ONE 〜輝く季節へ〜 感想(2.10)


◇改訂履歴
1999/7/6 初出
2000/2/11 七瀬シナリオ加筆修正


◇Index

七瀬留美
里村茜
椎名繭
川名みさき
長森瑞佳
上月澪



◆七瀬留美

 第一印象最悪なふたりが段々惹かれあっていくという、まるで少女漫画の王道パターンのようなシナリオですが(笑)、それはともかくこのゲームは七瀬シナリオからスタートするため、このキャラのエンディングを最初に見た人は多いと思います。多分七瀬は東鳩の志保のような役割〜導入でプレイヤーを世界に引き込むという大役〜を与えられていたのだと思いますが、それゆえにというか、七瀬自身はかなり不遇なヒロインになっています。登場シーンがああだったために、浩平が第一印象にいつまでもとらわれていて、七瀬をひとりの女性としてなかなか見られなかったことが原因でしょう。なんかこのシナリオをプレイしていると、これは七瀬が浩平を振り向かせる話なんじゃないかと思えてきます。

 七瀬シナリオの面白さは、ふたりの気持ちのズレが少しずつ解決されていくところにあると思います。シナリオをちょっと離れて眺めてみればわかりますが、七瀬が浩平を好きになる時期と、浩平が七瀬を好きになる時期とではかなりのズレがあります。七瀬が浩平に惹かれる決定的な原因になったのは、言うまでもなく例の画鋲事件です。しかしこの場面はちょっと考えると両者の意識にかなり大きなズレがある。七瀬にしてみれば、浩平は「乙女としての」自分を守ってくれた王子様だったけれども、実は当の浩平にはそんな意識はまるでないということ。浩平にしてみればあの行動は単に自分が納得行かなかったからというだけのことであって、別に七瀬を助けようと思ったわけではありませんでした。しかし七瀬は完全に浩平に惹かれてしまう。そして、まるで「惚れた方が負け」(笑)といわんばかりに、ここから七瀬の苦労が始まります。

 では逆に浩平が七瀬をひとりの女性としてはっきりと意識したのはいつだったんでしょう? これは言うまでもなく、あの滑稽でしかも物悲しいクリスマスの夜です。七瀬の思いがけない告白を聞いた時、今まで友達だと思っていた七瀬が、実はひとりの恋する女性として自分を見ていたのだと知った時、泣いているのが実は自分(浩平)のためなのだと知った時、浩平の驚きはどんなに大きなものだったでしょう。浩平の気持ちを想像してみると、なにか微笑ましい気がします。七瀬の真剣な気持ちに途惑い、おそらくは気後れを感じていたであろうことは想像に難くありません。そして、自分が七瀬にとっての王子様だったことに今更ながら気づいて、途惑いながらも七瀬の手を取る浩平。この場面に至って、浩平と七瀬の心理的立場は逆転しています。この描写はまったく絶妙としか言いようがありません。注意深くこの場面を読んでいると、浩平の途惑い、七瀬の途惑いが、手に取るように判ってくる。浩平の途惑いは先に書いた通りですが、実は七瀬の方にも途惑いがあります。ちょうど、泣いていた子供が急に思いがけずにプレゼントを貰った時に、感情のやり場に困って、気恥ずかしさを感じて素直に笑えないように、七瀬もここで、自分の願いが叶えられたことに途惑いを感じて素直に仕合せになることができないでいるのです。なんともいえず不器用というか、不器用の極みのような場面ですが、しかし途惑いながらも仕合せな雰囲気をなんとか作ろうと一生懸命なふたりは、やはり私たちの心を打ちます。莫迦正直なふたりは滑稽ですが、でもそれゆえに純粋で、私はここで奇妙な感動を覚えない訳にはゆきません。

 七瀬シナリオのテーマに関して。
 私は以前、七瀬シナリオの感想を書いた時に、「浩平と七瀬の恋は演技であり恋愛ごっこだった、それが納得いかない」という趣旨のことを書いたのですが、最近になって、どうもその解釈は違うのではないか、更に言えば不当だったのではないかと考えるようになってきています。七瀬が乙女になろうと背伸びしていたのは本当です。しかしそれを(以前の私のように)不自然と決め付けてしまっても良いのかどうか。これはもっと詳しく考えてみる必要がありそうです。つまり、七瀬と浩平が王子様お姫様ごっこをしていたのだとしても、ふたりにはそうしなければならなかった理由があるのではないか? と考えてみる必要があるのではないかと思うのです。

 さて、そうしなければならなかった理由があるのかどうか? 結論からいえば、あります。
 突然ですが、村上春樹氏の『ノルウェイの森』の中に、こんな一節があります。有名だから、知っている人も多いのではないでしょうか。

 ある種の人々のとって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ。

 これは、七瀬シナリオを解釈するために非常に重要なヒントを含んだ一節だと思います。七瀬にとって、乙女であるということは、まさにこういうことだったのではないでしょうか。七瀬は、剣道をやめて初めて、自分の他の可能性に気がつきます。あるいは誤解を恐れずに言えば、自分が女性であることを初めて明確に意識した、と言っても良いかもしれません。ゲーム中のテキストでも明示されているように、七瀬は恋愛に関してほんの子供に過ぎません。七瀬留美という少女は、王子様に憧れるような幼稚な恋愛観しか持っていなかったけれども、しかしこの段階で、彼女にとっての恋愛の形はそれがすべてだったことも忘れてはならないことです。七瀬にとって恋をするというのは、自分を乙女として認めてくれ、乙女として扱ってくれる王子様と出逢うことでした。その王子様と出逢った時、自分は乙女になれる。これが七瀬にとってすべてであり、七瀬は恋愛をするにおいて、どうしてもそういう「一種の儀式」を通過する必要があったのです。そしておそらく、このシナリオを受けいれられるかどうかの分かれ目は、この「儀式」というテーマを発見できるかどうかに掛かっているのではないでしょうか。

 ところで、七瀬シナリオでは、いまいち納得いかない点がひとつだけあります。例の「誤解を解くか解かないか」の場面です。あそこで私は最初は「誤解を解く」を選びました。そうする方が自然だと思いましたし、無理にえっちする必要もないと思っていましたから。ところがそうするとバッドエンドが確定してしまう。これが、私はどうも釈然としないのです。勿論、肉体関係があるから安心できる、つまりより深い絆を感じられることはあると思います。私はえっちシーンの存在には全然反対はないのです。ただ、えっちシーンへ至る展開としてのああいう手法には疑問があります。もともとが七瀬にしてみればかなり不意打ち気味であり、また浩平にしても誤解に便乗するような形になってしまっていたし、そのことがあの妙にギクシャクしたえっちシーンを生んでしまったとは言えないでしょうか。例えばあの場面は抱きしめるだけにして、えっちシーンは別の場所でもっとロマンチックなシチュエーションで展開して欲しかった、とどうしても私は考えてしまうのです。七瀬は、6人のヒロイン中でも比較的に言えばかなり不遇ですから、そのくらいはあっても良かったんじゃないでしょうか。


◆里村茜

  ONEの中で一番丁寧に描かれているシナリオであり、また私が一番好きなシナリオでもあります。キャラ萌え要素によってシナリオをカバーしているようなエロゲが多い御時世にあって、これはシナリオがキャラクターの魅力を目一杯引き出している貴重な例ではないでしょうか。

  茜シナリオはなぜ面白いか? そのひとつに伏線の多さが挙げられます。周知のように、茜という少女は非常に口数の少ないキャラです。しかしその少ない言葉には常に表面的な意味以上の想いが隠れている。よく読んでみると、茜と浩平の会話の中には表面的には噛み合っているように見えて、その実〜同床異夢とでもいうか〜ふたりが考えている事にギャップがあることがしばしばあります。こんなのは想像上の遊びに過ぎませんが、このシナリオを某社のようなマルチサイトシステムで描写したらさぞや面白いものになるのではないでしょうか。もちろん、ONEの場合は読者に想像の余地を残しているところが魅力なのはいうまでもありませんが。

 それにしても、例えば、昼休みの中庭で浩平が茜のことを名前で呼ぶシーン。「名前を忘れられたら、悲しいしな」という台詞を言った浩平は、自分の言葉が茜にどんな影響を与えたか夢にも思っていなかったのは間違いありません。幼なじみについての会話にしてもそうです。浩平にしてみれば特に深い意味があって喋っているわけではないのに、その何気ない言葉の一つひとつが、茜にとってはこの上なく重要な意味を持っている。この辺り、別の見方から言えば、茜が浩平に惹かれていく描写がとても丁寧に、それゆえ説得力を持って描かれているといえます。

  茜が浩平に惹かれていく、あるいはプレイヤー視点から見れば茜が心を開いていく。これがこのシナリオの前半の要点なのは確かでしょう。しかし、ここにはもうひとつ見逃してはならない点があります。茜が浩平を好きになっていく過程は少なくとも茜にとっては決して穏やかなものではなかったということです。ここでちょっと、終盤の茜のモノローグを引用してみます。


無意味に繰り返される非日常。
そんなときあの空き地に現れたのが浩平だった。
希望なんてないって、とっくに気づいていたはずなのに…。
それでも私にはそれしかなかったから…。
だけど、本当は…。
誰かに止めてほしかった。
もう、あの人は絶対に帰って来ないって言って欲しかった。
お前のしていることは無意味だって、なじって欲しかった。
だから…。
 『お前は…ふられたんだ』
嬉しかった…。
その一言で、私は救われたんだから。


  ここを読めば、茜が救いを求めていたのは明らかです。しかし、それにしては茜の頑なな態度はかなり後々まで続いていた。ここに私は茜のジレンマが見える気がします。

  もはや自分しか存在を証明できない幼なじみの記憶を繋ぎ止めておかなければならなかった茜が、浩平に惹かれていくことに罪悪感を感じていたであろうことは想像に難くないと思います。おそらく誰もが経験あることだと思いますが、人間というのは不思議なもので、例えそれが悲しみであっても現在の気持ちが変わることを恐れる生き物です。分かり易い(と思われる)例で言えば、失恋した人は我知らず笑ってしまった時、そのことに罪悪感を感じてしまう。

  茜は自分がやっていることの無意味さ〜待っても幼なじみは戻ってこないと感じていた〜を知っていて、それでも幼なじみを待ち続けることしか出来なかった。いや、正確には自分にそう思い込ませていた。本心としては救ってくれる人を求めていたのだけれど、そう思うことですら茜にとっては幼なじみに対する裏切りに思えていたはずです。つまり「救って欲しい」という気持ちとそれを拒否する気持ちとが同時に茜の内に存在していました。浩平を好きになっていくことに幸せを感じる一方、幸せを感じることに罪悪感を感じていたと思います。ここにジレンマがあります。浩平を好きになればなるほど、幼なじみに対する罪の意識も大きくなっていく。これがどんなに苦しいことなのか。茜がなぜ1/26に雨の中で立ち尽くしていたのか? これの答えはここにあると思います。あれは、浩平を好きだという自分の気持ちにもはや嘘が付けなくなってジレンマに耐え切れなくなった末の、幼なじみに対する一種の贖罪行為なのではなかったでしょうか。

  ただ、贖罪行為だったとしてもそこに踏み切るには切っ掛けが必要です。これは私の想像ですが、あの日の朝方、もしかしたら茜の夢の中に幼なじみが出てきたのではないでしょうか。私自身がそうなので良くわかるのですが(苦笑)、寝起きの悪い人というのは夢の影響を結構引きずるものだし、その上朝はブルーなことが多いです。雨が降っていれば気分は更に降下します。嵐のような雨が、寝起きのブルーな状態でいる茜に暴力的な影響を与えて、茜はそれに負けてしまう。これがあの26日の事件の背景にあったものなのではないでしょうか。ついでに言えば、茜が幼なじみを待っていたのがいつも雨の日だったのも単に演出上の意図からだけではないのでしょう。

  ONEの魅力が、立ち絵を素晴らしく効果的に使っていることにもあるのは今更言うまでもないことだと思いますが、茜シナリオでもご多分に漏れず、素晴らしい演出が何個所かあります。
 その中でも特に私が挙げておきたいのは、1/26日の浩平の家での演出です。特に茜が「ありがとう」と言うところ。ここの見せ方は絶妙だと思います。思いがけない茜の涙に、浩平のみならずプレイヤーもハッとさせられます。作り手の、効果に対する敏感さ、センスの良さといったものが良く現れています。この場面で重要なのは「気が付くと茜は泣いていた」ことなのだから、ここを最初から文章で語ってしまっては効果が薄れてしまうのです。昼休みの中庭での絵もそうでしたが、微妙な表情の変化をあえて絵を基本にして表現する。これはプレイヤーを信用していなければできないことですし、こういう細やかな表現はまた、プレイヤーの集中力をいよいよ深く呼び覚まして物語に没頭させてくれる意味もあります。本当に驚くばかりです。

  2月6日。ここでこのシナリオはひとつの転回点を迎えます。浩平の出現によって始まった茜の葛藤が終わるからです。永遠に捕われていた好きな人をどうしても助けたかった浩平は、ひとつの賭けをします。浩平は、自分が茜を永遠の呪縛から解き放つことと、自分が茜を手に入れることとが同義であることを知っていたと思います。茜をデートに誘うことの本当の意味は、茜の内にいる幼なじみに対するひとつの宣戦布告でした。浩平は茜をデートに誘っておいて、その実、茜に決断を要求しているのです。自分か幼なじみかを選べ、と。これは大変興味深いことだと思います。浩平はすでに、茜に決定的に手を差し伸べています。1/26に彼女を助けたことによって。そして「お前は振られたんだ」とあえて言い切ることによって。その上で、浩平は茜に選ばせるのです。それは浩平の自尊心の問題でもあったのでしょうが、それ以上に、茜が幼なじみを完全に振り切るためには、最後の一歩は自分の足で歩かなくてはならなかったことを、浩平は半ば無意識に知っていたのだと思います。浩平自身は、この賭けがそんなに分の良いものだとは考えていなかったようですが、でも浩平にとってはそうするしかなかったのです。

  そこまで考えていくと、雨の中に茜の姿が現れるシーンはいよいよ印象的なものになります。それは単に茜が浩平を選んだというだけではなくて、自らあの空き地から離れる決心をしたということ、彼女が遂に自分自身の足で永遠の呪縛を脱したことを意味するからです。
 余談ですが、私はかねてから茜という少女に「大和撫子」のイメージを見ていました。それは勿論、男にとって都合がいいとかいう低次元な話ではなくて、儚さと芯の強さを併せ持ったキャラクターであるという意味においてです。茜は、口数が少ないながらも自分の意志をはっきり主張するタイプのキャラクターです。彼女は自分が決めたことをそうそう曲げない意志の強さを持っていたと思います。しかし皮肉なことに、それだからこそ、彼女は空き地(幼なじみ)に拘りつづけなくてはならなかったのです。茜の葛藤とは、良心と、浩平に惹かれていく気持ちとの葛藤に他なりません。茜の良心はもしかすると彼女にとっては徒であったかもしれないけれども、しかしこういう良心は美点でこそあれ欠点ではありえません。でもまさに良心との葛藤であったからこそ、茜は苦しまなければならなかった。私は、茜の葛藤が良心に基づいたものであることに気付いて、彼女の苦しみの一端を垣間見る時、恐ろしさを感じます。茜が永遠に縛られて身動きが取れなくなっている存在であったことに気付くからです。茜はつまり浩平の存在を切実に必要としていたし、また彼女自身そのことに気付いていたはずです。その彼女が、悩みに悩み抜いた末、遂に前に歩き出すことを決意した日。浩平が差し伸べてくれた手を受け取る決心をした日。緊張と解決。これが2/6の意味です。この美しい流れを見る時、私はクラシック音楽、ことにバロック、古典期の音楽を思い出します。ひとつの主題が様々な形で展開していき、その途中では協和音の安らぎと不協和音の緊張とが交互に繰り返されるけれども、最後にはこの上なく穏やかな、主調の3和音で幕を閉じる。まぁ、こんなのは喋るも恥ずかしい音楽の基礎なのですれども(苦笑)、私は茜シナリオの充実度を語るのに、このくらいの例えを持ち出すことをしないと十分ではないと、どうしても思うのです。

  しかし恐ろしいことに、この解決は一時的なものでしかないことがすぐにわかります。まさに浩平と茜が輝く未来を手に入れたと思った瞬間、あの恐ろしいフレーズ〜「えいえんはあるよ」〜が現れます。振り払ったと思っていた永遠がまだ自分を縛っていたことを、茜は知ります。「この人、茜の知り合い?」という、もう二度と聞くことはないはずだった言葉を再び聞かされることによって。
(今これを書きながら思ったのですが、茜シナリオや澪シナリオで表現されている過去と現在との邂逅は「Kanon」という作品の萌芽であるというか、「Kanon」へ受け継がれていくものだとは考えられないでしょうか?)
 そして茜は、浩平と別れる決心をします。あの背中合わせのシーンについて語るのにどんな言葉をもってすればいいのか私にはわかりません。しかし、その数日前に、、、
 「だからあなたのこと忘れます。さようなら、本当に好きだった人」
という、普通は並列し得ない矛盾した言葉を使わざるを得なかったことを思い出してみると、茜の心情は想像を絶するものがあります。

  再会シーンについて。私は以前茜シナリオの感想を書いた時、このラストシーンをシューベルトの「未完成」に喩えたことがありました。詩子の台詞から浩平の存在を匂わせる手法の絶妙さに、あの清澄の極みともいうべき第2楽章の冒頭をどうしても思い出さないわけにはいかなかったからです。今でも私は同じ考えを持っています。アンダンテの緩やかな流れのなかでファゴットとホルンがまず予兆的な小さな音階をppで奏し、その後2小節の休止を挟んでヴァイオリンの主題が静かに(同じくppで)響いてくる。ここの演出の巧みさは、最初にホルンとファゴットのppの予兆によって静寂を演出し、聞き手が耳を澄まさずにいられない状況を作り出し、それによって音楽に集中するように聞き手を自然に仕向けているという点にあるのですが、茜シナリオのあの茜と詩子の会話からも、私はやはり同じ手法を見ます。詩子の口から「あいつ」という言葉が出る時、茜は息を飲むのですが〜「出るはずの無い言葉」というのは茜がそう思ったのではなく、無意識をあえて言葉にして私たちに提示してみせたという方がおそらく正確でしょう。茜にそんな余裕があったとはどうしても考えられませんから〜、この時の茜の驚きは、まさに私たちプレイヤーの驚きでもありました。

  最後にエピローグ部分の表現の秀逸さについても触れておきたいと思います。

 「見上げれば、どこまでも澄み切った青空」
 「本当に、さっきまでの大雨が嘘のように…」
 「二人でこの小径を歩いていく」

  これが単なる状況説明に留まらず、この時のふたりの心情を表しているものであることは言うまでもありません。澄み切った青空は勿論、雨(永遠の呪縛)との対比としての自由の象徴なのですし、また遂に輝く未来を手に入れたふたりを祝福しているとも言えましょう。さっきまでの大雨が嘘のように、というのはあの悲しい体験が既に過ぎ去った過去のものになったことを、更に言えば、最早ふたりの行く道にはなんの憂いもありえないことを示しています。そして小径を(ずっと)歩いていくふたり。かつては悲しみの中で語られた誕生日プレゼントの話さえ、今は笑顔を持って語られます。嵐は過ぎ去ったのです。


◆椎名繭

  私が攻略に一番苦労したのは繭シナリオでした。なにしろ何回BADENDを見ても、どこで間違ったのか全然判らない。後日、攻略Webで答えを知って初めてTRUEENDを見た時は「ああ成程」とは思いましたが、それにしても学校で繭を甘やかさないようにする動機の描かれ方が不十分だと感じました。せめて繭が学校に来るようになった前後にでも、繭について瑞佳と話し合うようなテキストでもあったら良かったのにと思います。ただ、ONEの中で、少なくとも繭シナリオだけはBADENDをも含めてひとつの物語ではないかと私は考えているので、そういう意味ではいきなりTRUEENDに行かなかったのは今にして思えば幸運だったと言ってもいいのかもしれません。

  ゲームの面白さと小説の面白さの違いのひとつは、小説は基本的に唯一の事象しか描く事ができないのに対して、ゲームでは選択肢の存在によって複数の事象、別の可能性〜パラレルワールド〜を比較的容易に描くことが可能であるということです。ドラえもんの秘密道具で、別の可能性を覗き見るスコープ、なんてのがありましたが、ゲームがやっていることはまさにそれだと言えます。

  話を戻します。なぜこのシナリオにあってはBADENDが必要であるか。結論から言えば、BADとTRUEが見事な対照を成しているから、ということになります。まず、繭の成長振りを見たいと願う浩平は、繭を自分から引き離します。

 「人混みの間から、振り返り見ると、きょろきょろとオレを必死で探す椎名の姿が小さくあった。やがて途方に暮れ、呆然と立ちつくす」

  学校で繭を甘やかしていた場合、ここから繭は雨の中で小犬を放り出して泣き崩れてしまい、浩平は失意と諦めのなかで永遠の世界に消えていきます。ところが正規のルートを通った場合はここでまったく新しいテキストが出現します。道の真ん中でしゃがみこんでわんわん泣くだけだった繭が、ここではそうはならず〜義務を放棄せずに〜独りでも頑張って飼い主を捜そうとする。繭の成長を表現するのに、これ以上考えられない絶妙な手法だと思います。勿論、BADとTRUEを対比させる意図が作り手にあったのかどうか、それは知るべくもありません。しかしBADを2回見てからTRUEを見てボロ泣きした者としては、どうしてもBAD→TRUEという流れが意図して作られたものだと思わずにはいられないのです。

  話は変わりますが、ONEの6つの物語の中でこのシナリオだけキスシーンがないのはどうしてなんでしょう? まぁ判る人はすぐに判るかと思いますが、答えは簡単で、このシナリオの主要素は恋愛ではないからです。それは勿論、えっちシーンが完全に蛇足であるということをも意味します。さて、このシナリオが恋愛でないなら主要素はなにか? これも明瞭でしょう。これは、椎名繭という少女がひとりの少年に出会って子供から大人へと成長する話です。こう書くと、まるで繭が主人公であるかのように見えますが、実はその通りです。このシナリオに限らずONE全体にしばしば見られる特徴ですが、どうもこのゲームにあっては浩平(主人公)のスタンスが他のものとは違う。特にそう感じるのはENDINGを見た時です。


「椎名、卒業おめでとう」
「……?」
「大人になったな」
いろんなひとにありがとう。
そして、おかえり。
ずっとみまもってくれるひと。


 繭シナリオの再会シーンは他のキャラのものと比べても驚くほどあっさりしています。なぜか? シナリオの必然性の問題でこうせざるを得なかったからです。もっと具体的に言えばライターさんが、
 「すると、繭が学校に来られるようになったのも、その彼氏のおかげなんだね」
という台詞を書いた時点で浩平の出る幕はすでになくなっているということになります。繭は浩平と出会って、自立する強さを持つ事ができた。このエピローグの時点ではもはや繭はかつての泣き虫な少女ではなく、自分の力で歩く事ができる人間になっている。つまり、物語の流れの中で浩平は既にその役割を終えてしまっているのです。そういう意味では、繭シナリオにあっては浩平が帰ってくるかどうかはあまり重要ではないと言えます。浩平が帰ってこなくてもこの物語は十分に完結できるのですから。
  ただ、ここから「浩平が帰ってくる必然性はない。あのENDINGは蛇足だった」と結論づけるのには異を唱えたい。甘いと言われようとも、私はやはり浩平が帰ってくる事を望みます。考え方を変えてみれば、繭との恋愛はENDINGから始まるとも言えるのではないでしょうか。繭が最後に「おかえり」と言っている?のは見逃してはならないことです。一応確認しておけば「おかえり」という言葉は相手に向かって、相手のために言う言葉です。かつての泣き虫な繭だったらおそらくこんな台詞は出てこなかったでしょう。この台詞は繭が浩平に依存しない対等の恋人になりうることを示すものだとは言えないでしょうか。そう考えた方が、このゲームの副題「輝く季節へ」にぴったり合うように思います。


◆川名みさき

  みさき先輩…。他のキャラ狙いでプレイしていても「…ううっ、いたいよ〜、目がちかちかするよ〜」を見てしまった瞬間にみさきルートに流れてしまう、というある意味卑怯なシナリオです。(笑)とにかく、シナリオの破壊力は他に類を見ない。私が一時期常駐していたBBSでも、思い出し泣きをしてしまったという人がしばしば見られたものです。かくいう私も、仕事中にいくどか泣きそうになった事があります。

  みさきシナリオは、繭シナリオと同じく「成長」がテーマだと言って良いでしょう。ここではむしろ恋愛要素は手段として用いられているという感が強い。後述しますが、浩平の卒業式に出席したみさき先輩の美しさはそうでなければ説明できないからです。

  さて、話を戻します。このシナリオがクリスマスから急に密度が高くなるのは誰しも感じるところだと思いますし、私もクリスマスからシナリオを追っていきたい誘惑を感じるのですが、しかしそれ以前にも見落とせない重要な場面があります。例えば、、、

 「私って、目が見えないからね」
 「だから相手のことを良く知ろうと思ったら、話をするしかないんだよ」
 「言葉と言葉を交わして、それで相手のことを分かって、そして私のことも分かってもらう」
 「私にはそれしかないからね…」

  どこの場面かおそらくこれを読んでいる人には説明は不要でしょう。そう、12/16の図書館でのワンシーンです。「話をするしかない」この言葉に込められた意味に注意してください。私は常日頃考えているのですが、「口は災いの元」というのは極めて一面的な格言でしかないと思います。村上春樹氏も指摘しておられましたが、むしろ社会にあって対人関係での災いは「沈黙」すなわち意志の疎通をかいていることが原因であることの方が遥かに多いのです。いわゆる「いじめ」がなぜ発生するか、これなどは意志の疎通を欠いた例の最たるものでしょう。

  人間というのは話をしなければ分かり合えない生き物だと思います。気持ち、なんてものにはそれ自体としては意味はない。意味が生じるのはそれを何らかの形にした時です。でも私たちは視覚的な情報が入ってくるがゆえに、却ってそれが障害となって意志の疎通を自ら止めてしまっていることがしばしばないでしょうか。だとすれば目の見えないみさき先輩は、却って目が見えないからこそ、もしかしたら私たち以上に人間関係の達人であるのではないでしょうか。みさき先輩は目が見えないゆえに、相手を信用することを前提にしなければなにもできないのですが、しかし他人を信用するということは誰にとっても大変困難なことです。他人を信用することができるというのは人間としては最高の強さだと思います。

  クリスマス。攻略上ひとつの節目であり、対象キャラがひとりに絞られる時期ですが、みさき先輩と浩平が急接近するのはおそらくこのクリスマスからでしょう。雨上がりの屋上に続いて2度目に見せる、みさき先輩の儚さ。「人は強さに惹かれ、弱さを愛する」これは私の持論ですが、好きになることと愛することとの違いはこの辺りにある気がします。笑顔の似合うみさき先輩、人を信じる強さを持っている(と思っていた)みさき先輩の弱さがここで見えてきます。学校にいる限り、みさき先輩は(ほぼ)普通の生徒として過ごすことができます。それだからこそ、彼女は自分の居場所を学校に限定していたのですが、それは裏を返せば、まだ彼女が自分のハンデを完全には克服していないことを示すものではなかったでしょうか。こういう言い方はキツイかしらと思わないでも無いけれど、彼女はまだ心の奥底では、自分の目が見えないことを受け入れたくなかったのではないかと思います。放課後というのは、みさき先輩にとっては残酷な時間であったかもしれません。いくら普通の生徒でありたいと願っても、自分と他の生徒達との致命的な違いを否応なく突きつけられてしまうからです。皆が持っている広い世界を自分は共有できないという悲劇。雨上がりの屋上でひとり佇んでいたみさき先輩、クリスマスの放課後にひとり教室に残っていたみさき先輩。彼女は自分の孤独をどうしようもなく意識していたと思います。それはどんなに寂しいものだったでしょう。

 でも、ふたりの関係はまさにここから始まると言っても良いのです。この日、浩平はみさき先輩の中に自分の居場所を見出したからです。浩平自身は意識していなかったかもしれないけれど、浩平は自分がみさき先輩の支えになって一緒に歩いていくことを、このクリスマスの日に決心していたはずです。

 「だけど、微かなロウソクの暖かさが、今のオレにはなによりもかけがえのないものだった」

  クリスマスに見えないクリスマス。だけど、それは単なるクリスマス以上に価値のあるものです。みさき先輩にとっては、浩平が自分のハンデ(と思い込んでいたもの)をそっくり受け入れて一緒に過ごしてくれたこと。浩平にとっては、守るべき大切なものを見つけたこと。「かけがえのないもの」という思いはおそらく浩平だけのものではなかったでしょう。みさき先輩も多分その思いを共有していたはずです。ふたりが出会えたことはなんて幸せだったんでしょう。ふたりの心がやんわりと近づいていく様子、その美しさは本当に心を打ちます。

 「オレは好きな人の姿を確認することができるけど…。
  先輩にはそれも叶わないんだ…。
  浩平「…先輩」
  だから、抱きしめようと思った。
  他の誰でもない、今目の前にいるのがオレだと言うことを先輩に伝えるために。」


  みさき先輩のえっちシーンについて。いきなり話しが飛ぶのもアレ(苦笑)ですが、どうしても触れておきたい部分なので、ここに書きます。以前、常駐していたBBS上でPS版ONEの話題が出た時、「ONEのえっちシーンは不要であるばかりか、シナリオによっては無くした方が完成度があがるかもしれない」ということで、さる人と意見が一致したことがありました。ところが、この意見に対して別の方から反論がありました。それをここに引用してみます。

□□□□□

僕はみさき先輩のHシーン中の会話は好きです。
最初から最後までまんべんなく。軽いのから重いのまで。
それらの会話が消滅するのは悲しいです。
何か他のシチュエーションを考えるなりして残して欲しいと思ってます。
いい方法は思い付いて無いですが。(OGRE氏)

□□□□□

  念のために書いておけば、この方は「会話が好きだ」と言っているのであってべつに必然性とかに触れているわけではありません。しかし、私にとっては「好きだから残して欲しい」という意見だったからこそ却って説得力がありました。それ以後、今までメッセージスキップを使って読み飛ばしていた問題のえっちシーンを、私はじっくり読むようになった。そうすると、この方の言っている事が凄く良く分かってくるんです。なんと言うか、ささやかな台詞の一つひとつに、浩平の想いとみさき先輩の想いが溢れるほどに込められていると感じられます。今、この文章を書くためにゲーム内から抽出したテキストを読んでいますが、読めば読むほど、まるで詩が織り成されていくような印象を受けます。恋愛ゲームにあっては性行為それ自体の描写は基本的に不必要だと私は考えています。しかしONEの、ことにみさき先輩のえっちシーンは、恋愛の中のワンシーンを演出する手段に徹しているのではないか、と言えそうな気がします。これを読んでいる人の中で、かつての私の様にえっちシーンをスキップしている方がいたら、ぜひ一度はじっくりと読んでみる事をお勧めしたいと思います。ふたりの会話がどんなに優しいか、きっと見えてくるはずです。

  屋上。満天の星空の下で。

 「私は綺麗な光景を見ることはできないけど、でも、その景色は間違いなく今自分が立っている世界に存在してるんだから」
 「それを別の方法で感じることができるんだからって」  
 「だから、今はこの世界が好き」
 「別の世界に行こうなんて考えない」


 …このシーンに関して語るべき言葉を私は持っていません。言葉を用いる事で、このシーンに指紋のひとつといえども付けたくないですから。ただ、知り合いの方が語った「とうてい先輩の孤独感、絶望感を理解することなどできない。それがとても辛い」という一言は私の思うところと完全に一致する、とだけ書いておきます。

 3月4日。商店街、公園、そして…。

  ここでまず面白いと思ったのは、「私たちを恋人同士だって思ってくれるかな?」という台詞でした。憶えているでしょうか? かつてクリスマスの夜、みさき先輩が浩平に同じ質問をしたことを。これは普通に見れば恋する女性の可愛らしい虚栄心と見えるかもしれませんが、ことみさき先輩が言う時、ここには単なる虚栄心以上の想いが隠されていることは見逃せません。思い出してみてください。かつて彼女が言った言葉を。「告白されても絶対断る」「好きな人を束縛したくない」。悲しい事に…と言わざるをえませんが、みさき先輩はいままで恋愛というものを自分の可能性の外に置いていました。盲目である自分には生涯無縁なものだと。でもみさき先輩は、諦念のなかでやっぱり内心は恋愛に対する強い憧れ〜なんとなくブラームスを思い出すフレーズですが(苦笑)〜を持っていたはずです。みさき先輩は長い間恋愛にあこがれ続けてきました。その想いは、きっと凄く強いものだったと思います。自分には不可能だと考えていた望みが叶えられた時、彼女はどうしても自分が憧れていた恋愛の姿に自分を重ねあわせないではいられなかった。いままで恋愛というものを外から眺める事しかできなかった彼女は、自分がその中に入る事が出来た時、同じように外から眺められることを欲したのでした。あの台詞はおそらく、自分が憧れていた場所に自分が立った事をどうしても確認したかったものだと思います。「嬉しいよ」という一言に込められたもの。言葉以上の想い。この時、みさき先輩は本当に完全に幸せだったろうと思います。

  公園…。ONE中随一と言っても過言ではない、恐ろしく残酷なシーンです。信じていけるひと、ずっと一緒に歩いていけるひとを見つけて、これから広い世界を知っていこうと最初の一歩を踏み出したまさにその時、浩平は消えてしまいます。穏やかな春の陽射しのなかで、何も知らず、誰もいないベンチに向かって話し掛けるみさき先輩。私たちプレイヤーは、みさき先輩にそれを教えてあげることもできずにただ見ているしかない。彼女はきっと端から見たらとても滑稽で、でもだからこそとてもとても悲しいのです。私は時々想像してみるのですが、浩平が消えた後、みさき先輩はしばらくあのベンチで浩平を待っていたんじゃないでしょうか。「浩平君を待ってないと…」って。

 卒業式。

  今回、改訂版を執筆するにあたってゲームを再プレイして改めて気付いたのは、このシナリオの舞台がほとんど学校であるという点でした。有名なONE評論を書いた方が「みさきは自分の居場所を学校に限定していた」というような意味の指摘をしてらっしゃいましたがまさにその通りで、みさき先輩シナリオは、彼女が自分の内部に作り出していた壁を浩平が取り除くというものだったと思います。その意味で、私たちは終盤で初めてみさき先輩の私服を見る時、非常に驚きます。彼女の私服姿は他のヒロイン達のそれとは違って、新しい世界に踏み込む象徴だったからです。

  それにしても、と最近思うのですが、ONEの中で特にみさき先輩と繭の物語はいずれもヒロインが何かを乗り越えるという筋立てになっています。主人公であるはずの浩平はむしろ、彼女たちの手助けをするスタンスになっているようにも取れる。エピローグ以降で、視点がヒロイン達に移ってからは特にそう感じます。両シナリオ…に限らずONEのエンディングはいつも、「浩平が女の子に再会する」のではなくて「女の子の前に浩平が現れる」という書かれ方をしています。ここで私はひとつの(若干いじわるな)疑問というか仮定が思い浮かぶのですが、果たして、この物語は浩平が帰ってこなくても完結し得るのではないでしょうか? 少なくともエピローグの時点では彼女等はすでに自分の壁を克服しています。ということは、例えばそこから話を更に10年ぐらい飛ばして、彼女たちが誰か他の男性と結婚した後、「かつて自分が抱えていた壁を乗り越える手助けをしてくれた不思議な少年のことを思い出す」なんていう後日談も作れたかもしれない。

  まぁこんなのはいずれ空想の遊びに過ぎませんが、しかしあのエンディングで得られるカタルシスが単に再会だけによるものではない点は見逃してはならないことです。エピローグの彼女たちは本当に美しい。特に私は、卒業式に出席するみさき先輩を見て心からそう感じます。それは多分絵的に美しいという意味だけだはないと思います。在学中のみさき先輩の絵をちょっと思い出して、この絵と比べてみてください。そこには明確な描き分けが見られないでしょうか? もちろん、みさき先輩は昔も今も可愛いのは言うまでもありません。しかし両者を比べてみた時、在学中の彼女の美しさが、ある閉じた世界での強さと無邪気さとでも言うべきものだったのに対して、終盤の彼女の美しさは、もはや未知の世界を恐れない強さを持ち、自分の未来を信じているひとりの女性としてのものではないでしょうか。そう考えるとみさき先輩が髪型を変えているといった一見些細なことさえ、実は少女時代との決別を象徴しているのではないかと思えます。

  この対比が意図して作られたものだとすれば、このシナリオはどう考えても、ひとりの少女がある少年と出会って成長する話だということになりますし、そういう意味で、冒頭で少し触れたように、恋愛の要素はシナリオの中においてはどちらかと言えば手段として用いられているのではないか、と思うのです。以上のようなことから、繭&みさき両シナリオにおける再会というのは他のそれとは違って、障害を自ら克服した彼女たちへのプレゼントだと私は考えたい。大人になる、というのはそれほど価値のあることなのであり、それは浩平自身が「えいえん」という幼年時代からの呪縛を解き放ったこととも相俟って、ONE全体のテーマとも言うべき物を見事に体現しているエンディングだと言って良いのではないでしょうか。


◆長森瑞佳

 瑞佳は最初のうちは印象の薄いキャラクターでした。超個性派ぞろいのONEキャラの中にあって、なにか地味な感じがしていたんですね。でもプレイしてみるとそうではないことが少しずつ解ってきます。やっぱりヒロインは瑞佳以外にはいない、と言いたくなる。浩平が消える直前の独白を読むと、特にそう感じます。こんなのは単なる思い込みかもしれないのですけど、浩平が一番自然に浩平でいられるのはやっぱり瑞佳といる時なんじゃないかな、とどうしても思ってしまう。

 ONEの6つのシナリオの中でもとりわけプレイヤーの胸に痛いと思われるのは、みさき、茜、瑞佳の3人のものでしょう。しかし痛いといっても、前者(みさき、茜)と後者(瑞佳)では種類がまるで違う。つまり、前者が「別れ」の痛みだったとすれば、後者はなにか説明し難い「不条理な」痛みとでも呼ぶしかないようなものです。浩平は偽りの告白によって瑞佳との関係が変わってしまったことに困惑して、瑞佳を傷つけます。というか、プレイヤーはそういう選択肢を選んでいかなくてはならない。瑞佳シナリオでは、プレイヤーは自分の意に(おそらくは)そぐわない苦渋の選択をすることを強いられます。私は初プレイ時に一度バッドを見て、それからこの選択肢の意味を理解した時、クリアを断念しようかと思いました。あの時は本当にマウスをクリックする指が異常に重く感じられたものです。

 でもよく考えてみれば、あの浩平の行動に一番納得いかなかったのは、当の浩平本人だったと思います。告白後の浩平はただただ困惑していて、瑞佳を傷つけることしかできなかった。でもそれに対して、瑞佳は最後まで浩平を許し〜許しといってもこの場合のそれは、許すかどうかなど最初から問題にしていないかのような無条件の許しでしたけれども〜続けます。浩平の数々の仕打ちは確かに酷いです。でも逆の立場からみれば、瑞佳は浩平を許し続ける(=辛抱強く信じ続ける)ことによって、ついに浩平を手に入れた〜あるいは幼なじみの壁を乗り越えた〜と言うこともできるのではないでしょうか。私はむしろあのシナリオをこういう視点で解釈したい。瑞佳は「浩平でないとだめなんだ」と言いますが、実はこの時点で浩平の方こそ、より切実に瑞佳を必要としていました。私は瑞佳に、恋する少女ではないもっと大きなもの、好きな人を信じつづける強い女性の姿を見ます。浩平は、言ってみれば結局瑞佳の腕の中で我が侭を言っていたに過ぎなかったのです。(笑)

 では浩平視点ではどうだったんでしょう? 浩平はなぜあんなことをしたのか? これについては、むかし常駐していたBBSで色々な見解が出たのですが、その中で非常に共感できる見解を提示してくださった方がいたので、その方の意見をここに挙げておきたいと思います。(この見解について私が付け加えるべきものはなにもないです)

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  まず、浩平の気持ちですが、瑞佳に対してうっとおしい・癪(しゃく)に障る・邪魔・見てていらいらする、というようなものすごくマイナスな感情を抱いています。だけれども、この感情が解らないわけでもない、むしろ、よくわかる。好きだと意識したことのない、というかあまり異性として意識していなかった瑞佳、一人で永遠にみさおとの悲しみの記憶と共に生きていこうとしていた自分を助けてくれた瑞佳、長く一緒にいすぎた瑞佳、近すぎた瑞佳、そして、大好きな瑞佳。その瑞佳をいとも簡単に手に入れてしまった自分、・・くじ引きの副賞みたいな感じで。浩平はそんな自分が許せなかったのでしょう。
 人が目的の達成よりも、そこまでのプロセスに重点を置くように・・・浩平の瑞佳を手に入れるまでのプロセス、それがいい加減なものだったため、浩平の瑞佳に対する気持ちがどう対処していいものか解らなくなったのではないかと思うんです。Hの時にも浩平は『瑞佳はこんなに簡単に手に入れちゃあいけない』みたいなことを言っています。
 浩平は子供です、あの時から心は止まったまま、ただ、海に浮かぶ羊のように陸でもない空でもない中途半端なところで浮いていたいという、境界線の引けない子供なのです。だから、いきなり引かれた境界線に浩平は戸惑ってるのだと思います。中途半端な関係が恋人になったことで。何故泣いているんだろう、怒ってるんだろうって、子供が自分の気持ちに気付かないで感じるように・・訳が分からず(無論それは自分の行動の意味さえも)、ただ何かを否定しているだけなんです、自分の気持ち以外の何かを・・。(神奈月朱音氏)

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  選択肢の意図。
  さて、ところでひとつ考えてみたいのですが、あの極悪選択肢に意図があるとすれば、その意図するところはなんなのでしょう。まず、誰もが思い付くであろう仮説は「プレイヤーに一度バッドエンドを見させる必要があった」というものです。しかし、そうなのでしょうか? 私はこの仮説には疑問を感じます。理由として、第一にバッドエンドとそうでなかった場合とでの展開に対照性が見られないことが挙げられます。第二に、バッドエンドを見たからといって、そこから選択肢潰し的な考え以外に瑞佳を避ける選択をする理由が導き出せないこともあります。つまり、ここでのバッドエンドは単なるゲームの強制終了であって、それ以上の意図はないと考えざるをえません。

  しかしそれではあの極悪選択肢には意図はないのか? ということになりますが、やっぱり意図はあるのです。これを理解するためには一旦このシナリオから離れて、選択肢の在り方というものについて少しだけ考えてみたいと思います。

  まず選択肢の存在理由とはなんでしょう。これは言うまでもありません。分岐を作ること、別の可能性への道を開くためのものです。ただ、選択肢の意図がそれですべてかといえば、おそらくそうではない。例えばデアボリカの後半を思い浮かべてみてください。「記憶を取るか?レティシアを取るか?」あそこで選択に迷ったプレイヤーは多分いないと思います。なら選択に迷う余地がない(=分岐が成立しない)のになぜ選択肢があるのでしょう? 私はこれを、あえてプレイヤーに行動を選ばせることによって、物語に参加しているのだという錯覚を与えることを目的にしているのだと考えます。いうなればこれはトランプ手品で手品師が観客にカードを選ばせるようなもので、〜エンターティメント精神とでも言うか〜製作者からプレイヤーへのちょっとしたサービスのようなものだということです。実際、デアボリカであえてあの選択肢を選ぶ余地を残してくれたことを私は当時嬉しく感じたものでした。

  ここで話を戻しますが、瑞佳シナリオのあの極悪選択肢はこういう種類の選択肢だったというのが私の考えです。つまりあれは瑞佳に対する仕打ちをわざわざプレイヤーに選ばせることで、プレイヤーを半ば強引に舞台に引きずり出そうとしたのだと思うのです。意図は、浩平が負わなければならなかった咎をプレイヤーにも負わせることであり、プレイヤーは自分で選択したことによって、浩平と同じ責任を背負わなければならなくなった。ということは浩平が感じていたであろう痛みをプレイヤーも否応なく感じさせられるということです。そして、こういう周到な用意があるからこそプレイヤーは浩平にシンクロでき、「ほら、はぁーってしてよ」のあの瑞佳の笑顔がプレイヤーの胸に痛烈に刺さってくるのではないでしょうか。告白後、プレイヤーに意に添わない選択を強いているように見えて、その実、これらはあの夜の学校でのイベントを演出するために実に周到に準備されていたような気がします。こう考えてみると、あれらの選択肢はゲーム展開の上でむしろ必然だったと思うのです。


 「そしてふたりは、すれ違っていった」
  どうやらテキストを読む限り、ここは本当にそのますれ違ってしまう可能性もあるようなのですが、それはともかく「すれ違っていった」まで書いておいてから「捕まえたっ…」と持っていくというのは…なんていうか、本当に絶妙だと思います。このシナリオに限らないことですが、ONEという作品をプレイしていると「効果に対するあやまたない直覚」とでも呼びたいような、スタッフの鋭敏さを感じることがしばしばあります。どう演出すればその場面を最も良く受け手に伝えられるか。これは恐らくジャンルを問わずすべてのストーリーテラーが抱えている課題ではないかと思われますが、瑞佳シナリオの中でのこのすれ違いの場面などはその素晴らしい解決だと言いたい気がします。
 「すれ違っていった」これは事実を示す言葉でもありますが、同時に浩平の主観でもあるのは見逃せないことです。この時点で既に瑞佳に完全に忘れられたと思い込んでいた浩平は、諦めの気持ちと共に心のなかで瑞佳に別れを告げる。「さようなら」「本当に好きだったひと」と…。
  しかし、ここで奇跡(と呼んでもいいでしょう)が起きます。瑞佳は実は浩平のことを憶えていた。諦め、まさに瑞佳に別れを告げた瞬間(それはこの世界に別れを告げた瞬間であることと同義です)に浩平は瑞佳に捕まえられ、まだ自分をこの世界に繋ぎ止めてくれるものがあることを知るのです。

  それにしても思うのですが、6人の女の子のなかで浩平のことを一時とはいえ忘れるのは、実は瑞佳と澪のふたりだけ(不思議だ、というのは単にイメージ的に忘れそうにないという意味ですが)なんですよね。クリスマスのやり直しの話は情報量が少なすぎて、私にはちょっと判断がつかないのですが、その少し後、校内で会った時の瑞佳は明らかに浩平のことを忘れていました。瑞佳は「わざと知らん振りしていた」と言っていますが、これはどう考えても嘘です。あの場面であのような演技をする必然性がないからです。ただ、嘘であると言ってもこれは浩平のための優しい嘘なのだし、また自分に対する嘘でもあったことは付け加えておかなくてはなりませんが、ともかく瑞佳は、どうしたことか浩平のことを忘れていた。でもそうだとしたら「捕まえたっ…」という言葉の中には、表面的な意味以上の切実な想いが込められていることがわかってきます。あの場面は表面上、学校にもこないで行方知れずだった浩平をやっと捕まえたという風に見えますが、本当はあの場面で瑞佳が捕まえたのは「浩平の記憶」だった。更に瑞佳が抱きしめていたのは浩平自身であると同時に、浩平の記憶でもあった。あの時瑞佳が浩平から離れることを嫌がった本当の理由がここにあります。「いやだよっ…」「またわたしだけ置いて、逃げちゃうもんっ…」という台詞の裏にあったものは、また自分の内(記憶)から浩平がいなくなってしまうかもしれないことに対する言いようのない恐怖だったのです。実は私は初回プレイ時にはこのことに気がつかず、2回目のプレイでこの台詞の本当の意味に気付いて愕然としました。某CCさくらなどでも語られていましたが、好きなひとのことを忘れてしまうというのは、およそ考えられる最も残酷な災いだと思います。

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  とはいえ浩平が消える間際で一番幸せだったのは長森だと思います。一度は忘れてしまった浩平を捕まえることの出来たという自信。消えてしまうこの人を最後まで見送れる人間が自分であるという誇り。(葉月氏)

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  これは残念ながら私の書いたものではないのですが、私の考えを簡潔明瞭に代弁してくださっている文章なので掲載しました。浩平のことを忘れてしまうというのは、瑞佳にとって想像を絶する恐ろしい事だと思います。しかし結果的にはそのことがあったからこそ、瑞佳は消えゆく浩平を送ることができた。好きな人の苦しみを知らないというのは悲しいことです。そういう意味で、瑞佳はやはりあの状況で考えられる限り幸せだった、と私は断言できます。瑞佳は最後まで泣かずに浩平を送り出しました。それは「待ってるよ。絶対に帰ってきてね」という瑞佳のメッセージだったのではないかな、と思います。瑞佳は浩平が帰ってきてくれることを信じていたと言うこともできるかもしれませんが、それ以上に重要だと思われることは、自分のその気持ちを浩平に伝えることであり、浩平に、浩平のための居場所があることを教えること、帰ってくる場所を用意して待っていることを伝えること、ではないでしょうか。浩平が帰ってくる場所を用意できる人間が、誰でもない、自分(瑞佳)であること。これは瑞佳にとってまさしく誇りだったと思います。多分、だからこそあの場面はあんなにも美しいのです。

  余談ですが、今回改めてあの場面を見た時、浩平の消え方の演出が上手だな〜と思いました。「笑顔で、いれてるかな」の短いやり取りの後、一瞬の場面転換で小鳥を羽ばたかせ、次に元の画面に戻った時には浩平はいない。緩やかな時間の流れの中で、静かに、でも一瞬で浩平が消えてしまう様子をこの上なくうまく演出していたと思います。こういう手法は漫画などで時々見られますが、それにしても自分の作品にそれを完璧に応用してみせるというのは凄いことですし、それはライターさんが日頃からこういう演出技法などに対して研究を積み重ねていることのひとつの顕れなのでしょうね。

  最後に、浩平が瑞佳に送った「詩」を引用してこの感想を締めたいと思います。

 「よぉ、どうした、長森、元気ないねぇっ!」
 「いいか、長森!」
 「おまえのそばに、とんでもなく鈍感で頭の悪い男がいるだろう!」
 「ときには、おまえさんを罵倒したり、なじったりするかもしれない!」
 「でもな、許してやってくれ!」
 「我慢して、そばにいてやってくれ!」
 「どんなことをしたってな、そいつはおまえのことが好きなんだから!」
 「だからな、長森!」
 「元気なくても、そいつには元気のいい笑顔を見せてやってくれ!」
 「そうすれば、バカだから、そいつは幸せでいられるんだ!」
 「な、頼むぜ!」
 「そしてっ!」
 「そして、そのバカがいないときでも笑っていろよな、長森!」
 「引きつりそうな限界の笑顔で、笑ってろよな!」
 「じゃないと、あいつが戻ってきたときに、寂しい思いをするからな!」


◆上月澪

  ONEの中で最も難解なシナリオ…だというのが私の考えです。いや、難解だという言い方は正確ではないかもしれません。ただ、なんというか「掴みにくい」と思うのです。上月澪というキャラクターはとてもとても魅力的だし、自然な流れの中で物語が展開していくという点でも他の5人のシナリオに劣るということはないはずなのですが、ただ、なにかインパクトに欠けるというか、アピール力では他のものに一歩譲らざるを得ないのではないだろうか、とどうしても思ってしまいます。

  なぜこんなことになってしまうのか? 多分、シナリオに与えられたテーマのせいなのです。ONEの6つの物語は多かれ少なかれ「成長」、あるいは「解放」といったものがテーマとされているのは今更言うまでもないことですが、それにしても澪シナリオのテーマであるはずの「約束」は果たして十分な説得力を持って語られていたのかどうか。少なくとも私は、このシナリオを何回プレイしても、約束に縛られた澪、というイメージが見えてこないのです。浩平は、自分が縛り付けた約束から澪を解放してやろうとします。これはシナリオのなかで語られていることですが、しかし澪は本当にそれほど約束に縛り付けられていたのでしょうか。また、その約束は解放されなくてはならないようなものだったのでしょうか。もし、澪が茜のように現実の一部を喪失している存在だったら、あるいはみさき先輩のように自らの可能性をあえて閉じ込めているような存在だったら、あのシナリオは大きな説得力を持って私の胸に届いたに違いないと思います。
  しかし実際には、澪にとってあの幼い日に交わした約束がなんらかの拘束になっているようには、どうしても見えない。こういうことを言うと、本編中の「幼い日の安易な約束が今でも澪の足かせとなっている」という記述を思い出す人もあるかもしれませんが、しかし私は、これは浩平の主観〜思い込み〜だと思えるのです。

  澪はかつて、喋れない自分でも色々な気持ちを表現することができることを浩平に教わりました。以来、彼女は自分を表現することを少しずつ学んでいったのだと思います。つまり、澪は(決定的な)枷からの解放をすでに10数年前に果たしているのです。もちろん、解放を促した少年との約束は果たされなかったのですが、澪はそこで約束に閉じ込められたりはしなかったはずです。これは本編では語られていないので私の想像ですが、待ち続けてそれでも少年が来なかった後、彼女は幼いながらも色々考えたと思います。スケッチブックを返せないのなら、なにか別の形で別のものをあの少年に返そう、と。そして彼女は演劇を選ぶのです。いつかあの少年に見てもらえることを願って。自分が少年のくれたスケッチブックによってどんなに変わることができたかを知って欲しい、わたしが今ここにいるのはあなたのおかげなんです、ということを伝えるために。それが、彼女が考えた末に出したひとつの結論だったと思います。こういうことを考えてみると、上月澪のスタンスというのは他のキャラとは明らかに意味合いが違うことが判ってきます。少なくとも2度目に出会った澪は、すでに自分を表現することを知っている女性だったと思います。例えば、澪がその後浩平と再会しなかった(帰ってこなかった)としても、後日談で「…すると澪が自分を表現できるようになったのもその男の子のおかげなんだね」と友人に言わせて締めくくることだってできたかもしれないし、それだってひとつの立派なエンディングの形だと考えられます。ということは、2度目の出会いは、澪にとってではなくむしろ浩平にとってこそ意味のあるものだったとはいえないでしょうか。ここで「蜘蛛の糸」を持ち出すのも変かもしれませんが、過去と現在を含めて澪シナリオを見るとすれば、1章でかつて浩平がひとりの少女を助ける→2章で助けた少女が今度は浩平を助ける、という図式が成り立ちます。言うまでもなく、1章の主役は澪、2章の主役は浩平です。ところが、(これはあるいは仕方が無いことなのかもしれませんが)実際にはゲーム中で語られるのはあくまで2章が中心です。ということはどうしても、上月澪というキャラクターの描写が難しくなる。多分この辺りにこそ、このシナリオのアピール力不足の原因があるのではないかな、と私は考えます。こうやって、語られない空白を想像で埋めていくのは楽しい作業ですが、しかしもうちょっと澪の描写をなんとかして欲しかった、という気持ちがあるのもまた事実です。惜しいシナリオだと思います。


…人に何かを伝えたくて始めたこと。
…他の人よりも気持ちを表現することが下手だから。
…だから、舞台に立って大勢の人に何かを伝えたかった。
…今はまだ曖昧な何かを。
澪はそう言って恥ずかしそうに横を向いていた。
『いっぱい伝えたいことあるの』



  シナリオにどんな問題があるにせよ、それでも私はONE初プレイ時からずっと、上月澪という少女に惹かれ続けてきました。いや、惹かれるというより「尊敬」の気持ちを抱いていたという方が正確かもしれません。彼女は喋ることができない。それは普通に考えればコミュニケーション能力としては致命的であるはずです。それなのに。彼女の意志表現、感情表現は、言葉が喋れる私たちよりもずっと豊かではないでしょうか。私は時々、澪を眩しく感じることがあります。彼女もまた〜みさき先輩と同じように〜無心の信頼を前提にして他人に接するからです。こういう人が美しくないはずはないし、こういう人の生き方が、私たちの心を打たないはずはないのです。澪はいつも、その時に自分ができる最善の表現をすることを知っています。厳密に言えば「自分に可能な精一杯のことをすればいい」という単純にして重要な真理を知っているのです。浩平にくちづけするシーン。消えていく浩平に微笑むシーン。これらは澪にできる最高の愛情表現だったと思います。特に、澪が消えていく浩平を笑顔で見送ったのは象徴的です。浩平に対する全的な信頼を、この上なく単純にして美しい形で表現しているシーンだからです。人を信じつづけること。これはONEの重要なテーマのひとつである「絆」とぴたり合わさる語句であることに、皆さんは多分もうお気づきだと思います。あの時の澪の笑顔〜信じるかどうかなど最初から問題にしていないかのような無条件の信頼〜こそ、浩平をこの世界に繋ぎ止めた決定的なものだったのであって、それだからこそ、あの場面は私たちの心に響くのです。

 ONEをプレイしているとしばしば感じることなのですが、こういうシナリオを書くのにはライターとしての文章能力や表現力云々以前に、もっと人格的な部分の素養が要求されるような気がします。人格、というのはこういうなにかを表現することを生業とする人間にとってはひとつの重要な資質ではないかと常々考えていますが、それにしてもこういうシナリオは〜普段どんな生活をしているにせよ〜人間の善性みたいなものを信じている人でなければ書けないのではないかな、と思います。勿論、それは受け手の錯覚である可能性もありますが、ともかくそういう印象を受け手に与えることに成功しているというのは、ONEという作品の価値を分かり易い形で示しているものだと言うことはできるでしょう。

  澪シナリオのエピローグに関して。視点が突然第三者に移ってしまうのはどう考えても失敗だと言わざるを得ないのですが、それはともかくラストシーンがブランコであるのは象徴的だと思います。長い長い時間を経て、初めて出会った場所に戻ってくるふたり。こういう手法は例えば「めぞん一刻」などに前例を見ることができますが、私たちに、ふたりが歩いてきた道のりを一瞬で回顧させ、また、ひとつの物語の終わりをも意識させる、素晴らしい演出だと思います。ここで語られているのは「輝く未来の前に立つふたり」である以前の前提として、「ついに輝く未来を手に入れたふたり」なのです。

終わり


◇この感想は、リーフオフィシャルサイト内BBS「ゲーム談話室」(当時)で、1998/12/8〜1998/12/13にかけて私(しのぶ)がupしたものに大幅な加筆修正を加えたものです。同BBS内の投稿からの引用を許可してくださった、OGRE氏、葉月氏、神奈月朱音氏に心からの謝意を表します。尚、BBSからの引用個所は“□”で囲ってあります。更に、今回(2000/2/11)七瀬シナリオ改訂版を書く切っ掛けを提示してくださった感熱氏にも、合わせて厚くお礼を申し上げます。

◇この感想文では、一部「Win95版 ONE〜輝く季節へ〜」のテキストを引用しています。自分の文章と区別するため、引用個所はイタリック体で表記しています。ゲーム内のテキストに関する諸権利はTacticsの所有です。このwebページからの無断転載等はおやめください。


このページ内の文章に関するご意見ご感想等はしのぶまで。

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