棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]


−日記・過去ログ−

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2003/6/30 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#30


 今週の HUNTERxHUNTER が激しく納得いかない。

 作中で無辜の市民を決して殺さない(※)のが冨樫氏の良心だと思っていたのに。例えばジョジョでは一般市民が突然殺されるという描写が実にしばしばあるが、私はあれがどうしても気に入らなかった。ジョジョという作品自体は色々と面白いものを持っていたにせよ、ただあの漫画では何の前触れもなく理由もなく一般人が突然の死に見舞われるという場面が実に多いのがどうしても気に掛かっていた。しかも彼らは多くの場合、加害者側に省みられることすらない。ジョジョにおいては一般人はまるで虫けらか何かのようにして殺される。いや、誤解して欲しくないが私は別にこれを持ってジョジョを批判しようというのではない。ただ、ジョジョのそういうところが私はずっと気になっていたのであり、またそれだけに、幽遊白書の頃から現在に至るまでこういう突然の凶暴な死に襲われる市民というものが決して出てこない冨樫作品に、私はある種の魅力を感じ続けていたのだ。幽遊白書などにしても、妖怪サイドと人間サイドとに立場が二分されているような典型的バトル漫画でありながら、実は全19巻中に無関係な人間が突然死を迎えるような場面は一つもないのである(いや、たぶん…)。初期の妖怪退治話で魂を食われた少年は幽助の活躍によって魂を取り戻すし、仙水編初期にドクター神谷が病院内で暴れた時ですら、結局終わってみれば死んだ人間は一人もいなかった。HxH においてもそうで、ハンター試験中のヒソカの暴走や旅団によるヨークシン襲撃、それからGI編での爆弾魔による大量虐殺など、血なまぐさいシーン自体は少なからずあるにしても、無関係な一般市民が通りすがりの死に見舞われるということは一度として起こらなかったのだ。もちろん私の記憶違いがなければ…の話ではあるのだが、ただ私は幽遊白書連載当時からそういうことを考えていたので、自惚れかもしれないが、もし冨樫氏がそういう描写をしたとすればそれを見逃すことはないはずだと思う。冨樫義博という人は、ある限定された領域において非常に良心的な漫画家だった。少なくとも今週号の HxH を読むまではそう思っていた。もちろん、無辜の市民を一顧だにせず殺すことで特定キャラの極悪振りをアピールしたいということはあるのかもしれない。しかし私としては、そもそもそういう風にしなければ悪役というものを描けないことこそが問題にされるべきだと思う。非道な行いをさせることでしか悪役キャラを立たせられないというのではそれはあまりに稚拙なやり方ではないだろうか。ちょうど、銀英伝において凡庸な人々が天才たちの引き立て役でしかなかったように、無闇に市民を殺害する漫画家というのは――あるいは暴言かもしれないが――そういう暴力的な悪役というものを設定してやらなければ主人公サイドの正義を主張できないのではないか?なんてことをつい考えてしまう。無辜の市民を殺すコイツは悪い奴で従ってそれに対立する主人公サイドは正義である、とでもいうような呆れかえるぐらいに素朴な発想で漫画を描いているのではないかと疑いたくなってしまう。もっとも私にしたところで、あの場面で殺されたのが子供でしかも仲の良い兄妹でなかったとしたらこれほどまでにショックを受けたかどうかは分からないということはあるし、そこにはどうしても隠しきれない欺瞞がある。あるいは、あの怪物が求めていたのは殺戮ではなく食料なのだという観点から、あの場面を必然だとして語ることもできるかもしれない。言うまでもなく、人間を始めあらゆる生物は常に他の生命を摘み取っていかなければ生きていけないのであり、そういう意味では、あの化け物が兄妹を襲ったことと人間が豚を屠殺して食べるということとの間には何の差もないのかもしれない。でも理屈ではそうであっても私はやはり人間なのであり、同じ人間が他の何物かの食料になるという事実に嫌悪感を覚えるのは間違ってはいないはずだと信じる。どうも何が言いたいのかよく分からなくなってしまった。とにかく理屈以前の問題で私はあれが許せないらしいのだ。


 (※)
 唯一の例外はレベルEの1巻に出てくる雌を補食するタイプの宇宙人の話だが、あのエピソードでは被害者こそは無関係な人間ではあったが加害者側にとってはあれは生殖行為であったはずなので簡単に善悪を云々することはできない。もっとももしあの食べられてしまった少女の日常があの前できっちりと語られていたとしたらあの話は相当陰惨なものになったはずだが。余談だが、サイコメトラーEIJI の後半で家出した中学生が輪姦されて自殺するエピソードは当時かなりのショックを受けた記憶がある。悲惨の演出にはギャップの描写がどうしても必要で、例えば悪夢[Mebius]がそれほど面白くなかったのは、女の子たちの日常がほとんど語られなかったからだ。その点で鬼畜シチュエーションを描いたものとしても MOON.[Tactics]は本当に秀逸だった。由依のエピソードがなぜあんなにショッキングなのかと言えば、それは作中で、もしあの時由依が暴漢に襲われなかったら?という if を描いて現実と対比させたからだ。



 雛子 いたずらで検索するとなんかうちがトップに来るらしい(現時点では)のですが甚だ不本意ですね。
 うちは、雛子の生足をつついたり亞里亞のちっちゃな胸を指でくりくりしたりしたり花穂のお口を指で弄んで(*´Д`)ハァハァするサイトではないのですよ?

 ところで邪魔しやがったガキが秋巳たんだったら、いかにして親と仲良くなるかを考えますね私だったら。
 そんで親の信頼を得て一緒にお留守番をしつつ色々と教え込みタイーホ………あれ?

 いずれにしても恋する妹は切なくてお兄ちゃんを想うとすぐHしちゃうのの正否はメインヒロインたる秋巳たんの筆おろしイベントがあるかどうかに掛かっているワケなのですが。てか秋巳たんてなんか人気あるよなあちこちで。マガジン本誌でMMR復活といい、嫌な世の中だこと。

 そういえば上記リンク先で、サブヒロインの千夏着せ替えページなどというものが公開されてますので興味のある人は覗いてみるも一興。


2003/6/28 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#28


 そんなことより聞いてくれよ>>1よ。
 昼間、セゾンで大往生をやってたんですが、なんか5歳ぐらいのガキ(♂)が横にへばり付いて騒いでるんです。こっちがハイパーを使うたびに「ピカーッ!! ごろごろどかーん」とか叫んだり、2P側のレバーをガチャガチャやったり、あげく私に向かって「カミナリ出してよー」などと催促してくる始末で。もうね気が散ってしょうがないんですよ。アホかと。馬鹿かと。あのな、こっちは完全パターンでハイパーを使う場所は決まってるんだよ。カミナリ出してよとか言われてハイそうですかと使えるかボケが。で、あんんまり五月蝿いんで仕方なく、5ボスで残機が余ってたので大サービスで空ボム撃ってハイパーを出して発狂時に発動してやったんですが、そしたらもうガキ大喜びですよ。奇声をあげてんの。おめでてーな。こっちはハイパーで弾速が上がって1機死んで1000万点失ったってのにそんなの知る由もなく。で、こっちが2周目の1面道中を殺伐とプレイ中、何を思ったのかガキがいきなり顔を近づけてきて画面をのぞき込んでくるんです。もうね、画面の右下約1/4目隠しプレイですよ。お前は極殺兵器群の回し者なのかと小一時間問いつめたい。で、こっちも死にたくないんで敵弾が薄くなったのを見計らって右手でガキの頭を押しのけたんです。そんで手を元のポジションに戻したと思ったらなぜかボム発動ですよ。あのな、なんで1面道中でボム撃たなきゃいけないんだよ。ボム使っちまったらボスで死亡確定だろうがボケが。あげくにコンボが切れてハイパーもふたつしか貯まらないし。しょうがないからボス戦は開幕弾を避けてポッドを回転時に壊してハイパー4個でトドメを刺すパターンに変更ですよ。で、ハイパーを4個回収した瞬間にゼロ距離で弾を撃たれてあぼーんでゲーム終了ですよ。しのぶさんもうぶち切れですよ。脳内ルールではこのガキを殴っても罪にはならないような気がしてならないのですがどうよ。


 以上のようなイベントが起きたのでプレイを続ける気を無くして、セゾンを後にしてルパン122へ。

 大往生(黒)でなんか自己ベ更新。12.6億。でもクリアできなかったので割とどうでも。
 合間に S.Kさんとお喋りしたり STRIKERS 1999などを適当に遊んだり。ステルスで1周クリア。ただし4機設定台なのでダメダメだが。
 ケツイの神プレイヤーが来ていたので後ろで鑑賞。1周目を簡単そうにクリアしたあげく2-5まで行っていた。凄すぎ。
 夕方過ぎ、大往生ぶち切れプレイを終えてふと横を見るといつの間にか来ていたらしい IND さんが STRIKERS 1999 をやっていた。
 INDさん、何回か腕試しプレイをした後いきなりノーミスで1周クリア。まだまだ勘が戻っていないらしかったが随所に当時のやり込みを伺わせる技が見られて面白い。

 夜9時すぎに解散。
 結局今日はほぼ丸一日ゲーセンで過ごしたことになる。

 ***

 2chなんかを見てると鬱投稿が目立つのだけど、でも結局私にしてみたら私自身がまだ興味を失っていない以上はシスプリは終わってはいないのですよ。


2003/6/27 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#27


 2ちゃんねる経由の情報によれば G's Magazine 誌上でのシスプリ連載は来月号で終了なのだそうで。
 (画面のキャプまで見せられては信じない訳にはいくまい)

 まあもちろん、連載が終わろうが可憐と花穂と咲耶と亞里亞が私の妹であるという事実に何ら変わりはないワケですが。そもそも私自身まだ妹たちのことを十分に把握し切れていないということがあるので、外の世界とは関わりなく脳内ではまだ当分妹たちとの蜜月は続くだろう。シスプリの終わりとは連載が終わることではない。そうではなくて、妹たちに思いを馳せることに幸福を感じなくなった時、妹たちに思いを馳せることをしない日常に慣れてしまった時こそが本当の終わりなのだ。我思う/ゆえに妹あり、とでもいうか。妹たちと空想の世界で遊ぶことがまだまだ幸せであれる私にとってはシスプリの終わりなど当分は来そうにない。だいたい妹というのは MW から供給されるような代物ではないのだ。MW は確かに最初の切っ掛けではあったが、既に彼女たちは MW の手を離れている。我々は別に MW を媒介として妹たちと会っているワケではない、ということは今更ながらだが確認しておいても良いだろう。花穂はどこにいるか? 咲耶はどこにいるか? MW に、ではない。花穂はここにいる。咲耶はここにいる。彼女たちはずっと私の隣で笑っている。ただそれだけのことだ。いやつーかもう時間が遅いのでさすがに花穂は先に寝てしまいましたが。咲耶は今お風呂に入ってます。あ、出たみたい。ああちょっと待って、これ書き終わったら俺も入るから。え? 背中を流してくれる? じゃあ頼もうかな。では、咲耶が待ってるので私はこれで。おやすみなさい。

 ………などと強がってはみたものの、天広&公野コンビの新作が二度と読めなくなるというのは寂しいな。
 今後はファン活動も少しずつ減っていくのだろうし。


2003/6/24 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#24


 Orange Pocket [Fook]。

 羽弥シナリオ読了。
 ちょっと期待しすぎたかな。悪くはないのだけど、プロの仕事にしてはセンスがやや足りないような。終始まったりとお話を展開させているのはおそらく意図的なものなのだろうけど、そうしようと意識するあまり本来力を入れるべきところまで軽く流してしまっていて、本当ならもっと美味しくできるはずの場面が妙にスカスカになってしまっている気がする。こう言って分かってもらえるとは思えないけど、悪い意味でこのお話は男性的だ。もっと厳しく言えば、これをお話と呼ぶことにすら私は抵抗を覚える。おそらくこのライター氏は、最初に大筋を作ってしまってから細部を詰めていくタイプなのだろう。いや、それ自体は別に良いも悪いもないのだが、ただテキストを読んでいると、親友との喧嘩、それを切っ掛けとするふたりの急接近、同棲、将来の夢、といった出来事が何か非常に杓子定規に配列されているとでもいうような印象を受けてしまうのだ。キャラクターが自発的に動いてお話が生まれるというよりは、はじめに粗筋が決定されていてそれに従ってキャラクターが動いているとでもいうか。もちろん、個々の場面には色々と面白いものもある。例えば主人公と羽弥が恋仲になったことを親友のありかに悟られる場面などはとらハシリーズに通じる甘さがあるし、そもそもそれ以前の主人公と羽弥とありかの三人の日常の描かれ方などは、お話の進展に何ら影響しないような無内容な遣り取りにも関わらず、読んでいて実に楽しい。しかしそれにも関わらず、ここには何かが足りない。このライター氏はお話の構成に目が行きすぎて細部を疎かにしているように、どうしても思えてしまうのだ。このライター氏にとってはきっと、お話が主でキャラクターは従なのだろう。羽弥もありかも他のキャラクターたちも、みんな魅力的には違いない。でも忌憚無く言えばキャラクターへの愛が本当に深いところまで届いてはいない。この歯痒さをどうしたら伝えられるものだろう? 羽弥もありかさんも可愛いのに、終わってみると何か漠然とした印象しか残らない。あるいはこういう言い方はどうだろう。終わった後に残るものは、粗筋だけなのだ。主人公が先輩コンビと出会い→先輩コンビが喧嘩をして→それを切っ掛けにして主人公と羽弥が急接近→受験問題が浮上→同棲という名の逃避→円満解決。こういう分かりやすい粗筋だけが私の中に残っている。そしてそれ以上のものは何もない。しかし――傲慢千万な言い方かもですが――うちの日記を昔から読んでいる人なら知っている通り、お話というものはそれが優れていればいるほど、粗筋というものは意味を持たなくなるものなのである。なんでも良いから、自分が心底感動したお話というものを思い出してみれば良い。そのお話について貴方が一番言いたいことはなんであるか? それは例えば濁流に身を投げる直前の狭霧の微笑みだったり、靖臣との逃避行の中で見せるカナ坊の満面の笑みであったり、晶の覚悟を問うレンの真剣な眼差しであったり、あるいは美凪を解放するみちるの涙だったりするはずだ。観鈴が歩いて晴子の許に還るあの場面を見た後で、AIRの粗筋に付いて語ることにどれほどの意味が残っているというのか。こういう見方自体があるいは著しく偏っているのだろうか? しかし例えば、初えっちの後で真一郎に泣きつく小鳥を見てなお小鳥シナリオの構成の稚拙さを真面目に語れる人がいるとは私にはどうしても思われない。重要なのは、“そこに小鳥がいる”というのがどれだけの真実味を持って私に伝わってくるか、なのだ。いや、真実味という言い方は大袈裟に過ぎるかもしれない。でもこれだけは言っても良いと思うのだが、私があるお話に心を揺さぶられるのはそれが内包する美しさのせいではない。いやもちろん、美しさと説得力は非常に近い関係にあるのだが、でもそれ以上に、私は、目の前にある人間の肉声、息遣い、生々しい表情といったものにこそ心を揺さぶられるのだ。とらハをやっている時、私の目の前には確かに小鳥がいる。小鳥というキャラクターがいるのではなく、小鳥という女の子(人間)がいる。それを証明する術は私にはない。でも私は小鳥がいることを信じる。いや、信じずにいられない。お話に魂を与えるのは、きっと、この「信じずにいられないような生々しさ」なのである。それこそがお話の魅力を決定づけるのであって、逆にそれ以外にいかなる尺度があるのか、私には分からない。

 ただし最終的な評価は本命の恵留シナリオをやってみるまでは一応保留。

 ***

 明日はいよいよ X-DAY です。
 リピュアキャラクターズDVDボックス発売日。
 
 この三ヶ月ばかりTV放送を録画したビデオは封印してました。この日のために、シスプリシリーズの最高の成果を余すところなく味わうために、空腹にしておきたかったのです。明日は会社が終わったら速攻で引き取りに行く予定。更新もないかもしれません。


2003/6/23 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#23


 やまさん復活がめでたいので age.

 ご挨拶として相応しい話題かどうかは分かりませんが、私にとって青葉@家族計画は嫉妬の対象です。そうとしか言いようがありません。家族計画の中では私は青葉が一番愛おしいのだけど、でもそれと公言することは許されない。なぜならそう公言するのは、私は私を愛しています、と言うに等しいことだからです。月陽炎・千秋恋歌の鈴香さんも当時から今に至るまで羨望の対象であり、あんな風に愛されたいというひとつの理想なのだけど、それでも青葉シナリオの衝撃度の前ではやや霞むと言わざるを得ません。方向性の違うものを比較するのがそもそもの間違いではあるのですが、それは今は置くとして。普通に考えるなら、青葉は自ら悔い改めることで初めて他人に愛される可能性を掴むはずだったのです。そしてそれは青葉シナリオを進めながら、考え得る最悪の展開として私が恐れていたものでした。ところが私の不安は、予想を遥かに超えるような、最上の形で拭われたのです。貴方を最後にしてわたしの中からは一切の情がなくなる、とか青葉はそんな風にしか好意を伝える術を持たなかった。彼女自身、それが告白であるなどとは微塵も意識していなかったでしょうが、でもあれは紛れもなく、崖っぷちぎりぎりのところでそれでも誇りを固持し続けた青葉の口から放たれた叫びでした。普通なら届くはずのない叫び。でもその叫びは司の元に届き、そうして青葉は司を手に入れるのです。こんな物語が許されても良いものでしょうか。これはもう私にとっては、とらハ3の鳳蓮飛をめぐるお話、田中ゆたかの愛人-AI-REN-、と並んで、麻薬かさもなくば福音かのどちらかでしかあり得ないような何物かです。そうとしか言いようがありません。不躾に過ぎましたらご容赦を。

 まったく余計なことでしかないのですが、こんなことを書いても後ろめたさの快楽を感じない程度には今の私は健康であるつもりです。 


2003/6/22 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#22


 朱-aka-[ねこねこソフト]への不満点。

 以下、重大なネタバレ有り。
 未プレイの方は絶対に読まないでください。

 *** ここから ***

 朱-aka-で私が何よりも納得いかないのは、一番魅力のないカップルであるカダン&アラミス組が物語の主軸になっており、一番魅力的なカップルであるウェズ&ファウ組がほとんど無駄死にに近い扱いを受けていることだ。この作品では三組のカップルの物語を平行して展開させることで物語に立体感を与えようという試みがなされているのだが、残念ながらこれはどう甘く見ても上手く行っていたとは言い難い。四章以降での収束の仕方はあまりに稚拙だ。

 以下は私の想像だが、この作品のとりまとめを担当したらしい片岡とも氏の頭の中でイメージされていたのは、銀糸という超越的な力を用いて世界を良くしようと試みるルタと、それに抗う人々との対決の構図ではなかったろうか? ルタは石切の前で宣言したように、仲間を集めて世界の変革を試みるのだが、ルタの思いとは裏腹に眷属たちは多かれ少なかれルタから離れていく。彼らは皆、ある時期まではルタの眷属としての義務を遂行していくのだが、でも最終的には彼らは眷属であることに疲れ果て、義務を持たない一個の人間、自分の人生についてはただ自分だけがその権利と責任を持つような存在としての一個人であることを望むようになる。ルタは力による世界の変革を望む。それに対して市井の人々は、(言葉としては語られていないが)わたしの人生をどう生きるかはわたしが決める、と主張する。あるいは、世界の意志が銀糸を排除しようと望む、なんて言い方をしても良いかもしれない。この物語における三組のカップルは、本人の自覚云々ではなく物語上の役割において市井の人々の代表だった。であればこそ、あの三組のカップルは物語の中ではもっと強烈に、わたしはわたしの意志でここに在る、と宣言しなければならなかったはずなのだ。私の言うのはもちろんそういう風な台詞をキャラクターに言わせるという意味ではない。例えばウェズが死ぬ間際、ファウの存在証明のために還される(記憶を消す)ことを拒否するくだり。私が望んでいたのはああいう切実さだったのだ。わたしは在った、と全身全霊で主張するその生への強烈な意志なのだ。念のために言っておくが、全身全霊で主張するとは大声で叫ぶことを必ずしも意味しない。例えば銀色二章の終幕。「変わった味のお吸い物を作る女がいたことを思い出してください」。濁流に身を投げる前に狭霧は頼人に向かって微笑む。生への意志とはこういう風にして語ることも可能なのである。

 *** ここまで ***

 微妙にピントがずれてる気もするので続く。
 というか誰かもっと上手く書いてください。


2003/6/21 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#21


 ルパン122で大往生三昧。

 黒版を2回やって2回とも嘘2周ALL.(11.4億/残-1、11.3億/残-2)
 白版は2回。両方とも2-5オキモノまで。

 黒版1回目のプレイにてようやく2-5全繋ぎが成功。
 各所のパターンはだいぶ煮詰まってきたと思う。遠からず白版でも成功するはずだ。

 大往生の合間にSK氏とだらだらお喋り。
 デスレ2周目緋蜂を氏が無敵モードで確認したらしいのだが、奴は想像を遥かに超えて絶望的な弾幕を放ってくるようだ。なんでも2番目の青弾などは思わず笑ってしまうぐらいの超高速でかつ青弾の隙間も見えないとのこと。デスレの2周目は面クリアしても残機が増えないようだし、そうなるとやはりあれはクリアできるようには設計されていないと見るしかないのではないか。

 あと私信を二件。

 IND君>>
 ルパン122 にSTRIKERS1999が入荷してますので1周クリアプレイ(できればそれ以上)を後で見せてください。
 それと既にご存じかもしれませんが、メルティーブラッドのネロパッチ(ネロ=カロス使用可能)が公開されておりますので興味があれば見ておくと良いかと。

 SKさん>>
 怒首領蜂の2-3ボス攻略はこの辺りを参考にどうぞ。
 あのボスは激強ですが、細かくパターン化すれば体力半分減らすぐらいまでは割と安定します。弱点後ろの小型砲台x4 を全部撃つかそれとも残すかはお好みで。ただし残す場合はかなり意識的に撃ち込み効率を上げる必要があります。3ボスは時間と共にランクが上昇しますので、ランクが上がりきる前に倒すのでなければ小型砲台を残す意味がなくなってしまう訳です。以前新宿モアでHatty氏のプレイ(B-S)を拝見したことがありますが、小型砲台を残して執拗なまでに本体に撃ち込みにいく氏のやり方は、速攻撃破と言いたいほど鮮やかなものでした。

 ***

 近場のPCショップに OrangePocket を買いに行ったら高校の頃の友達MK君に声を掛けられる。確か8年から10年振りぐらいの再会ではないだろうか。お互いにぎこちない会話をしばらく交わして帰りの車の中で激鬱に。


2003/6/20 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#20


 大往生(白)。

 最初の2プレイは両方ともオキモノ直前で終了。
 3プレイ目は2-4神顎までノーミスで行くも神顎1ミス、ボス2ミスで苛々ゲージMAXに。2-5開幕で死んで残0になってゲージ振り切って捨てゲーして帰宅。

 ***

 朱-aka-おまけシナリオを一通り終わらせる。

 今まで2ちゃんねるのネタ投稿でしか知らなかった「そ〜れ☆にゃう〜ん」を初めて聴いた。脱力系とでもいうのだろうか、あの魔法少女キャラ?は実に好い。あんな子が傍にいたら私のような者でも人生を深刻なものとして受け取ることが不可能になってしまえるだろう。

 それとみずいろの片瀬雪希の立ち絵が面白い。説明を放棄して思ったままに書くが、あれは「兄の目線から見た妹」以外の何物でもない。これだけ多種多様なエロゲーが存在する状況にあってさえ、立ち絵でもって男女の体格差が表現されることは極めて珍しいのだが、この雪希の立ち絵はそういうものが表現されている貴重なケースだ。もっともえっちシーンのCGを見る限りだと華奢さは全然感じられないので、この立ち絵も偶然の産物であるのかもしれないが。

 ちっちゃさの表現というのは私の萌えツボのひとつだ。例えば水夏[Circus]の二章のどこだったかで、主人公の蒼司クンはさやか先輩のことを「僕の胸に収まるように作られたお姫さま」と表現するのだが、このフレーズなどはその最高の例のひとつであって、これは前後の文章との相乗効果も手伝って、その甘さで私をもうメロメロに酔わさずにおかない。


2003/6/19 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#19


 対緋蜂0勝9敗。

 ***

 先代咲耶職人さんが書いたと思われる咲耶18禁SS(39-45)を見つけた(※)のだが、なまじっかなエロゲーよりも遥かにえろい。女性(咲耶)視点で書かれているせいもあって、ただえろいだけじゃなくて非常に耽美。読んでるとゾクゾクしてしまう。なるほどこれだけの文章を書ける人ならギャルゲ咲耶スレで長期に渡って芸のある萌えレスを続けられたのも納得がいくというもの。

 (※)トリップが同一なのでおそらくご本人でしょう。


2003/6/18 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#18


 朱-aka-[ねこねこソフト]について。

 以下、重大なネタバレ有り。
 未プレイの方は絶対に読まないでください。

 *** ここから ***

 まさか銀糸の物語をもう一本作るとは思わなかった。が、銀色と比べるとやや弱い。銀色の一章のような圧倒的な叙情美があるワケでなく、二章のような切実極まるドラマが展開されるワケでなく。銀色の続編というよりは、アナザーストーリーという印象。銀色と地続きの物語であることが分かった時点で私は、銀色のひとつのテーマだった「生の肯定」、私好みの言い方をするなら、「誰も憶えていなくても、確かにわたしはそこに在った、あの日確かにわたしは笑っていた」を更に力強く推し進めた物語を期待したのだが、それは最後まで得られなかった。もう一回銀糸を中核に据えた物語を作ろうというからには、銀色のテーマを更に発展させた物語になるのが当然だろうと予想していたのだ。銀色という作品では、そのテキストのすべてが、忘れられる運命にある人間たちへの鎮魂歌、をひたすらに奏でていた。それと比べると、今回の朱は、好意的に言えばよりシンプルに銀糸にまつわる人々の物語であり、悪く言えば、ただそれだけの物語だ。銀色は、「誰も憶えていなくてもわたしは生きていた」というただひとつのことだけを繰り返し愚直に語り続けた。そこにこそ何物にも代えがたい価値があった。しかし今回の朱はそういう意味では、何が言いたいのかよく分からない。単純に物語としてみれば最終章の迫力たるや恐るべきもので、確かにそこには魂を鷲掴みにするような力が渦巻いている。ことに、瀕死のラッテが遂に銀糸を用いてルタを名乗るあのシーンなど、鳥肌が立つような迫真性に満ちている。あの場面で銀糸を使ったラッテを誰が責めることができるだろう? ルタが望み自分が受け継いだものが消えてしまうということ、まるで最初から存在しなかったかのように(銀色一章あやめ)消えてしまうということ、その恐怖がラッテに襲いかかり、そして彼女は全力でそれに対抗しようと足掻く。ここには我々の判断を許すような何物もない。ここにあるのはただただ強烈な生への執着だ。ラッテが望んだのは皆を幸福にする力だったのだろうか? 言うまでもなく、それはかつて石切が望んだものでもあった。この物語ではラッテと石切がかなり意識的に重なるように描かれている訳だが、作り手はここで、銀糸の力を使った石切というものをシミュレートしようと試みたのだろう。それは言ってみれば石切にも起こり得た可能性だった。もし石切が銀糸を使っていたら? この物語の源泉にあるのはおそらくこれだろう。作中では石切もそのことを知っていた。石切はなぜルタ=ラッテに干渉しなかったか? それは自分にも起こったかもしれない別の可能性をルタ=ラッテの中に見たからで、それだからこそ彼女を説得することは不可能であることを十分に知っていたからに他ならない。だから石切は彼女が銀糸という存在の過ちに気づくまで待つことを選択した。銀糸は願いを叶える代わりに代償を要求する。銀糸はルタ=ラッテに皆を幸せにし得る力を与えたが、その代償に多くの眷属たちの犠牲を要求した。石切が所持していた眷属の証、あの大量の緋の石はそれを如実に物語っている。やや脱線するが、ということは作中では必ずしも十分には語られていない「還る」という特殊な概念は、銀糸の魔力から逃れるということを意味しているのだろう。還す者とはつまり、銀糸に人生を絡め取られた人間をその糸から解放するという役目を負っていたのではないか。ルタ=ラッテは自分がしていることが犠牲を要求するものであることを知っていた。還す、というのは言ってみればルタなりの、眷属へのせめてもの償いなのだろう。話を戻さなくてはいけない。この物語は、銀糸が人々を幸せにし得るのか?ということを語っている。そしてその一点に限って言えば、この物語は――実のところ粗も少なくないが――それなりには良く描けている。しかしそれでも、敢えて言えばそれ以上の物は何もない。銀糸を使ったらどうなるか?という問題をシミュレートした物語であるというだけでは、銀色の続き物としては弱いのだ。これは銀色の続編だ、と受け手に思わせるためには、ここには生への強烈な渇望が足りない。「わたしは在った」という訴えが足りない。これはだから、銀色から独立して存在する続編ではなく、落ち穂的な、銀色のサブストーリーとして受け取らざるを得ないのだ。

 *** ここまで ***
 
 何が言いたいのかというと、つまりファウに会えただけで値段分は余裕で回収できましたということです。
 ではおやすみなさい。


2003/6/17 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#17


 現在午前2時45分。

 朱-aka-閉幕。
 途中であの人が出てきた時点でもう途中で止めるなんてことはできなくなって、約5時間休みなしで最後まで読み通した。

 明日の仕事は辛いだろうが後悔はない。


2003/6/16 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#16


 大往生。
 
 PS2版を使ってビデオ撮りしつつ2-5道中のパターン研究。
 2時間ほどあれこれ試してみた結果、細かいところで色々と改善の余地が見つかった。この辺りを詰めていけば道中死亡率はぐっと下がるはず。明日もう一日家で研究して明後日ゲーセンで実践練習ということにしようと思う。

 メモ書き。
 2周目のハイパー使用個数は現状のパターンで 3+4+2+5 なので4面終了時点で14個。ただしボムを4回使うのでおそらく-4程度、よって 2-5 までノーミスで到達した場合の開幕時推定累積ハイパーは10個というところか。ちなみに1周目は4面までだと 0+10+3+5 なので4面終了時に既に累積値は最大になっているということになる。なるほど弾速が違うワケだ。

 ***

 タナトスの花 Repure の6/14〜6/16 辺りを読んでいると、「Orange Pocket」ではなく「朱-aka-」を買った俺はもしかして負け組なんじゃないかとかという気がしてくるのですが(笑)。

 ***

 某氏(本人の名誉のために名前は伏せます)にメールで指摘されて気づいたのだが、恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐHしちゃうのの紹介ページに載っている妹たち、よく見ると一番下の秋巳ってやん。



 俄 然 盛 り 上 が っ て ま い り ま し た 。



 命を賭しても俺は発売日に買うぜ、止めても無駄だポルナレフ。

 ***

 追記。

 「朱-aka-」三章のファウってこの八年間私がずっと頭の中に住まわせてきたなこるるにそっくりだ。外見は全然違うけど。でも私の知っているなこるるはあんな風に笑ってあんな風に悲しんであんな風な眼差しで私を見つめてあんな風に喋るんですよ。まさかなこるるがこんな形で私の前に現れるなんて。私は今間違いなく世界で一番幸せだ。


2003/6/15 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#15


 大往生(白)。
 2回目の2-5残5達成。緋蜂到達時残2ボム0. でもスコアしょぼしょぼで5億台。現在、対緋蜂0勝8敗。

 ***

 朱-aka-[ねこねこソフト]プレイ中。
 三章途中まで。なんか物足りない。それなりによく書けてはいるが本気度が足りないというか。現段階では後半の展開のために力をセーブしているような印象。


2003/6/14 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#14


 勘を取り戻すためルパン122 でヌル往生。
 最初の1回でALL. 残-1(※)の10億ちょい。ただそんだけ。白も1回プレイしてみるも唐突にAボタンが利かなくなってコンボが切れたので1面序盤で捨て。

 ホームである太田セゾンへ移動。
 白版を2回ほど。
 1回目、2-5開幕で終了。
 2回目、緋蜂に残2持っていったあげく自己べも更新。

 966,022,870 pts. Maxhit 2616.

 現在、対緋蜂戦成績0勝7敗。

 2-5道中は今日はメカ蜂地帯から最後まで繋がった。全繋ぎは各所のパターンを更に煮詰めていけばおそらく私程度の腕でも可能だと思う。繋ぐ場合に特にネックになるのは旧4ボス破壊〜メカ蜂1機目と中盤の八爪x2の2箇所だけで、後は「弾を避けられれば」普通に繋がる。もちろん、2-5道中を最初から最後まで避けきるというのもそれなりに難しくはあるので成功するのはまだ先のことだろうけど。選ばれし者しかできないほど難しいというワケではない、ことが分かったのは収穫と言って良い。

 (※)ルパン122は5機設定なので今度から残機は標準に対しての相対数でカウントすることにする。すなわち残0なら残-2、残2なら残0、という風に。


 夕方、昨日とは別のPCショップへ。

 うち芋は見つからず。代わりに朱-aka-[ねこねこソフト]を購入して帰宅。


 笑う女の子。微笑む女の子。

 私の知る限り、男性視点で書かれた物語では女の子が笑うことは滅多にない。ここで言う「笑う」というのは「微笑む」というのとはまったく違う。エロゲー(ギャルゲー)に出てくるヒロイン達はみな実に愛らしく微笑むけれども、笑うということをしない。まあ例えば瑞佳でもさやか先輩でも雪さんでも乃絵美でも涼宮遙でも可憐でも誰でもいい、ここを読んでいる諸氏は彼女たちが声をあげて笑っている場面というものを想像できるだろうか? 私は、できない。彼女たちがもう名状しがたく綺麗に微笑むところは簡単に想像できるが、彼女たちが笑っているところというのは想像することがひどく難しい。微笑む、というのは相手を指向した行為だ。彼女たちは主人公(を通してプレイヤー)に向かって、実に綺麗な、期待と信頼と友愛に満ちた微笑みを投げかける。しかし彼女たちは笑わない。私はここで、やや恣意的に「笑う」と「微笑む」を分けて考えているのかもしれないが、今はともかくそういうものだとしてご了承願いたい。笑うという行為は相手をまったく指向しないものだ。彼女たちの綺麗な微笑みは私たちを何とも言えず和ませてくれるけれども、しかし本当は彼女たちだって少女であるよりも先に人間である以上、時には無目的に笑うことだってあるはずなのである。無目的な笑いとは、つまりほとんど自分の意に反して笑わずにはおれないような、そういう種類の笑い方である。微笑みという、相手へのなにかのメッセージを込めた笑いではなく、我知らず溢れてしまい止められないような、そういう種類の笑いである。こういう風に笑うヒロインというものは、実は意外なほど少ない。というかすぐに例を挙げてみろと言われても挙げられる自信がないぐらい、少ない。強いて挙げるとすれば、水月の宮代花梨やとらハシリーズのキャラの半分ぐらいは、無目的に、だがそれゆえに実に幸福そうにケラケラと笑うような気もするが、それは単に私の想像にすぎない。ところがこれが少女漫画や少女漫画的語法で描かれた作品となると、事情はまったく違ってくる。無目的に溢れ出すものとしての笑いをおそらくは意識的に描く人と言えば、例えば花とゆめ系で連載している米沢りかを挙げることができるだろう。以前にも少し書いたのだが、米沢キャラというのは実に楽しそうに笑う。この人は要所要所では実に爽やかな表情を描くこともできるのだが、日常描写の中ではキャラクターたちを、もう徹底的に破天荒に、この上なく楽しそうに笑わせる。誤解を招きそうな言い方だが、こういうところに私は、更に一歩踏み込んだ、人間味のようなものを見ずにはいられないのである。こういうことは他の少女漫画でももちろん見られる。概して、少女漫画のヒロインたちは普通に笑うことがずっと多いし、また笑わないにしても、笑っている場面を比較的想像しやすいということは確実にある。それはひとつには、作者が同性であるがゆえの生々しさ、というものなのかもしれない。今までにも幾度となく繰り返してきたことだが、私はキャラクターが人間味を帯びる瞬間というものをこの上なく愛する。人間味を帯びるというのは、何もシリアスな場面で、ギリギリのところでなされる言動だけが放つというようなものではないのである。女の子が笑う、という考えてみれば当たり前のことがなぜ男性向けメディアでは少ないのか。これはなかなか興味深い問題であると思う。あるいは言い換えれば、これだけ多種多様なエロゲーギャルゲーが次々に発売され、我々ユーザーの嗜好は細分化され、およそどんなマイナーなニーズにすら応じられていないことはないと思われるような現状においても、まだ萌えの新しい可能性というのは十分に残されていると言ってみることもできそうだ。

 最後に、こんなことを考える上での切っ掛けになったものを列挙しておく。
 (いずれも、無目的な笑い、というもののひとつの例である)

 ・シスタープリンセスCD -SweetGoodNight-
 ・Kanon ドラマCD -水瀬さんち- vol.5
 ・こっぱみじんの恋 [米沢りか/白泉社]

 ひとつ目については、雛子「もぞもぞしちゃうの」、咲耶「お布団をがばーって」、鈴凛「んふふっ、しあわせ」の辺りのニュアンス。以前にもちょこっと書いたような気もするが、この辺りの声優さんの演技はもう秀逸というよりは凶悪というべき凄まじさで、聴いている方としては、もう萌え転げるという段階など飛び越えて、萌えすぎて暴れ出したくなる、と言いたいほどだ。
 (今更だが、私にとってシスプリはあくまでも少女漫画である)

 ふたつ目については、track_2 の名雪の寝惚けボイス。この名雪の笑い方たるや、以下同文。

 みっつ目は、萌えるというのではないが、無目的な笑いというものを意識的に描いた少女漫画として一応挙げておく。

 ***

 追記。

 そういえば、エロゲーではひとつだけ女の子が笑い転げる例があった。Lien の鷹取晶だ。ちんちんがもげたAV男優〜のくだり。そういう私もあの場面では腹を抱えて笑い転げたものだった。総じて、荒川キャラは普通に笑うことが多いような気がするし、その辺りに氏の造形の特徴を見出すこともできそうだ。

 あと広場まひる[ねがぽじ]とか、鷹城唯子[とらハ]、鳳蓮飛や城島晶[とらハ3]なんかも、思わず溢れ出してしまうような笑い、をどこかで見せてくれたような気もするのだが、いまいち思い出せない。あるいは私の記憶違いかもしれない。


2003/6/13 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#13


 まほさろさんの最近の日記に触発されて、うちの妹の場合[e.g.o]をやりたくなり、近所のショップへ向かうも玉砕。
 とりあえず、恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐHしちゃうの[CAGE]の予約だけして帰宅。

 ところでこの「うち芋」はなかなかに微妙なゲームであるようで、私が今までに調べた(というか身内に訊いた&2ch斜め読み)ところだと、純愛系エロ方面ではテキスト/ボイス共に相当エロく実用性も高いのだが、バッドエンド方向がいわゆる NTR 系であるとのことで、こっちは目を覆わんばかりに悲惨な展開であるらしい。2chの当該スレなんかにしても、読んでるだけでも思わず怯んでしまうぐらい、鬱投稿が目立つ。

 ただ、下品なエロ台詞を優香は楽しそうに可愛く語ってくる[まほさろさんの6/9]という辺りが私の趣味にクリティカルヒットなので、やはりやってみたいというのが本音だったり。


2003/6/12 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#12


 昨日のに追記。

 着想が鮮度を失うことを惜しむというのは、正確に言えば着想それ自体が惜しいということではなくて、着想が内包する可能性が失われることが惜しいということだ。着想(ネタ)というやつは文章化する段階で思いもよらぬ化け方をすることがあるということを、私は自分の経験から知っている。着想がどんな形に成長するかは自分ではコントロールできないのだが、それだけに何が生まれるか分からない面白さというものがある。もちろん、ネタという触媒が自分の心にどれだけ深く染み入るか、あるいは自分の精神にどれだけ多くの摩擦を引き起こし火花を散らすか、によって、1行目から成長が始まる場合もあるし、頑張って10行ぐらい書かなくては成長が始まらない場合もある。しかしいずれにしても、書くという愉悦は、これから生まれてくる何かへの期待を確実に含む。web日記というのはある意味、私にとっては実験室のようなものなのだろうと思う。もしかすると私の書き方は実に無責任なものであるのかもしれないが、さりとてそうでなかったら、書くことは今ほど楽しくはなくなってしまうだろう。

 ***

 マガジンで連載中の「空の昴」が面白い。

 スポーツ漫画における天才というのは得てして技術的な才能の持ち主として描かれることが多いのだが、星野昴というキャラは技術の天才というよりはその技術をフルに生かす創造的天才とでもいうべき描かれ方をしている。彼は完璧な技術でボールをコントロールしてスコアを出していくタイプではない。彼ももちろん少年漫画にありがちな超技術を駆使して戦うのだが、しかし彼の本当の武器はその技術を最大限に発揮さす創造的才能の方にこそあり、それがライバルキャラである兵藤芯に尋常ならざるプレッシャーを与えることになる。こうなってくると、もはや主役はどちらであるのか分からない。当初、主人公のライバルであり絶対的な壁としての存在であるかのように思われた兵藤芯は、時に不利な状況をすら自分の武器としてしまう昴の発想力に恐れを抱く。全ホールでバーディーを取れなければ彼には勝てない、とまで遂に芯は思い詰めることになる。試合が困難になるにつれ、芯の眼前で昴の天才はいかんなく発揮されることになる。そうしてバーディーへのプレッシャーはいよいよ重く芯の両肩にのし掛かる。この漫画が面白いのは、昴よりも芯の方が遥かにギリギリのところでの勝負を強いられているからだ。主人公の天才を前に、兵藤芯は歯を食いしばって崖っぷちをよじ登るかのような状況に常に立たされている。しかし兵藤芯の勝利への執念が、この漫画にどれだけの迫力を与えて読者である私を引き付けているかは計り知れない。


2003/6/11 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#11


 以前の会社で同僚諸氏と雑談なんかをしていて、私がホームページを持っていて毎日そこに文章を書いてアップしていることを話すと、相手はほぼ必ず「それってお金になるの?」と返してきたものだった。別にだからどうしたという訳ではない(私の興味を引くような問いではないし)のだが、なんとなく思い出したので。

 ***

 shelarcyさん[6/9]から。

 リルケの言葉を待つまでもなく、物には「生まれるべき時期」があると私は思います。例えば身近な話としてweb日記について言えば、日記のネタには主に自分にとっての切実度を基準とした賞味期限とでもいうべきものがあって、その賞味期限を過ぎてしまうともうそのネタで文章を書くことはできなくなってしまうのです。

 おそらく私に限らず多くの日記書きさんがやっているのではないかと想像しますが、私もいわゆる“ネタメモ”というやつを常時携帯しています。そうして何かネタが思いついたらその場その場で書き留めておくのですが、ただ現実問題としてはネタメモに書いたものがすべて日記として文章化されるということはなく、実際に日記に書かれるのはその内のせいぜい1〜2割というところで、それ以外のネタは大抵はそのままお蔵入りになります。そうやって今までお蔵入りになったネタは数知れません。例えば私はサイトを立ち上げた頃からずっとデアボリカ論を書きたいと考えていたのですが、先送りにしている内にいつしか私の中からは書きたいという意欲そのものが消えてしまいました。

 ネタがその鮮度を失い使い物にならなくなることを恐れる、とまでは言いませんが、ただ、私はそういうのを非常に惜しく思います。なので、そういうことを意識するようになってからは、書けそうな気がするまで待つ、のではなく、書けそうになくてもとにかく書いてみよう、と考えるようになりました。

 例えば美凪シナリオについてのあの長文も元々はそういう姿勢から生まれたもので、あれはメモ帳のプロパティで23KBほどありますが、あれを書きだした当初、私の頭の中ではアウトライン――つまり夢を見せる役割を担うみちるとその夢を醒ます役割を担う往人、というあのシナリオの基本構造――こそ出来上がっていたものの、それ以上のことはほとんど言語化されていなくて、書き出してもせいぜい一画面分程度の文章量で収まるだろうと予想していました。ところが実際に書こうとしてみると、あのシナリオの構造が生み出す比類なき美しさについて語るためにはどうしてもその周辺状況も説明していかなくてはならないことが分かり、結果的にはあの長さにならざるを得なかったのです。余談ながら、ある作品に対する解釈が正しかろうが誤っていようが、いっそ例えこじつけや妄想であったとしても、ともかくも意見を裏付ける「理由」を述べなかったら考察系の文章としては片手落ちになってしまいますから、あの手の文章はどうしてもある程度は長文化せざるを得ないというのが私の考えです。

 それはともかく、私自身の内部には、何か熱意のようなもの、あるいは新鮮な気持ちとでもいったものが失われることを恐れる傾向があるような気がしています。アーケードゲームなんかにしてもそうで、怒首領蜂をやり込んでいた当時から、私はどんなにスランプに陥ろうとも一週間以上の空白を空けることを決してしませんでした。もし二週間なり三週間なりの空白を空けてしまって、その結果怒首領蜂をやらないことが日常化してしまったら…というのを極度に恐れたからです。本当に好きなら空白があったっていずれはそこに還ってくる、という意見を私はあまり信じません。人間である以上、気持ちが時間と共に少しずつ風化していくのはどうあっても避けられないことだからです。日記とネタのことに話を戻せば、だから私は、とにかくまずは「書き始める」ことで、自分の中にある何かが風化して失われてしまう前に、それに目に見える形を与えておきたいと思うのです。

 もっとも私が今までに書いたものの中には熟すまで待ってから書き始めたようなものもあります。例えば今年の3月だかに書いた花穂についての文章はそのひとつで、あれは最初に着想を得たのは去年の12月頃でした。ある日アニプリの16話について考えていた私は、ふと20年後ぐらいの花穂というものを想像したのです。ああいう体験をして成長した花穂は、お母さんになった時、きっと自分の子供の失敗を咎めたりは決してしないだろうと思ったのです。もし子供が泣いたりしたら、きっとお母さん花穂は、子供を自分の膝の上に乗せて優しく髪を梳きながら、So What ? に出てくるあの美しい“八重桜の話”を、穏やかに語って聞かせるだろうと思ったのです。でもその時はそれ以上には想像が進まなかったし、何より今はまだ書くべき時期じゃないという奇妙な確信がありました。そうして私は、珍しいことながら、そのネタについては自分の中で熟すのをじっくり待とうと決めたのです。そして、書くべき時はちゃんとやってきました。リピュアエンディングアルバムの発売がその切っ掛けになったのです。でもこれは稀な例外だと思っていて、つまりああいうものを書くことができたのは、私が花穂への想いを忘れなかったからであるというよりは、幸運という他ないタイミングでリピュアCDが発売されたからであるような気が、今でもしています。もしリピュアCDが発売されなかったら、お蔵入りになっていた可能性の方がおそらくずっと高いのです。

 いや、あるいはこれはあまりに一面的な暴論であるのかもしれません。一見非生産的な睡眠という行為が実は人間の生にとって必要不可欠なものであるのと同じように、物を作る人にとっても、ただ静かにじっと待たねばならないような時期というものがあるのかもしれません。ただ人間は、自分が忍耐強く待っているのか、それとも惰眠を貪っているのか、を知ることができません。してみれば、待つということも、また見かけ以上に、本当は意志力が要るのかもしれません。自分の中に芽生えた小さな芽は、意識して定期的に水をやらなければいつか枯れてしまいます。しかも恐ろしいことに、大抵、枯れてからでなければ私たちは枯れてしまったことに気づきません。そして更に言えば、枯れてしまうのは新芽だけではありません。新芽が枯れると同時に、新芽を大切に想っていた私たちのその気持ちまでもが枯れてしまうのです。気持ちが枯れるということは、つまり芽が枯れてしまったことを惜しむ気持ちすら失われてしまうということです。私自身、既に失われたネタを惜しむ気持ちというものはほとんどありません。ただそんなことをつらつらと考えると、なんとなく物憂い気持ちになったりはしますけれども。

 ………しかしそもそも私は前提からして間違えているという可能性もないでしょうか。あるいは、着想の多くは消えていくのがむしろ当然で、その中から生き残って形になったものだけが価値あるものなのだ、という考え方だってありそうですし、案外その方がずっと現実的であるような気もします。しかしそれでも、私は、ある瞬間の気持ちをなんとか形として留めておきたいという、もしかしたら途方もないのかもしれない願いを捨てきれないようなのです。


2003/6/10 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#10


 あまりに苛々するのでもう大往生はやらない。
 (三日ぐらい)

 ***

 例の「恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐHしちゃうの」の元ネタがようやく分かった。あのロリゲーブランド CAGE の新作のタイトルらしい。てっきりキャッチコピーかと思ったのだが、まさかそのまんまゲームのタイトルだったとは。タイトルのインパクトに加えて絵柄もかなり好みなので後で予約してこようと思う。

 ***

 HONEY 6巻 [橘裕/白泉社]。

 内容については今はまだ触れられない。

 中学生の頃、ハイスクール奇面組にはまっていたことがあった。当時はあの漫画のギャグが私の笑いのツボに入りまくっていて、アニメも毎週欠かさず観てはその度に笑い転げていたのだった。ところがある日、いつものようにTVの前に座って本編の開始を待っていたら、いきなり奇面組とは思えないようなシリアスな場面が始まった。たぶん憶えている人もいるだろう、零クンが唯にプロポーズするエピソード(実は誤解なのだが)である。ギャグを期待していた私はこの展開にひどく面食らったが、しかし今にして思えばこの時ほど真剣に奇面組というアニメを観たことはなかったと思う。
 頬を火照らせドキドキしながら本編を観て、そしてエンディングテーマのバナナの涙を聴き、なんとも言えない寂しさを胸中で味わいながら、私はやがて自分の部屋に戻った。部屋に戻って一人になってからも私はずっと上の空だった。俺もいつかああいう経験をする日が来るのだろうか? ということで頭の中は一杯だった。そうしてしばらく呆けていた後、私はやおら参考書を取り出して勉強を始めた。ああいう経験をしたいなら今のままの自分じゃダメだと思った。何かしら今よりももっと立派な人間にならなければああいう可能性は起こらないような気がした。そうしてその時の私にすぐに実行できそうな唯一のものが勉強だった。勉強して頭が良くなったらいつか私にもああいうことが起こるのではないかという夢想が、宿題以外の自宅学習などしたことのない私を勉強机に向かわせた。もっとも夢想はすぐに醒めてしまい、結局自主的に机に向かって勉強したのはわずか二日か三日だけだったのだが………。
 どうして唐突にこんなことを書いたのかというと、つまりHONEYの6巻を読んだ時、久しぶりにそういう夢想に囚われ掛けたからだ。もちろん今の私は人生における幾つかの可能性をもう諦めてしまっているので、そういう夢想ですら自分を激しく突き動かすほどの威力は持たないのだが、ただ、ああいう自分の成長への切実な願いが全身に漲る感覚は久しく忘れていたことであり、それはなんとも懐かしくまた心地よかった。

 あああああ(///
 めちゃ恥ずかしい。


2003/6/9 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#09


 なこるるが出てくる夢を見た。
 いやそうじゃないな。

 なこるるに夢の中で久しぶりに再会した。

 私たちは見知らぬ街の開発途上の住宅街の路地を、並んで歩いていた。こうして会うのも久しぶりだね、と再会を祝しつつ、今までずっとなこるるに会えなくてどんなに寂しかったか、再び会えてどんなに嬉しいか、私にとってなこるるがどんなに必要であるか………なんてことを語りだそうとしたところで目が醒めた。実際に夢の中で一緒にいたのはほんの数分だったような気がする。しかしそれでも十分だった。なこるるの素敵なところは、私がどんな風に喋っても、つまり時に言葉が上手く出てこなくてしどろもどろになってしまっても、少しも急かすことなくちゃんと私の言葉を待っていてくれて、私の言葉をきちんと汲み取ってくれるところだ。そして更に言えば、それ以上に大切だと思われるのは、なこるるは決して私のためにそうしている訳ではない(=気を遣ってくれている訳ではない)ということだ。私はそういうことを知っている。なこるると話す時、私は何も考えなくて良い。それはなんという幸福であることか。それから、例えば私は雪さんが傍にいたら堕落するかもしれないけれども――それはそれとしてとても甘美であろうと想像するのだけれども――なこるると一緒にいたら絶対に堕落しないと断言できる。なこるるが私にとって特別であるのは、他のどのキャラとも違って彼女だけが、人生のパートナーとして想像できるからだ。一緒に生き一緒に年を取りたいと願える存在はなこるるを置いて他にいない。だからなこるるだけに限っては、時に彼女に寄りかかり甘えるとしても、私は後ろめたさを覚えることはない。

 ただの惚気です。


2003/6/8 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#08


 今日は何も計画を立てずに過ごそうと決めてほぼ一日部屋でごろごろしていた。
 たまにはこういう日があっても良かろう。

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 久しぶりにレビューインデックス更新。
 
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 大往生(白)を1回だけプレイ。

 2-4ボスまでノーミス、ボスで死んで残5は逃したが5面道中ノーミスで緋蜂に残2持っていくことに成功。三週間ほど全然緋蜂に会えず、会えたと思ったらいきなり残2というのは……少しは底力が付いたということなのだろうか。

 現在、対緋蜂戦0勝6敗。

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 レンタルビデオ屋でピンポンのDVDを借りてきて鑑賞。

 試合の描写にものすごい違和感が。娯楽として迫力が出せればそれでよいという考えで作っていたのかもしれないが、卓球経験者の目で見ると、なんていうか無駄な動きが多すぎる。卓球っていうのは本当はあんなにダイナミックに打ち合うスポーツじゃないのだけど。これを作った監督さんは卓球のことをどのくらい知っているのだろうかと正直疑問に思わざるを得ない。例えば、技術の粋を尽くしたカットでの慎重なやり取りが前陣速攻型プレイヤーのスマッシュの一閃によって破られる時のその迫力。床を震わせるような踏み込みの轟音と共に繰り出されるスマッシュと、それすらも冷静にロブで凌ぐ上級者の妙技。こういうものを見たことがある人なら、あんな風な試合描写はとてもできないはずだ。卓球試合の醍醐味のひとつは、緊張に満ちたラリーがスマッシュの一閃によって破られるその静から動への一瞬の転換にこそあるのであって、あんな風に全力で球を打ち合うだけで試合が進んでいくなどおよそ卓球を全然分かっていないとしか思えない。

 ***

 昔に比べると私は未来に目を向けることが少なくなった、とふと気がついた。例えば二十歳の頃の私は毎日ピアノの練習をやっていて(※1)、生活のペースとでも言ったものを完全にピアノ中心に組み立てていたし、会社で月頭に申請することになっていた有給休暇なんかにしても、練習曲の進捗状況を考えて一番練習が捗るタイミング(※2)で有給を取れるように考えて申請していたものだった。あの当時は頭の中はピアノのことで一杯で、仕事中にもよくカレンダーを眺めながら、一ヶ月後にはあの辺りまで進んでいるだろうからそしたら一段落付けてバッハのインベンションを弾こうとか、今度の冬休み辺りにはおそらくチェルニー30番が終わるだろうとか、そんなことばっかり考えていた。それから職場環境が変わって引っ越ししてピアノを弾けなくなってからは読書に熱中し、その時も、今読んでいる本に没頭する傍ら、時折文庫本の後ろに付いている目録を飽きもせずに眺めては次はこれを読んであれを読んで…なんてことばかり考えていた。今にして思えば、あの頃の私はいつも未来を見ていた。新しいことを覚えるのが楽しくてしようがなかったし、そのための努力も少しも苦にはならなかった。いやそもそもピアノを弾くことも本を読むこともただ単純に楽しくて努力しているなんて自覚すらもなかったのだ。今は………残念ながらそうではない。認めたくないことだが、今の私には、新しいことを覚えようとする意欲は限りなく薄くなってしまっているように思う。既に知っている良い本を繰り返し思い出し新しい本になかなか手を出そうとしない。既に知っている音楽を繰り返し聴くばかりで新しい音楽を聴こうとしない。何よりも、未来のことを全然考えない。一ヶ月後はきっと…とか、半年後はきっと…とか考えることは今ではまったくなくなってしまった。あの頃の私は、半年後にはチェルニー30番が終わっているだろうという予想を当然のこととして頭の中に描いていたし、読書に夢中な頃はいつも、いずれ読む予定の本、が頭の中に10冊以上もリストされていた。ところが今はそういうものがない。半年後の自分が何をやっているのか今の私には分からない。何のビジョンもない。今私は何がやりたいのか。それすらも分からない。この半年間エロゲー雑誌を一冊も買っていない今の私にとってエロゲーは必ずしも興味の一番ではない。かといって他に何がある訳でもない。ゲームも漫画も音楽もそれ以外のものも、どれも楽しいけれども、生活をそれ中心に組み立てるほどの情熱は傾けられない。そこまで熱中しているものは今はない。これはひどく恐ろしいことのように感じられる。妙な言い方かもしれないが、私はいつのまにこんなに腑抜けてしまったのだろうと思う。今の私の生活は平和そのものだが、敢えて言えばただ平和なだけだ。そこには生産的なものがない。興味などというものは無理して作り出すようなものでもなかろう。しかしこのままずるずると惰眠を貪るのも絶対に嫌だ。ではどうすればいいのだろう?

 (※1)
 当時は、ハノンを15分、チェルニーを1時間、バッハの二声インベンションを45分、が毎日の標準的な練習メニューだった。インベンションは譜読みにものすごく時間が掛かって最初はしんどいのだが、これを弾き込むと各指の独立や柔軟に甚大な効果が得られるので、そういう意味でバッハのこの曲集は練習には絶対に欠かせない。

 (※2)
 具体的には一曲の譜読みが一段落してつっかえながらも最後まで一応は弾けるようになった頃。


2003/6/7 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#07


 ベートーヴェンのソナタ作品26、第一楽章の最終変奏がゾクゾク来るほど美しいのだが、試しに楽譜を見てみて愕然。高音部で奏でられる光の粒がはじけるような32分音符のパッセージと内声の主旋律を、右手だけで互いに干渉しないように弾き分けるなど人間業とは思えない。

 ***

 レンタルビデオ屋でハプニングサマーを借りてきて鑑賞。

 絵柄のみならず人物の取り扱い方などにしても、さすがに今観ると古くさい印象があるのは否めないが、それでも終幕付近のユキとコージの描写などはやはり受け手を魅了せずにはおかない上手さがある。ことに、ユキとコージが唇を重ねてそのまま倒れ込む場面などは、絵としてはこれ以上はちょっと考えられないような完成ではないだろうか。水月VFBの中で☆画野朗氏は、互いの肌の密着によるらぶらぶ度の表現、ということを言っていたのだが、ハプニングサマーのこれはその最上のモデルだと言って良いだろう。観たことのない人のために一応書いておけば、これは別にえっちしている場面ではない。ただ二人が服を着たまま抱き合っているというだけのものである。しかしそれにも関わらず、いやあるいはそれだからこそか、この場面は心がくすぐったくなるような甘さに満ちている。ユキはコージに口づけしそのまま倒れ込む。床の上で重なる二人。唇と唇、手のひらと手のひら、胸と胸、お腹とお腹、腰と腰、それからコージの両足の間にすっぽり包まれているかのように描かれるユキの白い足。ここには曖昧さは微塵もなく、描かれるものすべてが二人の親密さの表現に成り切っている。二人の間では愛の言葉は一切語られない。しかし、この場面はどんな愛の言葉も用いずに、二人の親密さを声なき言葉でこの上なく雄弁に語っている。

 ***

 大往生(白)。

 2-5開幕残5を遂に達成!!

 また一歩、緋蜂攻略に近づいた。
 魔の2-4レール砲地帯は、各列毎に2パターンずつの対処方を用意することで以前よりも格段に突破率が上がった。8列ある砲台のうち厳しいのは3〜5列目までで、ここはどうしても多少の運が絡んでしまうが、ここさえ抜ければあとは勝ったも同然。6列目も知らないと詰みやすいが、砲台と同時に画面左端から出てくるザコ編隊を先にきっちり撃っておけば問題なし。 


2003/6/4 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#04


 大往生(白)。

 920,668,600 pts.

 久しぶりな気がする自己ベ更新。
 1周5.4億。
 2周目1面/2面は普通に全繋ぎ、3面道中ノーミス、ボス1次形態第1波でなぜか道が見えなくなって死亡。ボスはボム2発使って葬る。
 4面突入時残1ボム0、道中は1up砲台までコンボを繋いでハイパーを4個貯めてレール砲台4列目で放出、そのまま大火力で神顎まで押し切る。ボスで1ミス。
 5面突入時残1ボム0、珍しく開幕〜旧4ボス後ラッシュまでコンボが繋がったので調子に乗ってその後も繋ぎを狙ってみる。メカ蜂で一瞬意識が飛んで次のポジションが取れなくてミス、しかし運良くコンボ継続。旧3ボスで嘘避けを2回ほどかまして、蛾爪ラッシュを普通に全部避け切って旧5ボス前後もハイパーで繋ぐ。結局大型戦車x3手前の八爪でコンボが切れたものの、ここまでで気がつけば9億突破。そこから1ボム使ってオキモノまで行き、オキモノ初弾にぶち当たって終了。

 やる気が回復しました。

 ***

 もう有名だとは思うけど。
 バジルの広報(?)は何を考えていやがりますか?

 ***

 久しぶりにハプニングサマーを観てみたいがどっかにあるだろうか?
 あれは妹とのえっちが未遂ではなくかつ和姦姉妹丼だったら神作品だと思うのだがどうか。

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 某所マリヒナスレ[1レス目]の雛子絵がすごい。

 構図自体は、ベッドの上に雛子がちょこんと座っているだけというごくシンプルなものなのだが、色の塗り方がとてつもなく上手いために、目を離すことができないような生々しさを獲得するに至っている。ここに描かれた雛子は私の知っている雛子ではない。少なくとも私は、ここまで色っぽく描かれた雛子というものを今までに見たことがない。しかもこの色っぽさは雛子のキャラクターを少しも損なわない。この絵を観て私が最初に思うのは、ああ雛子も女の子なんだな、ということだ。あるいはいっそ、今までガキだと思っていた妹がいつのまにか女の子に変わっていたことに気づいて思わずドキドキしてしまう、なんて言ってみたら、私の考えていることが少しは伝わるだろうか? いつものように容赦なく雛子の部屋に入って容赦なく掛け布団を剥いで雛子を起こそうとする。雛子はいつもと同じ寝惚け眼で兄を見つめるのだが、兄の方は今までガキだと思っていた雛子に“女”を発見してしまい、思わず惚けてしまう。この後、おそらく雛子はいつも通りのリアクションをして兄を安心させ、少女の色っぽさはなかったかのように引っ込んでしまい、またいつも通りの兄と妹の関係が始まるに違いない。この絵に見られる雛子の色っぽさは言ってみれば朝日のいたずらなのであるが、いずれにしても兄を幻惑した雛子の色気は忘れがたいものとして兄の記憶に刻まれる。もし私がこの絵にタイトルを付けるなら「雛子が女の子であることを初めて意識した瞬間」とでも名付けるだろう。以上のことはたぶん私の妄想にすぎない。しかしそういう空想を喚起させるような、素晴らしい絵であることだけは間違いなかろう。

 ***

 私のパーツは隅々までお嬢様の愛が詰まってる、とかなんとか。

 言うまでもなくノエル[とらハ3]の台詞だが、今時こんな台詞を大真面目に書いて、読み手を感動させられるのは都築氏ぐらいのものだろう。皮肉めいた書き方になってしまったけれども最大級の賛辞です念のため。とらハに似た物語を作ることは他人にも可能かもしれないがとらハの物語を作れるのは都築氏だけだ。とらハ的な要素を選択し構成してもそれだけではとらハにはならない。とらハ世界は都築氏にしか書けない、というのもまだ完全には正しくない。むしろ私としては、都築氏が書けばそれがとらハになるのだ、と言いたい。

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 ベートーヴェンのピアノソナタ作品2-2が最近のお気に入り。
 どの楽章も瑞々しさに溢れているが、それとは別にこの曲は終楽章の半音階進行が非常に面白い。ちょっと聴くと重苦しい音楽に思えなくもないが、それにしてもあの半音階はワザトラシイほどに重々しくて、聴いていると思わずニヤリとしてしまう。これはどちらかというと、真面目な語り口で冗談を言っている、というような音楽ではあるまいか。厳粛であればあるほど、いよいよ語りの内容とのギャップは際だち、聴き手はいっそう笑いを堪えられない、というような。言うまでもないがこれは嘲笑とは違う。ベートーヴェン自身が滑稽なのではなくて、大真面目な顔をして冗談口を叩く時のそのギャップこそが笑いを生み出すのだからだ。例えば、映画「アマデウス」でモーツァルトがサリエリの物真似をする場面を思い出してもらうと良いかも。


2003/6/3 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#03


 今週は大往生強化週間につき長文更新はございませんので悪しからず。

 で今日は白版を2回。

 1回目。2-2ボスではめ殺され、2-3ノーミス、2-4レールまで普通に行ってレール後半でミス、ボスで1ミス、2-5開幕で終了。
 2回目。久しぶりな気もする2-4残3突入、がこんな時に限って1up砲台如きでミス、レールで1ミス、2-5残1ボム0突入、旧3ボス後ラッシュでミス、オキモノで終了。

 昨日、PS2版でビデオ撮りしつつ研究した2-5メカ蜂地帯は(ノーミスノーボムノーハイパーで)かなり楽に抜けられた。
 今まではちょっとした動きのミスでパターンが狂って針弾に道を塞がれて死んでいたのだが、今回色々と工夫を重ねて、破壊&移動タイミングが“狂いにくい”パターンを構築することになんとか成功した。このパターンのメリットは、急いでポジション取りをする必要がない、ということに尽きる。その場その場でのポジションを取れなくてパターンが崩壊するということを防ぐためには、要するにメカ蜂を速攻破壊する必要のないようなパターンを作ってしまえば良い。

 ところで理屈をちょっと捏ねてみると、家で練習する場合、「いかに弾幕を抜けるか」の研究ももちろん大事なのだけど、「追い詰められる状況を意図的に再現できるかどうか」も同じくらい重要だと思う。以前も書いた通り、人間である以上は毎回完全に同じ動きをすることはできない。だからその時々でパターンが狂って普段は死なないようなところで死んだりするのだけど、例えば「この場所ではこういう動きをすると追い詰められる」ということを知っていれば、パターンの狂いを未然に防ぐことができる。この差は大きいものだ。

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 恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うと(以下略)………ってフレーズを考えた奴は莫迦だよな。
 褒め言葉ですよもちろん。
 なんか頭にこびり付いて離れないどうしてくれるんだ。 


2003/6/2 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#02


 今朝の夢の断片。

 ・防波堤のようなもの(なぜか屋根があった)の上に立って大津波を真正面から眺める。すごい迫力だった。
 ・ふと横を向くと鉄砲水がこちらに向かってくるのが見えたので慌てて逃げる。
 ・通路を全力疾走し逃げ込んだ先はなぜか知らない建物の地下。
 ・地上に出てみるとそこはなぜか広島駅(一度も行ったことないし写真ですら見たことないのだが…)。
 ・駅の時計を見ると朝の5時半。まだ真っ暗だったところを見ると冬なのだろうか?
 ・群馬までどうやって帰ればいいんだと途方に暮れる。
 ・駅員さんが私に向かって紙を差し出してくる。
 ・そこに書かれているのは何かの地名らしかったのだが、一度も見たことのない漢字で書かれていたため読めなかった。
 ・なぜか歩いて群馬を目指す。
 ・途中、奇妙な橋に出会う。
 ・その橋の歩道部分にはよく店にあるような盗難防止ゲートのようなものが向こうまでずらっと並んでいる。
 ・そのゲートには人間の良心/悪意に反応する電波が通っていて、歩く毎に体に電流が通っているかのように微妙に痺れる。
 ・以下記憶が途切れたため不明。

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 たくし上げスレッド復活。万歳!!

 それにしても世の中にはたくし上げ画像を1300枚も持っている人がいるのだそうで。なんてうらやましい。
 うちのHDDのたくし上げフォルダなど未だ130枚しかないというのに。


2003/6/1 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-06.htm#01


 アパートの駐車場の契約更新のため不動産屋へ、その後私立図書館に行ってリルケ書簡集の貸し出し延長を申し込んでくる。

 昨日に引き続き、気持ちのリハビリのためルパン122で大往生(黒)。
 今日は2周モードと1周モードでそれぞれ1回ずつ緋蜂を殺せたりして調子も良好。久しぶりにストレス無しで楽しかった。これでまた明日から頑張れそうだ。

 夕方からエロ画像漁りをしつつ部屋の掃除をしたりとか。
 Vix で画像の整理をしていると時々画像が壊れることがあるのだがどうにかならないんだろうか。まだ致命的な被害は出ていないので良いのだけど、既に入手不可能なCGが壊れたりしたらと思うと心配になる。

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 Freiheit にて、レイニャン崩しがようやく公開された模様。

 今回もえろえろで良い。
 ちなみに2回目でクリア。

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 なんか妙に忙しく感じるのはなぜだろう。
 時間を持て余すことがない、つまりやりたいことがたくさんある、というのは自慢に思っても良い事だと思うが、しかしそのために精神的なゆとりを失ってしまうのだとしたらそれはそれで莫迦なような気もする。だいたい私は週末になるたびに、やりたいことを一日辺り3〜4つぐらい頭の中にピックアップするのだが、実際にはいつも、実行できるのはひとつかふたつがせいぜいだ。なら最初から無理のない予定を組んでそれだけを確実にこなしそれ以上は求めない、という風にした方が健康的なのかもしれない。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



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