鬱と電波と萌えな日記



はじめに.

 書いてる人(しのぶ)は基本的に情緒不安定な人ですので、日によって鬱な内容だったり毒電波が混入してたり下品な文章になったりすることがあります。合わないと感じましたら、読むのをお止めになることをお薦めします。

 日記内では、ゲームや漫画等のネタバレがしばしば含まれています。ネタバレ時は赤字にてその都度注意書きを加えますが、忘れることもあります。その旨予めご了承ください。


過去ログ
   1999年 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2000年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2001年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

2001/5/31 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#31


 今日の日記は読むと120%後悔することをお約束します。


 二日振りの出社。
 家でごろごろしてるよりも、会社で仕事したり同僚と談笑してたりする方が精神的には楽かもしれない。

 いやー、普段だったら絶対、家 >>>>>>>>>> 会社なんですけどね(笑)。今回はまだ風邪が抜け切ってなくて頭が重くて、ただでさえ低速な思考回路が半停止状態でして。頭が動かないんだったら、会社で莫迦笑いしてた方がナンボかマシってもんです。ええ。憂鬱になる暇がないってのも良いし。


 風邪薬(粉タイプ)を飲み出して三日目。
 なんか最近、風邪薬の苦さが微妙に美味しく感じる。もしかしてこれが、エロ漫画等によくある、『口ではなんだかんだ言ってても体は正直だなぁ奥さん?』現象でしょうか?


 黒須さんがクドリャフカで188万を叩き出した模様。私から見るとこの時点で既に『にんげんわざとちがうのだー(by猫娘/とらハ2)』てな感じですが。どこまでいくんでしょう。


 日記のタイトルを『自己愛日記』もしくは『ナルシズム日記』に変えようかなぁとか思ったり思わなかったり。嘘ですけど。やっぱほら、天然より強いものはありませんし。わざわざ宣言しちゃダメでしょう。…アレ?


 無駄に頭がハイになってる。読むだけ時間の無駄日記。もうちょっと続きます。


 うちの日記。ちょっと前に集計した時は1日約130アクセスあった訳だけど、私が、多分この人は読んでくれているだろうって人の名前を片っ端から挙げていっても、せいぜい多くて20人ぐらいなんですよね。で、問題は残りの100HIT分なんですが。イタイ物見たさで読んでるんじゃありませんよね?違いますよね?お願いそうだと言って。こう個人サイトをひそーりとやってると、つい、思考がマイナスになる時がありまして。ここに痛いサイトがあるぜー。笑え!!(byエンヤ婆)。ギャハハハハハ(by死体大勢)…とか。

 ところで『死体』って書くとなんか嫌な雰囲気ですが、『姿態』と書くとなんか色っぽくていいですね。更に『慕い』とか書くとこれはかなり良いです。お慕い申し上げます、とか。言われてみてぇ。初恋もまだで、自分の抱いている感情がなんなのか分からずに戸惑っている女子中学生が、こう、全身の力を振り絞って、勇気を出して、言うんです。…お慕い申し上げます。うわーすげえ不自然。いいんです、舞台は大正時代なんですから。今決まりました。で、大正時代といったら当然、袴、ですよね。反論は認めません。大正時代と言われて袴をすぐに連想できないような不良読者はお帰りください。あああ嘘ですごめんなさい。それはともかく袴萌え。舞台はやっぱオーソドックスに、桜の舞う校庭とかで。あれ、この頃は男女七歳にして〜とか阿呆なことが真顔で言われてた時代でしたっけ? ではこうしましょう。主人公…いやむしろ俺、もとい僕、に逢いたいという想いが募るあまり、もう世間体のことなんか完全に忘れちゃうんです。ただ、逢いたい、という想いだけがあって。一生懸命走ってくるんです。独り、桜の木を見上げながら、散る花びらの儚さに感じ入っている僕のところに。で、近づいてくる足音で我に返った僕はくるりと振り向くわけですが。振り向くと、そこに、あの時の(いつどこでとか聞くな)女の子が立ってるんですよ。いつか見た時の儚げな様子はどこにもなくて、額にほのかに汗を浮かべながら肩でハーハー息をしている元気な女の子が。僕はすぐに、ああ、あの時の娘か、と気づくので、やあ、とにっこり笑い掛けるんです。桜の木を背景に。ところが、女の子は僕の笑顔をみた瞬間、それまで言おうとしていたことを全部忘れちゃうんです。いわゆる、頭が真っ白になっちゃうっていう状態ですね。で、しどろもどろになって、話し掛けようとするんだけどやっぱり上手くいかなくて。でも僕は気の利く青年ですから、その辺りを察して、会話の糸口を作ってあげるんです。…桜、一緒に見ない? とかなんとか。切っ掛けは割となんだっていいんです。要は、彼女が心を落ち着けるための時間を用意できれば良いのですから。それからしばらく、ふたりで桜をぼーっと眺めながら、たまに、一言二言、言葉を交わして。ふたりだけの時間が、ゆるやかに流れていくわけです。んで、どのくらいの時間が流れたのか分からなくなった頃、ふと、彼女が、言うんです。僕の目を、どこか遠慮がちに見ながら。ありったけの勇気を込めて。

 …ずっと、お慕いしておりました。










 …すいません、逝ってきます。
 自分が信じられなくなってきましたよ私は。


2001/5/30 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#30


 風邪ひき中。だるだる。
 予定外欠勤やったのはかれこれ4年ぶりか。

 とりあえず、看病してくれる女子中学生募集中、とか言ってみる。メイド服着用で。なければ体操服でも可。←何様?

 誰か、風邪薬(カプセル)を口移しで飲ませてくれ。(弱々しい叫び)


 『銀のロマンティック…わはは』がベストと思う(とくそんさん・5/22)

 22日の日記は『甲子園の空に笑え』を思い出しながら書いてました。だからなんだというわけでもないのですが。川原キャラの笑顔ということですぐに思いつくのというと、私的には『甲子園〜』か『銀のロマンティック〜』辺りなのですが、いずれにしても、彼らが笑うのは幸せだからではないなぁという印象は以前から持っていまして。

 −だって本人たちにもわけがわかんないのである
 わかんないから笑ってゴマカそーとしたのである


 川原キャラはなんで笑うか、ということで私がまっさきに思いつくのは、『笑うミカエル』のこの台詞で。作者御本人がどういうお人柄なのかは私には知る由もありませんが、ただ、作中のキャラの態度は、人生は結局なるようにしかならないとでもいった達観(諦観ではなく)であるように見えるのです。これは言い方を変えれば、ニーチェ的な、自分の人生に ja を言う姿勢なのかもしれません。どうにもならないのなら、せいぜい笑ってやれ、というか。これはおそらく、自暴自棄ではなくて、生を全力で肯定するための笑い、でしょう。あまりに板についているので、彼らの笑顔はノーテンキにも見えてしまうのですが…。

 あと、関連リンクとしてこの辺りとか。
 ツァラトゥストラ、もう1回ぐらい読み直したいなぁ。や、独り言ですが。


 ボクらがここにいる不思議 [流星ひかる/GUM_COMICS/ワニブックス]
 半分少女 [流星ひかる/WORLD_コミックス_SPCIAL/久保書店]

 だいぶ前に買って積んでおいたのを今更ながら引っ張り出してみる。うーむ。こういうの、好きな人はものすごく好きだと思うのだけど、ジジイになっちまった私にはなんか付いていけない。加奈をプレイした時と同じことを今回も感じたんだけど、10年前の俺だったら絶対ドハマリしてた。でも、今の俺にはダメ。


 28日の日記の訂正。(×)ポルナレフ。(○)アブドゥル。


2001/5/28 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#28


 おまけの小林くん(LaLa)を読んで微妙に落ち込んでいる状態のまま、シューマンのピアノ協奏曲を聴いてしまう。なんか追加ダメージを食った気分。この曲の終楽章を聴いていると、なんか無性に人恋しくなるんですよ。


 さんさんさん [柳原望/白泉社/花とゆめ]

 表題作ももちろん良いのだけど、同時収録の『ユカシ、コノヨル』『ユカシキママニ』がすごく良い。旅立ちの朝、というか、人が、新しい世界に一歩を踏み出す時の、あの凛とした空気がここにはある。住み慣れた家から出る。戸口に立って扉を開ける。外の空気がぶわっと飛び込んでくる。妙に新鮮に感じられる風を全身に浴びる。風が、わたしの好奇心にぶつかってくる。まだ見ぬ世界が、わたしに手招きする。新天地を目の前にした人間が感じる、酩酊感。


 フェアリー・マスター [橘裕/白泉社/花とゆめ]
 渡辺さん家の一家言 [橘裕/白泉社/花とゆめ]

 橘裕作品のひとつの特徴は、大人と子供の区別がないことだろう。氏の作品においては、大人は大きな子供であり、子供はちいさな大人だ。そう言いたくなるぐらい、登場人物たちは、根っこが似ている。現実世界にあるような、大人と子供との断絶(相互の無理解)は、橘裕ワールドにはない。


 レイ=クドリャフカ。

 上手い人はどのくらいのプレイをしているんだろうとか気になるのだが、検索を掛けてもそれらしいページにぶつからない。118万っていうのはどのくらいのレベルなんだろうか。黒須さんが先日叩き出した140万オーバー(3回目の紫ボス)も相当キレているが、もっと行っている人もいるんだろうか。


 ジョジョOVA の新作?を観る。

 確か、以前発売されたエジプト編の時は基本的に1話完結だったはずなのだけど、今回の『吊られた男編』は2話構成らしい。私が借りた分は、ポルナレフが死んだところで終わってしまった。なんか肩透かし。第3部の中の数ある名台詞のひとつ、『その台詞は違うぞ』が聞きたかったのに。あと、これは以前から気になっていたのだが、OVA版は相変わらずスタンド出現の描写が変。原作だと、キャラクターの意志に瞬時に反応して出現する感じに描写されているのに、OVA版だとタイムラグがあるというか、穿った言い方をすれば、“勿体つけてる”という感じ。

 それはそうと。今後、どんなエピソードが映像化されるのか分からないけど、個人的には『DEATH13編』が観てみたい。


2001/5/27 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#27


 まずはミニ・真琴シナリオ論へリンク。
 私としては特にコメントがある訳ではないけど、名文は多くの人に読まれるべきと思うので。

 もったいないのでアンカーつけてくださいよー。>雪駄さん


 某所で、得るものがないのでサイト閉鎖、というのを読んでしまったのだけど…。
 元々、サイト運営して得るものなんて何もないのよ。いや、というより、そういう心構えでいなきゃ、サイト運営なんてやってられないというか。正直言って、サイト運営はストレスが溜まるし、それでもなんでみんなやってるかっていえば、結局、何かやりたいことがあるから、なんだよね。形はいずれにしても、何か表現したいものがあるから。表現っていうのは、少なくとも理想としては、受け手を必要としないものでさ。何かを表現する人は、別に誰かに受け取って欲しいとか誰かに認められたいからとかの理由で物を作るんじゃない。一番の理由は、自分がそうしたいから。そこには意味も意図もない。子供が砂の山を作るようなもの。ただ、作りたいという気持ちだけしかない。他者をまったく志向しない。創作っていうのはそういうものだと思う。昔、DMH17さんが『いのち、かけら』を作った時、この作品が完成した時点で私はもう満足してしまっているので特に感想が欲しいとは思わないもちろん貰えれば嬉しいけど、という趣旨のことを言っていたのだけど、これなんかはまさに物を作る人間の態度として理想的だ。DMH17さんのこういうところを、私は無条件に尊敬する。

 あと、感想はこなくて当たり前、が基本じゃないかな。ていうかさ、自分のことを振り返ってみればすぐに分かると思うのだけど、一体、自分が今までに訪れたサイトの中で、感想等を書いたケースが全体の中でどのくらいの割合になっているか思い出してみれば良い。ほとんどの人は100サイト中1サイトすらも感想を書いていないはずだ。あまりに無反応が長期間続くと時には鬱入ったりすることもあるけど、私にしたところで、メール等を一切出さずに何ヶ月もROMっているサイトがいくつもあるのだし、そんな不満なぞはとてもじゃないが言えた義理ではない。


 怒首領蜂。

 505,530,980pts. maxhit_868

 自己ベという訳ではないが、2週間ぶりぐらいのクリアなので、一応書いておく。
 ちなみに、1周19577万、2-3中ボスで1ミス後、2-6ボスまでノーミスノーボム。1/2周目通してコンボミスなし。クリア時残1。

 2-3中ボスの1ミスでざっと1億点落ちというところですか。
 うがー。2-3中ボス嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い。


 あと細かいところで、1周目5面、872HITが出る。HIT数効率は、149-329-872 。


 Sister Princess (Media Works)

 あまりにアレな設定ゆえ今日まで無視してきたのだけど、ネタ的には面白いかもしれぬ、ということで購入。あなたに12人の妹が…なんて時点で真面目に受け取る人はまずいないのではないかと思うのだがどうか。

 ていうか、しのぶは妹萌えではないんです基本的に。実妹が二人いるし、今更お兄ちゃんなどと呼ばれても嬉しくもなんともないのです。ううむ、そういえば、書いてて思い出したのだけど、昔、とある掲示板で、幼なじみがいるという人に向かって『うらやましいー』なんて言って失笑を買った人が−ええ私のことです(笑)−いましたが、考えてみると、どんな環境であれ現実っていうのは物語のように甘美ではないものだし、他人から羨ましく見えるような環境であっても本人がその環境に慣れてしまっていれば、それは単なる現実以上の意味など持たない訳です。つまり、私がメイドさん萌えーと言えるのは、私がメイドさんのいる環境を経験として持っていないからで。生まれたときから家にメイドさんがいたとしたら、多分メイドさん萌えーとは言ってなかったでしょう。それが良いか悪いかはわかりませんが。まぁともあれ、所有していないものが美化されるというのはよくあることです。メイドさんが常時そばにいて、もはやメイドさんにまったくときめかないという状況と、メイドさんがそばにいるという経験を持たないがゆえにメイドさんに萌えられる、どっちが幸せなんでしょうかね。

 12人の妹が…ぐらい無茶な設定が許されるのなら、私としては、あなたには12人の娘(血の繋がっていない)がいます、みたいな設定の方が萌えます。誰か作ってください。Windows18禁ベースで。理想の娘さん像としてはですね、例えば、祝日とかにパパと街を歩いていて−当然、腕を組んでたりするわけですが−偶然、同じクラスの男子に出会ったりするんです。んで、パパはその男の子を知らないんだけど、男の子に会った娘がちょっとパパの後ろに隠れちゃったりするので、ああ、知ってる男の子なんだな、とパパはその場はなんとなく納得するんです。で、ショッピングとか食事とか終わって、家に帰って。その日の夜、ベッドの中で(変な意味ではなくて同衾の方ね)今日は楽しかったね、とかふたりで色々お話してて、そのうち、そういえばあの男の子は…?みたいな話になるんです。んで、わが娘はどうも男の子が苦手らしい、ということが分かってきて、理由を聞くと、だって男の子ってなに考えてるのかよく分からないし不潔だし乱暴だし…みたいなことになって。

 『でも、パパも男なんだけど…?』
 『ううん、パパは別よ、だってパパはとっても優しいし…』

 、、、となります。当然の帰結です。こういう会話は髪を撫でながらだと萌え度30%アップです。誰かこういうゲーム作ってください。マジで。Fifth とかプリメみたいなパラメーターなんか要らんのです。あんなものは飾りです。えらい人には以下略。私がやりたいのは、娘を成長させるゲームではなくて、娘とイチャイチャするゲームなんですよ。イチャイチャがすべて。ああそういえば、『パパは年中苦労する』全話を録画したテープ、まだ実家にあったっけかな。これ録画したの高校生の頃なんですが、我ながら見る眼があったと思います。実は嫌な高校生かも。あと、こういう趣味の人として、おおた慶文の画集は当然持ってます。全部ではないですが。ちなみにうち一冊は直筆サイン入り。ああいかんこれじゃ自慢だ。まぁその、かぁいい娘萌えを標榜する人でおおた慶文の画集を持っていない人がいたらモグリなんじゃないかとは思うのですが。

 私はなにを書こうとしているんでしょうか誰か教えてください。ああシスプリの話でしたね。書き物もそろそろ疲れてきたので、某掲示板に投稿したやつをそのまま掲載してお茶を濁します。

 第一印象(絵だけ見た段階)では、雛子、春歌、四葉、辺りに萌えるかしらんと予想していたんですが、蓋を開けてみれば、咲耶と衛、以外は私には未知の生き物でした。このふたり以外とはまともにコミュニケーションできる気がしないです。



シスプリやってみました。 しのぶお兄様(暫定) - 2001/05/27(Sun) 21:38:19


冒頭の『お兄ちゃん』でいきなり引きまくり。
プロローグ、なんかもう、転げまわりたくなるぐらいイタイです(笑)。

マイシスターは、第一印象で兄君さまに決めたものの、なんか違う…ということで、
途中から(唯一マトモそうな)お兄様狙いに変更。
ていうか他の奴ら、あれは私の理解を超えた生き物です(爆)。
ついていけません。(^^ゞ

ファーストプレイは咲耶END.
2回目以降のプレイがあるかどうかは今のところ未定。

2001/5/26 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#26


 独り言いろいろ。


 『面白い』って言葉はなんかニュアンスが軽すぎる。
 『興味深い』だと今度は逆にニュアンスが重すぎる。
 ちょうど中間ぐらいの雰囲気の言葉ってないものでしょうかね。


 つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。(ノルウェイの森/村上春樹)

 つまりさ、隙を見つけたとき、そこにツッコミを入れないというのは大変に難しいことなんだ。
 …いや、ただの冗談ですけどね。


 webサイトの注意書きによくある、製作環境とか推奨環境っていうのは、どちらかというと、『今、あなたが見ているコンテンツが、わたしの意図した通りのデザインで表示されているとは限りません』っていう意味合いだと思う。推奨フォントやらフォントサイズやらを指定するのはまったくもって意味がない、というのはまぁその通りですが。わざわざ相手に合わせてブラウザの設定を変える人はいないでしょう。

 先日、ちょっと探し物をしていたら、IE5以外のブラウザを問答無用で弾く(IE5以外のブラウザで見ると、向こうでわざわざコーションメッセージのページに勝手に飛ばしてくれる。トップページで判定しているのでIE5以外ではトップページが見られない)サイトを見つけたのだが、ああいうのは勘弁して欲しい。この際なので言っておくと、右クリック使用禁止とか、Javascript がオンになってないと見られないとかやられると結構印象悪いです。私としては。アングラならアリかもしれないけど、普通のサイトでそこまでやる理由って何よ?


 ネット環境を手に入れて3年になる。

 およそ、インターネットワールドでもっとも不思議なことは、私の言葉が誰かに影響を−感銘であれ不安であれ−与え得ることだろう。私は今でも、私なんかの言葉が誰かに影響を与えるというのが信じられない。もっと言えば、そんなことある訳ない、と本気で思っている。


 エゴイズムという言葉について。私見。

 エゴイズムという言葉は一般的にはマイナスイメージで受け取られがちなのだけど、私の文脈の中では、エゴイズムはプラスでもマイナスでもないんです。まぁそのですね、10代後半頃だったか、箴言集(ラ・ロシュフコー)と人間とは何か(マーク・トウェイン)を読んで、えらいショックを受けたことがあるんです。

 読んだことない人のために簡単に説明すると、両者に共通するのは、人間には自由意思なんかない、及び、人間は原則的にエゴイストである、とかいう思想で。例えば、マーク・トウェインによれば、ある青年が老婆を助けたとしたら、それは青年の愛とか親切心とかのせいではなくて、青年は老婆を助けなかった場合に感じる良心の呵責を回避するために老婆を助けたのだ、ということになるらしいんです。老婆を助けることによって、青年は安心を得た。青年を動かした真の動機は、安心を得たいという一事であって、それ以上の理由はない、とか。

 ラ・ロシュフコーに関してもだいたい似たような感じなんですが、これを読んだとき、当時の私はものすごい不安に駆られて、なんとかしてこの考えを否定しようと一生懸命になりました。この格闘は確か数年は続いたと思います。

 だけど、考えても考えても、結局、彼らの言葉の正しさを否定することはできなかったんです。私たちは確かに、自分の快についていつも考えていて、誰かに笑って欲しい思うのは、その人の笑顔が私を幸せにするからで、言ってみれば私は自分の幸せのために誰かの幸せが必要なのではないか、結局、誰かを利用しているに過ぎないのではないか、と思って。

 そんなことを悶々と考えているうちに、ある時、切っ掛けは忘れましたが、ひとつの考えが頭の中に生まれて。

 私の言動の動機がエゴイズムであろうと、そのエゴイズムによって誰かが笑えるのなら、それでいいじゃないか。例え青年の行動の動機がエゴイズムであろうとも、事実としては確かに老婆は救われたのだ、なら、むしろ私はそのエゴイズムを称揚するべきではないか。

 数年に渡って続いた格闘は、このごく簡単なテーゼの出現によって、私内部では決着しました。今でも私は、人間はエゴイストであると思っています。ただし、それは自分勝手マンセーではなくて。

 人間は誰かを幸せにする以外の方法で幸せになることはおそらくできなくて、人間は本質的に他者を志向する生き物で、そもそも基本回路部分からして誰かの幸せを願うようにできているものなのではないか、誰かの笑顔が快に繋がるような構造になっているのではないか、と私は思うのです。確かに私たちの行動原理は快の志向であるのかもしれない。しかし、その快は他者を志向することなくしては得られない。多分、人間はそういう構造でできているんだと思います。つまり、私たちの言動の底にあるものがエゴイズムであろうと、全然差し支えないのです。


 ねがぽじ。

 うっかり見過ごしていたんだけど、美奈萌シナリオの主役はまひるではなくて美奈萌なんだよね。あれは美奈萌がまひるを獲得する話。まひるのことが好きなのに踏み込めない美奈萌のジレンマとか、そのジレンマの裏返しとも言うべき独占欲っぷりとか、その辺りに気がつくと、このシナリオは本当に面白い。ていうか、美奈萌がむっちゃ可愛い。

 あと、まひる。
 まひるは他者に何も望まない。ある意味、まひるは相手を見ていないとも言えるのだけど、わたしたちは見られていないからこそ安心できるということがあるのではないだろうか。人は判断されることを嫌う。その点、まひるには人を判断するという姿勢は皆無だ。だからまひると一緒にいると安心できるのだろう。期待されていないゆえの居心地の良さ、というやつ。


 まわりの人はどんどん前に進んでいっているのに、自分だけが同じところをぐるぐるしているような気がして不安になることはありませんか? 私はあります。というか、最近特にそうです。ふとした機会に昔の日記を読み返してみたら、言ってることが今とあんまり変わらなくて、愕然としたりとか。

 思考停止ポイントを発見する。大人の小論文教室

 半分は自分のために、備忘録として。
 もう半分は同じことで悩んでいる誰かへ。

 こういうの、頭をリフレッシュするのに最適な読み物だと思います。


2001/5/25 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#25


 わたし、あなたの弾くモーツァルトが好き
 でも、あなたの声はもっと好き

 モーツァルトって優しいよね
 でも、モーツァルトはあなたじゃない
 わたしは、もっと、あなたの声がききたい


2001/5/24 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#24


 レイ=クドリャフカ

 自ベ更新。118万。

 市街地までノーミス。2回目の紫ボスで終了。
 4時間ぐらいぶっ通しでやり込んで出したスコア。このゲーム、やり込めばある程度までは避けられるようになるのだが、いかんせん、敵の出現パターンがランダムなので、キツイ時は絶望的にキツイ。よって、スコアを出すためには当たりクジを引くまで忍耐強くプレイを続けるしかない。今度こそ限界。もう無理です。


 どうも、憂鬱になりやすい時間帯というのがあるらしい。
 私の場合は、深夜から明け方に掛けての数時間が特にヤバイ。この時間帯は、普通ならなんでもないようなことで落ち込んだりする。

 あと、睡眠不足は健全な思考の敵ですな。最近しみじみ思うようになったのだけど。


2001/5/23 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#23


 ねがぽじ。

 美奈萌END. 2回目。
 前回、拍子抜けするほど普通、とか抜かしてた私は一体このシナリオの何を見ていたのだろう。あんたたちには教えてあげない、わたしが全部ひとりじめするんだから、と美奈萌が言うとき、この言葉は圧倒的に真実に聞こえる。面白いもので、というべきだろうか、台詞というやつは、表面上どれだけ綺麗に聞こえてもそれだけでは心には届かない。その人物らしさ、という言い方は少し弱いが、要するに、個性というか、絶対にその人間でなければいえないような台詞というものがあって、本当に私たちの心に届くのはそういう言葉だと思う。

 例えば終末の過ごし方の敷島緑。表面上のインパクトでなら、いろはの“あの台詞”の方が、強いかもしれない。しかし、私にとっては、緑のごくさりげない台詞『二日間だけ、ちひろを頂戴』の方が、はるかに心に染みる。この台詞は、本当に、あの時あの瞬間の緑の気持ちのすべてを象徴するような台詞だった。あれは、緑の全身全霊を込めた言葉だった。例え緑にその意識がないとしても。いや、あれはもはや台詞ですらない、と言っても良いかもしれない。あれは、敷島緑という個性から否応なくしぼりだされた何かだ。その凄み(というには穏やかなものだが)が、私の胸を打つ。


2001/5/22 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#22

 彼らこそが「賢者」なのだ。(O・ヘンリー)

 賢者という言葉は一般的にどのようなイメージで捉えられているのだろう。例えば、誰にどんな質問をされても正しく答えられるような知識と知恵とを兼ね備えた人物、のイメージだろうか。そういうのも確かに賢者であるかもしれない。しかし、私はそれとは別の賢者というもの、一般的には賢者とみなされないような人の中にも賢者はいるのではないかとずっと前から考えていた。

 唐突だが、川原泉作品の登場人物たちは、私には、賢者に見える。氏の作品の登場人物たちは、みんなすごく綺麗に笑う。あんなに綺麗に笑える人間は他の漫画ではまずお目に掛かれない。いや、もちろん、良い表情を描ける漫画家だったら他にもたくさんいるだろう。しかし川原作品の人間の笑い方は、他のどの漫画にも見られない独特の味を持っている。

 綺麗に笑うとはどういうことか。川原作品の人間を例に取れば、彼らの笑顔は、まず、実に幸せそうだ。これは天真爛漫だとか無垢だとか無邪気だとか、そういうのとは別の種類の笑顔だ。彼らの笑顔は、言ってみれば満ち足りている人間の笑顔なのだが、しかし彼らが満ち足りているかどうかは、彼らが何かを所有しているかどうかとは全然関係ない。私にはむしろ、彼らの笑顔は、すべてを信じきった人間にだけ可能な、あるいはすべてを諦めきった人間にだけ可能な笑顔に思える。彼らは、現状をそのあるがままで受け入れる。彼らは、現状を肯定し愛する。彼らは、自分以外の者になろうなどと決して考えない。自分が今いる場所に満足せずにどこか遠くを志向するなどということは決してない。あの平穏を絵に描いたような笑顔は、そういう人間でなければできない。彼らは幸せだから笑うのではない。彼は、多分、自分が今ここにいるから、ここで生きてるから、笑うのだ。

 私は、だから、不幸になった川原キャラというものを想像することができない。川原キャラは、どんな境遇にあっても、いわゆる世間一般の視点で見て不幸な境遇にあったとしても、やっぱりあの『のほほん』とした表情で笑っているに違いないと思う。彼らは、自分がここで生きているという事実にこそ、充足を見出すに違いないと思うからだ。

 川原作品を読んでいると、私はよく、モーツァルトのことを思い出す。私はもちろんモーツァルトに会ったことがある訳ではないが、彼の書簡、彼の音楽、また生前の彼についての同時代人の証言などに触れると、モーツァルトという個性も、やはり、今自分がここにいること、にそのまま満足できる人だったのだろうと想像できる。モーツァルトは理想を持たない。理想に縛られて、今ここにいる自分を否定したり、自分と自分自身を取り囲む現状に不満を抱くなどという態度は、モーツァルトとは無縁のものだ。彼は、どんな境遇でも作曲することができたし、どんな境遇でも笑うことができる男だった。そういう人間でなければ、あの清澄の極みのような、クラリネット協奏曲(K.622)やピアノ協奏曲(K.595)を書くことはできなかったろう。モーツァルトは、ある意味、絶望を知らない。自分が生き、笑い、作曲できるのにどうして絶望などする必要があるだろう。モーツァルトにももちろん悲しみはあった。しかし彼の悲しみは、決して外部を志向しなかった。彼はただ悲しみ、涙を流す。彼は決して、自分の外に悲しみの理由を求めない。誰かを恨んだり、運命を呪ったりはしない。彼はただ、何かを信じている。あるいは諦めている。あの有名なト短調の交響曲(K.550)は、そういう人間の手から生まれた。

 前振り終わり。

 最近、私の頭の中を占めているひとつの個性、広場まひる(ねがぽじ)にも、どこか、モーツァルトを思わせるところがある。いや、正確には、モーツァルトの音楽のような個性、というべきなのだろう。彼女は単なる無垢なヒロインではない。少なくとも私の目には、広場まひるは、普通の無垢系ヒロインとは別の存在として映る。一体、自分へ嫌がらせをしてくる相手に向かって『スリスリしちゃうぞ〜』なんて素で言えるヒロインがどこにいるか。彼女の態度は、無邪気というよりも、徹底した無防備さだ。どうしてそうなのかは私には分からない。ただ言えることは、彼女はおそらく、信じることの(あるいは諦めることの)達人であろうということだ。彼女は何も所有しないゆえに、何かの判断を下すということを知らない。何も所有しないゆえに、所有と非所有との区別がない。彼女はただ、目の前のあるものを受け入れ、目の前にあるものを愛そうとする。そこには、真偽、善悪、美醜といった判断は存在しない。彼女はおそらく、初対面の人間に対してさえ、まるで旧知の間柄であるかのように話すだろう。

 まひるの笑顔はモーツァルトの音楽に似ている。彼女は、あるいはモーツァルト音楽は、相手に何も望まない。それこそ、信頼すらも(信頼はひとつの要求だ)。これは諦めというより、徹底した、利己心の欠如だ。彼女は、ただ、あらん限りの親しみを込めて、目の前にいる人に笑い掛けるだけだ。

 例え誰にも賛同してもらえなくとも、こういう人をこそ、私は、賢者と呼びたい。私の内部で、まひるに萌えたり惚れたりという方向に感情が動く前に、憧れ、が生まれてしまうのはこういう理由による。

 …とつらつら書いたところで、これからねがぽじ2周目。


2001/5/19 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#19


 レイ=クドリャフカ。100万点突破。

 わたし、もうゴールしてもいいよね?(謎)


 怒首領蜂。

 1周19400万。2-3中ボスで初ミス後、2-6ボスまでノーミスノーボム。
 あああもう。2-3中ボスでの1ミスさえなければ余裕で6億超えてるのに。

 …僕はもう疲れたよパトラッシュ。


 ねがぽじ。

 このゲームのシナリオライターさんの言葉の使い方ってすごく好き。
 それはともかく、小鈴シナリオ、美奈萌シナリオ読了。

 んー。なんか拍子抜けするほど普通。3つのシナリオすべてで同じ展開を見せられるのかと思ってたら、そういう訳ではないのね。これってしかし、私は香澄シナリオを最初にやったのだけど、もし順番がこうではなくて小鈴&美奈萌シナリオを先にやった後で香澄シナリオをやってたら…想像するとちょっと恐ろしい気がする。

 シナリオについてひとつ気になったこと。まひるが排斥される理由が、私にはよく分からない。いや、まひる贔屓だからとかそういう理由とは別に。クラスメイトのあの態度。例えば単なる生理的嫌悪だけであそこまで冷たくできるものだろうか。それとも、こう思うのは私が男だからなんだろうか。

 美奈萌シナリオに関しては、現時点では、えっちシーンが非常に面白かった、ということを書いておきたい。いや、エロゲーの主人公って、平均的に見て、初めての割に妙に手馴れてる奴が多いじゃないですか。それだけに、ああいう初々しい描写は貴重だと思うのですよ。

 ああそれにしても。まひるってなんであんなに可愛いんだチクショウ。


2001/5/18 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#18


 なんかなぁ、美しくないなぁとか思ってて。

 多分。
 ある作品を見て、泣きました、と言うのは良いが、泣いている自分を意識しながら喋っては駄目なんだと思う。


 ねがぽじのこと。

 この作品が成功するためには2つの条件を満たしている必要があった。ひとつは、主人公が魅力的であること。もうひとつは、日常をどれだけ美しく描写できるか。

 この物語の主題は、日常の崩壊だ。ゲームを始めた当初、私は、なぜ日常描写がこれほど丁寧になされるのかと疑問に思ったのだが、私のこの勘は結果的には間違っていなかった。まひるの日常は、少しずつ、元の姿を保てなくなってボロボロと崩れていく。別に誰が望んだ訳でもないし、誰が悪いという訳でもないのに、まひるは、もうどうしようもなく運命のような何者かに足を絡め取られて悲劇へと沈んでいく。まひるは、自分の日常が少しずつ壊れていっていることを知っている。でも、知っていても、どうにもならない。いや、どうにもならないというより、まひるは自分と自分の身の回りに起こっていることに対して、あまりに楽観的すぎた。ゲーム開始当初から数日の間は、私たちはまひるの楽観主義に微笑むのだが、ゲームが佳境に入っていくにつれ、まひるのお気楽さは、逆に、棘となって私たちの胸を刺す。いや、実はかなり前半から、棘は私たちを刺していたのだ。ただ、前半では、私たちは棘の痛みをそれほど気にしない。気になるようになるのは物語の後半以降だ。そして、気になったときには、既に手遅れになっている。

 まひるという棘は、私の胸に刺さってしまった。この棘を抜くことはできない。何より、私がそれを望まない。この棘の痛みこそが、今はいなくなってしまったまひると私を繋ぐ唯一のものなのだから。


2001/5/17 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#17


 ねがぽじ、香澄END読了。

 俺はこんなものを見るためにやってたんじゃない。
 記憶から消去することに決定。以上。


2001/5/16 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#16

 有給休暇、にも関わらず無気力。

 まともにやったことといえば、これを書いたことぐらい。

 ねがぽじのこと、追記。なんか、ひなたがむっちゃ可愛いのですが。あんな妹欲しい。

 レイ=クドリャフカ。スコア更新。


2001/5/15 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#15


 ねがぽじ 〜お兄ちゃんと呼ばないで〜 Active

 ゲーム内時間で3日目の朝まで。なんかむっちゃ時間が掛かるんですけど。不思議と退屈だとかは感じないのだけど、ただ、他のギャルゲーと比べても時間の流れが極端に遅い…いやこれは正確ではないか、他のゲームと比べると、日常描写が丹念で、1日の密度がすごく高いため、ゲームが進行していることを実感しづらいところがある。普通、多くのギャルゲーは、日めくり方式とでも言うか、1日1イベント、みたいな展開で話が進んでいくことが多いように思うのだが、ねがぽじの場合は、このシステムは(多分)意識的に排除されている。

 多くのギャルゲーに見られる1日1イベント方式は、私見では、非常にゲーム的なシステムだと思う。このタイプのゲームでは、物語は1日をひとつの区切りとして進んでいく。例えば2日目で誰々に出会い、4日目にこういうイベントが起きて、という具合だ。こういう風に、日常を1日という区切りでデジタル的に処理するというのは、プレイヤーに時間の経過を実感させる手法として、非常に有効だ。プレイヤーは、階段を一歩々々上っていくようにして、物語を読み進める。確実にどこかへ向かっているという感覚は、プレイヤーを安心させる。

 ねがぽじの場合は、それとは違う気がする。一体、現実時間で2時間ほどプレイしてゲーム内で2日しか経たないゲームなぞ、私はやったことがない。このゲームをやっていて感じることのひとつは、現在しかない、という感覚だ。物語がどこに向かって進んでいくのか、というよりも、進んでいくのかどうかすら分からない。ただただ、私はまひるのいる日常の中に身を置いている。この日常がどういう方向に向かうのかなんてまるで想像もつかない。通常、ギャルゲーにおける日常というやつは、これから起こるイベントのための前座だ。しかし、ねがぽじでは、まさにその日常こそが、ゲームのキモになっているように感じられる。

 まだ始めたばっかりなので見当違いなことを書いている可能性もあるが、現時点での印象はこんなところ。

 あとひとつ。
 こういうことはあんまり書かない方が良い、というか、書かないようにしたいのだけど、既に頭にこびりついてしまったので書いてしまう。

 まひるのこと。今のところ、しのぶの対まひる感情は、萌えでも惚れでも一緒にいたいでも守りたいでもイチャイチャしたい、でもない。まひるは恋人にしたいタイプではなくて−いやそれもあるのだけどそれ以上に−むしろ憧れの対象だ。

 私はさ、多分、まひるより頭いいし、力もあるし、自分で生活できるだけの経済力もあるし、美しい文学や音楽をいっぱい知っている。けど、私はまひるみたいに綺麗に笑えない。私には香澄がいない。『アンタは何も変わってないわよ』って言ってくれる人がいない。

 俺、まひるになりたい。

 まひるの莫迦っぷりは眩しい。眩しすぎる。あんな風に、なんの邪心もなく『えへへ…』って笑ってみたい。あれこそ、私の理想の生き方だ。あんな風に笑えたら、私は他になにもいらない。


2001/5/14 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#14


 洗濯が終わるまであと20分ぐらい。それまで書き物。


 それが出来なかったから、こうなってるんじゃないか、こらぁっ!!(DMH17さんの日記・5/13)

 わはは。あるある。
 私も、メーカー製マシンからショップブランド品に替えてこっち、フリーズする機会が増えたんですが、時々画面に向かってツッコミを入れてます。テメエのせいだろうがーっ。みたいな(笑)。


 昨日、今日、の散財。

1) さんさんさん 柳原望/花とゆめ
2) 渡辺さん家の一家言 橘裕/花とゆめ 
3) シューベルト・楽興の時 バックハウス
4) シューベルト・即興曲集 ピリス
5) モーツァルト・ピアノ協奏曲21番 ピリス

 本当は積みCDが結構溜まってるのだが、ピリスがモーツァルトのコンチェルトを弾いているとなったら買わない訳にはいかず。あと、渡辺さん家〜は、フェアリーマスターが売ってなかったので代わり。


 コンプティークを読んでたらAIRの美凪シナリオ攻略とかやってたので、ついでに。

 AIRの美凪シナリオでの、美凪やみちるの態度が不可解だ、という人、あるいは萌えさせるための過剰演出だ、という人は結構いると思うんだけど、私は彼女たちのあの言動をそれほど不自然だとは思わないんです実は。美凪やみちるの不可解な言動は、『わけわからない』ものとして、理解できる。こういうのって、学生時代に誰でも同じような経験をしていると思うんだけど、要するに、同じクラスの女の子の言動がすごく奇異に映って、ちょっと大袈裟に言えば、コイツ何考えてるんだか分からねぇ、と頭を抱えてしまう、というような感覚ってあるじゃないですか。美凪とみちるのアレも、それが少々デフォルメされてるだけじゃないかしらん、と私には思えるのです。何が言いたいかっていうとですね、要するに、美凪もみちるも、わけわからないままで可愛い、ということです。


 ねがぽじをインストール。
 フルインストールで350MBっていうのは良い感じ。ちょっと前にプレイした『もみじ〜わたし人形じゃありません〜』なんて、フルインストールで1200MBとか食われたものでしたが。とらハ3はそれ以上に食われたような気がするけど、あれは別です。とらハ3だったらいくら食ってもおっけーです。あ、話がずれてる。そういえば、まひるたんの設定って、新井素子の小説で同じようなのがありましたよね。内容は完全に忘れてしまったけど。

 上記を書いてから2時間後の追記。

 ゲーム内時間で1日が終わるまでに、リアル時間で1時間以上掛かるっていうのは。個人的にはちょっと長すぎる気もする。オートモード使用の分も加味しなきゃダメだろうけど。

 内容。まひるたんハァハァ(´Д`)…なんて言う余地はあんまりないような気が。なんというか、微妙に不安を煽られるような雰囲気があって、萌える余裕がないんだと思います。

 あと。独り暮しを始めたばっかりの頃に感じる違和感、どこか馴染まない感覚、みたいな描写は結構上手いと思います。鍵を回して、ドアが開いて、『入室を許される』みたいな表現とか。読んでいて、すごく懐かしい。


2001/5/13 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#13


 自分で気がついていないだけで、私は既に永遠の世界の住人なのかもしれない。
 私は、変化、に対する抵抗力がものすごく弱いらしい。
 楽しいことだけ紡いで生きていけるはずがない、と誰かが言った。
 しかし、私が求めているのはまさにそれだ。
 俺だけは、楽しいことだけ紡いで死んでやる。絶対に。誰にも邪魔はさせない。
 …なんて、結構本気で考えていたりする。
 私は、嘘に縋って、嘘を信じて、自分を騙す以外に、どうやって自分の生を保つことができるかわからない。
 フィクションの世界に心躍らせる自分すら信じられなくなってしまったら、今度こそ、私は死ぬしかない。
 あと何年、信じ続けられるか。
 年を取れば取るほど、周りから要求されるイメージと自分自身とは乖離していく。
 だから、年を取れば取るほど、信じることは難しくなる。
 案外、不可能になる日はそう遠い未来でもないかもしれない。
 …が、まぁいいか、それでも。


 やさしく……してもろとる…
 ……めっちゃしあわせに……してもろとる…
 そやから……こっからはもー……わがままなんか…ゆーたらあかんねん……


 とらハ3で私が好きなのは、美由希シナリオと忍シナリオです。でも、とらハ3で、今後1つのシナリオしかやっちゃいけない、と言われたら、私は迷わずにレンシナリオを選びます。美由希シナリオと忍シナリオは、美味しく味わったという感じです。レンシナリオは、やっと出逢った、という感じです。好き嫌いの問題じゃありません。あれは文字通り、私にとって、掛け替えのないものです。


 レイ=クドリャフカ。

 自己ベスト更新。611,381pts.
 まだ10万点単位で伸びる可能性はある(見えている)のだが、そこまでやり込めるかどうか、そろそろ疑問になってきた。あと1ヶ月もやり込めば、多分地上(市街地背景)までいけるだろうが、安定しないゲームなので、そろそろやる気が…。

 どうもなぁ。
 同人シューティングの限界というのがある気がして。プロが作るシューティングの弾幕は、一見どれほど無茶に見えようとも、ちゃんと避けられるようにできているものなんです。言い方を変えれば、プレイヤーに避けさせることを前提にデザインされていると言っても良い。だから、無茶に見える弾幕であっても、練習を重ねることによってパターンというものができてきて、やればやる程、死ぬ確率はどんどん下がっていくんです。少なくともある程度マニアックなシューティング好きにとって、シューティングゲームの楽しさは、弾を避けることにあるのではなくて、パターンを作っていくその過程にあります。要するに、企業がやっている品質管理手法(しのぶは入社以来ずっと品質管理関係の部署にいるんですがこれは余談)の最も基礎的なもの[現状把握→対策→実施→効果確認→歯止め]と同じ作業です。この作業を無限に繰り返すことによって、どんな弾幕に対しても、毎回一定の動きで対処できるようになっていく。パターンとはそういうことです。たまに、ゲーセンで怒首領蜂をやってると、なんであんな弾が避けられるんだ?とか、目が痛くならないのか?等の質問をされることがあるんですが、これはシューターから見ると割と的外れで。弾が避けられるのは、弾幕の性質を知っていて避け方が確立されているからです。例えば、あるボスと戦っていて、ボスが大量の弾を吐いてくる。一見すると回避は絶望的に見える。でも、シューターは、経験の積み重ねで、『この弾幕に対しては、まず自機狙いの弾を1キャラ移動で右に避ける。次いで、その位置にいると別の弾に当たるので、今度は1キャラ左に避ける』という風な対処法を知っている訳です。もちろんこれは、何回も死んで、なぜ死んだか(どの弾に当たって死んだか)を考えながらプレイした結果確立されたパターンです。これは、端から見ているともう超絶的な反射神経で避けているようにしか見えない、というか、得てしてそういう風に見えてしまう(私も、自分がよく知らないゲームの上手いプレイを見ると結構ビビリます)んですが、実際には、ほとんどの場合はそれはパターンです。私が、シューティングの上手い人を『凄い』と言う時、その言葉に込められた半分以上は、努力に対する賞賛です。

 一般的に、今現在、弾幕系のゲームが多くなった原因は、ガレッガと怒首領蜂のせいだと言われているようですが、私の見るところ、そのムーブメントは同人シューティングの方にも波及しているようで、私がやったことのある同人シュー[Sentimental Shooting/Storm Cariber/Ray kudryavka/Raly raid/D-Force]もみんな、ご多分に漏れず、弾幕系です。これらに共通する特徴のひとつは、とにかく弾が多い、ということなのですが、残念ながらそれ以外に、反省プレイができない、という共通点を持っています。つまり、弾が多いのはプロ作品も同人作品も同じなのですが、同人シューティングの場合、弾幕はあくまでもその都度アドリブで、自力で避けなくてはならず、パターンを作る余地が少なく、上達の快感が得られにくいのです。先に挙げた5作品の中では、唯一 Storm caliber だけが、辛うじて、反省プレイの余地を持つ仕上がりになっています。これは、プレイした感触としては、シューティングをある程度やり込んでいるスタッフが作ったのではないかと推測されます。あと補足として。センチメンタルシューティングは、いわゆる脱衣モノ(弾を撃って服を破く)ですが、これはイロモノっぽい見た目と裏腹に、シューティングパートは意外としっかり作られていることも追記しておきます。反省プレイの余地はあまりないのですが…。

 更に。
 まぁ知ってる人は知ってると思うのですが、製作者が『こうすれば楽しいだろう』と思うアイデアが、プレイヤーにとっても楽しいとは限らないもので。私はこのことをD&Dのセッションで学びました。といっても中学生の頃に友達同士で数回プレイしたに過ぎないので、TRPGについて云々する気はないです。いや、やる気以前にその資格もないし。とにかく、中学生の頃、私はD&Dをやってて。マスターとプレイヤーは持ち回りでした。次は○○君がマスター、とかそんな感じ。で、何回かのセッションをやってみて、気がついたことがあって。そのひとつは、どうしても、ゲーム進行が、マスター対プレイヤーという構図になってしまうことでした。例えば、敵モンスターと遭遇した時、プレイヤー側は、極力楽をして、最小の被害で勝とうと考えます。それに対して、マスター側は、あんまり楽に勝ってはプレイヤーも(自分も)面白くないだろうやはり冒険にはスリルがないとな、と考えるのです。楽しいゲームにしたいと願っている点においてはどちらも同じなのですが、この見解の相違のために、ゲームは必然的に、マスターとプレイヤーとの知恵比べの様相を呈してきます。余談ですが、当時のコンプティーク(まだ“福袋”があった時代(笑))に載っていたD&D紙上リプレイも、割と似たような状況だったと記憶しています。逆さ槍付き落とし穴があって、自分のキャラクターがそこに落ちたプレイヤーはマスターに抗議して、槍の木は腐っているはずだから槍のダメージは無効、かつ、腐った木がクッションになってノーダメージ、なんていうエピソードは、憶えている人も多いのではないでしょうか。それに類するエピソードは、おそらく全国に無数にあるでしょう。私も、そういう知恵比べ(というにはレベルが低いかもしれないけど)を幾度か経験しました。当時は、結局、数度のセッションをやった後、なんとなくD&Dは私たちの内部では自然消滅してしまって、みんな、パソコンでのRPGの方に戻っていったのですが、この時、私の印象として確実に残ったのは、D&Dは難しい、ということでした。所詮中学生なので、それほど複雑なことは考えられなかった(これは今でもあんまり変わらないけど)のですが、それでも、D&Dというゲームは何も考えずにできるものではない、ということだけは感じていました。ただ、当時はD&Dをなんで楽しめなかったかまでは分かりませんでした。この原因がわかってきたのは、それから数年後のこと、とある手品の本を読んでいた時でした。その手品の本の中に、次のような一節があります。うろ覚えなので大意ですが、要するに、『観客は得てして手品の種を知りたがって、時には騙されるものかみたいな視点で手品を凝視する、わたしたちは、手品で一時の息抜きの時間を楽しんで欲しいのに』という内容でした。これが、高校生の頃の私には目から鱗でした。この、手品師と観客との関係は、そのまま、当時D&Dをやっていた私たちに当てはまると思いました。私はこれを読んでやっと、D&Dのコンパニオンセットに書かれていた『プレイヤーはマスターと戦っているのではない』という言葉の意味を理解することができました。当時の私たちに足りなかったのは、おそらく、相互の気遣いだったのだと思います。マスターはゲームの支配者(神)ではなくて、むしろ、プレイヤーに楽しみを提供するエンターティナーでなければならなかったのではないか、マスターはむしろ、プレイヤーの楽しみに奉仕する存在でなければならなかったのではないか、という考えが、この時生まれました。当時、DMを担当する時、私も友人も、プレイヤーを楽しませようなんて発想は出てこなかったのですが、私たちのセッションに欠けていたものは、おそらくそれでした。ゲームはエンターティメントである、という考えは、こういう風にして私の中に定着していきました。あるゲームの出来を決定するひとつの要素は、それがプレイヤー本位に作られているかどうか、に拠ります。怒首領蜂がヒットしたのは、弾が多かったからからではありません。弾が多いにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、ちゃんと避けられるように難易度が絶妙に調整されていたからです。あれは、プレイヤーを殺す弾ではなくて、プレイヤーに避ける快感を覚えさせるためのものです。言ってみれば、プレイヤーに対する気遣いがあったから、私含めて、多くの人があのゲームにハマったのです。こういうことはギャルゲーでも同じです。今発売されていてすぐにプレイできるギャルゲーのタイトルはおそらく1000をゆうに超えているでしょうが、その中には少なからぬ数の、いわゆる地雷ゲーがあります。しかしどんな地雷ゲーだって、少なくとも作った当のスタッフは、こうすれば面白いだろうという発想に基づいて作っていたに違いないのです(麻枝准氏のエッセイなんかを読むと、そうでない場合もあるようですが…)。どんなに無意味に見える選択肢だって、ライター諸氏は、何がしかの意味を考慮して選択肢を設定していたに違いないのです。例えばノーヒントで右に行くか左に行くか、という2択があったとして、片方は即死に繋がるとします。多くのプレイヤーはこの選択肢を理不尽だと言うでしょう。しかし、シナリオを書いた人は、人間の運命は実に些細なことで左右されてしまうのだ、ということをこの選択肢で言いたかったのかもしれないのです。こういう例は、他にも無数にあるはずです。これは、伝わらないという問題の他にも、サービス精神の欠如の問題があります。つまり、2択に失敗して死んだことが理不尽だ、という人の心理について考えてみると、この人は、失敗してゲームオーバーになったことで、本来楽しめるはずだったゲームが楽しめなくなってしまったことに不快感を覚えているのです。ゲームの第一義が、楽しい時間を提供する存在であると前提するとすれば、先のような例はゲームとしては失敗していると言わざるをえません。プレイヤーが不快感を覚えてしまったら、ライターにどんな意図があろうとも、それは無意味です。主張はライターのエゴに過ぎなくなります。いや、エゴというのは言いすぎかもしれないとしても、少なくともプレイヤーは、楽しみを損なう要素を受け入れないでしょう。ゲームを作る、というのはまったくもって難しいものです。TRPGのマスターなんかをやってみると、そのことがすごくよく分かります。私は、プレイヤーを楽しませるようなマスターを演じられる自信はこれっぽっちもないです。あと、補足。プレイヤーはマスターを信じてあげる、ことも当然当たり前。何回も書いてる気がするけど、こっちはいわゆる受け手の問題。

 ここまでだらだら書いて大体4時間ぐらい。
 私の頭の回転が悪いのがご理解頂けたことと思います。別にそれを証明するために書いてる訳じゃないけど。
 あーなんか。メモ帳を最大サイズにして1画面がすべて字で埋め尽くされてるってのはある意味嫌がらせに近いんじゃ。
 読む気が萎えるよな絶対。私だったら萎える。まぁ逆にいえば読まれなくて済む、とも言えるか。



 怒首領蜂。
 1週間ぶりのプレイ。1ヶ月ぐらいプレイしなくてもパターンを忘れたりはしないが、手の感触は1週間で鈍る。まぁでも今日は良い方か。とりあえず2回ほど。1回目、2-3中ボスで初ミス、4.36億でALL. 2回目、2-3ボスで初ミス、4.1億、火蜂で全滅。

 調子が悪い(集中できていない)時のミスは、気がついたら死んでいた、というケースが多い。調子が良い(集中できている)時のミスは、死ぬ直前に、死ぬ、と分かる。その意味で言うと、今日はまぁ集中できていた方だろう。


 日曜日恒例の憂鬱。
 とりあえずねがぽじをやる気分ではないので、おっぱい…じゃなかった、Greenhorn でもまったりとやる予定。


2001/5/12 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#12


 今更ながら、レイ=クドリャフカで遊んでたり。
 最初のうちは全然コツが分からなくて、ストレスで叫びながら(一部嘘)プレイしていたのだが、黒須さんにアドバイスを貰ったりとかしているうちにだんだん要領が分かってきて、分かってくるとこれがまたなかなか楽しい。現在、自己ベストは54万点。『黄』は既に倒し方が分かったので良いとして、今後の課題は対『紫』戦で残機を残せるかどうか。今のところ紫破壊時・残0なので、ここで残機を1機でも残せれば、その後の展開がかなり楽になるはず。

 このゲームはしかし、コツが分からないと序盤からして全然歯が立たないのが結構問題かもしれない。普通、弾の数とスピードは反比例するものなのに、このゲームは弾幕の密度に対して弾のスピードが速すぎる。コツが分かる前に止めてしまう人もかなりいるのではないだろうか。


 ジャンプを買いに行く途中に車の中で、水たまりに映るセカイ[堀江由衣]を聴く。1回通しで全曲聴いて以降は、11曲目の『I wish』を無限リピート。歌詞はアレだが、メロディーはかなりツボ。Make you smile とかと同じく、とにかく響きに身を浸しているだけで快感。

 一部、小林幸子の『恋に落ちて〜fall in love〜』にそっくりな個所があるのはまぁ気にしないことにしましょう。


 ぴたテン 3巻 [コゲどんぼ/DengekiComics/メディアワークス]

 前回は半分ぐらい読んで止めてしまったのを、ちゃんと読みなおしてみた。前半は相変わらずつまらないが、後半はなんかむっちゃ面白い。ちゃんと読まなかったの反省。個人的に、今回の目玉は P.148〜149. コタローと紫亜さんとの距離感(主にコタロー側からの)の描写がすごく上手い。あと、3巻で特筆するべきは、コタロー君を幸せにしたいのに空回りしてしまう美紗と、普通にしているだけで周りを幸せにできる紫亜さん、の対比だろう。今後の展開が非常に楽しみ。


 とらいあんぐるハート2 〜さざなみ女子寮〜 JANIS/IVORY

 愛シナリオ読了。
 このシナリオでだけ語られる愛&ゆうひコンビがなんかすげぇ可愛い。ただしシナリオ全体としてはあんまり評価はできない。3のフィアッセシナリオと同じく、キャラは魅力的なのにそれを十分に生かせるほどの物語を用意できなかった、という印象。残念。

 1回しかやってないので細部までは思い出せないのだが、今思い出せる範囲で気になったのが、例えば、ミニが壊れてしまう場面。ここは物語の展開としては、愛さんの思い出の品を失わせることで、耕介と愛さんが結びつく切っ掛けを作りたかったのだろうが、他にやり方はなかったのだろうか。本音で言えば、どんな形であれ、寂しそうな愛さんを見るのは嫌だ。愛さんが『家族』に拘るのは、ひとつには血の繋がりのある家族がいない寂しさ、というのが潜在的にあったはずで、だから私の希望としては、そういうキャラクターだからこそ、さざなみ寮のオーナーとしての愛さんは、何も失わないで、好きなもの、大切なものに囲まれたまま、綺麗にエンディングを迎えて欲しかった。どうせ平凡なら、徹底的に平凡であって欲しかった、とでもいうか。

 あとひとつ。こちらは不満ではなくて。
 ラスト付近の、さざなみ寮の住人たちの出歯亀シーン(笑)。こういうイベントは他のヒロインのシナリオでもあってもおかしくなさそうなのに、愛さんのシナリオでだけこういう描写がされる、というのは非常に興味深い。もちろんこれは都築氏も意図的にそうしたのだろう。地味なキャラクターながら、やっぱり、さざなみ寮の真ん中にいるのは愛さんなのだ。このイベントは、さざなみ寮のお母さん的な、愛さんの立場がすごく上手く描かれている。

 影が薄いのは、いつも一歩引いて、皆を見守っているから。(中略)
 おだやかに、「ただそこにいるだけ」
 だけど、そこにいないと、不思議と落ち着かない。


 とらいあんぐるハートビジュアルファンブックより、都築パパのコメント。前にも書いたけど、もう1回同じことを。とらハのキャラが魅力的なのは、まず何よりも、お父さん(都築氏)に愛されているからだ。これ以上端的に愛さんについて語るのは不可能だろう。どうしてこれほど起伏のない物語を描いておきながら、キャラクターの魅力が損なわれないのだろう。とらハのキャラクターたちはみんな都築氏に目一杯愛されているからだ、とでも言う以外に、私はこのことを説明できない。


2001/5/9 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#9


 仕事中、睡眠不足で胃が痛くなったりしたのでさすがにヤバイと思って9時間ほど寝る。すっきり。


 とらいあんぐるハート・ビジュアルファンブックのカバーを1回も外したことない人がいたら今すぐ外してみましょう。いやーははは。ついさっき初めて知ったよ。


 しのぶにしては珍しく、レスポンスリンク貼りまくりで。


 生命保険を掛ける前の健康診断で病気(「萌え症候群」)に認定され、そもそも保険に入れない可能性(とくそんさん)

 その可能性は考えてませんでしたが、ごもっともです。仮に保険に入れるとしても、等級が上がりまくって、掛け金が通常額に対して10割増とかになりそうな予感(笑)。それもこれもみんなこころんが可愛すぎるのがいけないんですが。

 こころんのバジャマは…うーん、しのぶ的にはちょっぴりアダルティーな色っぽさがあるのがマイナス要因でして。


 元気が出てくる応援系の曲とかあるラインを超えてしまうと逆に痛くなってきたりして。(C.Fさん)

 その気持ちは結構分かる気が。丹下桜の曲で言うと、しのぶ的には例えば Make you smile はなぜか許容範囲なんですが、Stand by me ぐらい表現が直接的だと引いちゃいます。『ここに味方がひとりいるよ〜♪』とかのフレーズはもうイタタタ…って感じで。

 そういえば、いつものごとくブラウザのスタートページから[http://www04.u-page.so-net.ne.jp/gb3/r_arai/index.htm]に飛ぼうと思ったら繋がらなくてちょっと焦りました。index.htm を削除してみたら『移転しました』のページに飛べたのですぐに分かりましたが。


 「ぜんぜん食べ物が無くて食べられない人だっているんだから」と言う親(土方さん)

 これは私も、子供の頃、親に言われたことあるんですが、子供ながらに釈然としないものを感じてました。最近やったとらハ2の真雪シナリオでも似たようなことが語られてましたけど、自分より酷い境遇の人を想定して自分を肯定する、みたいな考えは私もなんか好きじゃないです。

 あと、昔から考えていたのは、食べられない人がいるのは確かだとしても見ず知らずの人に対してそこまで義理立てする必要があるのかどうかということで。食べ物に困っている人がいるんだから、というのは、例えば、世界には笑う余裕のない生活をしている人がたくさんいるんだから笑っちゃダメ、と言っているのと大して変わらないんじゃないかと思うんですよ。上手く言えないんですけど、要するに、不幸な人がいたらわたしは幸せになってはいけないのか、それはなんか違うんじゃないか、ということで。

 ていうか、そもそも他人を見てあの人は不幸だなどと妄想すること自体がものすごく失礼なことなんですけどね。想像力の欠如は恐ろしいです、まったく。

 ところでココロ図書館買われましたか。あれは疲れている時の清涼剤になるかもなので、ぜひご一読を。


 みすずちん、勇気を出して君の中にある神奈の魂を『殺す』んだ!(11番目の猫さん)

 連休中、京都に向かう途中の車の中で、実は似たようなことを友達と話し合ってました。分かってる人によっては何を今更な話なのかもしれないのですけど。

 SUMMER編で神奈が掛けられた呪いはどんな性質のものだったのか、ということがまず話題に上って、高野の僧が掛けた呪いはおそらく具体的なものではなくて、ただ『翼人(神奈)の力を封じる』という漠然としたイメージしかなかったのではないかという意見が出て。つまり高野の僧は、神奈に悲しい記憶(捏造された)を見せるというイメージを抱いて呪いを掛けた訳ではなくて、翼人の力を封じるための呪いというものがあって、その呪いを掛けた『結果』として神奈は悲しい記憶を永遠に見せられることになった、と。どうして悲しい記憶を見せることで翼人の力が封じられるのかというのと、これは要するに、悲しみの感情は人間から力を奪うから。

 神奈には悲しみの記憶しかない。で、神奈の記憶を受け継いでしまう少女も悲しみの記憶を受け継ぐので、その悲しみは少女を衰弱させて遂には死に至らしめてしまう。神奈の記憶を受け継いでいた少女たちが抱いていた悲しみは別に神奈が見ていたビジョンと同じ物(柳也の死)である必要はなくて、むしろ少女たち個人々々でそれぞれ別の形を取る。その少女にとっての最悪のビジョン、ということ。

 こうなってくると、観鈴が呪いを解く方法はひとつしかないということが分かってくる。今までわたしだった少女のために、神奈のために、翼人のために、なんていう使命感を持っている限り、おそらく呪いは解けないであろうということ。呪いの性質は、第一に、悲しみなのであるから、呪いを解くとは悲しみに勝つことに他ならない。で、これも割と一般論的なチンケな考えだけど、人間は悲しみから脱出しようと思っても脱出はできない。脱出するためには、どこか別の場所を志向することが必要だ。誰かを悲しみから助けたいと思ったら、慰めるよりも笑わせることを考えるべきだ。

 観鈴が呪いを解く方法は結局ひとつしかない。過去の因縁(神奈から始まったもの)を捨てて、神尾観鈴としての人生を生きること。わたしは翼人の転生なんかじゃない、わたしは神尾観鈴だ、とはっきりと自覚すること。自分の中の神奈を殺すこと。

 みすずが神奈のために何かをしていたようには見えない、と書いた私の感覚は正しかったのだと今にして思う。AIR編での(みすずの)最後の数日、みすずはお母さん(晴子)のことしか考えていなかった、と思いたい。お母さん(晴子)と自分、という関係に自覚的でありつづける限り、みすずはどこまでいってもみすずであって、それ以外の何者でもない。私としては、みすずのゴールが呪いの解放であったかどうかは明示されていないと今でも思うのだけど、もしあれを呪いの解放だったと逆に前提して考えるなら、呪いが解けたのは、みすずが最後までみすずであり続けたからだ。過去に囚われずに、神尾観鈴としての生を生きたからだ。みすずは自分の幸せだけをエゴイスティックに考えていれば良かった。というかむしろそうでなければならなかった。人が幸せになるために、エゴイストである以外にどんな方法があるというのか。


2001/5/8 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#8


 疲労が溜まってるっぽいので今日はとらハ2中止。


 ハードディスクが普及していなかった頃のパソコンは、たとえクラッシュしても、データ損失等の被害はそれほど深刻ではないが、今のパソコンは、使い込んでいればいるほど、クラッシュした時の被害が大きくなる。

 今のパソコンは、ある意味、メイドさんに似ている。どちらも、使えば使うほど、自分仕様にカスタマイズされていく、一緒にいる時間が長くなればなるほど、抜き差しならない関係になっていく、という点において。メイド哲学論考を参考に。


 最近のわたくし。
 とらハ2の真雪さんに触発されて缶ビールを買ってきたり、おまけの小林くん[LaLa]に触発されて桃缶を買ってきたりとか。


 テレビは、スイッチさえ入れればあとは勝手に情報が入ってくる。テレビを観るというのは受身の行為だ。インターネットは、そういう訳にはいかない。インターネットは単なる手段に過ぎない。どんな情報を受け取りたいのかを自分で選択しなければならない。会社の同僚で、パソコンを持っていてインターネット環境がある人の中で、インターネットをある程度利用できている人は、私の知る限り一人しかいない。後は、インターネットをどう利用してよいか分からない人ばかりだ。思うに、インターネットがいまいち普及しないとしたら、それは、みんなが『ただ受け取るだけ』の状態に慣れすぎているからなのではないだろうか。インターネットを楽しむには、知的好奇心は絶対に必要だ。その方向は別にエロだってギャンブルだって構わない。ある意味、インターネット環境というやつは、その人が何を所有しているかを試される場であるような気がする。何の趣味も持たない人は、インターネットから何も受け取ることはできないだろう。


 メモ。
 近日中に Readme の内容を書き換える予定。『無断リンク推奨』とか。


 眠れないので読書。んで、本を読んでいるうちにお腹が空いてきていよいよ眠れないという悪循環。しのぶは空腹状態では絶対に(マジで)眠れない体質(?)の人なのです。

 とりあえずカップメンを食すべくお湯を沸かしている最中。その間に書き物。

 睡眠時間は連日4時間前後。この調子だと明日も愛さんとイチャイチャは無理っぽい。


 話を聞かない男、地図が読めない女。読了。

 なんか思い当たる節がありすぎて笑うしか。基本的には私もやっぱり男なんだなぁと思った。ただ、お喋りの態度に関しては私はどっちかっていうと女性的かもしれない。この本の記述に従えば、だけど。私は通常、喋ることに意味も意図も論理性も求めませんから。ただ、何かしら喋りたいことがある。だから、相手はただ聴いていてくれれば良い。下手にアドバイスなんかされようものなら場合によっては不機嫌になる。私にとっては、喋ることはそれ自体が目的なので、内容はどうでもいい。日記も割とそんなノリで書いてるし。

 ネット上だとさすがにそんなに珍しくもないかもしれないけど、私は実は長電話が好きで、過去最長記録だと、9時間以上も電話でお喋りをしていたことがある。会社の同僚にその話をするとほぼ確実に驚かれる。一体何をそんなに話すことがあるのか? 直接会って話すほうが効率的じゃないのか? …等。しかし、これはもう完全に考え方の違いだと言うしかない。私はお喋りをすること自体が目的なので、お喋りを情報交換の手段だとか目的解決のための意見交換だとかという風には全然考えない。会話はその場のノリだけで進める。モーツァルト話が突然メイドさんハーレム話に変わったりすることもしょっちゅうだ。私は他にも、目的のないドライブというやつを時々やるが、これもドライブはあくまでおまけで、メインは会話の方だ。だから、ドライブをしていても道や建物をあまり憶えていないなんてことも時々起こる。車の中というのは密室なので、会話をするには最適な空間だと私は思っている。しかも第三者に話を聞かれる心配もないので、会話の幅は無制限に広がる。ファミレスではさすがに、メイドさん萌え話なんかはできないし。ともかく、私の価値観的には、お喋りは内容よりもその場のノリを重視する。別に何か意見を言わなければならないとか、伝えなければなんて意識はない。ただ、思ったことを喋るだけだ。もちろん、こういう姿勢が、時と場合によってはハンデになることは承知しているつもりだが、でも、基本的には私はこういうスタイルでいつもいる。


 なのは。あるいはマイスイートハニー(素)。

 すっかり失念していたんですが、なのはって妹だったんですよね。まぁそんな些細なことはどうだっていいんですが。
 そんなことよりも2chの「とらハ」キャラ萌え総合スレッドStage2です。ここの155番。

 ……ちっこい同士が、抱き合ったまま、どうして良いか分からずに戸惑うというシチュも
 相当に嫌いじゃないのだが。


 りりちゃ箱の予想というか、なのはのえっちシーンがこうだったらいいなぁという話。素晴らしいシチュエーションです。目から鱗が落ちた気分。このシチュ、猛烈に見たいです。これだと相手が恭也じゃなくて同級生とかになっちゃうんでそれが不満っていえば不満ですが。

 …さて、お湯も沸いたし(実はとっくに湧いてたのだが)ラーメン食って寝ます。夢の中でなのはと(検閲削除)の予定です。


2001/5/7 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#7


 あゆ&名雪萌えの第一人者(しのぶ内部で)に同意してもらっちゃってなんか嬉しい今日この頃。


 あと、同志発見♪

 なのは、良いですよね。(しのぶの)身内は、『生意気なガキ』とか言いやがるんですが(苦笑)、なのは萌え者にとってはもうその生意気っぷりも含めて可愛い訳で。ちなみに小学二年生なんてのはなんの障害にもなりません。あーネタバレかこれ。ていうかとらハ3やりましょうよー。攻略は確かにできないけど、脇役なりに良い味出してますし。私も、りりちゃ箱は期待してます。曲がりなりにも、なのはメインの話があるみたいですし。りりちゃ箱が出る前にとらハ3をやって萌えテンションを高めておくのもひとつの手段(て)かと。自分でも何言ってるのかいまいち分かってませんが。


 とらハ2、みなみシナリオ読了。
 が、全然萌えないのでノーコメント。


 とらハ2は後は愛シナリオを残すのみ。これは最後に回したほうが良いかなぁとなんとなく思って今日まで取っておいたのだけど、はてさて結果はどうなるか。

 とりあえず今後の計画。計画なんて立ててもどうも上手くはいかないだろうけど、まぁ計画ってのは立てることそれ自体気持ち良いし。んで。明日、とらハ2・愛シナリオ。明後日から週末に掛けて、ねがぽじ、あと合間を見てGreenhornなど。来週頭から1週間で初代とらハのメインキャラ5人(唯子、小鳥、瞳、いづみ、さくら)攻略。その後再びとらハ3。レビューを書きながらのんびりと。大体月末ぐらいまでを目安に。

 その後は…どうなるかな。
 やる気が残ってれば、積みゲー消化か。Pure Mail/Powder Snow/Phantom/月姫…辺り。


 ココロ図書館 1巻 [高木信孝&黒田洋介/DengekiComics/メディアワークス] −ネタバレ多数−

 表紙をめくって、カバーの折り返し部分を見ていきなり引き込まれた。なんか上手く説明できないけど、ああいうのすごく好き。で、本編についてとりあえず言いたいことが。

 こころんの水着姿(P.49&66)を見て萌え死した場合、生命保険はおりますか? 
 私としては、こころんで萌え死は不可抗力だと思うので、当然、保険が適用されて然るべきと考えますが。


 あとその…なんだ。フォークの先っぽについたクリームを『ぱっくん』ってするこころん(P.18〜19)とか、『じょうろで虹が出せます』(P.30)とか、『ひどーい、もうっ怒ったんだからっ!!』(P.40)とか、水に濡れて透けるノースリーブとか、ああ、こころんとじゃれ合いてぇ。…あれ?

 こころんはヤバイです。危険です。ある意味、存在それ自体が犯罪だと思います。まる。


 この辺を読んで以来なんとなく気になっていた、水たまりに映るセカイ(堀江由衣)を購入。まぁゆっくりと聴くとしましょう。


2001/5/6 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#6


 とらいあんぐるハート2 〜さざなみ女子寮〜 (JANIS/IVORY

 薫シナリオ&美緒シナリオ読了。

 知佳シナリオや真雪シナリオが、ヒロインに感情移入して読むタイプのお話だとすれば、薫シナリオは主人公に感情移入して読むタイプのお話だと言えるだろう。このシナリオが心地よいのは薫に萌えるからではない。薫が可愛いのは言うまでもないのだが、このシナリオでは、それ以上に、自分が薫の心に支えになれる、という感覚が心地よいのだ。薫を守りたい、と耕介が思う時、プレイヤー(私)はその感覚をほぼ完全に共有することができる。これほど、主人公にシンクロできるシナリオは他にない。

 んー。なんか書きたいことが微妙にズレてるかも。
 ていうか、あれですよ。薫萌えー。(←ダメじゃん)
 やっぱさ、強がりな女の子を抱きしめるっていうか、そういう女の子を抱きしめてあげられる存在になれる、みたいなのって男の浪漫じゃないですか。薫シナリオは、その辺りの浪漫のツボ(敢えて欲望とは言わない)にクリティカルヒットするんですよもうアナタ。またしても裏切られました。今木さん風に言えば、『ああもう俺が悪かった』って感じですか。

 美緒シナリオ。
 
 みんなこうして大人になっていくのだな

 、とかのくだりがすごく美しい…のだけど、全体としてみると印象が薄いかも。どちらかというと、このシナリオで一番印象に残っているのは、真一郎がさざなみ寮に遊びにきて、ゆうひや真雪さんにおもちゃにされる場面だったりして(笑)。美緒のえっちシーンはいまいち必要性が疑問。あと、エンディング。あのCGの存在はずっと前から知ってたんだけど、まさかあの娘が…だったとは意外。とある真琴本(Kanon同人誌)でもこういう演出を見たことあるけど、こういうの、かなり好きです。


2001/5/5 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#5


 人間は…と一般論的な物言いをしても良いかどうか分からないが、時として間違っていると知りつつ間違ったものに縋らなければならないことがある。間違っていても、その間違ったものを信じなければ、いや、自分に信じ込ませなければ生きていけないように思われることがある。私は、自分を保つのに精一杯で、他人に優しくする余裕は多分ない。


 ちょびっツ 1巻 [CLAMP/講談社]

 あずまんがの面白さが分からないとなんとなく不安になるように、ちょびっツの面白さが分からないとなんとなく不安になる。ちぃを見ても萌え感情がほとんど湧かない俺はもしかしてオタ失格かしらん?

 ていうか、パソコンがなぜうら若き女性の姿をしているのか、またそれがまったく当たり前のこととして世間に受け入れられているという事実がそもそも腑に落ちない。世界観を共有できないとでもいうか。

 この1巻で見え隠れしている、PCに愛情を抱いてしまったゆえの不幸、みたいなものって私たちに重なるところがある気がする。一見萌え漫画のようでありながら、実は二次元萌え(いわゆる、キャラ萌え)に対する皮肉だったなんてことは、まさか、ない…よなぁ。更に、主人公が手に入れた Chobits * だけ * は、人間の従属物ではない『他者』、ちゃんとした人間関係を持ち得る存在であった…なんて展開だったりしたら、見透かされているような気がしてちょっと寒い。いや、ていうか現時点で既に寒いのだが。私はいつでも『萌え』を望んでいるんだけど、さあ萌えろ、と言われると萌えられないのよ。

 とりあえず、2巻以降は多分買うと思う。恐いもの見たさで。


 Kanon_ドラマCD vol.5 月宮あゆ [ムービック]

 お待たせしましたっ。
 ボクの最後のお願いです。


 しのぶ的には、あゆシナリオのひとつのクライマックスはここなんだけど、今回のドラマCDはここの演技がちょっと不満。ゲーム本編でどういう描かれ方をしていたかうろ覚えなので、もしかしたら単に私が勝手に妄想しているだけなのかもしれないけど、この『お待たせしましたっ』ってのは、しのぶのイメージでは、あゆが、くるりんっと祐一の方に向き直って、こう、ぴょこんって感じでつま先を揃えて、祐一の顔をのぞき込むような上目遣いで、いつもと同じ屈託のない笑顔で(←超重要)言う台詞なんです。この台詞はその後に来る『ボクのこと、忘れてください』との対照をなす台詞で、この時のあゆの態度が普通であればあるほど、その後の台詞の悲しさが引き立つはずなんです。実際にどうだったかは忘れましたけど、私はずっと、この場面をそういうイメージで見ていました。だから、このCDの演技は、私としては『違う』んです。

 ただし、それ以外の点は、ほぼ文句なしです。個人的には、真琴編に次ぐ高評価。

 あゆシナリオにどんな欠点があるにしても、結局、あゆシナリオを体験するたびに私は同じことを考えます。あゆが助からないような世界はむしろ世界の方が間違っているんです。あゆが助からないんだったら世界なんてクソです。世界が正しくあるとは、あゆが笑っていることです。


 とらいあんぐるハート2 〜さざなみ女子寮〜 (JANIS/IVORY

 真雪シナリオ読了。
 途中までは割と退屈だったけど、終盤以降はただひたすら美しかった。真雪さんってキャラは、正直言ってどこをどう見ても好みのタイプじゃないのに、どうして、こんなに心に染みる話になっちゃうんだろう。意外というか裏切られたというか、いや違うのか。私が、表面だけ見て、勝手に食わず嫌いしてただけで。真雪さんも、まぎれもなくとらハワールドの住人だった。他のヒロインたちほど素直じゃなくっても、やっぱり、自分のそばにいるひとのことを本当に大切にしていることには変わりなくて。

 …もし、AIR(key)のDREAM編に聖さんメインのシナリオがあったらこんな感じになるかもしれない。佳乃シナリオは聖さん視点から見た方が絶対面白いんだけど、ただ、聖さん視点から見てしまうと、聖さんって割と報われない役回りなんだよね。佳乃と知佳は、どちらも、自分のせいで姉は保護者でいなければならず、必ずしも姉でいられなかったことに気づいて、それを気にしているんだけど、結局、佳乃が聖さんのために何かをするということは最後までなくて、聖さんが保護者の立場から解放された時、佳乃は既に往人のものになってしまっている。もちろん、AIRに聖シナリオが必要だったかといえば多分不要だろうし、とらハ2の知佳シナリオでは、真雪さんと知佳との姉妹関係は何も語られないのだから、作品の優劣を云々するのはまったくナンセンスなのだけど、それにしても、佳乃が姉に対して抱いていた引け目のようなものと、聖さんの孤独とが、とらハ2の真雪シナリオというまったく別の器でではあっても、きっちりと語られるというのはなんとも素晴らしいことだと思わずにいられない。(本当は、発売時期は、とらハ2の方がAIRより約1年早いんだけどね)

 真雪さんは、保護者であることをやめても、何も失わない。真雪さんと知佳は、本当に普通の、どこにでもいそうな、仲の良い姉妹になる。そして、真雪さんのそばには、耕介がいる。これ以上、何を望むことがあるだろう。


 追記。ラスト付近で真雪さんが語る漫画論はなんかとってもリアル。あれが都築氏の姿勢とそっくり同じかどうかは分からないけど、思わず都築氏と重ねてしまいたくなる話ではある。


2001/5/4 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#4


 とらいあんぐるハート2 〜さざなみ女子寮〜 (JANIS/IVORY

  「綺麗だって…言ってくれたよ」
 知佳ちゃんは、きゅう、と愛さんに抱きつく。


 第1部より。こんな表現が都築氏以外の誰にできますか。

 知佳シナリオ読了。
 …無条件降伏。あまりの優しさに心が溶けかかってる。こういうのがやりたかったんですよ私は。ああ幸せ。はにゃ〜。

 今回やってみるまですっかり忘れていたんだけど、知佳シナリオって途中からテキストが知佳の一人称に変わるのよね。この変わり方は唐突で最初はちょっと戸惑うんだけど、慣れてしまうとこの知佳視点のパートが実にいい。

 ギャルゲーにおいて『キャラに萌える』っていうのは、基本的に主人公視点の感情なのであって、例えばゆうひの『世界中の誰よりも、この星の誰よりも、めっちゃ好きやー』を聴いて萌だえ転げまわる時、私たちが感情移入しているのは主人公の耕介だ。主人公を通じて、私たちは、自分がゆうひから告白されているような錯覚を覚える。それがとてもくすぐったくて、とても心地よい。

 知佳シナリオ後半はどうか。テキストが知佳視点に移って以降、この物語は、キャラ萌えとは別の何物かを表現したものになる。新学期を境にして、私の感情移入の対象は知佳に変わるからだ。知佳=私(しのぶ)である以上、私は知佳に萌える訳にはいかなくなる。しかし極論すれば、知佳シナリオはこのパートの存在ゆえに、他のどのシナリオよりも美しいのだ。

 ……それは、あなたが好きだから。
 …優しいあなたが、優しく、してくれるから。


 知佳の独白。知佳は、自分が耕介に愛されていることに微塵の疑いすら持っていない。自分が耕介を好きであることに、微塵の疑いすら持っていない。そんなことはいまさら確認する必要などないのだ。知佳も耕介も、呼吸するのと同じくらいの自然さで、互いを大切に想っている。彼らは恋人同士であるという自覚すらないのではないか。知佳や耕介が望んでいるのは、ただ一緒にいるひとの笑顔が見たいということだけだ。

 この、当たり前(※)の感覚が生み出す穏やかさ。知佳は、自分が愛されていることを知っている。確信しているからこそ、彼女の独白はあんなにも穏やかなのだ。そして、この穏やかさの追体験の、なんと気持ち良いことか。

 とらハシリーズは、普通思われているようなキャラ萌えゲームではない。キャラに萌えるゲーム、女性キャラを可愛く描いているゲームだったら、別にとらハシリーズでなくたって、他に幾らでもある。むしろ、とらハをとらハたらしめているのは、まず第一に『優しさ』だと思う。あの NAKED MIND を連想させずにおかない知佳シナリオの告白シーン。耕介の気持ちを知った知佳は、耕介に向かって言う。

 …わ、わたし…もしかして、すごい残酷なコトしてた…?

 耕介の心を読んで彼の気持ちを知った後、最初に出てくる言葉は、感謝の言葉でもなければ喜びの言葉でもなく、自分の気持ちを述べることですらない。この場面が恋愛であるかどうかすら、ここではほとんどどうでもよくなっている。この場面は告白シーンだから心を打つのではない。知佳の優しさは、恋愛感情以前の優しさだ。どうも言葉にするとチンケに響いてしまって嫌なのだが、とらハシリーズには、思い遣りと気遣いの、もっとも美しい実現がある。こんな表現ができる人は、都築氏をおいて他にいない。

(※)
『当たり前』という言葉は、しのぶ的に、最上級の価値を表します。


2001/5/3 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2001-05.htm#3


 See you 〜小さな永遠〜を聴きながら。


 4/30夜から5/3未明に掛けて、友人とドライブ。以下、ルート。(括弧内はおよその到着時間、あと道路とか)

 群馬(4/30・AM11:30) - 秋葉原 - 新宿 - 瑞穂町 - (R16) - 八王子 - (R16) - みなとみらい

 - 磯子区 - (R1) - 藤沢市 - 小田原市 - 箱根 - 清水市 - 豊橋市

 - (東名高速・音羽蒲郡IC → 名神高速・京都南IC) - 京都(5/1・AM11:00〜PM6:00) - 多賀SAで一泊

 - 京都(5/2・AM10:30〜PM1:30) - (東名高速・京都南IC → 大垣IC) - 南濃町 - 桑名市

 - (東名阪自動車道・桑名東IC → 名古屋西IC) - 名古屋市内 - (東名高速・名古屋IC → 東京IC)

 - 新宿 - 群馬(5/3・AM3:00)

 総走行距離、1645km.

 1日目は秋葉原で買い物[AIR_ARTWORKS/KanonドラマCDvol.5]後、新宿モアで蜂をやったりとか。

 2日目の京都はオーソドックスに神社仏閣参拝。インターネットカフェで庭園の綺麗そうな場所を調べて、金閣寺、仁和寺、三千院の3箇所をまわる。神社仏閣と言っても、私は建物とかにはそれほど興味がある訳ではなくて、気持ち的にはあくまで、美しい庭園を見るのがメイン。三千院はクソ遠かったけど、行った甲斐があった。あの中庭(?)は思わず見惚れてしまう美しさ。

 3日目の京都は雨が降っていたこともあって観光は無理っぽかったので、せっかくだからということで、揚雲さん[ほーほけきょな楽園]のホームグラウンドであるらしい a-cho に寄って、怒首領蜂をやってみたり。あと、なんとなくインターネットカフェに入って、DMH17さん家土方さん家揚雲さん家の掲示板に書き込んでみたりとか(笑)。ついでに買い物。おみやげの他に、駅前の本屋で、『話を聞かない男、地図が読めない女』を購入。

 この3日間でやった怒首領蜂は、秋葉原で1回、新宿モアで1回、a-cho で1回の計3回。a-cho での蜂は3.67億ALL/残0ボム4。かなり納得いかないプレイ。1-4でラストの蜂を1個取り損ねたりとか、1-5終了時13000万を超えていて、かつ1-6序盤もきっちり繋がったにも関わらず中盤でタコ死にしたりとか。足跡を残すつもりでプレイしてたので、2周目はクリア重視プレイに変更。2-2ボスで1ボム、2-3ボスで1ミス、2-5ボスで2ボム、2-6ラストの戦車で1ボム、2-6終了時残4ボム0。火蜂発狂時点で残2あったので、順調にいったら残1コースだったのだが、なぜか死んで残0に。


文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp



トップページへ戻る