とらいあんぐるハート3 〜 Sweet Songs Forever 〜   感想(ver.1.0)


◇Index

・神咲那美
・高町美由希
・月村忍
・月村忍、その2
・フィアッセ・クリステラ
・おまけ


◆那美シナリオ(2001/6/25)

 那美さんの笑顔を見ているだけで幸せだ、と書く以外に、何を書くべきなのか分からないです。重要なのはこの一言だけ。海鳴の住人がみんな優しいのは今更言うまでもないのですが、このシナリオにおいて、優しさの描写は今までなかったくらい突き詰められています。とらハシリーズのキャラは、多かれ少なかれ、その優しさゆえに、時に嘘をつき、時に気持ちがすれ違ってしまうのですが、このシナリオでは本当に最初から最後まで、恭也と那美さんとの間には穏やかな空気が流れています。彼らの間には一度としてすれ違いは起きないし、彼らは大きな声を出したりすることはありません。言うまでもなく、静かな空気の中では人は大声を出す必要がないのです。大声を出さなくても、親しみを持って穏やかに話せば、気持ちは通じるのですから。

 恭也と那美さんは、出逢って以降、ほとんど何の躓きもなく仲良くなっていきます。いや、この場合、仲良くなった、という言い方すら不正確でしょう。出逢った当初の彼らをわずかに隔てていたものは、遠慮のみです。彼らは最初から優しかったし、お互いをすごく大切に思っていた。初代の真一郎と小鳥の関係がそうだったように、恭也と那美さんの関係も、友人であるか恋人であるかという“立場”の問題はほとんど意味をなしません。彼らの優しさはそういう立場とは無縁のものです。私が高校生の頃、現国の先生が言った言葉があります。『誰だって好きな人に優しいのは当たり前なんだ、でも本当の優しさっていうのはそういうのとはちょっと違うんじゃないかな』 。私は今でもこの言葉が忘れられません。そう、誰だって好きな人の前では優しいのです。でも、とらハキャラの優しさはそういうのとはおそらく違います。彼らは人間をデフォルトで信じています。彼らは初対面の人に対してさえ躊躇いなく笑顔を向けるし、初対面の人に対してさえまるで昔からの親友であるかのように思い遣りを持って接します。もちろん、最初は遠慮があるにしても、すべての都築キャラの言動の根底にあるのは、他人への無条件の好意です。そして、海鳴の住人たちがあんなにも仲がいいのは、お互いがみんなそういうキャラだからです。以前、私が書いた“とらハシリーズの優しさは恋愛以前の優しさだ”っていうのはそういう意味です。

 この物語を恋愛モノと呼ぶことに、私は抵抗を感じます。それは、とらハ3という作品に一貫して流れるテーマ“守りたいものありますか?”のせいばかりではありません。なによりも、この物語は恋愛であるにしてはあまりに美しすぎるからです。この物語は恋愛モノとしては起伏がなさすぎます。ただ、ひとりの少年とひとりの少女が出逢って、ほんの些細な誤解すら生じることなくふたりは恋人になる、なんていうのじゃ、普通に考えたらそもそも物語として成り立ちません。でも、都築氏はここで敢えて、そういうこの上なく牧歌的な物語を描いてみせます。ここで展開されるのは、既に恋愛モノであることすら放棄して、ただひたすら優しさだけを求めた世界です。何も起こらず、ただ好きな人の笑顔があるだけの、平和な、平和な世界。この物語はまったく非現実的です。でも、私のようなものが現実世界でなんとか生きていられるのは、こういう美しい世界の空気を、たまに呼吸することができるからです。私はこの物語を信じます。

 特に、名台詞とかはなし。那美さんの言葉、那美さんの仕草−凛々しいところも含めて−はすべてが愛しいので、那美さんが出てくる場面はすべて名場面だし、那美さんの言葉はすべて名台詞です。


◆美由希シナリオ(2001/6/27)

 美由希シナリオとフィアッセシナリオはひとつのキーワードを共有しています。すなわち、誰にも認められないけど好きな人を守ることのできる力、です。美由希は御神の剣、フィアッセは漆黒の翼。

 この物語はラストの戦闘シーンのインパクトが非常に強いため、まるで物語全体がこのラストシーンに向かって動いていくような−つまり、修行の日々はこのためにあったという−錯覚を受けてしまうのですが、物語の中でのあの戦闘シーンの意味は、単に美由希がフィアッセを守るということだけではなくて、それを通じて美由希が自分の力を全的に受け入れ信じることができるようになる、ということでもあります。いや、むしろ物語の本当の主題はこちらでしょう。本当に重要なのは、自分の力が、誰にも認められないけど好きな人を守ることのできる力、であることを美由希が知ることです。その意味では、この物語は努力が報われる話の典型だとも言えるでしょう。私は以前の日記[3/28]の中で、美由希シナリオを『どっかで見たような話』などと評しているのですが、この言葉はおそらく“骨格が平凡”ということを意味していたのだと思います。しかし、選りにも選ってとらハシリーズで構造の凡庸さを指摘するのは我ながら怠惰だったと言わざるを得ません。とらハシリーズのすべての物語は、あの都築氏が味付けをしているのですから。本当に着目するべきは、その平凡な素材を都築氏がどう料理したか、でしょう。

 さて、改めて美由希シナリオです。この物語に一貫して流れる主題は美由希の自己受容です。私はそういう風にこの物語を読むことを好みます。そういう風に読むことで、おそらく、毎日繰り返される修行の日々を、ラストシーンに至るための単なる素材とみなさないで、それ自体に意味を見出せそうな気がするからです。

 この物語は努力が報われる話なのですが、考えてみると、美由希の努力は目的が非常に不鮮明なものでした。御神の剣は人々の平和な暮らしを影で守るための力だ、ということは美由希は知っていたかもしれません。しかし美由希にとって、守るべき対象はまったく不明瞭でです。誰かのため、などというのは抽象的すぎて目的とはなり得ません。かといってもちろん、彼女は力のための力を欲している訳でもない。美由希の修行の日々というのは、一見何気なく平和に繰り返されているようでいて、実は非常に脆い土台の上に乗っているのです。それこそ、いつ挫折してもおかしくないくらいには。実際、過去に美由希は、挫折に突き落とされかねない経験(幼い頃の剣道道場での一件)をしています。また、物語本編の中でも、美由希は一度、道を誤りかけています。彼女は、自分の修行のために恭也やフィアッセが犠牲になっていると思い込み、自分を責め、修行に没頭して体を壊しかけます。努力が報われる物語だとは言っても、そもそもフィアッセを守るべき場面まで美由希が到達できないという可能性だってあるのです。自分の努力の結果を、ひとつの形あるものとして見ることができないままに終わってしまう可能性だってあったのです。都築氏という人は、一見ほのぼのワールドを描いているようでいて、実は意外にシビアな人だと思います。とらハワールドの平和な世界は偶然性とは無縁のものです。あの世界が優しいのは、誰かがそう望んでいるからです。あの世界が平和なのは、誰かがそう望んでいるからです。作者が、ではなくて、海鳴の世界の住人たちが頑張っているからこそ、あの世界は平和なのです。とらハワールドの世界が決して無条件に平和な訳ではないことは、美由希シナリオにおいて非常に明瞭に語られています。美由希の修行の日々が基本的に平穏だったのは、ひとえに恭也がそう望んだからです。あの平和な日々は恭也が作っていたと言っても過言ではありません。恭也が美由希のために払っている努力は、ちょっと私の想像を超えたものがあります。恭也は、美由希が挫折しないように、本当に細やかな配慮をしています。好きな人を守ることのできる力を手に入れたのは美由希の努力の賜物ですが、そこまで導いたのは恭也とフィアッセです。ひとりの人間の生が、いかに多くの人たちに支えられているか。また、支えられなければならないか。余談ですが、那美シナリオの後半の主題もこれです。都築氏の描く物語が優しいと言われるのは、おそらく、都築氏が人間の弱さを知っている人だからです。弱いからこそ人は優しくあらねばならない、と都築氏は言いたいのかもしれません。

 ちょっと読み返してみるとなんか理論が破綻してる気がする。美由希の自己受容はどうしたよ俺。まあいいや。理論性を重視する人はそもそもうちの日記は読んでないだろうから。

 名場面、名台詞。

 おまえは俺の宝物なんだよ

 まさに、恭也が美由希のことをどのくらい大切に思っているかが凝縮された台詞。今でも、かつて日記[3/28]に書いたことを思う。恭也になってこの台詞を言いたい。

実のところ、美由希シナリオ終盤以降は名台詞のオンパレードなのだけど、すべて引用するのもアレなんでやめておきます。あなたの娘ですから、とかすごく好きなんだけどね。あと、あのエピローグ。個人的には、これはとらハシリーズ全編を通じて最も美しいエピローグだと思います。もう鳥肌モノ。


◆忍シナリオ(2001/6/29)

 おそらく、とらハシリーズ全編を通じて最も完成度の高いシナリオはこれでしょう。初代・さざなみ女子寮と受け継がれてきたとらハの物語は、ここに至って最も美しい花を咲かせます。ここには、初代に見られた優しく甘い恋の物語、さざなみ女子寮に見られたアットホームな雰囲気、両者に共通して見られる登場人物たちの真剣さ、全部あります。まさに、とらハの魅力が凝縮された、とらハシリーズの集大成だと言えるでしょう。

 個人的なことを付け加えるなら、忍シナリオは恋愛要素にきちんとウェイトが置かれているのが非常に好印象です。いくらか乱暴な言い方ではありますが、正直なところ、とらハ3の中で恋愛モノ(18禁描写含めて)としてまともに成立していると思われるのはこのシナリオだけです。那美シナリオ辺りは辛うじて恋愛モノと呼んでも良さそうな気もしますが、あのシナリオでは18禁描写はかなりおざなりになっている印象を私は受けます。あのシナリオでは、作者である都築氏自身が、18禁描写をどうやって物語の中に組み込もうかと迷っているように感じられるのです。初代からさざなみ女子寮、そして今作へと進むにつれて恋愛要素がどんどん薄くなってきているのについては、おそらく都築氏の志向するものが変化したのでしょうが、いずれにしても、ここで再びこのような甘いお話が体験できるというのは、初代以来のファンとしては嬉しい限りです。

 さて。抽象的な話ばっかりしていても埒が開かないので、もう少し物語に密着して見ていきましょう。

 この物語は、大きく分けると2つのパートからなります。ひとつは、前半から中盤に掛けての恋愛パート。これは言うなれば、忍と恭也の物語です。そしてもうひとつは、なんと名づけたら良いのか分かりませんが、後半以降の忍とノエルの物語です。忍シナリオは、忍と恭也の物語として始まり、徐々にふたりの関係にノエルが絡んできつつ、最終的には、この物語は忍とノエルの物語として幕を迎えます。

 まず、前半部分で私が特に書いておきたいのは、忍の正体が初めて明らかになるくだりです。以前の日記[4/1]にも書いたのですが、もう一度同じことを書きます。これに触れないのは自分の気持ちを裏切ることのような気がするので。

 いきなり身も蓋もない言い方ですが、忍が自分の正体を告白するくだりに、もうどうしようもなく心が震えちゃうんです。甘美なゾクゾク感。自分は人間とは違う、夜の一族なのだという告白。それから、わたしのことを忘れるかそれとも『誓い』を立てて一族に入るかどうかを問うくだり。同じ事を考えるような人がいるのかどうか分からないのが少々恐いのですが、私は子供の頃から、人外の一族、みたいなものにすごく憧れていまして。いや、別に自分の境遇に不満があった訳ではないのですが。少なくとも小さい頃の私はごく普通の、幸せと言えるだろう家庭に生きていましたから。一体そういう考えがどこから発生したのか今もって謎なのですが、とにかく私は、なんでか、人間以外のものになりたいと強く思っていました。人間以外の何か、例えば夜の一族とでもいったものが私を迎えに来て、さあ一緒に行こうと手招きする。私は誓い、もしくは契約をして、その一族と行動を共にする。誰にも内緒で、住み慣れた家を離れて、世界中を放浪する。子供の頃の私にとって、最も甘美な空想はそういうものでした。私は割とおしゃべりな子供で、大抵のことは親にペラペラと喋っていましたが、この空想だけは今日まで誰にも喋ったことがないです。この空想は秘密にしておかなければならない、秘密であればこそ甘美なのだから、ということを子供ながらに知っていたのかもしれません。この空想は私の成長と共に徐々に薄れてはいったのですが、今に至るまで私の中から消えることは遂になかったようです。

 とらハ3・忍シナリオをプレイしていて、忍が自分の正体を告白したときは、だから本当に驚きました。体が震えました。かつて自分が抱いていた空想が、あらゆる空想の中でも最も甘美な空想が、まったく突然に現実のものになったような錯覚を覚えました。しかもそれは、

 …秘密を共有してくれるなら……血を分けた仲として…
 私は、きっと一生……高町くんの……
 ……えと……
 友達でも、きょうだいでも……他のでも
 …関係はどうであれ……きっと、ずっとそばにいる…


 忍から恭也への、ひとりの女性としての告白という形を取っていて。目の前にある空想の実現は、空想を遥かに超えて甘美でした。この台詞は、告白と呼ぶにしては少々地味というか素朴なものであるかもしれませんが、私は、これほど素朴でしかも熱烈な告白を他に知りません。この、きょうだいでも友達でも他のでも、というフレーズは−言うだけ野暮かもしれませんが−どれでもいいという意味ではありません。これは、貴方とならどんな関係にだってなれるという告白であり、また、きょうだい、友達、家族、恋人、といった言葉で表し得るようなすべての関係を内包するような、まさに血の繋がりとでもいうべき関係になれる、という告白です。これはゲーム世界での出来事にすぎないのに、この場面に来るたび、私は、夢が叶ったような幸せな感覚を覚えます。

 あと、恭也が誓いを立てた後もすごいです。

 …………誓ったね
 ……もう破っちゃダメだよ


 と来て、

 ………………恭也ー………♪

 と甘えた声で抱きついてくる。誓ったね、とわざわざ確認をする辺りも素晴らしくゾクゾクくるのですが、その後、初めて恭也の名前を呼ぶ時の忍の声の甘いこと。いや、実際にはそれほど甘い声ではないのですが、クラスメイトの女の子とひとつの秘密を共有して、その子に初めて名前で呼ばれる、というのがもうどうしようもなく良いのです。

 人外との恋愛シチュエーションといえば、とらハシリーズではさくらシナリオがありますが、さくらシナリオの場合だと、付き合い始めの段階ではさくらはごく普通の後輩の女の子でした。それに対して、忍シナリオの場合は正体が先に明かされてその後で告白がきます。さくらシナリオは、既に付き合っている女の子が実は人外だった、というお話です。忍シナリオでは、最初に人外の女の子であることが明かされて、それを知った上で付き合うかどうかを選ぶことになります。私としてはもちろん、さくらの告白も大好きなのですが、それにしても忍シナリオの演出の妙には感心させられます。このシナリオの何が素晴らしいと言って、告白の状況を作るに当たって、人外という設定を最大限に上手に活用していることです。

 忍なりの人の愛し方、という辺りはもうそういうものとして受け入れるより他にないのでそれを前提に書きますが、忍は恭也に告白するに当たって、好き、とか愛してる、ではなくて、夜の一族としての自分と秘密を共有できるかどうか、をまず問います。忍が吸血鬼の一族であることを考えると、血を分け合った上でその秘密を共有する関係を求める、というのは割と自然であるような気がします。誤解を恐れずに言えば、吸血鬼の女の子が、好きな相手とひとつの血を共有することに喜びを覚えるというのは、私としては特に難なく理解できます。素で、ロマンチックだと思う。そういう発想自体がドリーマー過ぎるかもしれませんが、やっぱりロマンチックなものに私は弱いので、そういうものとして受け入れることに、抵抗は全然ないです。いずれにしろ、これは、吸血鬼の一族である忍のキャラクターを上手く活かした、たぐい稀な名場面だと思います。

 これ以降の忍と恭也の甘々っぷりについては逐一書いていくと時間が幾らあっても足りないと思われるので、はしょります。…が、特に好きな場所をひとつかふたつ。

 恭也、いつも優しいから…
 ……遠慮してたり、気をつかったり……してくれてるか
 もしれないと思って、言うんだけど
 …………その……
 いいよ………?……しても……
 ……まだ恋人って感じではないけど…
 ……友達なんだし
 ……私は…恭也のこと好きだし
 ……そうなっても……別に、いいよ……?

 しまった………もしかして私、魅力ない!?
 だ、だとしたら……今の……ナシ……

 最後の2行がすべてです。こういう台詞を言わせてしまう都築さんはまさに萌え描写の天才です。この2行で、忍の魅力は一気に200%になります。

 あと、忍シナリオ中最高の−いやむしろ最強というべきか−名台詞。

 ひとりでするの禁止ね

 これに悶えなかったら男じゃねぇ(萌叫)。なにやら勝手なこと言ってますが。

 以上、萌え方向から見た忍シナリオ感想。
 明日は、忍とノエルの物語についてちょっとだけ書きます。

◆忍シナリオ、その2(2001/6/30)

 このシナリオの終盤は実質的にノエルの一人舞台になる訳ですが、この部分は受け取る人によって評価が分かれるようで、例えば割と否定的なニュアンスで『忍シナリオのクライマックスはノエルに食われてしまった』と言う人もいるようです。確かにこのシナリオでは、終盤以降、忍はほとんど活躍の場を持ちません。しかしそれを持って、このシナリオの欠点とするのは性急なのではないかな、と私は思います。むしろ私としては、なぜ終盤に至って物語の中心がノエルに移ったのか、なぜ終盤に至って視点がノエルに移るのか、その理由を考えてみたいのです。ノエルに食われた、と言うのは簡単ですが、どうせなら、物語がノエル視点に移行することで何が生まれ得るか、と考えたほうが建設的ではないでしょうか。

 さて、ノエルが物語の主役になることに必然性があるとしたら、それはどういうものでしょう。私はこれを、次のように解釈します。すなわち、忍シナリオというのは、前半から中盤に掛けては恭也の視点から見た月村忍を描いており、終盤になってからはノエルの視点から見た月村忍を描いているのです。

 普通、物語には必ずその世界を見ている誰かが存在します。物語は、任意の一人の人物の目から見た世界である、といっても良いでしょう。例えばギャルゲーにおいては、登場するヒロインは、主人公の目から見た姿でゲーム世界に表れます。少なくともテキストが一人称で書かれている限り、主人公の目を介さずにヒロインの描写がなされることは原則的にはあり得ません。ギャルゲーのヒロインたちは、常に主人公との関係において語られる、とも言えるでしょう。とらハシリーズも勿論その例外ではない(とらハ2の知佳シナリオは例外ですが…)のですが、忍シナリオではこの法則はおそらく意図的に破壊されています。このシナリオの前半から中盤に掛けての忍は、常に、恭也の目から見た忍でした。それに対して、終盤の忍はノエルの目から見た忍です。これは非常に興味深い手法です。視点がノエルに移ることで、それまでの恭也視点では決して見ることの出来なかった、月村忍という少女のまったく別の側面が立ち現れて来るからです。

 孤独だった少女は、恭也に出逢うことで初めて子供のように笑うことができるようになり、ノエルとの別れを通じて、失われていた涙を再び取り戻します。途中から視点がノエルに移ろうとも、この物語はやっぱり、月村忍という少女のお話なのです。終盤で忍は何もしなかった、というのは正しいとは言えません。忍は、炎に包まれていくだけのノエルを前にして何もできなかったからこそ、泣くのです。

 もうひとつ。絶対に書いておかなければならないこと。
 恭也との関係において語られる忍は、気の合うクラスメートの女の子であり、また夜の一族の血を引く女の子であり、また恭也の恋人の女の子でした。ではノエルとの関係において語られる忍はどういうキャラクターでしょう? 考えてみると、このふたりの関係というのはすごく不思議な関係であるように、私には思われます。このふたりの間柄を言葉で言い表すのに、どんな言葉が最も適切なのでしょうか。主従、親友、姉妹、これらの言葉はいずれもそういう要素を確かに含んではいるものの、全体としてはおそらく違います。また、家族や大切な人という言い方では抽象的に過ぎます。もし強いて言うなら、忍とノエルの関係を言い表すのに一番近い言葉は、母娘、だと思うのですが、ただ彼女たちの関係は、例えば晴子と観鈴のような母子関係とは明らかに違います。この物語内では、基本的には忍はノエルの主人であるように見えますが、物語がノエル視点に移ってから初めて明らかになるように、忍のノエルに対する態度は、ある時は保護者のようであり、ある時は親友のようであり、また別の時は、母親に甘える娘のようでもあります。ノエルの忍に対する態度も、ある時は忍の召使であり、ある時は忍の親友のようであり、ある時は忍の娘のようであり、また別の時は忍の母親のようです。このふたりは、ある時は忍が母親でノエルが娘、別の時は忍が娘でノエルが母親、という感じに役割がころころ入れ替わります。ふたりはまったく自然に、おそらく意識すらせずに、それぞれの役割を担います。例えば、忍がそうして欲しいと思う時、ノエルは母親になります。忍もまた、その時々で、母親のようにノエルの体を労わり、母親が娘にそうするように、服を買ってあげる、という台詞が普通に出てきます。母娘、あるいはいっそ腹心の友とでも言ったら良いのでしょうか。このような関係が、他のギャルゲーの中でかつて語られたことがあったかどうか、私にはちょっと思い出せません。

 この物語は確かに忍の物語ではあるのですが、しかし例え物語の構成上という理由を付けたとしても、ノエルは忍のために存在した訳ではありません。ノエル自身は、自分の存在は忍お嬢さまのためにという意識を持っていたかもしれませんが、しかし忍の方はノエルのことを自分のための存在だなどとは微塵たりとも思っていなかったでしょう。忍にとってのノエルは、まず第一に、いつも傍にいてくれる人、ずっと一緒にいてくれる人、だったと思います。例え、表面上は主人とメイドという関係だったとしてもです。

 この美しいお話のエピローグでノエルが復活するのはまったく象徴的です。これはハッピーエンド至上主義的な考えから生まれたものではありません。このお話は“エピローグでノエルが再び目を覚ます”のではありません。そうではなくて“ノエルが目を覚まさなければお話の幕は降りない”のです。本編終盤で、忍はノエルを失わなくてはならなくなった時、初めて泣きます。ノエルは、かつて両親が死んだ時にすら涙を見せなかった忍が、自分のために泣いてくれるのを知って、初めて涙を流します。忍とノエルはそういう関係なのであって、そうであればこそ、あのエピローグは単なる気まぐれなどではありえないのです。この物語がハッピーエンドを迎えるためには、絶対に、忍の傍に恭也とノエルがいる必要があるのです。

 繰り返しになってしまいますが、終盤からエピローグに掛けてノエルの描写に力点が置かれるようになるのは、そうすることで忍とノエルとの関係をきっちり描くことができるからです。この物語の奥深さに、私はある種の感動を覚えます。

 最後に一言。
 ノエルが帰ってくるシーン。あのタイミングで『See You 〜小さな永遠〜』が流れるのは反則すぎると思うのだがどうか。


◆フィアッセシナリオ(2001/7/4)

 フィアッセは本当に魅力的なキャラクターです。萌えるというよりは、一緒にいると心が安らぐタイプでしょうか。今作におけるフィアッセの立ち位置は、さざなみ女子寮における愛さんとおそらく同じでしょう。都築氏が愛さんについて語った、いつも一歩引いてみんなを見守っているキャラ、という言葉はそのままフィアッセにも当てはまります。違いがあるとすれば、フィアッセの方がより積極的であるというか、より世話好きであるという点でしょうか。個性派揃いの高町家にあって、フィアッセはどちらかというと際立って目立つようなキャラではないのですが、彼女がひとたびそのお姉さん振りを発揮すると、高町家の日常にはなんとも言えない優しい空気がふりまかれます。彼女のこの魅力については、例えば怪我をした恭也に対する言動などの例を挙げるだけでも十分に説明できるのですが、しかし何といってもフィアッセの魅力が満開になるのは、レン・晶ルートで物語を進めたときに見られるお誕生日パーティーの描写でしょう。レンと晶を抱きしめるフィアッセのCGがないのが私としては不思議でしょうがないのですが、それはともかく、この場面ほど、フィアッセが高町家の子供たちみんなのお姉さんであることを端的に示す場面は他にありません。『私たちも、昔、あれやってもらったね…』 レンと晶を抱きしめるフィアッセを見て、恭也と美由希は言います。ここはとらハ3全体を通して最も美しい場面のひとつに数えられるでしょう。念のために言っておけば、ここは別に物語が盛り上がる場面でもなければ緊張する場面でもありません。ごく普通の、高町家の日常です。でも、フィアッセがいることで、高町家の日常はどんなに優しい雰囲気のものになっていることでしょう。彼女はいつでも、優しさを惜しげもなく周囲にふりまくのです。

 ただし、このシナリオに関しては、正直言って評価が難しいです。フィアッセという魅力的なキャラクターを用意していながら、彼女の魅力を更に引き出し得るような物語を描くことができなかったからです。本来ならばこのシナリオは、美由希シナリオと同じく、ただし今度はフィアッセが自分の力(黒い翼)を受け入れる物語になるはずでした。少なくとも途中までは、物語は確かにこのテーマに沿って進んでいきます。が、しかし土壇場に来て、フィアッセの黒い翼は、白い翼へと変化します。これがどうしても私には納得いかないのです。物語の流れから言えば、あの場面は黒い翼のままで良かったはずです。翼の秘密がみんなに明らかにされて以降、フィアッセの黒い翼を肯定するような台詞が色々な人の口から語られるのはプレイした人ならみんな知っていることです。まず、病室にいる皆によって。次いで、フィリス女医の台詞によって。それから、母親であるティオレさんからかつて言われた言葉として。これほどまでに、自分の翼を受け入れなさいというメッセージが繰り返された後で、翼の色が変わってしまうというのは一体どういうことなのでしょうか。一番肝心な場面で翼の色が白く変わってしまうのだとしたら、結局は黒い翼は否定されなくてはならなかったのでしょうか。私が気になるのは、翼の色が変わったことよりも、その一貫性のなさです。黒い翼が最終的に否定されなければならないものだったのだとしたら、それ以前の段階で翼が不吉なものであることをアピールするような演出が必要だったでしょうし、更に言えば、黒い翼が変化を遂げて白い翼になるのだとしたら、白い翼が意味するものはなんなのかの説明が絶対に必要であるはずです。少なくともそれまでの物語の流れをごく自然に受け継ぐなら、あの恭也救出劇の際、フィアッセは黒い翼のままで恭也を助け、それによってフィアッセはようやく今まで嫌っていた自分の翼を心から愛することができるようになる、という展開になるはずなのではないのでしょうか。ここで都築氏は一体何を書きたかったのか、私にはどうもよく分かりません。

 私が不思議でならないのは、美由希シナリオやレンシナリオであれほど密度の高い物語を書くことができた都築氏が、なぜフィアッセシナリオではこの程度の物語しか書けなかったのだろうということです。都築氏はフィアッセシナリオの出来に納得しているのでしょうか。私の本音としては、この程度で納得してもらっちゃ困る、と言いたいところです。前述のような大きな矛盾点を仮に指摘しなくとも、このシナリオでは何かが不発に終わっています。密度が薄すぎるというか、要するに、都築氏自身が、フィアッセというキャラクターを持て余しているように見えてしまうのです。

 でも、なんだかんだ言っても、私はやっぱりこのシナリオが好きです。このシナリオは確かにフィアッセと恭也の物語としては疑問の残る出来になってしまっていますが、発想を変えてこのシナリオを主役不在の物語と捉えるなら、また別のものが見えてくるからです。物語の後半に至ってティオレ・クリステラ女史が登場して以降、フィアッセの影はいよいよ薄くなってしまうのですが、逆に、ティオレさんを中心とした海鳴の住人たちの物語は却って面白くなっていきます。ティオレさんと高町家住人との再開。ティオレさんとなのはの初顔合わせ。そして、コンサートが終わってもフィアッセのことをずっと待っていたソングスクールの面々。彼らはみんな、ティオレさんから何かを受け取っています。ソングスクールの面々は歌うたいとしてティオレさんの意思を継いでいきます。高町家の住人はティオレさんの笑顔を受け取ります。フィアッセは言うまでもなく、ティオレさんの優しさを受け継いだ一人娘です。ティオレさんがいなくなった後でも、彼女の思いは彼女が愛した人たちによって受け継がれていきます。この先どれほどの時間が経とうとも、ティオレさんの笑顔、ティオレさんの歌は、形を変えて、海鳴の住人たちに、ずっと受け継がれていくのです。たとえば、ティオレさんの思いを受け継いだフィアッセが、その優しさをいつも高町家の住人たちにふりまいていたように。

 優しい歌は、いつまでも続いていきます。例え完成度の点で劣ろうとも、この作品のサブタイトルを最も美しい形で実現しているのは紛れもなくこのシナリオです。エピローグの一枚絵は、優しい歌が未来へ託されていくことを象徴しています。とらいあんぐるハートシリーズは今作を持って完結するようですが、フィアッセシナリオのエピローグこそ、とらハシリーズのフィナーレを飾るに最も相応しいものであることを、私は疑いません。


◆おまけ(2001/7/5)

とらハ3は、初代はおろかさざなみ女子寮と比べても、CG、音楽共に格段の進歩を遂げている…なんてことは今更言うまでもないのですが、それに加えて今作では、テキストが著しく進歩しているのが非常に好印象です。

 例えばお花見イベント。
 『2』のそれを見ていると、ほのぼのした雰囲気を演出しようという意図は分かるし、その意図はある程度は成功しているのですが、敢えてキツイ言い方をすればそれだけで終わってしまっています。忌憚なく言えば、都築氏の苦心の跡が見えてしまうのです。推測、というよりは邪推であるかもしれませんが、あれを書いた段階では、もしかすると都築氏自身が、まだキャラクターたちの性格を十分に把握できていなかったのではないでしょうか。もし、すべてのキャラのシナリオを書き上げた後で最後にお花見イベントを書いたとしたら、もっと面白いものになったのではないかと想像してみたい気がします。

 もっともこれは当時の私には気がつかなかったことでもあります。しかし、人によってはあるいは反発を覚えるかもしれませんが、『3』のお花見イベントを見た後で『2』の同イベントを見てしまうと、いかにも野暮ったく感じてしまうのです。

 簡単に言って、『3』のお花見イベントの方がずっと自然なのです。『2』でほのぼの感を演出しようと苦労する作者の姿が丸見えだったのと比べると、『3』のお花見では、キャラクターたちは本当に楽しそうに見えます。『3』では、作者の影はまったく見えなくて、ただ、海鳴という架空の世界に生きている人間たちだけが見えるのです。

 例えば思いつくままに挙げるとして、自己紹介の途中で話が脱線して剣術流派の話になってしまうとか、恭也と忍による昔話とか、晶とレンによる漫才であるとか、こういった意味も意図もない雑談をきっちり書いてキャラクターたちの楽しい時間を具体的に演出し、しかもプレイヤーをまったく飽きさせないというのは、都築氏の日常描写の手腕が飛躍的に向上していることを意味します。

 例えば初代での『唯子と会話した』というテキストだけでも、そこに唯子と真一郎の平凡な日常があることは分かるのですが、この日常は、言ってみればプレイヤーが感じ取るものです。それに対して、『3』では日常の平凡さをそのまま具体的に描写します。『3』の日常は、プレイヤーが感じ取るものではなくて、プレイヤーの目の前に“ある(存在する)”ものです。こういう、それ自体は物語の流れの中でなんの意味も持たないような会話をきっちり書くことによって、世界は100倍もリアルになります。

 お花見イベントだけではなく、『3』ではこういった日常演出が至るところでなされています。特に興味深いのものとしては、レンシナリオでの晶とレンの描写が挙げられるでしょう。レンシナリオが非常に秀逸だと感じるのは、レンという一個の人間の描写の秀逸さに拠るところがもちろん大きいのですが、それ以外に、執拗なほどに繰り返されるレンと晶との日常(喧嘩)がそれ自体としてプレイヤーサービスと言えるくらい充実していながら、同時にその日常が繰り返されなければそもそも物語が成立しないようになっているという点に拠ります。レンシナリオにおいて、日常は目的であると同時に手段です。繰り返される喧嘩の日々の描写を通して、プレイヤーはレンと晶との力関係を自然にそういうものとして受け入れます。そして、これが後に重要な意味を持ってきます。あのシナリオのクライマックとも言うべきラストバトルの際、プレイヤーは既に、晶では普通にやったらレンには勝てないということを知っています。知識として知っているのではなく、目で見たものとして知っています。プレイヤーは、レンと晶との喧嘩の日々を既に何回も何回も見ているからです。晶は全力を出し切ってレンにぶつかり、遂に晶の思いはレンに届きます。まわりの人間の言葉を拒絶したレンを動かすためには、言葉だけではダメで、誰かが身を持って自分の言葉が本気であることを証明してみせる必要がありました。“レンのために”手術を受けさせようとしても、その言葉は決してレンに届くことはありません。レンが心を開くに至ったのは、自分には決して勝てないと知っているはずの晶が全力でぶつかってきたからであり、また、晶の身勝手な思いのためです。“レンのために”ではなくて、“俺のために”と晶が言う時、初めてレンは晶の言うことを聞き入れます。いや、この辺りのことはプレイした人ならもちろんみんな知っていることです。今、問題にしたいのは、この場面がそれまでのレンと晶との喧嘩の日々なくしては成立しないという点です。正確に言えば、繰り返される日常のエピソードが積み重ねられているからこそ、この場面は大きな説得力を持って私たちの心に届くのです。この手法は他に美由希シナリオでも使われていますが、こういったやり方は今までのとらハシリーズにはなかったものです。それ自体意味のなさそうな日常が、物語全体の中では必然になるという手法。これはONEやデアボリカ、最近ではねがぽじ等にも見られるやり方ですが、この手法はシナリオライターの手腕がまともに反映されるために、非常にハイリスクな手法でもあります。変わり映えしない日々を、あたかもそれ自体が目的であるように克明に描写してしかもプレイヤーを退屈させないというのは、それだけでも大変に難しいことです(退屈な前半部を我慢しなければならないゲームのなんと多いことか)。しかしそれだけに、この手法が成功した時には、物語は他の追随を許さない深みを獲得することになります。とらハシリーズは、3作目に至って遂にこの境地に届いています。とは言ってもレンシナリオと美由希シナリオだけですが、それにしても一部ながらこれだけの密度の高さを達成したのは、やはり凄いことだと言って良いでしょう。私は、とらハ3のこういうところをこそ評価したいのです。


◆注意事項

 この半感想半解釈もどきでは、一部『とらいあんぐるハート3』のテキストを引用しています。自分の文章と区別するため、引用個所はイタリック体で表記しています。ゲーム内のテキストに関する諸権利は JANIS/IVORY の所有です。このwebページからの無断転載等はおやめください。

 当たり前ですが、この解釈はあくまでもしのぶ独自の解釈であり、JANIS/IVORY 様の公式見解とは一切関わりありません。


文責 しのぶ

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