終末の過ごし方 感想


◇Index

【1】 俯瞰

 《1−1》 印象
 《1−2》 テーマ
 《1−3》 生と死

【2】 各シナリオ

 《2−1》 宮森香織
 《2−2》 敷島緑
 《2−3》 大村いろは
 《2−4》 稲穂歌奈
 《2−5》 大塚留希
 《2−6》 瑞沢千絵子

【3】 終わりに…


【1】 俯瞰

《1−1》 印象

 『終末の過ごし方はすごく良いゲームだけど、ああいうゲームは他人には薦めたくない』

 どこでだったか、誰の発言だったかも憶えていないのですが、ネット上で、こんな意見を読んだことがあります。この発言をした人の思惑の正確なところはもちろん私などにわかるはずのないことなのですが、しかし、当時の私はこの意見をすごく正しいと思いました。ある種のゲームは、皆で意見交換をし、談笑し、気持ちを共有することで、いよいよ充実した楽しみを味わうことができます。例えば、娯楽性の高いアリスソフトのゲームなどはその例に属するでしょう。こういうゲームについて他人と延々お喋りするのは楽しいものです。しかし、それとはまったく違った種類のゲームというのもあります。誰かと気持ちを共有することをまったく必要とせず、ただ孤独に、そのゲームと一対一で向き合うことこそが一番重要だと感じられるような種類のゲームです。

 “他人に薦めたくない”ような作品。終末の過ごし方という作品は、まさにそういう存在ではないでしょうか。少なくとも、私にとっては、そうです。この作品は本当に美しいけれども、それは例えばデアボリカやONEとはまったく違った種類のものです。デアボリカやONEといったゲームは、美しさで人を酔わせます。こういうゲームでは、“美”は私たちを圧倒し、飲み込む、と言い換えてもよいでしょう。対して、終末の過ごし方の場合だと、“美”は私たちに少しも迫ってこない。この作品では、起こる事のすべては、ひたすら淡々と語られます。ここには、聞き手の注意を引こうとか、驚かそうとかいう身振りは少しもありません。ただただ、私たち聞き手を信頼して、静かに、必要なことだけを語る、という姿勢。実生活で誰でも経験があるのではないかと思いますが、私たちの耳は大声を受け付けないように出来ています。大声に驚くことはあっても、そんな風にして語られた言葉は私たちの心には届かない。本当に心に届く言葉は、いつも、静かに語られます。言葉というのは、内容よりも信頼の裏付けの方が重要だからです。私たちは、そういう風にして語られる言葉には喜んで心を開き、受け入れます。終末の過ごし方の文章は、まさにそういう種類のものではないでしょうか。

《1−2》 テーマ

 ところで、終末の過ごし方のレビューを色々と読んでいると、しばしば「ボリューム不足」という言葉にぶつかるのですが、私にはこの言葉の意味するところがどうもよく判りません。ボリューム不足の意味はおそらく「語られることがあまりに少ない」ということなのでしょうが、しかし私には、この作品のボリュームは適切だと思えます。適切である、というのは、つまり最低限必要なことだけはしっかりと語られてるという意味です。
 この作品は、テーマとして、生と死の問題を取り扱っている訳ですが、それと共に忘れてはならないことは、ここで語られてるのが徹底的に個人レベルの問題であるということです。例えば、周知の通り、この作品では「なぜ人類は滅ぶのか?」についての説明は、一切ありません。しかしこれが説明不足であるかどうかは、もう少し考えてみる必要があるのではないでしょうか。つまり、語られなかった理由を、です。そういう風に考察していくと、この作品のテーマもよりはっきりと見えてくるはずです。

 人類が滅ぶという事実についてなんの説明もないのはなぜなのか?
 これは結局、説明が不要だからなのです。例えば一週間後に世界が突然滅ぶと想像してみてください。私たちになにができるでしょう? 一個人としての私たちは、世界がなぜ滅ぶのか知ったところで、それに対してなんらのリアクションをも取ることができないのです。原因が判っていようといまいと、私たちは結局、終焉を受け入れる以外に選択肢を持ちません。人は死に向き合う時、文明や社会から離れた一個人に戻らざるを得なくなる。社会との関わりを失った単なる個人としての人間は、世界に対して、本当にちっぽけな無力な存在でしかありません。しかしライターさんが書きたかったのは、まさにそういう人間だったはずです。世界の終焉は、一個人としての知裕や香織にとって、文明や社会秩序の崩壊ではなく、死をもたらすもので、それ以外の何物でもないのです。結局“確実に訪れる死”という事実だけが重要なのであって、世界がなぜ滅ぶかなんてことは、知裕たちにとってはなんの関係もないのです。

 これに関連したことで言えば、この作品の舞台がほぼ完全に学校に限られているのも興味深いことです。世界の終焉などという設定と聞くと、私などは真っ先に新井素子の「ひとめあなたに」を思い出すと共に、終末=狂気という連想をどうしてもしてしまうのですが、しかし実際には、重いはずの設定とは裏腹に、これほど淡々と、静かに進行するゲームは他にありません。このゲームでは、舞台を学校に限定することで、一種の穏やかな閉鎖空間を作り出しています。これは言うまでもなく“日常の残滓”の象徴です。肝心なことは、この空間が外界から隔離された存在として演出されているということです。外界で流通が麻痺しようと、暴動が起きようと、それはもはや知裕たちとは関わりを持ちません。外界で何が起きようとも、知裕たちは、生きている限りは生きなければならない。個人を取り巻く最も小さな環境を“日常”と呼ぶとすれば、外的状況がどれほど変わろうとも、人は結局日常の中を生きるしかありません。この物語では、かなり意識的に、社会と個人とが区別されています。
 本来、人は皆、社会となんらかの関わりを持って生きています。もっと言えば、社会との関わり、社会の中での自分の位置といったものを確認しているから、私たちは安心して生きていられるのです。しかし私たちは社会に依存して生きている訳でもありません。社会とは関わりのない部分として存在する、一個人というのもあるはずです。人間が生まれること、死ぬこと、笑うこと、泣くこと、愛すること、怒りや憎しみ、こういったものは、社会とはなんの関わりもなく人間に本来的に備わっているものです。人間というのはいつも、社会と日常、二重の生を生きているとも言えます。ところがこの物語では、避けられない終焉の存在が、社会と人間との関わりを絶ってしまいます。あと1週間しか生きられないという状況で、社会との関わりはその意味を失います。あらゆる肩書き〜「学生」ですらひとつの肩書きです〜は肩から落ちて、後には裸の個人だけが残る。
 終末の過ごし方がボリューム不足に見えるとしたら、まさにこの辺りに原因があるのだと思います。結局、社会との関わりを失った裸の人間を描写することが第一義である以上、終焉の説明はおろか、外界の描写すら、この物語は必要としないのです。外界で何が起きようとも、知裕も香織もいろはも緑も皆、自分だけの生、自分だけの日常を生きていきます。そしてそれだけが、彼らに残された生でもあります。繰り返しになりますが、終末の過ごし方が短いのは、語る必要のあることだけを語る、それ以外のことは語らない、という姿勢があるからです。すべて作品というものは、必然性の有無こそがもっとも問題にされなくてはなりません。ある作品が長大なテキストを持っているから立派だなどということはなく、肝心なのは“必要なだけの長さ”を持っているかどうかです。例えば、春琴抄が短いのも、細雪が長いのも、作者(谷崎潤一郎)が必要にして十分なだけのことを語ろうとした結果に過ぎません。細雪はとてつもない名作ですが、だからといって春琴抄が細雪に劣ると考えるのは見当違いだと言わざるを得ないでしょう。

《1−3》 生と死

 あらゆる存在は一度だけだ。ただ一度だけ。一度、それきり。そしてわれわれもまた一度だけだ。繰り返すことはできない。しかし、たとい一度だけでも、このように一度存在したということ、地上の存在であったということ、これは打ち消しようのないことであるらしい。  『ドゥイノの悲歌』(リルケ/手塚富雄訳/岩波文庫)

 終末は、あらゆる因習を壊して個人をまる裸にしてしまうのですが、それは同時に、人が自分の生を確認する手段をたったひとつしか持たなくなったことをも意味します。つまり、あらゆる肩書きが意味を失った世界では、人は他者との関わりの中に自分の存在を見出すしかなくなったということです。終末の過ごし方にテーマがあるとすれば、結局はここに尽きるのではないかと思われます。ハッピーエンドではお互いを確認できる他者を見出し、バッドエンドでは登場人物たちは文字通り孤独な死を迎える。終末のカップルたちが、死を目前に控えて刹那的な繋がりを求めたというのは、意見としてはおそらく性急に過ぎるでしょう。彼らの内には、他者を見出す必要が、切実な必要があったのですから。

 もちろん、彼らに与えられた時間はわずかなものでしかありません。知裕が独白しているように、束の間の幸せを享受した瞬間に世界は終わってしまう。しかし、例え一瞬であっても誰かと寄り添い幸せを享受したこと、それだけだって十分に“たいしたこと”ではないでしょうか。終末が来ようと来まいと人はいずれは死に捕えられる、という意味において、この物語は人生の縮図だと解釈することもできます。普段、私たちは死をほとんど自覚することなく生きています。人はいずれ死ぬ、というのが事実であることは誰でも知っているけれども、それはあまりに漠然としており、実感できるような種類のものではありません。終末の過ごし方という物語は、この事実を登場人物たちに(私たちにも)突きつけます。正確に言えば、「死という不確かな何か」を、私たちが実感できるような形で提出してみせたのです。この物語で語られる人生と、私たちが生きている人生との間にはそれほど大きな差がある訳ではありません。差があるとすれば、それは死についての意識の問題だけではないでしょうか。終末〜の物語はハッピーエンドと呼べるのかどうか? と仮に問われれば、私はおそらく「是」と答えるだろうと思います。彼らは、少なくとも生きている間は生きることを放棄しなかったのですから。


【2】 各シナリオ

《2−1》 宮森香織

 かつての日常の残滓にすがる人、の典型が彼女だといえるでしょう。彼女は“終末”をどう捉えていたか? これを説明するのは難しいことです。というのは、香織自身、終末と、それに伴う自分の死とを明確に意識することができずにいたのではないかと、私には思われるからです。香織が学校に通って勉強を続けるのは死の恐怖から逃げるためではないし、嘘を付き通そうという決心がある訳でもないし、ましてや自分の生を確認したいからでもありません。

  『どうしていいかわからない』

 という、うっかりすると見落とされてしまいそうなさりげない一言は、実は香織の心理を端的に表わしていたように、私には思えます。香織が親の気を引くために「良い子」を演じていたこと、それがいつしか習慣になってしまって身動きがとれなくなってしまったこと、はテキストで明示されている通りですが、ここで重要なことは、宮森香織という少女はそれを意識して、それ(演技)を嫌っていながらも、他にどうして良いか判らないゆえに、結局はその境遇に安住していることです。ところが、終末が訪れます。あと一週間しかない世界では、もはや、「良い子」であることなどなんの意味も持ちません。香織自身、そのことを判っています。しかし常に「良い子」であり続けようとした彼女は、「良い子」であることが意味を失っても、相変わらず演技を続けます。「良い子」であることを止めたら、自分にはなにも残らないことを知っているからです。死に向き合った時、優等生であり続けることだけが自分を確認できる唯一の手段だった、というのはなんとも皮肉な話です…。

 余談ですが、優等生であらねばならない理由として、「親の気を引きたいと考えた」というのは、理由としてすごく説得力があると私は思います。子供というのは、ほとんど本能的(という言葉が適切かどうか判りませんけれども)に、親に愛されること、親に肯定されることを願うものだからです。

 さて、いろは、緑、歌奈の三人のシナリオでは多かれ少なかれ受動的な存在として描かれている知裕ですが、香織シナリオでは、知裕が非常に能動的に描かれているのは、興味深いことです。これはもちろん、「ふたりは昔付き合っていたことがある」という設定があるからで、過去の克服としての知裕の成長ドラマが語られるのはある意味必然なのですが、しかしこれが単に恋愛のやり直しを意味するだけでなく、知裕にとっては、生きることの意味そのものに繋がっていくことも見逃せません。知裕は陸上で靭帯を切って以来、諦念に身を委ねて生きていました。「依存せず、期待しない生き方」という、千絵子について語られた言葉は知裕にも当てはまります。知裕もまた、終末を諦めと共に受け入れていたひとりでした。
 しかし物語はこのままでは終わりません。最後の最後になって、彼は生きることを選択します。ここに至るまで、彼は香織に告白めいたことは一切言っていないことを思い出してください。体を重ねたのだって、香織からの積極的なアプローチがあったからで、知裕の想いがどこにあったのかは、必ずしも明瞭ではないのです。しかし、知裕は曖昧な恋人関係に浸ることは許されません。この辺り、ライターさんの演出に心憎さを感じます。ラスト付近で香織が「耕野君」と呼ぶのは意味深いことです。恋愛問題含め、人間関係を維持するためには誠実な努力が必要なこと、その努力を怠れば、繋ぎとめる努力をしなければ、恋人ですら離れていってしまう、ことを暗示しているかのようです。かつての知裕だったら、香織が街を離れると聞いて諦めてしまったかもしれません。しかし今の知裕は違います。香織がどうであれ、自分の気持ちを伝えることを恐れない。例え1日だけであっても、彼は香織と生きることを求め、それを香織に告げます。
 ここに至って、知裕と香織は、死に対しての完全な勝利を獲得します。終末の過ごし方の六つの物語は、いずれも生の肯定を謳っているのですが、このシナリオにおけるほど、それが力強く謳われているものは他にないと思います。

《2−2》 敷島緑

 日常の残滓にすがる、というのは香織と同じようにも見えますが、緑の場合はそれをかなり意識に行っているという点が、おそらく両者の決定的な違いでしょう。

  『嘘もつきとおせば真実になる』

 緑は言います。悲痛な言葉です。なぜなら、これは、終末から目を背けるために本に逃避しているという以上に、知裕への気持ちをも一緒に埋没させてしまうおうとする言葉だからです。終末まであと一週間しかない、という時、緑が大きな焦燥に駆られたであろうことは想像に難くありません。あと一週間でなにができる? 私は知裕に想いを伝えられるのだろうか? 知裕に想いを伝えられないまま、私は死んでしまうのだろうか? 
 …そうして、彼女は今までで一番大きな嘘をつきます。知裕への想いなんて最初からなかったのだ、と自分に言い聞かせるのです。

  『苦しいことは知らなくていい』

 彼女は、ただ黙々と本を読み耽ります。自分を騙すために。

 しかしその一方で、緑の内にはそこまで徹しきれないなにかがあることも見逃せません。彼女は嘘をつきつつも、知裕への想いに引きずられて、おずおずとアプローチを掛けたりもする。親を口実にするという、なんとも臆病なやり方ではありますが、私としてはなにか微笑ましい気がします。
 緑は結局、知裕からのアプローチを受けるまでは、知裕に心を開くことはありませんでした。おそらく香織と同じように緑もまた、愛されることに対する自信のなさを抱えていたのでしょう。緑の場合はそれに加えて、宮森香織というかつての知裕の恋人に対するコンプレックスがあったように読めます。知裕が一時期とはいえ香織と付き合っていたという事実が緑にとってどんなに重かったかは想像に難くありません。知裕は香織みたいなタイプが好みなのかな? と緑は思う。自分は知裕には不釣合いだと感じてしまう。そして、いよいよ臆病になる。理屈からいえばおかしな話かもしれませんが、緑が臆病になるには十分すぎる理由です。

 その辺りのことを踏まえて読んでいくと、このシナリオの金曜日以降はいよいよ美しいものになります。

  『2日間だけ……ちひろを頂戴』

 緑の告白。なんとストレートな台詞でしょう。ここにはなんの飾りもありません。想いがそのまま形を取ったような台詞。緑の気持ちは、知裕を好きかどうかなんて問題はとっくに飛び越えてしまっている。下世話な言い方を許して貰えれば、男冥利に尽きると言いたい気がします。(苦笑)
 また、

  『年頃の女の子が…好きでもない男と…今日一緒にいると思う?』

 という台詞。緑でなければ言えない台詞。緑以外のキャラクターがこういう台詞を言うことはあり得ないと思わせる真実味。この台詞は完全に“緑のもの”です。先の台詞と共に、終末の物語の中でおそらく最も美しい瞬間だと、私は思います。

 最後に、

  『…がいるからいいよ』

 という台詞。これは知裕のものですが、この台詞が意味するところは、これを読んでいる人にはもうお分かりだと思います。知裕がどの程度の気持ちを込めてこの発言をしたのかは判りかねますが、ここには、知裕が香織ではなく緑を選んだ、という意味が隠されているのです。少なくとも緑にとっては、そうです。この物語は、かくして完全なハッピーエンドを迎えます。

《2−3》 大村いろは

 彼女にとって、終末はどの程度の意味を持っていたのでしょう。大多数の人間にとって過酷であるはずの終末という事実を、彼女はどう受けとめていたのでしょう。そう考える時、私はなんだか悲しくなります。いろはの内では、終末とは、きたるべき死が幾らか早く来た、という程度の認識しかなかったろうと容易に想像できるからです。

  『死に救いを求めてしまえば自殺と同じ』

 この言葉がいろはに直接当てはまるという訳ではありませんが、死をある種の諦めと共に受け入れていたという点で、彼女は自殺者の類型に属する人間だと言わざるを得ないでしょう。
 彼女が、妙に儚い雰囲気を持っているのはなぜなのか? 
 生に対する執着がないからです。人生を諦観を持って見ているからです。

 しかし、知裕との出逢いがいろはを変えます。

  『私が…君を守ってあげる。この残酷な世界のすべてから、君のことを守るの』
  『わたしがこの世界でする―――最後の約束』


 これはなにかに怯えて固く目をつむる知裕に対する台詞ですが、それ以上に、いろはの生きる決意の表明として重要な台詞です。ここで注意して頂きたいのは、一緒に歩いてみようと考え体を重ねたことそれ自体が、いろはに生きる決意をさせたのではおそらくないということです。一緒に歩くということ自体は、言ってみれば実験であり、「問い」です。その問いに、どんな答えが与えられたか。行為が終わった後、知裕は怯え、現実から目を逸らそうとします。大村いろはを失うことが辛かったのか、それとも単に体を重ねた女性が死ぬことに対する怯えだったのか、それは判断のつきかねるところですが、しかしそういう知裕を見た時、いろはは初めて自分と知裕との関係を自覚し、そこに自分の生の意味を見出します。この場面は、いろはが生に価値を見出し、生きる決意をしたことの告白として、私には興味深いものだと思われます。

《2−4》 稲穂歌奈

 この物語の中で、彼女の存在は特異でしょう。彼女は死から逃げたり、目を逸らしたりはしていません。ただ、正体の判らない死に、いくらか怯えているというだけです。

  『歌奈はばかだからそれでいいと思うんです』

 彼女は言います。もし彼女がばかだとすれば、なんと美しいばかなんだろうと、私は心から思います。歌奈はなにかしらの十字架を抱えて生きていた訳ではなく、世界を単純に愛しています。だから、自分の大好きなものが消えてしまうと言って、彼女は泣きます。彼女が自分の死を恐れるのは可能性の消失だとかのせいではありません。自分が死ぬことで、自分の想いまでもが一緒に消えてしまうことを、彼女は恐れているのです。
 知裕が歌奈に引き寄せられたのは、おそらく彼女の単純さゆえでしょう。他の登場人物たちと比べても、歌奈は、悲しみにおいても喜びにおいてもおそろしく純粋で、そこには打算やらなにやらは一切ありません。その単純さが、終末を目前に控えた知裕にとって救いになったであろうことは想像に難くありません。

《2−5》 大塚留希

 年の功、などと言ったら血の雨を見そうですが、終末のヒロインの中では一番前向きな人ではないでしょうか? 彼女は終末が来るという事実から目を逸らすこともなく、逃げることもありません。あと一週間しかない、ではなく、あと一週間で如何に生きるか、を彼女は考えます。そして、かねてよりの念願だった医師になってやろうと彼女は考える。他のキャラクターたちが多かれ少なかれ迷っていることを思い出すと、大塚留希というキャラクターはかなり前向きな存在です。

 留希先生のポジティブなキャラクター(性格)ゆえ、このシナリオは、他のものと比べると、なにか生き生きした印象を受けます。勿論、他のシナリオが生き生きしていないというのではありませんが、ただ、他のシナリオでは、少年少女たちの気持ちの流れるままに、自然に恋愛関係が発生するような印象を受けるのに対して、留希シナリオで語られる恋愛は、より意志的だという気がするのです。もしこう言って良ければ、一番恋愛らしい恋愛として描かれているのが、このシナリオだと思います。

 私はこのシナリオが好きです。このシナリオで、留希先生と多弘は、寂しさからの癒し、あるいは逃避を求めて体の繋がりに走るのですが、それを契機にそのままふたりだけの世界に閉じこもって偽りの平穏さに溺れてしまうということがありません。体の繋がりを得たことによって、ふたりの関係は居心地の良い悪友的なものではなくなります。友達としての安定した関係を失い、彼らは迷います。留希先生の言葉で言えば、

  『わたしはこの少年を利用しているだけではないのか?』

 という懐疑。なんとも誠実な姿勢ではないでしょうか。あと2〜3日のうちに世界が滅ぶという状況にあっても、彼らは自分を偽らず、自分の良心に従って、最良の、悔いのない選択をしようとして悩むのです。

《2−6》 瑞沢千絵子

 終末が来る、という事実にさして驚かなかったろうと想像される点で、彼女はいろはと似ていますが、いろはが終末を諦めを持って眺めていたのに対して、千絵子は終末を苦しい生の終わりと認識していたように見えます。

  『死に救いを求めてしまえば自殺と同じ』

 というシゲさんの言葉は、おそらく千絵子への揶揄が幾分かは含まれていたでしょう。しかし自殺を生きることの放棄と捉えるとすれば、彼女は実は生を放棄してはいません。死に救いを見出していたのなら、彼女はなぜ走るのでしょう?

  『私には他になにもないから』

 と彼女は言います。悲しい言葉ですが、しかしもう一度よく考えてみてください。“他に何もない”というのは、裏を返せば、自分が自分であれるものをひとつは持っていて、それに縋っていることを意味します。親から十分に愛されることなく虚無感を抱えて生きてきた彼女は、陸上を通じて初めて“自分”を認められます。いや、自分を認めてくれる人に出逢った、というべきでしょう。その瞬間から、彼女にとって、走ることは生きることと同義になります。自分が誰かから愛されることが信じられない彼女にとっては、走ることだけが自分の生の証明だったのです。
 そう考えた時、終末において彼女が生きることを放棄しているとは、私にはどうしても思えないのです。彼女が走ることと終末との間には実は関係性はなくて、むしろ彼女の悲劇は、他人に心を開く術をまったく知らなかったこと、走ることだけが自分の生の証明だと思い込んでしまっていたという点にあるのではないでしょうか。

 このシナリオのラストで千絵子が髪留めを外すのはまったく象徴的です。

  『もう必要ないから』

 という言葉に込められたもの。千絵子は、自分をそのままで愛してくれる人に出逢い、走ることだけを生の拠り所としてきた過去を捨てます。例え死を目前に控えていたとしても、一緒にパンを食べる彼らは、未来になんの憂いをも持たずに生を味わうことが出来たに相違ありません。


【3】 最後に、、、

 ここまでお読みくださった方はありがとうございます。
 それにしてもここまで長々と書いてみても、まだ言い足りないことはたくさんあります。しかし私は、自分が本当に語りたいことを語るのに必要な言葉を持っていません。例えば、緑シナリオのラストシーンの静寂。あの美しさを、私は言葉にすることができません。また、千絵子シナリオのパンナンパ(笑)の話や留希シナリオのキャッチボールの話などに見られる愛情溢れるユーモア。終末の過ごし方は美しい物語である以上に優しい物語で、敢えて告白すれば「私がして欲しいと思っていることをしてくれる」(※)作品だとさえ言いたい気がします。

※綺堂さくら(とらいあんぐるハート)の台詞

了。


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