないものはそれだった。そういった、内部から湧いてきた物の自然な発露であるような美しさというものは、あそこには残念ながら見られない。
 いかにあの話が表面的に切なかろうと、ちび咲耶が可愛かろうと、咲耶を愛する者として、それを看過することはできない。

 あれではまるで決着が付いてしまった後みたいではないか。
 咲耶のタタカイはまだ終わってはいないというのに。


2002/12/19 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#19


 少女相手に丁寧な言葉で話す初老の紳士、というのはこの世で最も格好良いもののひとつだと思いませんか?(挨拶)

 ***

 リピュアBパートは、結局一般人気下位グループが恵まれて(白雪は結局不遇でしたが)、そうでないキャラが不遇、という結果に終わったようで。
 まあ、雛子、四葉、春歌、鞠絵、の魅力を新しく発見できたというだけでも、私は心からリピュアを評価します。

 体調不振が抜けないので、今日の夕食は白雪特製もつ煮と白雪特製里芋の煮っ転がしと白雪特製ひじき煮と白雪特製ゆうげです。
 (スーパーのタイムセールで半額で買ったやつだろう等のツッコミを入れる心ない人のところにはもれなくウィルスメールが届くような気がしなくもないのでよろしく)

 ではおやすみなさい。

 ***

 花穂と鞠絵のネガティブな部分を純粋抽出したらそんな妹になりそうな気もしますが、いずれにしてもそういう設定はコンシューマーよりもエロゲ向きであろうと思います。清濁併せ呑むのがエロゲのメリットであるというか、濁の部分すら萌え表現とできるだけのキャパを持つのはおそらくエロゲだけなので。誰か書いてくれませんかね、そういうキャラ。いやマジで。

 ***

 咲耶スレッドが荒らされてるのを見たらなんか無性に悲しくなってしまった。
 今の咲耶(職人さん)は近日中の引退を表明しているので、せめて最後は綺麗に終わって欲しかったのだが。
 いや、もちろん新スレが既に立っているので別に邪魔されたというほどではないのだけど、ただ、なんか水を差されたような嫌な感じ。

 リピュアAパートについては、衛がスカートを履いていたこと(しかも花穂のを借りて)、花穂のメイド服が見られたこと、ぐらいしか語ることがない。
 それ以外には、ネタツッコミ(トニオとか)と批判(妹たちの行動の噛みあわなさ)しか出てきそうにない。

 Bパート、咲耶。
 あんまり感じるところがなかったのだが、リピュアスレを読んでみるとどうやら絶賛の嵐。
 そんなこんなでもう一回観てみる。
 おそらくこの辺りに気づくことができるかどうかが分かれ目なのだろう。
 残念ながら、私はこの点に気づくことができなかった。

 自分でも明確に自覚していなかったのだけど、私がBパートを評価するポイントというのは「そのキャラが魅力的に描かれているか」ということただ一点だったような気がする。評判が良いらしい鈴凛(6b)や咲耶(12b)を、私がどうして評価できないのかといえば、それはアニメ作品としてどうこうよりも、結局はキャラクターが魅力的に描かれていなかったという点に、おそらく尽きる。確かに鈴凛の回はアニメ作品として観れば見事な出来映えだったと思うが、それでも敢えて言えば、私はあれを観ても鈴凛の新しい魅力を発見することはできなかった。あれはあまりに作家性(という言い方で良いのか?)が前面に出過ぎていて、言うなればジブリ色の前に鈴凛というキャラクターが隠れてしまっていた。だから私はあの回を評価しない。では咲耶の回はどうだったのだろう? ちび咲耶とでか咲耶との対比、という図式を念頭に置いて観れば、確かにこのお話はよく描けている。二回目は、正直言えばちょっとじんわり来た。ただそれにも関わらず、やはりこれは私の観たいものではなかった。なんというか、あの咲耶は、現実の前に既に負けてしまっている、ように映るのだ。いつまでもお兄様の傍にいられないことを知りつつもぎりぎりで希望は捨てない諦めの悪さが咲耶というキャラの肝であるのに、今作の咲耶は兄妹であるという現実の前にただ涙を流すしかない。無邪気な子供時代の咲耶との対比も、現実の残酷さというものを一層際だたせている。そもそもキャラコレに対する2話の「ホーリーウェディング」という話は、ピアノソナタや交響曲の中のひとつの楽章のようなものなのであって、咲耶について綴られた七つのお話の中のひとつという位置づけであるからこそ、他のお話と相互に輝き反射しあって咲耶の魅力を様々に照らして見せているのである。それを無視して2話だけを単体で出してみても正しい効果は得られまい。咲耶は確かに現実の前に涙を流すような瞬間を持っている。しかしそれが咲耶のすべてではない。いつかお兄様を振り向かせるんだからと信じる強気な咲耶、消せない絆の存在に安心を見出し今はこのままでいいと呟く咲耶、というのもあるのである。

 よくも俺の咲耶を泣かせやがったな!!(泣)


2002/12/18 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#18


 今日は朝から腹痛と吐き気が酷かったので会社をお休みさせて頂きました。
 昼間いっぱい寝たおかげで今は持ち直してます。

 ***

 ところで、体調が悪い時に見る夢、というのはいつもある程度パターンになっているような気がします。
 子供の頃からそうだったのだけど、私の場合は、何か大きな丸いものがすごい圧迫感を持って次々に迫ってくるような感じ。

 話は飛びますが、ベートーヴェンの作品110のフーガというのは、美しい物語(場面)というもののひとつの究極のエッセンスだと思っておりまして。
 AIRやONEやねがぽじの終幕に底流するもっとも根元的な部分を音楽にしたらそれはすべて作品110のフーガに辿り着く、という風に。

 それに対して、作品111の第一楽章は、悪夢の世界の音楽化であるとずっと思ってました。
 何か大きな丸いものがすごい圧迫感を持って次々に襲ってくる。
 時折訪れる静寂ですら、それは次に来るカタストロフの前触れでしかないことが分かってしまうゆえに、恐怖を一層増幅させる。

 そんなことがあって、私はこの音楽がどうしても好きになれないのです。


2002/12/17 (火)
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 目のうろこ [小田空/集英社]

 へりこぷたと像と風船(P.194〜)。

 この世界には、何もない空中から魔法のニャンコをつかみ取ることができるような人がいるのである。
 その事実を前にして私はただただ震えてしまう。

 私はそんなことができる人間ではないけれど、いつかそんな人に出会う日が来るかしら。
 この世界のどこかにそんな人が住んでいて、いつか出会える可能性があるのなら、人生というものはやはり頑張って生きるに値するものなのかもしれない。

 いつか小田空のような人に出会えると信じられたら、私はまだまだ生きられる。


 お話の世界というのは「思い出」のようなものなのかもしれません。

 それは目に見える形としてはどこにも存在しないし証明もできないし、いかなる形であれ関与することは叶わない。
 それにも関わらず、それは確かに存在している。
 私が覚えている限り、思い出はいつでも傍にあるし、雪さんはいつでも微笑んでくれる。

 思い出は決して触れることはできないけれども、そこにあるだけで私たちをほんの少しだけ幸せな気持ちにしてくれます。
 お話の世界には決して触れることはできないけれども、そこに思いを馳せるだけで、私たちはそこから微かな勇気を受け取ることができます。

 余談ながら、はてしない物語[エンデ]のテーマは、正しく関わればお話は人生をより潤いのあるものにしてくれる、ということでした。
 そういうお話に出会えるというのは、おそらく普段私たちが意識するよりもずっとずっと幸せなことなのだろうと思います。


2002/12/15 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#15


 ここ二週間に渡ってリピュアAパートがクソ詰まらなかったのは咲耶が生理中だったからなのか。
 なるほど納得。

 毎週水曜日深夜が今の私の生きる糧だと言うのに…。


 シスタープリンセス RePure.

 10話Bパート、鞠絵。

 作画に恵まれたこともあって、非常に美しい仕上がり。
 冒頭の寝顔から目覚めに至る流れ、それからミカエルを洗っていて水をかぶってしまう場面など、仄かな色っぽさの演出が鞠絵という女の子をこの上なく魅力的なものにしている。
 それから今回の話で特に注目に値すると思われるのは、鞠絵というキャラクターを単なる病弱で気弱なキャラとして描かないで、むしろ儚さという側面を強調したという点だろう。今回の物語が退屈と紙一重のところでぎりぎり、心に染み入る静けさの魅力を保ち続けているのは、ひとえに彼女を儚い少女として明確に方向付けていたからに他ならない。言葉にすると当たり前のことながらも敢えて確認しておきたいのだが、鞠絵というキャラは療養所生活を送らなければならない病弱な身でそれゆえに他の妹たちと比べると弱気さが目立ってしまうが、本当は彼女は体は病気であっても心はごく健康な女の子なのである。鞠絵=病弱という図式はあまりに一面的なものでしかない。体調が良い時の鞠絵がどんなに可愛い女の子であるかということを、この10話Bパートはこの上なく雄弁に語っている。作り手は、鞠絵の魅力を伝えるために、彼女を弱々しいキャラとして描く代わりに体調の良い普通の状態の鞠絵というものを丁寧に描いてみせる。実に興味深いことながら、そういう手法を取ることによって鞠絵の個性は失われるどころか、却って他の妹たちとの差異がいよいよ明瞭になり、彼女がどんなに儚い女の子であるかがはっきりと浮かび上がってくるのである。彼女は元気である時ですら、どことなく頼りなさを感じさせる。前半の体調が良い状態の時ですら、彼女の姿に、私は、触れることを躊躇わせるような繊細さ、儚さを感じずにはいられない。しかもそういう比較的健康な状態の時ですら、彼女の体調は水を被るという程度のことによってあえなく失われてしまうのである。これは他の妹たちとはなんと違うことだろう。普通の状態、というものが鞠絵と他の妹たちとではもう全然違うのである。
 それだけに、鞠絵が傍にいない兄のことを想う時、その想いはいよいよ強く、切実に、私の胸に迫ってくる。後半の鞠絵の心象風景(?)の辺りの演出は正直言ってやや疑問に感じないでもないが、それにしても夢の中で兄と再会した時のあの鞠絵の正面顔を前にして、私はなす術もなくただ泣くしかない。あれはもう、「四葉のこと好きになってくれるかな?」のくだり、春歌と兄の出会いのくだりと並んで、リピュアの中でも最も美しい、ほとんど奇跡のような美しさが実現された場面のひとつにしか数えようがない。しゃがみ込んで涙を流す鞠絵の前に兄が現れて、その瞬間、風景が一変する。この場面の劇的な美しさを言い表すための言葉を私は持たない。ただ「気が付いたら泣いていました」と言うしかない。
 最後に終幕のこと。鞠絵の髪が風に揺れている演出は、細部にまで手を抜かない丁寧さのひとつの例として指摘しておきたい。晴れた空の下、兄の腕に抱かれながら、鞠絵は風が運んでくる高原の緑の匂いを全身で受けて静かに満ち足りている。悪夢は終わったのである。


 大往生。

 今週一週間で8プレイ。

 2-2ボスノーミス突破率100%、2-5到達率は50%。
 ちょっとずつだけど確実に上達してるのが実感できる。

 今日最後のプレイで自己ベスト更新。
 5.75億(2-4ボス)。

 あとそれとは別に黒版で練習してみて、ようやく2-5ラスト付近のノーボム突破パターンが見えてきた。
 大型爆撃機x2→広域赤弾砲台+蛾爪の場所は画面左端で粘ってから右端まで移動して切り返してもう一度左端まで移動すれば、最後の大型戦車x3が射程に入る頃には蛾爪も一掃されて確実に大型戦車にレーザーを撃ち込むことができる。
 ただしこれは黒のパターンなので、白の場合は切り返し時にハイパーを使う必要があるかもしれない。


 ハーレムのないトラビュランスには用はありません。
 裏切られた痛み(何勝手なこと言ってますかコイツは)は妹汁で癒すことに。


2002/12/13 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#13


 仕事がめちゃ忙しいので、精神のバランスを取るために適当に文章を書き流します。
 以前と違ってプレッシャーとかそういうのはないので、忙しいと言っても別に苦痛ではないし、自覚できるレベルでのストレスなんかも全然ないのですが。

 入江さん、そういう訳でメールの返事は日曜日頃までには必ず書きますんで。
 結論だけ言えば「おっけー」です。
 詳しくは後ほど。

 秋子さんは処女か非処女か?
 などという、どう考えても自明であるようなネタで議論が成り立ってしまう2ちゃんねるという空間は本当に面白いなあなんてことを以前から考えていた。
 というよりも、要するに秋子さんが処女であることは明白であるのにどうしてそういう議論が成り立つんだろうと。

 ショパンのノクターンop.15-1 の響きの向こう側には雪さんが見える気がする。
 主旋律は雪さんの微笑み。でもその微笑みはほんの表面にすぎない。その裏で絶え間なく繰り返される3連符のように、雪さんの愛情は尽きることなく湧き溢れる。一見すると単純この上ない旋律は、実は3連符の流れの一部が目に見える形を取ったものなのである。

 ショパンのノクターンop.15-3 の後半の調べが初めて耳に入ってきた時――というのは初めて魅力に気づいた時という意味だが――、私の心の中に浮かんだのは銀色のあやめのことだった。太陽の光は眩しすぎるけど、月の光ならこんなわたしでも優しく照らしてくれると思った、という台詞がある。かなりうろ覚えだが、大意ではこんな感じだったはず。あの後半の旋律を、私はどうしてもあやめのこの台詞と結びつけて考えずにいられない。ここで私たちを照らす月の光は例えばドビュッシーのそれとはまるで違う。ここにあるのは、夜空を明るく照らす月(※)でもなければ、静謐を表す月明かり(※)でもなければ、常に変わらず人の営みを見つめ記憶し続ける存在としての月(※)でもない。この地味な夜想曲で描かれる月は、あやめがおそらくこの世界で唯ひとつ心から信じたもの、この世界でおそらく唯一心を開くことができたもの、としての月だ。儀助はどうなのかとあるいは問われるかもしれないが、感傷を排して見てみれば、あの物語において、儀助はあやめと出逢って再び他人に心を開くことを覚えるのだが、あやめは遂に人間に対して心を開くということを知らずに逝ってしまうのである。おそらくは他人というものの存在を理解できなかったであろうあやめにとって、唯一近しく感じられたものが月だった。あやめは闇の中に住んでいた。辛いだけの現実から目を逸らすために、闇の世界に住むことを選んだ。そういう彼女が昼の明るさよりも夜の暗さの方により親しみを覚えたであろうことは想像に難くない。夜の闇はあやめ自身だった。夜。小さな窓の向こうの世界にはいつも月が輝いていた。太陽の輝きは闇を打ち消してしまうが、月の弱々しい光は闇をうち消さず闇を照らし出す。太陽は闇を否定するが、月は闇を優しく照らす。それだからこそ、あやめは月に親しみを覚えずにはいられなかった。そういう月が、ここにはある。

 (※)
 順番に、ベルガマスク組曲第3曲「月の光」、前奏曲集第2巻7曲「月の光がふりそそぐテラス」、映像第2集2曲「荒れた寺にかかる月」。


2002/12/2 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#02


 リピュア、9b春歌。

 春歌がにっこり微笑んで、はしゃいで傘をぱっと開くまでのくだりは本当に美しい。
 何回観ても体が震えてしまう。

 これほどの幸せがあっても良いものだろうか?

 ***

 リピュアスレに拠ればBパートは毎回豪華なスタッフが用意されているらしい(私は名前はひとつも分からない)が、もしそうだとすればリピュアBパートというのはアニメーターにとってもひとつのお祭りなのだろうか。つまり、どこぞの宣伝風な大袈裟な言い方をすれば「有名アニメーター諸氏の華麗なる競演」とでもいうような。

 ***

 大往生(白)。

 2-2ボスで死亡…というのがネタになるぐらいには安定してきている訳だけど。
 今日は二次形態で安地に入って扇状弾を4回やり過ごした直後に反応する間もなく死亡。安地から逃げる前に発狂青弾が襲ってきたら対処のしようがない。ヤバイと思う暇すらなく死んでしまう。原因はおそらく、二次形態の撃ち込み開始タイミングがわずかに早すぎたこと。2ボス二次形態はバグでダメージ受付タイミングが一定しないので、確実に一定量のダメージを与えるためには青扇状弾の射出とレーザー撃ち込みタイミングをぴったり合わせる必要がある。そのための目安となるのがハッチの開閉なのだが、ハッチが開いてから青弾が出るまでにはわずかに間があるため、ハッチが開いた瞬間にレーザーを撃ち込んでしまうとダメージが余計に入って早く発狂形態に移行してしまうことがある。そうなったらアウト。従ってハッチが開いたのを「目視で確認してから」Aボタンを押す、のを徹底する必要がある。
 明日確認のこと。


2002/12/1 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2002-12.htm#01


 大往生(白)。

 スコアだけ更新。
 5.57億、2-4ボスまで。

 ***

 電撃アニマガ vol.2 [MediaWorks]
 12人の妹たちのメイド服姿が載っているということで買ってみたのだが、正直いまいち。
 わざわざ950円も出して買うほどのものでもない。

 ***

 こういうのを読んでいると、shelarcyさんとサシでシスプリ談義とかしてみたいなあなんて誘惑を感じてしまう訳ですが。

 私にとって美しいとかなんとか言う以前に幸せだとしか言いようがないあの8b四葉はどういう訳か世間ではあまり評判はよろしくないようで、他人は他人、私は私であるとはいえなんとなく寂しさを感じてしまったりしているのですが。そういうこともあって、あの四葉の回を美しいとかなんとかではなくてただただ愛おしむことができる人に対して私は好意を持たずにはいられないようです。
 すげえ恥ずかしいことを書いているような気もしますがその辺りは考えない方向で。

 9b春歌について。
 かざみさん[11/28]から飛んで電脳御殿[11/28]の春歌についての一文は必読。

 俺は春歌の「和風」な部分を美しく描き切ったスタッフのセンスをこそ全力で評価したい。
 誰が何と言おうと、シスプリで一番「女」を感じるのは春歌だと思います。


 分析や考察というよりも、9b春歌の回の魅力のツボを端的に語ってみせたものとして、本当に素晴らしい文章。

 ***


 すごく余計なことだが、教養というものを単なる分類や解剖の手段とせず、魅力を的確に掴み表現するための手段として用いている辺りにも好感を抱きます。知識の蓄積自体には私は価値を認めない。知識は手段であって目的ではない。学者にとってはまた事情が異なるのかもしれないが、少なくとも私にとって、教養というものは作品の美しさを発見し作品を正しく把握するためのもっとも重要なツールだ。というよりも、美に対する鋭敏さを身につけるためにあるのでなかったら、教養などというものは何のためにあるのか私には分からない。

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 それはそうと、目の前で内緒話をされるぐらいなら面と向かって悪口を言われた方が遥かにマシだと思うのは私だけですか?
 ということで昨日の謎のリンクに関する情報希望。本気で。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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