棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

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2003/8/31 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#31


 セゾンで大往生を一回。

 やる気が限りなくゼロに近づいているのだけど、2-5全繋ぎとかが成功してしまうとやっぱり心が揺れてしまう。
 複雑な心境。

 1周4.1億で置物到達時9.2億。
 2周目の点効率が思った以上に高い。もし1、2周共パターンが完璧に決まったとしたら11億前後までは出そうだ。今の時点では11億はさすがに夢物語だけど10億オーバーはもう十分狙えるレベルに来ているはず。モチベーションが下がりまくりだったのだけど、もうちょっと頑張ってみようか。


 恋愛の教訓 III [LOVELESS]に収録されている衛漫画(18禁)のらぶらぶいちゃいちゃ振りはLOVELESSのシスプリシリーズの中でも最強のものではないだろうか。殊に、衛のコンプレックスの描き方の上手さと、そこにちゃんと気を配って衛を女の子として扱う兄の一つひとつの台詞の優しさ。18禁漫画を愛読することとは別の問題として、私はシスプリの妹たちをあくまで妹として愛でる(彼女たちは恋人ではない)立場を取っているのだが、これほど思い遣りに満ちたえっちシーンを見せられるとそんな主義なんかもうどうでもよくなってしまう。

 特に指摘しておきたいのが、兄が衛を抱き締めて「どうしてそんなこと言うんだいっ」と叱る(?)場面。このシリーズをある程度読んでいる人は、あの咲耶と兄の恋愛を描いた長編、「嘘つきな恋人・前編」に似たような台詞があったことにきっと気づくと思うが、こういう風な、衛なり咲耶なりを妹として愛することと一人の女性として愛することとが完璧なバランスで同居しているような兄、言い換えれば包容力のある兄でありながら同時に恋人に甘える男性でもあるような兄、というものを描かせたら、もうシスプリ同人界では沢渡氏の右に出る者はいないのではあるまいか。兄が衛をきゅっと抱き締めるあのコマから溢れ出す愛しさのような何かは、一体兄のものだろうか? それとも作者の沢渡氏のものだろうか? 私にはもはや区別が付かない。私に間違いなく言えるのは、この短編で衛がどんなに愛されているかということ、そしてそれゆえに衛がどんなに魅力的に描かれているかということ、ただそれだけだ。

 余談ながら、衛の「ボクを女の子にしてくれる?」という台詞を読んだ時、なぜか私の頭に浮かんだのは「恋妹」の秋巳のことだった。あの作品はタイトルこそ恋愛風のものが付けられていたが実際にあの世界で展開されるのは大部分は肉欲にまみれたエロ描写だけだった。もし主人公が秋巳をこの同人誌のように優しく抱いていたら。秋巳を苛めるような感覚で自身の性欲を満たす鬼畜兄ではなく、秋巳を女の子として丁重に扱い優しく愛するような兄だったら。あの作品はどんなにか素晴らしいものになったろう。

 ***

 もう一冊。

 アキハマニア[残虐なねこバスのふるさと]の中程に収録されている、なさけむよう氏の手になるちび秋葉漫画の秋葉はとっても可愛らしいのでその筋の方にはお薦めです。涙目になるちび秋葉の表情とか悶え死ねるヤバさです。


 ドライブ用に作った萌えテープもだいぶ古くなったので新しく編集し直し。今まで一度も使ったことのなかった音楽CD作成ツールを使ってオリジナル萌えソングCDを作ってみることに。なんやかんやで色々と手間が掛かって3時間ほど要したがそれなりに納得行くものができたと思う。今後しばらくはこのCDが車内で大活躍することだろう。あと、今回はCDなのでテープと違って頭出しが容易なのが美味しい。

 曲目は以下のような感じで。

  1. その奇跡は永久に
  2. Shinning Star
  3. 瞳の中に (台詞付きVer.)
  4. 笑顔にはかなわない
  5. Reminiscience
  6. Be happy, please!
  7. Everlasting Flower
  8. 同じ空の下で
  9. Philosophy
  10. 風が吹く街へ
  11. おわらないきみのうた
  12. いつか見せた笑顔で
  13. 恋が教えてくれた
  14. 巫女みこナースOP
  15. ちいさなぼくのうた
  16. See You -小さな永遠-
  17. 銀恋歌
  18. Farewell Song

2003/8/30 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#30


 一日一回は「巫女ミコマジカルて」を観てます。
 例え色物素材であろうと、技術とセンスのある人間が編集すれば素晴らしい映像作品になり得る、という好例。

 ***

 ルパン122で大往生。

 ここ二週間で白黒合わせて3プレイしかしていなかったので腕が落ちていないかどうか心配でもありまたそれがある意味では楽しみでもあったのだが、黒版は普通に2周ALL(残-2)、白版は普通に緋蜂まで。特に悲惨なパターン狂いなども起こらなかった。ブランクを空けるとパターン化の甘い場所から真っ先に安定度が下がるのでその辺りのデータを取りたかったのだが、この程度のブランクではそれほど深刻な影響は起こらないものらしい。

 ***

 久しぶりに画像整理など。
 「なこりむ」フォルダのダブリ画像の削除など。やり方は、Vix_21でサムネイル表示をサイズ順に並び替えて逐一チェック。発見されたダブリ画像は実に100枚以上。枚数が一気に100枚強も減って微妙にしょんぼり。


2003/8/29 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#29


 弾避けのプロセスというのは普通は、1)目が弾幕を認識、2)避けるルートを脳が見出し手に指令を送る、3)手が動いて弾を避ける、という感じになるのだけど、大往生の2周目をやっていると、たまにプロセスの(2)を飛ばして目で弾幕を認識した瞬間に頭を介さずにダイレクトに手が動いて弾を避けてしまう、という時がある。もうちょっと分かりやすく言えば、目が危険を感じた瞬間に手が勝手に動いて気がついたら弾を避けていた、ということだ。一応念のため言っておけば、これは嘘避けとは違う。嘘避けというのは弾道も避けるべき道も見えていないのになぜか死ななかった、というものを言うのだが、この場合は避けた状況はちゃんと映像として頭に残っている。

 長くひとつのゲームをやっていると、たまにこういう超覚醒とでもいうべき状態が起こる。

 似たようなものとしては他に、いわゆる「魂のハイパー」と呼ばれるものがあるが、これは集中力が極限まで高められて弾速がスローに見えたりする現象のことなので厳密にはまた別のものだろう。

 以前、友人にこんな話をしたら「それは無想転生ってやつだな」なんて返されて、なるほど(笑)と思ったのだが、しかし私自身は実はこういう状況が発生するたびに、ジョジョ第二部の終盤、究極カーズに追い詰められたジョジョが土壇場で赤石をかざす場面のあのト書き?(生命の大車輪がジョジョの肉体をプッシュして云々)が頭の中で鳴り響く。いや、だからなんだと言われると困ってしまうのだけど。


2003/8/28 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#28


 ガンバード2(アイン)2周ALL映像を観たが、狂気としか言いようがない。世の中やっぱ努力だけじゃどうにもならないことというのはあると思う。おそらくクリアするというだけなら大抵のゲームは一般人でも努力すればクリアできるようにできているだろうけど、そこから更にスコアを詰めていくとなると世界はがらっと変わってしまう。このプレイ映像なんかはもう、才能のある人が努力を重ねてようやく到達できるような領域だろう。

 ***

 ところで世の中には「スカート被せ」という萌え技があるのだそうで。
 これを考えた人を心の底から尊敬しますよ私は。

 詳細は内緒です。
 てか、流れるのが異常に速い掲示板にリンクを貼ってもたいして意味ないので。


2003/8/27 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#27


 レビューインデックスを更新。

 ***

 実は、私は苺ましまろは2巻だけを最初に買いました。てか2巻しか売ってなかったんですけれども。元々はトリコロと放蕩息子を買いに本屋に行ったらなぜか苺ましまろが(この時点では存在すら知らなかった)お薦め本コーナーに1冊だけ置いてあって、試しに買ってみたら大ヒットだったという次第。読み方のお薦めというものを仮にやるとしたら、私だったら2巻から読むことを推奨するかな。1巻の中盤ぐらいまではまだ作者の中でキャラクターが固まりきっていない感じがして、手放しで絶賛できるほどは面白くないとかあるので。かなり大雑把に言えば、苺ましまろの世界が出来上がるのは1巻中盤のスポーツのエピソード辺りからではないかと思います。というのは、このエピソードから、美羽が暴走→伸恵お姉ちゃんがそれを粉砕、という黄金パターン(笑)が始まるからです。

 あと、漫画表現としての苺ましまろについては、ここ[7/27]の意見がなかなか的を射ているかな、と思う。

 自分で買ってください是非。
 いや私は別にMWの回し者ではありませんが、それだけの価値のある作品なので。

 ***

 SNOWをやらねばならないので以上。
 大往生? そんなものは知らん。今の私に必要なのは萌え分だ。


2003/8/26 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#26


 靖臣サンの王子様ぴったりです/王子様になるために生まれてきたような人ですから/それ以外の靖臣サンなんてもう死んだも同然風味です
 (新緑の若菜より、小鹿の台詞)

 この台詞って一見褒められているようでいて実は全否定されてるんじゃなかろうか?

 それはともかく、このドラマCDで個人的に唯一残念なのは、靖臣とカナ坊の逃避行の時に手助けをするのが鞠音ではなくてカナ坊おかんになっていることだ。もちろん原作通りでないことへの違和感というものもあるだろうが、それにしてもあの場面でカナ坊おかんが手助けをするというのはなんか聴いていて微妙に気恥ずかしいものがある。それは例えば、運動会の時に大声で家族に応援されてしまう気恥ずかしさと同じものかもしれない。ドラマCDを聴いてみて初めて気づいたことなので後から理由など述べたところで説得力皆無だが、あの場面は、本当は靖臣やカナ坊の事情を知らない鞠音が手助けするからこそ面白いのである。原作のあの場面を改めて思い出してみる時、私が気づくことのひとつは、鞠音という子の機転の良さである。あの作品に登場するキャラの中で、他の誰でもない、ただ鞠音だけが靖臣の暴走に瞬時に対応し得る、というのはなかなか興味深い事実ではあるまいか。カナ坊の事情も靖臣の想いも、靖臣の暴走の意図も、鞠音は少しも知らなかった。しかし、それでも彼女は、靖臣があの瞬間に何を望んでいたのかだけは正確に知っていた。ここでの鞠音ほど、名脇役、という言葉が相応しいキャラは他にいない。あの瞬間の鞠音は、健気に靖臣を想うだけの後輩であるに留まらず、靖臣の最高の理解者になれていたのだ。靖臣はおろか、おそらくは鞠音自身すらも気づいてはいないだろうが。

 尤もこのドラマCDの脚本を書いたのは他ならぬ竹井10日氏なのであり、原作者本人がああいう改変を行っている以上、上に書いたようなことは所詮私の「考えすぎ」でしかない。でも竹井氏にどんな意図があったにせよ、私はやはり、あの場面で靖臣を導く役割は鞠音にやらせて欲しかったと思わずにはいられない。もっと言えば、結局のところ原作のあの名場面を書くにあたって竹井氏は実はそれほど緻密に構成を練っていた訳ではなかったのではないか、と思うと私は残念でならない。原作ではあの逃避行の切っ掛けになる劇中劇の台詞「わたしを連れてどこか遠くへ〜」は練習の段階で繰り返し使われており、それだからこそ劇本番でのあの逃避行の場面がいよいよ生彩を帯びることになるのだが、しかしこの点についてもドラマCDでは竹井氏は見事にスルーしてしまっていた。

 いや、誤解して欲しくないが、このドラマCDは私が今まで聴いてきたものの中でもまず間違いなく最高に美しいものの中にしか数えようがない。しかし本音を言えば、私のように、この作品はどうして美しいのか?という風な語り口で文章を書く者としては、読者が想像するほど作者は緻密に考えている訳ではない、という実例を見せられるとあまり良い気分はしないのだ。作り手に「そこまで考えてません」ともし言われてしまったら、私の書くものなど一瞬で灰燼と化してしまう。考察や解釈というものは実のところ妄想と紙一重なのだ、ということは理解しているつもりだったが、ここまで食い違ってしまうともはや笑い話では済まなくなってしまう。身勝手な話かもしれないが、作り手はここまでは考えていたはずだ、という態度の根底にあるものは作り手への信頼なのだ。ある作品に触れる。そうして、美しさに心を奪われ、この作り手は信用できる、と半ば無意識に思う。それが、考察や解釈を行う最初の動機になる。しかしこうなってしまうと、もう私はきっと以前のように、秋桜の空にという作品を手放しで褒める勇気は持てなくなってしまう気がする。


2003/8/25 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#25


 恒例の同人誌ぷちレビュー。



 ・Small Potetoes -ちっちゃいポテチ- [とろり/とろりんこ/シスプリ可憐咲耶/18禁]

 エロ過ぎます。
 ていうか不特定多数の人が読むであろう同人誌でここまで言えてしまうこの作者の方を、私はただもう尊敬するしかありません。



 ・恋愛の教訓 III [LOVELESS/沢渡悠花/シスプリ花穂衛咲耶/18禁]

 このサークルのシスプリシリーズではそれぞれの妹毎に別々の兄が用意されている、ということは以前にも指摘したが、この本の前書きによれば、この本を出版した時点で沢渡氏と相模氏は既に十二通りの兄の設定を用意していたのだそうで。期せずして裏が取れてちょっと嬉しい。

 このサークルの花穂のシリアス話を読むのは今回が初めてなのだが、なんか微妙に物足りない。妹に応援されると周囲の目が気になって恥ずかしい、とか、自分の妹(花穂)が同級生の好奇の視線に晒されるのが嫌だ、という感覚はすごく分かるのだが、花穂を説得する手法が強引に過ぎるのではないかな。もちろん、この短編を読むだけでも花穂が愛されていることは十二分に伝わってくるのだが、ただ、お兄ちゃまの一人としては、「お兄ちゃまの応援をする妹」という花穂の個性が結果的にとはいえ否定されてしまっているのが気に掛かる。いや、もっとも最初の2ページの花穂の描かれ方だけ取ってみても、沢渡氏が花穂というキャラをどんなに正しく把握しているかは明白で、それの前では以上のような批判などたいした意味は持たないのかもしれない。サッカーの練習試合があったことを花穂に内緒にする兄、そしてそれを後で知って兄に抗議する花穂、抗議する合間に転んでしまい「お兄ちゃまのばか〜」と言って泣く花穂。LOVELESS世界での花穂という子は「見捨てないでね?」なんて卑屈な台詞を吐くような子にはおよそ見えないのだが、こういう描かれ方は実は私が密かにずっと待ち望んでいたものだった。殊に2ページ目の最後のコマの素晴らしいこと。「どうしてっ? お兄ちゃまは花穂が応援に行こうとすると嫌がるの!」と花穂は涙目で抗議する。この花穂の必死な表情は何と多くを語っていることだろう。ドジで不器用で泣き虫で、しかしそんなことはもちろん自覚していて、その上で自分にできることを頑張ってお兄ちゃまを応援する花穂、というのはオフィシャルでも語られている花穂像の基本だが、ここではそれに加えて、小さい頃からいつもお兄ちゃまにべったりでいつもお兄ちゃまの後ろを一生懸命に健気にくっついて回っていたのであろう甘えっ子としての花穂像が強調されてもいる。もちろん厳密には以上のようなことが具体的に語られている訳ではない。しかしお兄ちゃまに抗議する花穂の必死な表情は、花穂と兄とのこれまでの関係を無言の内に語っているように私には思えるのだ。花穂が兄にべったりと依存しているような女の子であることはもちろんオフィシャルでも描かれているところではあるが、この短編の花穂を見ていると、実は兄はいついかなる時でも花穂に優しかった訳ではなくて時には自分にべったりくっついて回る妹を子供特有の残酷さで鬱陶しがったこともあったのではないか、そしてそれでもやっぱり花穂は一生懸命に兄に付いていこうとしていたのではないか、というような想像をせずにはいられなくなるのである。なぜ花穂の表情はあれほど必死なのであるか? それは、花穂は自分が弱いことを自覚していて、その上でお兄ちゃまにちゃんと自分の存在を認めてもらうために応援を始めたのに違いないのに、それを兄に拒絶されてしまっているからだ。言ってみれば、あのコマでの花穂の表情には二重の意味がある。ひとつは、兄に依存したがっている弱い花穂であり、もうひとつは自分の足で歩くことを決意した強い花穂である。もし花穂が未だ弱いだけの女の子であるとすれば、あの場では「見捨てないでね」と言って泣きつくところだろう。しかしそうせずに全力でお兄ちゃまに抗議したということ。それは花穂が――未だ十分ではないにせよ――自分自身の意思で兄に追いつこうとする姿勢を示していることの証明ではないだろうか。花穂をただ可愛いだけのお人形さんとして描かなかったということ。この一点だけ取ってみても沢渡氏のこの仕事を私は讃えずにはいられない。………いや、でもそれだからこそ、この短編をあのようにまとめてしまったことに私はきっと釈然としないものを感じているのだろう。今にして思えば。


2003/8/23〜24 (土〜日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#23-24


 土方さんとデートの土曜日。

 朝8時に西東京某所で待ち合わせ。私の車は土方さん宅に置いて、土方さんの BEAT で一路富士宮市へ。例によってまったりと莫迦話なんぞしつつお昼前ぐらいに浅間大社到着。大宮の氷川神社もそうだったのだけど、さすがに神様を祭っている場所だからか街の真ん中にあっても神社の境内というのは静かで、毎度のことながらこの雰囲気を前にすると、私などは門をくぐり境内に足を踏み入れることを一瞬躊躇ってしまう。ともあれ、普通に参拝した後は鴨が泳いでいる池をのんびりと眺めたり奉納された絵馬を眺めてツッコミを入れたり御守りを買ったり千早を纏った巫女さんを見たりしつつ小一時間ほどのんびりと過ごす。絵馬をあれこれ眺めていると、それを書いた人がどの程度切実なのかがなんとなく想像できて面白かったり。「咲耶(※)が幸せでありますように」みたいなどう考えてもネタだろうお前バチが当たるぞというようなものもあれば、「○○の体が良くなりますように」などの切実なものもあるし、「恋人ができますように」系のものでも、ごく普通に縁を願うものがあるかと思えば、理想の恋人の条件を恐ろしく細かく設定していてお前いくら何でもそれは厚かましいだろうとツッコミたくなるようなものもあって、見ていて飽きることがない。

 おまけネタ。奉納所の柱の落書き。
 もうちょっと低い場所に書いてあればよりリアルさが増したのにと、それが残念でならない。

 (※)
 浅間神社の主祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)。
 ちなみになぜか静岡浅間神社の紹介webページでは「此花咲耶姫命」となっている。

 午後1時頃、浅間大社を離れて、今度は別の浅間神社へ。こちらは地図にも載っていない小さい神社で、社殿というものがなく、霊峰富士を直接ご神体として崇めるための場所(これが神社というものの最も古い形式であるのだそうだ)であるらしい。参考写真。こちらは山の中にあることもあって、外界から完全に切り離された雰囲気がいかにも神域を感じさせ、正直に言えばちょっとだけ怖かった。しかし考えてみると、神様というものが今よりもずっとリアルな存在として生きていた時代の人々が感じていたであろう怖れはおそらく私の比ではあるまい。

 午後2時過ぎ、浅間神社を離れて帰路へ。途中でファミレスに寄って遅めの昼食を取って、あとはひたすら東京方面へ。午後5時すぎに土方さん宅へ到着。それから更に2時間ほど土方さんの部屋でダベり、午後7時半過ぎに解散。土方さんの部屋は相変わらずツッコミを入れたくなるようなもの(これは趣味なのか資料なのかと問いつめたくなるようなもの)が普通に転がってて面白かったり。

 帰り際に土方さんにおみやげをもらったのだけど、私も色々と失いたくないものがあるので公表はできません。とりあえず、これを残して死ぬ訳にはいかない、というようなもの、とだけ(笑)。

 私はその後、一人で都心に向かい秋葉原で車中泊。


 夏コミ新刊漁りまくりの日曜日。

 さすがに車の中だと熟睡という訳にはいかず、朝5時すぎに目が醒める。既に明るくなっていて寝直す気にもなれなかったので、同人ショップ開店までの時間潰しにということで昭和通りにある漫画喫茶へ。ドラゴンクエスト-ダイの大冒険-の後半をまとめて読んでだいたい2時間半ぐらい。その後9時すぎからドトールに移って10時までダラダラと時間潰しをした後、同人誌漁り開始。とらのあな、メッセサンオー、K-BOOKSとおきまりコースで18冊ほど調達。今回はシスプリ系は7冊確保。それと密かに期待していた双恋本は一冊も見つからなかった。双恋はその設定上18禁同人誌は必ず姉妹丼になるというのが美味しいと思うのだが。

 今回の成果の一部。

 左はばらスィー氏の個人誌、右はLOVELESSの未所持本。

 お昼前に秋葉原を離れて帰路へ。
 途中、ルパン122にちょっとだけ寄り道したらちょうどRYU氏が STRIKERS_1999 をやっていて、私の目の前でノーミスノーボム2周ALLを決めていた。私自身は大往生黒版で遊んでみるも2-5道中でパカパカ死んでむかついて捨てて終了。

 午後3時すぎに帰宅。
 疲労のためメールも日記ももはや書けず。午後6時すぎに就寝。 


2003/8/22 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#22


 茉莉はドジで泣き虫な眼鏡ッ子という設定ではあるが、いわゆる引っ込み思案とは違う。美羽を前にしても言いたいことは容赦なく言うし、気に入らない時には叩き返すことすらもある。茉莉は美羽が苦手ではあるらしいのだが、別に美羽を怖がっている訳ではない、というのはなかなか面白いところだ。苺ましまろというお話の、あの四人を取り巻く空気がある和やかさをいつも保っているのは、特に作中では書かれていないけれども、あの四人が小さい頃から時間を共有してきてほとんど自他の区別も(良い意味で)曖昧になっているような幼馴染み関係だからではないだろうか。あの四人は他のメンバーを尊重するなんてことは決してしない。ただ一緒にいるのが当たり前であるような関係だけがある。友達は大切だ、なんて殊更に語らないような健康さにこそ、私はきっと惹かれているのだと思う。

 ***

 読めば読むほど、美羽というキャラは面白い。最近になって気づいたのだが、美羽という子はずいぶんと破天荒な性格をしておりその言動から例えば優しさのようなものが感じ取れることは少ないのだが、さりとて彼女には悪意や損得計算から来る打算などは微塵もない。美羽という子の言動は冷静に考えてみるとずいぶんと意地悪なようにも思えるのだが、それでも不思議なことに作中での彼女は少しも“意地悪な子”に見えない。美羽という子は意地悪をしようなどとはまったく考えてはいない。ただ、彼女は刺激(面白いこと)をいつも全身で求めてしまうようなアグレッシブな女の子で、その結果、彼女の言動はいつも「手段のためには結果を選ばない」というような、周囲から見れば横暴極まりないものになる。その典型とも言えるのが、美羽とアナちゃんが喧嘩するあのエピソードで、回想パートを普通に読めば美羽がアナちゃんの苗字をバラしたのはどう見ても事故であるのに、最後に伸恵お姉ちゃんに問われた美羽は「わざと」やったと答えてしまう。このエピソードでは美羽の言動はものの見事に矛盾している訳だが、でもよく読めば、あの「わざと」という一言は嘘なのであって、はた迷惑極まりないとはいえこれはおそらく美羽なりの悪戯心の発露なのだ。いくら美羽だって、あそこで故意だと答えればどうなるかぐらいは分かるはずだ。でも理不尽な性格の持ち主である彼女は場が普通に収斂するのをツマンナイとし、そこでああいう風にして火種を撒く。美羽という子は、およそ後先というものをまるで考慮しない。しかしそれゆえに彼女はなんと魅力的であることだろう。彼女は場を面白くするためなら嘘だって平気で付くし、面白いと思えば嫌がらせまがいの言動をも辞さないのだが、でも打算に基づいてあるいは保身のために他人を騙すことは決してしない。美羽は周囲を引っかき回す台風のような子だが、それにも関わらずこの子は信用できるタイプの子だ。

 ***

 とにかく理屈はどうあれ「苺ましまろ」は最高にお薦めなのですよ皆様。


2003/8/21 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#21


 こちらに反応して、初心者向けピアノ曲について。

 お手軽にショパンの雰囲気を味わいたいという人向けの曲ということでは、ショパンが7歳の時に作曲したと言われているト短調のポロネーズがお薦めです。最初はト短調の重々しいポロネーズから始まり、それから変ロ長調への鮮やかな転調。そして可愛らしいトリオを経て、最後にまた主題が復帰して幕を閉じる。わずか38小節の短い音楽ですが、ショパン音楽特有の憂愁や可憐さはきっと感じ取れることでしょう。それから何よりも、自分の楽しみのために弾くというだけなら誰でもお手軽に弾ける程度に簡単であるというのが素敵です。バッハの二声インベンションを数曲弾ける程度の経験があれば特に躓くことはないはずです。私も昔弾きましたが、この曲では特に苦労した記憶はないです。表現の問題を考えると際限がない(上手く弾く、ということを追求するなら簡単な曲などというものは存在しない訳です)のでここではそれは問わないこととして、あくまでも自己満足という尺度での難易度ですが。この曲はショパンの中でもかなりマイナーな部類に属するのでもしかしたら楽譜を探すのは多少苦労するかもしれませんけれども。

 他にも比較的易しい曲ということでは例えばイ長調の前奏曲(op28-7)や二十世紀に入ってから発見された遺作のイ短調ワルツなんかもありますし、人並み外れた根気があれば、たぶん練習曲op10-3(いわゆる“別れの曲”)のテーマ部分なんかは弾くことも可能ではないかと思いますが、これらの曲は私は弾いたことがないので何とも言えません。

 ショパン以外でピアノの華麗さをお手軽に体験したい向きには、モーツァルトのきらきら星変奏曲もお薦めです。これは有名なきらきら星の旋律(ただしこれは当時のフランスの流行歌で、日本でよく知られているものとは歌詞はまったく違うのですが、これはまあ余談)を変奏曲に仕立てたもので、モーツァルトのメロディラインの華麗さ、和声の美しさ、それから音楽全体の構成感の素晴らしさを存分に堪能できる名曲です。これも、第二変奏と第十二変奏を除けば、譜読みも演奏もかなり楽な部類に入りますので、挑戦してみることをぜひお薦めしたいです。弾いていて楽しい、という意味に限定すれば、初心者向け音楽としては最強かもしれません。こちらも、二声インベンションを何曲か弾ける程度の経験があれば何とかなるはずです。更に言えば、コツは「無理せず弾ける変奏だけ選んで弾く」ことです。

 というか本音を言えば、二声インベンションは結構難しいと思うので、ピアノの入門にいきなりこれから入るというのは辛んどいのではないかしらとかお節介な心配をしてしまうのですけれども。あと、個人的な経験からのことなので正しいかどうかは分かりませんが、バッハの二声インベンションをみっちり弾き込めば、正直ハノンは要らないような気もします。二声インベンションは仮に何も考えずにただ機械的に弾いたとしても、各指の独立及び平均化に絶大な効果が期待できますので。ピアノの練習をやっていた当時にしばしば経験したことなのですが、インベンションを何時間も練習した後でチェルニー練習曲に戻ってみると、もうはっきりと体感できるぐらいに指が軽くなるのです。その効果たるや、嬉しくて頬が緩んでしまうほどのものです。


2003/8/20 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#20


 誰に宛てたものか分からないけれども、曽我さんのこの文章を読んでなんかちょっとだけ勇気付けられた。
 感謝。

 ***

 ちょっと前に、私の好きなとあるなりきり職人さんが「私もすっかり旬過ぎちゃった」なんて呟いていて、それを目にしてからずっと、その方に掛ける言葉を探していた。おそらくドットで何かを語ろうとする人たちはみんな、マンネリに陥る不安を抱えているのではないかと最近は思う。先にもちょっと書いた通り、私は自分が同じようなことを繰り返し語っているだけではないかという不安を感じている。なぜ同じことの繰り返しが私を不安にするのかと言えば、それではいつか飽きられてしまうのではないかと、それを恐れるからだ。

 でも、もし自分以外の誰かが、同じ場所をぐるぐる回っていることに不安を抱いていたとしたら、私はきっと、「貴方が貴方のままでいることがどんなに私を安心させるか、今日も私の知っている貴方を見出すことができるということがどんなに幸せなことであるか、貴方はきっとご存じないでしょう?」とか返事するだろうな、なんて思う。

 端からどう見えるか知らないが、ありがたいことに、私の内部では、「書きたいもの」と「書けるもの」と「書く価値があると信じるもの」との間にほとんど食い違いがない。もちろんいつも上手く行くというものでもないけれども、上手く行くかどうか分からないというのもそれはそれでゲーム的な面白さがあって、やっぱり書くことに対する私の興味は尽きることがない。

 特定キャラのなりきりというのは普通は遊びとして捉えられているような気がするのだけれども、でもなりきりだって本当はひとつの表現なのだ。なりきりの難しさはキャラを演じることにあるのではない。そうではなくて、本当に難しいのはキャラを演じ“続ける”ことなのだ。特定キャラを長く演じれば演じるほどキャラの個性が縛りになる(本人の意識において)という問題はどうしても生じるし、私が書く日記と違って、キャラなりきりという表現形式では一般参加者(?)とのコミュニケーションが前提になっているので、自分の表現に対するリアクションにはどうしたって敏感にならざるを得ない。

 職人さんっていうのは本当に凄いなーと思うし、それだからいっそう、気になる職人さんは応援したいな、と思う。でも私は安易に励ましたり褒めたりはできればあまりしたくない。自分でホームページ運営を四年以上やってきて、その経験から、一年に数回だけシリアスな言葉をくれる人よりも一ヶ月に十回の莫迦話をする人の言葉の方が信用できる、ということを知っているので。

 これもまあケースバイケースで、すべての関係をそんな風に一括りにできるというものでももちろんないのだけど。お互いにたまーに一方的にリンク&言及するだけの関係が心地よい、というようなケースだってあるのだから。

 私は、それ自体取るに足らないような言葉の積み重ねこそが本当に重要なのだ、と信じております。だから、時々2ちゃんねるブラウザを開いては、毒にも薬にもならないような言葉を、そっと投げかけます。そしてそれを続けます。それが私なりの応援表現。


2003/8/19 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#19


 大往生なんか止めた方がストレスを感じる時間が減る分だけ幸せなのではないかな、とか考えることがある。でもやっぱり、2周目4面以降の弾避けの面白さが忘れられないうちは離れることなどできそうにない。集中できている時に2周目の難所をきちっきちっとパターン通りに抜けていくあの快感は他のゲームではもう絶対に味わえないものだ。一年以上も掛けて、やっと2周目の弾避けを楽しいと思えるレベルにまで達したのだ。今更止められる訳がない。

 ただし今週は冷却期間ということで週末までゲーセンには行かない。
 土曜日は用事があるので次にゲーセンで大往生をやるのはおそらく日曜日ということになるだろう。

 ***

 積みっぱなしだった SNOW [Studio Mebius]をインストール。

 つぐみさんは秋子さんの 2Pカラーですか?

 オープニング過ぎぐらいまで流してみたが、わざとやってるのではないかと疑いたくなるぐらい Kanon に似ている。ただ、雰囲気は悪くない。最近プレイしたゲームの中では、朱-aka-は別格として、おねきゅーと恋妹はプロの仕事と呼ぶには少々野暮ったい感じがあった。SNOW は今のところ、プロの仕事らしい良い意味での隙の無さを感じる。期待しても良さそうだ。

 ***

 ブラームスのワルツ集を流しっぱなしにしていたら、何番だったか、スカルラッティのソナタとそっくりなフレーズが出てきてちょっと驚いた。

 「諦め」を基調とする――と言い切るのはもちろん一面的にすぎるだろうが――ブラームス音楽に慰めを見出すようになったら人生終わりだよなと思いつつ、でもやっぱりブラームス音楽は今の私にはなんとも言えず優しく響く。


2003/8/18 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#18


 CDを買わなくてもチェルニー練習曲が普通に聴けるとは良い時代になったものです。

 聴いていると、あの曲はあの音型で苦労したなあとかあの部分は弾いてて楽しかったなあとかあのフレーズを弾きながらそういえば将来のことを考えて鬱になったりしてたっけなあとか、当時の思い出が色々と蘇って懐かしいやら切ないやら。

 現役時代はチェルニー40番の31曲目の半音階の練習曲辺りまでは指定速度までは達しないもののなんとか弾けてたのだけど、今改めて聴いてみるとホントに俺こんなの弾いてたのかなと自分の記憶を疑いたくなったり。

 個人的にチェルニー40番で特に懐かしいのは5番6番7番辺りかな。殊に6番の終わり際はチェルニー練習曲全体の中でもたぶん一番思い出深い箇所だ。ここは速く弾くとメロディラインが浮かび上がってくるような手法(※)を使って書かれているのだけど、楽譜をただ眺めているだけではもちろんそんなことは分からなくて、自分で何度も何度も繰り返し弾いて音型が手に馴染んでくると、ようやく少しずつメロディラインが聞こえてくるようになる。そうして、はね回るような右手の音型の内のどの音符が旋律を形作っているのかが分かるようになってくるともうヤミツキで、こうなるともうピアノを弾くのが楽しくて仕方がなくなって、このわずか数小節だけを1〜2時間とか繰り返し練習していても退屈も疲れもしない。どうしたら旋律をより綺麗に浮かび上がらせることができるかを一生懸命考えながらひたすら弾き込んだあの時間はきっと私の人生の中でも最高に幸福な瞬間だったと思う。

 (※)ちょっと違うけど速く弾かないと音楽にならないという意味では例えばショパンの幻想即興曲もそういうタイプ


2003/8/17 (日)
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 ふと思い出して、猫たちの午後[らぶちゃ箱]をプレイ。
 (実は初めて)

 もう何回となく繰り返してることだけど、やはり、都築キャラの優しさは「大切な人が傷つくことを極度に恐れる繊細さ」を基本にしているのだなということを再確認。高校の時の先生が、なんだったか切っ掛けは忘れたが、好きな人に優しいのは当たり前だ(=好きな人の前では誰だって優しい)、なんてことを言っていたが、都築キャラの優しさはそういうのとはもう全然別のものだ。都築キャラの優しさということで特に印象深いものとして記憶されているのは、例えばとらハ3の割と最初の方で転びそうになる那美さんを恭也が抱きとめるエピソードで、周知の通りあの時恭也は間違って那美さんの胸を掴んでしまうのだが、そんな恭也に対して那美さんが見せる気遣いはもう都築氏以外の誰がこんな書き方をするだろうというぐらいに、優しい。このエピソードで着目すべきなのは、神咲那美という少女が「加害者の気持ち」を察することのできる想像力を持っている数少ない人だということだ。この辺りについてはかつて似たような問題を土方さんが駄文放送局の中で提起していらしたのだが、要するに――世間の人は普通はそういう風に見ないけれども――加害者を前にした被害者は、自らを無謬であるとほとんど無意識のレベルで認識しているがゆえに、加害者に対して恐ろしく残酷であり得るのである。極端な例ではあるが、例えばTVドラマの一幕で、夫を交通事故で失った妻が加害者を責めるというような場面を思い出してみて頂きたい。妻は加害者を詰る。泣きながらに訴える。「夫を返してください!!」と。もちろん、夫を失った女性の嘆きというのは想像を絶するものであることは分かる。しかしだからといって彼女は何を言っても許されるというものなのかどうか。一つの交通事故は単に被害者とその家族の人生を狂わせるというだけではなく、実際には加害者側の人生をも大きく狂わせているのである。夫を失った妻がどんな暴言を吐いたとしても、私は彼女を責めることは感情の問題としてできないとは思う。そうせずにいられない気持ちは、私にだって分かるつもりだ。しかし敢えて言えば、被害者であるという事情は彼女に対するあらゆる意見を封殺できる防護壁として作用しているということも、私は指摘せずにはいられない。繰り返すが、私は被害者の女性を非難するような言葉は一言だって言うつもりはない。彼女に加害者を責める権利があるかどうかは置くとして、心情的に彼女がそうせずにいられなかったとしても、それは仕方のないことだと思うからだ。しかし、もしまったく別のケースで加害者の気持ちをほんのちょっとでも想像できるような被害者の人がいたとしたら、私はそういう人を心の底から尊敬するだろう。話を元に戻せば、都築キャラの優しさというのはつまりそういう性質のものなのだ。普通に考えれば、例え転びそうになったところを助けてもらったとはいえ、胸を思いっきり掴まれて那美さんのような反応をする人はあまりいまい。人によったらひっぱたかれるぐらいはあるかもしれないし、そうでなくても場が気まずくなることは必至だろう。しかし那美さんはそうはしない。彼女はもちろんショックを受けているのには違いないのだが、しかしそれでも恭也の気まずさを想像できる思い遣りを持っている。あの時点では、那美さんと恭也は単なる顔見知りの先輩後輩程度の間柄でしかないのにも関わらず、那美さんは恭也に対してほんの微かな邪推すらもしない。被害者特権(皮肉)を振りかざして恭也を責めることもできただろうし、また彼女自身も少なからずパニック状態だったのにも関わらず、それでも那美さんは自己主張することよりも先に恭也の気持ちを慮る。こういう考え方は男性本位なのだろうか? しかし私だったら、転びそうになった女の子を助けようとして間違って胸を掴んでしまったとして、そうして後で謝ったにも関わらず、騒がれて助平呼ばわりされたり気まずい沈黙が訪れたりしたら、いっそのこと助けなければよかったときっと思うだろう。好意の曲解などというものは人生において別に珍しいことでもないが、しかしできれば避けたいものであることに変わりはないのである。ところでかの文豪トルストイは、女性について語るのは棺桶に片足を突っ込んでからでなければできない、と言ったそうですが…まあいいや。

 最後に、都築氏の表現の上手さとして特に印象に残った文章を抜き出してみたい。

 声を上げて鳴くことしかできず、だけどその叫びをひと声あげるたび、自分の命がゆっくりと消えていくことが、はっきりとわかって。

 プレイした人にとっては今更言うまでもあるまい。次郎が、自分が捨て猫だった頃を回想しているくだりだが、ただ孤独に力なく鳴くことしかできない捨て猫の姿が目の前に浮かんでくるような見事な筆致だと思う。

 それからもうひとつ。

 ……あの子は
 あの子がいないと生きていけないような…
 そんで、あの子のために、すべてを捨てられるような
 そんなひとと、きっと合うと思うんですよ


 こちらも既にプレイした人には説明の必要はあるまい。真一郎との関係についてからかわれたみなみは、ゆうひにこんな風に言葉を返す。この後の二人のやり取りもそれはもう素敵なのだが、差し当たりそれは置くとして、私としては気になるのはやはり真一郎のことである。初代とらハは今更言うまでもなく相川真一郎を主役としたマルチシナリオのゲームで、単純に言えばあのゲーム内ではプレイヤーの選択次第で7人のヒロイン達との7通りの恋物語が展開される訳だが、それにも関わらず、都築氏の頭の中では、やはり小鳥と唯子の二人だけは特別な存在として生きているのだということが分かる。

 以下、突発的に思いついたこと。
 真一郎以外の男性と一緒にいる小鳥(もしくは唯子)というものは私にはまったく想像できない(それはもう、シスプリの12人の妹たちが兄以外の男性と一緒にいるところが想像できないのと同じくらい)。だとすれば、ひとまず結婚とかは関係なく、真一郎と小鳥と唯子が三人でずっと一緒に暮らす可能性というものだってあったっていいんじゃないだろうか。もしそういう想いがあって、都築氏があの「マナツノユメ」を書いたのだとしたら………。あれは都築氏なりの優しさだったのではないだろうか………。

 …ということはもちろん既にこの辺りで語られておるワケですが。
 なんとなく、今なら封印していたあのお話を普通に受け容れられそうな気がします。


2003/8/16 (土)
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 午前中の予定がなかったので、明大前ナミキで開催されるらしいシューティング祭りを覗きに行ってみたり。私は大往生(白)を4回ほどプレイ。2-1終了という悲惨プレイを3回連続で決めた後、4回目で緋蜂まで辛うじて到達。その後は電車で来ていたIND君と喋ったりしつつギャラリーに徹していたのだが、STRIKERS 1945 II のライトニングで2-7中ボスまで行っている神とか大往生(白)A-EXで置物まで残5残しの神とかがいたりして、なんというか…非常に眼福だった。

 ただ、一言言いたいのだが、ナミキの大往生レバーは癖がありすぎ。左側の筐体はレバーが重すぎて、右側の筐体は逆にレバーが軽すぎる。レバーが重いということはつまりそれだけ微調整がしやすいということでもあるのだが、普段使い慣れているレバーとあまりに違うのでいつもの感覚で操作していると自機が思うように動いてくれない。具体的には例えば1キャラ分だけ右に動かそうとしたつもりが半キャラしか動いてなかったりとか。正直この店ではもうやりたくない。

 午後すぐにIND君が離脱。私もちょっと疲れてきたので後を追うようにしてナミキを離れる。それからIND君を助手席に乗せ、ナミキを離れて秋葉原へ。途中、午後から会う約束をしていたみんくりさんからメールが。雨で電車が止まってしまっていて静岡辺りで立ち往生とのこと。ともあれ秋葉原に行って待つことに。いつもの駐車場に車を置いた後、IND君と一旦離れて私は要らないソフトを売るためにTRADERへ。査定が終わって待ち合わせ場所であるHEY 2Fに行ってみるとIND君がギャラリーをバックにプロギアをやっていた。この日は覚醒していたらしく、残6で2-5まで行っていた。後ろで眺めていて、もしかしてクリアするか!?と密かに期待していたのだけど、2-5道中で死んで Retry 連発で終了。残念。HEYを離れて食事。私のリクエストで Cos-Cha へ。メイド服の可愛らしさと接客レベルは他の同業店舗より上だが、食事は値段の割にチープな感じ(カレーの具が妙に少ないとかパスタの量が妙に少ない上に薄味とかケーキがちっちゃいとか)なので、コストパフォーマンス的には微妙なところ。

 店を出てちょっと歩くとみんくりさんに似た人を見つけたので、もしかしてもう到着してるのかしらと思って(しかし声を掛けて人違いだったら恥ずかしいので)携帯に電話してみる。………人違いだった模様。本物(笑)は未だ静岡で足止めを食っていた。結局この日は、到着できたとしてもあまりに遅くなりすぎるとのことで、お会いするのは断念することに。またの機会に期待することに(私信)。

 そんな訳で、一度は別れたIND君に再度連絡。デートの相手が来られなくなったので一緒に帰りましょうと電話。IND君に付き合ってもらってとらのあなに寄って買い物をした後、R122 で一路群馬へ。車中では莫迦話がたっぷりできて楽しかった(娼なくとも私は)。

 太田でIND君と別れた後、まっすぐに帰宅。猛烈に眠かったので何もせずに就寝。


2003/8/13 (水)
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 枯れてしまったような気がします。

 実はここ数ヶ月、自分の文章がもう完全にワンパターンになってしまっているのではないかと密かに不安を抱いてて、でもまだなんとかなるかもしれないと思って頑張ってきたのだけど、もうダメみたい。私は作品を批評するにはあまりに病みすぎている。救いをもたらしてくれるような母性的優しさに過敏に反応する、というよりは、そういう要素以外には興味を持てなくなってしまっている。そういうものを称揚する文章だけを繰り返し書いていれば、そりゃあネタだって尽きるというもの。もっと世界と気軽に付き合う術を身につけなかったら誰も私のことなんか好いてはくれない。私だってピリピリした雰囲気を纏っている人には近づきたくないもの。


 苺ましまろ[ばらスィー/DC]。

 興味のある人は検索するだろうと思って書かなかったのだけど、私の妻である 桜木茉莉たん(11歳)は、苺ましまろ[ばらスィー/DC]に出てくる女の子です。作品全体の印象としては、萌え方面を強化したあずまんが大王という感じでしょうか。ただ萌えといってもここには媚びはまったく感じられません。媚びがない、というのはつまり、こうすれば読者は萌えてくれるだろうという計算がまったく感じられないということです。それにも関わらず、この漫画に出てくる女の子たちは実に生き生きしている。この漫画の世界は楽園なんかではなく、現実に過ぎません。仲良しグループであるとはいえ、茉莉は美羽のことが苦手だし、美羽の暴走は伸恵に容赦なく潰されるし、美羽の好意は伸恵にいともあっさり無視されるし、美羽はその正直さゆえにあなちゃんを傷つける。ここにはとらハ的な思い遣りはまったくありません。彼女たちは伸恵お姉ちゃんを除けばみんな小学生の女の子なのであり、この年代の子供がそうであるように、彼女たちはまだ自分と周囲を相対化するということを知りません。自分の住む小さな世界がすべてであり、自分の立っている場所を絶対のポイントとして世界を見ます。ここに出てくる五人の女の子たちはみんな自分を中心とした世界を持っている。だから時として他人にも容赦がない。これは子供の世界を描いたものとしては非常にリアルであると思います。子供は天使などではありません。子供には悪意がない、というのは本当ですが、子供はその悪意のなさゆえにこそ、却って大人すら舌を巻くほどに時として残酷でありえるのですが、ここでは子供はそういうものとして描かれます。しかしそれにも関わらず、この世界は全体としてはやっぱり優しいのですね。この世界では子供特有の傍若無人さが随所に表れているにも関わらず、それらはいつも口当たりの良いエピソードとしてソフトに表現されている。彼女たちのリアルさは読者を傷つけることは決してなく、それはただひたすら微笑ましいものとして表現されます。これは人によってはずいぶん笑える漫画だと思います――私は初めて読んだ時は笑い転げてました――が、しかしこれをギャグ漫画と分類するのには私は反対です。この漫画の笑いポイントには作者の意図はまったく感じられず、本当に純粋にキャラクターの言動が、微笑ましい、という形を取って読者の笑いを誘うというような性質のものだからです。この漫画では、笑うポイント=キャラクターが魅力的なポイント、であると言っても過言ではないでしょう。

 各キャラクターについて、ひとことふたこと。

 伊藤伸恵(16歳)。
 ――この漫画では唯一の高校生キャラで千佳の実姉であり、この女の子グループのリーダー格でもあります。彼女については、注目すべきポイントは何と言ってもそのお姉ちゃんキャラとしての描かれ方の上手さでしょう。特にそれが端的に表れているのが1巻episode.7の伸恵の一連の振る舞いで、これは他愛ない悪戯でありながら、伸恵と美羽(と他の女の子たち)の力関係や立場の違いというものを実に上手く描いています。一般的に言えば、男の子と違って女の子は“ごっこ遊び”というのが非常に好きで、というか“ごっこ遊び”というのは男の子はあまりやらない遊び方で、これはそういう方面の才能という面から言っても女の子の専売特許だと言っても良い(※)ような遊びなのですが、あるグループにおける年上の女の子というのは、この“ごっこ遊び”において真っ先に自分に与えられた役割を演じることによって、仮の世界を産み出す役割を担います。リーダー格の女の子がまず役作りをしてごっこ遊びの空気とでも言ったものを産み出すことで、初めて他の女の子たちも自分の役割を演じることができるようになるのです。私は長男で姉はいませんが、こういうことは、母親と妹や、妹と従姉妹のお姉ちゃんや、小さい頃によく一緒に遊んだ友達のお姉ちゃん、なんかが一緒に遊ぶ時の両者の関係を思い出してみればよく分かります。逆に言えば、この漫画の伸恵お姉ちゃんは、私にそういう懐かしい記憶を思い出させるのです。

 (※)男の子ももちろん“ごっこ遊び”はします。しかし男の子のごっこ遊びは例えば「ドロケイ」なら刑事と泥棒という社会的立場を演じるというものであり、「ガンダムごっこ」であれば、男の子は自分をモビルスーツになぞらえるのであり、これは厳密には役作りとは違うと思うのです。それに対して、女の子がやる“ごっこ遊び”は特定の人物になりきるのが普通です。女の子が一旦ある役になりきると、そこにはもはや「わたし」というものはなく、ただ一人のヒロインがいるばかりです。私の妹はよく友達とバービーごっこをやっていたものですが、妹たちの遊び方は男の子がやるごっこ遊びとはおよそかけ離れたものでした。妹たちはバービーというキャラになりきって、バービーの住む日常を演じるのです。余談ですが、同人誌なんかを読んでいて女性作家の方が平均的にみて人物描写の才能に秀でているように感じられるのは、この役になりきる遊び方というものに、女の子が幼少時から慣れ親しんでいることが原因なのではないでしょうか。

 伊藤千佳(12歳)。
 ――この漫画の個性的なキャラの中にあっては普通すぎて印象が薄くなってしまっている感があります。これといった特徴がないのが特徴、という巻頭の紹介がすべてを言い表しているような気がします。しかし伸恵お姉ちゃんや美羽のような破天荒なキャラにツッコミを入れる存在はやはり必要であるはずで、そういう辺りに千佳という女の子の役割があるのでしょう。

 松岡美羽(12歳)。
 ――究極超人RにおけるR・田中一郎(この場合、伸恵がトサカ先輩ということになる)、あずまんがにおける智、のような立場のキャラです。よくよく見ると何かと不遇なキャラなのですが、大半は自業自得ですし、本人はまったく気に病んでいないようなので問題はないでしょう。萌えるキャラ、というのではありませんが、しかしよくよく読んでみれば、この苺ましまろというお話は美羽の暴走なしにはあり得ません。ほとんど、このお話を駆動する役割を一人で担っていると言っても良いぐらいの重要なキャラです。このお話の静の部分の魅力を代表するのが茉莉だとすれば、動の部分を担ってお話に彩りを与えているのは間違いなく美羽でしょう。個人的に美羽については2巻episode.17の最後のページが非常に印象深いです。銭湯の帰り道、伸恵お姉ちゃんの長いマフラーで数珠繋ぎになる千佳と茉莉とアナ。それに対して一人だけあぶれてしまう美羽。その直後に茉莉が石に躓き、マフラーで繋がっている他のメンバーも一緒に転んでしまう。それを眺める美羽。あの美羽の表情から何かを読みとることは難しいのですが、彼女は何を考えていたのでしょうか。単純に「莫迦みたい…」と思っていたのかもしれませんし、あるいはマフラーを共有できなかったために自分だけがみんなと一緒に転ぶことができなかった微かな寂しさを抱いていたのでしょうか。どちらとも言えませんが、私はこういう描写に、美羽という子への作者の愛を感じます。

 アナ・コッポラ(11歳)。
 ――日本に馴染んでしまっている自分を受け容れられない英国人の女の子。コッポラという苗字にコンプレックスを抱いていて、時にそのことで美羽と喧嘩になったりします。2巻までの時点ではコッポラちゃん(笑)のコンプレックスと周囲とのリアクションで話が展開されている感があり、キャラとして独り立ちして活躍するのはもうちょっと先のことになるでしょうか。

 桜木茉莉(11歳)。
 ――この漫画のヒロインにして私の妻です。異論は認めません。眼鏡ッ子でドジッ子で泣き虫というある意味典型的な萌えキャラなのですが、そんなことはどうでもよく、とにかくもう可愛いのです。愛くるしいのです。猫さん帽子をかぶってる茉莉たんとか着替え中にパンツ脱ぎかけのまま走りだそうとして転ぶ茉莉たんとか思わずチューしちゃっても不可抗力だろうってぐらいの無防備な寝顔とか立ったまま靴下を脱ごうとしてバランスを崩して転ぶ茉莉たんとか目にシャンプーが入って痛がってる茉莉たんとかお湯を頭からざばーっと掛けられてわぷってしてる茉莉たんとか、もうとにかく父性本能(?)くすぐりまくりです。思わずプロポーズしたくなってしまう可愛らしさです。この子ずっと一緒にいたい、というよりは、この子は俺が傍にいなきゃダメだ、と思わせるタイプの女の子です。


2003/8/10 (日)
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 今日から夏期連休。

 夕方より、ルパン122で開催された大往生黒版大会に参戦。

 優勝賞品の大往生&ケツイ・サウンドトラックは無事ゲット。

 ギャラリーの視線に動揺しないだけの自信はある(それだけの練習はしているので)のだけど、大会の性質上一発勝負なのでやはりまったく緊張せずというワケにはいかなかった。優勝できたとはいえ黒版で1周5.6億は少なすぎるし、ジェット残6突入でクリアできないというのも納得行かない。

 …まあいいか。


2003/8/6 (水)
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 汝、しのぶは桜木茉莉を妻とし、病める時も健やかなる時も、誠実な夫として生涯変わらぬ愛を捧げることを誓いますか?



 誓 い ま す 。 


2003/8/5 (火)
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 メイドさんにスカートをたくし上げさせるというシチュの萌えポイントが恥じらいや上目遣いにあるのは今更言うまでもないのだが、しかしそこで満足して思考停止してはならない。

 というか、今までうっかり気づかなかったのですが、このシチュエーションはその後、恥ずかしさに懸命に耐えるメイドさんにご主人様が「よくできたね? さ、おいで?」みたいにお許しを与えて、そんで気が抜けたメイドさん(14歳)は思わずご主人様に抱きついて、ふえぇぇぇぇんとか泣き出しちゃって、そんでご主人様は「よしよし、イジワルしてごめんね?」とか言いつつ頭をなでなでしたりする………というコンボに派生することで萌え威力が一気に十倍になるワケですよ。

 などという変態かつ悲惨だな悲惨ですねこんな悲惨な奴以下略と突っ込まれそうなことはもちろん私は考えたこともないのですが、ただこういう妄想系のネタは狭い世界でしか通じないものだということは理解していないと洒落にならないなあと思ったりするのです。少なくとも私は、街頭インタビューなぞで二次元キャラの魅力について語るなどまっぴら御免ですわ。暗黙の了解の元でしか理解されないような話題は外に出しちゃダメです。理解されないとなれば晒し者になる以外にないのですから。

 ああそれにつけてもケッセルリンク(鬼畜王ランス)になりてえなあちくしょう。スタンプカードとか最高じゃないですか。それからランスに城内に踏み込まれた時のメイドさんたちのリアクションも素晴らしい。メイドさんたちを見ているだけでも、彼女たちがケッセルリンクに普段いかに愛されていたかがよく分かる。彼は理想のご主人様ですよホント。ケッセルリンクとメイドさんたちのほのぼのまったり物語とか作ってくれませんかねアリス様。


2003/8/4 (月)
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 秋桜の空に・ドラマCD〜新緑の若菜〜を聴きなおしてみた。

 今、目の前にいるこの人は本当に私の知っている人だろうか?
 今、目の前にいるこの人は昨日と同じ人なのだろうか?

 ………なんてことを考えたことのある人はいるだろうか?
 昨日もちょっと書いた通り、人間は知っている物を前にすると安心し、知らないものを前にすると不安になる。最近思うのだが、日曜日の夜から月曜日の朝に掛けて妙に会社が恐く感じられることがあるというのは、たぶんこういうことなのだ。会社の同僚諸氏の顔も名前もおよその性格も、私は当然知っている。しかし、厳密に言えば私が“知っている”というその誰かに関する情報は常に過去のものだ。さて、過去においてこの人はこういう人だった、という情報は、未来のその人を思い浮かべる際に私を安心させるに足る意味を持つだろうか。否である。普通の人はどうか知らないが、私は人間というものの連続性をまったく信じられない。過去にこうだったから未来においてもそうであるはずだ、とは考えられない。昨日のあの人は優しかった、だから今日も優しいはずだ…という風に私は考えることができない。これは望むとか望まないとかの問題ではない。昨日のあの人は優しかった、でもだからといって今日のあの人も優しいだろうか?という疑惑に、私はしばしば襲われる。たぶん、ネットにおいて好意の言葉が私にとって一時の慰めにしかならないのもそういうことなのだ。今日、あの人は私に好意の言葉をくれた、あの人は少なくとも言葉を語った瞬間、私を好いてくれていたはずだ…と思うことはもちろんこの上ない幸福であるには違いないのだが、しかし私という人間の思考回路はいつも「でも明日もあの人が私を好いてくれるとは限らないのではないか…?」という方向に堕ちていってしまう。ある瞬間の好意なり笑顔なり優しさなりは、その瞬間に私を満たしてくれるけれども、しかし未来を少しも保証しない。だから私にとっては、恐くない人間なんていない。

 このドラマCDが私にとってこの上なく心地よいのは、靖臣やカナ坊の人生が完全に連続したものとして描かれているからだ。このお話では、靖臣とカナ坊は一貫して人魚姫の王子様とお姫様とになぞらえられていることに注意されたし。彼らが語る愛の言葉はその瞬間の彼らを満たすに過ぎず、彼らの未来までも保証はしない。しかし彼らはいついかなる時も、自分が語った愛の言葉を自らの言動をもって証明し続けるのである。このドラマCDを聴きながら、私は、目の前にいるカナ坊(靖臣)が昨日のカナ坊(靖臣)と同一人物なのだということを常に発見し続ける。お前は人魚姫なんだから歩けなくて普通なんだ、と言う靖臣。嗚咽を漏らす靖臣を小さな腕に抱き抱えながら、ちゃんと約束守ってくれたんだね、と言うカナ坊。これらの場面は美しいからという理由で私の胸を打つのではない。この靖臣は間違いなく学園祭の舞台からカナ坊を連れて逃げ出した靖臣と同じ人物だ、ということが分かるからこそ感動するのである。このカナ坊は「一人で悲しまないで」と言ったあのカナ坊と同じ人物だ、と分かることが、私にこの上ない安堵感をもたらし、私を満たしてくれるのである。

 もちろん、以上書いたことは私個人の側の事情に過ぎない。作中では、例の呪いによってカナ坊は靖臣に連続性を見出せなくなってしまうのであるし、このお話全体が個人の連続性というものを意識して描かれているだけに、カナ坊が今の靖臣とかつて愛の言葉を交わした靖臣とのギャップを意識せざるを得なくなりついには寂しさに負けて独りで涙を流すあの場面は、いよいよ痛切なものとして私たち聴き手の胸に迫ってくる。

 でも彼らはやっぱり王子様とお姫様で、だから彼らは最後には幸せになるのだ。

 「こい、カナ坊!」

 靖臣は言う。止まっていた時間が動き出す。それは靖臣の記憶が戻ったことをカナ坊が知るということだけに留まるものでない。カナ坊はこの時再び、靖臣に連続性を見出すのである。楠若菜の知っているかつての新沢靖臣と今目の前にいる新沢靖臣が完全にひとつになる。実のところ、これを書いた竹井10日氏がこういうことを考えていたのかどうか、私には分からない。しかし、キャラ萌えなんぞの問題ではなく、秋桜の空に、という作品の中でとりわけ若菜シナリオの出来(クオリティー)が良いのは、この「連続性の発見」というテーマがシナリオ全体をしっかりと支えていたせいではなかったろうか、と今の私は考えるようになってきている。


2003/8/3 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-08.htm#03


 月陽炎オフィシャルビジュアルコミックアンソロジー[宙出版]に載っていた千秋恋歌のラストの一枚絵を見て、鈴香さんの表情のあまりの柔和さに思わず目を逸らしてしまった。
 (………綺麗なものを見ると目を逸らしたくなることがある、という感覚は一般的なものだろうか?)

 あの一枚絵が私の心を打つのは、彼らがあまりに“恋人的ではない”からだ。あそこには「永遠の愛」だとか「ずっと一緒にいたい」とか「傍らにいるこの人を守りたい」だとかそういう類の物々しい意思は微塵も感じられない。夫婦にして恋人同士であることは彼らに何物をも背負わせない。この一枚絵に見られる悠志郎と鈴香さんは、恋人というよりは、もっと単純に、仲の良い男の子と女の子、という風に私の目には映る。ゲームのエンディング時点において彼らは既に夫婦であり、また恋人同士であることを自覚しているのだが、しかしあの絵を単体で見てみると、彼らは恋などという言葉を全然知らずにただ仲がよい、というようなカップルに見えるのだ。彼らの間を流れる空気は、まるでとらハ3世界における恭也と那美さんのカップルのようだ。ここにはおよそ断絶を予感させるようなものも憂慮の影もまったくない。一般論として言うと、不安とはつまり「わからない」ということなのだが、彼らはお互いに「わからない部分」というものが存在しないのである。本来、人間は完全に互いを理解することなどあり得ないのであり、それだからこそ多くの物語においては理解しようという意思それ自体が尊いものとして描かれるのだが、しかしこの一枚絵での悠志郎と鈴香さんにはそういう意思は感じられない。彼らにとってはお互いを理解しようという努力自体がそもそも不必要なのである。極論すれば、彼らは「好きだから」「愛しているから」一緒にいるのではない。そうではなくて、彼らは「一緒にいることが心地よいから」「一緒にいると幸せな気持ちだから」というもっと原始的な理由によって一緒にいるのである。彼らには過去も未来も存在しない。ただ、愛おしい人が傍にいる「今」があるばかりである。鈴香さんは、今この瞬間を愛おしむことで、時間の制約からすら完全に自由であれている。なればこそ彼女は、千の秋を超えたとしても/ずっとあなたに恋しています、なんて台詞が言えるのである。私にとっては、恋というものは憧れでもなんでもない。私はむしろ、恋なんて言葉の入り込む余地のないような関係にこそ憧れる。とらハ3の恭也と那美さん、シスプリのお兄ちゃまと花穂、そして千秋恋歌の悠志郎と鈴香さんのような、自分と他人との区分が限りなく薄められているような、お互いの温度差が微塵もないような関係にこそ憧れる。恋という言葉を使うとすれば、恋というものは、子供が砂場で行う婚約「わたし○○くんのお嫁さんになる!」と同じ地平にあるものであって欲しい。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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