AIR 美凪シナリオに関しての、私的解答



◇Index

はじめに
全体像から
ちいさな環
問題、あるいは解決されるべきもの[1]
問題、あるいは解決されるべきもの[2]


◆はじめに

 現在、ネット上には AIR 関連の文章がかなりたくさんありますが、その内容は、観鈴や翼人の問題を扱ったもの、あるいはその辺りから総括的に作品のテーマ等について語っているものが多く、佳乃シナリオや美凪シナリオに関する記述は驚くほど少ないのが現状です。確かに、AIR 編のあの圧倒的な世界は、DREAM 編を霞ませてしまうほどの凄み(美しさ)を持って迫ってくるのも事実なのですが、それにしても、DREAM 編の美しさについては、もうちょっと語られても良いような気がします。いきなり身も蓋もない言い方をすることを許して頂ければ、私は AIR 全編を通じて美凪シナリオが一番好きなのです。

 私が AIR に初めて触れたのは去年の11月下旬だったのですが、初めてDREAM編の美凪シナリオを終えた時、最初に考えたのは、この先にどんな物語が待っていようとこれ以上に美しいものは望めまい、ということでした。美しさということを問題にするなら、その先には更に圧倒的な AIR 編が控えていたことを後になって知るのですが、当時の私は、ああもう AIR は十分に遊んだ、と思えるほど満ち足りてしまっていました。もちろん、AIR 編の美しさは、圧倒的なものです。この世界はもはや好きとか嫌いとか、あるいはどんな言葉さえ語ることを許さずに、厳然として存在するひとつの世界であるように思われます。しかし、誤解を恐れずに言えば、この世界は私にはあまりに厳しすぎました。母親たろうとして泥にまみれる晴子や、最後まで笑顔でいつづける観鈴がいて、私はただそれを見ていることしか出来ないということ。この世界は私に緊張を強い、私を疲れさせます。それに比べると、美凪シナリオは、もっとずっと穏やかであり、また宥和に満ちた世界です。こんなのは想像の遊戯に過ぎませんが、もし、例えば ONE/Kanon/AIR の中のどれかの世界に住めるとするなら、私は今だったら迷わず AIR の美凪シナリオを選ぶでしょう。往人と美凪とみちるの関係。一緒にいることが当たり前であり、しかもその輪は誰にも邪魔されることなく、穏やかな、どこまでも穏やかなものになっています。これは、美凪の母がかつて語った、『あなたたちの未来が、美しい凪に満ちていますように』という願いが、完全に実現された世界です。この世界は、私の憧れそのものです。

 しかし、残念ながら−というのはあるいは傲慢かもしれませんが−ネット上の AIR 関連の文章を読む限り、このシナリオの美しさは、意外に、十分には認識されていないように感じます。例えば、美凪シナリオに関しては『現実受容』がテーマであるということが言われますが、これは私に言わせれば、間違ってはいないにせよあまりに一面的なものです。また、美凪シナリオの美しさとして、しばしば、屋上での別れの場面が挙げられるのですが、あの場面がいかに美しかろうと、あの場面に目が眩んでしまっては、美凪シナリオのほかのシーンの美しさを見落としてしまう可能性が出てきます。美凪シナリオは、おそらく普通に思われているよりも、ずっと美しいのです。その美しさを伝えるのは私ごときの力では到底及ぶべくもないのですが、ただ、私が美凪シナリオのどこに魅せられているかを書いてみることで、私が見ている世界(美凪シナリオ)の一端を垣間見て貰うことぐらいはできるのではないかと密かに思っていて、それが、この文章を書いている動機です。これを読んで、美凪シナリオをもっと好きになってもらえたなら、書き手としてこれに勝る幸せはありません。


◆全体像から

 DREAM編美凪シナリオを初めてプレイした時、私の頭の中に浮かんだことはもうひとつありました。それは、この物語のベースは佐祐理さん補完シナリオだ、ということでした。ご存知の通り、Kanon の倉田佐祐理というキャラクターは、幼くして死んだ弟に対する罪の意識を抱えていて、そのために自分を肯定することができない少女として描かれていた訳ですが、これは、AIR の遠野美凪というキャラクターにぴったり当てはまると思えました。これは偶然なのでしょうか。私には、どうしてもそうは思えませんでした。それどころか、この企画を立てた麻枝氏は Kanon では遂に語られることがなかった佐祐理さんの問題を、AIR という別の舞台で解決してみせたのではないかとさえ思いました。最初にそう思った時点では、これは単なる直感に過ぎなかったのですが、その後色々考えていくうちに、この考えはいよいよ私の内部で確実なものになっていきました。他の作品との比較論というのは個人的にはあまりしたくないのですが、ただ、AIR の美凪シナリオに関しては、Kanon の佐祐理シナリオを参照することで、物語が非常に把握しやすくなると思われるので、ここを基本的な立ち位置として、以下を書き進めていきます。

 さて、まず最初に、美凪シナリオのテーマ(表現上の主題)はなんでしょう。これを考えるためのヒントは、実はゲーム中で提示されています。美凪が、回復した母について語った言葉を思い出してみてください。

 『夢の中で現実を知る
 『夢を見ることで現実に目覚める

 美凪の母親は夢を通して現実を受け入れたということ、これは重要なことです。このシナリオにおいて、夢は必ずしも現実と対立するものではないということ、むしろ、夢を見るという行為によって、より正しく現実を生きられるようになるということ、がここでは語られているのではないでしょうか。ここまで書けばもう、勘の良い方はお気づきのことと思います。夢という体験を通してよりよい現実を生きられるようになる、という構図は、実は美凪を中心としたこのシナリオ全体の骨格になっているのです。ただし、母親と美凪とで決定的に違うのは、母親の回復は物語中の誰かの意思とはまったく無関係に起こっているのに対して、美凪の場合は、その回復を願う協力者がいたという点です。これは言うまでもなく、みちると往人のことを意味します。この物語を美凪の回復という観点から見ていくと、往人と美凪とみちるの三人の関係にはそれぞれ明瞭な役割があることが分かってきます。つまり、美凪を主軸にして考える時、みちるは美凪に夢を見せる存在であり、往人は美凪の夢を醒ます存在である、ということです。美凪は、みちるという夢の中で自分を取り戻し、再び笑えるようになり、遂にはその夢を通じて、罪の意識から解放されます。往人は、美凪が現実に向かって歩けるように背中を押します。しかも面白いことに、夢を見せる側と夢から醒ます側は互いに対立したりはしておらず、むしろ手を取り合ってさえいます。この物語の美しさの要のひとつが、ここにあります。みるちは元々、美凪の笑顔を取り戻すために現れたのですが、自分が夢に過ぎないことをちゃんと自覚していて、いつかは美凪が夢から覚めなければならないこと、自分が消えなくてはならないことを知っています。だから、美凪が夢を必要としなくなった時、現実に居場所がちゃんと用意されていることに気づいた時、現実の中で美凪が笑える場所が再びできた時、自分の役割が終わったことを自覚して、みちるは、後のことを往人に託すのです。そして、往人はみちるの想いを受け継ぎます。往人は、美凪のことが好きでみちるのことが好きで、みるちがどんなに美凪のことを想っているか知っているからこそ、みちるの想いを受け取り、美凪の背中を押すのです。母の元へ帰れるように、また、夢(みちる)の終わりを笑顔で見送れるように。

 このシナリオは、何よりもまず美凪の回復の物語だと私は考えます。従って、もしこのシナリオのテーマを一言で言い表すなら、『夢を通してよりよい現実を生きる』という辺りになるでしょう。繰り返しますが、このシナリオにおいて用いられる『夢』というモチーフは、現実の良き協力者です。その意味で、このシナリオのテーマを現実受容と呼んでしまうのは不正確だと言わざるを得ないのです。いやもちろん、現実を受け入れなければならないというのは確かにそうには違いないのですが、このシナリオにおける『夢』は現実の手助けをする存在なのであって、だから、このシナリオが語っているのは、夢の中にいてはいけないということではなくて、夢を愛してその中に生きるという経験を通じて、その後にきたるべき現実を一層良く生きることができる、ということなのです。

◆ちいさな環

 先の前書きの中で、私は、この世界は憧れそのものだと書いたのですが、なぜ美凪シナリオが憧れの世界なのかというと、結局、彼らが閉じた環の中のいるからなのです。この三人の関係から Kanon の舞シナリオを思い出したのはおそらく私だけではないと思うのですが、両者の間には決定的に違う点があります。Kanon の舞シナリオでは、彼らは色々なものと戦わなくてはならなくて、あの三人でいる空間は、どちらかと言えば戦いの合間の休息ではなかったかという気がするのですが、AIR 美凪シナリオには、そもそも戦いといったものは存在しません。この差は大きいものです。彼らの小さな環は誰にも邪魔されることがなくて、彼らは当たり前のこととして環の中に生きています。俺は莫迦だからお前と一緒にいたいんだとか叫ぶ必要もないし、勝手な自己犠牲精神なんてものもここにはありません。美凪と往人とみちるが一緒にいるのは、彼らにとって今更確認するまでもなく当たり前のことなのであって、彼らは、なんら消耗や努力を強いることなく、ただ純粋に好きな人のための自分であることができるのです。

 好きな人のための自分であれる、なんて物言いは、人によっては眉唾なのかもしれません。しかし、この物語を駆動している原理は結局これだけではなかったでしょうか。私は先に、三人の関係には役割がある、と書いたのですが、役割というのは私たちプレイヤーが物語を俯瞰してみた時にそう言えるということなのであって、実のところ、彼らは自分たちの役割について必ずしも自覚的である訳ではありません。物語の構造上、みちるも往人も役割がきっちりと決まっているとしても、彼らは、美凪の回復について意識していて役割を担っているという訳ではなくて、この回復はむしろ結果的にそうなるというような性質のものであるように思えます。彼らはおそらく、自分の役割を知りません。でも、ただ好きな人に笑顔でいて欲しいと願うそれだけのことによって、世界は美しく変わっていきます。

◆問題、あるいは解決されるべきもの [1]

 このシナリオが、遠野美凪という少女の回復の物語だということは既に書きました。では、回復とは具体的に何を差すのでしょうか。これは受け取る人によって、夢から醒めること、母娘関係の回復、などなど色々な意見が出てくるところと思います。もちろん、そのどれもが正しいのですが、ただ、私見ではそれらはどちらかというとシナリオ全体を通して見た場合には枝葉であって、むしろ、このシナリオにおいて語られている問題と解決の中で一番重要なのは、美凪が罪の意識から解放されることではなかったろうか、と私は考えています。また、正にそう思うからこそ、私はこのシナリオを佐祐理補完シナリオだと呼ぶのですが、これについて語ってみたい…というか、なぜ私がそう思ったのかについてもう少しシナリオに踏み込んで述べてみたいと思います。

 このことを考えてみるには、まず、シナリオの構造を俯瞰してみる必要があります。しかしただシナリオをいたずらに追うのでは却って物語の構造が見え難くなる恐れがあります。ここは、ある程度焦点を絞って観察する必要があるでしょう。つまり美凪の回復において、みちると往人がどういう役割を果しているか、です。

 さて、こういう風にして、一歩離れた位置から物語を眺めてみると、興味深いことに気づきます。既に最初の方にもさらっと書いているのですが、物語上重要なポジションにいるはずの美凪の母親は、実は誰の助けも借りることなく、まったく偶然としか言いようのない仕方で回復しているのです。彼女はまったく誰の意思とも関わりなく、勝手に夢を見て勝手に夢から醒めます。美凪にしてみれば−少々意地悪な言い方をすれば−これはほとんど“たなぼた”に等しい事象です。みちるや往人ががいようといまいと、結局、母親の病気は自然と治るのです。しかし、病気の回復と母娘関係の回復とはもちろん同じものではありません。もしみちるがいなかったら、美凪はどうなったでしょうか。おそらく、母娘関係の回復はあり得ないか、そうでなくても相当難しいものになったであろうことは想像に難くありません。母親が夢から醒めて“みちる”の死を受け入れた時、今まで“みちる”だった少女は居場所を失います。“みちる”は母親にとって、いるはずのない存在であり、夢から醒めた母親にとって、自分の娘は“美凪”ただひとりです。しかしもしかつての美凪の前にみちるが現れなかったら、どうでしょう。元々、“美凪”としての居場所を持たない少女が“みちる”としての居場所さえも失った時、例えそれが嘘の居場所であったとしても、遂には“美凪”でも“みちる”でもいられなくなったら。少女はその時、完全に居場所を失います。“みちる”でいることができなくなったからといって、彼女は再び“美凪”に戻ることはできないでしょう。嘘も吐き続ければいつかは現実と区別がつかなくなります。居場所を失った少女は、誰でもない者として生きるより他になくなります。

 こういう風に考えてみると、美凪にとってみちるの存在がいかに大きなものであったかがお分かり頂けると思います。この物語の中でのみちるの役割は、まず第一に、美凪が“美凪”でいられる場所を作るというところにあります。“みちる”として生きなければならなかった少女にとって、あの時なによりも必要だったのは、誰かから“美凪”としての自分を認めてもらうことでした。美凪は、“美凪”でいられる場所があったからこそ、“みちる”としての居場所を失っても、必ずしも致命的な喪失状態にならずに済んだのです。こういう言い方はあるいは乱暴かもしれませんが、むしろ母親が“みちる”の死を受け入れたことは、美凪にとっては救いであるはずでした。美凪はようやく嘘から解放されて、“美凪”として生きる可能性を得たのですから。ただし、その可能性があり得るためには、美凪がそこに至るまで“美凪”としての自分をしっかりと保っている必要があります。美凪は『わたしの翼は飛ぶことを忘れてしまった』と言っていますが、これは認識として不正確でしょう。正確に言えば、美凪の翼は、みちるのおかげで、飛ぶことを忘れずに済んだのです。もちろん、みちるとの関係は夢に過ぎません。しかし美凪は、他ならぬ夢によって、美凪としての自分を守りつづけることができます。みちるの役割については、普通にゲームをやっていると見落としてしまう恐れがあるのですが、それはみちるが、ゲームが始まった時点で既にその役割を半ば終えてしまっているからです。みちるは美凪に夢を見せます。その夢の中に生きることを通じて、美凪は自分を保ちつづけます。また、もし美凪が美凪であり続けられなかったら、美凪と往人との出逢いもそもそもあり得たかどうか疑わしいと私は思います。嘘と現実の区別がつかなくなって自分が誰であるかきちんと認識できなくなった人間が、どうして他者に向かうことができるでしょう。

 嘘を付かなければならなかった少女は、みちるとの出逢い、みちるとの日常を通じて、美凪としての自分を維持することができました。また、美凪は、みちるのおかげで自分が美凪でいられたことをはっきりと自覚していました。その彼女が、夢から醒めること(=みちるとの別れ)を受け入れられないのは、むしろ当然だと言えます。これについては後述するとして、では、物語中でみちるの役割が終わっているのだとすれば、往人についてはどうでしょう。

 みちるの役割は、美凪に夢を見せること、その夢によって美凪が自分自身でいられるようにすることでした。逆に言えば、それが、みちるにできる限界でもありました。みちるは夢を見せることはできるけれども、現実に向かって美凪を歩かせることはできませんでした。みちるもそのことを自覚しています。ここで、国崎往人という青年が重要な役割を演じることになります。元々旅人であった往人は、みちるや美凪と出逢い、彼女たちと一緒の日常を過ごす中で、少しずつ、そこに居心地の良さを見出すようになっていきます。この辺りの描写はゲーム中でも丁寧に描かれていますが、特にみちると往人が、ドツキ合いながらも期せずして互いの距離を縮めていくのは、見ていて微笑ましく感じます。そうして一緒に日常を過ごしていく彼らは、いつしか、一緒にいることが当たり前のような関係になっていきます。

 その矢先に、突然、美凪の母親は夢から醒め、“みちる”を名乗る少女を拒絶します。しかし少女は“美凪”として生きることのできる場所、美凪として認めてもらえる居場所を持っていました。母親から拒絶されても、美凪には、往人とみちるがいる日常がありました。元々消極的な少女である美凪は、ごく自然に、ただ何もせずに水が低いところに流れるように、その日常の中に逃げ込みます。この日常、往人とみちるがいる空間は、この時の美凪にとっては確かに必要なものではありました。もしみちるや往人がいなかったら、美凪は一体どこに自分の居場所を見出せばよかったのでしょう。しかしこの居場所は夢の世界であり、本来は、ここは一時の避難所でなければならないはずでした。みちるはそのことを知っています。おそらく美凪も知っていたでしょう。美凪自身、本当は母親の元に帰りたかったに違いないのです。でも臆病な美凪は、自分の気持ちを誤魔化して、避難所に安住することを選びます。言ってみれば、現実を拒絶して、夢の世界に生きようとしてしまうのです。この夢を作り出したのは元々はみちるでした。みちるはこの時、自分の夢が美凪にとって良くない方へ働いてしまっていることを知ります。自分が見せることのできる夢ではもはや何も変わらないことを知ります。そして遂に、みちるが往人にバトンを渡す日がやってきます。この辺りは(8/8)は、シナリオ全編を通じても最も美しい場面のひとつに数えられるでしょう。みちるは空に帰る決心をします。美凪がそうであったように、みちるだって、本当は美凪と別れたくなんてなかったはずなのです。それでもみちるは、美凪が現実に向かって歩き出せるように、また何よりも美凪が笑っていられるように、自分が生み出した夢を終わらせる決心をします。夢を終わらせるということは美凪と別れるということであり、また自分がこの世界から消えるということです。自分が消えるのは分かっているのに、みちるは美凪に笑っていて欲しいというただひとつの想いだけで、夢を終わらせることを決意します。そうしてみちるは、美凪を夢から醒ます役割を、いえ、もっとみちるの気持ちに即して言えば、美凪を幸せにする役割を、国崎往人に託すのです。

 往人は、みちるの気持ちを受け取ります。遠野美凪という少女が望んでいるものはなんなのか、また自分は彼女のために何ができるのか、往人は考えます。その後どうなったかは、私がここで述べるまでもないでしょう。

 美凪は母親の元へ帰ります。ここで物語はひとつの解決を迎えたようにも見えます。しかし例えば、ここからこの物語のテーマを『母と娘の問題』だと言ってしまうのは性急と言わざるをえません。物語全体から言えば、母娘関係の回復だけで、問題がすべて解決されたわけではないからです。むしろ私には、母娘関係が回復したことで、別の問題が、遠野美凪という少女が抱えていた本当の問題が浮かび上がってきているように思えます。もう一度思い出してみて頂きたいのですが、この物語の中で、美凪の母親が夢から醒めることはまったく偶然の出来事に過ぎません。母親が夢から醒めたのは別に美凪の行動の結果でもなんでもないこと、これは留意しておくべきです。少々乱暴に言えば、母娘関係の回復というのは、Kanon における奇蹟程度の意味しか持っていないのです。

◆問題、あるいは解決されるべきもの [2]
  
 では本当の問題とはなんなのでしょうか。これは、いきなり答えを言ってしまえば、美凪の『罪の意識』です。みちるは先に述べた通り既にその役割を終えて、もはや空に帰らなければならなくなったのですが、美凪はみちるとの別れを受け入れることができません。元々、みちるは美凪を笑わせるために地上に降りてきた存在であり、美凪はみちるとの幸せな日常を生きることを通じて自分自身を保つことができたわけですが、これは言い方を変えれば、美凪が自分自身を保ちつづけることができるためには、みちる(夢)を心から愛さなければならなかったということでもあります。夢はいずれは醒めなければならないにも関わらず、同時に、その夢は失いたくないと思わせるほど愛しいものでなければならなかった、というのは皮肉といえば皮肉でしょう。この一点だけ取ってみても、美凪がみちるとの別れを受け入れられないのはむしろ当然のことなのです。更に、そこに美凪がかかえていた罪の意識の問題が絡んできます。美凪が自分の心の動きにどの程度自覚的であったかは分かりませんけれども、おそらく彼女は、みちるとの別れが近づいているのを知った時、その行き場所のない悲しみの原因を自分の罪に求めてしまうのです。彼女のこの心情を理不尽と言ってみても、あるいは、罪の意識など錯覚なのにと言ってみても、それは詮無きことです。問題なのは、美凪がその思い込みに縛られてしまっているという点にあるのですから。

 『星の輝きが…私たちの心を綺麗に清めてくれますように

 この台詞は、美凪の罪の意識が言わせた言葉に他なりません。この台詞が幼い頃の遠野美凪の台詞とダブっていることに気づかれたでしょうか。かつて美凪は、自分の妹になるはずだったみちるを失った原因を自身の罪に求めます。そしてまた、今、みちるとの別れ。美凪がみちるとの別れを経験するのは二度目なのです。これをどうして受け入れられるはずがあるでしょう。美凪は考えます。もし自分があの時(幼少時)、みちるを憎んだりしなければ、ここには夢ではないみちるがいたはずなのに、また今みちると別れなくても済んだはずなのに、と。これはしかし、往人が指摘している通り、今、目の前にいるみちるを否定しかねない言葉でもあります。この時、美凪は目の前のみちるを見ていないとも言えます。そんな余裕はこの時の美凪にはなかったのでしょう。この辺りでだんだん明らかになっていくのですが、みちる(夢)という存在は、美凪にとって自分でいられる場所であったと同時に、自分の罪を忘れることのできる場所でもありました。例えそれが錯覚であったとしても、生れてくることができなかったみちるが傍にいるというのは、美凪にとっては罪の意識を一時的にでも忘れさせてくれるという意味があったのです。でも、みちるがいなくなると知った時、それが錯覚であるという事実に、美凪は気づきます。みちるが生れてこられなかったのは自分の罪なのに、それでもみちるは笑ってくれる。これは、美凪にとって耐えがたいことではなかったでしょうか。美凪はもはや、自分を責める以外になす術を知りません。

 この時、みちるはまったく無力です。みちるにできることは夢を見せること。でも夢を醒ますことはできません。みちるが見せた夢は、美凪にとって掛け替えのないもの、愛さずにいられないようなものだったのですが、正にそのゆえに、みちるは、美凪が夢から醒める必要がある時、無力なのです。ここで再び、国崎往人の存在が大きな意味を持ってきます。先に、みちるがもしもいなかったらと仮定したように、もしも往人がいなかったらと仮定したらどうでしょう。往人がいなくても、いずれみちると美凪は別れを迎えなくてはならなかったでしょう。しかし、その別れはきっと、残酷なものにならざるを得なかったと思います。おそらく美凪は、みちるが消えることを受け入れられないまま、別れを迎えて、その後も罪の意識を抱え続けることでしょう。みちるがそんなことは望まないことぐらい、美凪は知っているはずですが、それでも美凪はみちるとの別れを嘆き、自分を責めつづけたでしょう。

 この状況を変えることができるのは、唯一、国崎往人だけでした。彼がそれについて自覚的だったかどうかはさておき、往人はもう一度、身動きできない美凪の背中を押します。

 『おまえは、大切なひとに、何をしてやりたい?
 『おまえ自身が、何をしてやりたい?

 往人は言います。例え自分の罪から始まってしまったことであっても、確かにみちるは目の前にいたということ。例えそれが夢に過ぎないのだとしても、大切だと思うものは愛しんで良いのだということ。みちるが大切だと思うなら、またみちるの気持ちに応えたいのであれば、ともかくみちるとの出逢いを肯定すること。みちるとの出逢いを肯定するためには、それまで自分で歩いてきた道程を、また自分自身を肯定するべきであること。永い夢の最後に、美凪はようやく自分の罪ときちんと向き合い、それを受け入れます。例え罪であったとしても、それがこの幸せな夢を生んだのであれば、それを否定してしまってはならないということ。なによりも、大切なみちるのために、そうするべきであること、に気づくのです。美凪は、自分の罪を、また自分が見ている夢を受け入れます。そうして、贖罪としてではなく、もっと単純に、こういってよければ純粋に、大切なひとに何をしてあげられるのかと考えるのです。

 『…まだ、みちるが持っていない…みちるだけの大切な思い出
 『…それをみちるにあげたいんです

 美凪は、みちるを母に会わせる決心をします。自分のためにいつも笑っていてくれた大切な少女に、思い出を作ってあげたいと願います。

 遠野家での食卓。母と美凪とみちるがひとつのテーブルを囲う風景。みちるの満面の笑顔。このシーンこそ、美凪シナリオ中でもっとも美しいシーンであり、またシナリオの到達点だと私は思います。美凪シナリオは、すべてこの場面に結実するために流れてきたといってさえ過言ではありません。なぜなら、この時のみちるの笑顔は、期せずして美凪にとっての救いであったからです。みちるが母親の前で満面の笑顔をみせた瞬間こそ、美凪が本当に自分を許すことができ、自分の罪の意識から解放された瞬間でもあるからです。もちろん、このことはテキスト等で明示されているわけではないのですが、それでも私は、美凪が本当に解放されたのはこのシーンであることを疑いません。美凪は、みちるに家族のぬくものを教えてあげたいと願うことによって、期せずして、そこに憧れの世界を実現させます。三人でひとつのテーブルを囲い、皆が笑っている風景。これは、みちるにとってだけでなく、美凪にとっても、また美凪の母親にとっても、ずっと願いつづけて、ずっと憧れていながらも、決して手に入るはずのなかった風景でした。実現といっても、これは所詮夢に過ぎなかったのかもしれません。しかし例え夢であっても、目の前にあるみちるの笑顔を否定するいわれはないのです。美凪が自分を本当に許すことができるためには、どうしてもかつて憧れだったもの、憧れていながらも得られなかった世界を体験する必要があったのであり、美凪はおそらくそこからでなければ何も始められないのです。それが夢であるかどうかは、実のところほとんど問題にはならないでしょう。むしろ、美凪が夢(みちる)を受け入れ愛することによって初めて、このもうひとつの夢が顕現したということこそ重要であるように、私には思われます。

 繰り返しになってしまいますが、美凪シナリオは、すべてこの瞬間のためにあったのです。なぜなら、シナリオ全体がひとつの統一されたテーマで纏め上げられており、かつ一定の方向を指向しているのだと仮定するなら、そう考えるのが一番すっきりすると思うのです。美凪シナリオの美しさのひとつは、物語の流れがはっきりしているというか、構成が非常に安定しているというところにもあると言えます。この物語では、罪の意識に縛られたひとりの少女が、段階を追って少しずつ罪の意識から解放されていく様が非常に丁寧に描かれています。作中のどのエピソードも、それ自体として非常に美しいのですけれども、それは同時に、階段のいちステップでもある訳です。自分を喪失しそうになった美凪の前にみちるが現れ、次いで往人が現れ、母娘関係の回復が与えられ、最後に夢は消えて一層美しくなった現実が残る。単純化すれば、この物語の外枠はこれだけです。そして、シナリオ全体からみちるや往人がどういう役割を負っていたかを考えてみると、彼らは本当に、ほとんど奇蹟と呼んでも良いような完璧なタイミングで、その時々の美凪の前に現れ、その時々の美凪に一番必要なことをしているのです。この物語は、ある意味では奇蹟の物語です。奇蹟というのは Kanon におけるような偶然与えられた奇蹟ではなくて、それよりもっと高い奇蹟、人の想いが生み出す奇蹟です。私がこの物語について『奇蹟』という言葉を使う時、それは感嘆符に近いニュアンスを持ちます、と言ったら、あるいは何かを伝えられるでしょうか。

 遠野美凪は、夢の世界を生き、それを愛することによって、現実を歩くことができるようになります。これが、この物語を構成する、もっとも基本的な原理です。そして、この物語が美しいのは、美凪の、みちるの、往人の、好きな人に笑顔でいて欲しいという単純な願いのゆえです。これほど、私を幸せにする物語は他にありません。

終わり。


◆注意事項

 この解釈論もどきでは、一部『AIR』のテキストを引用しています。自分の文章と区別するため、引用個所はイタリック体で表記しています。ゲーム内のテキストに関する諸権利は key(Visualarts) の所有です。このwebページからの無断転載等はおやめください。

 当たり前ですが、この解釈はあくまでもしのぶ独自の解釈であり、key 様の公式見解とは一切関わりありません。

 また、この文章は、私は美凪シナリオをこう受け取った、ということを書いているのに過ぎません。私はもちろん自分の解釈を信じていますが、これが唯一の正解でないのは言うまでもありませんので、やたらに鵜呑みにしたりしないようにお願いします。解釈は美凪シナリオをやった各人が、それぞれ考えてそれぞれが答えを出すべきものと考えますし、作品の解釈や感想は、100通りの正しい意見が並列して存在しても一向差し支えないのですから。


文責 しのぶ

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